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罪 -8- 終幕への演武

「──報告は以上です。何かありますか?」


 椎多はその声が聞こえているのかいないのか返事もせずに、つまらなそうな顔で首を傾げただけだった。
「しーちゃん、聞いてる?」
 賢太が声のトーンを少し上げる。
「聞いてるよ」
「聞いてるように見えないから言ってんだろ」
「──何苛々してるんだ」
 こういう日の椎多はあまりしつこく言うと逆に癇癪を起こす、ということは賢太は経験上よく知っている。椎多がまだ小学生の頃から遊んでやっていた──若い頃には一緒に遊び回ったりもしていたのだから大抵の使用人より椎多の思考回路は理解しているつもりだ。Kや柚梨子が傍に居るときは一見余裕綽々でにこやかに微笑んでいるが、腹の底では少しも笑っていないし何も愉快だとは思っていないということも察しがつく。
 しかしそんな賢太にも近頃の椎多が何を考えているか理解できないことが増えた。

──いつも何かを恐れているような。

 

 ふと思い当たって賢太はそれだ、と思った。
 余裕を見せているようでいて、いつも『何か』に怯えている。長い付き合いだが、賢太が良く知っていた頃の椎多にはそんな面はまず無かった。
 椎多が父親のあとを継いでから暫くはそれまでよりも接点が少なくなったこともあるが、見た目によらず豪快と言っていいくらいのやんちゃ坊主だった筈がいつの間にか──賢太から言わせれば神経質にすら思えるようになってしまった。


 いや、多分──
 

 椎多が結婚するまではそれほどでもなかった筈だ。
 少し離れて見ていたから尚更、あの結婚は間違いだった──そう思えてならない。
 それに加えて、賢太がこの屋敷へ移った時に感じた違和感がある。
 よく知っている筈のものが、何か歪んでしまったような。

──気のせいだ。

 

 気のせいだと思わなければいくら頭が悪くて能天気で楽観的な自分でも不安に囚われてしまいそうで、それを振り払おうと賢太は頭を強く振った。
 気のせいだと──

──紫さんと話してみよう。

 

 多分、会話にはならないのは判っている。紫とも長い付き合いだが、あまり長く会話が続いたためしがない。大抵賢太が一方的に話すだけで、紫の機嫌が悪ければ勝手に打ち切られるしそうでなければ聞くだけでも付き合って相槌くらいは打ってくれる。それでいいから、紫は変わっていないのだと確かめたい。
 無性にそうしなければ気がすまないと思えて、賢太は紫の部屋へ足を向けた。しかし、ノックをしても返事はない。

──まだ戻ってないのか。

 

 もしかしたらトレーニングルームにいるのかもしれない。近頃は部屋にいなければ柚梨子やみずきやKの稽古をつけていることが多い。既に夜半だが、夜を徹して稽古をつけていることもあるから会議が終わった後にそちらへ向かったということも十分考えられる。
 何かに急かされるように賢太は小走りになっていた。


 一体俺は、何を焦っているのだろう?
 

 不安に追いかけられながら賢太の小走りは徐々に速度を増していった。

 トレーニングルームの壁には小窓が設置されており、中の様子が伺えるようになっている。案の定、そこから灯りが漏れていた。やはりここにいたのだろう。
 小窓から覗いてみると、中で紫が格闘しているのが見えた。
 相手は──

──え?

 

 柚梨子でもみずきでもKでもない。
 華奢な若い女でも、子供にすらみえる小柄な男でもなく、紫と格闘しているのは白髪交じりの痩せた男である。

──伯方?

 

 それは青乃側警備の責任者である伯方照彦だった。
 伯方の経歴は簡単には知っている。しかし、現在は警備員の監督が主業務で、いわば現役は引退したOBのようなものだと認識していた。しかし──

──あのおっさん、紫さんと互角にやりあってんじゃないか?

 

 二人とも武器は持っていない。素手で組んだり離れたり、広さで言えば畳二十畳ほどのトレーニングルームいっぱいを使っている。
 見ていて、時々呼吸が止まる。
 演武を見ているようだ。

──て、長くね?

