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Sin.co   The Name of the bar is;

五輪めの薔薇
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 悲鳴と何かが割れる音。
 それに続いてどすんという何かが落ちたか誰かが倒れたような音。

 テレビを見ながらいつの間にか誘い込まれていたまどろみの淵から突然現実に引きずり戻される。一瞬の、頭の中が真っ白な状態から現状を把握すると座椅子にもたれていたリラックスの姿勢から飛び起き、音のした方向へと駆け出す──とは言ってもその歩数、わずか2歩ほど。部屋の境にあるガラスの嵌った引き戸をがしゃんと音を立てて開けると、台所の流し台の前で尻餅をついた姿勢の男が目に入った。足の間には、包丁が床に見事に刺さっている。その周りにはいくつかの陶器の破片が散らばっていた。


「あ……起きた?ごめん」
 男は顔だけをこちらに向けると引きつった笑いを作った。岸本貴也はそれを見て大きく肩を上下させ、深く息をつく。

「──何やってんの、辰さん」
 

「いやあ、ちょっと、料理でもしてみようかなーと思ったんだけど…ちょーっと手が滑って…はは」
 シンクの上には確かに俎板が置いてある。その上には鮮やかな色の人参。
「人参切ろうとして死にそうになる人なんか初めて見たよ。ちょっとカケラ拾うからまだそのまま座っといて。危ないし」


 呆れた顔で台所に入ると、しゃがみこんで床に散らばった破片を拾う。皿とマグカップか何かだろう。どうせ100円ショップで揃えたものだがまだ殆ど使っていない真新しいものなので少し勿体無い気分になる。大きな破片を拾い終わると勝手知ったる様子で掃除機を出し、細かい破片を吸い込んだ。
「包丁なんか握ったこともないくせに」
「しょうがないじゃん、一人暮らしなんか初めてなんだもん。自炊くらい出来た方がいいだろ」


 ようやく尻餅体勢から脱出した辰彦は口を尖らせて立ち上がり、床に刺さった包丁を抜いた。貴也はそれを脇から取り上げ、洗う。
「人参、キャベツ、玉ねぎ?野菜炒め?ご飯作るんなら先に炊飯器セットしようよ。もういい、俺作るから辰さんテレビ見といて」
「えー、手伝うよ。自分じゃ何にも出来ない子みたいじゃん俺」
 実際何も出来ない子だろうと思いながら、じゃあ米磨いでと指示を出し、その間に貴也は真新しい包丁でさくさくと野菜を切ってゆく。みるみるうちに野菜炒めの材料が出来上がって行った。
「すげー。料理人みたい。貴也も自宅住みのくせになんで料理なんか出来るんだよ」
「うちは家が商売やってるからさ、ガキの頃から晩飯は自分で作ってたし。妹は年離れてたから保育園の送り迎えとかも全部俺がやってた。あ、炊飯器は『お急ぎ』ボタンでセットすんだよ」
 ふうん、いい子だねえ──言われた通り『お急ぎ』ボタンを押しながら辰彦が呟く。
「うちだって商売してたけど、晩飯は用意してくれてたからなあ」
「辰さんとこは夕方には閉店する和菓子屋だったろ。うちは昔から飲み屋街の酒屋だから夜遅かったんだ」


 他愛も無い会話をしている間にソーセージ入りの野菜炒めに卵を落としたものが出来上がる。味噌汁はインスタントのものがあったのでそれで間に合わせた。そもそもこの家にはまだ味噌が無い。
「うっわ、すげー美味い。定食屋の野菜炒めみたいだ」


 辰彦は無邪気に美味い、を連発した。その顔を見て、こんな風に美味そうに食べる男になら嫁さんたちはさぞや食事の作り甲斐があったろうなと思う。それをそのまま口にすると辰彦は困ったような照れたような妙な顔をした。
「そうだなあ、友香は料理上手かったよ。大抵なんでも作ってくれたし。ただ俺にはちょっと味が濃かったかな……優美は、盛り付けがいつも凝ってんの。レストランみたいな盛り付け」


 友香、優美というのは辰彦の妻だった女たちだ。いずれも既に離婚している。最初の妻の友香は貴也の高校時代の友人だった。


「あの子きゃぴきゃぴしてる割に料理本格的だなー、意外と家庭的なのかなーと思ってたら、大半はデパ地下グルメでした」
 あははは、と笑って味噌汁を一口すする。
「美味しそうに食べるから嬉しくて作り甲斐があるのって、付き合ってる間とか結婚して間もなくくらいだけなんじゃない?あとはどうせルーチンワークだし、自分だって食べなきゃいけないし。こっちは一日働いてきてるわけだし帰ってきてすぐ食べるものを用意してくれてるだけでも有難かったけど」

