Sin.co The Name of the bar is;
谷 重
ドアに嵌め込んだガラスの向こうに、幸せな『家族』の姿が見えた。
『赤ん坊』を抱き上げてあやす『父親』、それを幸せそうに微笑み見守る『母親』。
どう考えても自分はあの中には入れない。自分が入ったらあの完璧な絵を壊してしまう、そんな気がした。
幼児が、妹や弟の誕生で両親の興味が自分から一気にそちらへ移ったことに嫉妬したりするようなものだ、というわけではない。そもそも自分は幼児ではないし、自分はあの2人の子供でもなければあの赤ん坊の兄でもない。
多分、2人の自分に対する態度は以前と全く変わっていない。赤ん坊がきたからといって蔑ろにされた覚えもない。
それなのに──
あんな絵柄を見ると、無性に居心地が悪くなって逃げ出したくなる。そして、近頃は実際逃げ出してしまう。
出かけようとするのを『母親』に気付かれた。
「どこいくの、紫?」
「────」
何と返事していいかもわからず、答えないまま靴を履く。
彼らが今の自分と同年代の頃はもう仲間たちと繁華街で遊び回っていたそうだから、紫が夜遊びに出てもとやかく思うということはないのだろう。
外へ出ると、薄暮が夜に変わろうとしているところだった。
こんな風に家を出た時は大抵、嵯院七哉から譲り受けたバイクで郊外の山間部まで行き運動がてら軽装のまま山の中をうろついてみたり、七哉の組の縄張りの繁華街などを飲み歩くでなくただ街を見てまわったりしている間に夜が明ける。こうしているうち近辺の地形やビルの配置や配管、下水道などはすでに記憶だけで見取り図が作れるほど頭の中に入ってしまった。
そうすると、そんな意図はないが街の中を歩くだけでどこか見回りをしている気分になる。
──新しい店か。
見ると、前回通った時には立ち飲み屋だった場所がまるで違う趣の店になっている。
扉も壁もなかった開放的な間口は煉瓦を積み上げた壁と古ぼけた木の扉の窓のない建物に変わった。その木の扉のせいだろう、新しい店の筈なのに何十年も前からそこに佇まっていたかのように見える。
壁に嵌った小さな看板には、『谷重バー』と書かれていた。
目線をくまなく動かし、店の様子を観察する。それにしても、もとはあの庶民的な立ち飲み屋と同じ建物だとは思えない。
「今から開けるんだけど中で待ってる?」
背後からの声。
びくりと振り返ると紙袋だのビニール袋だのを大量に下げた男が立っていた。ちょっと待ってな…と言いながら塞がった両手で不自由そうにごそごそとポケットを探っている。鍵を取り出すとやはり不自由そうに、この店の外観に味を与えている大きな木の扉を開けた。
気配には人より何倍も敏感なつもりだ。
こんな大荷物を抱えた人物が背後まで近づいていることに気付かぬほど、この建物に集中していたのだろうか。
扉を開けた男はそのまま中へ入り、紫を振り返り──
「すぐ準備するから中で座って待ってて下さいよ、お客さん」
と、笑った。
店内は間口の狭さに反して奥に向かって思った以上に広がっていた。
立ち飲みの時には地面と同じ高さだった床は、階段3段ほど低くなっていて、天井が高く見える。外観の壁が煉瓦になっていたのに合わせたかのように内壁も煉瓦が塗りこんである。しかも見たところ、新品の煉瓦ではなくどれも少しずつ欠けたような古ぼけた煉瓦を使っているようで、それも一瞬この店が老舗であるかのような雰囲気を作っていた。壁には骨董品のような電燈が低く配置されている。個々のテーブルはこれで照らすのだろう。床には油引きをした木が使われている。
そう広くないカウンターはしかしやはり使い込んだ色の分厚い一枚ものの天板が使用されている。カウンターと並行して反対側の壁ぞいに2人がけの小さなテーブルが2脚。カウンターの向こう側に座り心地の良さそうなソファを置いた4~6人座れそうなボックス席がひとつあり、その奥には妙にぽっかりと空間が穴をあけていた。
