罪 -20- バベル
ここへ来て初めて。
決まった休日以外で、"体調不良"なんかを理由にして仕事を休んでしまった。
──あたしを騙してらしたの。
あのあとすぐにお屋敷に帰るよう言われてあたしは黙ってそれに従って。
それからあのひとにはまだ会っていない。
命を懸けても守りたいと思っていたあのひとにあんなひどい言い方をして、
みずきからは自己満足だと言われてしまって、
もうあたしは何をどうすればいいのかわからない。
柚梨子はもう夕刻に近い時間だというのに一日中ベッドの中から出ることが出来なかった。かといって眠れもしなかった。
子供の頃からみずきのためにと思ってしてきたことはすべて、桂を失った罪の意識を払拭するための自己満足だ。少なくともみずきにはそう映っていた。
柚梨子自身、心のどこかでそうであることが否定しきれない。自己満足でみずきに"ひとりじゃ何もできないちょっとおバカで可愛いお人形"であることを押し付けてきた、だからみずきの負った大きな傷にすら気づくことも出来なかったのだ。
ならば、椎多に対してはどうなのだろう。
椎多は柚梨子には優しい。それはベッドの上でもそうだ。紫を失いそうな時には弱々しく頼ってくれるようなこともあった。けれど、愛されているとは思えないし柚梨子自身も愛されたいと望んでいるわけではない。自分が椎多を愛しているということだけが確かで、それが見返りも求めず命を賭してでも守るという行動の根源である。それも──
『自己満足』なのではないか?
柚梨子は今でもふと、紫と椎多の姿を思い出す。互いに想い合っていたはずなのに、特に互いの前では決してそんな素振りは見せなかったあの二人のことを。
最後には破滅と死という悲劇を迎えるしかなかったあの二人の愛を、柚梨子はどこか甘美な愛の形だと憧れすら抱いている。当人たちにとってはつらく苦しくもどかしい関係だっただろうに。あの結末を迎えるまでの間、紫も椎多もそれぞれ想像もつかないほど苦しんだはずだ。それなのに。
見返りを求めずただ影のように付き従う存在。
柚梨子は紫のようになりたかったのかもしれない。
それは──
やはり、柚梨子のエゴではないか。憧れた紫の姿に自分を同化して、本当は愛されているのだと思いたいのではないか。
『椎多を命がけでも守る』というのはその手段に過ぎないのではないのか──
掛け布団を頭からかぶったり剥いだり、起き上がって座ったまま頭を抱えたり、ベッドの周りをうろうろと歩き回ったり、シャワーを浴びてみたりを繰り返しているうちすっかり夕刻になってしまった。
椎多はもうそろそろ退社の時間ではないだろうか。
そうだ、明日は代議士との会食の予定が入っていた。
会社のことは名張さんがいれば抜かりはないはずだけど。
あの昨日逃亡して捕まった二人はあれからどうしたんだろう。もう目が覚めただろうか。椎多はあの二人を捕らえてどうするつもりなのだろう。
そしてみずきは今日も何食わぬ顔をして、メイドの仕事をこなしているのだろうか。
あたし──
もうここには居ない方がいいのかもしれない。
あたしのしている事が全部自分の自己満足のためだということがわかってしまった。だとしたらもう無心ではこれまでのように動けない。
最初にここに来た時、紫さんに簡単には辞められないと脅されたけど、今の旦那様ならあたしが辞めたいと心からお願いすれば認めてくれるかもしれない。あたしがここを離れたとしてもあのひとに不利な情報を外へ漏らすわけがないって、その程度には信じてもらえているはず。
そこまで考えて柚梨子は背筋がぞっと粟立つのを感じた。
知らないうちに頬を涙が流れている。
あのひとから離れる?
もう二度とあのひとに会わない、そんなこと、あたしに耐えられる?
