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Sin.co   The Name of the bar is;

リトル
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 連の遊び場は子供の頃から、暗くて猥雑で酒ときつい煙草の匂いの充満した薄汚い町だった。

 友達は母親より年を食ったような親爺どもや厚化粧の匂いをぷんぷんさせた濁声の婆さんばかり。それでも彼らは身内のように可愛がってくれた。
 パチンコの景品のチョコレートをわけてくれたり、どこから拾ってきたのかくたびれた野球帽をくれたり。自分と同じように可愛がられている子供もいるにはいたが、どいつもこいつも似たりよったりの薄汚れた青っぱなの餓鬼どもで、大人たちから何かをめぐんでもらおうとするのに夢中で餓鬼同士で遊ぶということはあまりなかった。

 もしかしたら連だけが子供同士のコミュニティに属していなかったのかもしれない。

 空き地でメンコをやったりチャンバラごっこをやったり三角ベースをやったりしている同年代の子供たちを見てもそれが魅力的な遊びにはとても思えなかったのだ。

 ピアノ弾きの親爺と知り合ったのは小学校を卒業するくらいの年だったと思う。もっとも連は実のところろくに学校にも行っていなかったのでたまに自分が何年生なのかを忘れたりもしていたのだ。

 母親は飲み屋を経営していた。
 それまでも客の煙草や、客が食いたがるからと折り詰めの寿司などを買いに行ったりして駄賃を貰っていたのだが、その日のことは妙に印象に残っている。

 カウンターの隅で一人の客と長い間ひそひそ話をした後、母は連を呼んで店のマッチ箱をひとつ握らせ──
 

「ヒロちゃんの麻雀屋の3軒隣に新しい店が出来たろ。そこにシゲちゃんって兄ちゃんがいるからその人にこれを渡しといで。いいね、『シゲちゃん』だよ。違う人に渡すんじゃないよ」


 母はそう言って普段は絶対前金ではくれない駄賃も一緒に握らせた。
 いつもなら、駄賃だけ持ち逃げしてそんなつまらなそうなお遣いはほったらかしにする。しかし、母の表情はそれを許さなかった。


 いつも、優しくもなんともない母親。
 連の父親もわからないし、しょっちゅう男をとっかえひっかえしている。新しい男に夢中になれば連は何日も家から締め出されてこの町の『友達』の住処をうろうろ居候してまわる羽目になったりもする。口癖のようにあんたなんか産むんじゃなかった、とこぼされることにも慣れっこになっているし、酔っていれば殴られることもしばしばだった。
 いつも不機嫌そうにしているそんな母親だったが、その日の表情は不機嫌というよりも真剣そのもので──連は珍しく気圧されたのだろう。
 連と入れ違いに新しい客が入ってくると、背後ではいつも通りの下品そうな母の声が響いた。

「ヒロちゃんの麻雀屋」というのはよく遊びに行っている場所だが、その3軒隣には確かに最近新しい店が出来ていた。
 確か、あの場所は丸ちゃんと呼ばれた親爺が立ち飲みを営んでいたのだが、高校野球をネタに賭博の胴元をやっていてここいらを仕切るヤクザと揉めたらしい。店をそのままに丸ちゃんは失踪し、周囲の者は一様に丸ちゃんはもう帰ってこないだろう、と噂した。
 その丸ちゃんの店のあった場所は随分長いこと空いていたのだが、最近そこを改装してなにやらこのあたりにはあまり似合わないモダンな店が出来たのだ。飲み屋ではあるらしい。


 ドアを押してみると、店内は随分薄暗かった。
 丸ちゃんの立ち飲みは小さい店だと思っていたが、意外と天井が高く奥行きがあって広い場所だったのだと妙な第一印象を持った。母の経営するスナックよりも随分広い。
 カウンターには、見たことないようなでかい体躯の黒人がひとり座っている。このあたりで外人を、それも黒人を見かけるということは珍しいので連は少しひるんだ。


 あれがシゲちゃん……ではあるまい。
 しかしカウンターの中には人がいない。


 その時、ピアノの音が聞こえた。
 薄暗い中目をこらすと、店の一番奥に箱型のピアノが置かれていて、それを弾いている男が見える。


──あれが『シゲちゃん』かな。


 そう思ったが、なんだかピアノの音が心地よく連はドアのところにたたずんでじっと耳を傾けていた。
 そうしているうち先に黒人の方が連の存在に気がついたようだ。と、言うより、入った時から気付いてはいたけれど子供が扉のところで立ち尽くしているものだから気を使ってくれたのかもしれない。黒人は陽気そうに笑って何事か声を発すると、連を手招きした。英語だと思うが何を言ったのかなどわかるわけがない。次に黒人はピアノを弾いている男に声を掛け、来客を告げたようだった。男はおそらくそこまでドアが開いたことに気付いていなかったのだろう。


「いらっしゃい。何か飲むの?」
 

 男は人の良さそうな笑い顔を向けて近づいてきた。頬にできた皺のわきに大きくえくぼが窪んでいる。
「……シゲちゃんて、あんた?」
 ん?と言うような顔で目をぱちくりすると男は大きく何度か頷いた。
「いかにもシゲちゃんは俺だけど、坊主は?」
 ボウズは、という言葉が癪に障って連は握り締めたマッチ箱を無言で差し出した。
「あんた、母ちゃんの新しい男?」
 マッチ箱を受け取ると『シゲちゃん』はほんの一瞬難しい顔をしたが、連の言葉にあははと声を出して笑った。
「違うよ。お遣いごくろうさん。ちょっと座って待ってな、ジュースを入れてやるよ」

 『シゲちゃん』はそのままカウンターの中に入ると手品のような手つきでガラスのコップをひとつカウンターに置き、そこへやはり不思議な動作で橙色の液体を注ぎ込んだ。
 こんな濃い色のオレンジ・ジュースなど飲んだことがない。向こう側が透けて見えるような薄くて甘ったるい飲み物、それが連の知っているオレンジ・ジュースだった。
 恐る恐る手を伸ばしてちびりと飲んでみると、連は顔をしかめた。
「……すっぺぇ」
 『シゲちゃん』はまた声を出して笑うともっと甘い方がいいか?などと言っている。そのままカウンターから出てくると同じようににこにこと連の様子を見ていた黒人に向かって何か話し掛けた。すると黒人は機嫌よさそうに立ち上がって店の奥のピアノの方へ向かった。


 立ち上がると尚更でかい。
 

 正直なところ、こんなにでかくて腕も太くてしかも真っ黒な人間など間近で見たことがないので連は怖気づいていた。
「おうい、坊主。ちょっと練習するから聞いておいてくれるかな」
 『シゲちゃん』がピアノのところから連に向かって声をかける。


──練習?


