Sin.co The Name of the bar is;
アイカ -1-
薬剤師の制服を女子トイレの個室で素早く脱ぎ、私服を素早く着る。まるで伝線したストッキングを履き替えただけのような顔をして個室を出ると、すました顔で立ち去る。誰にも怪しまれることはない。
その日の午後、何某かの謝罪会見に立っていた病院長が倒れる場面が生中継されて大騒ぎになっているのを古い純喫茶のテレビで見た。
携帯電話に着信。
「はーい。見た見たー。やったーって感じ」
ミルクを多めに入れてもらったカフェオレを一口飲んでソーサーに置くと、サンドウィッチを一つ手に取って口に放り込む。
「じゃあ残りよろしくですー。あ、ねえ、このあと久しぶりにるっちのお店に行こうと思うんだけど会いたいなって伝えて?いいじゃんケチなこと言わないの」
もぐもぐとサンドウィッチを頬張りながら、あたしはとびきり甘えた声で笑った。
──あたし、多分もうすぐ死ぬ。
枯れ枝のように細く、ガサガサで灰色の自分の両手を薄暗い視界の中で翳す。
なんかおばあちゃんみたい。ううん、おとぎ話の悪い魔法使いのおばあさん。
両腕にはどす黒い染みみたいな痣が数えきれないほど。外側は男に掴まれたり殴られたりした痕で、内側は繰り返した注射の痕だ。こんなに醜いのに、こんな醜いのは嫌なのに、もう薬が欲しくてたまらない。だからお金が欲しい。なのに、見た目がこんなになってしまったからカラダで稼ぐことももうしばらく出来ずにいる。見た目が悪くなって稼ぎも悪くなったら男にもあっさり捨てられてしまった。
カラダで稼げなかったら、どうやって薬を買ったらいいんだろう。
いや、あたしなんかそうまでして生きてる値打ちないじゃん。
このまま死ぬんだろうし、どうせ死ぬんだったらアイツにめいっぱい嫌がらせして死んでやろうかな。アイツの新しい女の部屋の前でげろげろ吐いたり糞尿垂れ流してやってから死ぬとかさ。それか、どうせ死ぬんだからアイツとアイツの新しい女をめった刺しして道連れにしてやるとかさ。
時代劇じゃあるまいし15歳で借金に困った父親に売り飛ばされて。
セーラー服とか有名女子高の制服とか着させられてそれ着たまま犯されたり誘ったりする裏ビデオとか撮られてさ。世の中の何人の男があたしのあれ見て何回抜いたんだろう。感謝状でも贈って欲しい。
どうせあんなビデオ撮られるんならもっといい監督に出会いたかった。そしたらもうちょっと売れっ子AV女優とかになれたかもしれないのに。監督ですらない、ヤクザに命令されて素人のチンピラが女子高生犯しながら撮ってるだけのビデオだから裏は裏のまま。まあ、女子高生なのは年齢だけだけど。たまに設定が女子大生になったり人妻になったりしながら昼間は裏ビデオ撮られて夜はソープで毎日違う男のアソコいじったり咥えたり本番やられたりして。
そんなん繰り返しながら結局クソつまんない男の間を渡り歩いて最終的に薬漬けにされた挙句捨てられた。
なんなの。
あたしが行きもしない学校の制服着てそれをひん剥かれてるビデオ撮られてる時、あたしと同じ年ごろの女の子たちは親からもらったお小遣いでブランドバッグとか持ったりしてその癖あたしが着させられてひん剥かれてる制服だのパンツ一枚売っただけでいい小遣い稼ぎとかしちゃってさ。あたしなんか中身売ってもこの程度だよ。自慢じゃないけどあたし、販売用の使用済みパンツ作るために毎日新しいの穿いてんだからね。でもそれあたしの稼ぎにはなんないから。
決めた。
やっぱアイツとアイツの女、めちゃくちゃ切り刻んで道連れにしてやろう。それで死んで楽になろう。
転がっている漫画雑誌のページを何枚か破り取って包丁をがさがさと包んで立ち上がった。
薄汚れたキャミソールにトランクス。その上に唯一のお気に入りの春コートを羽織って外に出た。歩くのもおぼつかない。
確か、アイツの新しい女の部屋はここから歩いても30分もあれば着くはず。
30分、歩けるかな……。
よろよろと酔っぱらったように道を蛇行して歩いていて時々道に迷う。もう何時間も歩いているような気がする。実際はそれほど歩いてないのかもしれないけれど。
着いた。ボロいアパート。
新しい女にもあたしとおんなじような事してるんだろうな、アイツ。かわいそうに。アイツが乗り換えた女には別に恨みはないけど、かわいそうだから道連れにしてあげる。
