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Sin.co   The Name of the bar is;

残 響
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 この店に最初に足を運んでから46日目。
 回数にすると13回目である。
 およそ三日に一度は通っている計算になる。
 しかし、目的はまったく果たせる気配がない。

 

「何か新しい酒でも?」
 目の前のグラスが空になって随分たったせいだろう、氷が全部溶けて水になってしまっていた。
 カウンターの中のマスターがそう声をかけてきたのでようやくそれに気付いて、同じものを頼む。新しい酒を目の前に置くと、マスターはカウンターから出て店の隅に向かった。それをぼんやりと目で追う。奥においてあるピアノの前に座ると、マスターは無造作にすら見える動作で鍵盤を叩き始めた。その横でまだ二十歳そこそこの若い痩せた男がサックスを吹き始める。
 決まった時間にライブを聴かせるといったものではないが、レコード代わりにあの若い男がサックスを吹いていることが多い。マスターはピアニストらしく、店が忙しくなければ──そして興にのれば、ああしてピアノを弾きはじめたりもっと調子がよければ歌ったりもしている。
 ピアノの脇には、古そうなウッドベースが置いてあるが、あれを誰かが弾いているのはまだ見たことがない。

 どこにでもある──と言えるかどうかは疑問だが、なんということのないバーだ。

 自分にしては悠長だなと少しは思う。
 こんな風に無為にここへ通っていてもし目的の人物に出会えたとしても、それは大きな成果に結びつくとは思えない。
『普段の自分』はそう戒めている。
 これは、『無駄』だ、と。
 それでも、もしかしたら次は──と不確実な可能性を思い浮かべてはまたここで酒を何杯か飲んで帰るだけの日々を46日間も送ってきてしまったわけだ。
 そろそろ、『自分』に対する言い訳が苦しくなってきた気がする。

 考え事をしながら──気付くと、数人はいたはずの他の客がいなくなっていた。
 なんということだ。
 人の出入りに気を配るためにここに座っているというのに、人の動きに気付かぬほどに何をぼんやり考え事をしていたというのだろう。
 マスターは、客のそういう空気には敏感なのだろう。考え事をしていると見てとれば、その邪魔をせぬようにまるで話し掛けてこようとはしなかったのだ。
 こんな調子ではどうにも埒があかない。深入りは避けた方が良いかと思っていたが、このままでいるより何か、多くの常連客のひとりではなく何かもうひとつこの店との接点を作って事態を動かした方がよさそうだ。
 意を決して顔を上げ、マスター、と呼びかけた。

「あのウッドベース、あれを誰かが弾いてるのを見たことがないんですが、誰かベーシストがいるんですか?」
 マスターは意外そうに──おそらく、ずっと深刻そうに考え事をしていた内容がそれなのか、と思ったのだろう──微笑んだ。

「いや、たまたま安く手に入っただけでね。俺も弾けないわけじゃないが誰か決まった使い手はいませんよ」
「もし都合悪くなかったらちょっと弾いてみていいですか?ウッドベースはあまり触ったことがないんですが以前ベースギターをちょっとやってたので興味があって」


 ベースギターを弾いたことがあるのは事実だ。まだ十代だった頃、ロカビリーやグループサウンズなどのバンドをやっていた連中と仲良くなって一時よく遊んだり、道場破りよろしくジャズ喫茶だのゴーゴー喫茶だのを荒らして回っていたことがあった。その時に、ギターやベースは一通り教わって簡単な曲なら演奏に参加出来るくらいにはなっていた。

 とは言ってもウッドベースは全く別の楽器と言ってもいい。
 マスターは快く許可してくれた。
 おそるおそる手を伸ばし、弦を1本はじいてみる。
 金属音というには柔らかな、太い音が鼓膜を揺さぶった。
 心地いい音だ。
 殆ど使っていないため、弦は大きく緩めてあった。