 よく見ると黒人は鈍く金色に光る楽器を手にしていた。楽器の名前は知らない。
『シゲちゃん』がピアノの前に座り、音を奏で始めた。
 すると、黒人はその金色の楽器の先端を口にくわえ、吹き始める。
 聴いたことのないような、枯れた金属音が耳に飛び込んできた。それが『シゲちゃん』のピアノと交じり合って連の耳の奥を揺さぶる。
 用事が済んだらとっとと帰ろうと思っていたのに、その演奏が終わるまで連はそこから身動きできなかった。

 演奏が終わってもぼうっとしていると、黒人が何が可笑しいのか陽気に笑いながら近づいてきた。掌だけが妙に白い手を伸ばすと連の頭を手荒く撫でる。そのまま頭を掴んで持ち上げることも出来るほど大きな手だった。頭を撫でられているだけなのに身体全体がぐらぐらと揺れる。しかし連は黒人が首から下げている楽器をじいっと見つめていた。


 ラッパのようだけれど、奇妙な形だ。
 

 興味深げにそれを見つめていると、それはサックスっていうんだよ、と『シゲちゃん』の声が聞こえた。
「一度、吹かせてもらってみろよ」
 見れば、黒人は楽器の口の部分を取り外して振ったり拭いたりしていたと思うとそれを元に戻して楽器ごと連に差し出した。
 黒人の身体が大きかったせいでそれほど大きなものだとは思わなかったが、小さな連の身体には恐ろしく大きくて重い。両手で支えても落としそうだ。
 尖って黒い笛の部分を口に含んで、思い切り息を吐いてみた。


 しかし、その楽器は掠れた息の漏れる音を発するばかりで、本来の声を出すことはなかった。

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 このガード下は、楽器の練習をするにはちょうどいい。


 最寄駅の周りには飲み屋が数軒あるがこの周辺には民家よりも工場や倉庫が多く、深夜まで下手くそな音を立てていてもうるさいと怒鳴られることはまずない。比較的遅くまで電車の走っているそのガード下には、いつもおでんの屋台がひとつ出ているが、時折その客から文句を言われることがある程度である。そんな時も大抵屋台の親爺がとりなしてくれる。そんな客よりこちらの方がよほど馴染みなのだ。むしろ、最近では流しのギターよろしく屋台の客から曲のリクエストをされることもある。 


──歌謡曲や演歌が演りたいわけじゃねえんだけどなぁ。


 連は首から下げた鈍く光るサックスを手持ち無沙汰に弄びながら苔の生えた壁を見つめた。
 とはいえ、それで金をくれるので我慢している。酔っ払いが相手だから場合によっては思わぬ臨時収入になったりもする。練習していて金が貰えるのだから演歌くらい我慢するしかない。


「連ちゃん、食うかい」
 屋台の親爺が客の途切れた合間におでんを皿に盛って差し入れてくれた。コップ酒もつけてくれる。
『連』と書いて『ムラジ』と読むのだと何度教えても、そんなややこしい名前は覚えられん、『連』と書くなら『レン』でいいじゃないかと押し切られる。頑固でマイペースな親爺なのだ。
 連の隣によいしょっと腰を下ろし、湿気モクに火を点ける。いつも親爺はショートホープの1本を2回か3回に分けて大事に吸っている。機嫌のいい時はその大事な1本を連にも分けてくれたりするものだ。
「それにしてもいい音だなぁ。俺ぁ、ラッパの音っちゅうのは嫌いなんだ。進軍ラッパを思い出して、背筋がぞくぞくしやがる。しかしそれはいい具合に枯れてて気持ちいい音だ」
 親爺は自分の右脚をさすりながら笑った。親爺は右の膝から下が無く、粗末な義足が嵌っている。傷痍軍人である。
 その脚に視線をやってから、連は自分のサックスに戻した。手入れは欠かさないがぴかぴかに磨くよりも鈍い曇りを残したままにしている。前の持ち主がそうしていたからその状態の方がかっこいいと思っている。

 


 あの朝、珍しくきちんと朝から学校へ行こうかと思って欠伸をしながら歩いていると、朝だというのにシゲの店の扉が開いていた。
 大きなトラックが狭い路地一杯に停まっていて、そこに何人かの男たちが店から荷物を運び込んでいる。ただごとでない空気を感じて駆け寄ると、店の奥から眠そうに目をしょぼしょぼさせたシゲが出てきたのが見えた。
 シゲは連の姿に気付くと手を軽く上げて微笑んだ。そして、黒いケースに入ったこのサックスを連に渡したのだ。
 あの黒人──BJと呼ばれていた──は故郷に帰り、これを連に渡して欲しいと言われたのだとシゲは説明した。