ああ、いっぱい歩いて疲れた。あと一息元気出すのにほんのちょっとでいいから薬が欲しい。
確かこの部屋の筈だ。1階の端。
ドアの向こうで怒鳴り声が聴こえた。ほら、アイツの声だ。女の悲鳴も聴こえる。やっぱり女を殴ってるんだろう。こんなに外に聴こえるくらい大騒ぎなのに多分周りの部屋の人たちもいちいち通報なんかしないんだろうな。そんなマトモな人はこんなとこ住んでないんだろうな。
どんどんどん。
左手でこぶしを作ってドアを叩く。コートのポケットに隠していた包丁を右手に持って構えながらドアを叩く。
んだこらぁ、とかなんとかいう叫び声がドアの向こうで近づいてくる。一瞬背筋が凍りそうなくらいびびったけど、もうあたし、アイツになんかびびらないから。びびってたまるもんか。これで終わりにするんだ。
ドアが開いた。
あたしを食い尽くしたアイツの顔が見えた。上半身裸で、入れ墨がよく見える。
「アイ……」
多分、あたしの名前を言おうとしたんだと思う。へえ、あたしの名前覚えてたんだ。
何も言わせる間もなく、あたしはアイツの胸を包丁で刺した。抜いて、別のところを刺した。
その瞬間ものすごい力で殴られてその場に倒れたけど、あたしは包丁を離さなかった。転がったまま足首も斬りつけてやったらアイツはバランスを崩して倒れた。その上に馬乗りになって夢中で何度も刺した。刺してるうちになんだか気持ちよくなってきた。
部屋の中にいたアイツの「新しい女」が金切声を上げている。
うるさいなあ。
女の叫び声ってなんでこんなにキンキン響くんだろう。
あんたを苦しめてる男を殺してやってんだよ。なんなら感謝しなよ。
あんまりうるさいから、女の首も斬りつけてやった。そしたら首から噴水みたいに血を吹き出して女は倒れた。
やったー。
生きてきてこれまで、こんなに思った通りに事が運んだことなかった。
なんて爽快なんだろう。
なんて気持ちいいんだろう。
この爽快な気持ちのまま、あたしも死のう。それですっきりする。
そう思った瞬間、背中から誰かに羽交い絞めにされて、腕で首を絞めつけられた。
あたしは──
そのまま意識を失った。
その日あたしは憂也の、殴られて腫れた頬を冷やしてあげていた。
男の子だから、それとも実の子じゃないから、あたしより何倍も反抗的だったから?憂也はあたしの何倍も父に殴られていた。
兄と言われていたけど、憂也が血の繋がった実の兄なんかでないことは物心ついた頃から知っていた。だから兄というより幼なじみみたいなものだ。あたしたちはいつも寄り添って、互いを励まし合いながら生きていた。
憂也がなんでうちにいたのかは知らないけど、小学校にも行っていなかった。今思えば戸籍すらなかったのかもしれない。父の興行について回っていたから、あたしだってろくに一つの小学校に通い続けることは出来ていなかったんだけど。
あたしがその、ろくに通ってもいない小学校を卒業する頃には、父は主宰していたマジックショーの運営が立ち行かなくなって、団員は殆どいなくなって、もう借金まみれになっていた。女に寄生して、でかいコブがふたつもある面倒なヒモだっただろうなと思う。だからあたしたちは父だけじゃなく父の女にも日常的に殴られたりまともなご飯じゃなくて残飯を食べさせられたりしていたものだった。
憂也の頬を手当てしてあげている時に、いきなりアパートのドアが開いて父が女の腕を引っ張って入ってきた。
この部屋の主、父が寄生している女とは違う女だ。
本能的にやばい、と感じたあたしと憂也は慌てて押し入れに隠れた。ヒモの癖に女の部屋に別の女を連れ込んでいるのがヤバいくらい、12、3歳の子供にだってわかる。
今思えば、あのクソ畜生の父はあたしや憂也に性的虐待だけはしなかった。父は自分より年上の、今でいう『熟女』が好きだったんじゃないかと思う。寄生している女もこそこそ連れ込む女も、だいたいはあたしたちから見たらものすごいおばさんばっかりで、なんだか気持ち悪いとまで思っていたのだ。その時連れ込まれてきたのもやっぱり派手なパーマ頭の厚化粧のおばさんだった。
押し入れに隠れて細い隙間から様子を伺っていると案の定父とその女はいきなりその場で絡まり始めた。畳の上で、布団も敷かずに、女の服をブラごと胸の上まで捲り上げてしゃぶりついている父の後頭部が見えている。女は女で、父のズボンを器用に足でパンツごと引きずり下ろしている。