 ふと顔を上げると、マスターがそこに立って無言で音叉を差し出していた。それを受け取るとマスターはそのままボックス席のソファにどっかりと腰を下ろす。サックス奏者は自分の楽器を大切そうに磨きながら、カウンターの椅子に腰掛けてやはりこちらを見ていた。
 受け取った音叉を弾き、涼やかな金属音とその残響に太い弦の音を重ねてゆく。

 一緒に遊んでいた連中の中でちゃんと音叉で音を調律して弾いていたのは確かリーダー格のギタリスト一人だったような気がする。彼が合わせた音に、他のメンバーが合わせていたのだ。面白そうだったのでやり方を教えてもらったことはある。

 しかしこれではどうせ素人同然だということはマスターにはすぐにバレてしまうだろう。まあいい、別に相手はライブの出演者を募集しているわけではないし自分もそれに応募しているわけでもない。素人だがちょっと触らせて欲しいと言っただけなのだから。 


 柔らかだった音が少しずつ緊張感のある音に変わる。
 弦をはじいてそれを確かめるたび、まるで何かの生き物の鼓動を聞いているかのような気がした。

 昔遊んでいた時には特にその楽器の”音”に惹かれることはなかった。

 この楽器はこんなに身体の中に沁み込んでくるような音を出すのか。

 ただランダムに弦を弾いているだけなのに、目を閉じてその音を吸い込む。

「そいつに惚れたか?」

 マスターが笑い出しそうな顔で言った。

「あんたにやるよ。ここに置いといて好きな時に弾きにくればいい」
「え……」
 

「今の顔、見せてやりたかったよ。惚れた女を抱いてる時みたいな顔になってた」

 何言ってるんですか、よしてくださいよ。
 照れ隠しのような言葉が上滑りして流れる。

「そいつをそこに置いといたらな、客はわりと気軽に、勝手に触ってくんだよ。珍しいからちょっと鳴らしてみたくなる。あんたみたいに礼儀正しく扱ってくれたのは初めてなんだ。そいつも喜んでるだろうよ」

 マスターが驚くほど嬉しそうな顔をしているのを見て、更に照れが増した。
 照れどころの騒ぎではない。今まで感じたことのないような羞恥。比喩でよく使うが顔から火が出そうというのはこういうことをいうのだろうかと思う。

 

 ずっとずっと長い間誰の前でも開いたことのない扉をうっかり開けているところを見られてしまった──

 

 あまりの恥ずかしさに逃げ出したくなったが、かろうじて持ちこたえた。
 ちょうどいいではないか。マスターが許可してくれたのだ。これでいつここに入り込んでも不自然ではなくなった。
 そう自分に言い聞かせ、一旦深呼吸して再び楽器に集中する。


 何分くらいそうしていたのか。
 マスターは機嫌の良さそうな笑みを浮かべて大きく伸びをした。
「まだまだ人前で聞かせられる感じじゃねえなぁ。でもまあ、連のサックスだって素人に毛の生えたようなもんだ。ちょっと練習して合わせられるようになったら演奏に参加してくれるとありがたいな。どうだ」

 え、と顔を上げる。

「──演奏させてくれるんですか?」
「もうちょっと上手くなったらな」
 マスターと手元のウッドベースをちらちらと見比べる。
「おっしゃ、それでいこう。で、あんたの名前は?何て呼べばいい?」


 うっかり普段使っている名前を言いそうになって口篭もり、一瞬考えて──
 

「ハジメといいます。漢数字の一と書いてハジメ」
「イチニイサンのイチね」

 それ以来、「ハジメ」と名乗ったにもかかわらずマスターには「イチ」と呼ばれるようになってしまった。

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「いっちゃん、算数教えてよ」

 店の奥からマサルがひょこっと顔を出した。
「こら、店には顔出すなって言ってるだろ」
「お客さん少ないからいいじゃない。宿題でわかんないとこがあるんだもん。いっちゃん教えてよ」
 谷重──マスターは名を谷重といった──の諌める声を全く意に介する様子もなく、マサルはにこにこと微笑んでハジメを手招きした。

 ウッドベースを「譲り受けて」から以前よりもっと頻繁にこの店、”谷重バー”に出入りするようにはなった。どうかすると毎日のように通っている。


──で、僕は何をしてる?


