罪 -10- 駄目な男
暖かい手が僕の髪を梳りながら撫でている。
目を閉じていると、いい匂いがする。これは花の香りか、それともこの女の体臭か。
僕は駄目な男だ。
怯える子供のように身体を丸めると吐息のような声が聞こえた。
だいじょうぶ。
安心しておやすみなさい。
その声に安心して僕はうつらうつらと眠りにつく。
眠りに落ちながら、僕は夢の向こうから手招きするひとの名を呼んだ。
「おかあさん」
靖子はカーテンを少し開けると、窓の外を眺めた。
日差しが庭の芝生を照らしている。時計を見ると午を少し回ったところだった。
「奥様、少しお休みになっては。午餐もまだでしょう」
中年で小太りのメイドが声をかける。
もっとも、もうこの家にはメイドは1人しかいない。かつては何十人ものメイドが忙しく働いていたものだった。
数多かった使用人は現在では数えるほど。このベテランのメイドと、執事と、料理人が一人と、病気がちの長男のための看護師が一人。それだけである。庭の手入れをしていた住み込みの庭師ももういない。最低限、荒れて見えない程度には外部の庭師を呼んで手入れさせているが以前に比べれば全く行き届いていない。
メイドの勧めにようやく従って靖子はテーブルに就いた。昨夜から殆ど睡眠を取っていないので胃がうまく働かず、空腹の筈なのにあまり食は進まない。
葛木紘柾が倒れて意識不明の状態に陥ったのは昨夜のことである。
医師の診断は脳梗塞、意識が回復したとしても麻痺が残る可能性が高い。しかし靖子は、紘柾はもう目覚めないのではないかという気がしていた。
もともと少量の午餐も半分くらいで切り上げ、靖子は執事を呼んだ。
「伯方さんには知らせたのね?」
「はい、でも奥様──」
少し言い難そうに言葉に詰まる。
「なあに?」
「お嬢様には奥様から直接お話しになったほうがよろしいのでは」
腫れ物に触るような言い方だわ。
少し可笑しくなって笑顔を浮かべる。
「いいのよ。青乃はわたくしの声なんて聴きたくないでしょう。こちらだって人手が足りないのだからあちらの事は伯方さんにお任せしましょう。ぬかりなくやってくれる筈だわ。それよりも、あなたはこちらで出来る準備を進めておいてちょうだい」
「準備──と申されますと」
本当は執事も靖子が言わんとすることは判っているのだろう。しかし、それはなかなか口に出来ることではない。
「『もしも』の時の段取りを始めておいて、ということよ。何なら伯方さんに頼んで応援に来てもらうといいわ。あちらには人手はたくさんあるでしょうし」
「──」
『もしも』というのは、紘柾が目覚めなかった場合のことだ。
執事は苦々しい顔で礼をし、退出した。
倒れた夫に徹夜で付き添っていたかと思えば、顔色ひとつ変えずに最悪の場合を想定した指示を出す。
冷たい女だと思っているのでしょうね──靖子は自嘲するような笑みをまた浮かべた。
執事が退出したあと、食後の紅茶を飲み干すと靖子はポットとカップの乗ったトレイを持って厨房まで運んだ。
「奥様、置いておいて下さればあたくしがお下げしますのに!あたくしの仕事を取らないで下さいましよ!」
メイドは意識的に陽気に振舞っているようだ。あら、ごめんなさいねと微笑んで部屋に戻る。
