Sin.co The Name of the bar is;
アイカ -2-
小雪が電話で話している。
誰かと言い争っているみたいだけど、何を話しているのかはわからない。
なんでって、英語だから。
すごい、小雪ちゃん英語ぺらぺらじゃん。英語で電話でケンカできるなんて信じられない。
ある程度薬から離れることが出来たあたしは小雪の仕事を手伝うようになった。ただ、小雪の仕事が何かがいまだにわからない。
あたしはただ指示された銀行口座からいくつかのATMで回数を分けて現金を引き出したり、逆に指示された口座に振り込みに行ったり、指示されたモノ──書類ケースだったり小さな箱だったり紙袋だったり空き缶だったり──を指示された場所に置いたりコインロッカーに入れたりする。
それが何のお金で、そのモノの中身が何なのか、あたしは全く知らされていなかった。
でも、それはあまり真っ当なモノや金ではないことくらいは察しがつく。あたしだって伊達にヤクザに支配されて裏街道ぶっちぎって歩いてきたわけじゃない。小雪も最初の日に『堅気とは言えない』と言っていたことを思い出す。
あんなに『堅気』って名札でも着けてそうな見た目なのに。教師でなきゃ弁護士とか、そういうガチガチにお堅い職業だと言った方が信じられるほど。
「明日から5日ほどアメリカに行ってくる。本当ならあんたも連れていって手伝わせたいところだけど、パスポートの偽造が間に合わないから今回は留守番してなさい。一人で留守番、できる?」
アメリカに行ってくる、と言われた途端にあたしがきっとすごく不安そうな顔をしたのだろう。小雪はあたしの頭をなでてもう一度出来る?大丈夫?と尋ねた。
それがなんだかくすぐったくて、あたしは大丈夫だよ!と胸を張った。
なのに、小雪が出掛けた途端寂しくて不安でたまらなくなった。
どうしよう。
このまま小雪ちゃんが帰ってこなかったら。
部屋の中にいたけれど、3日目にはもう何をしたらいいのかわからなくなった。外を出歩くなと言われているわけではないので、気を紛らわしに出かける。そうだ、新しい最近流行りの服でも買おう。小雪は仕事を手伝ったらちゃんとバイト料をくれるけど、実質生活費は全く出していないからそれは皆あたしの小遣いになる。自由に使えるお金があるってなんて素敵なんだろう。以前はあたしが稼いだ金は全部男に持って行かれてたから、好きな洋服なんてろくに買えやしなかった。
小雪から命じられた"仕事"をする為に一人で外に出かけることも増えていたけど、本当はまだ一人で外を出歩くのは怖い。
最初、この部屋が一体どこなのか全くわからなかったけど、外へ出かけるために地図を見た時にわかったのは、あたしが酷い目に遭わされてた街とはそう遠く離れていないということ。あたしが支配されていたヤクザの縄張りではないみたいだったからそんなに神経質にならなくても大丈夫と小雪は言ったけど、だからって国境じゃあるまいし、あたしのことを知ってるチンピラとそのへんで出くわさないとは限らない。
銀に近い白っぽい金髪のショートボブ、あの頃よりは健康的にふっくらした身体。あの頃みたいな下品なメイクやすっぴんじゃなくて若い娘に流行っているかっこいいメイクをばっちり決めて、これなら"アイカ"を知ってる人とすれ違ったくらいならきっとわからない。"アイカ"の裏ビデオを擦り切れるくらい見てオカズにしてた男だってきっとわからないはず。そう自分を励まして外に出る。
近所の駅前の銀行とか、スーパーとかコンビニとかくらいしか行ったことなかったけど、もう少し賑やかなところまで足を延ばす。テレビで不景気だって言ってたけど、街はなんだかキラキラしていてまぶしい。あたしは生まれてから今まで、世界は本当はこんなに明るくて楽し気なところだなんて知らなかった。
舗道のベンチに腰を下ろしてそんな何の心配ごともなく行き交う笑顔の人たちを見ていると、突然ものすごい孤独感が襲ってきた。
あんな風に笑って歩いてる人たちは、この世界がこんなに明るくて輝いているものだなんて意識もせずに当たり前にそこに住んでいるんだ。
あたしはここの住人じゃないから、こんなに眩しく見える。ここの住人じゃないから。
あたしきっと、一生"ここの住人"にはなれない。
ショーウインドーの外から綺麗な洋服やバッグや家具をただ眺めているだけ──
涙がぽろぽろ零れてきた。
世界にあたし一人しかいないような気分になって、寂しくて怖くてたまらない。
涙を拭くことも忘れてただ止まらない涙をぽたぽた落としていると、ベンチの隣に誰かが座った。
「どうしたの、大丈夫?」
顔を上げて見ると、一目でわかるような若いホストだった。多分、まだ駆け出しでそんなに指名ももらえてないようなクラスの子だ。まだちょっと垢抜けない感じがする。
「何でもない。ありがと」
「元気ないなぁ、良かったらウチの店来なよ。やなこと忘れさせるよ」
なんだかおかしくなってふふっと笑った。