 店からの帰路にはいつも自問自答した。
 ここに出入りし始めたそもそもの目的は全く達成されないままなのだ。

 それでもこの店の扉を開けて一歩足を踏み入れた瞬間からいつのまにか自分はすっかり「ハジメ」という人間になってしまって、ただのベーシストとして彼らと接し、会話し、笑った。

 そうやって過ごしているうち、ここには実に様々な人間が出入りしていることが改めてわかったのだが──ひとつ意外だったのは、谷重が小学生の少年を養っていることだった。まるで生活臭さのない男だと思っていたので、谷重にそういう家庭があるということにはいまだに違和感がある。


「おう、マサル。俺が教えてやろーか?」
「やだ。連ちゃんバカだもん。いっちゃんの方がいい」
 サックス吹きの若い男、連がマサルをからかおうとしてやり返されている。
 ただ、連は先日気管支炎をこじらせてまだ通院中で、現在はサックスを吹くことは控えているところである。
 ハジメは苦笑して谷重に目で合図し、マサルに伴われて階上に上がった。

 マサルは谷重のことを「シゲ爺」と呼んでいる。いくら子供から見ても爺と呼ばれるほどの年ではないだろうと思うのだが、頬をうっすら覆う無精髭や深く刻まれた笑い皺のせいでけっこうな爺さんに見えるのかもしれない。谷重はマサルのことを詳しくは語らないが昔の友人の子供で身寄りがなくなったからひきとったと言っていた。しかし常連でマサルの存在を知っている者は皆、マサルは谷重の息子だと思っているようである。
 それを言うなら、連もやはりこの店の階上で彼らと共に生活している。こちらは弟というには年が離れすぎているし息子というには少々近すぎるような気がする。
 ただ、ハジメも彼らと谷重との関係を深く追及する気もないし、特に必要な情報であるとも思わないから踏み込んで尋ねることはしていない。逆に自分のことを追及されると面倒だから互いに踏み込まないのが良いだろうと思う。

 マサルの部屋に入り机の上を見ると、算数の宿題はもう終わっていた。
「わからないところって?」
 パラパラとノートをめくってみても、苦戦した形跡もなく難なく終わらせたようなノートでしかない。マサルは学校の成績のいい利口な子供なのだ。
「嘘だよ。宿題なんて全部終わっちゃった。だって、店が終わるまで退屈なんだもん。何か遊んでよいっちゃん」
「遊んでって言ったって、もう11時前じゃないか。もう寝れば?」
「やーだ。まだ眠くないもん」
 子供っぽい我侭を言っているようで、少しも嫌味がない。整った顔立ちと可愛らしい笑顔でそんな風に言われればあまり厳しいことも言えないというものだ。確か来年には中学に上がるというから12歳くらいなのだろうが同年代の少年より幼い。声変わりもまだで、どうかすれば少女のようにすら見える。
 もっとも、一学年下の少年をひとり知っているがやはり年より幼く見えるのでどっこいどっこいかもしれない。ただし、あちらはもっと腕白で横柄だ。

「……いっちゃんは彼女っているの?」
 不意をつかれたように細い目をぱちぱちさせてマサルの顔を見る。
「いや、いないけど……」
「ふーん。なあんだ」

 何がなあんだ、なんだ。
 ああ、そろそろ色気づいてくる頃なのか。クラスで好きな女の子でもいるのだろう。
 しかし生憎、小学生の恋愛相談に乗る気にはならない。そんな可愛らしい思い出もない。

「宿題が終わってるなら僕は降りるよ?まだお酒飲みかけだからね」
「待ってよ、いっちゃん──」
 ドアを振り返ったところでハジメの黒いセーターの脇のあたりを引っ張られた。伸びるから引っ張るなよと思いながら見下ろすと──
 先ほどまで無邪気な笑顔を溢れさせていたマサルは妙に真剣な顔でハジメを見ている。