 亀崎辰彦は世間的には天然ボケだの馬鹿だの言われつつ『憎めないキャラ』で通っているが、そのつもりでいると時折ぎくっとするほどドライに物事を語ることがある。貴也が見ている限りでは、けっこう愚痴も皮肉も冷酷にすら感じることも遠慮なしに言っている印象なのだが、世間の評判がああである以上外では意図的にそれを控えているのかもしれない。では天然キャラが演技なのかといえば決してそうではなく、天然でお人好しなのもまたこの男のまぎれもない『地』だ。

 彼の妻たちは、ずっと共に生活していて彼のこんな部分を知っていただろうか?

 

 辰彦が友香と夫婦だった頃、貴也は友香から夫である辰彦に対する愚痴や不満を散々聞かされていた。しかしその内容を鵜呑みにすれば辰彦というのは本当に暢気で天然で馬鹿でイライラする男ということになってしまう。
 だから、辰彦が友香と別れた時に事情を聞こうとして、それまで自分が知っていた友香の夫のイメージと実際に齟齬があるということに初めて気づいた。


──友香は"よく出来た奥さん”だったよ。
 

 時折辰彦はそんな風に言う。
 金銭感覚もしっかりしているし、家事もきちんとこなしてくれてたし、料理も旨かった。家事をもっと分担しようと提案した時も、まだ子供もいないのだからこれは自分の仕事だと譲らなかった。ただ、自分がきちんとしてる分、厳しかった。筋の通らないことをなあなあで済ませてくれないとこもあったし──それは高校時代からの付き合いだから貴也にも容易に想像できた。
 普段はそれでいいが、両親と実家を火事で失い、あれやこれやの手続きの上遺産争いめいた問題が起こってへとへとになっている時には随分堪えただろう。その頃の事は辰彦から直接は聞いていないが、友香の愚痴を聞いているだけで辰彦に同情したものだった。


 だから、優美の誘惑に絡め取られてしまったのだろうか。友香とは全く違うタイプの女だ。面と向かって話したことはないが、常に男の視線を意識して自分がいかに可愛らしく見えるかを計算して行動しているような女だった。
 友香と離婚して優美と結婚することになったのは、一言で言ってしまえば辰彦が優美の策略にひっかかってしまったということだ。妊娠したが堕胎したと泣かれ生きていても仕方ない死ぬと喚かれ、それを突き放すことが出来ずに優美を選んでしまった。
 まんまと辰彦を手に入れた優美はしかし、自分が奪い取った男を今度は誰かに奪われるのではないかと疑心暗鬼になっていった。優美は辰彦に女がいるのではないかと血眼になっていたようだが──それは貴也にとっては少々滑稽な話だった。


 優美が疑った、会議で遅くなった時や出張で泊まりになった時に辰彦が会っていたのは『女』ではなく貴也だったのだから。


 ああ美味しかったごちそうさまと言いながら辰彦は食器を持って立ち上がった。そういえば家事の分担を断られた時に、さすがに何もしなさすぎなのはかえって居心地が悪いからと食後の洗い物だけは担当していたと以前語っていたことを思い出す。戻ってきた時には手に缶ビールを持っていた。
「食事の時に出すの忘れてた。飲もうよ。まだ時間早いし」
 そのビールは貴也がケースで持ってきたものだ。酒屋である貴也が店からくすね──否、自分で買ったものだ。離婚祝いというのも妙なので、引越祝いというところだろうか。


「貴也が料理上手いってのは意外だったなあ。もういっそここに一緒に住んじゃえよ」
 

 ちらっと視線を上げて辰彦の顔を見ると、缶ビールのプルトップに目を移しそれを開けた。少し無理矢理に笑う。
「辰さん、その調子であと何回結婚する気?」
 返事の替わりに、左肩に重みがかかる。小さく、もうしない、と聞こえた。
「嘘つけ。じきに寂しくなってまたひょいっと結婚するんだろ。わかってるよ」
「だってもう離婚した時に相手に渡すものは何もないもん。だからしない」
 離婚前提かよ、と苦笑する。


 結局、優美は疑心暗鬼の挙句、自分から離婚を申し出た。
 優美の親は開業医で資産家だからか金銭的なことではさほど揉めなかった。それよりも一刻も早くこの不実な男と娘の縁を切りたい──。調停が入ったとしても辰彦の浮気の事実が証明できないせいか、住んでいた分譲マンションを、ローンは辰彦が払い続けたまま事実上譲渡するような形で慰謝料の替わりとするということで話は片付いた。それがまだ1週間ほど前の話である。


