top of page

Sin.co -Re:The Ultimate Sin- main tales

0069透過gl.gif

 母校の高等部同窓会から、卒業10周年パーティの招待状が届いている。
 面倒だ、多忙を理由に欠席しようと思っていたら秘書の名張光好に捕まった。

「一学年に何人いたんですか?社長の学年って人数が少ないんですよね確か?150人くらい?その学校、そのてのパーティの出席率ってどんな感じなんですか?けっこうたくさん来ますよね?100人くらいは余裕で来ますよね?じゃあ名刺70枚ノルマで集めてきて下さいね。もう持ってる人でも役職とか変わってるかもしれないからちゃんと新しいの貰うようにして下さい。そういうのお得意ですよね?よろしくお願いします」

 名張がどこで息継ぎしているのかというほど一気に喋るのを見て、椎多の後ろに控えていた柚梨子が堪えきれずに笑いを漏らしている。
 名張は昨年、新卒2年目ながら社長──つまり椎多専属の秘書チームのチーフに抜擢した若手のホープだ。チーフだからというわけではなく秘書室に配属当初から一番の若手のくせに一番偉そうにしている。時には腹が立ってぶん殴ってやろうかと思うこともあるが、基本的には名張のそういうところがまあまあ気に入っている。マシュマロマンのようにむちむちと太ってテカテカしているのだけが難点だ。

 椎多が行っていたのは幼稚園から大学まで一貫教育のエスカレーター式の私立校である。椎多は小学校までは近くの公立校に通っていたが、警察沙汰の大ごとにはならなかったとはいえ誘拐されるという騒ぎがあったためだろう、父が中学からこの学校に編入させた。
 そこに通う生徒たちの親はといえばいわゆる名家と呼ばれる由緒正しい家柄だったり、大物政治家、大企業の経営者や重役、大物芸能人、伝統芸能の継承者、世界レベルの有名スポーツ選手、高名な芸術家などなど──つまり生徒たちの多くは生まれた時から将来へのレールが敷かれている者たちだった。
 高等部からは国立大を目指す特別進学コースのほか音楽コースや美術コースなどもあり、専門分野の著名な大学を目指したい者にとってはなかば予備校状態になっている。1年は必修科目が多いこともありクラス編成は各コースの者が混在していたが2年以降はクラスそのものもコースに応じて編成されるので、1年での同級生も交流が途絶えることは珍しくなかった。


 名張がパーティに出席して名刺を集めて来いという理屈は椎多もよくわかっている。
 親の敷いたレールを走り始めているだろう20代後半の者たちと、同級生というだけの関係性ですんなり名刺交換できるのだから、異業種交流会などよりよほど効率がいい。もっとも、利用できそうなルートを辿った者たちはとうに表向き友人としての付き合いはあるし、そういう者は青乃との結婚披露宴や二次会のパーティに招待している。新しく名刺交換するとしたら、これまで取りこぼしていた者や最近になって起業したり成功した者がターゲットになる。

 その頃のことを久しぶりに思い出していると、ある新聞記事と、窓辺に浮かぶシルエットが記憶の端をよぎった。


 彼はどうしているのだろう。生きているのだろうか。
 生きていたところで、同窓会のパーティなど彼はきっと来ない。
 彼の世界は、あの学校にはどこにも無かったのだから。

 

『パーティ、行くだろ?佐伯理々子来るらしいぞ。去年主演女優賞とかとって今CMとかドラマとかめちゃくちゃ出てるだろ。やっと親の七光りって言われなくなってこれからどんどん大女優になっていきそうだし、ここで顔繋いどかないと同級生くらいじゃ洟もひっかけてもらえなくなる』

 "表向き友人"の一人、木幡がパーティについて電話してきた。
 五十音順の出席番号の前後のせいか、"高校の学友"の中ではまだ比較的嫌々でもなく付き合いが続いている。もっとも近年は年賀状のやりとり程度になってはいた。
 木幡の父親は国政に関わる政治家なのに、その後を継ぐべく経験を積むためにやっていたはずの親の秘書に嫌気がさしてレールを外れてしまった落ちこぼれ。今は同窓会の事務局の仕事もしているらしい。しかしレールを外れるだけあってまあまあの俗物だ。たいてい木幡との会話は経営でも政治でもなくくだらないゴシップ話になる。

「佐伯理々子な……。中等部の時一瞬付き合ったけどあの時点ですでにまあまあ面倒臭い女だったぞ。パーティに来てたってどうせサインもらって握手して写真撮ってもらって終わりだ」
 大物映画俳優とミュージカル女優の娘で自身も子役としてすでにテレビや映画に出演していた、少し気位の高い少女の面影を頭に浮かべる。確かに群を抜いて可愛いかったが、たかが芸能人一家の一員のくせに何故か椎多だけでなく多くの男子生徒に対して上から目線で振る舞っていた。
『ちょっと待てそんな話俺は知らないぞ』
「そりゃ誰にも言ってないしな。付き合って一週間でやっぱりやめとくゴメンって言われて。向こうが告白してきたのになんで俺がフラれた感じになってんだ?っていう。もう俺あの学校で女と付き合うのは金輪際やめようって思ったもん」
 受話器を肩で挟みながらウィスキーの水割りを作る。
 ここ最近、こんな他愛も無い話を電話でだらだら話すことが無かったな、などと思いながらちびちびと水割りを口に運ぶ。


『そうそう、あとさ。津々木も来るみたいだよ。おまえ、覚えてる?』

 ぎくり、とグラスを落としそうになった。
 その動揺は木幡には伝わっていない。

「……津々木って、音楽コースのやつだろ。留学したんじゃないのか」


 白々しい。
 彼が留学なんか出来なかったことを、俺は知っている。
 しかし、今の彼がどうしているかということは全く知らなかった。生きていたことも今知った。
 あの新聞記事も、一度読んだきり読み返すことが出来なかった。

──将来を嘱望された若き天才ヴァイオリニストの悲劇。

『うん、確か高1の秋に留学するかなんかで居なくなった。だからあいつのこと完全に忘れてたんだけど、出席の返信の現職欄、会社員になってた。音楽の道は諦めたんだろうな。ハタチ越えたらただの人ってやつか』
「──おまえには言われたくないだろ」
 木幡も"ハタチ"を超えるまでは、将来は父親の地盤を引き継いでこの国を背負って立つ政治家になる筈だったのに、今では父のコネで入れてもらった企業の窓際で呑気に気軽に楽しく生きているのだ。断言してもいいが政治家には向いていないし今の誰にも期待されずにマイペースに、しかし経済的な不安もない状況が木幡にとっては幸せなのだろう。

