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Sin.co -Re:The Ultimate Sin- main tales

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──僕は誰のものでもない。


 僕は僕自身のものの筈だ。なのに、彼らは申し合わせたように、

 まるで懇願するかのように最後にはこういうのだ。

 おまえは私だけのもの。

 嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。
 

 助けてくれ。

 

──稔はもう死んだ。いや、遺体が発見されず生死不明ってとこかな。
──安心しろ。もう誰もおまえを追いかけやしない。

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 こっそりと集めた本を隅から隅まで読む。
 必要な部品をメモに書き出す。
 次はこれを入手する方法を調べる。

 勉強机のスタンドの光の下で稔はどきどきと心拍が上がるのを感じていた。

 姉が居なくなってから今までの10年近い年月の中で、これほどわくわくと心躍ることがあっただろうか。


 終わらせてやる。
 何もかも、これで終わらせることができる。

 

 背後でノックの音が聞こえて稔は膝の上に広げたそれらの本を慌てて机の引き出しに押し込んだ。
「稔ちゃん、お勉強進んでる?」
 ねっとりとした視線を投げてくる母の姿を認めると稔は小さく頷いた。


 姉は美しい女だった。
 稔は年の離れたその美しい姉が子供心に自慢だった。
 両親にとっても姉は自慢の娘だったようだ。美しく聡明で、「親の言う事にはさからわない」従順な娘だったのだという。父はさほど大きくないものの会社を経営しており、業績も順調だったのである程度裕福だったといえよう。親にしてみれば子供たちには何不自由させることもなかった筈だった。

 稔が6歳の時、それは狂い始めた。
「おまえ、自分がいくつだかわかっているのか!まだ高校2年生のくせにふしだらな!」
「そんなの関係ないわ。父さんが何て言ったってあたしはあの人が好きなんだもん」
 まだ16歳だった姉が、どこの馬の骨ともわからない若いちんぴらと恋に落ちたのだ。

 姉は家を出てその男のもとへ行くと言い出した。
「おまえは騙されてるんだ!世間知らずだからあんな不良が格好良く見えるだけなんだぞ!なんでよりによってあんな男と!」
「彼のの悪口言わないでよ何にも知らない癖に!!もういい、あたし学校も辞めてあの人のとこに行く!あの人と暮らすんだから!」
 父は娘を殴った。
「その男を連れて来い!ひとの大事な娘を──ぶっ殺してやる!」
 父が目を血走らせてそう叫ぶと、姉はそれまで家では発したことのないような大きな声で──そして家では決して使う事のなかったような乱暴な言葉遣いで父をなじった。父は、更に姉を殴った。母はただ夫を止める事もできず泣き叫んでいた。

 その夜──姉は小さな荷物をまとめて、家を出た。そして連絡すら遣す事はなくなってしまった。

 家族の歯車はその日から外れてしまったように回らなくなった、と稔は思う。
 父は家で酒に酔うと、姉を誹謗している。あそこまで苦労知らずに育ててもらった癖に。恩知らず。あんな売女だとは思わなかった。
 そして決まって、母におまえの育て方が間違っていたのだと矛先が向けられた。

──違う。

 家を出る時、姉は稔を抱きしめて泣いた。
──ごめんね、稔。お姉ちゃん好きな人のとこへ行くの。
──この家にいたらあたしは父さんと母さんの人形のまま一生終ってしまう。
──稔も、自分をしっかり持ってね。お姉ちゃんいつもあんたのこと見てるから。
──稔が辛そうだったら、いつか必ず迎えにきてあげるから。


 姉は、いずれにせよ両親のもとを逃げ出したいとずっと思っていたのだ。姉がいなくなったことで両親の興味が全部自分に向けられるようになっても、しかし稔はそれを姉のせいだとは少しも思わなかった。ただ、両親に対する不信感が高まっただけだ。

 いつか、姉さんが迎えにきてくれる。
 それまでは、いい子にしていよう。
 そうすれば少しくらい、姉さんがいた頃のように普通の家族のふりくらいできるかもしれない。

 