 左肩の重みを感じたまま、貴也は缶ビールを呷った。
「実は、ほっとしてるんだろ」
 うん。聞こえるか聞こえないかの小声と頭が頷いた気配が肩に伝わる。
「このままだったら優美を嫌いになりそうだったし、ちょっとほっとした」
「なんだ、まだ嫌いになってなかったのか」
 くすくす笑う。
「俺だったら結婚する前に嫌いになってるなあ、あの手の女は」
「貴也の意見は参考にならないだろ、もともと女が嫌いなくせに」
「女が嫌いなわけじゃないよ、友香とは仲良しじゃん。対象じゃないだけ」
「俺、てっきり貴也は友香が好きなんだと思ってたのに。だから友香と結婚した時も悪いなー、悪いなーってずっと思ってた。あの頃の俺の気持ちを返せ」
 

 笑い声とともに左肩にかかっていた重みがふいっと軽くなる。肩から上げた辰彦の頭に腕を回して抱き込んだ。
 

 わかっている。
 友香との仲がぎくしゃくしている疲れた辰彦につけこんだのが優美なら、優美の罠にかかり友香と離婚することになって大混乱している辰彦につけこんだのは自分だ。そんな時でなきゃいくら辰彦が天然のお人好しだってこんな関係は拒絶するに決まっている。それなのに結局辰彦が優美と離婚するまで続いてしまったのがむしろ貴也には不思議だった。


 さらさらと──
 

 足元の地面が砂のように崩れていくような気がして、回した腕に力を込める。それに呼応するかのように貴也の背中のシャツを掴む感覚がした。
 

 この頼りなさは何なのだろう。


 辰彦に妻がいて、ありていに言えば不倫しているような関係でいた時よりも。辰彦が離婚して自由の身になった筈の今の方が──
 何故こんなに不安なんだろう。

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 寝息を立てている辰彦を起こさないようにそっと布団から抜け出すと、貴也は帰り支度を始めた。そうしょっちゅう泊まるわけにも行くまい。


 季節はもう初夏になっていた。
 

 帰る前にもう一度寝顔を見ようと思って覗き込むと、辰彦はうっすらと目を開けた。
「ああ、起こした?ごめん。俺帰るから、そのまま寝てれば」
 辰彦は何度か目を開けたり閉じたりするとむっくりと身を起こし、貴也の手を引っ張った。うん?と首を傾げる。


「貴也、もうこういうのやめよ」
 

「え?」
 言ったきり辰彦は俯き、貴也の手を離して再び布団をかぶった。
「何だって?」
「……いつまでもこんなの続けられないだろ。そろそろやめた方がいいよ」
「何言ってんの、今更」
 布団の中で向こうを向いてしまった辰彦の肩を掴む。

 さらさらと──
 あの足元が崩れるような感覚は──

 

「もっと早くそうするべきだったんだよ。俺が優美と別れるよりもっと前に。俺もいろいろストレス溜まってたからずるずる続けてしまったんだよね。悪かったと思ってるよ」


 なんだろう、棒読みのようにも聞こえる。
 

「何それ、悪かったと思ってるで済ますのかよ」
「だって──」
 肩を掴んだ貴也の手を振りほどいて辰彦は再び起き上がった。
「貴也とじゃ未来が見えない」
「未来って──」


 未来って何だろう。
 

「自分は2回も結婚に失敗して何言ってんだよ。籍入れたって未来なんか予定通りにならなかったんだろ。そんなの意味ないじゃん」
 だからだよ──辰彦は目を真っ赤にして唇を噛んだ。


「書類で正々堂々夫婦になったって、神様に誓ったって、指輪で互いを縛り合ったって、そんな契約は簡単に破棄されるんだ。だったら──」

 

 証しもなにもない約束なんか、もっと簡単に壊れるにきまってる。

 

「───」
「そうだよ、弱いのは俺。悪いのも俺。全部俺のせいなんだよ。貴也をずるずる付き合わせたのも俺が弱かったせいだ。俺には貴也みたいな覚悟が出来てないのに、君の側が居心地いいからつい甘えてた」