──急いでここを離れることになったから、渡せて良かった。


 シゲはやはり眠そうな顔のまま、しかし目を優しく細めて連の頭をくしゃくしゃと撫でた。

 あれ以来、シゲが何処へ行ったのかはわからない。


 
 あの頃まだガリガリのチビだった連も、すっかり背が伸びた。一応高校に入学はしてみたものの、あまり行ってはいない。もっとも、そういう落ちこぼれの集まる学校だったから、教師も出席日数など真面目に数えていないらしい。多分、何かしでかして逮捕でもされない限り卒業は出来るだろう。母親はそういう見栄だけは何故か張りたいらしく、とにかく遊んでてもいいから高校だけは卒業しろと言っているので丁度いい妥協ラインだ。
 学校でわけのわからない数学や歴史の年号などを覚えさせられるくらいなら、ここでサックスの練習をしながら酔っ払いの話相手などをしている方がよほど将来の役に立つ気がする。どうせ、自分は頭が悪いのだから大学など行けないし行きたいとも思わない。屋台の客のように人にこき使われて飲んで憂さを晴らすしか無いような人生も送る気はない。ならば、学校の勉強など何の役に立つものか──


 BJの愛用していたサックスを隅々まで見つめる。
 サックスを手にすると、必ずBJの陽気な笑い声やシゲの笑い皺などが脳裡に思い出される。毎日吹いている今ですらその都度思い出すので、それらの記憶は褪せるどころかむしろ鮮明になっていくような気がした。

 あの黒人は連をとても可愛がってくれた。

 最初に会った時には全く音を発してくれなかったサックスも、今ではそろそろ連の思う通りの音を出してくれるようになってきた。ただ、独学なのでこれでいいのかは判らない。

 おでんを口に運びながら思いに沈んでいると、親爺がよっこらしょと立ち上がった。客が来たらしい。
 その親爺の様子と腰掛けた客の背中をぼんやり眺める。
 屋台の常連は随分覚えたが常連ではなさそうだ。
 貰ったおでんを食べ終わり、コップに1/4ほどになった酒を呷ると連は立ち上がった。練習兼「流し」の売り込みである。音慣らしをするように音階を吹くとガードの天井や壁に反響して不思議な音になった。
 リクエストが入るまでは、当然自分の吹きたいものを吹く。程なく、客が反応したようだった。屋台のベンチから身を捩ってこちらを見ている。ようし、いいぞ。いや、あまり金回りが良さそうじゃないな。だいいちこりゃサラリーマンじゃないし……

「──リトル?」

 声に、一瞬息が止まる。演奏も止まる。
「おまえ、リトルだろ!俺だよ、覚えてるかな、ほら──」
 そんなこと、言われなくたってわかってる。
 だって、俺をリトルだなんて変な名前で呼ぶのは、BJか──

「シゲちゃん……」

 髭に覆われた頬に、あの笑い皺とエクボが見えた。

 


 ムラジという名を、BJはどうも聞き取り難かったらしい。何度も聞き返された挙句、何がツボに嵌ったのか大笑いし始め、いきなり連を指差し「リル、リル」と連呼し始めたのだった。
 当然ながら言葉のわからない連が無言でシゲに助けを求めると、やはり吹きだしそうな顔で笑いを堪えていたシゲが説明してくれた。
 BJは『ムラジ』の『ラジ』を英語のlargeに引っ掛けて聞き取ったのだという。ラージとは大きいという意味だ。
 そこでBJは、おまえはラージじゃない、リトルだと言って笑っているのだ──


──リトルって何?
──小さいってことさ。ま、チビ助ってことだな。

「いやぁ、大きくなったなぁ。もうリトルとは言えない」
 考えてみれば、あれからたかだか5年ほどしか経っていない。シゲは髭を生やしたくらいしかどこも変わっていないように見えた。しかし成長期の連は違う。
「俺と同じくらいか?いや、俺より高いかな。まだ伸びるんじゃないか」
 シゲは背比べをするように掌を翳して、その手で連の肩を叩いた。既に横に座らされて酒まで注がれている。
「シゲちゃんよく俺だってわかったね」
 ガリガリの「リトル」だった子供が自分と同じくらいの背丈の高校生になっているのだ。顔だって変わっているだろう。
「──そりゃ、その音でわかるさ。大事に使ってくれてんだな」


 ああ、BJのサックスの音か──


 納得したように頷き、親爺どものようにコップ酒をちびりと口に運ぶ。
「まだまだ下手っぴいだがちょっとは聴けるじゃないか。誰かに教えてもらったのか?」
「こんなもん教えてくれるような先生、どこにいるよ。全部自己流だよ」
 なんだかくすぐったい。視線はずっと目の前のおでんに投げたままになっていた。
 シゲはふぅん、と言うと蒟蒻を口に放り込んで熱そうにはふはふ言っている。ようやくそれを飲み下すと思い出したように連を振り向いた。


「そういえば、お袋さんは元気にしてるのか?」

 

 リトルと呼ばれていたあの頃、連はシゲとBJに会いにちょくちょくとあの店に顔を出していたが、その間何度かは母親に最初の日と同じようにマッチ箱を渡すように言われたことがある。ただし母親は連がシゲの所に頻繁に出入りしていたことは知らないはずだ。
 あのマッチ箱に何の意味があったのか、いまだにわからない。シゲと母親の間にどんな関係があったのかもわからない。ただ、母親は直接シゲの店に足を運ぶことはなかったと思う。だから大前提であるはずの、シゲと母親は知り合いだということすらともすれば失念しがちだったのだ。

「……元気じゃないの?最近顔見てねぇもん。もういい加減ババアだってのにいまだに男狂いさ。ガキの頃は俺が追い出されてたけど最近は自分が男んとこに転がり込んだりしてるみたい。店はまだやってるから生きてる筈だよ」
 掃き捨てるように言うとそれに対してシゲは少し何かを考えこんでそうか、と呟くと今度はジャガイモを割って口に放り込んだ。
「顔見ることがあったらよろしく言っといてくれ」
「……シゲちゃんて……」
 何故かシゲの顔を見ることが出来ずに独り言のようにこぼした。

「お袋とどういう関係だったの」

 

──あんた、母ちゃんの新しい男?