 稔が幼い頭で考えて維持しようとしたのは、少なくともこの家を出ることができるまで自分が害されずに生活できる環境。それだけだった。しかし──
 かろうじて維持できたのは稔が中学生になった頃までのことだった。


 最初に壊れたのは母だった。

「稔ちゃん、お勉強進んでる?」
 夜食を運んできた母は、それを机の上に置くと稔の肩を両手で何度も撫でた。
「──今日もお父さまは帰ってこないの。きっとどこかに女でも作ってるんでしょうね」
 中学生の息子にそんなことを言われても困る。
 ただ母は愚痴を言いたいだけなのだろうから、暫く聞いてあげたふりをしていればそのうち出ていくだろうと思った。しかし、母はなかなか出て行かない。
「お母さん──」
「稔ちゃん、お母さんにはもう稔ちゃんしかいないのよ」
 いい加減鬱陶しくなってきて振り返ると、母は自分のブラウスのボタンを外し、下着を露出させてその胸を稔の顔に押し付けてきた。驚きのあまりそれを跳ね除けることも出来ずにいると、母の手が下腹部へ伸びてきた。

 抵抗できなかった。

 

 そして、それは一度では済まなかった。
 繰り返し繰り返し、時には何日も連続で──
 まだ小さく華奢な身体に覆い被さり猥らな声をあげる母から、稔は逃げる事ができなかった。
 ただ──恐ろしかったのだ。

 次に父が壊れた。

 妻が実の息子と寝ている、という事実を父が知るに至るまでさほどの期間は要さなかった。母は夫の存在を完全に意識の外に締め出してしまっていたのかもしれない。
 当然のことながら父は烈火のように怒った。
「おまえは自分が何をしているのか判っているのか!犬畜生より劣ることを──」
 母を殴り、稔を顔の形が変わる程殴った。姉を殴った時よりももっと鬼のような恐ろしい形相だったと稔は奇妙な冷静さで感じていた。
「そんなモノがついてるから悪いことをするんだな。ちょん切ってやる」
 さすがに、台所の包丁を持ち出してきてこう言われた時には血の気がひいた。母は狂ったように泣き叫んでいる。殺されるとでも思ったのだろう。それで昂ぶったのか逆に冷静になって割に合わない罰だと気づいたのかはわからない。もっと別のいい方法を思いついたかのように父は包丁をその場に投げ捨て稔の首を押さえて床に押し付けた。そして。


「二度とこんな真似ができないように、おまえを女にしてやる」
 

 父はそう言って稔を、実の息子を──犯した。泣き叫ぶ母の目の前で。

 しかし、母は稔の部屋を訪れることをやめはしなかった。ただ、以前より父に見つからないように慎重になっただけのことだ。


可哀想に、稔ちゃん。あんなにお父さまに殴られて。

お母さんだけは稔ちゃんの味方よ。
お母さんがお腹をいためてあなたを産んだんですもの。

あなたはお母さんだけのものよ。
 
 そして父は、まるで何かの箍が外れたかのように嫌なことがあると稔を組み伏せ抱くようになった。
 

どいつもこいつも俺を馬鹿にしやがって。
稔、おまえだけは俺を裏切ったりするなよ。
おまえは俺のものなんだからな。

──僕も早く壊れてしまわなければ。

 そう思った時すでに稔自身も壊れ始めていたのだろう。
 父にも母にも、抵抗する事はもう諦めてしまった。ただ、淡々と机に向かい優等生のように勉強しているしかなかった。

 姉が現れたのはそんな日々が一年近く続いたある日のことだった。姉が家を出てから、もう10年近く経過していた。
 やはりあの男はやくざだったのだろう。やくざの情婦らしく身なりも化粧も派手になっていたが、姉の美しさは少しも変わっていなかった。むしろ、大人になった姉は目を合わせるのも躊躇われるほど美しくなっていた。
「稔、遅くなってごめんね。すっかり大きくなって──」
 瞳を潤ませて微笑み、稔の手を握り締める。その手はすべすべで暖かかった。
 きっとあの男は、姉に何の苦労もさせてはいないのだろう──その手の感触で感じた。