 受話器の向こうで当の木幡は臆面もなく笑っている。あちらも飲みながら話しているのかもしれない。どこかテンションが高い気がする。


『──そういえば1年で同じクラスだった時さ、おまえ津々木と"付き合ってる"とか爆弾発言してなかったか?』

 ああ、そうだった。
 それがあの夏の始まりだったんだな。

「おまえらが小学生のガキみたいにあいつをからかってイジメてたからむかついたんだよ。それだけだ」
『あ、そうなの?ガチかよ、ってドン引きして全員黙ったし作戦成功ってこと?でもあれ、何人かは多分それアリだったのかって悔しがってたヤツいたぜ。絶対。だってあいつ女子みたいにきれいで可愛いかったじゃん。文化祭の女装ミスコン出したかったよ。写真売ったら一儲けできたな」

 こういう無邪気で無意識な悪意があいつを自分の世界に閉じ込めさせた原因のひとつなんだろうな──

 木幡との会話にうんざりし始めて適当に話を切り上げ電話を切る。
 グラスにはまだ水割りが半分ほど残っていた。それをぐっと一息に呷る。 
 
 そうか。弦斗は生きてたのか。
 生きてて、同窓会なんてものに来るのか。
 だとしたら、きっと顔を合わせるくらいはする筈だ。
 気が重い。
 できれば会いたくない。会うのはなんだか怖い。

 名張に名刺集めのノルマを言い渡されてしまったけれど椎多は早くもどうにかしてキャンセルできないかを考え始めていた──が、結局キャンセルは叶わなかった。


 同窓会パーティは決して楽しいとは思わないものの、普段出席している仕事関係のパーティに比べれば特に何かに気を配ったり謀略を張り巡らせる必要もなく気楽と言えば気楽だ。予想より卒業以来会っていない者も多くいて、見回してみると卒業してたかだか10年しか経たないのに誰だかわからないほど容姿が変わっている者もあれば卒業式からタイムスリップしてきたのかと思うほど変わらない者もいた。女子たちは化粧のせいもあってイメージよりも格段大人に見える。企業でばりばり働いている者、官僚になったもの、家庭に入り子育てをしている者…など現状によって同級生とは思えない差が生まれ始めている。卒業20周年などというパーティがあれば、もっと差は開いていくのだろう。
 受付に座っていた木幡も始まって暫くしてからホールに戻って談笑を始めた。

「──あ、ほら。あれ。津々木じゃね?違うかな?」

 木幡の声に一瞬で血の気が引いた気がする。
 何故か首筋に鳥肌が立っている。
 ゆっくりと振り返ると、椎多たちのいる場所から5mほど離れたところで女性たち──あれは音楽コースの同級生だった女子たちだ──と話している男が見えた。
 一見しての印象が記憶の中の姿と全く合致しない。


「いや、そうか……?」
 背が高い。痩せてはいない。色白ではある。野暮ったい眼鏡をかけている。さほど高級そうではないスーツを着ている。あまり身だしなみに繊細に気を配っているようには見えない。
 椎多が普段、仕事で出会う取引先にでもいそうな普通の男が手を振る木幡に気づいて振り返った。
 少し頭を下げ、にこやかに微笑みながら近づいてくる。

 記憶の中の津々木弦斗とはまるで違うけれど、顔は確かに本人だ。

 シャンパングラスを右手に持ち、会釈のように左手を持ち上げて小さく振った。その左手に目が釘付けになる。
 その左手は、白い手袋に収まっていた。

0069透過gl.gif

 高等部に進み、新しいクラスに編成された頃から少し気にはなっていた。

 椎多のクラスには各コースの生徒が混在していて、音楽コースは5人、うち男子は津々木弦斗ひとりだった。
 まだ成長期途中で身長も伸び切っていない津々木は女子に混じっていても全く違和感がない。箸が転んでも可笑しい少女たちの中で、会話に参加するタイミングがつかめずにいつも後方で困ったように微笑んでいるだけ……といった様子である。
 また津々木は驚くほど色白で、北欧かどこかのハーフだと言われても信じてしまいそうな顔立ちのいわゆる美形で、どこか少女っぽく、口紅でも塗っているのかと思うほど唇の血色がいい。

 特進でも芸術コースでもない一般人である椎多たちのグループの一部は、4月の終わり頃には津々木をその容姿でからかうようになっていた。女子のように扱ったり可愛い可愛いと褒め殺そうとしているうちはまだましだったが、一学期の期末考査の頃になると名前でなく『オカマ』などと呼んで憚らない者まで出始めていた。

 椎多の通っていた公立の小学校でも、可愛い顔立ちの男子はたまにそうやってからかわれていたという記憶がある。おとなしくて顔立ちがやさしい男子はオカマと呼ばれ、男子より身体能力が高く勇ましい女子は男女などと呼ばれていたのを椎多は小学生ながらバカバカしい、ガキっぽい、と冷たい目で見ていたものだ。もっとも、それをやめさせようとするほどの正義感も無くバカにしながら傍観していたのだから結局同じ穴の貉である。

 それは確か、期末考査が終わって解放感に溢れた同級生たちがどこかで遊んで帰ろうかと相談していた時だった。

 試験が終わったばかりだというのに音楽室へ向かおうとしていたのだろうか、バイオリンケースを抱えてそそくさと教室を出て行こうとする津々木を誰かが捕まえた。
「おうオカマ、たまには俺らとゲーセンでもいこうぜ」
「それより親父の知り合いのブティック連れてってやるよ。ピンクハウス知ってるか?ぴらっぴらのフリルで可愛いぞぉ、おまえそんなのが好きなんだろ?」
「うわ、キモ。似合ってもキモいわ」
 津々木はただ大事に守るようにバイオリンケースを抱きしめるだけで何も反論できずにいる。輪になった同級生たちの中でボール回しのように行ったり来たりさせられていた。

「もういい加減にしろよ」

 別に小学生の頃の反省を深く心に刻んでいたわけではない。ただ、いわば将来この国をそれなりに動かすかもしれない連中が、高校生にもなって庶民の小学生と同レベルのことをやっているのが──それを自分の周囲で見せられているのが、単純に"ムカついた"のだ。
「津々木、困ってんだろ。このあとまだ練習するんだからほっといてやれよ」
「あれ嵯院、オカマ庇うの?好きなの?」
 ニヤニヤ顔のからかいが椎多の方に飛び火した。他の者はひゅーひゅー、と囃している。
 心底馬鹿馬鹿しい、と大きな溜息が出た。