確か前の立ち飲み屋はそれほど広くなかったが、奥と2階を住居部分として使っていた筈なので1階のそれをぶちぬいたのだろう。こうしてみると随分広かったのだと思う。
いや、それよりも内装のひとつひとつが随分使い込んだ味があるように見えるせいか、この場所が以前立ち飲み屋だったということ自体勘違いだったような気がしてきた。
そうして紫が店内をくまなく観察している間、男はがさがさと持ち込んだ荷物を手際よく片付けていき、最後に奥に引っ込んでものの3分ほどで再び店内に戻ってきた。糊のきいたシャツにベスト、蝶ネクタイ。この短時間でよくまあ、と思うほどの早変わりである。
この間、男は他愛もない天気話や世間話で紫に話し掛けていたが、紫は結局ろくな返事はしなかった。
つまらない会話などより、この店の観察の方が興味深かったのだ。
「お待たせしました。あらためていらっしゃいませ」
先程背後に現れた時にはよれよれの開襟シャツ姿でどうかするとだらしなく見えた男が、別人のようにぱりっとして見える。
男はそのまま丁寧に礼をしておしぼりを差し出し、手馴れた仕草でコースターと乾き物の小皿を目の前に滑らせた。
「さて、何になさいます」
実のところ紫はここで飲む、と言った覚えはないのだがすっかり客扱いにされている。
しかも、身長こそこの男より高いが紫はまだ高校生ほどの年齢である。未成年であることくらい顔を見ればわかるだろう。
「俺に酒を出してもかまわないんですか」
普段はどこかで酒を飲もうとする時にわざわざ店の人間に自分は未成年だが酒を出してもかまわないかと尋ねることなどない。しかしこの時点で店と共にこの男本人にも少し興味が出始めていた。
口にこそしないが未成年だと承知の上で酒を飲ませるのか、どんな答えを返すのか。
「酒を出して具合が悪そうなお客さんくらいわかりますよ。年齢なんて国が勝手に決めたことだ。私の知ったことじゃありません」
「それじゃあ、何かみつくろって下さい。あまり詳しくないので」
酒の名前はかなりの種類知っている。が、いかんせんそれほどの種類を飲めたわけではない。知識に体験が伴ういいチャンスだろう。なにより、この男の返事がなんとなく気に入ったのだ。
男は暫く壁に並んだ酒瓶を睨んでいたかと思うと──
1本を選び出し、猪口のような小さなグラスに注いだ。
「きつかったら割るから一度このまま飲んでみて下さい」
言われるまま口に運ぶ。強い香りが鼻を通り抜けると同時にビリッと舌に電流が走ったような気がした。
紫の表情を見て男はその小さなグラスの中の残りを、氷を満たした少し大きめのグラスに移す。おそらく酷く顔をしかめていたのだろう。
「氷を溶かしながらゆっくり飲めばいいですよ」
チェイサーに置かれたグラスを手にとり、とりあえず口に含む。
「ハイランド、ローランド、スペイサイド、アイラ、バーボン、テネシー、カナディアン──片っ端から飲んでいけばそのうち好きなものが何か決まります」
男はカウンターの中で人が良さそうに笑った。
普段ならまず真っ先に人物の観察をする癖がついている筈なのに、人物をそっちのけで店の観察ばかりしていたことにようやく紫は気がついて──誰に対してというわけではないがばつの悪い気分になる。
そこであらためてカウンターの中のバーテンをまじまじと見つめた。
年は、印象では40前後か──しかし改めて見てみるともっと若いのかもしれない。どちらかといえば浅黒い顔色はしかし決して健康そうではないし、ひょろりと痩せた印象は病弱そうにすら見える。しかしよく見ると意外に肩幅もあるし腕も太い。背は高い方ではない。最初に見た時は麦わら帽子の似合いそうな田舎の百姓のようにも見えたが、着替えてカウンターの中に入るとむしろ人より垢抜けた都会的な青年にも見える。ただ常にずっとにこにこ微笑んでいた。日常の殆どを微笑んだり笑ったりした顔で過ごしているのだろう、顔にくっきりと笑い皺が刻まれている。年配に見えるのはその皺のせいなのかもしれない。その頬に深く窪んだえくぼが男の愛嬌ある表情をさらに引き立てている。