 

 最初にシゲに対して発した言葉はそうだったような気がする。
 質問に対するシゲの反応を盗み見るようにちらりと視線を動かすと、ぽりぽりと鼻先を掻きながら何か考えている。
「ま、色々とな」


 考えた挙句そんな答えか──
 

 何に失望したのか、溜息が出た。
「子供扱いすんなよ」
 口を尖らせてそんな事を言う自分は尚更子供に見えるだろう。シゲはそれには答えずコップ酒をおかわりしている。
「なにか演ってくれ」
 シゲはようやく連に向き直ると、顎でサックスを指し示して微笑んだ。
「誤魔化すなよ」
 口を尖らせたまま立ち上がるとBJから受け継いだ楽器を持ち上げ、立ち位置を下げる。吹き始めたのは、BJによく聞かせてもらったスタンダードジャズの曲だった。
 シゲはそれを目を閉じて聴いていた。

 1曲演奏し終わるとシゲは拍手をしながら連に歩み寄り、手に一枚の紙片を握らせた。
「今はそこで店をやってる。そいつを持ってたまには遊びに来いよ。吹かせてやるから」


 それは名刺だった。裏返すと、手書きで最寄駅とそこからの道順が書かれている。それに見入っている間にシゲは屋台から離れて駅方向へ歩きだしていた。歩きながらくるりと振り返り、見送る連に手を振る。

「──店手伝ってくれたらちゃんとアルバイト料も払ってやるから。待ってるぜ」

 手元に残されたその名刺とシゲの後姿を交互に見比べた。不満げに尖らせたままだった口元が次第に緩むのを止めることは出来なかった。

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 マンションの部屋の鍵を開け、電気をつける。
 子供の頃はボロアパートだったが店が繁盛していない割に徐々に金回りが良くなっているのかアパートよりは少し広いマンションに引っ越した。金持ちの男でも捕まえたのかもしれない。
 しかし母はここ数週間この部屋には戻っていなかった。
 やはり誰も帰っていないことを確認すると、おでん屋台の親爺が残り物を分けてくれたのでそれをおかずに昨日炊いて冷蔵庫に入れておいた飯を食うことにする。
 時計を見るともう深夜4時近くなっていた。

 と、玄関のドアが騒がしくなった。
 深夜だというのに派手にばたんと閉める音がする。眉をしかめておでんの皿と茶碗を持ち、箸を咥えて自分の部屋へ引っ込もうとした時に、入ってきた酒臭い派手な女とはちあわせした。
「あれえ、連じゃないの。久しぶりねぇ」


 それが息子に対する言葉かよ──


 返事をせずにすれ違う。
「あんたがまだ起きてたんならちょうどいいわ。つきあいなさいよ」
 母がこんなに酔っ払っているのを見たのは久しぶりだ。店で随分飲まされたのかもしれない。それにしても上機嫌だ。しかし母は上機嫌とは裏腹の告白をし始めた。
「あたしさぁ、また捨てられちゃった」
「──知らねえよ」
 言い放った途端に咥えた箸が床に落ちた。


 何ヶ月か──早ければ数日で男が変わるのだから本当にそんなこと知っちゃいない。家を空けていた間転がり込んでいた家の男に捨てられたのだろうが、その男と付き合っていた期間もどうせ同じ程度なのだ。
「何茶碗もってウロウロしてんのよう。あんたももう酒くらい付き合えるでしょお?」
 いい年をして甘えた声を出している。


 母が連を産んだのはかなり若い頃だから、客観的に見れば母はまだそれほど年をとっているわけではない。おそらくもっと年配の親爺どもには可愛らしく映るのだろう。
 しかしなかば化粧の落ちた母の顔は下品な香水の香りとともにひどく醜悪に見えた。

 

──こんな女と。

 シゲは深い仲だったのかもしれない。
 ひどく不快な気分になった。
 腕をひっぱる母を払いのけて自分の部屋のドアを開ける。後ろでバランスを崩して転んでいる気配がした。構わずおでんと茶碗を自分の机に置くと引き返して箸を拾う。母は転がったままつっぷして号泣していた。
「うるさいな!」
「うるさいって何よ、母親に向かって!誰のおかげで食ってけると思ってんのよ!」


 母親らしいことなどしてこなかったくせに──


 そう言い返そうと思ったが思いとどまった。
 急に、この男狂いの女が哀れに思えたのだ。

「シゲちゃんが──」

 シゲと出会ったことなど、言うつもりはなかった。
 しかし、母がこれほど酔っているなら本当のところを聞かせてくれるかもしれない。
「シゲちゃんが母ちゃんによろしくってさ」
 母は泣き叫んでいたのが演技だったかのようにぴたりとそれを止め、まじまじと連の顔を見つめた。
「あんた、シゲちゃんに会ったの」
「──ああ」
「そう、シゲちゃん生きてたの…」
 どこか懐かしそうな顔。それが何か癪に障った。
「母ちゃん、シゲちゃんとも付き合ってたのかよ」
 母は黙って目をぱちぱちと瞬かせたかと思うとふうっと微笑む。それが妙に女っぽくていやに目についた。
「……そうよぉ。いい男だったわ」
「……」
 その時連はよほど表情が変わったのだろう。母はそれを見て大きく吹き出して爆笑し始めた。
「嘘、嘘。あの男ったらあたしがいくら誘ってもなびかなかったんだから。頭きちゃう」
 ようやく笑いがおさまってくると、溜息をついて床の上に座り直した。
「あいつとは仕事の付き合いしかないわよ。本人とは何年も会ってないし」

──仕事?