きっと彼はあたしがいなくなっても平気な顔をして桂やみずきを従えて日々を送っていくのだ。あたしなんかいなくたって、彼の日常はきっと変わりはしない。
だって、あたしは絶対に紫さんにはなれないのだから。
あたしが抜けてもあの人の心には穴どころかかすり傷ひとつつかない。
みずきは"くみちょうは今まで付き合ってきたどの男より優しい"って言った。
彼はもしかしたらあたしよりみずきの方が可愛いのかもしれない。
だってみずきは本当に可愛いもの。
あたしより何倍も可愛がって、優しくあの子を抱いているのかもしれない。
それにあの子はあたしなんかみたいな重たい愛し方をしない。
きっと彼にとってもただ可愛いだけの存在でいられる。
だからあたしなんかいなくなっても彼は別に寂しくなんかならない。
どうしたの?
それでいいと思ってきたじゃない。
愛されたいなんて思わないって、ずっと思ってきたじゃない。
だったらどうしてこんなに苦しいのだろう。
涙がどうしても止まらない。
あのひとに会いたい。
でも会うのが怖い。
青乃はカウチに寝そべったまま、その脇に座ったみずきの頬や首を犬のように撫でていた。みずきも撫でられている犬のようにうっとりとした顔をしている。
だんだん本当に犬のように見えてきた。
それが可笑しくて少し笑う。
ほんの少し流れていた穏やかな時間を、ノックの音と龍巳の声が破った。
「紋志が戻ってまいりました」
びくっと身体を震わせたがドアの方を見ることが出来ない。
紋志は逃げたのだ。
あの時は、自分の意思では無かったかもしれない。父が金を渡して無理やり屋敷から追い出したのだから。けれど、今回は違う。紋志は自分の意思で逃げたのだ。
まだ自分に何の力もないことを承知の上で、それでもそばにいますと言ってくれた紋志。
そんな優しい子がわたしから逃げたくなるような、
そういう仕打ちをわたし自身がしたのだ。
わたしはあの優しい子を変えてしまったのかもしれない。
そうせずにはいられなかった。そうまでしてわたしは何が欲しかったんだろう。
あの子の愛?
こんなやり方で愛なんて手に入らないことをわたし自身がよく知っているのに。
では罰?
こんな罰を与えられるような罪を、あの子がいつ犯したというの。
わたしが椎英を殺したあの男を生涯許さないように、あの子は矢島を殺した私を生涯許さない。
それなのにまだわたしはあの子を手に入れようとしている。
わたしはたぶん、もう狂っている。
「青乃さま」
ぼんやりと振り返ると、紋志はぺこりと頭を下げた。
「ご心配をおかけして申し訳ありませんでした」
心配していたんじゃないわ。
おまえが逃げたから怒っていたのよ。
青乃はようやく立ち上がりつかつかと紋志の前に移動するなり大きく手を振り上げ、紋志の頬を平手打ちした。返す手の甲で反対側の頬も張る。紋志の鼻柱を爪がかすめて、痕を残していった。
「1日だけ自由をやると言ったの。昨日のうちに帰って来いと。そしておまえは帰ってくると言ったのよ」
「はい」
「おまえはまた嘘をついた。また約束を破ったわね」
「はい」
紋志の顔は一見神妙そうに見えるが、申し訳なさも反省も浮かんではいない。それがまた青乃を苛つかせる。ぎりっと奥歯を噛みしめると扉のところに控えていた龍巳に向かって声を投げた。
「もとの部屋へ戻しておきなさい。約束の守れない悪い子はお仕置きするわ」
きっかり30度頭を下げると、相変わらずきびきびした動作で龍巳は紋志の背後に回る。
「──そうだわ、おまえが世話になっていたという下町の料理屋だったかしら?吹き飛んで焼けたそうね」
紋志が初めてびくり、と顔色を変えた。
「ご主人は亡くなったそうね。お気の毒に」
口の端を吊り上げ、爪を立てて顎から頬をなぞる。感情が測りかねていた紋志の顔がみるみる血の気を無くしていくのがわかった。
そう、そういう顔が見たかったのよ。
「可哀想に、おまえはもう帰る場所も無いのね」
ふふ、と笑い声を漏らす。
「だって、わたしがおまえから取り上げたんだもの。ねえ、龍巳?」
紋志の背後に来ていた龍巳がビリっと感電したように緊張を走らせた。
「いえ、青乃様──それは──」
「わたし以外おまえの帰る場所なんて認めない。だから処分させたのよ。邨木も必ず処分する。おまえにその死体を見せてあげるから待ってらっしゃい」
どう?
