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罪 -18- 保証のない約束

 青乃が珍しく上機嫌だ。
 用意されたブランチも残さず平らげ、片付けるメイドたちに美味しかったわ、などと声をかけている。これは嵐の前の静けさではないのかしら、とメイドたちは戦々恐々である。

 その朝──とは言ってもすでに昼前ではあったのだが──ちょうど青乃が目覚める頃を見計らって、伯方照彦は青乃の部屋を訪ねた。
「ご報告があるのですが少しよろしいでしょうか?」
 返事をせずに顎をしゃくって入室を促しながら青乃は欠伸をしている。前夜も遅くまで紋志に相手をさせていたのだろう。
「何?早く言いなさい。そんな不景気な顔、いつまでも見ていたくないわ」
 見ていたくない、とは言っても伯方が顔を出してからそこまで、青乃は一度として伯方に視線を送ってはいない。

「桧坂紋志が暮らしていた『恭太蕗』という小料理屋が昨夜、夕刻ですがガス爆発による火災で半焼しました。店主の矢島恭太郎は爆発に巻き込まれて即死ということです」

 そこで初めて──
 青乃は伯方を見た。
「あら、そうなの」
 青乃は一瞬ひどく昏い目をしたかと思うとふふふ、と含み笑いをした。
「それは可哀想に。紋志が知ったらさぞ悲しむでしょうね」

 

 上機嫌にブランチを摂った青乃は、たった10時間ほど前までいた紋志のいる部屋へ足を運んだ。紋志はさすがにベッドからは起き出していたが、ソファで居眠りをしている。青乃はその横に紋志を起こさないようにそっと座り、居眠りしている紋志の頭を自分の膝の上に横たわらせた。

 おまえの帰る場所は無くなったわ。
 かわいそう。
 もうおまえにはここにしかいる場所がないのよ。

 

 奇妙なほど穏やかに微笑み膝の上の紋志の髪を優しく、優しく撫でる。
 紋志が小さく意味の取れない声を零し身を捩っている。耳の穴に、綺麗に整えた小指の爪を挿れてくすぐると紋志はびくりとして目を開けた。
「──青乃さま…」
「おはよう、紋志。よく眠っていたわね」
 身を起こそうとすると青乃は片手で膝の上の紋志の頭を軽く抑えたまま、もう片手を襟元からシャツの中へと滑り込ませた。爪で軽く引っ掻くように胸の突起を探し当てる。指の腹を使ってそれを刺激していると、感触が変わっていくのがわかった。腰を深く折って膝の上の紋志の顔に舌を伸ばす。
 昼だというのに下着も着けずに羽織っただけの薄い衣服のまま胸を押し付けると紋志が生地越しにその先端を口に含み、軽く歯を立てた。

 やっと従順になってきたわね。

 

 椅子に座り直させるとその膝の上に跨るようにしてさらにその顔を胸に抱きしめる。紋志は"従順"に、片方は口で、もう片方は指で先端を転がしている。その指をとり、薄い夜着のようなドレスの裾の中へ導く。すでに湿った場所に届くと最初は遠慮がちに、やがて大きく動き始める。それに呼応して青乃は笑いのような声を漏らした。
 そうしている間も紋志の身体が無反応であることには目を瞑る。


「おまえ、葛木の屋敷を出されたあとどうしてたの。まだ中学生だったでしょう」
 紋志の指に時折息を乱しながら耳元に口をつけて言う。指が一瞬硬直した。
「──以前お屋敷に勤めていた料理人のところに住まわせてもらってました」
「そうなの。よくしてもらったんでしょうね」
「はい、とても」
 嬉しそうに聴こえたその声を掻き消すように青乃は自ら腰を大きく上下させ、指の動きを無言で要求する。
「その人に会いたいの」
 "その人"がもうこの世にはいないことを、青乃は知っている。

 

 どんなに会いたくても、その男はもういないのよ。
 殺されたの。
 "わたし"にね───

 

 口には出さない。まだ教えてはやらない。
 ぞくぞくと背中に電流が走る。
 指だけで達してしまったように、青乃は脱力し紋志の上に崩れ落ちた。
 乱れた息の下で青乃は小さく笑い続けている。紋志は汗ひとつかいてはいなかった。

「──そこまで言うなら帰してあげてよくてよ」
「本当ですか?」
 間髪入れずに答えた声が本当に嬉しそうで、青乃の心をざらざらと逆撫でする。
 青乃は見て見ぬふりをしていた無反応でだらりとしたままのものに手を伸ばした。少し力をこめてそれを握る。紋志が顔をしかめた。