夫は息はしているがもう半分魂がどこかに行ってしまったような顔色で眠りについていた。さっき見た時とどこも変わってはいない。
ベッドのわきの椅子に腰をかけると、再び細く開けたカーテンの向こうに目をやった。ちょうどいい暖かさと気持ちよさげな日差しの色がとろとろと眠りの淵に靖子を誘う。
僕は──
どうして──
──おかあさん
がくりと頭が落ちる感覚がして跳ね起きる。うとうとして船を漕いでいたのだろう。
夢でも見ていたのかもしれない。
窓の外を見ると、少し陽が傾いていた。
ふう、と大きく溜息をつく。妙な姿勢で半端に眠ってしまったから身体が無性にだるい。
肩を上下させて少し伸びをするとベッドの上の夫に目を移した。
微かな異状を感じて深く皺の刻まれた頬に手を伸ばす。触れた途端、靖子は目を閉じて僅かに俯いた。
葬儀は葛木家の菩提寺で執り行ったが、ごく質素なものだった。
家柄だけは立派なせいか普段あまり交流のない遠い親戚は多く、このような貧乏臭い葬儀なんて体裁が悪いなどと好き勝手なことを言う。
裕福だった頃はぺこぺこして、経済的に行き詰ればそっぽを向いた癖に。
侮蔑に似た感情が湧き上がってきたがそれを表に出すことはなかった。
彼らの対応は執事に任せて、喪主の席に戻る。
長男の柾青は青白い顔で黙って座っていた。長時間椅子に座っていることすら困難に見える。あまりに身体が弱くてずっとなにかの病気をしているので、この子の方が父親よりよほど早く亡くなるのではと思っていた。いずれにしても長命ではないだろう。
その隣には、娘の青乃とその夫である嵯院椎多。
大企業の社長である婿は舅のためにもっと立派な葬儀を出そうと申し出てくれたが、喪主である靖子が辞退したのである。貧乏臭い葬儀だと血がどこで繋がっているかわからぬような親戚に揶揄されるよりも、婿の経済力に頼って儀式だけは派手だと思われる方が嫌だ。葬儀などというものは質素でいいと靖子は思う。葬儀の派手か地味かで死者の行く先が決まるわけじゃあるまいし。
ただ、質素だろうが豪華だろうが葬儀というのは人手がいるものだ。だから、婿からは人手の応援だけを頼ることにした。これで、申し出た婿の方も多少は顔が立つだろう。
婿は紳士で優しい男だ。
大学生くらいの年の頃に父の後を継いで社長になったというのだから、若いけれど十分世間の荒波にも揉まれてきたのだろう。こういった時の身の処し方をよく判っている。姑である靖子にも手厚い気遣いをみせてくれる。
しかし、娘の顔を見ていればわかる。
娘とこの男との結婚生活は全くうまくいっていない。
葬儀の間青乃は、夫の隣に座っているだけでまるで拷問でも受けているかのような顔をしていたのだ。
紘柾は娘と結婚させる条件でこの嵯院という男から融資を受けていた。だから、娘は自分が惨めなのだと思う。ただ頑なに夫と馴染むまいとしているのはそれだけが理由ではない──それは靖子の女の勘だ。自分もモノのように扱われてこの家に嫁いできたのだから。
奇妙なほど冷静に靖子は周囲を観察していた。
それは、夫を失った妻が気丈に立ち振る舞っているものとは別ものに見えるだろう。靖子はそれも自己分析していた。
もう少し哀しそうな顔や疲れた顔をした方がいいのかしら?
