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Sin.co   The Name of the bar is;

ロックグラス.gif

 ヒュー・リグレットバレイという将校が軍でどういった地位にあった人間なのかは結局詳しくは知らず終いである。
 

 船に乗せられ、船酔いと戦いながらようやく陸に上がり、さらにジープに乗せられて暫く走ったがそこは行けども行けどもなんだか焦げ臭く、時折気分の悪くなるような臭いが漂う廃墟だった。
 あまり見ていて気持ちのいい景色ではないので、ヤンキースの野球帽を目深に被って視界を遮った。


「ここはお前の両親が生まれた国だ」
 

 口数の少ないヒューがぼそりと言った。
「親と言われても」
 苦笑する。
 顔も覚えていない親の話をされても困るのだ。
「ヒューは俺の親を知ってるの?」
 答えはなかった。この男はいつも答えたくない質問は無視する。


 ジープがフェンスで囲われた軍の施設に入るまでの何時間かの間、会話はそれだけだった。

 予め用意されていたのだろう、家具や必要なモノなどは全てそろった部屋へ通される。執務室といったところだ。ヘルメットを被って銃を抱えた下っ端の兵が畏まって敬礼するとドアを閉めて行った。一応身分証明書のようなもの──偽造である──とのチェックはされたが案内される間もヤンキースの帽子は深く被ったまま、あまり顔を正視されないようにする。顔を覚えられたくない。

 帽子の型を整えてスタンドに掛けるとヒューはクッションのきいたソファに沈みこんだ。口には出さないが、やはり船での長旅に加えて乗り心地の悪いジープに長時間乗っていたのだから疲れているとみえる。
「水」
 だるそうな声に応えて机の上に用意された水差しの水をコップに注いで手渡す。それを一気に飲み干したのを見て空になったコップを受取ろうと手を出すと、手首を掴んで引き寄せられた。
「……疲れてるなら休めば?」
 自分も疲れている。出来るなら少し横になって眠りたい。しかし、そんなことはお構いなしだった。
 ソファに沈んだまま、ヒューが自分のベルトを緩める。小さく溜息をつくと、その続きは自分の仕事であるかのようにヒューのズボンに手を突っ込み、引っ張り出し、口に含んだ。

 いつの頃からだったか、こんなことは日常茶飯事だった。
 自分の仕事は本当は自分が思っているものではなく、ヒューの性欲の処理や身の回りの世話がメインなのではないだろうかと思うこともある。
「──夜まで待てないのかよ」
 そんな言葉にもやはり答えはなく、本気で抗議する気もなかった。ヒューがその気になったら場所だの時間だのはあまり関係がない。どうせ、無遠慮に侵入してきたヒューに掻き回されるうちにそんなものを気にする余裕も無くなってしまうのだ。
 
 ヒューの気が済む頃には、疲れと眠気でソファにぐったりと倒れこんでしまってそのまま眠ってしまったらしい。

「ユキ」

 

 呼ぶ声に重い瞼をこじあける。
 のろのろと身を起こして視界を巡らせると、ヒューはいつのまにかきちんとデスクに就いて何かの書類を繰っている。どのくらい眠ったものか。事の後眠ってしまった自分をこんな風に眠らせておいてくれるなど珍しいこともあるものだと思った。

 仕事の続きのように一冊の紙束を机の上に投げ出しヒューは初めてこちらに視線をよこした。
「おまえは当分その資料にあるクラブでピアノでも弾いていろ。話は通っている筈だ」
「……で?」
「で、とは」
「俺の仕事は何?」
 まさかクラブでピアノを弾かせるためにはるばる海を越えて連れてきたわけではあるまい。それとも戦争も終わったことだし足を洗って堅気の音楽家にでもなれと?
「追って連絡する。それまではピアニストのふりでもしておけ。ついでに日本人のバンド連中が集まっているからこの国のことをよく教わっておくんだな」
「教わってどうするの?これからはここで仕事するってこと?俺が日本人のふりをして?」

 ヒューは黙って煙草に火を点けた。

「……ふりをして、じゃない。おまえはそもそも日本人だ」
「初めて来たのに」
 ヒューが苛々し始めたのがわかった。あまりしつこく食い下がるとしまいには癇癪を起こす。扱い難い男だ。
「退屈ならクラブに来る兵相手に稼いだ方が金になるかもしれんな。だが摘発されない程度にしておけ」
「なんでそういう嫌味をいう時だけよく喋るかな」