 

 ぼんやりとその光景に見とれていた賢太はふと我に返り、時計に目を移した。ここに到着してからすでに10分以上は経過している。その何分前からこの演武が始まっていたのかは知らないが休憩どころか殆ど止む事もなく格闘は続いているのだ。

 まさか、どちらかが死ぬまで続けるつもりじゃないだろうな──

 双方武器を持ってはいないので殺し合いをしているのではないのだろう。しかし考えてみれば、伯方のことはよく知らないが賢太の知っている紫ならば素手でも相手を殺すくらいのことは可能だ。
 この二人はいわば敵対した立場である。
 互いに目の上のたんこぶ、排除したい対象と思っていても不思議ではない。
 だとしたら、たとえ訓練としての手合わせであっても最終的にどちらかが命を落とすまで続けるくらいエスカレートしても不思議ではないのではないか。
 背筋がひやりと冷たくなった。

──止めた方がいいのか?

 

 たとえ空気が読めないと叱られても、どこかで中断させた方が良いような気がする。
 ごくりと唾を飲み込んで賢太は意を決したようにドアノブに手をかけた。
 あの演武をずっと見ていたいような誘惑を押し込めて──
 鈍い金属音とともに分厚いドアをそろりと押し開ける。
 その隙間からおそるおそる顔を差込み中を覗いた瞬間、何かを叩くような鋭い音とともにドサリと落下するような音が耳に飛び込んだ。

──紫さん?!

 

 目を疑った。
 紫が床に組み伏せられ、一瞬の間に後ろ手に細い縄を──どこに持っていたのか──掛けられている。
「──っおい!」
 慌てて駆け寄ると伯方は片手で賢太を払い飛ばした。
 一瞬のことで何が起こったかわからない。
 伯方はその場から立ち上がると、驚いたような顔で賢太を一瞥し、小さく笑った。
「すまん、つい」
「──」
 伯方は今かけたばかりの縄を紫の腕から解き、その場に腰を下ろしてふう、と大きく息をついている。
「──私の勝ちですね」
 紫は横たわったままごろりと仰向けに向きを変えた。
「何が年を取った、ですか。やはりあなたは要注意人物だ」
 あれだけ長時間格闘していたというのに、二人とも酷く息を乱しているようではない。賢太は座り込んだまま呆然とそれを見ていた。
「いや、あなたの右手が万全の状態なら最初の10秒でやられてましたよ。そこをかわしたのは大きかった」
「──」
 ゆっくりと身を起こすと紫は賢太に視線を移した。
「どうした、何か用か」
 状況が読めずに口を開けてぽかんとしている賢太の顔を見て紫が苦笑している。それが本当に苦しそうに笑っているように見えて賢太は言葉が出せなかった。
「──伯方さんとは一度手合わせしてみたかった。鈍ったフリをして、たいした狸だったな。それとも鈍ったのが本当だというなら本来はどれほどだったかと思うと恐ろしい」
 呟くほどの声がこの部屋の中では驚くほどよく響く。
 紫にしては多い口数と、相手を褒めるような口ぶりが何故か賢太の胸を刺した。

 伯方はスポーツドリンクとタオルを紫に投げ渡し、自分も汗を拭いながら再び腰を下ろした。
 互いに素手で相手を捕縛する──というルールで始めて、30分以上休みなしで格闘していたのだという。
「とは言っても、明日には体が動きませんよ。それに、肋骨が2本ばかり折れてる気がする。動きや体のキレは訓練で留められても疲労や怪我の回復に時間がかかるのはどうしようもない。あともう10分決着が付かなければやられていたのは私でしょう。もうそろそろ限界でした」
「よく言う。肋骨なら俺もやってる気はするが」
 肋骨なんか折れたら俺なら動けなくなる──と思いながら紫と伯方の顔を見比べる。伯方などはどうかすると賢太の父親に近いほどの年齢の筈だが、出来ればこんな親爺と格闘なんかしたくない。
 紫は一旦目を閉じ深呼吸をすると座り直した。


「伯方さんは──」
 呼びかけに応えるように伯方も座り直している。
「葛木家に特別な恩義でも?」
「いえ、特には」
 伯方の表情を見る限り、紫の質問の意図が掴めずにわざと曖昧に答えたように思えた。
「では、嵯院家に対して特別な遺恨はおありですか」
「ありません」
 それは正直な返答とは思えない。
 遺恨と呼べるほどの明確なものは無いかもしれないが、これまで伯方は主に紫から散々苦渋を強いられている筈だ。伯方が主人と仰ぐ青乃の身の上に起こった不幸もすべて嵯院椎多かそうでなければその懐刀である紫によるものだと言っても過言ではない。伯方の部下であるあの龍巳という若者などはあからさまに過ぎるほどの敵意をこちらに向けている。それ程ではないにしてもそういった個人的な『遺恨』も無いなど、聖人でもあるまいし──それは紫も承知の上での質問だろう。
「たとえばの話ですが──」
 紫はそう言いながらちらりと賢太を見た。
 ここに賢太が居ることを忘れているわけではなかったとみえる。