「あたし、ホストに貢ぐような金持ちに見える?あたしなんか引っ掛けてもあんたの役には立てないよ。ザコは何匹飼っても所詮ザコなの。太い客掴めるように頑張ってね」
「ちょっと待ってよぉ」
立ち上がって振り切ろうとしたけどホストはしつこくついてきた。自分にハマって店に通ってしょっちゅうドンペリ入れてくれるような女に見えるんだろうか。
いや、あたしは実際、くだらないチンピラにちょっと優しくされただけで惚れてしまって何もかも吸い尽くされて来たんだった。ホストクラブ通いはしたことないけど、多分ホストにちょっと可愛いがられたら貢いで貢いでやっぱり吸い尽くされてただろう。そういう女だということは見抜かれているのかもしれない。
でもそれを冷静に考えられるようになったあたしはもうホストの甘い言葉くらいでは騙されない。
早足でホストを振り切ろうとしても、奴はしつこく食い下がった。
やだ、もうやだ。だんだんフーゾクやってた頃のことを思い出してきて腰のあたりがぞわぞわする。帰ろう。帰りたい。
「ねえ、いいじゃん。30分でいいからさ」
「しつこい。もうどっか行ってよ」
「そう言わずに──」
とうとうホストがあたしの腕を掴もうとしたその時だった。
あたしとホストの間に、するっと人影が割り込んだ。
「僕の彼女になんか用?」
聞きなれない声。
驚いてその声の出どころを見上げると、背が高くて頭の小さい、モデルみたいなかっこいい男がにこにこ笑っていた。あたしにしつこくつきまとってきてたホストなんかよりずっとかっこいい。それに優しそう。
その男は一瞬腰を屈めてあたしの耳元に口を近づけて言った。
「いいから話、合わせて」
正直、ホストに困っていたあたしは助かったとばかりに頷いた。
「あんたが遅れて来るからでしょ。この子売れないホストで必死みたいだったけど。いいから行こ」
今さっき初めて会った『彼氏』の腕を引っ張ってその場を離れ、ホストの姿が見えなくなったところで立ち止まった。
助かった。
「誰か知らないけどありがと。しつこくてちょっと困ってたんだ」
「どういたしまして」
名前も知らない即席の『彼氏』はずっとにこにこ笑っている。
「黙って見てようと思ってたんだけど、うっかりホストクラブとか連れていかれそうな雰囲気だったから」
うん?と首を傾げる。
黙って見てようと──ということは、このひと、あたしのことをあのホストに声を掛けられる前から見てたの?
急に気味が悪くなって一歩下がる。
まさか、"アイカ"のことを知っている誰かなの?
男はあたしのその不信感に気づいたように、ごめんごめん、とまた笑った。
「小雪ちゃんに頼まれてさ」
「え」
この若くてかっこいいモデルみたいな男が、小雪の知り合い?
「小雪ちゃんアメリカ行ってるんでしょ。うちの店の開店時間まででいいから、君におかしな奴が近づかないように見張っててって頼まれたんだ。そうだ、最初からこうすればよかった。うちの店おいで。閉店したら送ってってあげる」
小雪の名前を出すということは信用していいのかもしれないけど、まだ安心できない。いくら見た目が優しそうだからって、うかうかついて行ったらいかつい顔の怖いヤクザが待ってるかもしれない。室内に入った途端豹変してあたしのこと襲うつもりかもしれない。今までの男もみんな最初は優しそうな顔をして猫なで声でよしよしってしてくれたのにすぐ豹変したんだから。
あたしの顔から不信感が消えないのがわかったのか、男は少し困ったように空を見上げて頭を掻いた。
「僕は多分君にとっては危険な男じゃないと思うよ。僕はゲイだから、女の子は対象じゃない。小雪ちゃんが僕に頼んだのは多分それもあると思うし」
「……そんなのわかんない。あんたが本当にゲイで女の子に興味ないとか、そんなの証明できる?おねえのフリして女の子油断させてやっちゃう男だっているんだから。──もういい。あたしこのまま帰るから。さっきのことはありがと」
男は送るよ、と言ったけどあたしはそれも振り切ってほとんど駆け足でその場を後にした。
小雪に直接紹介されたんならまだしも、そんなに簡単に信用なんて出来ない。
部屋に戻ると、当たり前だけど出かけた時のままだった。
そろそろ日が暮れて、部屋の中は薄暗い。電灯をつけてもなんだか部屋が冷たく感じた。
滅多に外出しないけど、出かけて帰ってきた時はだいたい部屋の中に小雪がいて、おかえりって言ってくれる。
ひとりの部屋に帰って誰も出迎えてくれないって、ついこの間までそれが当たり前だったのに、なんでこんなに寂しいんだろう。
寂しいなんて感情、知りたくなかった。
もともと何も持っていない時には何かを失うことが怖いなんて考えたこともなかった。なのに、小雪がこのまま帰ってこなくてあたしのことを見捨ててしまったらどうしようって、何度小雪があたしを安心させようとしてくれても、心の中にいつもその不安がある。
買ってきた新しい服も、なんだか色あせて見える。
あたしは床に座ってソファに突っ伏した。寂しい。寂しい。寂しい。怖い。怖い。これをどうやったら忘れられるの。
──薬?