わたしがおまえの帰る家を破壊したの。おまえにとって家族だったはずの男を殺したの。
おまえを連れて逃げようとした男も殺す。
どんな気持ちなの?
わたしが憎い?
わたしを殺したいほど憎くなった?
取り乱して殴りかかってくる?それとも泣き叫ぶ?
紋志の青ざめた顔にはそれでも怒りや憎しみの色は浮かばなかった。
ただ悲し気に目を伏せた拍子に涙が一筋流れただけだった。
「どうしたの、わたしが憎いでしょう?!もっと泣き喚いて殺してやるって暴れてごらんなさいよ!!」
「そんなことまでさせてしまったのは僕のせいです。ごめんなさい」
「何言ってるの?!馬鹿にしないで!!」
「ごしゅじんさま」
みずきが青乃の胸に抱きついて下がらせようとしている。龍巳は紋志よりもっと青い顔をして紋志の腕を取り連れて行こうとする。なおも何か叫ぼうとして青乃はそれを飲み込んだ。
「──例の薬を飲ませて裸にしてベッドに縛り付けておきなさい」
かろうじて「は」と返事をすると龍巳は紋志を連れて部屋を出ていった。
息が上がっている。
なんだか頭が痛い。
みずきがイヤイヤをするように青乃の胸に顔をこすりつけているのにようやく気付いた。
「ごしゅじんさま、もうやめて」
青乃を見上げるみずきは目が潤んでいるように見える。
「──どうしたの、そんな顔をして。どうしておまえが泣きそうなの」
「だって」
ゆっくりとみずきを胸から引き剥がすとその頬を撫でた。
もうわたしは自分でもどうしようもないの。
あの子にわたしと同じ思いをさせなければ何もおさまらない。
「わたしを止めたければ殺して。もうそれしか無いわ」
何も言えずただ青乃の手を握ったままだったみずきを振り払うように、青乃は自分も部屋を後にした。
わたしを止めたければ殺して──
そう、いっそ誰かわたしを殺して。
わたしは自分で自分の命を絶つ勇気もない。
紋志がわたしを憎めばいい。
憎んで憎んで、わたしを殺してくれたらいい。
紋志が殺してくれるなら、最期くらいは悪くない終わり方になるわ。
部屋に入ると指示通り紋志は裸にされ、両腕をロープでベッドに括りつけられてぐったりとしていた。媚薬効果のある香の匂いがすでに充満している。
青乃が入室するのを見届けて退出しようとする龍巳を振り返る。
「おまえもそこで見てなさい」
青い顔でごくりと唾を飲み込むと龍巳は扉のところで立ち止まった。
「おまえたちがしたこと、出来なかったことが巡り巡ってこうなったということをちゃんと目を見開いて見ておくといいわ」
吐き捨てるように言うと青乃は紋志の上に跨り、耳の穴に舌を這わせ始めた。
「おまえ、本当は男が好きだったの?」
紋志は答えない。
「おまえが男しか愛せないのだとしても、これからはわたしだけを愛していけばいいのよ。それがわたしのそばにいると約束したおまえの義務だわ。そうでしょう」
「違います」
微かな声。
「なんですって?」
「僕は確かに青乃さまのおそばにいますと約束しました。でもそれは愛するのとは別です」
頬を平手打ちする。
ここへ連れてきてから何度殴っただろう。
手を紋志の下腹部へ伸ばし握る。先端から敏感な部分を爪でひっかくように辿ると紋志は小さな声を飲み込んで身体を捩った。
「男が対象でもこうしてやればちゃんと欲しがるし女の中でも平気でいくくせに、おまえたち男は挿れる穴がなんだっていいのよ。それともおまえにとってはここへ挿れること自体が拷問なの?それはおもしろいわ」
わたしだって、本当は紋志を男として愛しているわけじゃない。
わたしが愛したのは後にも先にも椎英だけ。
こんなことなら椎英に抱かれればよかった。