息を潜めてそれを見ていたあたしと憂也はじっとり汗ばんでいた。
狭い押し入れの中でくっついていると、憂也の息の音が耳元で聞こえる。それにつられて顔を動かす。憂也はどうだか知らないけど、あたしはそれが初めてのキスだった。なのに、今隙間の向こうで父と女がやってたみたいに見よう見まねでベロチュー。ファーストキスはレモン味とか何それ。
でも頭の奥が痺れるみたいで、あたしも憂也も夢中でキスし続けた。それから、憂也の手が今見た父と同じようにあたしの服を捲り上げていく。自分の胸に憂也の頭を押し付けたら、まだ小さくて陥没していた胸の先端を吸いながら、まだ揉みごたえのないだろう小さなふくらみを一生懸命揉んでいた。いっちょまえに感じて、声が出そうになるのを必死で堪える。
隙間の向こうでは父が連れ込んだ女がいやらしい悲鳴を上げている。父が動く度に肌と肌がぶつかる湿った音がしている。押し入れの中で絡まりながら父と女がどんな風にしているのかを覗く。そうしているうち、憂也の指があたしの下着の中まで入ってきていた。憂也にしがみついてなんとか声を出さないように頑張ったけど、どうしても声が漏れてしまう。もっとも、隙間の向こうはもっとうるさいから多分気づかれてない。
憂也は何度も失敗しながらなんとかあたしの中に入ったけど、隙間の向こうのいやらしい大人たちのようにはいかずにすぐにいってしまったようだった。あたしは、ただ痛かった。けど、気持ち良かったようなふりをした。入れたこと以外は気持ち良かったのは確かだし。
あたしたちはそれに味をしめて、時々父の目を盗んでは抱き合ったりしていた。
そうやって自分ひとりで耐えているのではないと実感しなければ生きていけそうな気がしなかった。当然避妊なんかしていないし、今思えばよく妊娠しなかったものだと思う。ただいっそ妊娠でもしてれば、父を見捨てて二人で生きてく勇気が出たかもしれないなとも思う。
なんだろう、あれは愛とか、恋とか、そういうものとは違う。多分違う。あたしたちは──
依存していたのだ。お互いに。
あたしが小さい頃の父は、まだ優しい時もあった。でも今ならわかる。あの男は、たまに父親として偉そうにして子供たちに慕われたり尊敬されたりしたい気分の時だけ、気まぐれに優しくしてくれてただけだった。
憂也はあたしより少しは現実が見えていたのだろう。
何度も父を見捨てて一緒に逃げよう、まだ子供だけど今のままよりはなんとかなると言ってたのに。
憂也が無戸籍だったならどうせ結婚なんて出来なかっただろうけど、籍とかどうでもよくて、二人で一緒に生きてく方を選べばよかったんだろうな。
なのに。
あたしは父を見捨てることは出来ないって言ってそれを拒絶した。
その結果──父はあたしを売った。借金取りのヤクザが乗り込んできて大声で喚き散らして、あたしの腕を掴んで連れていった。嫌だと暴れようとしたら父に殴られる何倍も殴られて車に乗せられて。
あの時ちょうど憂也は食べ物を調達するために何処かへ行っていて──あたし、憂也にお別れも言えなかった。
こんなことなら憂也の言う通り一緒に逃げてればよかった。児童相談所でもどこでもいいから逃げ込んだら、少なくともあたしはこんなとこまでは堕ちずにすんだはず。
あたしが売られたあと、憂也はどうしただろう。同じように売られたんだろうか。あの子は男の子だけど、世の中には男の子にだってあたしが撮られたようなビデオの需要はあるらしいし、そっちの趣味の人向けの店だって多分あっただろう。それとも一人になったあの子はあたしという枷が無くなった分、あっさり父を見捨てて逃げたかもしれない。
売られたあたしはその日のうちに柄の悪い男に犯されて、あたしの身体に残っていた憂也の残り香はあっという間にドブみたいな悪臭で掻き消されていった。多分父はあたしと憂也がセックスしてたことを知らなくて、処女だって言って売ったんだろうと思う。処女じゃねえ騙されたと言ってはまた殴られた。
あの時父とやっていた女はびっくりするくらい大きな声であんあん喘いでいたけど、あれは演技だったのかもしれない。だってあれからいちいち覚えていられないくらいの男のモノを突っ込まれてきたけど、あんな声を上げずにいられないほどの快感なんて、少なくともシラフの時には味わったことはない。あんなの全部演技。薬をやってる時だけだ。我を忘れてあんな声を上げるのなんて。
憂也、どうしてる?