違う。せっかくここまで頑張ってきたのに、絶対手を出してしまったりしちゃだめだ。それに薬を手に入れようと思ったらあたしが殺したアイツの周りの奴に連絡することになる。それは絶対できない。じゃあ他のルートは……?
無意識のうちに、薬の流通ルートを思い浮かべてアイツと無関係で思い当たる売人がいないか考えていた。時々我に返って、ダメだって自分に言い聞かせるのに、ひとりでいると何度軌道修正してもそのことを考えてしまう。
そうか。
あの男が本当に小雪から頼まれてあたしを見張ってたんだとして、わざわざ一旦自分の店──何の店かは聞かなかったけど──に連れて帰ろうとしたのは、一人で放置しておくとこうなってしまうのがわかってたからなのかも。
自分の両腕を見る。痣の後は随分薄くなったけど、どす黒い染みはそう簡単には抜けない。薬だってそんなに簡単に抜けるんなら、やめようとしても繰り返して破滅していく人なんかいない。
その時──
インターホンのベルが鳴った。
多分本当に飛び上がってしまったと思う。驚いたあたしはびくびくと怯えながらドアの覗きレンズを見て──次の瞬間ドアの鍵を開けていた。
「居る時はチェーンもかけろって言ったよね?忘れないで」
小雪ちゃん。
え、何で。
まだ今日、3日目だよ。
小雪はスーツケースを部屋に持ち込んだあと、ドアを開いた状態にして立っている。そこに、見知らぬ男が入ってきた。その男が室内に入ると小雪はチェーンを下ろしている。
「思ったより早く片付いたから予定を早めて帰ってきた。いい子にしてた?葵」
あたしは何も答えられずにいる。
それに──
その男は誰?
この部屋に男がいるのが気持ち悪い。
思わず慌てて居間に戻って柱の陰から男の様子を見る。それに気づいているのかいないのか、小雪は男をそのまま連れて居間に入ってきた。
「ああ、これはエイク。安全な男だから心配しないで。エイク、話したでしょ。葵」
エイクと呼ばれた男はちょっと会釈してソファに腰を下ろしている。あたしはまだ警戒を解けずにいる。
革のライダースを脱ぐとまあまあいいスタイルをしている。お尻が締まっていて小さくて、ジーンズがよく似合っている。髪を整えていないせいもあるのか、若く見えるけどよく見たら30代後半か40代くらいかもしれない。少なくともあたしが知っているそのくらいの年の男の誰よりもかっこよくは見える。
この男が誰で、小雪とどういう関係で、何故ここにいるのか。
わからなければ同じソファでコーヒーを飲むなんて出来ない。
「葵、こっちにおいで。私の隣なら安心でしょ」
小雪がそう言って手招きした。確かに、小雪の隣にいれば心配はいらない筈。あたしはおそるおそる言う通りにした。エイクは困ったように苦笑している。
「──ほんと、いつまで経ってもテディには困ったものだわ。何のためにわざわざあっちに行ったのかわからない」
「あれは口実さ。俺がこっちに帰ったらケイティに会う機会が殆ど無くなるから。君に会いたかったんだよ、テディは」
「会いたいならそう言えばいいことでしょ?なんでわざわざごねるようなフリをして呼びつけるの。子供なのあの人は」
「テディが『ケイティ、会いたい。会いに来て』って言ったって君は行かないじゃないか。そういうことだよ」
「あんたをモノにしただけじゃ飽き足らなくて?言っておくけど私、認めてないからね」
「違うよ。テディは身体の関係に感情を持ち込まないタイプだけど、最初に会ったあの時からずっと君には恋してるんだよ。手が届かないからこそ諦め切れない」
「早めに一、二回寝てあげてたらああいう駄々こねたりしなかったのかな」
「その気もない癖にそういうこと言うもんじゃないよ」
小雪は笑っている。
あたしがここに来てから、こんな風に自然に笑っている小雪を見るのは初めてだ。