彼は優しすぎて、わたしを大切にしすぎて、むやみにはわたしに触れなかった。
わたしも、あの悪魔のような男に蹂躙され尽くした身体に触れたりしたらあの人まで汚れてしまう気がしてた。
あの人に抱かれていたらわたしは、わたしの身体は、
すこしは綺麗になっていたかもしれないのに──
不意に涙が零れそうになるのを見られまいと顔を逸らすと、ベッドの下の床になにか違和感を感じた。
何かが落ちている。
「──龍巳、そこに落ちているものを拾って」
立っているのもやっとのようだった龍巳が無言でそれを拾う。
「それは何?」
「ビデオカセットのようです。ホームビデオか……監視カメラ映像のような」
「──見ない方がいいですよ」
紋志の声。
ということはこれは紋志が持ち込んだものか。
「見られたらおまえが困る映像ってこと?龍巳、ビデオデッキを用意して。それを見るわ」
何か言いたげな顔をしてしかし龍巳はそれに従った。
隣の、テーブルやソファの設えた部屋に置いてあるテレビとビデオ一式を収納したラックをそのまま運び込む。小型のビデオカセットをデッキで再生するためのアダプターを求めて龍巳が部屋を飛び出していった。
見ない方がいい、と言ったわりに紋志の顔はどうしてもそれを阻止しようという風には見えない。
本当は──
紋志はこれをわたしに見せたいのではないだろうか?
「本当によろしいんですか、青乃様。一度自分が内容をチェック──」
「いいから再生しなさい」
龍巳が迷いながらビデオの再生ボタンを押した。
映し出されたのは、画質のよくない白黒の映像。
どこか狭い部屋を上から見下ろすような──そうか、監視カメラの映像なのか。
ソファと呼んでいいものか迷うような二人掛けの椅子に二人の男が並んで座っている。
紋志ともう一人はあの警備員、邨木だ。
何か話をしているようだが、音声は入っていない。
邨木がうつむいて顔を伏せていると紋志がその頭を慰めるように自分の肩にもたせかけている。
邨木が顔を動かす。紋志の頭にそれが重なる。
急に邨木が立ち上がってきょろきょろと上を見回していると、紋志がその腕を引っ張って座らせる。
今度は紋志が邨木の身体に覆いかぶさった。
顔の部分は陰になって見えないが、ディープキスを続けているように見える。
そのまま顔を離すことなく、紋志が自ら邨木の脚の上に跨るように座った。
そして、紋志の背中の陰になって見えないところに手を入れ、動かしている。時折頭を相手の肩に押し当てて大きく息をしたり、こめかみや耳を舐めたり噛んだりしている。やがて紋志も邨木も脱力してぐったり互いにもたれかかった。
ふたりして立ち上がると、手を繋ぐようにして部屋の奥のドアを開く。開いたままのドアからすぐにまた二人して出てくると、互いに腰を抱いて密着した状態のまま再びソファに並んで腰かけた。
笑っている。
あのずっと仏頂面をしていた警備員も、笑っている。
ひそひそ話をするように耳に口をつけて何か話しては互いに笑っている。邨木が腕を広げて紋志の肩を抱くと紋志は邨木の肩に頭を乗せて目を閉じたのは見えた。
まるでただの恋人同士の部屋を盗撮したようだ。
青乃は息を詰めてその映像を見入っていた。
龍巳も途中で再生を切る機転も働かず、映像が途切れるまで見てしまった。
「──なんなの、これ」
「これはほんの3時間ほど前の映像です。このお屋敷のよくわからない監禁用の部屋みたいなところに二人で捕まってたんです」
「捕まって──」
「僕たちを追って捕まえたのは、あなたの憎む夫の嵯院さんですよ」
混乱して、何から考えればいいのかわからない。