「解放してやると言ってるわけじゃないわ。明日までもっとわたしを満足させなさい。それが出来たら1日だけ、自由を与えてやりましょう。わかった?」

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 伯方は青乃の部屋を退出すると龍巳の姿を探した。
 
 あの時──
 青乃の聴こえるか聴こえないかの独り言を、伯方の耳は聴き取ってしまった。

──これであの子は帰る場所がなくなったわ。

 

 ぞくりと寒気が背中を覆い、生唾が出る。
 それは、自分の知らないところで、青乃が指示したことなのかもしれない──

 龍巳は自分の持ち場でぴくりとも動かずに立っていた。
 すでにこの場に立っていたところで、嵯院椎多が乗り込んでくるわけでもない。瞬間移動でもあるまいし、外部の敵が何の警報もなくここへ侵入するとも考えにくい。
 それでも龍巳は以前決めたままのシフトで、旧館と新館を繋ぐ渡り廊下の「国境警備員」を勤めている。

 紫が伯方に後を託して姿を消してから、5年近く経つ。この5年の間、伯方は少しずつ旧葛木家に属する、つまり"青乃側"であった者たちを少しずつ嵯院邸の新体制に組み込んでいった。青乃が無計画に身の回りの人間を解雇していったことも手伝って、今では青乃に忠誠を誓っているような者は殆どいなくなっている。
 しかしそんな中で龍巳だけは頑として以前の制服を脱ぎはしないし、嵯院邸の新体制への組み入れを拒絶し続けている。
 最初から──椎英の一件以降はなおのこと、龍巳は嵯院椎多にだけは決して隷属しない。そんな者を不用意に体制に組み込むのもかえって危険だ。以前は伯方に対しては尊敬の念をもって従っていたが、おそらく今は伯方の命令にすら易々とは従わない。
 いっそ青乃が解雇を言い渡してくれでもすればたっぷりと退職金を与えて自由にしてやることが出来るのに、青乃は龍巳は解雇しない。そうしないことが、龍巳への罰なのだ。

 

「龍巳、少しいいか」
 声をかけると龍巳は視線を動かしもしない。
「申し訳ありませんが勤務中です。あと15分で交代時刻になります。それからにして頂けますか」
 視線を真っすぐ前に向けてぴくりとも動かず低めた声で答える。まるで昔のテレビアニメのように、口だけがぱくぱく動いているようだ。
「では時刻がきたら詰所に来てくれ。そこで待っている」
「了解いたしました」

 龍巳は自分や邨木とは違い実際の戦争に参加したことも軍隊で訓練をうけた経験もない。元自衛官や警察官でもない。格闘やボディガードとしての基本は自分が指導したが、どういうわけか龍巳はいつも軍人のように振る舞っている。
 傭兵はともかく、自衛官や警察官はきっと龍巳に向いた仕事だろう。現在龍巳が向けている青乃ただ一人への忠誠。それを"国民"だの"地域住民"だのに向けることが出来たなら、きっと良い自衛官なり警察官になる。
 龍巳はまだ若い。ここを退職させて、そういう職業を勧めてみたい。

 そのようなことを考えているうちに15分などあっという間に過ぎ、龍巳がきびきびと詰所の扉を開けた。
「お待たせいたしました。隊長。お話とは何でしょうか」
「まあ慌てるな。少し外へ出よう」
 怪訝な顔の龍巳を時折振り返りながら外──庭に出た。英国風に造られた一角は視界を遮る背の高い植物も多く、不審者を警戒するという面では伯方の立場ではむしろ無くしてしまいたいがそうもいかない。折衷案として死角になりそうな場所すべてに監視カメラを置いている。とはいえ、音声までは収録していないので内部の人間同士で内密の話をするには意外と良い場所ではある。
 その一角に入ると伯方は龍巳を振り返った。


「桧坂紋志の縁の店がガス爆発に伴う火災で焼失した。その主人は即死だそうだ。何か知らないか」
 必要最低限の情報だけを伝えて、龍巳の表情を伺う。
 龍巳は大きく息を吸い込み、目を丸くしている。

 これは"驚き"の表情か。
 では、この火災は龍巳が実行したわけではないのか。
 しかし仮に実行犯ではなかったとしてもそれは無関係とイコールではない。

 

「……いつのことですか」
「昨夜だ。龍巳、もしも何か知っているなら話して欲しい」
「存じません」
「青乃様は桧坂の帰る場所を奪ってその事実を本人の目の前に晒すおつもりなのかもしれない」
「ご自分が味わった地獄を紋志と共有しようとなさっているのかと。その地獄を青乃様に見せたのは隊長、あなたでは」
「やはりおまえが何か指示されたのだな」
 龍巳がぐ、と言葉に詰まった。
「おまえが青乃様の命令に従うのは間違ってはいない。私も今更誰を殺したと咎める立場でもない。ただそれは本当に避けられないことだったのかということが問題なのだ」
 唇をぎりっと噛みしめ、拳を握りしめている。何かを振り切るように龍巳は伯方の目を睨むように見据えた。
「矢島を殺すのは、本当は自分がやるつもりでした。今日。この後に」

 殺す"つもり"だった?
 今日?