 また黙った。

 むかむかしている。
 何に腹を立てているのか自分でもよくわからないが、ヒューが苛立っているこういう時はこちらも言いようのない苛立ちがこみあげる。
 苛々しているということを気付いて欲しいかのように乱暴に立ち上がり、机の上の紙束を拾うとじろりとヒューの顔を睨みつけた。ヒューの表情はどこも変わらない。
 アメリカ人の感情表現が豊かだなんて絶対嘘だ、とヒューを見ていると思う。
 こういう、何を考えているのか何を感じているのか全くわからないようなやつもいるのだから。

「基地の外で住む場所も確保してある。バンドマンとして出入りしている案内人の方から接触してくる筈だ」
「これ日本用の偽名?周到だね」
「日本人のバンドマンとして基地に出入りするんだから日本人らしい名前は必要だろう」

 じりっとまた腹のむかつきが喉のあたりに上がってくる。
「──どうせ俺には名前なんてないからどうでもいいけど」

 ただ、「ユキ」とだけ呼ばれた。
 暫くは中国人の名前を名乗っていた。敵性外国人の日本人を米軍の将校が連れて歩くなどいかにも怪しいからだ。時には日系人風の適当な名前を名乗っていたこともあるが、そんな適当な名前はこれまでいくつも持っている。どれも本名ではない。中国人だったり朝鮮人だったり日本人だったり設定が変わるものだからそれぞれの言語はとりあえず不自由ない程度に話せるように叩き込まれてはいる。


 確かめたことはないが、どうかしたら国籍すらないのだと思う。自分は社会的には存在しない人間なのだ。
 ヒューが言うから日本人なのだろうが、それだって自分では確認できない。

──ヒューは犬を飼うように俺を飼っている。

 いや、飼い主は犬をもっと可愛がるものではないだろうか。ということは犬以下だ。 
 それでも、ヒューにくっついていれば食いっぱぐれがないということが判っているから、とりあえず言う事を聞いている。餌をくれる飼い主にはしっぽを振った方が得だ。

──俺が自分を犬程度にしているのだからそう扱われても仕方ないか。

 紙束を手に再びソファに戻ると、横になって一枚一枚それを捲る。
「一通り読んで頭に入ったらそれは返せ。処分する」

 

 ヒューの声には返事をしなかった。
 話し掛けられた時には紙束を胸に置いたまま再び眠りに落ちていたのだ。

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 ざわざわと騒がしい。
 船に何日も揺られて極東の外国へ来たはずが、ここにいると自分のホームグラウンドにいる気分になる。
 ただし、暫くは英語が理解できないふりをしなければならない。
 英語の教育を受けていないこの国の若者がいきなり英語を解したら目立つからだ。兵たちにも、他の日本人連中にも。


 こういうクラブは階級や人種に応じていくつもあるらしいが、あまり高級士官の集まるクラブではこれもまた目立ってしまうというので一番出入りの激しいクラブに放り込まれた。見てみると確かに多くの日本人たちが素人同然の演奏を披露したりしている。船旅や何やでずっと指を動かしていなかったから不安に思ったものの、どんなにブランクがあってもこの素人連中の中にあってはユキのピアノはプロはだしと言って差し支えなかった。
 それでも日銭で吃驚するような報酬が得られるというので連中は血相を変えてここへ集まってくるのだという。

「帰りにちょっと飲んでかないか?」

 ユキが放り込まれた即席バンドでドラムを叩いていた男である。
 3日目だった。
「基地の外にもバーボンとか飲める店が出来てんの知ってんだ。つきあえよ」
「──」
「あんたとはもうちょっとお近づきになりたいしね──ユキ」


 ここでは『ユキ』という呼び名は使っていない。

 

──連絡係がこいつか。

 

 極力会話しないようにして外に出る。言葉に不自由はないとは言っても、多く話せば母国語として育ったわけではないことがすぐにばれてしまう。連絡係と言っても全面的に信用していいものかもまだ計り知れない。この男がどの程度ユキのことを知っているか、ヒューがユキのことをどんな風に紹介していたのかも判らぬうちは──


 連絡係の男はフジ、と名乗った。
 基地に入るための名前は確か藤田某というのになっていたように思う。これも当り障りのない偽名だろう。
 フジに連れて来られたのは、基地から遊びに出てきた兵士や、派手な化粧をした日本人の女どもがウロウロしている界隈だった。その店にも兵士の姿が見えるが、外の乱痴気騒ぎに比べれば全然落ち着いている。豊富な種類のウイスキーはおそらく軍からヤミで流出したものなのだろう。