あたしの裏ビデオ見て抜いたりしてない?
友達なんかにこの裏ビデオの女とガキの頃いつもやってたんだぜとか自慢してたりしない?
ねえ憂也、どうしてるの?
あたしこんなにボロボロになって、とうとう人殺しまでしちゃったよ。
きっとテレビのニュースに名前と写真が出る。それを憂也は見るかな。
あたし死刑になるんだろうか。それとも無期懲役?
一生刑務所でも今よりずっとマシな気もする。
きっと死んで地獄に堕ちても──今までよりマシだ。
どこでもいいから、今じゃないところに行きたい。
目を開けると薄暗い天井が見えた。
ここは地獄だろうか。
「起きたの?」
声がする。若くはない女の声だ。
「軽くは拭いたけど、ゆっくりシャワー浴びて来なさい。お風呂場はここ」
あたしはどうもソファか何かに寝かされていたらしい。向かい側に座っている女が指を差した先にドアが見えた。
「あんた誰」
「それは後でいい。とにかくあったかいお湯を浴びていい匂いの石鹸で身体も髪も洗って、それから何か食べなさい」
真っ黒い髪を綺麗に結い上げて眼鏡をかけた、黒のパンツスーツを着ている教師みたいな女が教師みたいな口調で言った。もっとも、ろくに学校にも行っていないあたしの女教師のイメージは、AVや裏ビデオやイメクラのそれ。あたしも一度その設定やらされたことある。とは言ってもあたしはコスプレしたって賢そうに見えないから脱いでいやらしくなった時のギャップがいまいちだと言われてそれっきりだった。
なんてことを考えているとなんだかこれからこの女とレズもののビデオでも撮られるんじゃないかという錯覚に陥る。
言われた通りシャワーを浴びながら自分の右手をじっと見る。
さっきのあれはもしかして薬の禁断症状の幻覚だったんだろうか。
でもあの包丁の感触がまだ掌に残っている。あの、肉に刃を突き立てる快感が残っている。これも幻覚?
置いてあるシャンプーやコンディショナーやボディソープは見たこともない外国のメーカーのもので、うっとりするくらいいい匂いがした。バスタブの中に座りこんでのろのろと身体を洗う。こんな風にゆったり身体を洗ったのはいつぶりだろう。
洗い終わってもいい匂いは残っている。いい気持ちでいたら、鏡に自分の姿が映った。
がりがりに痩せて肌もぼろぼろで、ゾンビみたいに血色が悪い。顔も頬がこけて目が落ちくぼんでくっきりと隈が出来ている。髪は洗ったばかりの濡髪でもわかるくらいぱさぱさで毛先はお化け屋敷みたいに不揃いで、不健康な茶金色で生え際が黒くて、白髪が混じっている。
なんだ、全部悪い夢だったらよかったのに。やっぱりあたしの現実ってこれなんじゃん。
ああ、駄目だ。また落ち込んできた。薬が欲しい。一瞬でいいから気持ちよくなりたい。
風呂場から出てくると、別のいい匂いがした。食べ物の匂い。
「こっち来て雑炊食べな。私も食べるから」
教師のような女はそっけない感じで食卓の用意をしている。
「雑炊なんかより薬ちょうだい」
「薬なんかない。あんたはこれから薬抜いて、生まれ変わるの。いいから食べなさい」
「いいよ、もうあたしなんか死のうと思ってたんだから。いいから薬」
女は無視して土鍋の雑炊を二つのお椀に取り分け、ひとつをあたしの前に置いてもうひとつを自分で食べ始めた。
人が食べてるのを見てお腹がすいてることを思い出したみたいに、あたしは仕方なくその雑炊を食べた。
何か食べておいしいと思ったのなんか、記憶の中にない。
おいしいっていう感覚が自分の中にあったことがまず驚きだった。
そうか、ごはんが美味しいって、こういうことを言うのか。
咳き込みながら、口の中を火傷しそうになりながら、何度もおかわりして結局小さな椀とはいえ4杯分を食べた。
それを向かい側に座った教師のような女は観察するように見ていた。
食べ終わると、女はあたしをソファに座らせてドライヤーで濡れたままだった髪を乾かしてくれた。それから、揃える程度にカットする。最後にゴムでひとまとめにすると急にさっぱりした。