「迎えにきたのよ。あんたひとりくらいなら養ってあげられる。彼もそうしていいって言ってくれてるの。あたしと一緒に行こう」
 

「姉さん──」

 あれほど待ち焦がれていた姉の迎え。
 もう、両親を我慢しなくてもいいのだ。


 姉は幸せそうだ、と稔は思った。
 不思議と、自分がどれほどの思いをさせられていても、その間に幸せでいた姉を妬ましいなどとは思わなかった。むしろ、家を出て幸せになれてよかったな、と漠然と思う。


 稔はにっこりと微笑んだ。
「僕は大丈夫だよ。父さんや母さんともうまくやってる。姉さんはそのまま幸せになってよ」
 姉はひどく意外そうな、そして悲しそうな顔をした。
「……ねえ、本当に大丈夫なの?辛くない?」
「平気だよ。うまく機嫌をとっていればなんだって僕のいうことをきいてくれるんだから。楽なもんさ」

 何故、そんなことを言ってしまったのだろう。
 姉が迎えに来るまで、と耐えてきたはずなのに、その迎えを自分は断ろうとしている。

──姉さんはせっかく幸せになったのだから。
──僕のような弟をひきとったりする必要はないんだ。
──僕のような──汚れた弟を。

 暖かい手に力がこもるのを感じる。姉は泣きそうな顔になっていた。
「……わかった。でも辛くなったらいつでもあたしに電話して。いつでも迎えにきてあげるからね」
 そう言って姉は稔に小さなメモを渡した。そこには電話番号が記されている。
 追い返すように見送り、何度も振り返る姉に手を振ると稔はそのメモをくしゃくしゃと丸め、その場に投げ捨てた。

──さよなら、姉さん。

 稔の家で爆発事故が起こり、それによる火災によって稔の両親が命を落とし稔も背中に大きな火傷を負ったのはその数日後のことだった。

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 背中がまだ燃えているようだ。
 病院のベッドでうつ伏せに寝かされた稔は、しかし幾度となく警察の質問を受けるはめになった。同じ質問、同じ答え──繰り返すうち、やがて警察は来なくなった。
 警察が来なくなるとちらほらと学校の友達が見舞いに来たりしたが、もうそんなそれまでの日常は鬱陶しいとしか感じられなくなっていた。そんなある日、見知らぬ男が訪れた。

 その若い男は、父の仕事関係の知り合いだと名乗った。
 優しそうな微笑みを浮かべ、ベッドの脇の椅子に腰をかけ、妙に親しげに稔の顔を覗き込んだ。
「たいへんだったね」
 笑いそうになって、それを稔は懸命に堪えた。そりゃあ、こんな火傷を負って大変だ。でも、あの両親はもういない──。
 同情を含んだような微笑みを浮かべたまま、男は稔の頭に手をやりニ、三度軽く叩いた。

 

「……うまくやったな」

 ぞくり。
 思わず見返すと、男はただ微笑んだままだ。しかし、今の声は心臓が凍るほど冷たかった。

──うまくやったな──

 この男は、警察も消防もつきとめることのできなかった真相を知っているとでもいうのだろうか。我が家に爆弾をしかけ、両親を殺した犯人が誰なのか──


 稔は、突然恐ろしくなった。
 警察に捕まってもそれはそれでいいか、と思っていた。自分はまだ14歳だ。たいした罪を負わされるわけではない。
 そんなことよりも、この今日初めて会った柔和そうな若い男にそれを掴まれているということの方が何故か判らないが恐ろしい。
 身体が、小刻みに震え初めている。 