 

「自分は店を破壊することまでは考えていなかった。矢島だけを殺せば済むと」
「ではその店のガス爆発は事故だと?」
 龍巳は悔しそうに頷いた。
 結果的には青乃の望むことになったが、青乃の指示を実行できなかったことを龍巳は悔しいと思っているのだろう。
「──わかった。それは信じよう。手を下さずに済んだならおまえにとっては悪くないことだ」
「自分は、青乃様のためにそれが必要なら自分で手を下したかったです」
「龍巳」
 伯方は一度深呼吸をすると龍巳の両肩に手を置いた。猛る龍巳を落ち着かせるように。

「私はおまえにいざとなったら人を殺すことも可能なように訓練をつけてきた。しかしおまえはまだ誰も殺してはいない。人を殺すのは簡単だが、簡単なことではないんだ。それに」

 椎英を殺すことを指示した紫や嵯院椎多は人を殺すことなどなんとも思っていない。
 しかし青乃様は本来はそういう方ではない。
 もしいつか正気に戻られることがあったら、自分の指示で誰かを殺したということがあの方をずっと悩ませることになるかもしれない。

 

「青乃様の罪の意識までおまえは背負うことが出来るつもりか!思い上がるな!」

 

 訓練されていた時でさえ聞いたことのない厳しく激しい叱責。
 龍巳は呼吸することさえ忘れたようにぴくりともできない。見開いた目がみるみるうちに赤く潤んでゆく。

「直接だろうが指示したのだろうが、誰かを殺したという罪は他の誰かが代わりに負えるものではない。青乃様の命令にただ思考停止したまま従えばいいなどと思うな。本当に青乃様のことを思うなら、従わずに済む道を探すことも視野に入れておけ」
「隊長──」
「青乃様はおそらく矢島を殺したのはおまえの仕事だと思うだろう。よくやったとお褒めの言葉があるかもしれん。折を見てあれは自分の仕事ではなく事故だったことをお伝えした方が良いと私は思う。叱責はされるかもしれないが結果が同じなら罰を与えるほどのことはなさるまい」


 伯方はそこまで言うと龍巳の肩をぽんと叩いて背を向けた。それを見送り、その後ろ姿が見えなくなると龍巳はその場にがくりと膝をついた。

 自分は何をしようとしていたのか。

 

 誰にも見せたことのない涙が、地面にぽたぽたと吸い込まれていくのを龍巳はただ見つめていた。

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 桧坂紋志がずっと世話になっていたという小料理屋がガス爆発で焼けて、その店主が死んだらしい。これが青乃が指示したことだったとしたら、青乃は桧坂にその結果を見せつけようとするはずだ。
──桧坂を絶望させる為にな。

 青乃は紋志に帰宅の許可を与え、それを送迎する──といえば聞こえはいいが、つまりは監視である──役目を邨木佑介に命じている。その光景をドアの横でいつものようにちょこんと立って見ていたみずきは、椎多の言葉を脳内で反芻していた。

 すごい、くみちょうの言う通りだ。

 

 あの紋志という人は本当にちゃんと帰ってくるのかな。
 その爆発で死んだとかいう人はあの人にとってどういう人だったんだろう。
 その人が死んだというだけで、『絶望』させることが出来ると思われるような。
 あたしだったら?
 お姉ちゃんが死んだら『絶望』するのかな。
 なんだか想像できない。
 お姉ちゃんが死ぬということも、そうなったら自分が絶望するかなってことも。
 想像できないから、『絶望』させられたあとにこんなところに戻ってくる気になるかどうかもわかんない。

 勤務時間が終わり、交代して自室に戻るとみずきは椎多の携帯電話に邨木が紋志を伴って嵯院邸を出たことを報告した。使用した車のナンバーも併せて報告する。この車にも発信機が搭載されている筈だ。


『邨木か。なんだろう、嫌な感じがするな』

 

 独り言のような椎多の言葉が気にかかる。
「なにか心配なことある?」
『いや、根拠はない。ただ嫌な感じがするだけだ。俺の嫌な感じはわりと当たるんだがな』
「あたし、何かやることあるならお手伝いするよ」
 椎多は少し考えて、いや、いい──と言った。