オンザロックに入れ直してもらったグラスを2度口に運ぶ間にざっとそれだけ観察すると、ふと違和感を感じた。
これほどまでに「第一印象」と「よく見た印象」が違う人物というのはあまり知らない。
「そうそう──」
思い出したようにカウンターの中の男は、紫の前に一枚の名刺を滑らせた。
「今後もご贔屓に」
名刺には、『谷重バー/バーテン 谷重宏行』とだけ印刷されていた。
確か、以前ここにあった立ち飲み屋が閉店したのは1年ほど前の筈だ。
そこの親爺がウラで高校野球の賭博の胴元をやっていて、七哉の組の人間とトラブルを起こしたのが確かその頃だったことを覚えている。トラブルがこうじておそらくあの親爺は始末されてしまったのだろう。それからずっとあの店は放置されていた。前に紫がここを通ったのが1~2ヶ月前だと思うがその時はまだ工事にかかる気配すらなかった。あの店の場所に別の店がオープンするなどという情報までは紫には興味が無かったので知らずにいたが、おそらくごく最近オープンしたのだろう。
「いつ──」
開店したのですか、と尋ねようと口を開いた時である。
入口の木の扉が勢いよく開いた。
開いた入口から、花束が飛び込んできた。
というのは目の錯覚で、当然花束を持った人間が入ってきたのだが──
その花束の主はすっかり暗くなった店外の暗がりにも店内の薄闇にも妙に溶けてしまっている。
花束の陰から野太く陽気そうな声が聞こえた。
が、何を言っているのか紫には聞き取れなかった。
英語だったのだ。
紫は独学だが標準英語なら日常会話程度は聞き取れると思う。
しかし、花束の主が叫んだそれは、訛りの酷いどこかの方言英語なのだろう、どうしても聞き取れなかった。
しきりと「ユキ!ユキ!」と叫んでいるのだけはわかった。タニシゲヒロユキの「ユキ」なのだろう。
花束の主は巨大な体躯の黒人だった。
谷重はカウンター越しに黒人から花束を受け取り軽く抱擁している。そのままカウンターの席に座らせ、壁から瓶を1本取り出してオンザロックを作った。
それを見つめていた黒人は紫の存在に気付くと満面の笑みでハーイ、と手を上げた。
何の必要があってあんなに大声なのだろう。
「BJ、静かに飲みたい人の邪魔をしないで」
黒人を諌める谷重の英語は聞き取れた。スラングっぽくはあるが、何を言っているかわからぬほどではない。
谷重はそのままビージェイと呼ばれた黒人に何か耳打ちして、再び紫の前に戻った。
「騒がしくして申し訳ありません、古い友人が開店祝いに来てくれたもので。静かにするように言いましたから気にしないで下さい」
「──開店祝い?」
紫が先刻質問しようとしたことの答えを谷重は自ら口にして、にいっと笑った。
「実は今日開店でね、そんなわけであなたがこの店のお客様第1号というわけなんですよ」
「おい、今日は後ろだ」
車の扉を閉めようとすると七哉が手招きをしている。
通常は紫が同行する時は助手席に座るのが常だ。まださすがに車の免許がとれない──運転はできるのだが──ので、運転手は別にいる。年若いとはいえもう一人前に七哉のガードを勤めているといっていいだろう。
まだ七哉の養い子だ客分だと子ども扱いされていた頃はともかく、ここ数年はすでに「部下」としてのスタンスで行動している。リカの家に居候している状態なのだから特別といえば特別だが、なるだけ他の人間から浮いてしまわぬように七哉なりに配慮して部下扱いしているとも言える。
現状がそうだから、後部座席に座らされるなど久しぶりのことだった。
車が走り出すと、七哉は座り直しながらじりじりと紫の近くににじりよってきた。
「最近夜によく出歩いてるらしいな。女でも出来たか?」
にやにやしている。
人付き合いが苦手で、同年代の友人がいなさそうな紫のことを心配する親心でもあるのだろうが、単なる詮索好きだとも言える。
溜息をつくと紫は小さく肩をすくめた。
「違います」
「照れなくてもいいぞ。どんな子だ?手を出したりしないから言ってみろ」
「七さん……」
すっかり決め付けられている。