それに、なんだかいつもより女の人っぽい話し方だ。
それから、小雪が最初にあたしに名乗った『ケイティ』という名前は、ちゃんとそう呼んでる人がいる名前だったのか──
急に、置いてけぼりになったような気がして、隣にいる小雪の腕をぎゅっと掴んだ。
考えてみれば当たり前だけど、小雪にはあたしの知らない世界が、あたしの知らない人間関係がいっぱいあるのだ。目の前にいる"エイク"という男とか、会話に出てきた"テディ"とかいう人とか、さっきのモデルみたいな男とか。今のあたしにはもう小雪しかいないのに。
小雪が帰ってきたのに、さっきまであたしを追い詰めていた孤独がまだ背中に張り付いている気がした。
あたしが怯えているのが伝わったのか、結局エイクはあたしに直接話しかけることもなく──1時間ほどで帰って行った。
あたしはエイクについても、昼間ホストから助けてくれたモデルみたいな男についても、小雪に尋ねることは出来なかった。
あたしの知らない小雪の世界を覗くのが怖かったのだ。
小雪が一軒のバーに連れていってくれたのは、それからしばらくしてからのことだ。
シマが違うと言われても、繁華街の近くはまだ怖い。いつどこでアイカじゃねえか、とかアイツを殺しただろう、とか絡んでこられるかわからない。でも、小雪が一緒だから大丈夫。多分。
大きくて古い木のドアを開ける。小さな間口のショットバーは、奥に広くて一番奥にはピアノやウッドベースが置いてあった。営業中の筈だけど店内には誰も客はいない。
「小雪ちゃん!久しぶり」
カウンターからはずんだ声がして、良く見たらそのバーテンはあの時ホストから助けてくれたモデルみたいな男だった。
「葵ちゃん。こないだはどうも」
モデルみたいなバーテンがにっこり笑っておしぼりを差し出すのをなんだか気まずい気分で受け取る。
「会ったの?」
「うん。葵ちゃんがホストに絡まれてたからちょっとね。あれ、小雪ちゃんにそのこと話してなかったの?」
小さく頷く。
小雪にどうして黙ってたのと叱られるかもしれない。
「ちゃんと警戒してて、いい子だったよ。僕のことも小雪ちゃんに頼まれたんだよって言っても信用せずについて来なかったから。上出来上出来」
せっかくの気遣いを警戒で無下にしたのに、いい子だと言われてなんだかよけい居心地の悪い気分になった。
この男に会ったことを報告しなかったことを咎めることもなく、小雪は上半身だけあたしの方に向き直ってあたしの手を握った。あたしが不安な気持ちでいるときに、手を握ったり肩を抱いたりするだけで少し安心することをもう小雪は知っている。
「葵、私はこれから仕事で海外に飛ぶことが増えるかもしれない。あんたの偽造パスポートが出来たらついてきて手伝ってもらうこともあると思うけど、こないだみたいに急に一人で飛ばなきゃいけない時もあると思う」
自覚はないけど、またあたしを置いて行くの?と無意識に目で訴えでもしていたのかもしれない。小雪は小さく溜息をついて、あたしの頭を撫でながらカウンターのバーテンを振り返った。
「そんな時はここに来て、マサルに相手してもらっておきな。別に店の手伝いをする必要もないし、この子は女の子に全く興味ないからあんたには無害よ」
「無害って、なんか褒め言葉に聞こえないよね」
「褒めてはないから」
マサルと呼ばれたバーテンは悪戯っぽく笑った。
結局、この間会った時にマサルが言ったことは嘘ではなかったのだ。
「シゲ爺がいなくなっても、やっぱここには行き場所の無い人が集まってくるんだね」
悪戯っぽい笑いを収めて、マサルは静かに微笑んでいる。何故か寂しそう。
「近いうちにあっちにも行ってくる。何か預かるものがあるなら用意しておきなさい」
小雪の声が優しい。マサルは目に涙を溜めているように見えたけど、涙を流すでもなくただうん、と笑った。
