Sin.co -Re:The Ultimate Sin- main tales
鴒
──俺だ。
「うん」
──今夜、『シゲさん』ってヒゲのおっさんが来るから、来たら地下室に入れてやってくれ。鍵は渡してある。
「わかったよ。それで父さん、ちゃんと飯食ってる?」
──食ってるよ。心配するな。
「どうだか。いつも仕事長いとすげー痩せて帰ってくるじゃん。とにかく、帰る前には電話してよね」
──わかったわかった。
「なに笑ってるんだよ」
──いい子だ、鴒。
それが、父の声を聞いた最後になった。
今まで乗ったこともないような大きく乗り心地のいい車のシートに座らされてどうにも落ち着かず、坂元鴒は学生服の詰襟に指を差し込んで緩めるように引っ張った。
車が止まって下ろされたのもまた見たことのないような大きな屋敷である。テレビドラマなどで「大金持ち」の家が出てくる時にこういう建物を見たことがあるような気がする程度だ。
不必要に思えるほど大きな扉をまじまじ見上げていると、中から神妙な顔をした男が出てきた。
「よく来たな。こっちだ」
男は鴒の肩を抱くようにして屋敷の中へ導いた。
この男は何度か鴒の家にも来たことがあるから見知った顔だった。父とは親しいようだったが、鴒はあまり好きではない。
導かれて通された広間には小さな祭壇がしつらえてあった。
「せめてこのくらいはしてやらないとな」
男は呟いた。
鴒に向かって言った言葉ではなかったかのようだった。
それは、父の「葬式」だった。
あの電話から、たった一週間しか経っていなかった。
「そっちのお漬物も自分で漬けたんだよ。食べてみて」
テーブルの向かい側に座った男は無言で漬物に箸を伸ばしている。愛想がない。
「前から聞いてみたかったんだけど、紫さんて食事の時にお喋りはしちゃいけませんってしつけられたの?」
あまりの愛想の無さにそう尋ねてみると、いや、とだけ答えた。さもありなん、男──紫は、食事をしている時だけでなく普段から無口で鴒も数えるほどしか声を聞いたことがない。
父が死んでからこの男が月一度のペースで訪ねてくるようになってもう2年以上になる。
あの「葬式」の後、父の親友だったという嵯院七哉という男──あの屋敷の主である──は、鴒を引き取ろうと申し出た。母は鴒が幼い頃に病気で他界しており、父ももともと孤児だったので親戚はいない。つまり、鴒は天涯孤独となったということだ。まだ中学生の鴒を放っておくわけにはいかない、と嵯院は言った。
しかし、それを鴒は断った。
学校を転校することになるのも嫌だし、今住んでいる家にも町にも愛着がある──などと言い訳して固辞したが実のところ、『父が死んだ』ということがどうしても信じられなかったのである。
遺体と対面もしていないのにいきなりこれが遺骨だと骨壷を渡されても、それが父の骨だとどうして鵜呑みにできるだろう。
ただ嵯院は本当に沈痛な表情をしていたし、少なくとも意図的に自分を騙そうとしているわけではないことくらいは察することができた。だから、心の底では父は実は生きていていつひょっこり帰ってくるかも──と思ってはいるけれど、嵯院や紫の前ではそれを受け入れた顔をしているにすぎない。
ただ、どうしても嵯院の気が済まないのか生活費を負担させろというのでもらってやっている、というくらいの気持ちである。
それを届けにくるのが紫だったのだが、当初は食事どころか靴も脱がない有様だったのだからたいした進歩だと鴒は思う。
母の他界後、10歳にも満たない頃から鴒は自分からすすんで炊事を担当するようになった。父の料理が口に合わない、とは父本人には言わないけれど子供心に自分が作った方がマシだと思ったのだ。最初こそろくなものではなかったがどんな失敗作でも父は美味いウマイと全部平らげてくれていたし、中学に上がる頃にはいっぱしの料理は作るようになっていた。
中学を卒業したら高校には進まずにいっそフランスにでも渡ってシェフの修行でもしようか、と真剣に考え初めていた矢先、父が帰らなくなってしまったのである。
訪ねるといつも食事が用意されているので、紫がそのような気を遣わなくていいと断ったことがあった。
──気にしないでよ。紫さんが来ても来なくても、どうせ毎日作ってるんだもん。