でも今更そんな顔をしたところで、演技だとすぐにばれてしまうでしょう。
だったら、このままの方が悲しみのあまり夫の死を受け入れられていない妻みたいに見えるかもしれない。
読経を聞きながら、靖子はそんなことをぽつぽつと考えていた。
葬儀が済むと、嵯院椎多は仕事があるからと言って火葬場にも同行せず立ち去った。
青乃は夫の姿が見えなくなったことでようやく安心したように肩の力を抜く。これでも随分辛抱したのだ。本当なら10秒だってあの男の隣に座っているなんて耐えられない。
すぐにあの屋敷へ戻る気にもならず、ふと思い立って母や兄と共に葛木邸へ行くことにした。母とも兄とも特に話すことはないし、今では使用人も殆ど解雇されて居ないというがそれでも生まれ育った屋敷だ。久しぶりに訪ねてもみたい。
常に隅々まで手入れの行き届いている嵯院邸に比べて、現在の葛木邸はどこかうらぶれた、荒れた印象がある。人手が足りていないというからどうしても行き届かないのだろう。
青乃と嵯院の婚姻によって、嵯院から父へは相当の融資がある筈だ。それなのに、結婚前よりももっと貧しくなった感じがする。もしや、嵯院は実のところたいした融資はしていないのかもしれない、と思った。
「和江さん、このお屋敷も随分寂しくなったのね」
中年で小太りのメイド・和江は青乃に紅茶を出しながら苦笑した。このメイドは青乃が幼い頃から──彼女がまだ随分若かった頃からこの屋敷に勤めていたベテランである。人員を極限まで削減するにあたって彼女を残したのは当然だと思えた。
「さようでございますねえ。嵯院様のお屋敷はさぞ賑やかなことでしょう」
「嵯院から援助があるんじゃないの?まだお金に困ってらしたのかしら」
そう言うと和江はあたりを見回す素振りをして、少しだけ声をひそめた。
「いえ、十分に援助は頂いているそうです。ただ、奥様がだからといって無駄遣いばかりしていてはまた後々困るといけないから、と。援助は生活のためではなく事業の方にほとんど回しておられるんではないでしょうか。事業は今では坊ちゃま……柾青さまが主に指揮なさってますが」
「お兄様が?ずっと寝たきりのような状態なのに?」
葬儀で何年ぶりかに顔を見た兄。こんな顔だったかしらと思ったものだ。幼い頃から身体が弱く寝付きがちだったから一緒に遊んだ覚えもない。確か、外の学校にも行けず家庭教師に来てもらって勉強していた筈だ。
「柾青さまはコンピューターの扱いにとても長けてらっしゃるそうですよ。あたくしなんかには何をなさってるのか全く判りませんが、一歩も外へ出なくても旦那様の時よりよほど事業は軌道に乗っているそうです」
そうなの……と肩を竦める。兄にそんな才能があったのか。つくづく、わたしは自分の家族のことを何も知らずにいたのだと青乃は思った。
しかしそれよりもひっかかることがあった。
「お母様が使用人をくびにしたり車を売ったりのやりくりをなさってるの?」
「ええ、実際の管理は執事の早野さんがなさってますが、大まかな指示は奥様から。贅沢はいけないけれど、食事は決して貧しくならないように、とかですわね」
「──偉そうなこと」
和江に聞こえないほどの小さな声でぽつりとこぼす。
母は自分の子供たちに対して母親らしい振る舞いは一切見せなかった。青乃は面倒を見てくれていた年配のメイドをまるで母親のようにして育ち、母とは普段から顔を合わせることすら殆ど無かった。父とも不仲だったと思う。両親が揃っているところなど、何か対外的なイベントのある時にしか見たことがない。青乃が嫁ぐ時ですら、花嫁の母は娘になに一つ声をかけてくれることがなかったのだ。
そんな母が、自分が嫁いだ後はこの屋敷のことを仕切っていたという。青乃の中で不快感がじわりと広がった。
「お母様はそうやってお父様やお兄様に質素な生活を強いておいて、嵯院からの融資を着服でもなさってたんじゃなくて?」
青乃は真面目にそう思ったのだが、和江はそれをまさか、と笑い飛ばした。
「なんなら、調査してくれてよくてよ。嵯院家の力があれば簡単でしょう?」
笑い混じりの声が背後からして、青乃は飛び上がるほど驚く。
振り返ると、和装の喪服を身に着けたままの女が車椅子を押して立っていた。車椅子に腰掛けているのはやはり喪服のスーツを着た青白い顔の男。