「ほんとに違うって。俺は女は苦手だよ」
苦手なのは女だけではないが──七哉は納得のいかない顔をして、じゃあ遊び仲間でもできたか、などと半ば独り言のように言っている。
お気に入りのバーが出来た、というのは何故か報告する気にならなかった。
まあいいか、と呟いて七哉は紫の肩にもたれかかった。
「ちょっと寝るからクッション替わりになっててくれ」
やれやれとその頭を見下ろすと、わずか数秒で七哉は寝息を立て始めている。
もともと忙しい七哉だがここ数日は特に休み無しだった。紫も先に引き揚げるように言われたりしている。リカと椎多の顔も暫く見ていないだろう。
それほどまでに走り続けて、一体どこへ行こうとしているのだろうか。
少しせつない気分で、紫は七哉の寝息を聞いていた。
胸が苦しい。
紫の膝の上にだらりと下げられた七哉の手を見つめる。その手を取ろうとしたかのように自分の手を伸ばした途端、紫はぎくりと息をのんだ。
そして、一度動かした手を、再び自分の脇へと戻した。
店をオープンした時に何の宣伝も打たなかった「谷重バー」ではあるが、少しずつ客が入るようになっている。
谷重は以前にも別の土地で同じようにバーを経営していたらしいが、その時の常連客をこちらに呼ぶということはなかったようでどれも新顔だった。以前から谷重を知っているのは例のBJという黒人だけである。
紫は谷重バーへ行く度違う種類の酒を飲んでみた。最初に谷重に言われたように、壁の端から順番に。ただ、これを全部テイスティング完了するにはかなりの回数が必要にも思える。
最初に行ってから1ヶ月ほど経ったある日──
店に入るとなにか景色が違うことに気付いた。
店の奥の、ぽっかりと口をあけていた空間に、一台のピアノが置かれている。
そこにピアノが入ることで、未完成の絵が完成したかのようにしっくりとした。
珍しげにカウンターからピアノを眺めていた紫を見て、谷重は少し得意げな顔をして笑っている。
「こう見えても、昔は進駐軍のクラブなんかでピアノ弾きをやってたこともあるんだぜ」
振り返り谷重の顔を見ると懐かしそうな、愛しそうな目でそのあまり高価そうでもないピアノを見つめていた。
「BJとはその頃知り合ってね。彼も故郷ではバンドマンだったのさ。そこにおいてある黒いケース、それは彼のサックスだよ」
百科事典を丸覚えする勢いで勉強した紫は、当然音楽のジャンルや歴史は承知しているが──それと興味とは別のところにある。音楽を趣味で聴こうと思ったことはなかった。
「ドラムやベースをやる人間がいればバンドで生演奏でもするところなんだけどね。気が向いた時にセッションできるようにピアノくらい置けとBJに言われていたんだ」
そのわりに、嬉しそうではないか──と思った。
いや、この店の内装を決定した時から、あの空間は最初からピアノを置くためにあけてあった筈だ。
サックスのケースを、BJは店に置いて帰ることもあれば持って帰ることもあった。
基地で今も練習をしているのだという。そのうち除隊すれば故郷に帰ってプロのサックス奏者になるのだと語った。
谷重とBJがただならぬ関係であることは、徐々にわかってきた。
BJはもともとどうもスキンシップ過多で──欧米人というのはそういうものなのかと戸惑いはするのだが──相手を構わずべたべたと肩や腰を抱いたりしている。見ているとどうやら殆どは他意がなく、癖のようなものだということはわかった。紫は何度かそれをされて手酷く拒絶したものだから、BJなりに気を使ってあまり接触しないようにしているらしい。
しかし、谷重に対するそれは、紫から見ても他の誰に対するものとも違っていた。
カウンター越しに谷重の手をじっと握っていることもあれば、谷重がカウンターから出てくることがあれば背中から抱きすくめたりもしている。
そして、谷重もそれを嫌がるでもない。
他の客もおそらくこの2人の関係に気付いてはいるだろうが、男同士のそういう関係を認めたくない者もいるだろうし気を利かせて黙っている者、BJが怒るのを恐れて触らぬ神に祟り無しをきめこんでいる者、それぞれの理由でそのことを言及する者はいなかった。