なぜ、紋志を追うのにあの男が手を出していたのか。
そして早々に捉まえてこの屋敷に監禁していたというのか。
わたしが紋志が帰って来ないと荒れていた同じ頃、紋志は同じ屋敷の中であの男といちゃいちゃ絡み合っていたというのか。
ハッと我に返ったような顔をして青乃は紋志から身体を避けた。
ほんの3時間ほど前、この身体はあの男に撫でまわされたり舐められたりしていたのだ。シャワーなど浴びている時間は無かっただろう。もしかしたら今わたしが舌を出して舐めていたところあたりにもあの男の精液がついたままだったかもしれない。
吐き気が襲ってきた。
それに、何なの、あの顔は。
命の危険だってあり得る逃避行で捕まって監禁されているというのにあんなにべたべたと密着して嬉しそうに笑い合って。何がそんなに幸せそうなの。
わたしにはあんな顔は決して見せてくれない。
わたしのことは「愛して」いないから。
そんなのわかってた。
おまえがわたしを愛してくれないことなんか、
とっくにわかってたのよ。
「──龍巳!!」
ビデオのリモコンを握ったまま茫然としていた龍巳がビリっと姿勢を正した。
「邨木をすぐに殺しなさい!まだこの屋敷にいるなら簡単でしょう?!すぐに殺してここへ持ってきて、紋志に見せてやりなさい!出来るわね?!」
「青乃様──」
「どうしたの、椎英のことはあんなに簡単に殺したくせに、わたしにその死体を見せたくせに、出来ないとでも言うの?!」
青乃の声が加速度をつけて金切り声になっていく。
紋志は──
何も言わなかった。
邨木を殺せと命令しているのに、紋志を顔を振り返るとどこか冷めた顔──に青乃には見えた──で青乃を見ている。その顔を見て青乃は音がするほどの勢いで息を吸い込んだ。
まさか──
このビデオをわたしに見せることが、
おまえのわたしに対する復讐なの?
これでわたしが絶望することを知っていて?
それがおまえから恭太郎を奪ったわたしに対する復讐なの──
「──もういや」
叫びを上げ続けたせいで頭がふらふらする。もう大きな声など出ない。叫び声を聴きつけたのか、いつのまにかみずきがこちらに駆け寄ってくるのが見えた。
ベッドの上でそのまま倒れそうな青乃を抱きかかえるとみずきはハンカチでその鼻と口を押さえた。今は眠らせる方がいい。
崩れ落ちる直前、みずきの耳に微かな呟きが届いた。
──お願い、もう殺して。
「柚梨子、起きてるのか?」
ノックに続いて聴こえてきた声に柚梨子は飛び起きた。
一日中眠りも出来ないのに寝たり起きたりしていただけで夜になってしまっていた。その声の主のことばかり考えてずっと、繰り返し繰り返し何度も同じ場所を巡るしかなかった。それをその本人の声が中断させる。
おそるおそるドアに近づくと何度も返事をしようとしては逡巡した果てにようやくドアの向こうに届くかどうかも怪しいか細い声で返事をした。
「──はい」
「出来たらドアを開けてくれ」
「でも、あたし……髪もぼさぼさのままだしお化粧もしてませんし…」
小さな笑い声が聴こえた。
「そんなもの俺は気にしない。おまえは素っぴんがかわいいことくらい俺は知ってるぞ」
そういうとこなのよ、あなたって人は。
髪を手櫛で最低限まとめて仕方なく扉を開ける。
ドアを開けるなり部屋にずかずか入ってきた椎多はまだ閉めてもいない扉に柚梨子を押し付けてそれを閉じながら柚梨子の唇を塞いだ。
そのまま身を任せそうになって手でなんとか押しのける。
「もう俺のために働く気は失せてしまったのか?」
「──」
ずるい。
そんな風に言われたらあたしがはいそうですって言えないことがわかってて言ってるんでしょう?