父を亡くして間もないとは思えない屈託のない顔で、鴒は明るく笑った。
──ひとり分を作るのって逆にやりにくくて、いつも二人分作ってるから。
それ以来、紫は黙って鴒の作った料理を食べて帰るようになった。
ああは言っても鴒は、父がいつ戻ってきてもいいように毎日二人分作って待っているのだろう。そして食べられることのなかった料理はそのままゴミ箱行きとなる。
月に一度くらいは、作ったものを残さず平らげる日があってもいいではないか──
無口で無愛想で何も優しい言葉をかけてくれるわけではないが、おそらくそんな風に考えて食べてくれているのだろうと鴒は思う。
もしかしたら、嵯院七哉が食ってやれと指示していてそれに従っているだけなのかもしれないが──
いずれにせよ、作った料理を食べてくれる人間がいるというのは嬉しいものだ。
だから、本当は嵯院七哉に養われるような事は願い下げなのだがおとなしく紫の来訪を待っている。
料理を運ぶ口元を見ながらぼんやりとそんなことを考えていると、不意に鴒の箸を持った左手がテーブル越しにぐいと引っ張られた。
「──え、何?」
目をきょとんと瞬かせて紫の顔全体を見つめ直すと、普段よりもっときつい表情を作って紫が鴒の指先を凝視している。果てには自分の鼻に近づけてくん、と匂いを嗅いだ。
「何?どうしたの?」
「──撃ったのか」
ぎくりと捕まれた左手を引っ込める。
「何のこと?」
「俺の鼻はごまかせないぞ」
「だから──何のことさ」
紫は息をひとつつくと座り直して鴒の目をまっすぐに見つめた。睨まれるとただでさえ凄みのある顔がさらに凶悪な顔に見える。鴒は観念したように溜息をついた。
「……モデルガンだよ。店の在庫で、子供の頃から撃ってみたかったやつがあるんだもん。人に向けて撃ったりしてないからそんな怖い顔で睨まないでよ」
シャッターこそ閉めっぱなしでずっと開けていない状態ではあるが、鴒の家は模型店で主商品はモデルガンである。商品がそのまま陳列されストックされたままになっていた。
物心ついたころには弾をこめない状態ではあれこれらを玩具がわりに遊んでいた鴒は、その扱いには確かに慣れている。しかし、紫は鴒がサバイバルゲームなどに興味があるなどという話も今まで聞いたことがないし、スポーツとしての射撃を志しているとも聞かない。弾をこめて撃ったとするならあくまでもただの玩具の延長である。
「──もう、やめておけ」
紫はそれだけ言って、厳しい表情をほんの少し元に緩めた。
鴒の父親の本当の仕事。そして彼の死にざま。
それはまだ15歳になったばかりの鴒には知らせたくはない。
鴒は叱られたことを意に介さぬように肩をすくめて笑っただけだった。
地下へ続く階段の下り口には、分厚く丈夫な扉が全部で3枚ある。それをひとつひとつ鍵を開けて降りて灯りをつけると鴒は鍵を内側から閉めた。
こうすると、どんな音も外に漏れないことを鴒は知っている。
父の最後の──その時は最後になるとは思ってもみなかったが──電話の後、父が言った通り顔の半分がうっすらと無精髭で覆われた男が訪ねてきた。やはり父の言った通り男はこの地下室への扉の鍵を全て持っていて、勝手知ったようにすいすいと降りていった。
そして地下室の壁に多数収納してあるものをいくつか選び出し、何度かに分けて階上に運ぶ。
それは、様々な形状の銃だった。
店にあるモデルガンとは明らかに違う。それらが「本物」の銃であることを、いつ頃からか鴒は察していた。思えば、ほんの幼い頃から父の商品であるモデルガンは鴒の玩具でもあったのだが、モデルガンだと思って遊んでいた銃の大半は「本物」だったのだろう。何故ならこの地下室は鴒の遊び場でもあったし、ここに置いてある銃で遊んでいたからである。
亡くなった母は鴒がここで遊ぶことを嫌っていた。今思えばそれは当然のことだっただろう。幼い息子が本物の銃で遊ぶことを好む母親がどこにいるものか。これは人間を殺傷する目的で作られた道具なのだ。
しかし父はこれらの使い方を丁寧に教えてくれた。
母は嫌ったが、おそらく父は鴒にこれらの危険を教えるためにそうしていたのだと思う。モデルガンとはいえ身近にこれほどの銃があれば子供が興味を持つのは必然である。慣れから恐怖を持つこともなくそれでいて正しい扱い方も知らずに手を出せばそれこそ命取りとなる。