 それから数時間も経たず今度は椎多から携帯電話に着信があった。

 

『どうやら邨木と桧坂がこっちに戻らずに逃げるルートを取っているらしい。たまたまどこかへ寄り道してるだけかもしれないと思ったが高速に乗ったらしいからいよいよ逃亡かもしれん。そっちには何か伝わってるか』


 にげ???
 と思わず叫んでしまった。

 

「──こっちはまだ何も。多分追跡もせずに佑介さんに任せて安心してるんだと思うけど。だいたいおくさま、車に発信機が載ってることも知らないかも。いつまでも帰ってこなくて初めて騒ぎになるんじゃないかな」
『そうか、わかった。とにかくこっちでは追跡させてるからそっちで何か動きがあったら報告してくれ』
「くみちょう──」

 あたしに行かせて。

 咄嗟にそう口にしそうになった。
 佑介さんと紋志さん?
 が、なんで?
 
 そっちで動きがあったら報告しろ、と言われたことも一瞬で忘れて、みずきは黒の上下のスウェットに着替えた。念のため、殺しの仕事の時に使う針とナイフを身に付ける。その間、思考は完全に停止していた。
 最後に携帯電話だけを持って屋敷を出る。従業員出入口の警備員から預けてあるミニバイクのキーを受け取り、明日遅番だから遊んでくるね!と元気よく微笑んで外へ出た。
 青乃が騒ぎ出せば、自分が報告しなくても今なら伯方から自分の何倍も適確で要領のいい報告があるはずだ。それなら自分は追跡の方に参加したい。車で待機していることも考えたが、会社の方へ向かう。そちらには柚梨子もKもいる。どちらかが追跡に参加するはずだ。おそらくはKが。そうなったらそこへ便乗しよう。

 周囲の人間からはのんびりおっとりしてちょっとおバカだけど可愛いメイドとして認識されているみずきだが、これだけのことを一瞬で考えて実行する頭の回転と行動力は持ち合わせている。
 ただこの時はまだ、みずきは佑介を殺すことまでは考えていなかった。

 

──やっちゃったなあ。

 計画通り追跡に加わったものの感情の箍が外れてしまって佑介を殺そうとしたり姉を罵倒してしまったりしたあと自室に戻ったみずきは、自分のベッドに身を投げてぐったりと目を閉じた。
 だらだらとスウェットを脱いでベッドの下に投げ捨てるともぞもぞ布団に潜り込む。

──お姉ちゃんに酷いこと言っちゃった。

 

 姉はきっと深く傷ついてもしかしたら泣いているかもしれない。
 なにもあそこまで言わなくても良かったじゃないか、と後悔が胸に渦を巻く。


 姉が自分の為に何もかも犠牲にしてきた、これからもそうしようとしていることがもう今のみずきにとって重荷だということを判って欲しかった。姉には妹や弟のことではなく、自分の幸せや自分がしたいことを最優先に考えて欲しいと思っただけだったのに──

 ただ、あのくらい言っておけばもうみずきのことを保護の必要な妹だとは思わなくなるだろう。これからは自分のことをちゃんと考えてくれるようになるかもしれない。
 だったらあたしがちょっとくらい嫌な妹の役でもいいか。

 遅めの午前に起き出してシャワーを浴びる。
 髪をドライヤーで乾かし、可愛いくセットする。
 化粧も少しはするがナチュラルメイクに仕上げる。
 それからメイドの制服に着替える。
 ホテルコンシェルジュか、客室乗務員みたいなかっこいい制服。

 以前椎多が、おまえにはかわいいアリスみたいなエプロンドレスの制服の方が似合いそうだなと言っていたことを思い出す。


 でもあたしはこっちのかっこいい制服の方が好き。組長だってあんなこと言ってたけど、ロリータファッションみたいなふわふわぴらぴらのスカートよりこの制服を脱がせる方が絶対好きでしょ。あたし知ってるんだ。組長はね、女でも男でもジャケット、それからその下のブラウスやシャツをちょっとずつ脱がせていくのが好きなの。かちっとしたデザインであればあるほど好きでしょ。あと自分がかっちり着込んでネクタイも締めてる時にそれを脱がされてくのも好き。絶対そう。

 ふふっと笑いながら仕上がりを姿見でチェックすると、ちょうど交代の時間の少し前になる。計算通りだ。
 つい半日前に、いくつも県境を越えた先のサービスエリアで男を一人殺そうとしていたとは思えない明るい微笑みを乗せてみずきは部屋を出た。姉を泣かせてしまったことに対する若干の反省はあるが、ずっと心に溜めていたことを吐き出したことでみずきは晴れやかな気分になっていた。──メイドの詰所に来るまでは。