「お母様、お兄様」
「あなたにはそんな風に思われても仕方ないわね」
「……」
庭を臨むテラスのテーブルの、青乃と反対側の椅子に喪服の女は腰を下ろした。和江が静かに紅茶を出す。
柾青は疲れたような顔をして、一言も話さない。
その場を支配した気まずい空気を払うように背筋を伸ばし、青乃はわざとにっこりと微笑んだ。
「お母様もせいせいなさったでしょう、これでお父様から解放されたのですもの。まだお若いのだから、どこでもお好きなところへいらして、新しい人生でも見つけられればよろしいんじゃなくて?──羨ましいわ」
反応を探るように母の顔を見つめる。
そう、この母はまだ若い。
父はもうとうに還暦を越えていたが、母の靖子はまだ四十になったばかりである。思春期の頃までは、あまりに若いし優しくないので母は後妻で、自分たち兄妹とは血が繋がっていないのだと思い込んでいた。そうではない、靖子は出産が並外れて早かっただけで、二人とも間違いなく実の子だと教えてくれたのは和江である。
靖子は庭の向こうへ視線を投げて静かに微笑んだ。
「そうね、あなたたちがそう望むならそうしてもいいわ。葛木家とは縁を切って、人生をやり直すというのも──」
「その必要はないよ」
柾青が初めて口を開く。
顔を見ただけでも何年ぶりかなのに、声を聴いたのはもう思い出すのも困難な以前だ。もしかしたら声変わりした兄の声を聴いたのは初めてかもしれない。
「僕はこんな身体だからいつまた倒れるかわからない。母さんに屋敷のことを任せておかないと、僕になにかあったら和江や早野たちが突然路頭に迷うことになるからね。これまでだってそうしてきたんだ。青乃はもう葛木家の人間じゃないのだから、口出ししないでくれないか」
一瞬、頭に血が上った。
兄がこんなにはっきりと喋る人だとは思わなかったし、弱々しい人形のような自分の意思のない人だと思っていたから戸惑ったのだ。
なにより、おまえはもう葛木家の人間ではないと言われたことが口惜しかった。
「──わたくしが居なくなってから随分と打ち解けられたのね。そうやってお二人で結託して、お父様をどうにかなさったんじゃなくて?」
悔し紛れだった。
きっと母の顔を見、次に兄に視線を移す──
ぱん、と青乃の頬で乾いた音が響いた。
柾青は一旦自分の掌に目をやると、妹を睨みつけた。
「言っていいことと悪いことがあるよ。おまえは母さんのことも、父さんのこともなにもわかっちゃいない」
「──なによ」
涙が溢れそうになる。まさか兄が自分に手を上げるなんて。
何故わたしが叩かれなきゃならないの?
「わたしだけ仲間はずれにして、そうやって家族仲良くしてたっておっしゃるの?わたしがお父様のせいでどんな思いをしてきたか、お兄様だってなにもわかってらっしゃらないわ!」
「──青乃」
靖子が静止に入る。
「柾青もよしなさい。あなたは今日は疲れているのよ。これ以上興奮したらまた熱が出るわ。もう部屋へ戻ってお休みなさい」
きっと唇を噛み締め、それでも柾青は素直に母の指示に従った。
兄はこの母にすっかり懐柔されたのだな、と感じた。
もうこの屋敷はわたしの実家とも呼べない。思い出のある場所だけど、もうこんなところには居られない。
わたしにはどこにも安住の地がない──
青乃はこぼれそうになる涙を懸命に堪えた。
「わたしは──」
その場に残された靖子が静かに口を開く。
「謝っても取り返しのつかないことは謝らない主義なの。だから、あなたに母親らしいことをしてこなかったことは謝らないわ。でも反省はしてる」
見ると、靖子はやはり庭の向こうの遠くを見つめていた。
謝って欲しくもないが、きっぱり謝らないと言われると頭にくる。
「わたしは子供だったわ。柾青とあなたを産んだせいで、お父様はわたしから関心を無くしてしまった、だから産まなければ良かったなんて思ってたの。お父様のことも恨んだ。ここへ来なければ、わたしはまだ遊びたい盛りの少女でいられたのに──ここに幽閉された囚人のような気がしていたのね」
ずきん、と胸が痛んだ。
それは、今まさに青乃を苛んでいる閉塞感と同じ。
それなのに──
何故そんなに晴々とした顔で居られるの?