「思ったより随分若いんだな。いくつだ?」
「──」
 フジは肩を竦めた。
「それにしても、なんでわざわざこんなご時世にここで商売しようなんて気になるかねぇ。皆生きてくのに必死で、俺たちの仕事なんてあんまりありゃしないと思うんだがねぇ」
「余計なことは喋らなくていい」
 ヒューのようにどうかしたら必要最低限の事すら言わないのも少々困りものだが、それに慣れているせいかこんなことをべらべら喋る人間は信用できない気がした。
 フジはあまり気にしていないようだ。
「というのは焼け出された貧乏人の話でね、実はうちの元締は政治家やら何やらにコネクションが多いから本当は人手不足なんだ。歓迎するよ」
「──」
「近いうちにひとつ仕事を頼みたい。あんたの腕も見たいんでね」

 仕事───

 ユキはフジの話を聞きながら徐々に事態を把握し始めていた。
 なるほど、つまり今後はフジのバックにいる組織だか個人だか知らないがそこから『仕事』が回ってくるとこういうことか。

──切られた。

 住む場所も基地の外、仕事も地場の組織から、基地に入れるのはあのクラブだけ。ユキの方からヒューに直接連絡を取る方法はない。


 ヒューは昇進したのか降格でトバされたのだか知らないが、とにかく立場上ユキのような凶暴な犬を飼っておくわけにいかなくなったのかもしれない。仕事待ちをさせるふりをして、ていよく追い払われたのだろう。それでも新しい仕事のつてを見つけておいてくれたあたり、少しは親心のようなものがあるのかもしれない。


「もうあいつの相手をしなくて済むんならせいせいするさ」
 フジに気付かれないように小さく呟き、グラスの中のバーボンを一気に呷った。

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 最初の『仕事』は簡単だった。

 なんの障害もなく、指示された場所であっさりと標的を仕留める。手ごたえがなさすぎる。
 しかし、久しぶりの銃の感触は心地いいと思った。
 まだ信用されていないのか、仕事が終わると銃も指定された場所で回収された。

──これを使ってそこいらの人間を殺しまくるわけじゃあるまいし。

 溜息をつくと少し苛々したようにユキはあてがわれた住まいへの帰路についた。仕事が簡単すぎたせいか、どうも胸がもやもやする。
 途中、例の繁華街を通る。路上で乱痴気騒ぎをしている兵たちのわきを通りすぎようとしたら、突然腕を捕まれた。
「キミ、クラブでピアノを弾いてた子だろ」

──危ねえ、銃持ってたら撃ってたかも。

 持っていないというのも正解だったか。
 銃を持っていなくても反射的に格闘の態勢に入ってしまった。
 声をかけた兵は逆に驚いて、しかし酔っ払っているのだろう、大袈裟に肩をすくめて大笑いしている。
「おいおい、カラテかい?そんなに警戒するなよ。俺たちはキミらを解放して自由の国にしてやったんだぜ。もう敵じゃない」
「どうでもいいよ、そんなの」
 吃驚させやがって──憎々しげにわざと日本語で言うと、妙に背の高い白人の兵は酒でピンク色に染まったそばかすだらけの顔を近づけてきてユキの顔を値踏みするようにじろじろと見た。
「いくら出したら俺のベッドに来てくれる?……言ってること、わかるかな?」

──金を出したら何でも言うことを聞くと思ってやがるな。

 眉を寄せて睨むと、その兵はすでに懐から紙幣をを何枚か出してきてユキの目の前をちらつかせている。仲間の兵たちはそれをからかう。ユキはそれを暫く嘲るような気分で眺めていたが、ちらつかされた紙幣を奪い取るように掴んだ。
「ノミやらダニのいるベッドは嫌だよ」
 英語で答えてやると、兵は口笛を吹いてユキの腰を抱き寄せた。


 そういえば、アメリカにいる時には仕事が終わるといつもなんだかんだでヒューのベッドにいたような気がする。あれが俺という犬に対する餌だったのだろうか。
 もやもやしていたのは、仕事に手ごたえがなかったせいではない。
 誰かに抱かれたい気分だったのだ。

──パブロフの犬か。

 条件反射のように、殺しをすることとセックスがセットになっているのだ。
 やっぱり犬か、と思うと笑えてきた。

 