 早番のメイドたちは口々にやっと交代だと力尽きていた。泣いている者もいる。
 どうしたの?と尋ねる前から、気を付けてね、と注意された。
 青乃が大荒れだという。ものは投げるわ誰彼構わず怒鳴りつけるわ、近寄れば叩かれるわ食器は割るわ。どうやら昨夜からそんな状態らしい。それでも夜には酒を浴びるように飲んで眠ってしまったが、起き出してきたらまた荒れだした。二日酔いでさらに不機嫌が膨らんでいるようだ──

 そうか。

 紋志が逃げたことが、やっと青乃にも伝わったのかとみずきは納得した。

 みずきはその追跡に加わっていたが嵯院邸に戻った時にはKによって眠らされていたので青乃が騒いでいることは知らなかった。

 皮肉にも、紋志が逃げたと激昂して青乃が酒を暴飲していた頃、当の紋志と彼を連れて逃亡しようとした邨木佑介はあっさりとこの屋敷に連れ戻されていたのだ。

 佑介さん、あのあとどうしたかな。

 姉に暴言を吐いたことは反省するが、佑介を殺そうとしたことについて別に反省する部分は思いつかない。あたしは彼に対して間違ったことは言ってないと思う。もっと言うなら冷静になった今だって死ねばいいのにと思っている。反省することがあるとしたら、くみちょうの言いつけを聞かずに自分の判断で勝手に動いたことだけだ。

 散々脅されておそるおそる青乃の部屋を伺う。

 伯方が立たされん坊になっているのが見えた。

 金切声を上げて、なんでもいいからとにかく紋志を見つけろ、邨木は殺せみたいなことを繰り返している。

 それを見ていると、みずきは何故か突然悲しくなってきた。

 おくさま、なんだかかわいそう。

 紋志がどうしても欲しくて、ひとりじめしたくて、

 そのために彼の大事な人を殺して、

 やっと自分だけのものになると思ったのに、

 たかが警備員がそれをさらって行ってしまったのだ。

 そこまでのことをしたのに、紋志は自分ではなくそのよくわからない警備員について行ってしまったのだ。

 大声で叫んで八つ当たりしても、いや、そうすればするほど、そばに誰も残らない。

 

「もういい!紋志が帰ってくるまでおまえの顔など見たくないわ!ぐずぐずしないですぐに紋志を取り戻しなさい!そして邨木の死体をここに持っておいで!──みずき!」

 深く礼をして退出しようとする伯方の姿越しにみずきの姿を認めたのだろう。突然指名されてびくっと背筋が伸びたが大きな声ではいっ!と返事をする。

「何か強いお酒を持ってらっしゃい!やってられないわ!!」

 ぺこりと頭を下げるとブランデーの瓶とグラス、そして氷と水も用意する。割れ物を投げられないように警戒しながらサイドテーブルに置き、グラスに注いで水割りにして渡した。

「なに勝手に水割りなんかにしてるの!そのまま飲むのよ!」

 床に叩きつけようとしたグラスを、とっさに受け止める。その勢いで中の水割りはこぼれ、手から袖が濡れてしまった。

「おくさま、あぶないです。おけがなさいますよ」

 青乃がびくっと驚いた顔をした。そんなに驚くことかと思うほど吃驚した顔にみずきの方が戸惑う。

 青乃が荒れている時に声を掛けたり抗議したりするような強者はメイドの中には一人としていなかったのだということに思い至った。それなら、とみずきは開き直ったように青乃のいるカウチの前にぺたりと正座した。

「あと、こんな飲みかたしてたらすぐアル中になっちゃいます」

「──メイドのくせに何を偉そうに意見してるの。弁えなさい」

「わん」

「わん?」

 青乃が不意打ちで毒気が抜けたようにきょとんとしている。

「メイドじゃなくてトイプーのみずきだワン。ごしゅじんさまに可愛がってほしいワン」

 みずきは”仔犬のように”くぅんくぅん、と鼻を鳴らしてじわじわと青乃に近づいた。

「わ──わたしを馬鹿にしているの?!」

 ぴしり、と鋭い音をたてて青乃がみずきを平手打ちする。それでもみずきは犬の鳴き真似をやめない。青乃が気味悪げに身を引くとそれを追うようにさらに距離を詰める。

「なんなの、おまえ……おかしいんじゃなくて…?」

 青乃の声から力が失われているのを見て取るとみずきはにっこり笑って、"飼い主"の顔をまっすぐ見上げた。ある筈のない尻尾がちぎれんばかりに振られているのが見えるかのように。

 