小雪がああは言ったけど、実際にあたしを置いて急いで海外に飛ぶなんてことはしばらくはなかった。ただ、マサルのバーにはたまに連れていってくれた。マサルはお兄ちゃんみたいで──憂也は建前上兄ということになっていたけどお兄ちゃんだと思ったことなどなかった──本当に女の子に興味がないみたいで、ただ何の見返りも求めずに優しくしてくれる。
これまで男があたしを見る時にはたいていいやらしい助平心を隠す必要もない場面だったし、そんな場面じゃなかったとしても誰も下心を隠せていなかった。最初からちょっと金を出せば性的なサービスをする女だという目で見ているから、むしろ、いかに金を払わずにこの女とやれるのかを探っている男も多かった。
マサルみたいに本当に全くあたしに対して性的な欲望を持たずに接してくる男は、もしかしたら初めてだったかもしれない。だから、マサルのバーは小雪の部屋の次にあたしが安心していられる場所になった。
あたしが小雪に拾われてから、もう1年は経とうとしている。
あたしが殺したアイツとアイツの女。
もちろん警察は捜査を続けているらしいけど──
『アイカ』と呼ばれるシャブ漬けにされたアイツの前の女が容疑者になったのは多分間違いないけど、警察はアイカの素性まで調べることは出来ないだろう、と小雪は言った。
そりゃそうよね。借金のカタに連れてきた娘のことなんか資料に残してるわけない。アイカが裏ビデオに出てた娘だというところまですら辿れるかどうか怪しい。2人を惨殺した犯人が逃亡中だというのに、指名手配にもかかってないところをみると、風俗の店に居た頃の『アイカ』の写真にすら辿りつけていないんだろう。裏ビデオに至っては、アイカという名前すら載っていない。作品作品で適当な役名を付けられていたし、出演してる女の名前なんか正直にクレジットしているわけがない。裏ビデオはあくまでも裏ビデオだ。それくらいアイカは曖昧な存在だった。
いや──アイツの喰いものにされていた女はきっとあたしだけじゃないから、容疑者はアイカだけじゃないかもしれない。それをひとつひとつ潰していくのはきっと骨が折れる作業だ。どの娘もどうせ、あたしと大差ない身元も辿れないようななれの果ての哀れな女だもの。
女を喰いものにしてたチンピラとその情婦が殺されたからって、警察はそんなもんにいつまでも人員割いて必死に捜査なんかするもんか。捜査継続中だって口ではいいながら、どうせお蔵入りする。
1年も経ってしまえば、きっともうアイツが殺された事件のことも周りの連中は忘れている。アイカなんて名前で呼ばれていた女のこともきっと誰も覚えていない。
あたし自身も、『アイカ』と呼ばれる時の感覚を忘れ──
アイカの人生はもう、あたしのものではなくアイカという可哀想な娘のものでしかなくなり始めていた。
はずだった。
その日──
"ラジオ体操みたいな"時間に起き出す。アイカの頃にはまだ夜の続きのようだった午前7時前は、今の葵にとってはちゃんと一日の始まりだ。
そんな朝早くに電話のベルの音がした。
「小雪ちゃん、電話」
「悪い、取ってくれる?」
小雪はキッチンで朝食を作るべくフライパンを振っているところだった。
ここの電話に着信があることはそう多くない。たいていはエイクか、英語の人か中国語の人か。でなければマサルか。
「はい」
電話を取るとオペレーターの声がした。国際電話だ。
『フランス、パリからの通話です。お繋ぎしますか?』
「小雪ちゃん、パリからだって。繋いでもらう?」
「繋いで!」
小雪が慌ててキッチンから出てきた。ひったくるように受話器を奪いとる。慌てて奪い取っておきながら、小雪は一旦ごほん、と咳払いをした。
「もしもし、ユキ?」
──ユキ?
国際電話だけど小雪は日本語を話している。相手は日本人なのだろう。
ユキって誰?女の子?