「ねえいっちゃん、『キス』しない?」
「何だって?」
「『キス』だよ。『ちゅう』」
 

 そりゃあ、この店には女性は殆ど来ないけれど。
 試すにも頼む相手が違うだろう。
 それにしても近頃の子供はませている。テレビドラマか何かで見て興味をそそられて試してみたくなったというところか。少し可笑しくなった。
「別に僕で練習しなくてもいいだろう?僕は男だよ?」
 マサルは大真面目のようなので、出来るだけ笑いをこらえて頭を撫でてやる。するとマサルは口を不満げに尖らせて呟いた。
「けち。康ちゃんはしてくれたのに」

「──え?」

 びりっと、腹の真ん中を電気が通ったような気がした。

──まさか。

「マサル──コウちゃんて──誰?」

 少女のような可愛らしい顔を不満げに曇らせたまま、マサルは怪訝そうにハジメの目を見つめ返した。


「康ちゃんは康ちゃんだよ。いつも7時ごろに来て、いっちゃんが来る前には帰っちゃう。名前なんて知らないけど、シゲ爺はこーへーって呼んでる」

 下唇を噛み締める。
 心拍数が上がった気がした。

​ 一瞬で汗が背中に吹き出したのを感じる。

 なんてことだ。
 こんなに長い間ここに通っていたのに、
 ずっとすれ違っていたことに気付きもしなかったのだ。

 不満そうなマサルを残し、ハジメは階下へ降りた。

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「お、どうした。今日は早いな」
 谷重バーの開店は6時である。
 いつもは9時や10時に来て、閉店の1時までいて、そこからウッドベースの練習をする。
 閉店間際にようやく来ることもある。
 しかし、今日は開店直後に来てみた。
「うん、近くを通りかかったから。たまにはいいでしょ」
 誰も悪いなんて言ってねえだろ、と笑いながら谷重はカウンターを拭いている。

 マサルが言っていた「コウちゃん」が7時ごろに来るというのなら、その時間を狙えばそのうち会えるはずだ。

──会って、どうするつもりなんだ。

 何か、訊くのか。
 訊いてどうするのだ。
 それとも──有無を言わさずなにも訊かず、殺すのか。

 ただ闇雲に彼にとにかく会わなければと、それだけを考えていたことに今更気付く。
 自分がこんなに考えなしに、それでいて執拗に、行動することがあるということがひどく不思議に思えた。

 とにかくスコッチウイスキーを一杯頼んで、それに一度口をつけただけでじっとそのグラスの中の液体を見つめる。それが半分も減らないうちに席を立つ。落ち着かないので他の客が来るまでとウッドベースを触っていよう。

 ベースの筐体をそっとひと撫でするとハジメは目を閉じて弦をはじき始めた。それを谷重は黙って見つめている。

「ただいまー」

 重そうな木のドアを開けて、マサルが帰ってきた。
 この店には裏口が無いので、マサルも出入りはこの扉を使っている。
「あ、いっちゃんだ。こんな時間に珍しいね」
 谷重と同じような事を言って、マサルはカバンを下ろしジャンパーを脱いで当たり前のようにカウンターに腰をかけた。昨夜のことなどもう忘れたかのような態度である。
「喉かわいた。シゲ爺、グレープフルーツちょうだい」
「飯は上に置いてあるぞ」
「うん。あとで食べる。あ、そこで康ちゃんに会ったから連れてきたよ。外で電話してから来るって」

 どきり──とした。

 しかし、そんな動揺は表に出さない自信はある。”普段”から「何を考えているのかわからない」と言われているほどだ。
 そう、あくまで”僕”がここにいるのは偶然なのだ。

 ハジメはウッドベースをスタンドに丁寧に置き直すとカウンターに戻った。とうに氷の溶けてしまっていたはずのウイスキーは新しいものに取り換えられていた。

 きい、と木の軋む音がして再びドアが開く。
 一人の男が入ってきた。

「あー、寒い。シゲちゃん、なんかあったかいもん無え?焼酎のお湯割りでもいいや」
「おまえなあ、ここは居酒屋じゃねえって何度言えばわかるんだ」
「あるのはわかってんだよ。ケチケチせずに出してくれよ」