「ごしゅじんさま、なでて」

 下手をすれば平手打ちではすまないところだと思う。手の届くところに鈍器だの刃物だのがあったら衝動的に殺されていたかもしれない。もっとも、そうなっても避ける自信はあるけれど。とにかく何か突飛なことをして懐に飛び込んだら意外と青乃の煮えたぎった感情が少しは収まるのではないか──と思ったのだ。今のところ、少なくとも先ほどまでの今にもこめかみの血管が切れて血が飛び出しそうな状態は収まったように見える。

「──メイドにまで虚仮にされるなんて」

 青乃が顔を逸らした。逸らした頬に涙が流れたのが見える。

 怒りが収まればと思ったのにまさか泣くとは思わなかった。内心慌てて可愛いらしく見えるように首を傾げる。

「こけになんかしてないです。おくさま、犬が大好きでらっしゃるからトイプーだったら可愛がっていただけるかと思ったんです……わん」

「わたしになんか可愛がって欲しいなんてこれっぽっちも思っていないくせに」

「思ってますよう、わん」

 顔を逸らしたまま、青乃は溜息をつくように笑った。

──あ、笑った。

 

「正直におっしゃい。わたしのこと、横暴で淫乱で頭がおかしい扱いの難しい主人だ、出来るなら逃げ出したいって。そう思っているんでしょう」

 

──あれ、自覚はあったのね。

 可愛い犬の真似をしたまま、妙に冷静に青乃の言葉を聞き取る。

「だから紋志も逃げ出したんだわ。これで二回目。そばにいますだなんて、嘘ばっかりよ」

「ごしゅじんさま」

 身を乗り出し、あくまで犬がそうするように”前足”を青乃の座るカウチに立て──

 ”トイプーのみずき”は小さく可憐な舌を出して、青乃の頬の涙を舐めた。

 さすがにびくりと振り返るとみずきは何の含みも邪心も無いような顔でにこにこと笑っている。

「ごしゅじんさま泣かないで。ごしゅじんさまが泣いてたらみずきもかなしいワン」

「なんなのほんと、おまえ……」

 呆れたように微笑むと青乃はおそるおそる腕を上げてみずきの頭に手をやり、そっと撫でた。その手を目で追うとみずきはきっちりと束ねていた髪留めをこっそり外す。ふんわりと解放された髪の中に青乃の指が入りこんでいき、やがて本当に犬を撫でているようにかき回し始めた。

「どうせおまえだって本当の犬のようには慕ってくれるわけじゃないわ。わたしはもう誰からも愛されない。みんなに嫌われてもしかたないことばかりしてることもわかってる。そうよ、みんなわたしから去っていく。死ぬまでひとりぼっちなの。そんなことわかってるのにどうやってひとりぼっちで生きていけばいいか、もうわからない」

 このひとはきっと、昔から誰にも何も言えなくてたくさんの犬たちに向かってこんな風に吐き出してきたんだな。

 みずきはもう一度青乃の頬の涙をぺろりと舐めると、犬がじゃれつくように青乃に抱き着いた。勢い余ってカウチの上に押し倒したような恰好になる。青乃がはしゃぐようにこら、やめなさいと笑った。

「──あのね、ごしゅじんさま」

 青乃はそのままの体勢でみずきを抱きしめ、髪を撫で続けている。

「みんな本当はひとりぼっちなの。このひとと離れたら生きていけないなんて相手、本当はいないの。大丈夫、ひとりぼっちなのはごしゅじんさまだけじゃないんだよ、……わん」

 

「ほんと、変な子ね……」

 青乃が起き上がるとみずきは再びそばの床の上に座った。その頬を撫でるように両手で包む。額と額を合わせ、鼻先と唇に軽く接吻けるとその手を離した。

「八つ当たりをして悪かったわ。片付けてちょうだい。それと」

 にっこり立ち上がるみずきを青乃は目で追っている。

「わたし、またこんな風に我を忘れてわめきちらしてしまうことがあるかもしれない。そんな時はまたそばに来て欲しいの。トイプーのみずき」

 はいっ!と元気よく返事するとぺこりと礼をして、部屋を片付けるべく一旦退室する。中の様子を伺っていた他のメイドたちには拍手喝采で迎えられた。

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 あのサービスエリアからこちら、どうやってこの部屋に辿り着いたのかが思い出せない。

 自分はおそらくあの車の後部座席に転がされたまま数時間のドライブを経て、あのKという男に車から引きずり降ろされてこの部屋へ放り込まれた筈だ。ただその間、自分が何を考えていたのかも全く思い出せないし、現実感が全くない。