「これ、黒髪戻しにするかいっそ全部ブリーチして金髪にしようか」
「あのさ……」
言いたいこと聞きたいことが山盛りあるのに、おなかいっぱいになってさっぱりして、クッションのきいたソファに座っているとなんだか無性に眠くなってきた。
多分さっき起き出すまでにもずっと眠っていた筈なのに。
ソファで横に座った教師みたいな女はあたしの肩を抱いて自分にもたれさせた。肩を撫でてくれている掌が暖かい。
おでこの上の方から、暖かい息と一緒に声が聴こえた。
「私はケイティ。安心なさい。このまま無防備に眠っても誰もあんたを傷つけない」
ケイティ……。
呟きながら、あたしはまた眠りに落ちた。
次に目が覚めると、あたしはケイティの膝枕で眠っていたらしい。ケイティはあたしの頭を膝に乗せたまま何か本を読んでいる。
「少しは落ち着いた?」
おなかいっぱいになってよく眠ったせいか、いくぶんスッキリした。薬が欲しい気持ちは少しましになっている。ケイティの膝が気持ちよくて、頭を上げられない。
でも、どうしてもあれだけは確認しなければならない。
「あたし、アイツを刺して……」
ケイティはまるで道端に落とした財布を拾ったことを思い出したみたいな平気な声で、ああ、そのこと、と言った。
「たまたま隣で仕事の話をしていたら普段と違う悲鳴が聴こえてきたから見てみたら大惨事だったから。それであんたをここへ連れてきた」
大惨事。
やっぱりあたしがアイツをめった刺しにして、ついでにアイツの女も首を掻き切って殺したのは、夢でも幻覚でもなく──現実だったんだ。
二人の人間を惨殺した犯人のあたしを、この女は黙って連れて帰ったというのだろうか。
「なんで?警察は?」
「逮捕されたかった?」
ケイティがあたしの頭を撫でている感触がする。
厳しそうな顔をしているのに、手がとても優しい。
「死ぬつもりだったから別にいいんだけど、普通警察呼ぶでしょ」
「そうね。普通ならね」
"普通"──ではないのだろうか。
「あんたみたいな子をいちいち助けてるわけじゃないけど、自分の領域に入ってきたら放ってはおけなくて」
助ける?あたしを?
ただの通りすがりなんでしょ?
何かほかに目的でもあるんじゃないの?
ようやく頭を上げて、まじまじとケイティの顔を見る。
近くで見るとまあまあいいお年のおばさんであることがわかる。もしかしたらあたしの母親と言ってもいいくらいの年なのかもしれない。でも、あたしなんかよりお肌も全然綺麗だ。
教師のように厳しい顔をしていると思っていたけど、眼鏡の奥の目は優しそうに見えた。
あたし、そうやってすぐ人を信用してちょっと期待しては裏切られてどんどん酷いことになっていったのに全然懲りてない。ちょっとくらい優しくされたってそんなにすぐ信用するもんじゃない。
「まずは一旦薬を抜きましょう。それから栄養のあるものをたくさん食べて、朝起きて夜はちゃんと寝る。そのサイクルが回せれば肌の色や痣の痕なんかはましになっていく筈。若いしね」
「それでましな見た目に戻ったらまた売るんじゃないの?」
きれいな見た目に戻したって、またあんな風に男を悦ばせるために自分の身体を使う日々に戻るくらいならやっぱりこのまま死にたい──
ぎゅっと身体を固くすると、ケイティの手がまた肩をゆっくりと撫でた。
「──しばらくは私の仕事を手伝いなさい。堅気とは言えないけど、身体を売るよりはましな筈だから」
「あんたの仕事って……」
「それは追い追い説明する。まずは薬を抜くことを考えて。もうこんなボロボロではいたくないでしょう」
理由は全くわからないけれど。
もしかしたらこの女──ケイティは、本気であたしを薬物中毒からもヤクザに支配されて身体を売る環境からも救い出そうとしているのかもしれない。
シャブ中の殺人犯を匿ってまで助ける値打ちがあたしにあるとはとても思えないけれど。
「で、あんた名前は?」
名前も知らないで助けたの?本当に通りすがりで?