 聞き覚えのある声がカウンターをまたいでいる。
 ゆっくりと、あくまでゆっくりとそちらへ顔を向けてみる。
 男は、ようやく「先客」に気付いたように”ハジメ”を見た。
 そして一瞬怪訝な顔をして──

 息をのんだのが判った。

 

「あ、康平は初めてだな。こいつだよ、夜にウッドベース弾いてくれてる。イチだ」
「イチ……?」
「……”ハジメ”です、よろしく」
 思い切り、微笑んで見せた。

「康平」は、伸ばしていた髪を短く刈り、高級そうなスーツや時計を身につけている。知っている康平のイメージから随分変わったようだ。ただ、童顔は変えようがない。身なりは立派でも就職したての若造のように見える。

 

 康平は一瞬谷重の顔を盗み見するように視線を動かすと、一旦座った椅子から立ち上がり”ハジメ”の腕をとってぐいと引っ張った。
「ちょっとこっち来い」
 ピアノの置いてある店の奥のボックス席までハジメを引っ張って行くと、康平は今にも掴みかからんばかりに顔を近づけてすごむ。もっとも、ハジメはそんな威嚇には動じない。むしろ実際に姿を見て、それまでうじうじと思い悩んでいたことが吹っ飛んだかのようだった。

「──どういうつもりだ、”睦月”?こんなとこで何してる」

「嫌だなあ、康平さん。それはこちらの台詞ですよ。僕は全くプライベートで来てるんです。あんまり事を荒立てないで下さいよ。ここはうちの縄張じゃないのでわざわざ気を使って偽名まで使ってるのに」


 驚くほどすらすらと言葉が出てきた。

 この調子だ。これがいつもの”睦月”のペースではないか。
「そんなことより、久しぶりじゃないですか。何年振りかなあ。突然姿を消してしまって、心配してたんですよ」
「嘘つけ。誰が俺の心配なんかするもんか」


 見慣れた、拗ねた顔。
 いつまでも何もかもが気に入らないと思っている不良少年のような顔。

 康平は一旦睦月から顔を逸らすと大きく息を吐き、向き直った。不良少年から一丁前のヤクザに出世したような顔になっている。そのまま睦月の目を真っすぐ睨んでいる。
 

「おい、おまえらも『ユウヒ』に目をつけたんじゃないだろうな」

──『ユウヒ』?

 どこかで聞いたような言葉だ。いや、名前だ。
 康平は睦月の顔を探るように睨め回していたかと思うと、ハッとしくじったとでもいうように少し顔をしかめた。
 しかし今は睦月にとってはそんなことはどうでもいい。
 重たい荷物を持ち上げるような気分で、言葉を探り、選ぶ。

「それより、知ってますか?鷹さんが……殺されたことを」

 康平はたちまち酷く嫌な顔をして──顔を逸らした。”敵”と対峙している時には決して相手から目を逸らさない康平が、顔ごと視線を切った。

 その顔を見ただけで、全ての答えがわかった気がした。

 

「知らねえよ。そんなこと」

「そう、ですか」

 さあ、どうする。
 どうする。
 訊けばいい。

──鷹さんを殺したのは康平さんですか?と。
──何故、鷹さんを殺したのですか?と──

 なのに、その最後の言葉だけが、喉を出なかった。


 どうしても。

 

「康平さん、マサルに手を出したんですか?そういう趣味だったとは知らなかったな」

 出てきたのは、そんな全く関係のない事だった。顔はおそらくいつも通り微笑んでいたのだろう。康平は、明らかに安堵の表情を浮かべた。

 なんてわかりやすい男だ。

「うるせえよ。誰があんなガキに手なんか出すか」

 

 当のマサル本人は美味しそうにグレープフルーツジュースを飲み干し、カバンとジャンパーを抱えて二人の目の前を知らぬ顔で横切り階上へ向かっていた。

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 谷重バーの階上の住人が増えたのはそれから数日後のことである。