「ああそうだ。俺、こいつと付き合ってんだ。悪いか」

 今の今までひゅーひゅーと楽し気だった連中の顔が一瞬で凍り付いた。
「……え、マジで言ってる?」
「だから悪いのかって聞いてるだろ。男が男と付き合ってどこが悪いんだ。言ってみろよ」
「だって……なあ……?」
「なあ、何だよ。何が悪いのかもわからずにひやかしてんのか、頭悪ぃ。俺を納得させるくらい理論的に何がおかしいのかプレゼン出来たら謝ってやるよ。出来ないならもう金輪際こいつにちょっかい出すな。俺が黙ってねえぞ」
 "組"仕込みの睨みをきかせてやったら同級生たちは完全に沈黙してしまった。
 多分、連中の中で『こいつはヤバイ奴』だと認定されただろうがそんなことは全然気にならない。というより、あいつらと同レベルの仲間だと思われている方が何倍も嫌だ。

「行くぞ、弦斗」

 津々木を下の名前で呼ぶのは初めてだったが、いつもそう呼んでいるかのような顔をして椎多は津々木の腕を取り輪の中から引っ張り出した。その間も津々木は一言も発していなかったが、ただ驚いたような目をして椎多の顔をじっと見ていた。


 校舎の端、芸術棟との渡り廊下まで来たところで津々木は初めて弱々しい声を出した。
「嵯院くん、あの……ありがとう」
「あいつらガキすぎてむかついたんだよ。気にすんな」
 ずっと津々木の腕を掴んだままだったことに気づいて椎多はようやくそれを離して笑う。
「それより勝手にあんなこと言って悪かったな。それでもしまだ何か言ってくる奴がいたら俺が黙らせてやるからすぐ言えよ」


 津々木は声を立てて笑った。
 多分、こんな風に笑う顔を見たのは初めてだろうと思う。


「じゃあ友達になってよ。付き合ってるって思われたんだったらかまわないよね」
「ん?うん、まあいいけど……」
 なるほど、単にクラスに心を許せる奴がいなかっただけで、津々木は別にもともと人見知りだとか孤独を愛する芸術家肌だとかそういうわけでもなかったのかもしれない。
「じゃあさ、じゃあさ、今日うちに遊びに来なよ。テレビゲームとかマンガとかは無くて悪いけど。嵯院くんと話してみたい」
「……なんだ、おまえ意外と押しが強いんだな。一学期の間ずっと猫かぶってたのかよ」

 だって、僕の世界に入れてあげてもいいような人、誰もいなかったから。

 独り言のように言った津々木の言葉は、椎多の耳には届かなかった。

0069透過gl.gif

 椎多の「家」はというと明治期の華族の邸宅で敷地も広大な「お屋敷」である。それに比べれば住宅地にある邸宅は「普通の家」だ。それでも庶民が住む一般の建売住宅の5倍はある。


「今、両親はヨーロッパに演奏旅行に行ってて。おもてなしは出来ないけどその分気軽にしてね」


 はしゃいだ声で玄関の鍵を開けると津々木弦斗は新しい友人を邸内に導いた。

 ほどなく、迎えの車を運転していた若い男がダイニングの奥から顔を出す。
 まだ大学を出て数年経つかどうか位の年頃に見える。デザイナーズブランドのスーツを着こなし、痩せてはいるがおそらく筋肉質だろうということは胸板の厚さで察しがついた。それがぴたり合っているのだからスーツはオーダーメイドなのかもしれない。身長は高い方だとは思うが椎多はもっと馬鹿でかい男を知っているせいか特に長身だとは思わなかった。地黒なのか日焼けなのかはわからないが色黒の肌が少し軽薄そうに見える。
 そのスキー場だかテニスコートだかで女子を周りに侍らせていそうな男が、キッチンからピッチャーに氷とともにたっぷり入れた色の濃いオレンジジュースとグラスを運んでくるのが妙に滑稽に見えた。
「アイスコーヒーも作っておきますね」
「ありがと、根津さん。夕食、彼の分も作れる?」
「もちろん」
 広いリビングにはピアノが一台、それと大きなスピーカーを備えたステレオが置かれている。テレビはない。
「根津さん、両親のマネジメント会社の人。駆け出しのマネージャーだから両親の現場に連れてってもらえなくてここの留守番と僕のお世話係やらされてるの」
 悪戯っぽく笑うと弦斗はグラスのオレンジジュースを飲み干し立ち上がった。
「招待しておいて悪いけど、ちょっとだけ練習させてね。1日でも練習さぼると先生にすぐばれちゃう」


 ちょっとだけ、と言いながら弦斗はそのまま2時間、バイオリンを手から離さなかった。その合間合間に椎多に質問攻めしてくる。さすがに親は大企業の経営の他に暴力団もやっている、などとは白状できないがまるでインタビューされているようだ。おそらくこの1時間ちょっとの間に、他の同級生よりも弦斗は椎多についてよく知ることになったのではないだろうか。そうして質問のネタが切れると今度は自分の家族のことを話し始めた。

 弦斗の両親はともにクラシックの音楽家で、頻繁にこの邸宅を空けて長い演奏旅行に出かけているという。椎多はクラシック音楽には全く興味がないので知らなかったが、両親ともある程度知識のある人間なら絶対に知っている音楽家らしい。

 きょうだいは妹が一人。

 何故か勝手に"弟"っぽいと思っていたが、弦斗は"兄"だったらしい。

 

「妹は今はパリにホームステイしてあっちの音楽学校に通ってるんだよね。僕は両親に期待されてないんだと思うよ」
 ヨーロッパには子供のホストファミリーになってくれる知人が豊富にいるらしい。まだ小学生の頃に妹はそんな知人に預けられて数年、今ではすっかりパリジェンヌ然と育っている。しかし兄である弦斗はひとりこの邸宅に"置いてけぼり"になっているのだ。

 質問攻めにあいながらも、弦斗の弾くバイオリンの音を聴いているといやに眠くなってきた。別に試験のために徹夜で一夜漬けをしたわけでもないが、脳が疲れているのかもしれない──

「嵯院くん、どしたの?眠い?」

 弦斗の声が遠い。どうしても瞼が重くて開いていられない。返事をしようと思ったがそれも出来ず、椎多はついに目を閉じてしまった。


 ずっとバイオリンの音が聴こえていた気がする。

 そのまま眠っていたいような誘惑に駆られたが、重い瞼をこじ開けて視界に入る情報を整理しようと思った。天井だ──天井だな──と当たり前のことがのろのろと頭に浮かぶ。その視界に覗き込むような弦斗の顔が不意に飛び込んできた。
「目が覚めた?よく眠ってたよね」

 やばい、油断した。
 本能的に警報が脳内に響く。
 目は覚めたが身体が動かない。まるで手足それぞれに鉛が括りつけられているかのように、じりじりとしか動かない。

──さっきのジュースか、アイスコーヒーにでも睡眠薬か何か盛られたのか?