「アイカ」
「わかった。アイカね」
「──や、ちょっと待って」
アイカ。それはあたしの本当の名前じゃない。
裏ビデオ撮られまくってソープで働いてシャブ漬けにされて挙句人殺しまでしてしまったかわいそうで馬鹿な女の子の名前。そんな名前、もういらない。捨ててしまおう。
「おばさんも本当の名前教えてよ。ケイティなんて本名じゃないでしょ。あたしの本当の名前は──葵」
"ケイティ"は少し目をぱちぱちとさせて、それからまた優しい目に戻って、大きく頷いた。
「私は小雪。よろしく、葵」
ベランダで洗濯物が風にひらひらなびいているのをぼんやり眺める。
その向こうは青空だ。
世界って、こんなに明るかったのかと初めて知った。
小雪に助けられてからひと月ほど。まだ薬の禁断症状は完全に無くなったとは言えないけど、我を忘れて暴れることは無くなった。
規則正しく三食、栄養のあるものを小雪は用意して、基本的には一緒に食べてくれている。夜も清潔でふわふわの布団で日付が変わる前には眠り、ラジオ体操みたいな時間に起きる。それを続けているおかげで鏡を見ても自分が日に日にふっくらと肉付き、血色がよくなっていくのがわかる。まだひと月しか経っていないから、体中の痣だとかカサカサ具合はそう簡単には戻らない。それでも髪を金髪に脱色してカットしたらさすがに自分がまだ若い娘だったことを思い出すことが出来た。
「それは、誰の歌?」
小雪の声に振り返る。無意識のうちに歌っていたようだ。
「知らない」
まだ、父と憂也と一緒に暮らしていた頃にいつの間にか覚えた歌。
母のことはまるで覚えていないけど、もしかしたら母が歌っていたのかもしれない。
歌を歌っていたら少しは気持ちが切り替わる気がしていた。
明日は今日より少しでも良くなるって、そう思い込むために歌を歌っていた。
これはそのおまじない。
なのに本当につらかった売られてからの毎日は、それを歌うことすら忘れていた。
こんな歌で切り替えて乗り越えられる程度のつらさじゃなかったんだよね。多分あたしの無意識はそれをわかっていたんだろう。
歌のことを考えていたらふともう一つの"特技"のことを思い出した。
「そうだあたし、特技あるんだ。催眠術。昔、パパのマジックショーで催眠術ショーやってた術師の人に教わったの」
「催眠術──」
「小雪ちゃん、一回かけてあげようか」
小雪はふふ、と笑いを零した。信用していないんだろう。バカにしているのかも。
「私はそういうのはかからないと思うけど」
「どうかなー」
手に持っていた洗濯ばさみをパチンパチンと鳴らしながら立ち上がる。
最後に大きく鳴らしてそれを天井近くまで放り投げる。小雪がそれを目で追っている。
「それが落ちたら小雪ちゃんの脚は床に張り付いて動かない」
ぽとり。
洗濯ばさみが落ちた。
「え」
小雪が動揺しているのが見えた。
ずっと冷静で、教師みたいにつんとすましている小雪が動揺している顔を見るのは初めてで、大きな達成感があたしを包む。
「もう一度洗濯ばさみの音がしたら動くよ」
そう言って別の洗濯ばさみをパチンと弾くと小雪は緊張が解けたように何度も足踏みをしてそれを確かめている。
「ね?」
「葵、あんた……」
すっかり得意な気持ちになって笑って、それからがっくりと溜息をつく。
こんな特技があるのに、なんであたしあの男たちから逃げ出さなかったんだろう。
きっとそんなこと思い付きもしないくらい追い詰められていたんだな。
小雪は怖い顔で何か考え込んでいる。
そうだ、あたしにこんな特技があることを知ったら、小雪はあたしをもっときつく閉じ込めようとするかもしれない。だって薬欲しさに小雪を動けなくさせて勝手に出ていったりしないとは限らない。
それどころか、面倒になってもうあとは1人で好きにやっていけと突き放されるかもしれない。
どうしよう。今、小雪に見放されたらあたしはきっとまた──