 男は、稔の様子を一瞥するともう一度稔の頭を軽く叩き、何も言わずに立ち去った。連絡先すら残さずに。

──あれは、誰なんだ。

 やがて傷が癒え、退院する日が来ても稔の心の中からあの男の残していったどす黒い染みが消えることはなかった。

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 稔には親類が少なかった。
 父方の祖父母は既に亡く、母方の祖母は養老院に入っている。母はひとり娘だったので兄弟もない。唯一、父の弟である叔父に稔は預けられることになった。叔父は結婚していたが妻は子供を連れて別居している。必然的に稔と叔父との二人暮しとなった。

 結局事故で落ち着いたあの爆発と火事のおかげで、稔のもとには保険金と遺産が転がり込んだことになる。未成年である稔のその財産は叔父の管理するところとなった。父の経営していた会社は他人の手には渡ったが潰れずに済んだらしい。
 

 離婚だ調停だともめている叔父が、自分の財産をこっそり使い込んでいることを稔は早くから気付いていたが、たいして責める気にも止める気にもならなかった。財産が目的で両親を殺したわけではない。ただ住む場所が確保できればそれでよかったのだ。

「──稔、学校にはちゃんと行ってるのか?」

 叔父のもとに引き取られる際に転校し、高校もその地域の学校へ進んだ。かつての友人は一人もいない。
 もう「いい子」でいる必要などなかった。
「叔父さんには関係ないでしょ」
 そう言っては外へ遊びに行くことが増えていった。
「あんまり問題とか起こすなよ」
「僕の金で遊んでるんだから、とやかく言われたくないね。僕だって叔父さんのこととやかく言わないでしょ。心配しなくても警察沙汰なんか起こさないから放っといてよ」
 稔がどれほど外で好き勝手に遊んでいても、稔の金を使い込んでいる叔父はそれを強く咎めることができない。それをいい事に稔はひたすら遊びまわった。


 「いい子」でいた頃にはまるで知らなかった世界は、気を紛らわせるのには格好の遊びに満ちている。
 喧嘩もした。最初は全く誰にも敵わなかったけれど、少しずつこつを飲み込むように殴られる回数も減ってきた。お節介な不良が喧嘩のコツを教えてくれたりもした。グループサウンズのバンドをやっている連中と仲良くなってジャズ喫茶やゴーゴー喫茶を一緒に荒らし回ったこともある。
 男女かまわず適当な相手を見つけては一夜限りの関係を結んだり、賭け事やドラッグに手を出したりもした。

 何かから逃げ回るように──

 あの男は、結局べつだん警察に話したりはしなかったのだろう。あの件について警察が稔を訪ねてくることももうない。


 しかし。
 稔はあの男じたいが恐ろしかった。
 両親を殺したことを後悔などしていない。なのに、あの男がそれを知っている、ということだけが稔の奥底でじくじくと恐怖を生み出していた。

「稔、何時だと思ってるんだ。いいかげんにしろ」
 いつものようにもう明け方近い時間に帰宅すると、叔父が居間で座っている。こんなことは久しぶりだった。たまたま家で飲んでいて、何か思うところでもあったのだろう。
「……飽きないね、放っといてって何度言えばわかるの。別に迷惑かけてないでしょ」
「だいたい、こんな時間まで何をやってるんだ」
 うんざりと首をめぐらし、キッチンで水をコップ一杯飲み干すと稔は叔父に向き直り、ぷっと吹き出す。


「何をやってるだって?今日はね、そのへんで仲良くなった45歳のおじさんと寝てきた。帰りにお小遣いをくれたよ」
 

 楽しそうに笑いながら稔はポケットから何枚かの万札を出して床に放り投げた。それを見て叔父はあからさまに嫌悪の表情を浮かべる。
「おまえ──それは売春じゃないか」
「そんなことないよ。別に僕の方から金なんか要求してないし。ああ、でも僕、ネコもタチも出来るから人気あるんだ。あとおばさま達からも。なんなら叔父さん、試してみる?」
 酒に酔っている風でもない。稔はただ面白い遊びを見つけたように楽しげにシャツのボタンを3つ4つ外して、雑誌のモデルよろしくポーズをつけた。
「おまえ、俺を馬鹿にしてるのか」
「馬鹿になんかしてないって。父さんもはまっちゃったんだから、多分僕って具合がいいんだよ。叔父さんも僕の金で外で女買ってばかりいるの、勿体無いでしょ」
「兄さんが──え?」
 叔父はまだ酔った頭が大きく混乱しているようだ。稔は笑いながら叔父の横を通り過ぎながら──
「そ。だから別に気にしなくていいよ。僕はそんなの、なんとも思っちゃいないんだから」 
 腕が掴まれる。
「やるんなら叔父さんのベッド行こうよ」
 稔は勝ち誇ったような顔でふうっと微笑んだ。