紫はといえば──
谷重に対してもBJに対しても好意に似たものはありこそすれ、悪感情はない。しかし、その2人がべたべたしているのを見るのは好きではなかった。
否、好きではないどころではなく積極的に嫌悪感を持っていた。
その理由は自分ではわからない。が、ただ気分が悪くなった。
「おまえさ、BJが俺にベタベタするの嫌い?気持ち悪い?」
閉店時間まで居て片づけを手伝う羽目になった紫は、世間話の合間にぽつりと出た問いかけに手を止めた。
無言で首を横に振った。実際は頷く方が近い。
「嘘つけ。そういう時って、眉間の皺が普段の三倍くらいになってるぞ」
カウンターの中で洗い物をしながら谷重は笑った。
「やめろって言うんだけどなぁ」
「……谷重さんは嫌じゃないんですか」
「もう慣れちゃった」
わはは、と陽気な声で笑う。
「──男同士でああいうのは気持ち悪いか?」
また、首を横に振る。今度は本当だった。
少し、沈黙があった。
「誰かを愛したことがある?」
今度の質問には答えられなかった。
首を縦にも横にも振ることが出来なかった。
わからない。
改まってそう問われてみると、それはひどく難問に思えた。
まるで、名前しか知らない酒の味の感想を問われたように──
谷重は少し興味深げに紫の顔を眺めている。
「おまえ、男同士がどうこう言うよりセックスが悪いことみたいに思ってるんじゃないか?」
からかい気味の笑い声が耳に入った。
「俺はさ、まあ女はダメなんだけど。男だろうが女だろうが別に悪いことじゃないだろ、惚れた相手なら尚更だし──」
ほんの少し、声のトーンが落ちる。何故かそんな小さなことが気にかかった。
「本当にやりたい相手じゃなくても……気が紛れたり慰められたりもするしな」
普段から、会話の九割は谷重が喋っているから、紫の返事がなくても谷重は気にしないようだった。しかし、そのままどちらが話題を続けるでもなくただ水道の水音がざあざあと空中を漂う。
実のところ、行きずりの男や女と試しに寝てみたことはあった。
しかし、それは単なる生理現象の処理に過ぎなかった。
というよりも、名も素性も知らないあかの他人に、誰かの罪を被せてそれを罰しているような気分になった。
おそらく、谷重の言う通り、自分はその行為そのものに罪悪感を持っているのだ。七哉に拾われる以前にまだ幼かった自分が、まるでなにかの罰のように無数の男女から性的虐待を受けていたことが原因なのだろう。
谷重が言っている行為と自分の知っているそれは、何か根本的に違うものだと思った。
紫が戸惑った表情をしていたのだろう。
きゅっと蛇口を閉めると谷重は大きく息をして苦笑を浮かべた。
「……まあ、本気で誰かに惚れたらわかるさ。その時、その相手に触れたいと思ってもそれは悪いことじゃない。それだけは覚えておきなよ」
谷重の言ったことが全く理解できないわけではない。
物語の中ではこうだ、一般的にはそうだ、という捉え方しか出来ないのは仕方ないように思えた。
わからないことが多すぎる。
そういえば子供の頃、寂しいかと問われて寂しいというのがどういう感情なのか理解できなかったことがあった。
今度は誰かを愛したことがあるか、だ。
そんなことを尋ねられても、愛するというのがどういう感情なのか実感がないので判断できない。
何か定義でもあるのなら、教えて欲しい。
七哉とリカは「愛し合って」いるのだろう。そしてその2人は椎多を我が子として「愛して」いるのだろう。
だろう、という推測でしか紫には計れないでいる。
一口に愛と言われても、七哉とリカの間にあるものと彼らが椎多に注ぐものは別のものだ。前者は性欲を伴い、後者は伴わない。
難しい。
それでは自分はどうなのだろう。
七哉とリカは、自分に対してなにを注いでくれているのだろう。
そこまで考えて胸が何かで痞えているように苦しくなった。
七哉の隣にいると時折こうやって胸が苦しくなったり妙に体温が上がった気になることがある。