「そっちはもう深夜でしょう、どうしたのこんな時間に。近いうちにそっち行くつもりだったけど何かある?」
あんなに慌てて出たくせに──小雪はそっけないくらいの声音で話している。でも、顔は綻びている。
電話一本でこんなに小雪を嬉しそうな顔に出来る人がいるんだ──
ついそんな風に思いながら話す小雪の顔を遠巻きに見ていると、小雪の顔が次第に険しくなっていくのが見えた。どうしたんだろう。
「え?何言ってるの?何か困ったことがあるなら言って?」
険しいどころじゃない。
小雪の顔がみるみる蒼白になっていくのが遠巻きでもわかった。
「ユキ!縁起でもないこと言わないで!ユキ!!すぐ……すぐ行くから!!」
最後には殆ど涙声になっていた。
小雪ちゃん。どうしたの。何があったの。電話の向こうの『ユキ』って誰なの。誰が小雪ちゃんにそんな顔をさせてるの。
訊きたいことが全部胸に詰まって一言も出せない。
電話を切った小雪はほんの数秒、放心したような顔をしていたけど我に返ったように何度か深呼吸をして──ばたばたと身支度を始めた。と、すぐにどこかに電話を掛けている。どうやら飛行機の時間を確認して予約している。
「葵、ごめん。今すぐパリに飛んでくる。それ、2人分だけど食べておいて。帰りはいつになるかわからない。帰る前に電話する。不安ならマサルの店に行っておきなさい」
「小雪ちゃん──」
てきぱきと指示をするとまるで日帰りで近場に出かけるような軽装で小雪は玄関のドアを開けた。
「そうだ、マサルのとこに行っても、パリに行ったとは言わないで。絶対に」
気圧されてただ頷くだけのあたしの頭を、はっとした顔で小雪は撫でた。
「必ず帰ってくるから、安心して待ってなさい」
それだけ言ってばたばたと出て行った小雪を何も言えずに見送ったあとキッチンに戻ると──
小雪が焼きかけていたフライパンの目玉焼きはもう冷めてしまっていた。
小雪が慌ててパリに向かったその日は、出かける気にはならずマサルの店にも行かなかった。
時間が経つのが遅い。
旅のガイドブックみたいな本が何冊かあるうち、フランスの本があるのを見つけてそれを端から読む。
時差は7時間。飛行機だと12時間とか13時間。ということはまだ小雪は空の上だ。
何があったんだろう。
マサルに、パリに行ったとは言わないでと言っていた。どうして?
パリに何かあるの?誰がいるの?
小雪が乗ったのが何時の飛行機か知らないけれど、あの時間からなら飛行機が到着するのは多分こっちの夜中。そこからあの電話の『ユキ』という人のところへ行って、もしすぐ帰って来られたとしても──どんなに早くたって、ここへ戻るのは明後日以降になるだろう。
あの、エイクを連れて帰ってきた時はアメリカに行って3日で帰ってきた。あの時はほんとに行ってすぐ帰ってきたんだろう。でも、今回はどうだろう。
あの電話の様子では何が起こったか小雪もよくわからないままとにかく行くという感じだった。そんなにすぐに片付く問題ではないかもしれない。だとしたら、一週間、二週間──さすがに10日以上かかるなら電話してくるとか、あたしを呼び寄せるとかしてくれるんじゃないか。そんなことをぐるぐる際限なく考える。
テレビを見ていてもなんだか何も頭に入らなかった。
こんな状態のままマサルの店に行ったら、きっとあたしはマサルに、小雪がパリに行ったことを漏らしてしまう。
そして『ユキ』って人が誰なのかを知ってるかどうか訊いてしまう。
多分、小雪は『ユキ』から電話があったこともマサルに言ってはいけないと言いたかったはずだ。
まる2日。
あたしはそうやってひとりで部屋にじっとしていた。
小雪はもうとっくにパリに着いている筈だし、きっとあの『ユキ』に会えている筈──。
最初の頃のようにいちいち捨てられるんじゃないかと不安になることは随分減ったけど、今度の小雪は見たことのないような様子だった。だからもしかしたら──
今度こそ、ここへは帰ってこなくなるかもしれない?