 生暖かく酒臭い息が身体中を這いずり回る。
 この兵はユキの身体を弄っている間ユキの肌がどうの髪がどうのとずっと何か喋っていた。いざ身体を繋げると今度は獣のような声を上げてやたら派手に動く。

──ああ、うるせえ。ちょっとは静かにやれよ。

 そっちに気をとられて集中できず、ちっとも気持ちよくならなかった。 
 しかし、酔っ払いの兵士は満足したらしく、一回果てるとぐうぐうと大きな鼾をかいて眠ってしまった。

──終わってもうるさいな。

 耳に指で栓をしながら、兵士の懐から紙幣を全部抜き取ってポケットに押し込む。
 酔っ払ってる方が悪い。

 部屋を出て今度こそ住みかのアパートへ向かった。
 胸のもやもやは取れなかった。
 それどころか、さらにもやもやが増したような気がする。


 苛々と階段を上がると、誰もいない筈の部屋に灯りがついている。わざわざ灯りをつけているのだから、逆に怪しくないが──がちゃりと大きくドアを開けばたんと閉める。
 案の定、狭い部屋の中にはフジが座り込んでいた。
「こんなとこに勝手に出入りすんなよ。周りの人間に怪しまれるだろ」


 それでもプロか。
 

 ユキの苛々した様子などおかまいなしにフジは読んでいた新聞から目を離すと、側に置いた布袋を足でユキの方へ蹴り出した。
「今日の報酬だ。簡単だっただろう?ま、もっと高度な仕事になれば報酬も高いさ」
 コップに水を汲んで一気に飲み干す。どうもこのフジという男はもうひとつ気に食わない。
「しかし仕事の後くらい真っ直ぐ帰って来いよなあ。帰ってるかと思って来てみたらこれだ。随分待ったぜ」
「──もうひと稼ぎしてきたんだ」
「何?」
 ジャケットの内ポケットからよれよれの紙幣の束をばさりと投げ出した。
「にやけた酔っ払いのアメ公からふんだくってきてやったんだよ」
 フジが何か言いたげな顔でユキを見ている。それを見るとくすくすと小さく声に出して笑った。
「金出して俺と寝たいと言いやがったから相手してやったのさ。そんな事まであんたの元締は取り締まるのかい?」
 急に目のやり場を失ったような顔をしてフジは口篭もった。
 フジの脇にしゃがみ、じっとその顔を覗き込む。
「フジ、あんたの仕事は俺らが仕事をやりやすいようにバックアップすることだよな?」
 悪戯を思いついた子供のように頬を緩めにっこりと笑う。
「だったら、手伝えよ」
「手伝うって──何を──」
 フジが何か言おうとするのを無視して、顔を寄せ唇を塞ぐ。引き結んだ口を唇と舌でこじ開け中へ侵入する。そうしながら体重をかけてそのまま畳の上へ押し付けた。フジは時折微かに抵抗しているが降伏するのは時間の問題だった。


「まだ満足できない。俺を満足させろよ」
 

「ユキ、よせ……」
「心配すんな、あんたに突っ込もうなんて考えてねえよ。女抱いたことくらいあるだろ?ちょっと入れるとこが違うだけだ。あんたはただ寝転がってりゃいいさ、俺が勝手にやるから」
 片手でフジの喉元を抑えつけながら下半身にもう片方の手を伸ばす。ほんの少し弄っただけで充分使い物になりそうだった。
 ぺろりと舌なめずりをしてフジの上に跨る。
 先程の米兵によってすでに熱を持っていたユキは、やすやすとフジを呑みこんだ。

 畳の上に服を脱ぎ散らかしたその更に上に横になったままだるそうに視線を上げると、フジがよろよろと立ち上がって水を飲んでいるのが目に入った。
「──おい、立ったついでに布団敷いてくれよ」
 笑い含みに声をかける。
 振り返ると黙ってフジは押し入れから布団を担ぎ下ろした。それを広げながら、もう帰るからな、と小さな自己主張をする。
「まだだよ」
 敷いてもらった敷布団の上にごろごろと転がるように横たわるとフジの手を握り、引っ張る。