「ごめん」
とっさに謝っていた。
「こんなの気味悪いよね。もう小雪ちゃんにはかけない。約束する」
あたしはよほど情けない顔をしていたのだろう。小雪はがらっと優しい顔に戻って、あたしを抱きしめた。
「謝らなくてもそんな泣きそうな顔しなくてもいい。心配しなくてもあんたのことこんな中途半端で捨てたりしないから」
薬の禁断症状で暴れてる時も、男たちに酷いめにあわされた恐怖が蘇って震えてる時も、小雪はこうやって抱きしめてくれる。そのおかげで、あたしは人の体温が気持ちいい、安心できるものだと思い出すことが出来た。
でも──
それが怖い。
多分、あたしはもう小雪に依存し始めている。
そもそも小雪にはそこまであたしを更生させるメリットなんかないんだから。
いつ諦めてもうやめたって言われるかわからない。
そう思っただけで身体が震えてくる。
あたし──
最初付き合った男は裏ビデオの撮影してた若いチンピラだった。上の命令でやってるとこを撮影して売るだけのクズなのに、ちょっと優しくされただけで彼の言いなりになった。
そのチンピラは次の新しい"女優"の担当になったらあっさりそっちに乗り換えて、いっちょまえに失恋した気分で落ち込んでいたあたしを優しく慰めてくれたのはデリヘルの送迎の男だった。ソープもやってたのにその男のためにデリヘルまでやってたんだったっけ。でもその男は自分が送迎するデリヘル嬢何人も手を出してて、あたしは大勢の中のひとりでしかなかった。それからソープの店長、そして地回りのついでに抜いてくヤクザだったアイツにとうとうシャブ漬けにされてしまった。最初は薬なんか怖かったのに捨てられたくなくて言われるままに薬に手を出したんだった。
どの男も、最初は優しかった。最初"だけ"優しかった。思うような稼ぎが上げられないとみると殴られた。
なのに、あたしはあの男たちに依存していた。あんなひどい目に遭わされてたのに、あたし自身もあいつらに依存してたんだ──
小雪は男じゃない。だからあたしの身体を弄んだりしない。タダでやれる手ごろな穴扱いなんかしない。
でもそれなら、小雪に捨てられないためにはどうしたらいいのか何も思いつかない。
小雪はあたしを抱きしめていた腕を緩めてそれを両肩に置き、それから摩るように両腕を掌で辿って最後には手を握る。こんな時はいつもこうして落ち着かせてくれる。
あたしは小雪の肩に額を預けたまま、その手を握り返した。
「小雪ちゃん、あたし……」
握った手を自分の胸にあてがってそれ越しに自分の胸を揉むみたいに小雪の手を撫でる。
小雪があたしの名を呼ぶのを邪魔するように、小雪の唇を噛んだ。
どうしようあたし、あんなに男たちにめちゃくちゃに使われてもう一生濡れることなんてないと思ってたのに、自分でわかるくらい熱い。
夢中になって小雪の唇を啄んでいると──小雪はあたしの胸にあてがわれていた手をそろっと外し、頬を包んでゆっくりと引き離した。
「夕食を作ろうか。手伝って」
小雪の口調はいつもと全く変わるところがなかった。
何事もなかったように料理する小雪の手元を、じっと見ていた。
気まずいけど、小雪が何事もなかったように振舞っている以上、同じように振舞うしかなかった。
夕食を食べて、片付けをして、少しの時間並んでテレビを見る。小雪はいつもと同じように無駄話はしない。いつもの就寝時間は夜10時と決められていたけど、9時にはいたたまれなくなって自分の部屋に引き上げようとした。
「葵、ちょっと待ってなさい」
コーヒーカップを流しに置いて自分のベッドに行こうとするところに声を掛けられた。
「なに?」
「いいから、ちょっとそこで待ってて。話がある」
小雪はそう言って立ち上がり、バスルームに向かった。いつもは小雪はあたしが寝た後にシャワーを浴びている。朝もあたしより先に起きている。だからあたしは小雪がいつもの黒のパンツスーツ──ジャケットは脱いで白いシャツのことが多いけど──以外を着ているところを見たことがない。