『ユキ』はきっと小雪にとって大事な人なのだ。
だとしたら、もしその『ユキ』になにか重大な事が起こっていて、あたしと『ユキ』を天秤にかけなければならないことになったら。
そうしたらきっと小雪はあたしを選びはしない。
どうしよう。
小雪ちゃんと離れたくない。
どうしたらいい。
3日目の夜、これ以上ひとりでいたらまた薬のことを考えそうになってきたからあたしはマサルの店に行った。
3日間散々考えたおかげで、パリのことも『ユキ』のことも口には出さずにただ、急な仕事でまた外国に行っちゃったみたい、とだけ伝えることが出来た。
マサルはあたしの様子がおかしいと気づいただろうか。
少なくとも、カウンター越しによこしてくる言葉や目線はいつもと変わりない。
それでもマサルの店は、なんとかあたしを落ち着かせてくれた。
いつの間にかここはとても居心地のいい場所になってくれていたのだと思う。
最初の頃は他の客が来ると店の奥や二階のマサルの居住空間に逃げ込んだりしていたけど、徐々に他人がいてもいちいち警戒してびくびくしなくなっていった。たいていこの店の客は1人で来て静かに飲んで少しマサルと雑談しておとなしく帰っていく人ばかり。男はみんな女と見ればやることしか考えないものだと思っていたけど、そうか、それを売りものにしている店に来る男だからそうだっただけで、普通は店で酒を飲んでいる時に近くに座っている女にいちいち欲情したりはしないのだなということを初めて知った気がする。心の中ではあたしのことひん剥いて犯してるかもしれないけど。
深夜3時過ぎ、その日は長っ尻の客が珍しくくだを巻いていていつもより遅くなった。やっとその客が帰って店を閉めるとマサルは大きな欠伸をして笑う。
「もうこんな時間だし、泊まっていきなよ。僕そこのソファで寝るからベッド使っていいよ」
帰っても小雪はいないんだし、その通りにしたって構わなかったけど、あたしは少しは身近な人間に気遣いの真似事をするくらいは出来るようになっていた。
「るっち、今日は疲れたでしょ。あたし帰るからゆっくり休んで」
るっちというのはいつのまにかあたしがマサルを呼ぶときに定着した呼び名だ。マサルっちと呼び始めてそのうち「マサ」が省略されて今に至る。"るっち"──マサルは片付けの手を慌てて止めた。
「ちょっと待って、帰るなら送る」
「休んでって言ってんの。大丈夫だよ。あたし一人で帰れるから。歩きじゃなくてタクシー拾うからそれでいいでしょ」
小雪の部屋までは歩きだと20分ほど。マサルが送ってくれる時はたいていマサルが自転車を引いて話しながら歩いて帰るか二人乗りさせてくれる。その距離でもタクシーを拾うならマサルも安心だろうと思った。
タクシーを拾うところまで送ってくれて、マサルはタクシー代まで握らせてくれた。
下心も無いのになんでここまで優しくしてもらえるのかあたしは不思議で仕方なかったけど、色々話をしている中でマサルも今ずっと寂しくて、誰かの世話をやきたくて仕方ないのだと言っていたことを思い出す。
そうやってマサルが至れり尽くせりで見送ってくれたタクシーだったのに──
「お嬢さん、こんな時間まで夜遊びですか」
タクシーの運転手が馴れ馴れしく話しかけるのが鬱陶しくて窓の外を見ると、徒歩20分ほどの距離、あっという間に小雪のマンションの側まで来るはずなのに全然方向が違う道を通っていることに気づいた。
「ちょっとおじさん、道違うよ」
運転手は返事をせずに車を停めた。
各駅停車しか停まらない小さな駅の裏手。道の反対側には団地が並んでいるけれど、こんな時間に通る人も車もない。
運転手はいきなり運転席のシートをフラットに近いところまで倒した。助手席の後ろに座っていたあたしは声も出ないくらいびっくりする。
「あんた、アイカちゃんだろ?」
全身に鳥肌が立った。
自分でドアを開けて逃げればいいのに、硬直して動けなくなった。
「俺のことなんか覚えてないよねえ、けっこう何度も通ったと思うんだけど」
運転手は這うようにしてあたしに向かってくる。
小雪に拾われてからは触れることのなかった、下心に満ちた男のいやらしい目線。涎でも垂らさんばかりの臭い息遣い。
「し、しらない」
かろうじて絞り出したけど、運転手はあたしの肩を掴んで後部座席のシートに押し倒した。
こいつ、ソープの時の客か。
なんでバレたんだろう。あの頃の客、どうせ顔なんかさほど見ていないと思ってたのに。
「──やだ!離して!」
ようやく大きな声が出たと思った瞬間、口にタオルか何かを突っ込まれた。
「おとなしくしないと腕折るよ」
優しそうな口調でそんな物騒なことを言いながら運転手はあたしのシャツの中に手を入れて胸を揉み始めた。痛い。昔憂也と覗き見た、父が連れ込んだ女にしてたみたいに、しまいにはシャツをブラごと胸の上まで捲り上げて舐めたり吸ったりし始めた。それも痛い。そうしてるうちに狭い後部座席で多少苦戦しながらミニスカートの下のショーツを引きずり下ろした。運転手は覗き込むようにあたしのそこをじろじろと眺めていたかと思うと、ズボンのボタンを外しジッパーを下ろす。その下で今か今かと出番を待ち構えていたモノが勢いよく飛び出してきたのが見えた。
小雪ちゃん。
助けて小雪ちゃん。
あたしもうこんなのやだ。
その時──
頭の中に、いつものあの歌が流れてきた。
そうか。
何かパチンとスイッチが切り替わるような気がした。
あたしは『アイカ』。
これは今、裏ビデオの撮影をしてるんだ。
今日の設定は何?
酔っぱらってタクシーの運転手に犯されるってやつ?