 焦りや怒りの感情が顏に乗ったのに気づいたのだろう。弦斗はにこにこと微笑みを浮かべたまま椎多の頬を指でそっとなぞった。かと思うと弦斗の頭がそのまま覆いかぶさるように視界を横切ってゆく。
 耳の下あたりに、温かく柔らかい感触がした。生暖かい息が押し殺した笑いのように漏れてかかる。
「ごめんね、ほんとは薬なんて使いたくないんだけど、嵯院くんケンカが強いって聞いたことあるから怖くって」

──怖くてって何だよ。ああくそ、いつも通り身体が動いたらこんな顔裏拳一発で吹っ飛ばしてやるのに。

 うまく発音が出来ずに心の中で罵倒する。
 息のかかっているあたりに湿ったもの──おそらくは舌──が動きまわっているのを感じる。時折電気が走るようにぞくり、身体が震える。

「嬉しいな、やっと判ってくれそうな人に会えた。僕の世界にようこそ」

 宣言するように囁いた唇はそのまま顎の稜線をたどり、鎖骨の壺に到達する。ぶるっと身体が震えたのを見て弦斗は目を見開き、笑った。
「へえ、きみはこんなところが感じるんだね。おもしろいな。どこが一番気持ちいいか探してあげるね」
 愉しそうに言うと弦斗は掌や指も駆使して椎多の指の先端から腕、腋、胸、腹、脇腹、背中──と丹念になぞり始めた。
 意識そのものはようやくはっきりし始めたが、身体がまだ思うように動かない。


 どうやら眠っている間に自分は素っ裸にされているようだとようやく気づいた。いや、自分だけではない。弦斗も裸になっている。捜索の合間に時折素肌と素肌が擦れ合う。
 上半身の捜索を終えると今度は捜索の範囲を下半身に移した。
「きみが眠ってる間に、くまなくちゃあんと洗ってあげたから。気にしないで」
 愉しくて仕方ないように笑い、足の指の間に舌を這わせていく。足首、ふくらはぎ、膝の裏、そして内腿──
 堪えきれずに吐く息に声が混じる。

 嬉しそうな顔をして弦斗は時々椎多の顔を確認するように覗き込み、頭や頬を撫でてまた探索に戻っていく。


「根津さん、それ取って」


 指示に従い、視界の外から手が伸びてきて何かの瓶を弦斗に渡す。あのマネージャーの男もここにいるのか?
「いいローション使ってあげるからそんなに痛くないと思うよ」
 その声が耳に届いたとほぼ同時に、ぬるりと何かが体内に侵入した。

 本来なら排出する機能しかない筈の場所に入り込んだ、異物を排除しようとするように反射的に強く締め付けるとぬるぬるした感触がなおさら気持ち悪い。異物は自発的に動いている。それが弦斗の指だ、ということがわかった。

──おい、ちょっと待てよ……

 『ちゃあんと洗った』という弦斗の言葉が頭に蘇る。

 眠っている間にこんなところまで洗ったとでもいうのか?まさか、中の方まで?

 入り込んだそれは何かを探るように蠢いたりゆっくりと抜き挿しの動きを始める。
 思わず閉じてしまっていた目を開けると椎多を指で弄んでいる弦斗は背後から根津に抱きすくめられるように自身も弄ばれている。
「ねえ、僕、挿れてみていい?がまんできない」
「いいよ、ためしてごらん」

──その挿れていい、はそっちじゃなくて俺に聞けよ……

 そう思ったのも束の間、椎多の身体は、おそらくは根津の手によって、うつ伏せに体勢を変えられる。背後から小さく、まるで何かの初心者がコーチの指導を受けて実技をしようとしているようなやりとりが聴こえてくる。腰を持ち上げられたかと思うと、先ほどまでの指よりも太いものが入ってきた。それが何なのかは見なくてもわかる。

──くそ、こんな……ひょろひょろの"お嬢ちゃん"みたいな奴に……

 しかしそれは二、三度動いたかと思うとすぐに抜き去られた。
 やはり背後でひそひそと声が聴こえる。と思うとすぐにまた別のものが入ってきた。これは弦斗のとは違う。
 内臓が圧迫されているような感覚で悲鳴のように声が出た。そのすぐ横に弦斗が寝転がるように顔を覗き込む。悪びれもせず、にこにこと笑っている。
「ごめんね、きみのここが悦すぎてすぐ達っちゃった。代わりに根津さんがたっぷりしてくれるから。慣れたらきもちよくなるからちょっとがまんしててね」
 弦斗の声は聴こえてきても何を言っているのかさえ脳が処理しない。時折体勢を変えながら、やっとはっきりし始めた意識が再び朦朧とするまで揺さぶられ続けた。


 ようやく解放されたと思ってうっすらと目を開けると椎多の足元のあたりで今度は弦斗が根津に揺さぶられているのが見えた。弦斗は『慣れている』のだろうか。まるでアダルトビデオの女優のように声を上げている。

──えらいもんに巻き込まれちまった……

 薬の効果がまだ続いているのか、それとも脳が容量を超えてしまったのか。気を失うようにそのまま椎多は再び目を閉じてしまった。

0069透過gl.gif

 バイオリンの音が聴こえる。

 目を開けると、薄暗い部屋の中に窓が見えた。薄い色のカーテンが引かれたその窓からほのかな光が差している。まだ夜にはなっていないのだろうが、夕刻にはなっているようだ。
 その窓のこちら側にバイオリンを弾いている少年のシルエットが浮かんで見える。


 弦斗が裸のままでバイオリンを弾いている。


 女でもなく、大人の男でも子供でもない。少年らしい不安定な、しかし絶妙なバランスの肢体。色白のそれはまるでそれ自体が発光しているようだ。


 彫刻のようだ、と思った。
 美術品など興味を持ったことはない。しかし、まるで大理石の彫像のように見えた。
 身体を起こすと今度は思うように動くことが出来た。ベッドの上に座ってそれを眺める。