「おまえがこういう関係はもう嫌だというならそう言って欲しい。ただ、出来れば秘書の仕事は続けて欲しい。俺はお前を手放したくはない」
「旦那様、本当にずるい。いっそおまえはもういらない、出て行けって言って下さった方が楽です」
枯れたかもと思った涙がまた溢れそうになってどうにか堪える。
椎多は困ったように身体を折って大きく息を吐くと柚梨子に触れないよう一歩下がった。
「おまえはどうしたいんだ。出て行きたいならそれを尊重する。残ってこういう関係だけはやめたいならそれでもいい。これまで通りでいいなら勿論それでもかまわない」
つまりそれは、あたしがあなたにとっていてもいなくても調整可能な程度の存在だって言っているのよ。
「──わかりました。ちゃんと引き継ぐところは引き継いで、ご迷惑をおかけしないようにきちんと段取りしてから──お暇を頂こうと思います」
それがせめてもの、あたしは秘書としてあなたの役に立つ仕事をしてきたというプライド。会社の秘書室の人たちにまで自分の個人的なことで迷惑はかけられない。そんな無責任な人間だとは思われたくない。
殺し屋としてのあたしは突然消えたところで特に困ることはないだろう。
ボディガードだって代わりになる人はいる。
愛人ならどうせ何人かいるうちの一人にしかすぎない。
この人にとってのあたしは、せいぜいその程度の価値の女だったのだ。
柚梨子の思いは知ってか知らずか、椎多はそうか、とただ頷いた。
「明日の会食は同行してくれるか?名張は見た目が暑苦しいから相手から良い印象を持たれないかもしれん。おまえが来てくれたら助かる。情報共有しておきたいから後で部屋へ来てくれ」
「──か」
かしこまりました、と言いかけて突然言葉に詰まった。
一歩離れたところに立った椎多に、飛びつくように接吻ける。椎多の両腕が背中に回るのを感じた。
「1時間でいいから、あたしだけの恋人になって下さい」
あなたの心がどこにあってもいい。
それがあなたの妻でも、もういないあの人でも、あたしの大切な妹でも、あたしの知らないどこかでも。あなたの心の本当の居場所がどこにあってもかまわない。1時間だけ、あなたをあたしにちょうだい。
椎多は一瞬眉を寄せると柚梨子を抱え上げるようにベッドへ運ぶ。ゆっくりそろりと下ろすと涙を溜めた目頭に唇を押し当てた。
「おまえはそれで──」
いいのか、と言いかけた口を指で押さえる。
「お願い、今だけ他のことは全部忘れて。あたしのことだけ考えて」
きっとそんなことすら無理だとわかっているけれど。
柚梨子は目をうっすらと閉じて椎多の手を自分の胸に導いた。
「龍巳さぁん、おくさま運べます?運べないなら車椅子持ってきて下さいよぉ。お部屋に運んで寝かせてあげないと」
みずきの声にハッと我に返る。
「ゆ……邨木さんのことなんかほっといたらいいんです。ほんとに殺して持ってきたら逆におくさまの方がこわれちゃう」
みずきは青乃の顔をそっと撫でるとベッドの上を四つん這いに進み、ぺたんと座って紋志の腕を縛ったロープを解いた。
「紋志さん、意外とえげつないことするんですね。あのビデオ、おくさまが興味持つのわかっててそこに落としてたんでしょ」
「そばにいることは出来るけど愛することはできませんって、これを見たら判ってもらえると思ったので」
みずきは自分の下敷きになっているシーツを引っ張り出し、紋志の下半身にかぶせて溜息をついた。
「言ったでしょ、大好きな彼氏のじゃなきゃ男のアソコなんか見たくないって」
「ごめんなさい。僕も好きで裸でいたわけじゃないんだけど」
「とりあえずシャワーでも浴びてもらえます?着てた服は脱衣所に置いとくから。龍巳さん、ぼんやりしてないで車椅子お願いしますよぉ」
龍巳はただなかば茫然とみずきの言葉に従い、車椅子を取りに備品倉庫に向かった。かつて青乃の脚が萎えて弱っていた頃に使っていたものがまだあるはずだ。