「俺が満足するまで帰さない」
 
 そんな繰り返しで、フジが最後に降参して眠ってしまっても──
 ユキの胸のもやもやは結局消えることはなかった。

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 出番の前にバンドマンたちはめいめい自分の楽器を調律したり指ならしをしたりしている。ユキが所在無げに英字新聞を広げながら指で自分の膝を叩いていると、フジがドラムスティックで肩をとんとんと叩きながら何食わぬ顔でその背後についた。
「……あんまり荒稼ぎするなよ。最近ちょっと噂になってるぞ」
 それだけ接近してやっと聞こえるヒソヒソ声。
「へえ、どんな噂?ちょっと金をちらつかせてやったら誰とでも寝るって?」
 ちらりとフジの顔を見上げるとにやりと笑う。平静を装おうとしてもどぎまぎしているのがわかる。
「……とにかく、あんまり目立つことはすんな」
「一応、気をつけとくよ」
 それこそこんなところでいつまでも言い合いする内容ではない。

 ステージの声がかかった。

 多少ましにはなってきたものの、まだ素人のような演奏。ユキがピアノを弾いていなければ聞くに堪えないものになっていたかもしれない。
 しかし、クラブに集まる連中は別に音楽の演奏を真面目に聞こうと思って来ているわけではない。スウィングだのジャズだのブルースの雰囲気が出ていればそれでいいのだ。


 正直なところ、ユキは嫌気が差していた。
 どうせやるならもう少しまともなメンバーで演りたい。
 しかしその一方で、ただピアノの鍵盤を叩いている時だけは何もかも忘れられる気がした。

 そういえば、そもそもヒューの家にピアノがあったのだ。
 あれは誰のものだったのだろう。
 ヒューは自分ではピアノは弾かなかった。
 ただ音楽は好きだったのかもしれない。色んなジャンルのレコードを所蔵していて、よく聴いていた。
 初めて無断でピアノの蓋をあけて音を出してみた時にヒューに見つかって、叱られると思って縮こまっていたら叱られるどころかピアノに関してだけは好きな時に自由に触ることを許してくれた。
 銃の扱いも身のこなしも何もかも、ヒューがユキに要求するのはいつも高いレベルだったしそれに到達できなければいつもとんでもなく厳しかったが──ピアノだけはどんなに下手くそでも何の文句も言わずに好きなように弾かせてくれていた。


 あれは何故だったのだろう。
 理由はわからないが、ピアノに向かっている時だけはヒューの前でも子供でいられた。

 

 指を動かしながら、そんなことをふと思い出していた。
 ヒューのことを思い出している自分に気付いて、ちっと舌打ちをする。

──知るか、あんなやつ。

 ヒューに連れられて日本に来てからすでに何ヶ月か経過している。
 その間、一度もヒューからは連絡がなかった。

 決められた曲数を終了してふとフロアに目を移す。時には自分の楽器を持ち込んで飛び入りでセッションに参加する者もいるが今日は平穏なもので、フロアにいる者の半分もステージを向いていなかった。
 入口近くのバーカウンターあたりにも立ったままビールやウイスキーを傾けている連中が会話に興じたりしている。ぐるっと視線を一周させて、そのバーカウンターの隅でぴたりとそれが停まった。

 突然鼓動が駆け出したように早くなる。

 他のメンバーも撤収しようとしているのを押しのけるようにそこから降り、カウンターへ向かった。
 ごった返すフロアの、殆どがユキよりも格段に背の高い連中に視界を遮られ進路を阻まれ、ようやくバーカウンターに辿り付いた時には──
 もう、その姿はなかった。

 そのまま出口を駆け出す。
 外へ出て周囲を見回してみたものの──
 どこにも、その姿はなかった。

「──ヒュー!」

 見間違いではない。確かに、あそこにヒューがいて、ユキのピアノを聞いていた。
 一般の兵の集まるクラブである。
 ヒューのような将校がいるわけがない。
 それでも、間違いなかった。

 ユキが行動し得る範囲を走り回る。

 しかし、ヒューの姿は無かった。

 ぜいぜいと息を切らして、フェンスのところでようやく立ち止まった。
 フェンスの金網にもたれて、夜空を見上げる。
 汗で髪までじっとり濡れている。

 せいせいしたと思っていたじゃないか。
 もうヒューの相手をさせられるのはうんざりだって、そう思っていたじゃないか。

 それなのに何故こんなにも必死にその姿を探している?

「なんでだよ……」

 小さく言葉がこぼれた。

──俺、いい子じゃなかったけど、いい犬だったろ?
──あんたがやれって言った事、全部ちゃんとやってきたじゃないか。
──あんたの命令は、全部完璧にこなしてきたじゃないか。

 遠く月が滲んだ。

 俺はいい犬だったろ?