──何とも思っちゃいないんだから。

 酔いが覚めた叔父は自分の中のモラルとなかなか折り合いが付かないらしく、男の、しかも甥の稔を抱いたことを色々悩んだりもしたようだが、結局は繰り返しそれを求めるようになっていった。


 人の金を使い込んでおいて、モラルも何もあったもんじゃあるまいに。
 成人したら、財産を耳を揃えて返してもらう。それがもとで叔父が破産しようが自分には関係ない。

 離婚調停がなかなか進まない中、叔父が徐々に追い込まれているのも稔は気づいていた。稔の財産を使い込んでいるのも、公になれば──そして稔が被害届でも出そうものなら、前科者になってしまう。
 叔父は八方塞がりになりつつあった。
 稔は、追い詰められ堕ちていきつつある叔父の様子を、何の感慨もなく退屈しのぎの見世物のように眺めていた。追い詰められれば追い詰められるほど、叔父が稔を求める頻度が高まる。
 それも稔の遊びのひとつだったのだろう。そんな時に限って、わざと何泊も外泊してみせたりした。そして、その度叔父はまるで恋人が浮気をしてきたかのように稔を詰るようになっていった。
「──3日も戻らずにどこへ行ってた!」
「ん?カノジョが離してくれなくて」
 叔父が顔色を変えている。それが可笑しくてまたくすくす笑う。
「おまえ、やっぱり女の方がいいんだな」
「何馬鹿みたいなこと言ってるの?僕は叔父さんのものじゃないんだから、そんなの自由でしょ。あんまりうるさく言うなら僕、もうこの家を出ようかなあ。一緒に暮らそうって言ってくれる人なんかいくらでもいるし」
「稔──」


 いつもならこんな痴話喧嘩のような会話はさっさと打ち切って自室に戻り、鍵をかけて叔父を締め出して暴れさせてやるか、そうでなければ叔父の部屋へ行き相手をしてやるかいずれかである。
 しかし、この日は違っていた。

 

「そんなことは言わないでくれ!」
 稔の背中にすがりつく。
 なりふり構ってなどいられない。稔に出て行かれたら、稔の財産は──
 そしてそれ以上に叔父は稔に耽溺していたのだ。


「なあ、頼むよ。俺を見捨てないでくれよ」
 背中に抱きついたまま、叔父は稔の身体を弄り始めた。
「ちょっと、やめてよ」
「もとはと言えばおまえが俺を誘ったんじゃないか。今更嫌だなんて言わせないぞ」
「だからってこんなとこでするのは嫌だよ」

 

「──おまえは俺のものだ。俺にはもうおまえしか居ないんだよ」

 

 ぞくり。
 全身総毛立つ気がして小さく振り返り、まじまじと叔父の顔を凝視する。
 これまでさほど意識はしてこなかったが、父の顔に似ていた。途端に吐き気が襲う。

 嫌だ────

 今の稔なら、叔父を振り払うこともあしらうことも楽に出来る筈が、居間のテーブルに押し付けられあたふたと侵入してくる叔父を拒むことが出来なかった。
 まるで、父の暴力に怯えて何の抵抗もできずただ黙って犯されていた中学生の頃のように──