 何だよ、それ──
 

「優美と暮らしてた頃はそれがまだ歯止めになってた。だけど、その歯止めが無くなったら俺は自分がどうなってしまうのかわからない」


 それが──怖いのか。
 

 抱きしめる。辰彦の身体が砂のように崩れそうな錯覚に陥る。
「これ以上君を──」
 言いかけて、辰彦は言葉を飲み込んだ。


 どう言えばいい。どうすれば辰彦を繋ぎとめられる。貴也の頭はフル回転したけれど、答えが出ない。
「どんな約束だったら辰さんは信じてくれるんだよ」


 絶対違えないという約束を──
 

「辰さん2回も結婚したんだから、独身で世間体が悪いなんてことないだろ。俺のことは気にしなくてもいいよ。辰さんがいようといまいと結婚なんかする気はないんだから。親には何とでも言う。もう何も障害なんかないのに、なんでそんな事言うんだよ」
 それでも辰彦は貴也の腕を振りほどいた。
 そして、しゃくりあげるような呼吸をして顔を上げた。涙は出てはいなかった。口元は少しひきつったように笑みの形を作っていた。

「だって俺、やっぱり女の子の方がいいもん」

 

 もう何も言えなくなった。
 多分、辰彦はどう言えば貴也が黙るのかを判っていてそう言ったのだ。
「だからもうここにも来るなよ。そのうち新しい女の子連れ込むしさ」
 何も言い返せない。
 貴也はただ無言で立ち上がり、辰彦に背中を向けた。


 その後、貴也の店が酒を卸している飲み屋街で一度だけ、辰彦を見かけた。女を送ってきた様子だった。
 あれはラウンジ『ラヴィアンローズ』のホステス、かのんだ。
 あれからまだ二ヶ月も経っていない。辰彦は言葉通り、新しい女と付き合って今はあの部屋に連れ込んでいるのかもしれない。

 なあ、辰さん。
 その女とだったら未来が見えるのか?
 見えた未来を、今度こそ叶えることが出来るのか?

 

 かのんがビルに入って行くのを見送ると辰彦は貴也に気づきもせず、踵を返して帰っていった。
 それが貴也が見た辰彦の最後の姿だった。

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 釣銭を財布に収めて立ち上がると、岸本貴也は振り返った。店を出る前にと連れの須郷友香は手洗いに行っている。まだ出てくる気配はない。


 友香の別れた元夫が死んだのは一週間前である。
 

 自宅で転倒して頭を打ったのが死因で、事故かとも思われたが第三者の関与が疑われたため、遺体が司法解剖に回されたりで結局葬儀が行われたのは今日の夕方。友香の高校時代からの友人である貴也もその葬儀に参列した。その帰りにここ谷重バーに寄って飲んでいたのだ。


 貴也が顔を戻すと、カウンターの中でそれを見ていたマサルは意味ありげに微笑んだ。
「ん?何?」
「つらいねえ、貴也さん」
 貴也は気まずそうな顔をして口を尖らせた。
「つらいって何が」
「んー、わかってるわかってる。何も言わなくていいよ」
 マサルのにやにや顔に、貴也はさらに眉を寄せる。


 そこへ、友香が出てきた。
 化粧は直してきたのかもしれないが、まだ目が赤い。トイレの中で泣いてきたのかもしれない。とうの昔に別れた男だとはいえ、未練も残っていたのだろう。死んだとなるとやはり悲しかったのだとみえる。
「お待たせ」
「んじゃマスター、ごちそうさま」
 気まずい会話をちょうど断ち切れたと言わんばかりにそそくさと貴也は友香とともに店を出ていった。


 二人の背中を見送ると、マサルはにやにや笑いを少しばかり寂しそうな笑顔に替えて、カウンターの上のものを片付ける。

「つらいって?」
 カウンターの隅から声。入り口近くの隅に座っていた、黒いパンツスーツの女。
「だって小雪ちゃん。わかるでしょ」
「──」


「僕にはよっくわかるよ。同類だもの。どんなに悲しくたって人前で悲しむこともできないなんて可哀想だよね」


 マサルがふふっと笑うと土屋小雪は目の前に置かれていたグラスの酒ををちびりと口に運んだ。

「そういえば、半年ちょっと前だったかな。裏のサイトにあった依頼でね」
「ん?あれ、実際稼動してんの?」


 小雪の本業は殺人代行の請負である。現在どの程度の人数の殺し屋を使っているのかはマサルも知らないが、国内に留まらず拠点を世界各地に置いているらしい。暫く中国に拠点を置いていたらしいが数年前に日本に戻ってきていた。
 帰国してからはカモフラージュのために一見ごく真っ当な人材派遣業もやっている。実際は認可も受けていないので、何か面倒なことがあるとたちまち摘発されてしまう商売である。これは携帯電話のモバイルサイトを利用して派遣の登録を受けたり紹介したりするのが主なのだが、このノウハウを利用して実験的に裏の──つまり殺人の依頼を請け負うサイトを運営してみたりもしている。
 そもそも、小雪はどちらかといえばある程度の組織からの依頼を仲介することが多かったが、これを見れば個人のニーズというものがわかる。事業拡張というほどのことではないが、個人が個人を、金を積んでまで殺したいというケースに興味があったのだ。