靖子はゆっくりと椅子から立ち上がった。
「でも、わたしが大人になって初めてやっと判ったことがあるのよ」
「──」
にっこりと微笑むと靖子は空を仰ぎ、深呼吸をした。
「あなたのお父様は、弱くて馬鹿で、しょうのない人だったわ。でも、馬鹿なりに一生懸命だった。何をやっても間違いだらけだったけど──」
そこで言葉を止め、靖子は庭に背を向ける。
「疲れたから、少し休ませていただくわ。好きな時間までゆっくりしてらっしゃい」
「ちょっと待って。そんなところでお話をやめるなんて、人が悪いわ」
「だって、あのひとはもう亡くなって、お骨になってあんなに小さな箱に押し込められちゃったんだもの。もう何もかも遅いのよ」
だったら、生きてる間に話してくれればいいじゃない。
仮に紘柾の生前に靖子がこうして青乃に語ろうとしても、はなから聞く耳など持たなかっただろう。それでもそれを試みることもなかった母に対して再び怒りが湧いてくる。
「──お兄様は全部わかってたと仰るの?」
「さあ、どうなのかしら。あの子も父親のことを尊敬はしていないでしょうね。あの子の方がよっぽど大人だもの。ただ尊敬は出来ないけど、まんざら嫌いでもないみたいよ。……じゃあ、失礼するわね」
「お母様!」
声をかけても、靖子はもう一度会釈のように小さく頭を傾げただけで部屋を出て行った。
ぽつりと残されたテラスで、青乃は子供の頃からこの屋敷で味わってきた孤独を再び強く感じずにはいられなかった。
いや、それよりも──
あの頃は家族全員がそれぞれ孤立していたと思っていた。家族が家族として成立していないことによる孤独。
今は、自分ひとりが家族から弾き出されたような気分だ。
もとから実家に逃げ場を求めようとは思っていなかった。それなのに、青乃は途方に暮れている。
柾青を部屋に送り届けて戻ってきた和江が紅茶を入れなおしてくれたことにも、青乃が気づくことはなかった。
──疲れた。
人前に出たのも、あんなに声を出したのも久しぶりだ。
スーツなんか着たのもどれくらいぶりだろう?ネクタイの結び方など忘れていた。
まだ夕刻だが、夜着に着替えてベッドに入る。そのまま横になろうとして、ふと思い立ち柾青はコードレス電話の子機を手にとった。
この時間ではまだ部屋には戻っていないか──
留守番電話が応答したので電話を切り、かけなおす。手元でいくつかのボタンを操作してから回線を切ると、ほどなく着信があった。
まるでポケットベルの呼び出しをどこか公衆電話の前で待機していたかのように早い反応で、少し驚く。
「もしもし。うん、僕。すまないね、今大丈夫なの?」
それほど周囲が騒がしいわけではないが公衆電話特有の音。多分電話ボックスなのだろう。
「どうして今日来なかったの?君をみんなに紹介する絶好のチャンスだったのに。次にこの家で冠婚葬祭があるとしたら、多分僕の葬式になると思うよ。それもそんな先の話じゃない。それじゃ遅いし」
電話の向こうが沈黙している。そのあと、独り言の呟きのような小さな声がかろうじて耳に届いた。
──そういうの、やめてよ。死ぬとか、葬式とか。嘘でも嫁さんもらうとか言っとけばいいのに。
薄く微笑が頬に浮かぶ。
「君は自分が明日死ぬかもなんて考えたことないだろう?僕は違う。明日死ぬかもしれない。だから今日出来ることは今日片付けないと気がすまないんだよ。──というわけで、この後でも来れない?」