 母はよろよろと立ち上がりながら、転んだ拍子に散らばったバッグの中身を拾い始めた。くすくす笑い続けている。男に捨てられたことなどもう忘れたかのようだ。
 暫く母の動作を眺めていた連は溜息をつくと再び自室に足を踏み入れた。
「俺、シゲちゃんとこでバイトするから」
「そう。じゃあまたマッチ箱を持ってってもらうとしようかな」

 あのマッチ箱が。
 シゲと母を繋ぐ「仕事」になにか関係があるのだろう。
 

 男と女の関係ではないとわかったら今度はその「仕事」が気になる。

 仕事とは何なのか、母をもっと問い詰めたい。


 しかし、よろよろとリビングへ向かった母は化粧も落とさずにそのままソファに倒れ込んで鼾をかき始めた。

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 シゲの店で実際に吹きはじめたのは、ガード下でシゲに再会してから1年以上経過してからのことだ。それまでは店が終わってから練習がてら吹かせてもらうだけだったが、そういう時はシゲがピアノを弾いて合わせてくれたりもしたのでそれはそれで楽しかった。
 高校には相変わらず滅多に顔を出さなかったが、なんとか卒業だけは出来そうだ。さすがは落ちこぼればかり引き受ける学校だと妙に感心した。
 一応、卒業式くらいには出ておくか、と言うと母は卒業式くらい顔をだそうかなと言ってはしゃいでいる。
 絶対来るなよと釘をさしてその日も家を出た。


 電車を乗り継ぎ小1時間かけて谷重バーにたどりつく。
 子供の頃に出入りしていたあの店と寸分違わぬ店がそこに佇んでいた。
 古ぼけた木の扉を開ける度に、カウンターにBJが座っているような気がいまだにする。

 BJはもう日本にやってくることはないのだろうか。
 譲り受けたこのサックスを、ちょっとは吹けるようになったのだということを見せたいのに──

 閉店時間にはとっくに電車はなくなっている。そんなわけで大抵は店のソファや二階に上がり込んで仮眠して朝帰るか、そのまま居続けてしまうことも多い。しかしその夜に限ってシゲは連に金を渡して言った。


「タクシー拾って今日は帰れ。それから、急だがこの店を畳むことにしたんだ」
「は?」
 ついさっきまで帰る客に「またどうぞ」と言っていたではないか。
 ボトルキープなどはさせていないショットバーだからその面で問題はないだろうが、あまりに急すぎる。

 連がBJのサックスを譲り受けたあの朝のことを思い出した。

 あの時ももしやこんな風に急に立ち退いたのではなかったか。


「──どういうこと?せっかく客の前で演れるくらいになったのに畳むって、なんでだよ」
「まぁ、色々な」
 本当にシゲは何かを誤魔化すのが下手くそだ。
 シゲはきまり悪そうにぽりぽりと髭の中の頬を掻くと、マッチ箱を取り出した。連の母親の店のマッチ──この店になってからも幾度か連が運んだものだ。
 それの内箱を取り出し、中のマッチを一端全部出す。次に鉛筆を持って不自由そうにその中に何かを書き始めた。最後にマッチを箱に戻して、連に渡す。

「1週間したらそこに電話しろ。新しい店の場所を教えてやるよ。無くすなよ」

 

 渡されたマッチ箱を握り締め、ポケットにつっこむ。
 子供の頃から何度も何度もシゲに運んだ母の店のマッチ箱。持って帰るのは初めてだった。

 釈然としない思いを抱えたまま、タクシーを拾う。眠いのに眠れない。タクシーを降り、マンションのエレベーターに乗り込む。まだ空気は冬のそれに近かったが、うっすらとそらが白みはじめているのに気付くと春が近いのだと他愛もないことを思った。
 母はまだ帰っていないか、帰っていてもどうせまたリビングか寝室で服を着たまま眠りこけているのだろう。
 そんなことを考えながら鍵を開けて中に入る。


 ふと違和感を感じた。
 玄関先に見慣れない靴がある。男物の革靴だ。

──また新しい男引っ張り込んでんのか。

 最近ではめっきりなかったが、久しぶりに男を連れ込んでいるのだろう。
 うんざりと溜息をつくと、鉢合わせをしないようにそろりそろりと足音を忍ばせて台所へ向かった。コップに水を汲んで一気に飲み干す。
 

──錆臭えな。


 飲み干した水に鉄臭い味がした気がして顔をしかめた。
 とっとと自分の部屋に戻って寝てしまおう。
 そう思って振り返った時、自分の周りで動いた空気がまた錆臭い気がした。


──水の味じゃない?


 鼻をくんくんと鳴らして匂いを嗅いでみる。
 水が錆臭いのではなく、何か変な匂いがする。

 突然、嫌な予感がした。

 台所に入ったときと同じようにそろそろと忍び足でリビングを横切り、母の部屋のドアの前に近寄る。臭いが強くなった気がした。


 これは──ただの臭いじゃない。

 空が白み初めていたとはいえ、カーテンの閉められた室内はまだ暗闇である。
 その中で、母の部屋のドアの前に立ち──おそるおそるノックをしてみる。
 返事が無い。
 心臓が苦しいくらい鼓動を打っている。
 室内は暖房が効いている様子も無く冷え切った空気であるのに、額には脂汗が浮かんできた。


「──母ちゃん」


 呼びかけてみる。
 やはり、返事が無い。
 と、靴下が湿る感覚がした。
 足を上げてみて、指でその感触を確認する。
 背筋が微弱な電流が走っているかのようにびりびりと震える。
 弾かれたようにリビングの入口に転びそうになりながら駆け寄り──電灯をつけた。
 電球が二、三度瞬いて突然闇から光の世界へと切り替わる。
 がくがくと震える指を持ち上げ、視界に入れると──


 そこには、べっとりと赤い何かが付着していた。

 