鴒は残されたいくつかの『本物の』銃の中からひとつを選び出し、慣れた手つきで弾を篭めた。実弾である。
父は何故こんなに本物の銃と実弾を持っていたのだろうか。こんな風にこれらを所蔵していることが犯罪であることくらい馬鹿でもわかる。
父が犯罪者であるということは全く実感の湧かないことではあった。鴒の知っている父はゴキブリも殺せない人間だったのだ。しかし──
仕事だと言って何週間も、長ければ何ヶ月も店を閉めたまま出かけてしまうことがあった。その仕事とはこれらの道具を使う『仕事』なのだと察することくらいは、他の子供よりこまっしゃくれて早熟な、聡い少年だった鴒には容易かったのである。
標的をセットし、耳を保護するためにヘッドホンをつける。静かに狙いをつけ、引き金を引く。一連の動作に澱みはない。
紫が来る前に練習したのは拙かった。微かに残った硝煙の臭いを食事中に嗅ぎつけられるとは思わなかったのだ。
実際はもう随分前から──父が帰らなくなってすぐ──ここで射撃の練習をしている。カーブの投げ方やバットの構え方を教えるように父は射撃の基本の姿勢を教えてくれていたから、自分で練習をするのにはさほど苦労はなかった。
もう今では随分小さな的もかなり正確に撃ち抜けるようになっている。
射撃が上手くなったからといって何になるというわけでもないのに、それが父との最後の接点のような気がしてやめることができない。
あの髭の親爺は殆ど喋らなかったが、銃を持って帰る際に妙に悲しそうな顔で笑い鴒の頭をくしゃくしゃとかき回した。そして一枚の名刺を置いていった。
──何か、どうしようもなく困った時は俺に言いな。
あの男は、父がその数日後に死ぬ運命にあることを知っていたのだろうか──
あの時もらった名刺はどこかのバーのものだったが、その裏には鉛筆で薄く電話番号と簡単な地図が書かれていた。それはそのまま鴒の財布の中に収まって眠っている。忘れはしないけれどそれはまるで何かの切り札のように。
もう春がそこまで来ているとはいえ、まだ真冬と違わぬ冷え込みとなった。温まる料理にしよう。
紫が訪ねてきたのはもう夕刻だった。まだ日は短いので夕刻とは言ってももう暗くなっている。先月には硝煙の臭いを嗅ぎつけられて叱られてしまったが、今日はそれを見越してまだ練習はしていない。
いつものように鴒に分厚い封筒を渡すと、紫は黙ってテーブルについた。
「寒かったでしょ。もう3月なのに雪でも降りそう」
料理を用意しながら言った鴒の言葉に返事はない。いつものことである。
自分も席について食べはじめる。話すのは鴒ばかりで紫は聞いているのかいないのかも定かではない。これもいつものことだ。
食べ終わると茶を残して片付ける。そうして席に戻ってくる頃にはいつも紫は帰り支度を始めている。しかし、今日はまだそのまま茶をすすりながら座っていた。
その小さな異変に気付いてはいたが、気付かぬふりをして再び座り、他愛もない世間話を始めようとする。
紫がそれを遮って口を開いた。
「中学の卒業式が終わったら、この家を引き払う」
「え?」
鴒は一瞬何を言われたのか判らないようにきょとんと大きな目を見開いた。
「屋敷に移って、高校はそこから通えばいい。いつまでもこの店をこのまま置いておくわけにもいかないからな」
表情を欠片も変えることなく、極めて事務的に紫は言い放った。
「──なんで?今までだってここで一人でやってきたし、紫さんもそれ知ってるじゃん。なんのためにここを出なきゃならないの」
半分笑った顔で抗議する。
「鴒……親父さんは亡くなったんだ」
「わかってるよ、そんなこと。でも嫌なんだよここを離れるのは!」
「鴒──」
立ち上がり、唇を噛み締めてじっと紫の目を睨みつける。
「あの人がそうしろって言ったの?紫さんはいつもあの人の命令を聞いてるだけなんだもんね?」
紫の表情が微かに歪んだ。それがどんな感情を示しているのかまでは、まだ鴒には読み取ることはできない。
「……わかったよ。わかったから今日は帰ってくれる。ちょっと考えさせてよ」