自分はまた何も出来なかった。
昨日までただのメイドのひとりだったはずのみずきが、何があったのかは龍巳は知らないが、突然青乃の側でペットのように撫でられているのを見て困惑したのはまだ数時間前のことだ。
みずきはKと、嵯院の秘書でありおそらく愛人でもある柚梨子の妹だ。葛木家からのメイドや警備員の数が減ったことと伯方の采配で青乃付きのメイドに配属されているが、嵯院側のスパイではないかとかねてから疑っていた。それなのに青乃はそんなことは気にならないらしい。
ただ、今日のみずきの青乃に対する態度を見る限り、単なるスパイとは言い切れない気もしていた。
それともあの娘は演技であの態度が出来ているのだろうか。
青乃様は完全にみずきを信頼したように思えるのだが。
──ほんとに殺して持ってきたら逆におくさまの方がこわれちゃう。
先日伯方に叱責されたことを龍巳は思い出していた。
命令されたからといって思考停止したまま従うのが青乃様のために良いとは限らない──
みずきがあんな風に言わなければ、自分はまたこの屋敷中探して邨木を殺し、本当に青乃の前にその死体を捧げようとしたかもしれない。
さっきのビデオにしたって、いくら青乃がすぐに見ると言っても先に内容を自分がチェックすべきだったのだ。
自分は子供の頃からずっと、ずっと、ただ青乃のことだけを見て忠誠を誓ってきたというのに。昨日今日側で可愛がられるようになったメイドのみずきが察して判断できることすら自分で判断も出来なかった。
ならば自分が青乃のために出来ることとは一体何なのだろう。
車椅子で青乃を部屋へ運び、ベッドに寝かせるとみずきはぴょこんと頭を下げてにっこり笑った。
「おくさまにはあたしがついててあげますからもう大丈夫ですよ」
そう言ってベッドの脇の椅子に座り青乃の手を握っているみずきの背中をただ見守る。そして龍巳は唇をぎりっと噛みしめて部屋を後にした。
自分が青乃様のために出来ること──
「おまえ、こんなとこで何やってんだよ」
ハッと周りを見回すと、普段絶対に立ち入らない新館に入り込んでいた。
自分はどこへ行こうとしていた?
そして声をかけたのは──Kだった。
「いや、別にこっち来ても悪かないけど、いつもは絶対こっち来ねえだろ。何かあったのか」
返事が出来なかった。
いくら古い友人だからといって──
ふと、立ち止まる。
古い友人?
まるで初めて会った人間のように、まじまじとKの顔を見る。
「おまえ、自分とどこで知り合った?」
Kが少し目を細めた。
「なんだよ、覚えてないのか?おまえが外部の警備会社に勤めてた時だよ」
「──」
記憶を辿る。
しかし、どこからもKの記憶が出てこない。
そういえば。
嵯院の身近に使っている者の中に催眠術や暗示を得意としている者があると──
まだ葛木家の者が多く残っていた頃に聞いた気がする──
「おまえ──まさか自分に暗示を──」
Kはふう、と天井に向かって息を吐くと口の端だけで笑った。
「とうとうバレたか。長くひっかかったままだったな。よっぽど素直で単純でなきゃここまで気づかないとかねえぞ」
「───」
そうだ。
Kは自分が誰より憎んでいる嵯院の一番身近にいる人間の一人じゃないか。
それなのになんで何の疑いもなく友人だと思っていたのだ。
本当に友人だったとしても、その立場を考えればむしろ遠ざかって交渉を絶つ筈なのに。
「何が狙いだ。自分を友人扱いして、情報を盗むためか」
「そこまでして欲しい情報なんかあるかよ。おまえが引っ掛かりやすそうだと思って試してみたら本当に簡単にひっかかったから面白くてそのままにしといたんだよ」
頭に血が上っているのか逆に血が引いているのか自分ではわからない。とにかくぐらぐらする。
面白がっていた?
自分を暗示にかけて、何か重大な秘密を得ようなどという目的もなく。
ただ自分はからかわれていただけだった?