 なのに、なんで俺を棄てるんだよ。
 なんで、俺が要らなくなったんだよ──

 両の目尻から涙が溢れてつたい、耳に到達する。
 拭うのも忘れて、ユキはそのまま目を閉じた。

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 巨きな体躯をぴしりと直立させて敬礼する。


「楽にしたまえ、バワーズ君」
 

 バワーズと呼ばれた黒人兵士は脚を開き背後で手を組んだが変わらず背筋を逸らさんばかりに伸ばして"休め"の体勢を作った。
「さて、君はこの基地の武器弾薬管理を担う部署に配属されているわけだが──」
 バワーズの顔に緊張が走っている。
「そう畏まる必要はない。私は君を弾劾するために呼んだわけではない。が、君がその任務を利用してやっていることは判っている」
 白人の将校はにこりともせずにデスクの机から一通の封筒を取り出した。
「取引をしたい。君がしている事の証拠はすべて私が握っている。これを隠滅すれば、ひとまずは君が裁かれることはあるまい。その代わりに、この書簡をある人物に届けてもらいたい」
「書簡……手紙でありますか?」


「君は、ヒロユキ・タニシゲという日本人のピアニストを知っているかね」
 

 バワーズは一瞬眉を寄せて考え込んだが急に目を見開いて笑顔を見せた。
「ああ、何度か黒人のクラブでも演っていた子ですね。一度、自分がサックスを吹いてセッションしたことがあります」
「その子にこれを渡してもらいたい。ただし、条件がある」
 封筒を差し出しながら、やはりにこりともせずに将校は念を押すようにゆっくりと言った。


「今日は金曜日だ。だから、週明けの月曜日までは君に預かってもらう。月曜にはヒロユキは普段通りバンドで来る筈だ。その日に渡して欲しい。必ず、次の月曜日に」

 

 奇妙な条件だ、と思った。
 おそらくそのヒロユキというピアニストの所属しているバンドは今日金曜にも来る筈だが──今日ではなく月曜に渡せ、と将校は言う。
 しかし事実上、バワーズに選択権はなかった。
 これを拒否すれば、軍法会議が待っている。
「了解しました、大佐」
 バワーズは恭しく封筒を受取ると再び姿勢を正して敬礼した。
「ああ、バワーズ君──」
 退出しようとしたところに再び呼び止められる。

「"ユキ"に──いや、ヒロユキに──」


「はい」
「いや、なんでもない。下がりたまえ」

 内心首をかしげながら、バワーズはその部屋を後にした。

 バワーズがその将校──ヒュー・リグレットバレイに関するニュースを聞いたのは月曜の朝のことである。

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 月曜の夜、出番が終わってその日のギャラを受取ると、バンドの連中はそれぞれに帰途についた。


 あの時見たヒューの姿は目の錯覚だったのか、それとも本当にあの店に来ていたのか、結局確認する手立てはユキにはなかった。さすがにカウンターのバーテンにヒュー・リグレットバレイが来ていたかどうかなど尋ねるわけにはいかない。

 

──もう、やめようか。

 考えてみれば、フジが連絡係で直接仕事を持ってくるのだから、いつまでも基地でバンドに参加している意味はないのだ。
 ただ、これをやめてしまえばピアノを弾く場所が無くなる。
 だからやめられずにいるだけだった。

 基地を出て暫く歩いて街にさしかかった所で、黒人兵士が一人歩み寄って来た。

「やあ、俺のこと、覚えてる?」
 いきなりなんだ、と思って顔をまじまじと見上げて暫く記憶を辿る。
「ああ、この間サックスで……」
「そうそう。ブライアン・ジュード・バワーズ。BJって呼ばれてる。よろしく」
 黒人は人懐っこそうな顔で大きな右手を差し出した。
「……ヒロユキ・タニシゲ」
 自分も手を出し、握手に応える。
「で、何の用?あんたも俺を買いたいの?いくら出す?」
 面倒臭い。とっとと本題に入ってくれ。
 手を握ったままにやりと笑ってやると、バワーズは大袈裟に肩を竦めて苦笑した。
「違うよ、キミ宛てに預かりものがあるんだ」
「預かりもの……?」