その正体が何なのか。
気付き始めてはいるが、それを自分自身で認めることが紫は出来なかった。
谷重には自分の身の上話など何一つしていない。が、紫が胸にしまいこんで封印しようとしていたそんな感情を谷重には全部見透かされている気がした。
あの問答の後、紫は谷重の顔が見づらく──
谷重バーに足が向かなくなっていった。
街外れの住宅街で、以前のように『見回り』の散歩をしている時にBJと出会ったのは、あの問答から1ヶ月近く経過した日のことだった。
BJは深夜の住宅街ということもあってか、いつもの大声はひそめはしたが変わらぬ陽気さで紫に駆け寄ってきた。
もう訛りの強いBJの英語も殆ど聞き取れるようになっている。
「どうしたの、最近、店に来ないじゃない。ユキ寂しがってたよ」
「──」
「……俺はキミに嫌われてるからなぁ。でも、近々俺は故郷へ帰ることになりそうだから…そしたらまた店に行ってあげてよ。ユキ、寂しいんだよ」
「──帰る?谷重さんとは別れて?」
普段ならそんな詮索めいたことは言わないのに──
思わず疑問が口をついて出てしまった。
BJは──寂しそうに、そして大袈裟に溜息をついた。
「別れてもなにも──ユキは俺の事なんてなんとも思ってやしないからね。俺が一方的に好きだっただけだよ」
「え?」
「ユキは好きな人がいなくなって……寂しいんだよね。俺がそれにつけこんでるだけ」
それは──
「それじゃBJの方が寂しいんじゃないか」
BJは大きな目を優しげに細めて紫の頬を軽く叩いた。
「俺は平気さ。ユキが誰を好きでも、結局一番近くにいるのは俺だったんだから。ユキが寂しい時辛い時、そばにいてやれたのは俺なんだもの。ユキは寂しがりやだから…独りではいられないんだよ。でも……それももう終わりだな」
「どうしても……帰らなきゃいけないのか」
しょうがないよ、と肩をすくめる。この国の国籍を持っていないBJが好きなだけここに留まることは出来ない。
BJはそのまま大きく手を振って、闇の中へ去っていった。
紫はその、白いTシャツだけが宙に浮かんでいるような背中を見送りながら、ただ静かに戸惑っていた。
更に難問を課せられたような気分だった。
「──元米兵、殺害?だって。あのあたりに米兵なんかまだいたんだねぇ」
リカの素っ頓狂な声で紫は我に帰った。
床に夕刊を大きく広げ、リカは三面記事に目を通していたところらしい。
突然心臓がどくどくと音を立てる。
割り込むようにその記事に食いついた。
──日午前5時頃、●●町の路上で倒れている黒人男性を発見──
──狙撃された跡があり警察は殺人事件と断定、捜査を開始──
──身分証明書などから被害者は元米兵で不法滞在のブライアン・ジュード・バワーズ──
──BJだ。
間違いないと思った。
昨夜BJと出会ったのが深夜1時過ぎ、場所もそう遠くない。
ということは紫と短い会話をしたあと、数時間の間にBJは何者かに狙撃され殺されたのだ。
紫の様子をきょとんと見守っていたリカが何か声をかけているのも聞かずに外へ飛び出す。
夕焼けが静まって街は少しずつ夜になり始めていた。
店は準備中の札がかかったままになっていた。
もっとも、確かにまだ「準備中」の時間ではある。まだ店には来ていないかもしれない。
扉を押すと──
意外にもあっさりと開いた。
中は真っ暗だった。
「──まだ開いてないよ。いや、今日は休みだ」
店の奥から声が聞こえた。
「谷重さん──」
カウンター向こうのボックス席のソファから首だけを出して谷重は紫の姿を見た。
「ああ、おまえか……悪い、鍵を閉めておくのを忘れた。閉めといてくれ」
谷重は酔っているようだった。
「ちょうどいいや、今日は俺のおごりだ。おまえも飲め。どれでも好きなの飲んでいいぞ。一番高いやつでもいい」
「谷重さん、BJが……」
足どり重く歩を進めると、谷重は急に酔いの醒めたような顔をした。
「ああ……知ってる。しくじりやがったなぁ」
しくじったとは──何を?