紫は何か言おうとしていたのかもしれない。激昂したかのように見えたのは一瞬で、やはり屈託のないあっけらかんとした笑みを浮かべながら鴒は紫を追い出した。
テーブルに戻ると紫の飲んでいた湯飲みがいやにぽつりと目につく。
父がもう二度とここに帰ってこないのだと。
わかってはいた。
わかってはいるけれど、ここを離れたら、父の魂が帰ってくる場所すら無くなってしまうではないか。
テーブルに顔を伏せる。石油ストーブが部屋に充分な暖かさを齎している筈なのに、身体の震えが止まらない。
あの「葬式」からこちら、絶対に意識しないでおこうとしていたこと。不意をつかれたようにそれが心の中を占領する。
──今すぐ帰って来てよ、父さん。
──寂しいよ。
雪がちらついてもおかしくない冷え込む夜だというのに、薄い上着1枚に靴の踵をはき潰してだらだらと歩く。不思議と寒さは感じなかった。目的地があるわけではないが、気付くと駅前にいた。適当な金額の切符を買って電車に乗ってみる。意識はしていなかったが、上着に財布が入ったままになっていた。
普段は学校と家の周辺を自転車でうろうろする程度で、わざわざ電車に乗って繁華街に遊びに行くということはしない。
しかし、何となく賑やかな場所に行こうと思った。
そういえば、まだ母が生きていた頃、父と母と三人でこの電車に乗って、映画を見に行ったことがある。怪獣映画と漫画映画が3本立てになっているやつだ。その後、食事をして、百貨店で玩具を買ってもらったような気がする。
行く宛てもなくぼんやりと歩き続ける。さほど遅い時間でもないのにもう酒の臭いをぷんぷんさせたサラリーマンが行過ぎてゆく。こんなにたくさんの人が一体どこから集まってくるのだろう──と思った。
歩道の植え込みに腰掛けると立ち上がる気がなくなってしまった。何時間歩いていたのだろう。おそらく同じ場所をぐるぐると何度も歩いていたのだろうと思う。
歩いている間、何を考えていたのかもわからないくらいぼんやりしていたようだ。冷え切って足の感覚も手の感覚もない。
それでも、誰もいない家に帰る気になれなかった。
ぼんやりと人の流れを見ていても、まるで白黒テレビを見ているように色が感じられなかった。
ふと。
目の端をよぎった人影に鴒の目は釘付けになった。
すたすたと人ごみを器用によけながらどんどん先へ行く人影を、慌てて追いかける。
あの背格好は。あの体格は。
──父さん。
そんなわけはない。
それを打ち消すだけの思考能力も、今の鴒には無くなっていた。
ただ、見失わないように必死でそれを追いかける。足が萎えている上に靴をだらしなく履いている為に何度も転びそうになりながら、ひたすら追いかける。
男は、ふとスピードを緩め、一瞬立ち止まった。
どこか地下の店に入ろうとしているのだろう。階段を下りようとしているようだ。
なんとか追いついた鴒は、後先も考えずその腕を掴まえた。その拍子に転びそうになる。
──父さん!
口が悴んで、声も出なかった。
男が驚いて振り返るのが、スローモーションのように見える。
──違う。
身長も、体格も、腕の太さも、父にそっくりなのに──振り返った顔は全く別人だった。
「なんだ、お前」
男は心底驚いたような顔をしている。当然だろう。もう一度まじまじと顔を見ると、父より断然若い男だった。
「……すみません……人違い……です」
掠れて消え入りそうな声で言うと、鴒はそのまま背を向けようとした。
「ちょっと待ちなよ」
半笑いの声が降ってきて、逆に腕を掴まれる。
「冷たい手だなあ。冷え切ってるんじゃないのか。こんな時間にこんなとこでなにやってんだ、ガキの癖に」
「……」
「なんか飲んであったまるか。それとも誰かと待ち合わせか?」
無言で首を横に振る。男は少し笑うと鴒を連れてそのまま階下へ降りていった。
「もう終電もなくなる。親に叱られるぞ」
カウンターの隅に座らされて、前に置かれたのはウイスキーのお湯割りだった。ちびりと口に入れると、喉と胃に火が点いたように熱くなる。
「……いない、から。帰っても誰もいない し」
「留守番か?両親はどうした」
「死んだよ。母さんも父さん──も」
男は小さくそうか、と言って鴒の肩を抱き寄せた。冷えた体には男の体温が熱すぎるくらいだ。
父も、体温が高かった。