 ゆっくりと、先ほど佇んでいた母の寝室のドアに視線を戻す。
 ドアの下の隙間あたりに、明らかにカーペットの模様とは違う染みが出来ていた。

 吐き気を抑えながら、そこへ近寄り──
 連は、ドアを開け放った。

 そこにあったのは──

 すでに物体と化し、ともに全裸で血の海に沈んだ見知らぬ男とおそらく母であった筈の女だった。

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 煙草に火を点けて吸い込むと、頭が眩み同時に激しく咳き込んだ。
 どうもここしばらく体調がよくない。
「風邪長いね、連」
 テーブルを拭きながらハジメが振り返り、つかつかと歩み寄ってきたかと思うと煙草を取り上げる。
「こんなもの吸ってるから治る風邪も治らないんじゃない。明日はライブも休ませて貰った方がいい」
「そんなわけいくかよ」
「いや、今日は音もろくに出てなかった。やめとけ」
 カウンターの中で洗い物をしていたシゲが話に参加する。
「ライブ代金を取ってるわけじゃない。演奏がなくたって誰にも文句は言わせねえからとにかく風邪治せ。店んなかでゲホンゲホンやられる方が困る」
 言い返せずむくれ顔で溜息をつくと連はボックス席のソファに深く腰を下ろした。再びこちらのテーブルを拭いているハジメの手元を見つめる。

 あのあと警察が来て、連も何度も事情聴取をされた。
 結局、母は男と心中──というよりも痴話げんかの縺れで殺し合ったらしい、ということで片付いた。正式に聞かされたわけではないが、血液の他にそこで死んでいた男や母の体液も検出されたらしい。つまり殺し合う前の二人の間に実際に性交渉があったということだ。互いの傷の様子や連が鍵を開けて帰宅したことからも、第三者が入り込んで二人を殺したという線はないという。
 相手の男の身元を証明するような所持品が無かったことから、相手が誰だったのかはわからずじまいである。警察は捜査を続けている筈だったが、連にはもう興味がなかった。
 

 鑑識から帰ってきた母の遺体を前に途方に暮れていると、母の店の常連客たちが事件を聞きつけて簡単ながら葬儀を出してくれた。そうこうしている間に卒業式にも出られず、学校は郵送で卒業証書を送りつけてきたが、そんなものにももう興味はない。せめて高校くらは卒業しろと言っていた母は、もういないのだから。

 そして、連はあのマッチ箱を開き──再び、別の土地でそ知らぬ顔でそこに佇まっているシゲの店に戻ってきた。

 

 それから何年が経ったのか。
 結局、連はこうしてずっとこの店でサックスを吹いている。
 最初は連のサックスだけだとか、客がOKを出せばシゲのピアノ伴奏と歌がつく程度だったが、いつの頃だったかベースのメンバーが加わった。
 今度の店には、貰い物だか安い払い下げ品なのだか知らないがウッドベースがベーシストもいないのに置いてあった。時々店に顔を出していた若者が、ある時一度弾かせてくれないかと申し出たのだ。
 シゲに言わせると特別上手くはないが、連のサックスでも耳のある者が聞けば素人に毛が生えたようなものだ。一度合わせてみようということになり、結局ベーシストとして採用した。
 それ以降は暇な曜日にバンドで演奏しているという具合だ。贅沢を言えばドラムも欲しいところだが、ドラムセットを置くようなスペースは店にはない。

 途中加入したベーシストはハジメと名乗った。
 姓だか名だかも知らないが多分名前なのだろう。それ以外の素性は知らない。
 もっとも、自分もちゃんと自己紹介したり身の上を話したりしたことはないから、ハジメは連のことを知らないだろう。連をリトルとは呼ばなくなったシゲはしかし、あのガード下のおでん屋と同じで「レン」と呼んでいるのでもしかしたらハジメは連のことを「レン」だと思っているのかもしれない。いや、そのシゲでさえ母とは旧知だったようだがどの程度まで母のことを知っていたのか、そして連のことを知っているのかわからない。他人のことを詮索しない男なのだ。

 そんな調子だからハジメの年も知らないが、連よりはいくつかは上のようである。
 いつも落ち着きはらっていて、老けては見えないものの妙に若者らしさがない。基本的に自分とはソリのあわないタイプだと思っている。


 そんなことを考えながら閉店の手伝いもせずぼんやり座っていると、眠気が襲ってきた。普段はこんな時間にこれほど眠くなることはないのに、やはり微熱でもあるのかもしれない。
「連、もう上がれば?顔赤いよ。熱があるんじゃないの」
 まるで心の中を覗かれたようなタイミングでハジメが声をかける。しかしだんだん体がだるくなっていくようで、ハジメに対してなにか反論しようという気にもならずただうん、とだけ言った。おとなしくよろよろと立ち上がり階上の部屋へ向かう。 体温が上がってきたと感じるとまた咳が出る。痰が絡むのでティッシュペーパーで抑えて咳払いをするがなかなか痰が切れない。となるとまた頭がふらついてくるの繰り返しだった。ひとつ大きな咳が出た拍子に大量の痰が飛び出した感覚がした時、同時に口の中になんだか覚えのある錆臭い味が広がった。


 突然背筋がぞくりとして──それは熱のせいではあるまい──おそるおそる口を押さえていたティッシュペーパーを広げてみる。

 白いティッシュペーパーの真ん中に、真紅に染まった塊が付着していた。

──落ち着け。

 眩暈がする。
 いや、慌てるな。
 長い間風邪で咳ばかりしているもんだからどこかが炎症を起こして出血したのだろう。
 ふらふらしながら再び階下の店へと降りる。とにかく水でも飲ませてもらおう。
 そう、どこかに風邪薬があったはずだ。


「あれ、どうしたの連」
 店では一通り片付けが済んだのだろう、シゲとハジメがコーヒーを淹れて飲んでいる。
「──どうもしねぇよ……水……ちょっと水飲もうと思って…」
 倒れそうになりながら、ようやくカウンターまで辿りつく。ハジメとシゲの表情などまるで目に入らなかった。
「おい大丈夫か、連」
 シゲの心配そうな声も殆ど耳に入らなくなっている。心臓がまるで耳の近くにあるかのようにそのあたりが脈打っているのがわかった。カウンターの上にシゲが入れてくれたコップの水を一気に呷ると──
 それが逆流するように再び咳き込んだ。
「──連!!?」
 同時に叫んだシゲとハジメの声が、どこか遠くで聞こえる。