「あいつは基地にいた頃、軍の銃やら弾薬やらをうまくちょろまかしてストックしておいてな、売りさばいてたんだよ。あちらさんも偉そうにしてたってそんなもんだ。それが前の街で地場のヤクザに目ぇつけられてさ。こっち移ってちょっとおとなしくして、ほとぼりがさめたら帰国することにしてたんだけど……まぁほら、目立つだろ。見つかったから強攻策で高飛びのつもりだったんだが……最後の最後にやられちまったってとこかなぁ」
それは──紫に近い世界の話だ。
こともなげにそれを語る谷重もまた、それに近い世界の人間だったのだろうか。
そしてBJは──自らの死が近いことを予感して、紫にあんなことを言ったのだろうか。
谷重は普段のカウンターの中の姿と別人のように、無造作にグラスに瓶の酒をぶちまけ、それを呷っている。
一度はいつものバーテンの『制服』に着替えようとして、途中でそれを放棄したのか。シャツの釦は半分以上留められていないしカフスも留めないまま。蝶ネクタイが結ばれずに首にかかっている。
「──だからとっとと帰れって言ったのに。見つかる前に。偽造パスポートだって持ってたんだからいつでも帰れた筈なんだよ」
すでに独り言になっている。そのまま素面で聞いているのは悪い気がしてきて、カウンターからグラスを取り、紫もソファに腰掛けた。
「BJ、谷重さんの傍にいられて幸せそうだった」
昨夜聞いたBJの気持ちを、谷重に伝えてやりたくなった。
「俺は──埋めてくれるなら誰でもよかったんだよ!たまたまあいつが俺に惚れてたから利用しただけだ!」
「それでもいいって。ユキが寂しい時辛い時にそばにいてあげられたのは自分だからって」
谷重はゆっくりと紫の顔を見た。目が潤んでいるのは酔っているせいだけではないのだろう。
そのままゆっくりと両手で顔を被って、谷重は暫く頭を抱えていた。
「──また独りになっちまった……」
小さな呟き声。
嗚咽のような、笑い声のような声だった。
それを今まで見たことのない悲しいものを見ているような気分で見つめる。
数々の苦しい思いをしてきた筈なのに、自分には何の関係もないのに。
どうしようもない悲しさが紫を襲った。
谷重が緩慢な動作で腰を浮かせると紫の腕を捕らえる。
「──慰めてくれ」
浮かせた腰を紫のすぐ隣に座り直らせて顔を肩に押し当てる。
「BJみたいにずっとじゃなくていい。今日だけは──独りでいたくない。おまえの好きな誰かの替わりでいいから」
肩に当てた顔をずらして紫の顎から口元へと唇を滑らせる。
その間、紫はそれを拒絶しようとはしなかった。
狭いソファからずり落ちて床に座る状態の紫に跨り谷重が腰を揺らしている。
跨られるのは嫌いだ。
眉を寄せると紫は起き上がるように体勢を変え、板の床に押し付けて更に奥へ。
普段はあまり気にならない油引きの匂いが鼻を掠める。
時折ごく小さな悲鳴のような声を上げる以外は、谷重はずっと黙っていた。
行きずりの相手と寝た時には決してしなかったけれど──
繋がったまま強く抱きしめて、接吻けてみる。
難問がひとつ、解けたような気がした。
「──すまなかったな。こんなおっさんの相手させて」
ソファに横になったまま、谷重が呟いた。
もう深夜になっている。
紫は、小さく首を横に振った。
──あれから谷重さんはどうしたろうか。
昨夜は谷重を店に残したまま店を後にしたが、その後の谷重のことが気にかかっていた。
請われるままに谷重を抱いたことが正解だったのか、間違いだったのかはわからない。ただ、谷重はそれ以上のことを紫に求めることはしなかった。
BJが、寂しがりやで独りではいられないと言った谷重。
いい大人のくせに、独りではいられないなど馬鹿げている。
しかし、それでも気にかかった。
多分顔を合わせれば気まずい。谷重は平気な顔をするだろうが、自分は気まずくなるのが目に見えている。
店に入ったら極力いつもと同じ顔をしていつもと同じように次の順番の酒を注文しよう。
そう考えながら谷重バーの扉の前に立つと──