 とにかくここへ放り込まれて倒れたそのままの状態で自分は少し眠っていたのかもしれない。

​ 埃臭さの中に若干の黴臭さが鼻について目を開ける。カーペットの模様が視界に入った。身体を動かしてみると、拘束はされていないらしい。部屋を見回すと、愛想のないどこかのビルの物置か物品倉庫のような部屋だ。もっともそういう場所には必ずあるスチール棚などはなく、ソファとテーブルが置かれているが、中小企業の応接室でももう少しちゃんとしている。

 最後にそのソファで横になっている人影に目をやる。

 紋志だ。

 佑介は起き上がり、そろそろとそこへ近づいてみた。よほど身動きもせずに眠っていたのか、身体が固まったように関節が痛む。

 紋志はすうすうと寝息を立てて眠っていた。

 無理もない。一週間あまりも昼夜関係なくあの女主人の相手をさせられていた上、やっと自由が貰えたと思ったら自分にとって大事な人間と大事な場所を一度に失ったと告げられ、そしてあの逃避行だ。心身ともに疲れていないわけがない。

 今、いつなのだろう。

 自分の身体を点検してみると、腕時計はもちろんポケットに入っていたものがすべて没収されている。ネクタイどころかベルトまで外されている。部屋には時計はない。

 立ち上がって部屋の中をくまなく点検してみたが、不愛想な応接セットはよく見るとしっかりと大きなネジで床に固定されていた。これはさすがに道具を使わなければ外せない。

 どこにも窓はなく、天井にエアコンか空気清浄機かの吹き出し口、天井近くの壁にはいくつかの通風孔らしき穴がある。どこかに監視カメラが仕掛けてあるのかもしれない。

 部屋の隅にドアがあり、その奥はごく狭い便所になっていた。洋式の便器には蓋はなく、トイレットペーパーもホルダーがなく直に置いてあるだけだ。水洗タンクはごくシンプルな作りの小さなものだがよく見ると部品の接合部分は可動域を除いて全て溶接してあるようだ。念入りにも程がある。

 テーブルの上には、紙皿に乗った握り飯と鶏の唐揚げが置いてあった。カトラリーの類はない。手づかみで食べろということだ。

 つまり、この部屋には咄嗟に手に取って武器に変えられるものは何もない。

 誰かを『監禁』するためだけに作られた部屋──

 焦ってみても仕方ない。おそらく自分たちをここへ放り込んだのは嵯院の筈だ。ということはあちらから何かしらのアクションを起こしてこない限り、何も出来ることがない。ならばそれまで十分に休養を取らせてもらうのが一番賢いだろう。

 ソファは紋志が横になって占領している状態だから、それを背もたれ替わりに床に座った。時折振り返って紋志の寝顔を確認する。

 頭をカラッポにすると、あの車の中でみずきに言われたことがそのカラッポの中で縦横無尽に駆け巡り、跳ね返ってはどんどん膨らんでいく気がした。

 未音がどれほど恐怖と絶望を味わいながら死んでいったか。

 なぜ自分はそれに間に合わなかったのか。

 そのことばかり考えてきたのは嘘ではない。

 あの時逃がしたゴミ──犯人の片割れをどんな風に殺せばいいか。そればかり考えてきたのも嘘ではない。

 ただ、あの一瞬、紋志をあのまま帰らせるわけにはいかないと思ってしまったのだ。

 どこまで鵜呑みにしていいのかはわからないが、嵯院は自分達2人をあの女主人から匿うと言った。自分には仇の片割れの行方を、紋志には青乃からの追及の及ばない土地での新しい生活を与える──という申し出はあまりにこちらに都合が良すぎる。そんな事をして嵯院になんのメリットがあると言うのだろう。

 いや、自分はまだ何やら命を張った使い捨てできる役目が与えられるらしいが、紋志はどうだ。今ここで匿っていることが青乃に知られでもしたら面倒だろう。いや、かといって夫が妻の愛人をわざわざ返してやる義理はないのか──

 自分一人で考えていても埒のあかない問いをぐるぐると考えているうち、紋志が小さくうめいてうっすら目を開いた。

「起きたか」

 声をかけるとしばらくぼんやりしたまま何度かまばたきをし、のろのろと身を起こしてソファに座り直す。そしてやはりのろのろと頭を巡らせて場所を確認しているようだ。ようやくここへ放り込まれた時の記憶と繋がったのか、紋志は大きく息を吐いた。