 頭が鈍く痛む。全身が怠重い。そして尻にまだ何か入っているかのように気持ちが悪い。柄の悪い連中に喧嘩を売ったり買ったり巻き込まれたりして痛い目に遭ったことも遭わせたこともあるし、そういう事に対する危険予知はそれなりに身に付けてきたつもりだった。しかし自分がこういう、ほぼ抵抗できない状態で性被害に遭うようなケースは想定に入っていなかった。椎多にとってはみすみす無抵抗の状況に陥れられたことがまず悔しい。こいつら、どう落とし前をつけさせてやろうか──

「美しいでしょう」

 根津の声が聴こえた。振り返ると根津はもうすっかり何事もなかったかのように衣服を身に付けている。薄いピンクのシャツにもブランドもののスーツのボトムにも、細いネクタイにもシワひとつない。──が、その目はうっとりと窓辺の少年を見つめていた。


「……なんの為に俺を巻き込んだ」
 最初は弦斗が主として根津を思うように使っているのかと思った。

 しかし先ほどの様子からして、むしろ根津の方が弦斗を支配しているのではないか、と思ったのだ。

 弦斗をあんな風に仕込んで飼い慣らして、新しい玩具として自分を巻き込もうと弦斗を誘導したのは根津だったのではないか。

 椎多の懐疑の目に気づいているのかいないのか、根津はぴくりとも動かず視点を固定したままうっすら微笑んだ。
「──弦斗さんのバイオリンを、ご両親はあまり評価していませんでした。技術的には問題はないが単調に楽譜を再現しているだけで音に面白みがないと。最初はそんな意図はなかったのですが私と……こういうことになったあと、それを知るよしもないお父様から褒められたんだそうです。良い音になってきた、と」
 ぽつりぽつりと語りながら、根津の目は窓辺の少年から動きはしない。
「お父様から褒められたのが初めてで、弦斗さんはとても喜んでいました。それから──」
「バイオリンのために、寝てやってるのか」

 そうですね、と呟く。

 音楽のことはわからない。そんなことで表現力とやらが身につくのかどうかも椎多にはわからない。ただ弦斗と根津の中ではその要因と結果は他の可能性を排除して直結したのだろう。それは根津にとって、あるいは弦斗にとって、関係を続けるための都合のいい口実になるからだ。

「で、今度は突っ込む側を経験させてやろうということか?俺がそれにちょうどいいと?舐められたもんだな。何で俺だったんだ」

 たまたまからかわれていた弦斗を庇ってやったから気に入られたのか。助けてやってこんな目に遭わされるなんて割に合わない。

 根津は固定していた視線を、初めて──一瞬だけ、椎多に移した。


「薬など使っておいてこんなことを言うのは盗人猛々しいとは思うのですが」

 

 誰でもいいわけじゃなかった。

 男同士でこういう行為をすること、いやそういう感情を持つことすら嫌悪したり蔑んだりする人は少なくない。

 あなたはそうじゃない、と弦斗さんは判断したんでしょうね。

 庇ってもらえたことも嬉しかったようだし、

 

 あなたに"自分の世界"に来て、"友達"になってもらいたかったんですよ。

──こいつら、頭おかしいのか。

 自分で言うのも何だが、椎多は年の割には色んな人間を見てきている。

 自分を誘拐した犯人が銃でぶっ殺されるところも目の前で見たし、ほぼ誤射とはいえ友達だと思っていた人間を射殺してしまったこともある。麻薬で正気を失ったやつも、酔っぱらって荒れ狂うやつも、薬も酒もやっていないのに単にキレ散らかしているやつも、まあまあ一通り見たことはある。

 しかし、こういう風に"頭がおかしい"やつは見たことが無かった。

 椎多はまだ、愛情が生む狂気を目の当たりにしたことが無かったのだ。

 ざわざわと背筋が粟立つ気がした。

「……だとしてもこんな風に無理やりみたいにやられて、そうですかとお仲間になるとでも思ってんのか。言っとくがこれは犯罪だぞ。俺が被害届でも出したらおまえら2人どころか世界的音楽家とやらの両親まで破滅だ」
 心の中ではこんなもんで被害届なんか出してたまるか──と思いながら根津を睨みつける。この件に関して主導権を渡してはいけない。切り札は根津ではない、自分が握る。
 根津はそれを見透かしていて余裕があるのか、それともこれをどう収拾して椎多を黙らせるべきか慌てて頭をフル回転させているのかはわからない。まだ仕事の経験も浅そうな若造のくせに、どうして油断ならない。

「──もしこれであなたが去ったとしたら彼の心の疵になるでしょう。でもそれは彼にとって、彼のバイオリンにとって無駄ではない。あなたがどうしても許せないと仰るならそこが運の尽きです」

 この男は、雇い主である弦斗の両親に対する忠誠心は皆無だと見える。
 もし椎多に訴え出られて逮捕でもされるようなことになったら、全て自分が唆したと言って出来る限り弦斗の罪状を減らす証言をするだろう。忠誠なのか崇拝なのか拗れた愛情なのか椎多にはまだ判断がつかないが、とにかく弦斗のためなら何でもやりそうな男だ、ということ程度はわかる。

 脳裏に──
 父と、それに影のようにつき従う紫の姿が浮かんだ。


 紫もまた、父・七哉のためなら何でもやりそうだしおそらく実際に何でもやってきた男だ。

 紫は椎多が物心ついた時にはもう父の側にいた。はっきりとは覚えていないような幼い日の記憶の中にもぼんやりとでも紫は登場する。椎多が小学生の頃に"組"を任されて父の側を離れ、二人が揃っているところを見る機会は格段に減ったが、それでも紫が父に向ける眼差しは、"組長"や"父親"への敬愛の域を超えていると椎多は感じていた。


 紫と父は──"そういう関係"なのかもしれない。


 父がちょくちょく愛人を作っていることは知っている。だから基本的には父は異性愛者なのだろうが、紫と二人でいる時の父を見ていると何故かもぞもぞと落ち着かなくなる。だがそれは父も紫も男であるということが要因ではない。そこに対する嫌悪感ではなく、ただ──"あの二人"が"そう"かもしれないというのが受け容れられないだけだ。

 なるほど、自分の中に『同性愛に対する嫌悪』がもともとないからこそその先にひっかかっているのだ。それが弦斗をかばう言動に現れていて、だから弦斗に目をつけられてしまったのだ。