「この屋敷の警備全般を監督するという業務はあなたの現在の業務と矛盾する部分がありますか」


「え?」
 伯方と同時に賢太も小さく声を上げた。
 紫は──
 何を言っているのだろう?
「私の部下には十分に警備、警護についてのノウハウは仕込んでありますが、どうもこれまで私がワンマンでやりすぎてきたらしい。全体を俯瞰で見て判断を下す決断力が経験不足のせいかまだまだ欠けている。私を除けば現在この屋敷で警備の業務に就いている人間の中ではあなたの経験が一番頼りになるだろうということです。ただ、その場合奥様を──葛木家を殊更優先させるのではなく、あくまで嵯院家、この屋敷という視点に立ってもらわねばなりませんが」
「紫さん、ちょっと待って下さいよ。どういうことっすか」
 四つん這いになって紫の傍に近寄る。表情が見える場所にまで来ても、その顔からは何も読み取れない。


 それではまるで紫がここを去り、後任を頼んでいるようではないか。
 

「たとえばの話だ。おまえは口を出すな」
「でも!」
 伯方も酷く驚いた顔でまじまじと紫の顔を見ている。


 当然だろう。
 同じ屋敷にいながら、事実上敵対組織同然だったのだ。その責任職を相手のトップに委ねるなど、普段の紫なら一番最初に捨てる選択肢としか思えない。
「だから最初に尋ねたんです。あなたが葛木家に職務以上の恩義があるというなら、嵯院家の不利益もかまわず葛木家や青乃様の利を取ってもおかしくない。しかしあなたは闇雲に嵯院家を敵対視するでもなく、冷静に先のことまで考えて判断を下せる人だと俺は思った。俺のように盲──」


「紫さん!」
 

 もう聞いていられない。
 賢太は紫の呟くような低い声を遮った。
「俺らが頼りないってのはよくわかりました!まだまだ未熟だけど、俺、頑張りますから!だからまだまだ俺らを鍛えて下さいよ!そんな──」

──もういなくなるみたいな言い方、やめて下さい。

 

 紫よりも伯方の方があっけに取られている。
 紫はまた、苦しそうな顔で微かに笑った。
「何べそかいてるんだ、鼻水が出てるぞ。そんなんじゃまだおまえには任せられんな」
 黒いスーツの袖が汚れるのも構わず涙と鼻水を拭う。
「何も、今居なくなると言っているわけじゃない。ただお前も見ただろう、右手が使えん俺はこのロートルにも負けるんだ。どこでやられるかわからんのだからもしもに備えておく──そういうことだ」
 ロートル、というところで伯方を見て小さく笑うと紫は賢太が今まで聞いたことのないような穏やかな声で言った。
 それがまた、賢太の胸を締め付ける。

 不安を解消したくて紫を探したのに。
 

 それは逆に何倍にも膨れさせることにしかならなかった。
 否、ただ不安が膨らむだけならそれでも構わなかったのだ。 

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──眠ってるのかしら?

 クッションのきいたソファにもたれて目を閉じている。手に持ったウイスキーのグラスが落ちてはいけないと柚梨子がその手から受け取ろうとすると、椎多はその目をぱちりと開けた。
「あ……申し訳ありません。お睡みになってるのかと思って」
 ん、と小さく返事とも咳払いともつかない声を漏らす。
「お疲れなんじゃありません?もう着替えておやすみになっては?」
「寝てたんじゃないよ。なんだか眠くならないから目を閉じてみただけだ」
「………」
 小さく笑うと立ち上がりバスルームへ向かう。
「一緒に入る?」
「ここのお片づけをしますから、あとにしますわ」
 からかうように言うと柚梨子はもうそろそろ手馴れたもので軽くいなした。

 全身を倦怠感が支配している気がする。
 のろのろとした動作でハイネックのセーターを脱ぎ、残りの衣服も面倒そうに脱ぎ捨てると浴室の鏡が目に入った。
 自分の首の周りを手でなぞる。
 ぐっ、と息が詰まる気がして鏡から背を向け、シャワーを最大の水量にして頭から浴びた。 

 首を締め付ける手の感触がそこから去らない。

 