 

 とっさに咳き込んで吐き出した水を受け止めようとした自分の掌。
 目の前のカウンター。
 それらを一瞬で染めた真紅の血──

 そのまま、連は意識を失った。

ロックグラス.gif

 目を開けると、薄暗い室内である。
 息苦しい。


──俺は、どうなったんだろう。


 近くで、ハジメの声がぼんやりと聞こえた。
「今、先生呼んだからね」


 先生?
 ああ、ここは病院だ。

 

 漸く事情が飲み込めてくると、意識を失う前に見た血を思い出した。
 あれは、俺が吐いたのか──
「大丈夫だよ」
 顔を少しだけ動かして声の出所に視線を送る。
 なにが大丈夫だと言うのだろう。
 そっけない口ぶりに反して、ハジメは目の周りが少し紅くなっていた。もしかしてあれから寝ずに付き添っていてくれたのかもしれない。
「……シゲちゃんは?」
 苦しくて、声にならないがハジメはなんとか聞き取ってくれたようだった。
「気が動転してたから一旦帰ってもらったよ。そろそろ着替えとか持ってまた来るんじゃないかな……あんなに慌てたシゲさん、初めて見た」

──慌てたんだ……

 くすくす笑いのハジメにつられて笑いが浮かぶ。
「先生が説明してくれるだろうけど、気管支炎の一種みたい。肺の一部まで行ってるのによくこんな状態で管楽器なんか吹いてたって先生呆れてたよ」
 微笑を浮かべたままあくまで淡々とハジメは言った。
 その淡々とした声が何故か心地いい。

 そうしているうちに医師がやってきて目を拡げて見たり胸の音を聞いたり脈を見たりした後、事務的な口調で何か説明をしたが殆ど頭に入らなかった。まぁここから治療していけばこれで命を落とすことはないから、と言ったことだけが耳に残る。
 数日安静にしていればすぐに退院できるということだった。

「たいしたことないみたいで良かったね。ほんと結核なんかだったら僕らもおおごとだったよ」
 医師と看護婦を見送ったあと、ハジメが肩をすくめて言う。
「なんだよ、俺じゃなくて自分たちの心配かよ」
 ベッドの横に腰をかけてくすくす笑っている。ハジメも安心したのだろう。
「でも、昨夜の喀血は意識を失うほどの量じゃないってさ。そうだね、びっくりしたけどどばって出た感じじゃないもん」

 いや、そんなことはない。
 だって、俺の手も、カウンターもあんなに真っ赤になって……

「量の問題じゃねえだろ、死ぬかと思って俺の血の気まで引いたぞ」
「シゲさん」
 声に視線を動かしてみたものの、体が重くて目だけでは声の主の姿が視界に入らない。しかし声だけでシゲが疲れているのがわかった。少しは眠れたの、だの着替えは持ってきた、だのハジメが世話女房だか母親のように話し掛けているのが聞こえる。
「いいからイチはもう帰れ、寝てないんだろ」
「はいはい。じゃ連、僕は帰るから。お大事にね」
 もともと細い目を線のようにしてにっこりと微笑み、ハジメは連の顔を覗き込んだ。小さく頷いて応えるとすぐにその顔は視界から消え、ドアから出てゆく気配がする。面倒見がいいタイプだとは思っていなかったので意外に感じた。少し見直してやってもいいか、と思うと小さな笑みが浮かぶ。
 視界から消えたハジメの背中を見送るように視線を固定しているとそこへシゲの姿が入り込んできた。
「びっくりさせやがって」
「……ごめん」
「熱も出てたみたいだったもんな。それでびっくりしてくらっときたんだろ」
 思い出すようにすっと目を閉じる。目の裏に真紅の血が蘇った。
「……俺、血がダメなんだよ…」
 うっすらと目を開いてシゲの顔を見上げるとシゲはいつもの表情だった。笑ったような口元にえくぼが見える。

「お袋が死んだ時のこと思い出しちまって…」

 血の海に全裸で沈んでいた母。


 おそらく、連が喀いた血は本当に僅かだったのだろう。しかし、それは確かに連の目には視界いっぱいに広がる血の海に映ったのだ。
「ちょっとした怪我でも血を見たら気分悪くなる。それから裸の女もダメ。そのへんにあるヌードのポスターでも真っ赤に見える」
 言ってしまってから何故か可笑しくなって力なく笑った。
「あそこには裸の男もいた筈なんだけどそんなもの見ちゃいなかったしね」
 シゲは──黙ってそれを聞いている。本当に聞いているのかいないのか、何か考え事をしているような顔をしている。
「ねぇ、シゲちゃん」
 シゲは目を少し見開いて、改めて連の顔を見下ろした。


「……母ちゃん、何の仕事をしてたの。シゲちゃんとは仕事のつきあいだって言ってた」
「なんだ、ヤエコのやつそんなことを話してたのか」

 ヤエコとは──母の名だ。


「……誤魔化さないでくれよ。俺、驚かないし誰にも言わないから」

 シゲはいつも考え事をする時に見せる、鼻を小さく掻くような仕草を見せると、一旦座り直して咳払いをした。
「すまねえが、それだけは言えん。ヤエコは、おまえをこれ以上関わらせたくないって言ってたからな」

「母ちゃんは──」

 ずっと心の中に凝っていた疑問。

「母ちゃんはただの痴話喧嘩で殺されたんじゃなかった?」

 