それには答えず、テレフォンカードの残り度数が少ないからそろそろ切る、と電話の向こうが告げた。
「そっけないなあ。僕は今日は疲れたから寝てるかもしれないけど、和江と早野に言っておくから。部屋に直接来てくれればいい。稽古が終わった夜中でも構わないから、待ってる」
疲れてるんならそのまま寝てればいいじゃん、と相手が言ったところで電話は切れた。
それが、疲れてると逆にあんまりよく眠れないんだよね……と切れた電話に向かって呟く。
そして、電話を内線電話に切替え、和江を呼んだ。
「もしかしたら今夜、元が来るかもしれないから来たら僕の部屋へ通して。夜中になるかもって早野にも言っておいてくれる?」
『元さま、ご葬儀にはおみえにならなかったんですね』
「別に母さんがあの子をとっつかまえて釜茹でにして喰ってしまおうと待ち構えてるわけじゃあるまいし、そんなにびびらなくてもいいのにね」
電話の向こうで和江が爆笑している。大きく陽気な声だ。
神経がぴりぴりしている時にはカンに障る和江の大声だが、今日はなんだかほっとする。
もたれていた枕を直し、横になったがやはり眠りは訪れなかった。
やむなく本を読んでみたもののそれでも眠くはならず、分厚い文庫本1冊読みきってしまったが───待っていた客人は結局訪れることはなかった。
もう夕刻になって薄暗くなってきたけれど、何故か灯りをつける気にならない。
靖子は喪服を脱ぐでもなく、ぼんやりとソファに腰をかけて外を眺めていた。
青乃と話したせいか、紘柾にまつわる様々なことがやけに思い出される。
もう少し話してあげればよかったのかしら。
でも、父親のリビドーにまつわる話なんて聞きたくないだろうし、わたしだってそんな話は恥ずかしい。
あのひとは自分の子供たちのことを、馬鹿なりに本当に愛していたのだとか。その程度は言えばよかったのかも。多分青乃は信じやしないでしょうけど。
紘柾は大人の女性には性的魅力を感じない男だった。
靖子も、まるで有無を言わさずまだ小学校も卒業する前にこの屋敷へ連れて来られた、あの『どこで血が繋がっているのかわからない』親戚の中のひとりである。
紘柾は靖子のことをとても大切にはしたけれど、その結果、普通の子供であればまだ中学に入ったばかりの筈の年に柾青を産んだ。
柾青が並外れて病弱なのは、わたしのせいなのかもしれない──靖子は漠然とそう思っている。
息子が生まれたことを紘柾はお祭りでもやろうと言い出しかねないほどに喜んだ。自分の名前の一文字と、靖子の名の漢字から『青』という文字を拾い出して柾青と名付けた。その喜びようは、当たり前の父親の姿だった。その母親がまだ少女だったことだけを除けば。
その頃は紘柾もまだ靖子を猫可愛がりしていたし柾青にもつきっきり。普通の家庭よりも何倍も家族らしい家族だったと靖子は思う。今考えれば不思議だが、自分の父親よりも年上の男に抱かれることが靖子には特に苦痛なことではなかった。早く大人になりたい、背伸びしたい年頃だったから、自分が人より早く一人前になった程度の気持ちだったのかもしれない。
しかし、第2子を身篭った頃から何かが変わってきたことに靖子は敏感に気づいていた。
青乃が生まれた時も、柾青の時と同様──女の子だったからもっと──大喜びして靖子を労ってくれた姿は変わりないのに。
それ以来、紘柾は靖子に触れなくなってしまった。
16歳で子どもを2人産んだ娘は、もう少女ではなくすっかり成熟した大人の女の身体になってしまったから──