 かつて、椎多はまだ物心がつくかつかない幼児の頃に実母に首を絞められたことがある。それは現実だったのか悪夢だったのか、ただその時の母の狂気じみた叫び声やその後幼い目に映った惨劇はずっと記憶の底で時折椎多の恐怖心を刺激する。


 つい数時間前。
 この首を締め上げたのは紫だった。
 くっきりと指の痕が痣になっている。
 部屋に戻って、柚梨子がここへ来るまでの間に首の隠れるハイネックに着替えたのだ。柚梨子にも見せたくないし自分でも目にしたくなかったから──

 知っている。
 紫は昔から、椎多の父親である嵯院七哉の命令をどんなことよりも優先させてきた。紫が自分に従っているのも、父が今際の際に『椎多を頼む』と言い残したからだ。


 だから。
 いつもどこか苦しそうに自分に従う紫をわざと振り回し続けた。

 

 子供扱いして遠慮なくぐたぐた文句を言うくせに、最終的には必ず椎多に従ってきた。
 父の最期の命令は、ずっと紫を縛り付けている。そして、紫はそこから開放されたいとも思っていないのだろう。右手の機能を殆ど失った紫は、その命令を満足に遂行できなくなったことを気に病んでいるのだ。だったら──


 俺のお守りから開放してやると言えばあいつはどうするだろう?

 

 一度は目を逸らした鏡を再び覗き込む。
 顎を上げて、丹念に指の痕を観察する。
  
 傍を離れろと言うなら自分を殺せ、と紫は言った。それが出来ないなら椎多を殺すと。
 それが答えなのだ。
 父の命令が遂行できないなら死んだ方がましだと──?

 紫の指の痕に自分の左手の指を重ねてみる。
 あの細く長い指の大きな手の痕は、椎多の手では隠れない。
 無意識に重ねた手に力がこもる。
 呼吸と血流が堰き止められた感覚がまるで自慰行為でもしているように一瞬の恍惚感を生み出した。
 次の瞬間、激しく咳き込み、椎多はその場に倒れるように座り込んだ。その拍子に体のどこかを強かに打撲した気がする。

──何をやってるんだ、俺は。

 

 笑えてきた。
 壁にもたれて座り込んだままくすくすと笑いを漏らしていると、柚梨子が飛び込んできた。
「旦那様?!どうかなさいました?!」
 どうやら倒れる際に大きな音でも立てたのだろう。柚梨子は酷く慌てた顔をしている。
「ああ、すまない。ちょっと足を滑らせてね。馬鹿だろ?」
 笑ってみせると柚梨子はあからさまにほっとした顔をして、立ち上がるための手を貸してくれた。立ち上がったついでに抱きしめて接吻ける。
「服がびしょ濡れだ。おまえもそのままシャワーを浴びておいで」
 そう言い残し、ろくに髪も拭かずにバスローブを羽織って椎多はバスルームを後にした。

「旦那様、これ──」
 目を開けると柚梨子が上から椎多の顔を覗き込んで顔色を変えている。柚梨子がシャワーを浴びている間の僅かな時間に、一瞬睡りに落ちていたのかもしれない。傍に柚梨子が来たことにも気づいていなかった。
「うん?」
 言いにくそうに口ごもると柚梨子は自分の首を撫でる素振りをした。


 ああ、そうだった──
 

 柚梨子に見せないためにハイネックを着ていたのに、服を脱いだらばれるのは当たり前じゃないか。
「たいしたことじゃない。気にするな」
「一体誰がそんな──」
「さっき、自分で絞めたんだよ。なんとなく首を絞めたらどんな感じかなと思って」
 柚梨子が息を呑んでいる。それは半分本当のことだ。しかし、柚梨子には残りの半分の嘘は見抜かれているのだろう。椎多はふう、と一息吐くと手を伸ばして柚梨子の頬を撫でた。


「──こんなこと出来るやつ、他にいないだろ」
 

「どうして……」
 今にも泣きそうな柚梨子の顔を見て、椎多は微笑んだ。


 ああ、可愛い娘だな──


「もうおとなしく隠居すればいいって言ってやったんだよ。そしたら殺せって言うんだ。そうしなきゃあいつが俺を殺すって、それでこうだ。わけわかんないだろ?」
 柚梨子は堪えきれなくなったのか、椎多の胸に顔を伏せてしまった。その黒く美しい髪を指に絡めて笑い声を漏らす。
「考えてみろよ、あの殺しても死なないバケモノみたいなヤツを俺が殺せると思う?殺せやしないだろ?だったら」