 バワーズはバッグから大切そうに白い封筒を出し、ユキの目の前に差し出した。

「これを」
 

 受け取って裏返す。
 まるで寸分の歪みもなく閉じられた封。
 暗褐色の蝋でさらに封印されている。
 この蝋も、その上に押された印も、見慣れたものだ。

「ヒュー……」

 封筒の表にも裏にも何も書かれていなかった。
 しかし、この封筒も封印も、ヒューのものに違いない。
 ユキは封筒を握り潰しそうになりながらバワーズにつき返した。

「こんなもん、いらねえよ。返してきてくれ」

 今更、手紙など。
 俺を棄てたくせに、手紙なんかで何を命ずるつもりだ。

 

「ダメだよ。受け取ってもらわないと」
 バワーズは頑として受取らない。
 ユキはぎりっと唇を噛み締めると封筒を真ん中から破──ろうとした。それをバワーズが咄嗟に制止する。

「ダメだよ、読まなくちゃ!」
「おまえには関係ないだろ!破ろうが燃やそうが俺の勝手だ!」


「ダメだって!大佐の最後の手紙なんだから読まなくちゃ!!」

 

 ぴたり──
 動きが止まった。
 バワーズの顔をゆっくりと凝視めると、バワーズの小さな目は大洪水を起こしていた。
「……なんだって?」

「大佐は──リグレットバレイ大佐は、死んだんだよ」

 この男は、何を──

「何、言ってんだ?」
「今朝早く──拳銃自殺した」
「まさか」

 ヒューが自殺?
 あのヒューが?
 他人を踏みつけても生きていそうなあの男が?

 

「嘘だ──」
「俺も信じられなかったけど……でも、その覚悟があったから、その手紙を」


 月曜の朝に死ぬつもりだったから、その後にユキに届くようにとヒューはこの手紙をバワーズに託したのだ。

「ほとんど機密事項だから詳しくはわからないけど、大佐は本国にいた頃色々と軍規違反を犯していて──その容疑が固まったから今日逮捕されることになっていたらしいんだ」
 バワーズがこれだけの情報でも得るには随分と裏から探り回ったのだろう。それでもやはりこれ以上の情報は得られなかったという。

 体がぶるぶると震えている。
 指先まで震えた手で、びりびりと封を切ってゆく。

 やはり見慣れた便箋に、見慣れたかっちりとした活字のような文字が並んでいる。
 心臓が口から出そうだ。

──ユキへ

 冷や汗で全身がびっしょり濡れている。

 

『 ユキへ

 この書簡を読んだ三日以内に基地内のクラブからは手を引くように。
 合衆国内での仕事の資料は全て処分済。
 但し君を覚えている人間がいる可能性がある。速やかに基地を離れ、軍とは関わらぬように。
 君の現在の名は当方のどの資料にも残っていない。ピアニストの登録としては残ってしまうがふらりと居なくなるミュージシャンもおり、出入りしなくなっても追跡される怖れは無いと思われる。

 尚、君の現在の名は、君の本名である。
 君の両親が君の為につけた名であり、誇りに思い大切にするように。

 この書簡は読んだ後すぐに処分すること。』

 


「──何だ、これ……」

 呆然と文字を追う。
 遺書というにはあまりにも事務的だ。

 最後の最後まで、ヒュー・リグレットバレイそのものではないか。
 たった一枚の遺書だというのに。

 おそらく、戦時中にアメリカでユキがこなしてきたヒューの『仕事』の多くは、ヒューの個人的な『副業』だったのだろう。あのヒューが何のミスを犯したのかは判らないが、上層部にそれを掴まれ、逮捕される前に自ら命を絶ったのだ。ユキにその追及の手が及ばないように周到に証拠を処分しながら──

 この便箋の下端に、本文のかっちりとした活字のような文字とは対照的な、走り書きのような追伸を発見する。

「どこへ………」

 無意識に声に出して読んでいた。


「どこへ行ってもピアノを弾いていなさい。
 そしてもっと笑っていなさい。
 私は君のピアノとえくぼがまあまあ気に入っている……」


──なんだよ。

 自分の頬を指でなぞる。
 ちょうどえくぼの窪みの部分で指を止める。

 ああ、そういえば──
 まるで気付いていなかったけれど、ヒューはよくこれに触れていなかったか。

「まあまあ気に入っているって何だそれ……」

 笑えてきた。


 可笑しい。こいつ、可笑しい。
 これだけ書くのにきっとものすごく迷ったのだ。
 本文のようにかっちりした字で書くのはきっと酷く恥ずかしかったのに違いない。
 だから、こんなに走り書きみたいに。
 どうでも良い事みたいに。
 どんな文書にだってこんな走り書きの書き添えなどしなかったくせに。