「──ねえ、叔父さん。海でも見に行こうよ」

 叔父は項垂れたように座りこんでいる。部屋の外は凍りつきそうな寒空で、多少の暖房は効いているとはいえ、衣服を剥ぎ取られたままでは寒すぎる。稔はのろのろと起き上がって一度剥がされた服を少し嫌な顔をして再び身に付けた。
「──海?今からか?」
「うん。僕、夜の海好きなんだよね。それに、波の音を聞きながら車の中でするのってちょっといいと思わない?」


 稔がついに屈服したとでも思ったのか、今にも眠りそうだった叔父は頭を上げて、ああ、いいな、行こうか──といやらしく笑った。

 一月だった。海辺の風は恐ろしく冷たい。
 埠頭の手前で運転する叔父のハンドルを奪い、思い切り切る。
 ゆっくりと、車ごと海面に近付いて行くのを眺めながら──恐怖に歪む叔父の顔を一瞥し、着水する前に稔はドアを開けた。

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 目を覚ますと、見知らぬ部屋にいた。

 記憶をたどる。
 海中に落ちた車からなんとか脱出した。しかし、叔父を誘い出してこんな手段に出たものの──水の冷たさを失念していた。
 叔父と心中する気はなかったけれどそうなってしまうのか、と最後に思って気を失ったのだから、あのまま溺れるか凍死していてもおかしくない。自分は誰かに助けられたのだろう。


 シートベルトを締めていた叔父。運転席側のドアも水圧のために開かない筈だ。まだ酒も残っていたからあの水の冷たさでは叔父はおそらく間違いなく死んでいる。いや、自分を助けた人間がいるのなら叔父も助かっているのかもしれない。そうすれば自分が無理やりハンドルを切ったことがばれてしまう。

 ああ、今度こそ警察行きか。

 身体が熱い。そのくせ寒気もするから熱でも出ているのだろう。無理はない。

 と、ドアが開き誰かが入ってきた。その姿を見て、稔は叫びだしそうになった。

 

──あの男──!

 あの、たった5分ばかりの出会いとたった一言の言葉でずっと何年も稔の心に恐怖を投げかけていたあの男が、そこに居た。
 あの時と同じように微笑んで。


「久し振り。大きくなったな」
 

 あれから3年余りが経っている。

「おまえの叔父さんは死んだよ。というより、遺体も上がってない。まだ車の中だ」

 

──ああ、そうなのか。
──叔父は助けられはしなかったのだ。

 

 頬に薄く笑みが浮かぶ。
「運が良かったな。俺が通りかかったのは偶然だったが驚いたよ。よく脱出できたな」
「──あなた、僕を尾けてたんですか。あんな場所に偶然通りかかる車なんて無いでしょ」
 男は一旦意外そうな顔をして、かなわんな、と呟き苦笑している。
「おまえが叔父さんと車で出かけるのを見たのは本当に偶然だ。虫の報せというのか?なんか気になって確かに尾行してたよ。まさか海にダイブするとは思ってなかったから慌てたが俺の連れが車から放り出されていたおまえを助けたというわけだ」

──虫の報せね……。

 男はあの時と同じように稔の頭を軽く何度か叩いた。
「何があったんだ。酔っ払い運転か?」
「……僕が」
 この男は自分が両親を殺した事を知っている。今更叔父を殺そうとしたことを知られたところで同じ事だ。


「僕が叔父さんを殺そうと思ってやりました。水があんなに冷たいとは思ってなくて、それは失敗でした」


 男は目を見開いて驚いてみせたが、すぐにもとの微笑みに戻り頷いた。
 やはり、この男はそんな事には動じはしないらしい。

「僕は──」
 一旦開いた口が、堰をきったように言葉を紡ぎ出してゆくのを稔はとめられない。

 

「もうたくさんなんです。誰かに『おまえしかいない』なんて言われるのは。僕は僕自身のものだ。誰かのものじゃない。なのに父さんも母さんも叔父さんもおまえは自分だけのものだ、って言う。嫌だ。僕はそんなふうに必要になんてされたくない。僕は誰かの為に生きてるんじゃない。僕は──」