わたしも、子どもだったのよね。
身体は大人になったけど、頭はてんで子どもだった。
普段の紘柾はそれでもちゃんと靖子や子どもたちを大事にしてくれていたのに、夫が自分を抱かなくなったのは自分に飽きて愛情が無くなったせいだと思い込んでいたのだ。
そのうえ、紘柾は何人かの孤児を屋敷にまるでペットのように飼うようになった。
実際に紘柾の閨の相手をさせられていたのが何人くらいいたのかは把握していないが、特にお気に入りだった子は通算して二、三人だったようだ。もっと多かった印象があるが、実際はそのくらいだったらしい。
そのうえ、とうとう一人の子を妊娠させてしまった。その子が産んだのは男児で、紘柾はそれを自分の子として籍に入れようとしたようだ。母親が息子を手放すのを拒んだため結局表向きはその娘の親の子として──つまり戸籍上はその娘の弟となっている。
しかし靖子にしてみれば、紘柾が他の娘に産ませた子供を自分の籍に入れようとした事、そのものが耐えられなかった。打ちのめされて暫く部屋に引きこもったりした時期もあった。
自分の子どもたちが疎ましくて仕方なかった。
同じ年頃の娘たちが羨ましくて仕方なかった。
馬鹿な紘柾は困惑しただろうと思う。
多分あのひとは、わたしが何故あんなに傷ついていたのか判っていなかった。
どうしていいか扱いかねて、引きこもるわたしをそっとしておいてくれるしか方法がなかったのね。だからわたしの家庭は崩壊してしまった。
今思えば子どもたちには可哀想なことをした。だから反省はしてる。せめて、あの子たちは自分の子なんだから優しくしてあげればよかったと。
柾青や青乃が成長すると、靖子は夫がまさか自分の子供に劣情を抱いたりはしないかと心配になったりもした。
さすがに、紘柾はそこまで馬鹿ではなかったらしい。
その頃には孤児を拾ってきてはお気に入りの人形にするという趣向はやめたようだ。自分の子供たちがそういう年頃になって初めて、わが子が下劣な玩具のように扱われる親の気持ちが判ったのだろう。ただ、もうあらゆることが遅かった。
柾青は幼い頃から病弱で引きこもりがちだし、青乃はまだ素直で明るい娘ではあったが両親に対して自ら距離を置いているようだった。妻である靖子も夫と口をきこうともしない。
自業自得だけど、きっと寂しかったでしょうね。
やがて何の事業を試みても失敗して、それでも生まれた時から裕福で贅沢な暮らしに浸かりきっていた紘柾は何をどう切り詰めてやりくりすればいいのかさっぱり判らなくなっていた。
ここへきて、靖子はようやく夫のやり方に口を出した。このままでは、破産して自分も道連れになってしまう。
青乃を嵯院椎多と結婚させようと言ったのは紘柾だ。
───あの子には何一つ不自由な思いはさせないようにしてきた。だが、このままではあの子にも貧しい暮らしを強いることになるかもしれない。
それを聞いて靖子は苦笑いするしかなかった。
貧しい暮らしがどんなものなのか、知らない癖に何を言うのかしら。
それでも紘柾は必死ではあったのだろう。
だったら、まだ早いかもしれないがあの子を誰か裕福な家へ嫁に出してやれば、惨めな思いをさせずに済むだろう?
独身の金持ちなどいくらでもいるが、離婚だの死別だのの年寄りのもとへやるのはあまりに可哀想だ。
だから、若くて金持ちの男を捜したんだが、この男はどうだろう?
見た目も悪くないし、青乃も気に入ってくれるだろうか?