待っていろと言われたので仕方なくもう1杯コーヒーを淹れてぼんやりテレビを見ていた。面白いとは思わないがテレビから流れてくる笑い声が少し緊張をほぐしてくれる。
かちゃりという音に振り返ると、髪を拭きながら出てきた小雪は下着姿だった。下着まで黒でいやにセクシーだ。正確な年齢は聞いていないが母親といってもおかしくない年だろうと思っていたのに、よく鍛えられて引き締まった肢体は二十代のモデルかと思うほど均整がとれて綺麗だ。
しかしそんなものよりももっと目を引くものがあった。
小雪の普段衣服に隠されている部分の殆どに──
無数の赤黒かったり白っぽく浮き上がった筋のような傷痕がある。
小雪は冷蔵庫から缶ビールを出し、一口呷った。そしてそのままの姿であたしの隣に腰を下ろし、手をとってその疵の一つを指に触れさせた。疵じゃない方のなめらかな肌に触れていることの方があたしをドキドキさせる。
普段、眼鏡の奥にある小雪の目は黒目がちでとても綺麗だ。睫毛が長くて可愛いくさえ見える。
その目で小雪はあたしの目をじっと見つめた。
「私は戦争で両親を亡くしてね。親戚に預けられていたけどその親戚が生活に困って──私も売られたの。幼い少女たちで男どもを接待をさせる店に。まだ小学校に上がったばかりの年頃だった」
小雪も──?
「成長して本番の客を取らされるようになったらもう我慢ができなくなって、私は自分で火箸を焼いて身体中を傷だらけにしてやったの。これなら売り物にならないだろうって」
「自分でやったの……?これ……?」
思わず爪で傷痕を引っ掻きそうになって手を離す。
「やりすぎた、死ぬかなと思ったけど、そこにある人が乗り込んできて助けてくれた。おかげで今も私はこうして生きてる。あの時助けてもらわなければ、火傷の手当てもされずに放り出されてきっと野垂れ死んでたでしょうね」
「───」
「だから私、あんたみたいな──私なんかよりもっと酷い目に遭ってる子を見ると放っておけないの。あんたがちゃんと薬を抜いて、独りでも生きていけるようになるまでは絶対に放り出したりしない。安心しなさい」
そう言うと小雪はあたしの肩を抱き寄せた。
小雪の疵が視界いっぱいに溢れる。それを見ていたら涙が出てきた。
「いい?あんたはもう、自分の利益と引き替えに身体を差し出すみたいな真似、しなくていいんだ」
そういうのとも違うんだけどな……
さっきあたし、単にそういう気分だったんだよ。
口のそこまで出かかった言葉をあたしは飲み込む。
そんなに優しいこと言わないでよ。あたし、このままじゃ本当に小雪ちゃんに依存しちゃうじゃん。
そんな風に言われたら、あたし馬鹿だから、独りで生きていけるようになんかなりたくないって。小雪ちゃんと離れたくないって、そんな風に思ってしまう。小雪ちゃんにまだ手放せないって思わせるために、また薬に手を出したりしてしまうかもしれない。
ねえ、いっそ突き放してよ。もっと冷たくしてよ。
これ以上小雪ちゃんのこと、好きにさせないで。
*note*
さてさて、試しに書き始めてみたらめちゃくちゃ長くなってしまって3編に分けた葵ちゃんこと歌姫の話です。
本編「嘲笑」の中で、「ある人に助けられなかったら」みたいなことを言う場面があるんですが、その「ある人」が小雪ちゃんだったという話。BLゼロで百合寄りなんだけどまあ色々酷いこと書いてますね……(今に始まったことじゃない)
最初、本編「昔日」の章に入れるつもりだったんだけど相手役(?)が小雪ちゃんだし谷重バーもマサルも出てくるしこっちでいいかと。
果たしてこの話、誰が喜ぶのか?という疑惑はあるけどまあ葵の話はちょっと書きたかったので、こんだけ漲って書いたということは自分が思ってたより書きたかったみたいです。長いけどよろしければお付き合い下さい。