あの木の扉には一枚の張り紙があった。
『店主都合により谷重バーは閉店致しました。ご愛顧ありがとうございました』
ドアをがたがたと揺らしてみる。押しても引いてもその扉は開かなかった。
中にはもう誰もいない。
いないのは判っているのに、扉を叩いた。
ノックではなく、何かを殴っているように──
そしてあなたは、独りで何処へ行くんですか。
俺はまだ、店にあった酒の四分の一も味見していないのに。
通りがかった隣の店の親爺が扉を叩く音に気付いたらしい。
「ああ、急だったねぇ。今朝いきなり大きなトラックが来て酒から椅子やらピアノやら、一切合財持ち出してったよ。ありゃぁ夜逃げだね。いや、朝だったから朝逃げかぁ?」
親爺は勝手に喋ると下卑た笑いを残し自分の店へと引っ込んでいった。
「夜逃げ」せねばならない理由など──
BJが殺されたことに関連しているとしか考えられない。
BJが銃や弾薬を売買していたというなら、そしてそれを承知していたというならBJが狙われたと同じ理由で谷重が狙われたとしても不自然な話ではない。
おそらく、谷重はいつでもこの店を引き払う準備は出来ていたのだろう。
ここに突然出現した時のように、きっとまたどこかの街で何十年もそこに佇まっているような顔をして谷重バーは店開きするのだろう。
何と呼んでいいのかわからない感情がぐるぐると胸の中を駆け巡っている。
もう一度だけあの木の扉を強く叩くと、紫は谷重バーに背中を向けた。
そして、リカと椎多のいる家へと引き返す。
今夜は、七哉も帰ってくる筈だ。
そうだよ、谷重さん。
俺は本当は七さんに触れたい。
それがどうしても嫌だった。
相手を征服して服従させる為の暴力だと思っていたから。
そうじゃないってことはわかったけど、
それでも俺には出来ない。
七さんは独りじゃないから。
でも、BJが言ってたことが少しわかる気がする。
俺は、七さんの傍にいられれば幸せなんだってこと。
どんな形でも七さんの役に立てて、傍にいられれば──
俺はそれでいいんだよ。
「谷…重…バー……ここか」
古びた木の扉を押し開けると、ひょろっとした若造がサックスを吹いているのが見える。数人の客がそれに拍手を送ったりやじったりしている。バーの雰囲気にしては少々賑やかだ。
澤康平はカウンターに腰かけると周囲をぐるりと見回した。
3ヶ月ほど前にはまだなかった筈の店だが、情報を頼りに辿りついた。それにしても老舗バーのような佇まいだ。中にいたヒゲの親爺がおしぼりを手渡す。ほぼ同時に乾きものの小皿とコースターが目の前に並べられた。
「いらっしゃいませ」
じろじろと検分するようにこのバーテンを睨めまわしてから、澤康平は小声でぽつりと言った。
「──あんたが、悔谷雄日?」
「なんです?人違いでしょう。私はこのバーのマスターで谷重といいます。今後ともご贔屓に」
髭に埋もれた笑い皺をさらに深くして、谷重宏行はにっこりと笑い、言った。
「──さて、何になさいます」
*the end*
*note*
本編でなんとなく出てきた「シゲ爺」。当初「昔日」の章で書き始めたんですが、シゲさん関係を書くのが思った以上に楽しくてどんどん膨らんでしまい、本編の主人公である椎多と全く関係のない話の流れになってしまったので独立しました。
実は「谷重バー」という名前も、シゲさんの本名もこの話で初出だったんですよね。それまではふわっとしたイメージでしか書いていなかったので。これを書くことでシゲさんのキャラクターが作者の中でやっと安定しました。ふわっと書いてた時は攻のイメージだったのに気が付いたら受だった…。
ということなんだけど初っ端から紫さん。なんと、紫さんもここの常連だったという………でも紫さんは谷重バーの常連だったことももちろん谷重さんとあんなことがあったなんてことも、誰にも誰っっにも言ってないし、もちろん谷重さんのちゃんとした正体(名うての殺し屋だとか鷹さんの師匠だとか)は知らずじまいです。