口では嫌だと泣き叫びながら、身体は感じちゃうってやつ?
ああ、この男、そういう凌辱もの好きそうだもんね。
今までもそういうのいっぱい見てきたんでしょ?
アイカ、これまでいろんな設定のいろんなビデオ撮られてきたからさ。そんな演技くらいできるよ。これ見てる男がどれだけ抜けるかは女優であるアイカのウデの見せ所じゃん。
邪魔にならない程度に抵抗してあげる。まあ、口にタオルつっこまれたから大声は出せないけど、塞がれた中で漏らす声もまたイイんでしょ。知ってる。
当然だけど前戯もなんもなしでいきなり突っ込んできた。そんなので濡れるわけないし感じるわけないじゃん。バカなの?──バカか。だよね。でもAVとか裏とか真に受けてこんなんでもエッチな身体の女は突いてるうちに感じるんだろ?くらいに思ってそう。ほんとバカ。
これは車載のカメラで録画してるって設定なの。ああ、このドアのあたりにも隠しカメラがあったりして。ちょうどつっこんでるあそこの部分が映るようなカメラがあるんだよね。アイカはカメラアングルまでちゃんと気を使う、デキる女優なんだから。
ちょっと涙でも流しながら抵抗してるけど、そろそろ感じ始めた風にすればいい?あんまり長引くのも面倒だし。身体をよじったりしながら口の中のタオルに向かってあんあん喘いでやる。ほらすごく嬉しそうじゃん。自分がすごいテクニシャンにでもなった気分なの?ちょっと自分からも腰を動かしてやったりして、そろそろイきそうな演技をする。
「こんなに感じてるじゃないか。やらしい女だな」
ちょっと、今時AVでもそんなこという男優いないんじゃないのと思って笑いそうになってしまった。だめだめ、アイカ、もうすぐイキそうなくらい感じてるとこなんだから。笑ったらだいなしでしょ。笑いを誤魔化すように、イッたふりをする。運転手は律儀に外で射精した。バーカ。万が一妊娠したって誰があんたの子だなんて申し出るもんか。それより変な性病とか持ってないだろうね?そっちの方がやだよ。
運転手は得意げに笑いながら自分のを拭いてズボンを元に戻すと運転席に戻り、シートも戻した。
「ホテル行こうか。もっとしたいな」
なんだこいつ。むかつく。短小のくせに。
こんなやつ、ぶっ殺しちゃえばいいじゃん。
アイカはショーツを拾って穿き直しながら口のタオルを引きずり出し、運転席のシートごしにバックハグするようにして運転手の耳元に口を近づけた。
「右がブレーキ」
運転手は一瞬ぽかんとして振り返ったけどアイカは自分で車のドアを開けて車から飛び降りた。車の向いている進行方向とは逆に全速力で走る。運転手は一瞬車を降りて追って来ようとしたみたいだったけど、諦めたのだろう。
あのいまいましいタクシーが発車したのを背後に感じて立ち止まるとアイカはそれが走り去るのを見送った。そして数秒後──
あのタクシーは、高架に沿って曲がる道を曲がり切れずに、猛スピードで鉄骨に激突した。
──ざまあ。
ここから歩いたら小雪の部屋まで30分以上かかってしまうだろう。
でももうタクシーを拾う気にもならないし、もう空が白み始めている。
「おはよ」
あたしは誰にともなくそう言うと、口の中であの歌を歌い始めた。
アイカ、もういいよ。おやすみ。
小雪の部屋に帰るまでに、葵に戻ろう。
小雪が帰ってくるという電話はまだない。
小雪が帰るまでにちゃんと風呂に入って身体を綺麗にしていい匂いにしておかなきゃ。
*note*
マサルとエイクが出てきました。「ドライブ」のあと、エイクはホワイトハウスでどうしてたかの描写は一切してなくて、次に登場したのは梟になってからなのよね。その合間あたりの話。テディはケイティにはずっとずっとふられっぱなしのようです。あと、さらっと書いてるけどエイクとテディ、なんかしらデキちゃってたみたいですね。まあどっちも気持ちは入ってないと思うけど。またこのへん書くことがあったらエイクとテディの話でも書けたらと思います。なおテディとデニスがデキてたかどうかはまだ決めてません。
パリのユキからの電話についてはこれの次の節にて触れるのでその時に。
葵はいわゆる解離性同一性障害とは少し違うと思うんだけど、軽く人格交代っぽいことはしてるイメージ。ただアイカがやってることの自覚は葵はあると思ってます。アイカというキャラを演じてるつもりになってなんとか受け流そうとしてる感じ。