男はしきりに何か話し掛けてきているが、殆ど頭に入らない。
「その様子じゃ、今日泊まるとこもないんだろ?俺んちは近くだけど、泊めてやろうか」
息のかかるような耳元の随分近いところで、男が言う。
──ああ、下心があるのか。
他人事のように思った。
そういえば、やたらと頭を抱き寄せたり髪を触ったり、腰に手を回して撫でまわしているような気がする。
──別に、どうでもいいか。
ドアを閉じると男は鍵とチェーンをかけるなり、鴒を壁に押し付けて唇を覆った。あのやけに熱い手が、待ちかねたように鴒のセーターを捲り上げて素肌を撫でまわす。ジーンズのボタンを緩めてそのままその下へ行動範囲を広げてゆく。
頭の一部が奇妙に冷めていてそれを冷静に見ていながらも、他人の肌をまだ知らない身体が素直に反応しているのがなんだか可笑しい。
自分が女に興味が持てないことには鴒はもうとうに気付いてはいた。
しかし、こんな見ず知らずの男に撫でまわされて普通に感じているのだから決定的だ。それなら、開き直って楽しんだ方がいい。
楽しむどころか、折檻でもされたかのようだと思った。
そういえば、父は鴒には手を上げない父親だったが、幼い頃に一度だけ酷く叱られてその時に殴られたことがある。殴られたと言っても、あの太い腕で本気を出されたらたまったものではない。おそらくは父にしてはごく軽く殴ったのだろうが、それでも幼い鴒には衝撃的だった。
あれは、父が銃を触らせてくれるようになる前だ。無断で父の銃をいじっていて叱られたのだ。思えば、父が自分の監視のもと鴒に自由に銃を触ることを許すようになったのはあれからではなかったか。
ぼんやりとした頭でそんなことを考える。
まずは好きなように抱いて気が済んだのか、男は最初と違っていやに優しく鴒の身体を撫でまわし始めていた。鴒を腕枕に寝かせた状態で唇や舌で首筋や耳や頬を舐めたりしながらさするように身体の感じやすい場所を丹念に撫でている。
「痛かったか?悪いな。今度は優しくしてやるよ」
痛いばかりで少しも気持ちよくなかったのに、現金なものでそうしているうちに鴒の身体も反応する。男は満足げにくすっと笑いをこぼすと、まだ痛みの残っている部分に指をゆっくりと侵入させてきた。痛、と小さく声を出すが男が静かにその指を蠢かし始めるとやがて呼吸そのものが乱れてくる。
耳の穴を男の舌が這いまわっている。それが離れたと思うと、小さな囁きが耳に入った。
「──いい子だ」
鼓動が突然跳ね上がった。
身体が男の指や舌に反応しているからではない。
右手で鴒を苛んでいる男の左腕はまだ鴒の頭の下にある。それを改めて視界に入れてなぞる。
さっき、人ごみで後姿を見間違えた。この父とそっくりな腕。
父とそっくりな身体。
顔は──見えない。
男はまだまるで調べ物でもしているように、鴒の中で指を蠢かしている。いつの間にかそれは何本かの指になっていた。
まだどこかに残っていた冷静な自分が──
弾け飛んだ。
ぐったりと身を横たえていると、男は水を飲みながらベッドに戻ってきた。
もう明け方近いのではないだろうか。
回数も覚えていないくらいやったというのに男はようやく欠伸をし始めたところだった。
「おい、いいもの見せてやろうか」
男はそう言って、ベッドの脇にあったカップボードの下段の引き出しを開けてごそごそしている。鴒は起き上がる元気もなくただ視線を向けただけだった。
「こんなもの見たことないだろう。本物だぞ」
それは、1丁の拳銃だった。
「誰にも言うなよ」
自分にとっては身近なものではある。しかし、一般人がおいそれと持てるものではないこともよくわかっている。
この男は、まさか、父と同業者なのだろうか──
「……かっこいい。構えて見せてよ」
力なく、しかしどこかからかうような口調で寝そべったまま鴒は言った。
男は何故か得意げにこうか?などと言いながらまるで刑事ドラマのようにその拳銃を構えて見せる。
──違う。
構えを見て、落胆するように息を落とした。
何故こんなものを持っているのかは知らないが、どちらにしても素人だ。実際に撃ってみたこともないのかもしれない。
「借りもんだからな。触るなよ」
男は子供っぽく笑いながらそれを再びもとの場所へと戻した。それを、じっと目で追う。