 顔を上げる。天井の装飾が目に映る。

「殺されるのは俺の方かなあ………」


「やめて下さい!」
 くすくす笑いが止まらない。それを遮ろうとしたのか柚梨子にしては乱暴に椎多の唇を塞ぐ。
 椎多はただ目を細めてそれに任せた。

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 部屋に戻って鍵を下ろすと、賢太はスーツを脱いでハンガーに掛け窮屈なネクタイも外しワイシャツを脱ぎ捨て、着慣れたスウェットの部屋着に着替えた。
 体が冷えているような気がするが風呂で温まろうという気にもあまりならない。飲めない酒を一口呷るとそのままもぞもぞとベッドに潜り込んだが、目が冴えて瞼が下りなかった。


 あのトレーニングルームで紫と伯方が格闘していた日から、何日も賢太はよく眠れずにいる。
 さすがに昼間の疲れもあって明け方頃にようやくうつらうつらとするぐらいで、ここ暫くは睡眠不足が続いているといっていい。今日もKに目の下に隈を作ってどうしたのかとからかわれたところだ。


 それにしても今日は特に目が冴えている。
 

 というよりも、心臓だか胃だかとにかく胸のあたりがざわざわしてじっと横になってもいられない。仕方なく賢太はベッドから起きだしてテレビを点けたりベランダに出たり煙草を吸ったりしてみたが一向に収まらない。しかし何故こんなに落ち着かないのか、頭に浮かんではそれを打ち消す。


 一般的に言う、『嫌な予感』というやつなのかもしれない──
 

 そんなものが当たるのなら、もっと競馬やなんかで万馬券でも当てたいなどと茶化してみても、そのざわつきは収まらなかった。
 霊感だかヤマ勘だか第六感だか知らないがそもそも自分は人より鈍い方の筈だ。当たってたまるか。
 しかし、そんなものでも的中してしまうことがある。


 テレビの番組が終了してしまってもまだ眠れずに、何度も読んだ週刊誌を広げて内容も頭に入らないのに活字だけを目で追っていた時。

 静寂の中でノックの音が響いた。

 

 飛び上がるほど驚いて、賢太はそろりとドアに近づいた。驚いたせいではなく、どきどきと心臓が音を立てる。
「──はい?」
 返事をしたが、ドアの向こうからの声はない。自分の心臓の音にかき消されたのかと思った。
「誰?」


「……賢太さん」
 

 か細い声がようやく聞こえた。
「ゆりこちゃん?」
 慌ててドアを開ける。
 柚梨子が立っていた。
 すぐに、異変に気づく。
 柚梨子の服に所々黒い染みが出来ていた。

 これは──血だ。

 直感的にそう思って息を呑む。
 柚梨子は時折しゃくりあげながら泣いている。
「──どうした」
 ようやく声を絞り出す。


「紫さんが──」
 

 背筋に電気が通ったように全身が震える。
「旦那様が──あたし──どうしていいか──」
「──どこだ」
「紫さんのお部屋──」


 次の瞬間、賢太は走りだしていた。

 

 紫の部屋──
 たいてい中から鍵がかかっている。
 柚梨子が施錠せずに出てきたのだから鍵がかかっているはずもなく、簡単にそのドアは開いた。
 気丈に追ってきた柚梨子が背後から奥です、と声をかける。
 打合せの延長や急用を伝えるために訪ねることはあったが、奥の寝室に足を踏み入れたことはない。
 どこかで嗅いだことのある異臭がした。


 火薬の臭いと、そして血の臭い──
 その床の上には──

 2塊の影が横たわっている。
 

 呼吸が止まりそうなほどに心臓が早鐘を打つ。
 片方は椎多。
 もう片方は紫。
 どちらも──
 その着衣にどす黒く赤い染みを作っている。

 自分の足ががくがくと震えていることに賢太はようやく気づいた。
 転ばないようにまず手前に倒れている椎多に近づく。
「旦那様はあたしが……薬で眠っていただきました」
 柚梨子の声にびくりと手を引っ込めるとゆっくり振り返り柚梨子の顔を見る。
「あたし……何もできなかった……止められなかった……」
 椎多の傍には、いつも椎多が身に着けている玩具のような小さな拳銃が落ちていた。


 これで、紫を撃ったのか。

 何故。

 