 ずっとずっと長い間胸に凝っていたものを全部残らず吐き出すように稔は一息でまくしたてた。
 男は、微笑んだまま稔の頭を撫でている。そんな優しい感触を長い間忘れていたような気がした。あれほど稔の中でずっと恐怖を生みつづけていたあの男の手から伝わる体温が、今は不思議なほど稔を落ち着かせる。
 稔が少し落ち着いたのを見てとると、男は優しそうな微笑を絶やすことなく静かに口を開いた。
「──本当はな、あの火事のあと俺がおまえを引き取ろうと思っていたんだ。だけどまあ、いろいろあってな。それはできなかった。こんなことならもっと早くそうしていればよかったな。悪かった」

──この男が?
──僕を引き取ろうとしていたって?

「稔はもう死んだ。いや、遺体が発見されず生死不明ってとこかな。叔父さんがおまえの財産を食いつぶしていたことは調べればすぐにわかることだ。叔父さんがおまえを道連れに心中しようとした、というところで話はカタがつくんだろうさ」
「……あの……」


「新しい戸籍を用意してやる。おまえはもう稔じゃなくなればいい。つまらない過去は『稔』と一緒に全部あの海に捨ててきたと思え」

 この男は一体何を言っているのだろう。しかし、稔である自分を捨てる、ということが酷く魅力的に感じたのは事実だった。

 

「安心しろ。もう誰もおまえを追いかけやしない」

 

 くすっ、と稔は笑いを洩らした。
 稔をずっと追いかけていたのはこの男ではなかったか。とすれば自分はとうとう捕まったということなのだろうか。


 けれど、予感がする。

 この男はきっと、両親や叔父のように自分を扱う事はない。

 

 何故この男がたいして関わりの深くなかった筈の自分を引き取ろうとしていたのか。
 何故それがかなわなかったのか。
 そして何故、自分を助けたのか──判らないことは山ほどある。

「……あの……」
 呼びかけようとして、この男の名前をまだ聞いていなかったことに稔は気付いた。
 それに、男もようやく気付いたらしい。苦笑して手を差し出し、握手するように稔の手を握った。

「嵯院七哉だ──よろしくな」

 その名前を口の中で小さく繰り返すと、稔ではなくなった稔は七哉の手を弱く握り返した。

「新しい名前をつけてやろうか。何かこういう名前がいいなとかあるか?」
「いえ……急にそんなこと言われても」
 苦笑すると七哉は大袈裟に考え込み、今は一月だから『睦月』ってのはどう、と言った。
 思いつきにしてはなかなかいい名前だろう、と七哉は悦に入っている。思ったより無邪気で陽気な男のようだ。


 稔──睦月は可笑しくなってくすくす笑いながらいいですね、と返事した。

 自分が『稔』でなくなったなら、もうきっと姉と会う事は一生ないだろう。
 それだけがほんの少しだけ胸を刺す。

──姉さんは、今も幸せなのだろうか。

 それでも、もう姉さんのことも忘れよう。僕はもう彼女の弟ではなくなるのだ。
 どうか、彼女だけは幸せに──

 七哉の手を離すと急激に眠気が襲ってきて、睦月は吸い込まれるように眠りの淵へ落ちていった。


*the end*

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波

*Note*

​考えてみたら睦月って本編では過去の人間関係が関わってくるほどの描写が無いんですよね。「谷重」の章の方では谷重バーに潜入した時の話を書いています。なのにスピンオフだけはある。稔の姉さんが誰かというのは最後まで読んだら「ははぁん」ってなると思うんですがこのグループの「徳利」でだけはっきり書いてます。あと「Another」は睦月大活躍なのでそういった話もあります。

​睦月は最初から外見はロマンスグレーで眼鏡で七三分けの一見リーマンな柔和なおじさま、冷静沈着でちょっと人を食ったとこがあってたいてい敬語使い(部下には敬語ではないけど穏やか口調)というイメージで書いていたので、稔くん、特に親殺した後遊びまくってる時の感じはすごく新鮮に書けました。こんな時代もあったのねぇ。

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