 よくそんなに部屋があるなと思ったら、連の部屋に二段ベッドを置いて2人を放り込むという。連は少しふてくされている。

 目の大きな、しかしどこか人を食ったような少年だった。
 連といいマサルといい、いったいどこからこういう少年どもを拾ってくるのか。
 面倒見がいいのか少年好きの変態なのか、実のところはわからない。

 

 ”睦月”はその少年のことは知っている。実際に会ったことは無く資料の写真で見ただけだが、間違いない。彼がそれまで庇護されていた場所から姿を消したことも知っていた。嵯院七哉も、そして紫も、彼の行方をまだ探しているだろう。

 『鷹』の息子が何故谷重のもとに来たのか。

 それは”睦月”にとっては重要な情報であり、”ハジメ”にとってはどうでもいい話だった。”ハジメ”から見れば、店の居候がまた増えた、ただそれだけだ。 

 

 もし鷹と谷重になにかに接点があるとするなら、あの時康平が言った『ユウヒ』という名前が鍵になることは容易に想像はできた。とっさには判らなかったが、その名前は少し調べればすぐに何者を指しているものなのかはすぐに判明することだったのだ。

 つまり、康平がここに通っているのは単なる常連としてではなく他の”仕事”のため。

 それはおそらく”睦月”が属する世界の話だ。

 そしてそれは”睦月”の属する組織にとって、重要な情報の筈だ。

 『鷹』の息子がここにいることとは比べ物にならないほどの。

 それでも。

 この店は、こんなに”睦月”の世界の匂いがぷんぷんしていたのに。

 ”ハジメ”は「この場所」を、”睦月”に渡したくなくて──目を瞑っていた。

 いずれにせよ康平と会うという目的を達成すればもう”ハジメ”が存在する理由が無くなることは最初からわかっていたし、もうここには来ないつもりだった。

 それなのに、またこうして深夜にやってきてウッドベースと向き合っている。
 今日で終わりにしよう、もう明日からは来ないでおこう。

 毎日そう思うのに、また何か忘れ物をしている気がしてここへ足を運んでしまっている。

──僕は何故まだここにいるのだろう。

 ウッドベースの筐体を、恋人を愛撫するように丹念に磨く。
 ”ハジメ”と出会う前には埃まみれでくすんでいたそれは、毎日そうやって磨かれているためにいつのまにか上等の楽器のようにつやつやと輝いていた。
 弦を一本はじく。
 その残響に抱かれるように目を閉じる。

 僕はいつまでもここにいるべき人間じゃない。

 

 不意にピアノの音が聞こえた。
 振り返ると谷重がピアノの前に座っている。


 ピアノの鍵盤は重い。だから、どうしても腕に力が入ってしまう。音を出す時には高くから鍵盤の上に手を落とし、腕の力を抜き指先だけを立てて弾く練習をするのだと──遠い昔、姉がピアノを習っていた頃教えてくれたことがある。
 そのためだろう、ピアノというものは力が必要で、叩くように弾くものだと思い込んでいた。
 谷重のピアノを弾く姿を見て、それは間違いだったのだと気付いた。ただ指が鍵盤を撫でたり軽く弾んだりしているだけに見える。しかしきっとハジメが動作だけを真似てもあんな音は出ない。

 ピアノを弾く谷重の指が好きだ。

 

「おい、この曲知ってるか」
 弾きながら、谷重が言った。
 ハジメは小さな声でいいえ……と首を横に振る。
「即興で合わせてみろよ。そろそろそのくらいできるだろ」
 小さく微笑んでその通りにする。言われなくても、曲が聞こえ始めてからもう頭の中ではベースが鳴っていた。

 谷重は何も尋ねない。

 初対面のはずの康平とハジメが知り合いだったらしいことを、不審に思っていてもおかしくないのに。

 もしかしたら谷重は、”ハジメ”が本当はハジメなどという人間ではなく、明確な目的を持ってここに通い、ベースをネタにうまくここに入り込んだ異物だ──ということなどとっくに気づいていたのかもしれない。それでも谷重は”ハジメ”について一切深入りしてこなかった。