「ユキ……?」
 突然笑い出したユキを心配するように、バワーズが顔を覗き込む。
「だって、想像してみろよ!あのヒューがどんな顔してこれを書いたと思う?くっそー、見たかったなぁ」
「ユキ……」
 バワーズが不意にユキの身体を抱き寄せて胸に押し付けた。バワーズの巨躯ではユキの顔は肩にも及ばない。

 可笑しくて笑いが止まらない。
 笑いと一緒に流れ出たユキの涙は、どんどんバワーズのシャツに吸い取られていった。

 あの時あのクラブに現れたヒューは、最後にユキのピアノを聴きにきたのだろう。
 どうせ最後なら、もう一度抱いてくれればよかったのに。
 好きなように中を掻き回して、えくぼにキスして、気を失うほどに。
 それでも、不必要に接触してユキに少しでも疑いが向かぬよう、黙って去っていった。


 飼い主は犬をもっと可愛がるものではないだろうか──?
 いいや、あの飼い主は彼なりに、彼の犬を最大限に可愛がっているつもりだったのだ。


 そっとバワーズの胸から離れると、ユキはごそごそとポケットを探り──ライターを取り出した。
 高級品だが、ユキを金で抱いたどこかの兵からせしめたものだった。
 かちりと涼しい音を立てて蓋を開け、火を灯す。
 その火に、すでにくしゃくしゃになりユキの涙でインクが滲んだ便箋を翳した。

「ユキ、何するの?!」
 バワーズが慌てた声を出す。
「これを読んだらすぐに処分しろって、書いてあったろ」
「でもこの手紙は──!」
 そう言っている間に、便箋にも封筒にも火が燃え移り、めらめらと大きな炎に包まれた。

 ぽとりとその火の塊を地面に落とすとユキは手の甲でぐいっと顔を拭い、バワーズの顔を見上げて──


 にっこりと微笑んだ。

 

「いいんだよ、俺は──ヒューの犬なんだから。命令には従う、それだけさ」

 頬に、えくぼが窪んでいる。
 ユキは頬に手をやって、それをそっとなぞった。

*the end*

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*note*

考えてみたら、シゲさんがアメリカ生まれでって設定いつ考えたんだっけ、覚えてません。「谷重」でBJを出したあたりでうっすら考えてたのかな。進駐軍のクラブでピアニストをやってたっていうのはなんとなく考えてて、この話のベースになるものを書いていた時に「クラブ進駐軍」という映画を見たので少し参考にさせてもらったというか空気感の想像の助けになりました。どうせ米軍のことなんかよくわかんないしだいぶ適当に書いてます。はい、これ異世界なんで。

それはともかく、この時のユキは実はまだ十代(15~6くらい?)。幼少期から子供扱いされずに育ってきたし言うなら現代の中学生くらいの頃からすでに殺しの仕事もやってたからすでに言動がいっちょまえです。つまりヒューは完全にショタじゃないか!!!ということになるんだけどまあ、そこはそれ色々と。本当はヒューが恋しいしちゃんと可愛がって欲しかったんだよね、ユキは。​恋人でも父親でもなく、飼い主が犬をよーしよしってわしゃわしゃするみたいな可愛がり方でいいから愛して欲しかったんだよね。「手紙」で「そういう種類じゃない」って言ってたのはそういうこと。恋人みたいな愛じゃないけど、絶対消えない思慕がある。ヒューは感情表現が壊滅的に下手な人なので(「魔法使い」)ほんとはユキのことめちゃくちゃ可愛い!愛!!!と思ってたし出来る範囲で可愛いがってたつもりなんですよほんとに…。めんどくさ…(笑)。​

ちな「猛獣使い」で拳銃を手に入れた喬に出会ったのはこの少し後のこと。なので実はあの時喬はめっさ怪しい変質者のおっさんにいきなり手ズリされた​感じになってますがあの時のシゲさん、まだ十代だったんですね…。​

​そうそう、「手紙」でちらっとシゲさんが連絡係の男と深い仲になったのが元締にばれて連絡係が処分されたって書いてたんですが、それ、ここに出てくるフジです。いろいろ迂闊な感じの人なんで、ユキに溺れてなんかしくじったんじゃないかと思います。

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