 大半は面白半分や嫌がらせのふざけた書き込みで埋まるが、そういった傾向を掴むのには意外に役に立つと小雪は思っているらしい。単に気に食わない、ちょっと不快な思いをさせられた、そんなものも多いが中には本当に金を積んで他人を殺したいと切羽詰った者が現れることもある。


 学校でいじめに苦しむ中学生が首謀者である同級生たちを──
 アカハラに苦しむ大学生が担当教授を──
 DVに苦しむ妻が夫を──
 介護に疲れた息子が親を──
 夫が生命保険をかけた妻を──
 

 そんなケースもある。ニュースを賑わす一見衝動的な殺人事件は自分で手を下してしまっただけで、他人に請け負わせることでこれらを果たそうという人間も少なからずいるということだ。

「──ある男を殺して欲しいっていう。暫くああいうのを見てると、悪戯かそうじゃないかくらいは区別がつくのね、不思議なことに。で、標的がこの近辺だったこともあって一度どういう内容か調べてみたんだけど」
 小雪が仕事の内容に関わる話をするのは滅多にない。マサルは興味深そうに小雪の前に足を進めて耳を傾けた。
「まあ、よくある種類の依頼のひとつね。ざっくり言うと恋人から別れを切り出されたけどどうにも出来なくて、可愛さ余って憎さ百倍というやつかな。ただ、この依頼人も男だったの」


 小雪はそこで言葉を切ると、マサルの顔をじいっと見つめた。
 

「え」
「どうします、実際にやりますかと連絡を取ってみたら、結局依頼は取り下げられたけどね。多分たまたま──それでもわざわざ探したんだろうけど、あのサイトを見て、衝動的に依頼を入れた。けど実際やりましょうかと言ったら腰が引けたんでしょう。だからその依頼はキャンセルになった」
 そこまで言うと、小雪は何故かにっこりと笑った。

「小雪ちゃん、それってまさか──」

「キャンセルとはいえ守秘義務はありますからこれ以上は言いませんよ」
 

 わざと、仕事用の厳しい声音と口調で言うと小雪は再び酒を口に運ぶ。

 昔、愛する男が自分を捨てて家庭を作ってたからって、相手の男を殺そうとして結局出来なかった殺し屋がいたっけ。

 

 独り言のような小雪の呟き。
 マサルは一瞬肩を竦めて苦笑すると、やっぱつらいよねえ、と呟いた。


*the end*

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*note*

この話は、表のブログに乗せてある「四輪の薔薇」という小説のスピンオフです。これはまあ、特にBLでもなく男女の恋愛がちょっともつれて不幸な事故?事件?で死んでしまうひとりの男性の話なんですが、その被害者がここに出てくる亀崎辰彦という人です。こっちの本文中に、ひっそり谷重バーを舞台にした場面だとか、小雪ちゃんが派遣会社の人として登場したりするのでせっかくだからここに掲載します。

亀崎さんはバツ2の上新しい彼女と同棲中に亡くなったわけですが、実は最初の妻の高校の同級生で親友である岸本とちょっとデキてた時期がありました…という完全自己満足な裏話。貴也は本当に普通に善良な小市民なので、多少恋愛沙汰がもつれたからって本当に相手を殺したりはしません(Sincoの人たちを見てたらすぐ殺しそうだけども!)まさか本当に死ぬなんて思ってなかっただろうしね…。

ちなみにこのスピンオフ元の話の谷重バーの場面にもう一人いるロマンスグレー(死語)の常連客と、辰彦が死んだ日によしねが見かけた「大槻と一緒にいたサラリーマンか会社の役員っぽい眼鏡の男」は実は睦月さんです。つまりこっちの表シリーズ(「四輪の薔薇」と「オールド・グランダッド」)はこのSincoの世界と同じ場所で土地も同じだったりします。そっちに出てくる高山刑事も実は(殺し屋の溜まり場だなどと知るよしもなく)谷重バーの常連なんですよね。もしかしたらシゲさんのことも知ってるかもしれないし康平とかと顔見知りかも。

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