「嵯院くん、起きた?夕食食べていってくれるよね。なんなら泊まっていってもいいよ?」

 大理石の彫像のようだったバイオリンの少年は、逮捕されてもおかしくない仕打ちをした筈の相手に、なんの悪意もない無邪気な微笑みを向けた。そうしながらも宝物のようにバイオリンを丁寧に片づけている。


 本当に無邪気な気狂いなのか、全部わかっていて無邪気なフリをしているのか。
 
 狂気じみたこの二人がこのままの関係を続けていけるわけがない。
 まだあと数日でやっと16歳になる椎多にもその程度の予想はついた。
 彼らがどうやってどんな破滅を迎えるのか──
 興味が出てきた。

 とはいえ弦斗と根津にこちらを制圧できた、支配できると思わせるのは屈辱以外の何物でもない。服従しているわけではないというアピールだけはしておかねば。

「──ああ、腹へったよ。でもその前にシャワーかなんか使わせてくれ。身体がべとべとで気持ち悪い」

 

 出来る限り、少なくとも心理的には何のダメージも受けていないように、普段通りの声で言う。弦斗はむしろ椎多を支配しようなど欠片も思っていないように──自分の世界へのパスを手にした客人をもてなすように、満面の笑みで椎多の手を引っ張った。


「こっち。一緒に入ろ?洗いっこしようか」

0069透過gl.gif

 夏休みに入った。


 朝から深夜まで弦斗は殆どの時間、バイオリンと向き合っていた。秋の始めにはコンクールがある。
 このコンクールで優勝したら、世界的バイオリニストの登竜門と言われる名門の音楽学校に留学が約束されていた。
 親のコネではなく、実力で留学するために、弦斗はひたすら弓を握る。

 椎多は結局、毎日のように適当な時間になると津々木邸を訪ねるようになっていた。
「あれ、先生まだいるの」
「今日は少し長引いてますね。出直されますか?それとも」
 バイオリン教師が来ている時は防音のレッスン室に籠って何時間も出てこないことも珍しくない。
「出直されますかじゃねえよ。俺の顔見ただけでギンギンになってんじゃん。ほんと好きだね。弦斗とも毎日やってんじゃないの?」
「さすがに毎日というわけではないですよ」
 ぷっと吹き出し、ぺろりと根津の股間を撫でる。根津は目を細めると両手で椎多の腰を引き寄せ、Tシャツの上から椎多の胸の突起に歯を立てた。

 弦斗がいる時は弦斗と、練習が長引いている日は根津と──椎多の方から誘うことも増えていた。最初こそ薬などを使われて屈辱的な扱いをされたが、椎多は新しい遊びを見つけたようにその奇妙な三角関係に嵌っていった。
 中等部の頃には椎多の主な遊び相手は"組"の若い連中だった。それがいきなり新しい友人の家に入り浸るようになって自分達と遊ばなくなったことに、連中は心配や寂しさを感じていたという。まさか、椎多の嵌った"新しい遊び"がこのようなものだとは思いもしなかっただろう。

 そんな夏を送っているうち、夏休みも終盤に差し掛かっていた。
 コンクールまでもう何週間もない。

 

 椎多には音楽のことなどまるでわからないが、弦斗は何かに行き詰っているようだった。課題曲の解釈がどうしても落とし込み出来ない、と言っているのを聴いても理解の範疇にはない。

 それでも気分を変えた方が良いのではないかと外へ遊びに誘ってみたりもしたが、バイオリンから離れることも恐怖であるかのように弦斗はそれを拒否した。
 弦斗は夏休みの間、一歩もこの邸宅から外に出ていないのかもしれない。

 そんな時──根津は何かを、何が足りないのかを思いついたのだろう。

「弦斗さん、今夜はもうバイオリンはしまいましょう。それともしながら弾きますか?」
「やだ、そういうプレイがいいなら初心者用のいつ壊れてもいい安物でも買ってきてよ」
 膨れ面に深いキスをすると弦斗はおとなしく手を離した。ケースに丁寧に収めるのが待ちきれないように根津は弦斗を背後から抱きすくめ、シャツのボタンを外し始める。弦斗は疲れたように笑っているだけで抵抗はしない。
 しかし、根津はそのシャツを脱がせるやいなや、それで弦斗の両腕を縛り付けた。
「え、なに。どうするの」
 次にそのまま寝室に連れていくとベッドの上ではなく弦斗の勉強机の椅子に座らせ、裸にして椅子に縛り付けた。


 SMにでも手を出す気かな──とその様子を遠巻きに眺めていた椎多の腕を引っ張り、ベッドへ上げる。

──根津のやつ、また何か良からぬことに俺を巻き込もうとしてやがるな。

 椎多が怪しむ視線を投げているのも構わず、根津は自分もベッドの上に上がって椎多のシャツを脱がせ始めた。
「弦斗さんはそこで見てなさい」
「え」
 そういうと根津は椎多の身体を愛撫し始めた。

──お?何だ何だ?

「やだ、根津さん、僕も」
「だめです」
 根津の愛撫はこれまでにないほど丁寧で優しく、いいかげん"慣れて"きたはずの椎多も新鮮に反応してしまっている。無意識に声を出し、根津の身体を抱きしめる。焦らすように十分な愛撫の後、ゆっくりと身体を繋げてくる。それもいつもよりずっと丁寧で、自分よりも受け入れる側の快感を優先するように動き始める。
 揺らしながら、椎多の耳を噛んだりそのあたりを徘徊していた根津の唇が、椎多の口を覆った。
 舌が侵入し、絡みついてくる。
 これまで体中のどこを舐められても、何故か口だけは触れられていなかった。どう応えようか戸惑ったのは最初の数秒だけで、夢中で舌を出し自分からも絡める。

「だめ!キスはだめ!!やめて!!」

 椅子に縛りつけられている弦斗が暴れている。その泣き叫ぶ声も遠くにしか聴こえない。


「やだよ!根津さん!他の人にキスしちゃやだ!!」


 椎多が揺さぶられながら根津の手の中で果てる頃には弦斗の声は枯れていた。ぐったりした椎多を離すと根津は弦斗の拘束を解き、そして涙でぐしょぐしょになっている弦斗の頬を両掌で包んでその目を真っすぐに見る。


「弦斗さん、それが"嫉妬"ですよ。さあ、バイオリンを持って」

 ベッドの上で脱力したままそれを見て椎多は背筋に冷たいものが走るのを感じた。

──こいつら、本当に狂ってるのかも。

 根津の言葉に従い、一旦はしまったバイオリンを再び手に取った弦斗はそれから空が明るくなってくるまで防音室に籠っていた。椎多は弦斗のベッドに横たわったまま眠りに落ちていった。朝になり目覚めて帰ろうとすると弦斗は玄関まで見送ろうともせず──