「なんでしーちゃんが紫さんを撃たなきゃなんねえんだよ……」
 よろよろと這うようにして倒れた紫の傍へ近づく。
 傷を確認すると、銃創はひとつだけだった。
 たったこれだけの傷なのに、当たった場所が悪かったのか──
 この出血の量では専門家がすぐに適切な処置をしても助かったかどうか。
 妙に客観的に紫の身体の状態を確認するとようやく賢太は紫の顔に視線を移した。

 何故、そんなに安らかな顔をしているんだろう。

 頬に指を伸ばして触れてみると、もうその体温は殆ど失われていた。
 それに気づくと全身が再びがくがくと震え始める。頭がぐらぐらして平衡が保っていられない。


「──しーちゃんを守らなきゃならないんじゃないんですか」
 声などろくに出ない。
 掠れて喉にはりついた声を無理矢理剥がして出すように──

 わざと撃たれたんでしょ。
 どんなに不意打ちくらったとしても、しーちゃんにやられる紫さんじゃないでしょ。
 紫さんを殺したりしたら、しーちゃんがどんだけ傷つくと思ってんですか。
 そんなの、紫さんが一番よく知ってる筈じゃないですか。
 現場を離れたって構わないじゃないですか。
 遠巻きでも守る方法はいくらでもあるじゃないですか。
 傍で身体張って楯になるのだけが守ることだとでも思ってたんですか。
 しーちゃんは──

 しーちゃんが、本当に必要としてたのは──

 涙も鼻水も不思議と出なかった。
「ゆりこちゃん」
 振り返ると、掠れた声で柚梨子の顔を見る。
「しーちゃんを部屋に運べるか?」
 華奢な柚梨子だが、ここまで訓練を重ねてきたのだから大柄でもない男一人運べるだろう。そういうとゆりこは涙を拭いて頷いた。
 そんな風に柚梨子を鍛えたのもまた、紫なのだ。
「それじゃあ、部屋に運んで、着替えさせて──できれば身体を洗ってやった方がいいんだけど、薬の効果は持つかな」
「大丈夫だと思います」
「じゃあそうして。ゆりこちゃんも着替えなよ。で、大変だと思うけど、しーちゃんが目を覚ますまで傍についててやってくれる」
「……わかりました」
「俺は──ここをなんとかするから」
 柚梨子は頷いて賢太の指示通り椎多を抱えあげて何度か振り返りながら部屋を出ていった。それを見送りながら賢太は数日前のあのトレーニングルームでの紫を思い出していた。

 伯方に負けたことでどこかでかろうじて繋がっていた糸が切れてしまったのだろうか。
 あの時には既に紫は椎多に殺されるという決意を固めていたのだろうか。
 だからあんな風に、伯方に後を任せるようなことを──

 ああ、そうだ。
 この事態は伯方に報告すべきなのだろうな。
 意地を張っても仕方ない。紫が現在の俺がまだ頼りない、伯方に任せた方がいいと判断したのだから。今はまだそれに従う方がいいのだろう。
 人目につかぬように紫の身体を運び出さねばならない。それも伯方の戦場での経験が参考になる筈だ。
 埋めるにしても何らかの形で焼却するにしても、屋敷の敷地内で秘密裏に処分しなければならないのだ。
 墓標も弔う儀式も言葉もなく──
 それが、この世界に生きてきたものの末路か。

 それまで止まっていた涙が突然こみあげた。
 どこで堰き止められていたのか、決壊したように大量の涙があとからあとから溢れる。


 あの時、俺はどうにかして紫さんを留めておくことは出来なかったんだろうか?
 しーちゃんの変化に気づいていながら、もっと深いなにかに気づくことが何故できなかった?

 賢太は倒れた紫の胸の上につっぷすように泣き続けた。
 その服に涙がつこうが鼻水がつこうが、もう叱られることもない。
 そう思うと、またどうしようもなく新しい涙が湧き上がってきた。


 

Note

ここへきてSin.co本編に置いてもおかしくない話をぶっこんでしまったんですが、まあこの「ReTUS」は嵯院と青乃が主人公なのでここは触れておかないとと思い。ちなみに「ケンタ」は別口の友人とのチャットで生まれたキャラです。

​TUSでは生まれてなかったキャラ・紫さんと、TUSとは別人レベルに変更された伯方さん。この二人、もし立場が対等だったら逆に紫さんのがあしらわれたりしてたんだろうなと思ってスピンオフから更に分岐した「Another」というシリーズ(この事件で紫さんが死なずに生きながらえていた世界の話)ではそういう話もちょっと書きました。楽しいです。

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