必死なのはわかるけれど、紘柾には決定的に「相手の立場に立って物を考える」という視点が欠けていた。
そう決め付けられた青乃がどう思うのか。相手の男がこちらの意向通りに動いてくれるのか。
それが本当に、娘の幸せに繋がるのか──
本当に娘の幸せを願っているのなら、欲張って融資などねだらなければよかったのだ。正直に、娘を幸せにしてやって欲しいとそれだけを申し出れば青乃だって少しは理解してくれただろうに。
あれではまるで、融資ありきの話。
娘を幸せにしてやりたい父親の気持ちなんて誰が察してくれるだろう。
ねえ、あなた。
青乃はちっとも幸せそうじゃないわ。
あの嵯院という男はあなたのような馬鹿ではないかもしれないけど、きっと、悪い男。
またあなたの目論見は外れてしまったのよ。
靖子が采配を振るって使用人を解雇したり調度品や不動産を処分したりと葛木家の財政再建のために精力的に働き始めた頃から、紘柾は徐々に靖子に甘えるようになった。
紘柾にしてみれば、ずっとそっぽを向いていた可愛いお人形の靖子が、形を変えて戻ってきたようなものだろう。
抱こうとはしないくせに同じベッドで寝たがったり、靖子の胸に纏わりついたりする。
子どものように──
──僕の母はね。
僕がまだ幼い頃に病気で亡くなって、それから僕はおばあさまに育てられた。とても甘やかされて、どんな我侭も聞いてくれた。
でも、母を恋しがって泣く僕に母を返すことだけはできなかった。
どんなに欲しくてもお金では手に入らないものもあるのだと、あの時僕は知ったんだよ。
目を閉じて、甘える紘柾の声を思い出す。
高校生の頃、家庭教師が僕の初めての女性だった。
今思えば、あれは父に指示されていたんだろう。僕を男にしてやれと。もしかしたら彼女は父の愛人だったのかもしれない。僕を誘惑して、ベッドに引きずり込んだ。胸の大きな女性だった。
初めてだった僕は夢中だったけど、突然我に返ったんだ。
彼女は普段はとても清楚な女性だったのに、すごくいやらしかった。汚らしかった。
それ以来、僕は大人の女性を抱くことが出来なくなった。
怖いんだよ。
まるで──
「おかあさん」を汚しているような気分になって──
靖子は喪服で締め付けた自分の胸の上にそっと手を置いた。
そう、彼にとって、「胸の大きな女性」は母親しかいなかったのだ。
だから、母を犯すことが彼にはできなかった。彼にとって絶対汚してはいけない聖域だったのだ。
そして、いつの間にか彼の記憶の中の母とわたしが重なって──
「奥様、お風邪を召しますよ」
和江の声にはっと我に返る。
「お召しかえなさいませ。お飲み物は紅茶がようございますか?それともココアかホットミルクでも?」
微笑んでじゃあココアを頂戴な、と返すと和江ははいと返事して元気よく笑った。
「奥様、悲しい時は思い切り泣いてよろしいんですよ。だんな様を亡くして泣いてたって誰が咎めだてするもんですか」
和江の背中を見送ると靖子は立ち上がり、ようやく帯を解き始めた。
どうしようもないひと。
弱くて、馬鹿で、マザコンで。
甘ったれで、わがままで、ひとりよがりで。
飽きっぽくて、泣き虫で、いい年をしていつまでも子どもだった。
でも、わたし──
あなたを愛していたわ。
帯を解く手が止まる。
ぱたぱたと音を立てて、顔から大粒の雫が落ち始めた。
Note
もいっちょ。TUSでは青乃の父上は知らんうちに死んでたので、まあこれは書いておいた方がいいかと思ったのもあります。あと青乃の母上・兄上についてもほとんど触れていなかった(モデルもないので)のでこの際書いておくかと思って書き始めたらなんか楽しくなってしまい。
青乃の母上・靖子さんもペドの被害者で、その歪みから”幸せな家庭”を感じることが出来なかった人なんですが、大人になってから諸々軌道修正する賢さはある人だったんだろうと思いながら書いてました。青乃の父も書き始めの頃は徹頭徹尾いやらしくて愚かでただただ軽蔑に値する人物程度にしか考えてなかったんだけど、「馬鹿で愚かで間違いだらけで確かに軽蔑に値する人物だけど悪人ではない」って書いたらなんかせつない感じが増したので作者的には書いて良かったです。悪人ではない人が愚かさ故に人を傷つける罪みたいなのを書くのがだんだん好きになってきたといいますか。
あと、TUSでは終盤でいきなり存在だけ出て来て「おぅ、お兄ちゃんおったんかい」と自分でも思ったまさお兄さん(これ書くまでわりと本気で存在忘れてました)。書いてみたらめっさ好きなキャラに育ってしまったのでこの後の話でもちゃんと出てきます。あと、ここではまだ本人は登場してないけど兄さんが電話してた相手、これはTUSにも出てくるキャラ。次の話に登場します。主人公より先に出てきやがった。