「ごめん嵯院くん、当分来ないで。コンクールが終わるまで」


 と言った。

0069透過gl.gif

「お、元カップルのおふたりさん。焼けぼっくいに火でも?」

 あの時弦斗をからかっていたグループの一人が通りすがりにやはり椎多と弦斗をからかって行った。
「あいつ、成長してねえな」
 弦斗はふふふ、と笑っている。


 バルコニーにいくつか設置されているベンチのひとつに並んで座ると夜空を見上げた。
 もしかしてあの夏のひと月の出来事は、欲求の溜まっていた高校生の妄想だったのではないか、と思うほど津々木弦斗はどこにでもいる普通の大人の男になっていた。まだ声変わりしたてだった若い声もテノールの落ち着いた声になっている。あの時の弦斗はどんな声なんだっけ──とふと思った。

「あれから──」
 どうしてた、と訊こうとして、左手の白い手袋にどうしても目が留まってしまう。弦斗はそれに気づいてこれ?と笑い、ゆっくりとその手袋を脱いだ。

 手袋の下から現れたのは、親指以外の4本の指がほぼ根元から失われた左手──

「僕は別に気にしないんだけどね、会った人が気にするから面倒臭くて」
 弦斗は笑いながら再び左手を手袋に収めた。おそらく指の部分には何かが詰められているのだろう。


「あのあと暫くしてから新聞のコラムみたいな記事で読んだよ」
「『将来を嘱望された若き天才ヴァイオリニストの悲劇』だっけ?ちょっと盛りすぎだよね。僕は別に将来を嘱望されてもいないし天才でも無かった。あのままコンクールに出られたとしても入賞もしなかったと思うよ」

 そのコラムに書かれていたのは──
 その世界では名の知られたバイオリニスト夫妻が本格的に活動拠点を欧州に移すことになったというニュースに付帯するような形のものだった。
 これから活躍を期待されていた──と記事にはあった──長男が、コンクールの当日の朝、車のトランクに左手を挟んで親指を除く指4本を失った、というものだ。


 リアルタイムではそれは新聞に載るほどのニュースではなかった。いや、椎多が見つけられない程度にしか扱われていなかったのかもしれない。あの同じクラスの音楽コースの女子たちに尋ねても、彼女らもコンクールの会場で待っていただけでなぜ弦斗が棄権したのかもわからなかったのだという。その後も、どうやら弦斗は怪我をしてコンクールどころではなかったのだということしか知らされなかった。


 二学期が始まっても弦斗は学校には来ず、そのまま居なくなった。
 やがて、誰も真実を知らない──知ろうともしないまま、津々木弦斗は留学した、という認識だけが残った。

 コンクールに出られなかったのなら──いや、そんな重大な怪我を指にしたのなら、留学など出来るわけがない。
 何日もああでもないこうでもないと考えた末、思い切って9月末にあの津々木邸を訪ねてみると──
 
 すでにあの邸宅は表札を外され、売りに出されてしまっていたのだ。


 そんな折に、あのコラムを目にした。
 怪我をしたらしいということだけは小耳に挟んでいたけれど──指を失うほどのものとは思わなかった。
 左は、弦を抑える指だ。
 コラムはその痛ましい事故という悲劇に見舞われた少年にはまだ別の道があるはずだ、絶望せずに進んで欲しい……などというおためごかしで結ばれていた。


 そんな簡単に別の道が見つけられるなら絶望などしない。

 弦斗がバイオリニスト生命を絶たれたとしたら、あの二人の狂気はどこへ向かうんだろう。
 しかしまだそれを探り出すほどの力は、椎多は持ち合わせていなかった。

「事故ってあれには書いてあったけど」

 野暮ったい眼鏡の奥の目をくるんと動かして椎多の目を見ると弦斗はまたにっこりと笑う。
「事故。うん、僕がドジったんだよ。うっかり手を置いたままトランクを閉めちゃった」
「……嘘つけ」


 おそらく椎多の顔に猜疑心が浮かんだのが見えたのだろう。
 弦斗は困ったような顔で大きく息を吐き出した。
「そうだね、君には知る権利がある。僕らが最後どうなったのか」

──根津か。

「そう。根津さんがやったんだ。普段トランクなんか開かないのにね。僕は疑いもせずにトランクに手を掛けて──そして閉じられてしまった。一瞬だったよ」
「なんで根津が──」

 あんなに。
 崇拝といっていいほどに。
 根津はバイオリニストとしての弦斗を完成させることに執着しているように思えたのに。
 なぜその"生命"を奪ってしまった。

「根津さん、勝手に思い込んでたみたいなんだけど、僕が留学することになったら自分もついてけると思ってたぽくてさ。でも考えてみてよ。あの人両親のマネジメント会社のただの平社員だよ。演奏旅行にも連れていってもらえないようなぺーぺーのマネージャー。僕が留学することが決まったら、異動で総務か営業に回されるって内示があったみたい」

 ずきり。
 胸の底の方で、まだ乾いていない疵が疼く。

「僕がバイオリンを弾けなくなってしまったら、ずっとあの家にいられるって思ったのかも。でも僕も根津さんも知らなかった。両親は本格的に欧州に拠点を移すことをとっくに決めてて、あの家ももう売り払う計画が進んでたってこと。コンクールなんか優勝しなくても、僕はあっちに行けてたんだよね。僕がバイオリンをやろうがやるまいが、あの人と離れることになるのは決まってた」
 馬鹿みたいだよね、と弦斗は笑った。


 笑えるようになるまで、どれだけの時間を費やしたのだろう。


「コンクールの結果がどうであろうと、秋からは僕はあっちの学校に行けるはずだったのに、そんな事があったから両親はしばらく僕を国内の別の場所に転校させたんだ。誰も僕を知らない場所で、しばらくバイオリンのことを忘れられるようにって、両親なりに僕のために色々考えてそうしてくれたんだろうけど──」

 僕は、両親に捨てられたんだな、って思った。

「ああ、そんな顔しなくていいよ。命より大事だと思ってたバイオリンも、親からのなけなしの期待も、失くしたら死んじゃうかもと思ってたひとも、全部失ったと思ったけど僕はこんなに平気な顔して今も生きてる。結局生き残った者勝ちだよ」
「それで根津は──」
「死んだよ」

 救急車だけ呼んで、そのままいなくなった。
 ちぎれた僕の指を持って、近くのマンションから飛び降りたんだって。

 僕の指を切り落としたらこれからも一緒にいられるって思ったんじゃないの?