Kに殴りかかろうとした。
しかしKはひょいっと軽々それを避ける。
自分も長年伯方から訓練をつけられ、外部の警備会社などで実務も積んで不審者を取り押さえたり倒したりしてきた。腕に覚えはある。それなのに、
こんな小柄で非力そうな、遊んでいる高校生みたいなガキを捕らえることすら出来ない──
自分が咆哮を上げた気がした。
実際にはうめき声も上げるわけではなく、ただその叫びは心の中で響きわたった。
自分は。
自分は。
自分は。
青乃様の為に何か出来るわけでもなく。
敵方の舎弟風情にまんまと暗示にかけられて嘲笑われていた。
なんのために。
なんのために。
こんなんじゃ。
青乃様を守ることなんか出来ないじゃないか──
「おい」
ふらふらと歩き出す。背中からKの声が聴こえる。
新館に入るのは初めてだが、図面は頭に入っている。
途中でKは龍巳の目的地を察したらしい。急に呼び止める声が切羽詰まり始めた。
「おい待て龍巳」
「うるさい!おまえなどに指図される覚えはない!」
ずんずんと足を進める。
その先にはこの屋敷で最も警備が分厚い筈の部屋がある。
「何の騒ぎだ」
突然、目の前に人が現れた。
目的の扉を挟んで向こう側。
「おまえ、確か葛木家から来た青乃付の」
嵯院──
この部屋の──この屋敷の主、青乃の苦しみのすべての元凶。
嵯院椎多がそこに立っていた。
横に女が一人いる。Kの姉。おそらくは嵯院の愛人である柚梨子だ。
普段見かけるような、かっちり髪を結いあげてきりっとしたスーツの姿ではない。束ねもしない長い髪は微かに乱れたままで、化粧すらしていないように見える。服装も夜着とは言わないが、部屋着のようなゆったりとしたワンピースだ。
女の部屋でいちゃいちゃでもして、今度は自分の部屋で続きでもしようというのか。
青乃様にあんな地獄のような苦しみを与えておきながら。
いけしゃあしゃあと女を侍らせやがって──
龍巳が自分の右脚に手を伸ばす。
Kが何か叫びながら飛びかかろうとするのを紙一重で避ける。
憎い男に向かって突進する。
右脇腹に固定した手に──サバイバルナイフ。
どん、とぶつかると同時に右手に手ごたえがあった。
「柚梨子!」
「姉ちゃん!!」
嵯院とKの声が同時に聴こえる。
ナイフが刺さったままその場に崩れ落ちたのは──柚梨子だった。
しまった──と思った瞬間、肩を吹っ飛ばされたと思った。
龍巳が刺したと思った相手が、玩具のような小さな銃を構えた体勢が目に入る。
撃たれた右肩からぼとぼとと血が滴っているのが他人事のように見えた。どこか太い血管にでも当たったのか、あんな破壊力のなさそうな銃なのに、一気に血液が抜けていくようだ。
音に気付いた他の者が集まってくる。
「ナイフは抜くな!すぐ柊野を連れてこい!K!」
鋭く早口で指示をすると椎多はKに向き直った。
「──殺せ」
意識が保っていられない。顔がどんどん冷たくなっていくのを感じながら龍巳はがくりと座りこみ、頭を床に落としてそのまま意識を失った。
Note
細かい推敲はあとまわしにして勢いで書いてる感じのここ数編です。このあたりの展開はオリジナルのTUSをなぞっています。
人間関係的なものとか、各登場人物の心情とか、オリジナルでは描けてなかったりそこまで考えていなかったりするものも乗せていってるので、「話の展開」としてはオリジナルからかなり中盤無くした展開もあるんだけど話は分厚くなったかも。
このあたりで青乃が迷い込んでるところは実はこの数年後椎多が迷い込む同じ領域なんだよね。迷い込んでる椎多を見て青乃があーこの人私が迷い込んだとこへ入ってしまったわ…と思ってたのかもしれない。
タイトルつけるの本当に苦手なんですが、ここの「バベル」は本文中に記述はないけどバベルの塔に雷を落とした神は誰だったのか、という感じでつけました。
ついに20話に到達してしまったRe:TUSですがここが一旦佳境。このあともうひと山きます。