銃を持っているということを自慢して満足そうな男は、ベッドの上にごろりと横になった。
「さすがに眠くなってきたな。おまえも寝てろよ。あとで送ってやるよ」
欠伸をしながら男はそのまま目を閉じ、すぐに鼾をかきはじめた。
眠いのは確かに眠いが、頭が冴えて眠れない。
鴒は鼾をかいている男の横をそっとすりぬけてベッドを降りた。下半身ががくがくする。
音を立てぬようにそろりとベッドを回り込んで、カップボードに近づいた。確かこの引出しだった筈だ。
──あった。
拳銃は無造作にそこに入れられている。
同じ引出しの中に、小箱に入った銃弾もあった。
──ばっかじゃないの。
鴒はそれらを手にとり拳銃に弾が装填されていないことを確かめると、小箱から銃弾を一つだけ抜き取って静かに拳銃に篭めた。
外国の密輸入品だろう。あまり質の良くないものだ。
観察するようにそれを眺めると鴒は鼾をかいている男に向けた。
暫く狙いをつけてそれを下ろす。
そして拳銃を握りしめたまま、再びベッドに戻る。男に背を向けて横になると、その気配に反応してか男が寝返りをうった。
父と同じような、太い腕が再び鴒の細く小さな身体に絡みつく。
両手で握った銃の片手を離し、その腕をそっと撫でてみた。それからそれに頬ずりをして、接吻ける。
「……父さん」
声にならない囁きをひとつ落とし、目を閉じる。
背後の男はまだ止んでいた鼾をまたかき始めた。
そろりと腕を外し、身を起こすとじっとその男の顔を見下ろす。
そして、鴒は再び男の頭に向かって拳銃を構えた。
明け方の空気は切れるように冷たい。
薄い上着一枚。靴下もあって無いようなものだ。
昨夜と同じようにとぼとぼと歩く。
──これからどうしよう。
早朝の銃声に、人が集まってくる様子はなかった。
不用意なほどに普通にあの部屋をあとにしたけれど、パトカーのサイレンひとつ聞こえてはこなかった。
意外とそんな簡単なことなのかもしれない。
ふと、紫の顔が頭をよぎった。
僕があの名前も知らない男を殺してきたと言ったら、彼はなんと言うだろう。
やはり表情を変えずに、彼の上司に報告するのだろう。
そして、あの人は心配するな、とか言ってやはり僕を匿おうとするのだろう──
僕が警察に捕まったら、あの人は困るだろうか?
それはそれで面白いかもしれない。
しかし、今、彼らと顔を合わせる気にはどうしてもならなかった。
ポケットに手を突っ込むと、財布があったのを思い出したものの、こんな早朝では開いている店もない。それに、よく見れば財布の中にはたいした金は入っていなかった。
ふと、一枚のカードに目がとまる。
──何か、どうしようもなく困った時は俺に言いな。
3駅先の街だったが、その店に足を向けた。
あのヒゲのおじさんは、父の仕事の関係の人だったのだろう。
あの人は、聞いてくれるだろうか。
僕の告白を。
僕、人を殺してきたんだよ。
父さんに似た人だった。
背丈も肩幅も胸板も腕も首の太さも指も、足のちょっと短いとこまで。
でも父さんじゃなかった。
だから殺しちゃった。
父さんはほんとにもう帰ってこないんだね。
二度と僕の料理を食べてくれることも。
頭を撫でていい子だって言ってくれることも。
寂しかったよ。
本当はずっとずっとずっと寂しくて寂しくて仕方なかった。
歩きながら、涙が止まらなくなった。
平静に戻ろうとしたのか、寒さにかじかんだ手を温めるように口元へ持ってくる。
指から、父の匂いがした。
*the end*
*Note*
ヤベェ親子の息子編。「鴉」になる前の坂元鴒くんの話。鴒のどこがヤベェって、レベチのファザコンなんだよね…。もう父を性的な目で見てますからね…。同じ「喬」を見る中学生七哉(弟同等友人)と中学生鴒(息子)の目線が段違いすぎて自分でもおかしいです。この際限なくこじらせたファザコンは「孤高」の章でちょっと触れていきますが。鴒は実は紫さんに特別恋心を抱いていたというほどじゃないんだよね。ただ七哉が嫌いで(喬が七哉にうっすら性的な目線を送っていたことを感じ取って嫉妬していたのかも)七哉のもちものである紫をモノにしたかった、くらいの感じじゃないかと。
しかし鴒の箍を外してしまったのは間接的とはいえ紫さんだったんですねぇ…。