 いや、おそらくは誰に対してもそうなのだろう。

 一見、とても人当たりがよく人が好きなように見える男なのに、本当は誰とも深くかかわってはいないのだ。連ですら付き合いは長くても谷重自身のことは殆ど知らないと言っていた。
 自分のことに立ち入られたくないかわりに、他人のことにも立ち入らない。

 そういう生き方には覚えがある。
 「稔」も「睦月」もそんな風にして生きてきた。
 そして「ハジメ」は、この店にしか存在しない人間だ。

 一曲終わって、谷重が立ち上がる。ハジメもウッドベースを置く。
「コーヒーでも飲むか」
「うん」
 もう深夜の3時になっていた。

 ボックス席のソファに座って立ち上る湯気を見つめる。
 特別なにかお喋りをするわけではないのに、ただこうしているだけで何故か暖かい気分がする。自分が何者であっても、黙って受け入れてもらえたような。


 こんな空気を持つ人間を、もう一人知っていた。
 顔や体格や、多分性格も、全然違う。けれど、もう二度と触れることのないあの暖かい空気に包まれている気がする。

 

 そうか──

 ぽたりと。
 堪える間もなく。
 涙が零れ落ちた。

 それでも、谷重はどうしたのか、などとは聞かない。

 ただ黙って隣に座り、ハジメの頭を抱き寄せて自分の肩にもたれさせた。身動きできず、そのまま肩に顔を押し当てる。
 まるで、何も話していないのに、何もかも、たった今初めて気付いたことすらも、わかっているかのように、谷重は黙って微笑んでいた。


 誰の前でも涙など見せたことはないのに。

 いや、それは「稔」であり「睦月」の話だ。

 ここにいるのは「ハジメ」なのだ。
 ハジメなら、悲しいと思えば素直に涙を流すこともある、それでいいじゃないか。

 

 谷重の指が”ハジメ”の髪を梳るように撫でる。
 それだけのことが、心地いい。

 康平を見つけたいなら、もっと簡単に見つけられる方法を知っていた。
 それなのにこんなに何年もかかって、むしろ本当に見つけてしまうのを恐れているかのように、ただここで『無駄』な時間を過ごしてしまったのは──

 目的を果たしてしまったなら、ここにいる理由が無くなるからだ。
 この暖かい空気を、手放したくなかったのだ。

 

 ようやく涙が止まると、立ち上がって顔を洗った。
 そして、コートを身につけ、ドアのところで深く頭を下げる。

「イチ」

 頭を上げると、谷重は立ち上がりいつものように微笑んでいた。そして、店中に響くような大きな声で言った。

 

「──おまえはいつここへ来てあのベースを弾いてもいいんだぞ。あれは、おまえのものなんだから」

 唇を噛み締め、再び頭を下げるとドアを出る。
 雪がちらついていた。
 何度開けたか知れない古ぼけた木の扉にもたれて空を見上げる。息が白く空へと消えてゆく。

 もう一度深く息をすると、”睦月”はそこから離れた。

 


*the end*

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*note*

本編「銃爪」の章で行き詰って突然出してしまった設定:「睦月はシゲさんの店でベースを弾いていた」を補完するための話です。

後先考えずに突然出してしまった設定だったので、睦月の前後を考えるととんでもなく辻褄が合わないことになってたんですがそこをまあまあ無理くり押し込みました。無理くりのわりに作者はわりとこのエピソードが気に入っています。

「稔」としても「睦月」としてもずっと自分を作って、ほとんど素を出すことなく生きてきた睦月だけど、谷重バーの中でだけ作り出した架空の人物「ハジメ」でいる時だけが実は彼の本当の素顔なんですよね。

いい子ぶってるでも悪ぶってるでも「何を考えてるかわからん」でもない普通の青年であるハジメは、書いててなんだか可愛いくもあり切なくもありました。

​ちなみに裏設定(Anotherでは出てくる)では睦月はこの後、住んでるマンションやちょっとした偽名で活動する時には「北嶋一」という名前を使ってます。多分、北嶋ハジメさんが彼の素顔です。

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