 母は確かに男にだらしなかったが──逆に言えば一人の男にのめり込むということはなかった。捨てられたと言っては一晩泣き喚いて呑んだくれて、翌朝にはケロリとしていたのだ。その母が男と殺し合いになるほどになるとはどうしても信じられなかった。
 シゲは、小さく溜息をついて──やはり小さく、よく見ていなければ見逃すほどの小さな動きで、頷いた。
「たちの悪い連中に目をつけられてたんだな。ヤエコが男に嵌り易いのを利用して近づいた」
 だから男はちゃんと選べよって昔から言ってたんだけどな、と付け足し、ほんの少しの沈黙を置く。
「俺の仕事の絡みだった。俺もあの時、狙われてたんだ」

 ぎりっと──
 唇を噛む。
 それでは──
 あの時突然店を畳むと言ったのは。

「俺はな、お前を切り捨てて逃げたんだよ。ヤエコのことがバレてるならお前も目をつけられてても不思議じゃなかった。お前がつかまって拷問されるなんてことも有り得ない話じゃなかった。それでも、俺はお前を切り捨てたんだ。俺は──」

 何かを叫びそうになって、咳き込む。
 シゲが慌てた顔が目に入った。それはどこか映画のスローモーションのように──

「──でも、俺に行き先を教えてくれたじゃん」
 息苦しいのを落ち着かせながらゆっくりと小さな声を出す。
 もしも連が捕まって拷問されたら、あの連絡先だってばれていたかもしれないのに。
「独りになった俺を、シゲちゃん店においてくれただろ」

 俺は、ずっと独りで平気だと思ってた。
 母ちゃんと顔も合わせずに何週間もいたって平気だった。
 逆に、母ちゃんには俺がいなきゃダメだと思ってた。
 けど、母ちゃんが死んで本当に誰もいなくなった時、ものすごく怖くなった。
 母ちゃんがいなきゃダメな甘ったれは俺の方だったんだ。
 図体ばかりでかくなっても、俺はいつまでも『リトル』だったんだよ。


「シゲちゃんがいなきゃ、俺は本当の一人ぼっちになってた」

 だから、もしも本当に母ちゃんが殺されたのがシゲちゃんのせいだったとしても──
 俺はシゲちゃんを憎んだり恨んだりするような気にはならない。

 シゲの指がゆっくりと伸びてきて、連の頬を撫でた。
 冷たくて、骨ばった細い指。
 鍵盤をスタッカートで叩くように何度か頬の上で弾ませると、それを引っ込めシゲは自分の目元を覆った。


「……あんな母ちゃんだったけど……俺、母ちゃんのこと好きだった……」
 

「連──」
「シゲちゃんの仕事のこと、話したくないならもういいよ。その代わり、母ちゃんのこと教えてくれよ」

 鼻腔の奥がつうんと熱くなる。
 母が死んでから、初めて──連は、涙を流した。

ロックグラス.gif

 店の壁には古ぼけたサックスが飾ってある。
 けれどその楽器は、その奏者と共に既に役割を終え、もう音を奏でることはなくなっていた。

「シゲちゃん、今度こそ店やめるんだって?」
 

 懐かしそうに壁のサックスを眺めていたシゲに酒を出す。
「ああ。優雅に海外で隠居しようと思ってな。羨ましいだろ」
「羨ましくなんてないね。俺はこの街が一番住みやすいんだから」
 シゲがグラスを傾けると氷がからんと音を立てた。

 

 連の気管支炎はあれ以上悪化することはなかったが、肺活量は回復することがなかった。吹こうと思えば吹けないこともないが、思い通りの音が出せねば意味は無い──と結局サックスを置くことにしたのだ。
 サックスを置いてからも暫くはシゲの店を手伝っていたものの、連は独立して自分の店を持つことにした。最初は経営も苦しかったが、なんとか店を維持する程度にはやっていけている。別に金持ちになりたいわけではないのでこれで十分だ。

「で、あの店は?」
「ああ、マサルに任せる。あいつはおまえと違って頭がいいからな、大丈夫だろ」
「うるせえよ。頭悪くても俺だってちゃんとやってらあ」
 楽しげに声を立てて笑う。髭に随分と白いものが混じっているが、その奥の笑い皺とえくぼは昔のままだ。
 昔からどちらかといえば老け顔だったから何年経ってもさほどひどく年をとったようには見えない。

「英二のやつはこっちにはよく顔出してんのか」
「ああ、今日は来てねえけどな。こっちの常連でダチもできたみたいだし、やっぱほらウチのが若者向けな店だろ」
「ぬかせ」

 

 レコードが終わる。裏返して再び針をのせる。

 

「シゲちゃん……見られでもしたのか、英二に」

 シゲは黙っている。誤魔化すことは相変わらず上手くはない。
「だからやめるのか?あいつは喋らねえだろ」
「……そういうんじゃねえよ。ただ俺ももう年だからな、人間引き際ってもんがあるんだ。潮時ってやつだ」

 潮時──か。

 結局、はっきりとシゲの『仕事』が何であるかは追及せずじまいだった。あの病室ですでに凡その察しはついているけれど──

「ま、高飛びでもなんでもいいけどさ、シゲちゃん一人で海外なんて行って大丈夫なのかよ。すぐにホームシックにかかって帰ってくるんじゃねえの?淋しがりやのくせに」
 からかうように笑う。シゲは煙草を取り出すと口に銜え、にいっと笑った。
「うるせえ。おい、マッチあるか。ガス切れちまった」
『Bar Little』と印刷されたマッチを手にとり、まじまじと感慨深げに眺めてからそれをシゲに渡す。


 ひとつのマッチ箱が、すべての始まりだったのだ。

 

 氷を削っている連の手元を見つめながらシゲはふうっと煙を吐き出した。


*the end*

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*note*

こちらの主人公「連」も、ちゃんと本編に出て来ている人です。ただし、本編中は名前は出てません。最後にちょっと匂わせ垂らしておきました。椎多が知ったらまたキィー!ってなりそう。多分知ることはないと思うけど。

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