「よそのマンションからなんて、ほんと迷惑だよね」
 弦斗の表情は少しも変わらない。

 実際に切断された指を見て、根津は自分のしでかしてしまったのがどれほど恐ろしいことなのかをようやく理解したのかもしれない。その重みに耐えきれなくなったのだ。

 あの頃の俺には多分理解できなかっただろう。
 根津の狂気も、弦斗が今こうして他人事のように笑っていられることも。


 今の俺は、どちらの"狂気"も身に覚えがある。
 紫は俺を殺さなかったけど、根津のようにならないとは限らなかった。
 弦斗はただ指を奪われたけれど、俺のように根津を殺さないとは限らなかった。
 そして俺は今も、自分で壊してしまった青乃を直すことも捨てることも出来ずにいる。

「──あの時はほんとごめん。僕たち、きみに酷いことしたよね。ずっと謝りたいと心のどこかで思ってたけど出来なかった。今日思い切って来てよかった」

「もう気にすんなよ。俺はたいして傷ついたりしてない」

 

 あの時のおまえらなんかと比べ物にならないくらい今の俺は酷い事をやってる──と思ったが口には出さずにおいた。

「木幡のヤツが、おまえもハタチ過ぎたらただの人だとか言ってたぞ。音楽の道も諦めてただの会社員のオッサンになりやがって」

「ひっど。それに諦めてなんかないし」

 うん?と首を傾げると弦斗はスーツのポケットを探り、B6サイズほどの小さな紙片を取り出して椎多に手渡した。何かのチラシのようだ。

「今、アマチュアだけどバンドやってるんだ。きみ、そんな小さなライブハウスなんか来ないだろうけど気が向いたら来てよ」

「バンド?!」

「そ。僕、キーボードもドラムも出来るし、今のバンドではギターやってるんだよ」

 ギターは──

 バイオリンと同じで左で弦を押さえるんじゃないのか。

 その指で──?

「最初は左利き用の、右で弦を押さえるギターを試したりしてたんだけど……僕今ね、生まれつき右腕がない人と組んでて」

 彼はギターが大好きで、でも弾くことは出来なくて。

 すごくすごく練習して義手でコード鳴らすくらいは出来るようになったけど細かい動きは出来なくて。

 だから僕たちひとつのギターで、彼が弦を押さえて僕が右で鳴らす。

 もう今はけっこう難しいリフとかギターソロとかも出来るんだよ、すごいでしょ。

「その人が今の僕の彼なんだけど」

 えへっ、とこぼした笑いはあの時の少年とあまり変わっていないように見えた。

 

 僕は4本の指を失った。

 そのせいでバイオリンも親の期待も愛してた人も音楽も全部、何もかも失ったと思ってた。

 でも音楽だけは失ってなかった。

 そして指を失った替わりにたくさんのものを得ることが出来たんだよ。

 新しい音楽も、僕の外にある世界も、その世界に住む仲間も、それから愛する人も。

「そうか──」

 弦斗は幸せに生きていた。

 そうなるまでに、どれだけ苦しんで、何と向き合って来たんだろう。

 俺はまだ、自分の罪と何の折り合いも付けられていない。

 いつか──

 弦斗のように、何の澱みもなく笑える日が俺にも来るのだろうか。

「なあ、弦斗」

「うん?」

「キスしようか」

 弦斗はあははは、と声を立てて笑った。

「あれ、何だったんだろうね。あれだけ色んなことし尽くしてたのに、口同士のキスだけは恋人だけのものだって思ってたのかも。ビュアな15歳だったから」

「何がピュアだ。ピュアに土下座して謝れ」

 椎多も笑う。

「彼がヤキモチやいて泣くからやめとく」

「そうか」

 ベンチから立ち上がったところでちょうど木幡が駆け寄ってきた。

「理々子姫、もったいつけてさっきご到着だ。見に行こうぜ」

 腕を引っ張られ、振り返ると弦斗はその場で立ったままあの白い手袋の左手を小さく振っていた。

 佐伯理々子の現在の姿を一応確認だけして、バルコニーに戻ると──

 津々木弦斗の姿はもう、その場には無かった。

​-the End-

レビューを投稿いまいち何もまあまあ好き大好きレビューを投稿
バイオリンと楽譜

*Note*

本編があっちもこっちも一応完結したので、またスピンオフ短編にちょいちょい手を出して行こうとしています。

今まで書いてなかった、椎多のBV喪失話。実は本当に本当に全く考えていなくて、うしろ初めての相手は英二か?英二なのか?それはそれでなんだか嫌だなあ?程度に考えておりました。夜遊び癖のついでになんとなくやられた話でも良かったんだけども椎多の交流関係、学校関係は記述ゼロなので一度書いてみようと思って舞台をそっちに持っていったらまあまあうまいこと収まりました。なんというかベッドシーンをえっちに書くことが目的ではないので、普段はそんなに詳細な記述はしないんですがこの話ではこの短い間に根津と弦斗の破滅を書くためにはちょっとこいつらおかしいぞ、とわかるようにしたくてついつい。

 弦斗の現在については、最初本当に今はただのサラリーマンだけど近いうちに海外赴任する、みたいに考えていたんですが、昨日突然思いついて昼間はサラリーマンだけどバンドもやってます!に変えました。このバンドどんなジャンルの音楽やってるんやろな。意外とパンクとかやったりして…。弦斗の今彼もちょっと気になるけど今のところこの人について今後書くことは多分ありません。

 これを踏まえたら英二との出会いもなんとなくすんなり描けそうな気がしてきたよ!

ちなみにこの物語の回想部分(椎多高1)は1982年頃です。「強姦罪」という罪名が無くなって「強制性交等罪」となり、男性への強制性交(肛門性交など)も含まれるようになったのは2017年(つい最近!!!)。それまでは男性が男性に犯されるみたいな事件でも強制わいせつ罪とかわいせつ物陳列罪だの多少なりと怪我があれば傷害罪だのの量刑がめっさ軽い罪にしかならなかったらしいです。しーちゃん、脅してるけどそこまで知ってたんかなぁ。まあ、量刑云々より親が社会的に葬られるぞ、というのが脅しの主旨だったんで犯罪であれば何でも良かったんだと思うけど。

あと同窓会があったのは椎多が紫さんを殺した後、青乃との和解前(邨木も来る前)。ちょうど青乃の父・紘柾が死んだくらいの頃ですかね。

​(2022/2/15)

Related:

bottom of page