「佑介さん、大丈夫?」

 まったく──と小さく零して、紋志が座ったことで空いたスペースへ佑介も座る。

「まだ自分のことより人のことを先に言うのか」

「だって」

 言いかけて続きを飲み込み、代わりに紋志は佑介が膝の上で握りしめていた右手に自分の左手を重ねた。

 確かにあのサービスエリアの状態では心配されても仕方ないか、とは思う。しかし人の心配をしている場合ではないのは紋志の方ではないか。

「──俺のことはいいんだ。あのみずきというメイドが言っていた通り、俺が妻の仇を討ちたいと言うのは欺瞞で、ただの自己満足なんだろう。俺がおまえに『恭さん』の仇を討ちたくないのかとしつこく言ったのは、妻の仇討ちをしたい自分の気持ちを正当化したかったからだ」

 

 俺は本心ではもう、妻の仇討ちを諦めていたのかもしれない。

 その程度だったんだ、と言われても仕方ない──

「それでも佑介さんは未音さんをすごく愛していたし、それを失ったことで自分が壊れそうになったのをそうやって支えてきたんでしょ。もしもう疲れて諦めてしまってもそんなの、誰に責められることじゃないよ。愛する人を殺された佑介さんに、なんの罪があるっていうの」

 それでも俺は自分を赦せなかった。

 あと1時間、いや、あと30分早く帰っていたら、少なくとも未音を死なせずにすんだかもしれないのに。

 あの時俺は何をもたもたしていた。

 勤務日誌をもう少し手早く書いて、

 同僚と雑談などせず、

 駅前のコンビニになど寄らずに、

 あと1本か2本早い電車に乗っていたら?

 駅から家に帰る足をあとほんの少し早く動かしていたら──?

「俺は、未音が助けてと俺を呼んでいた時、きっと鼻歌なんかを歌いながら、のんびり歩いてたんだ。俺が──」

「佑介さん、もういい。やめて。悪いのは犯人だよ。佑介さんじゃない」

 もうわからない。

 俺があそこまで逃がした犯人を殺すことに固執していたのは。

 未音に対する愛情ゆえだったのか、

 それとも自分の罪の意識をどうにかして消すにはそうするしかなかったからなのか。

​──それくらい妻を愛してましたって誰に向かってアピってんの?

 みずきが全てを看破してしまった。

 そのアピールは『自分自身に向かって』ではなかったのか。

 俺は、本当に──

 そこまで、未音を、愛していたのだろうか?

 俺はこれから──どうやって生きていけばいい?

 左手は佑介の握った右手を包んだまま、紋志は右手を回して佑介の頭を自分の肩に抱き寄せた。涙も出ないのに、胸のどこかが痛くてたまらない。

「佑介さんが僕に自分の人生を生きろって言った時、俺がいるって言ってくれたよね。あれ、すごく嬉しかったんだ。ねえ、佑介さん」

 間近で紋志の声が聴こえる。

「僕がいるよ」

 それはきっと──

 紋志が遠い過去に、青乃とした約束。

 もしかしたら、恭太郎としていた約束。

 僕がいるよ。

 僕がそばにいる。

 儚くて、守りたくても守れなかった約束。

 それでも紋志は、それを必要とする者がいたなら、

 何度でも約束するのだろう。

 たとえその約束が守られる保証などなくても。

 膝で結んでいた右手を解き、それを包んでいた紋志の左手を握る。​

 掌の感触が、長らくしまい込んでいた感覚のスイッチを入れたように──

 紋志の肩に預けていた頭を傾け、唇に触れた。

 紋志は驚きも抵抗もせず目を閉じてそれを迎える。舌を捕らえて絡めようとした時、一瞬びりっと電気が通った気がして我に返った。慌てて紋志から離れる。

「しまった。この部屋監視カメラがあるはずだ。どこかに隠してある」

 立ち上がってきょろきょろと部屋を見回している佑介の手を紋志が引っ張って再び座らせた。これまで見たことのないような、いたずらっぽい表情で笑っている。

「僕なんてこの一週間、青乃さまとセックスしてる様子を直接じゃなくても佑介さんや他の警備員さんやメイドさんたちに散々見られてきたんだ。いまさらあなたとキスしてるとこなんか誰に見られたって恥ずかしくなんかないよ」

 

「え……」

 今度は紋志の方が佑介の頭を抱え込むように唇を覆ってきた。それを貪りながら、佑介の膝の上に跨る。まるで帰してあげると言った日の昼下がりの青乃と同じように。

「こうしたらカメラから死角になるでしょ」

「いや、ちょっと待て、紋志」

「じっとして」

​ そう言うと紋志は殆ど密着した身体の隙間に手を伸ばした。

Note

あらやだずいぶん半端なエロ小説ですねこれ。BL以前に。​

椎多は男女どっちもOKの人だけどそういえば青乃様って性に乱れてるくせに女子には手を出さないのかしら、とふとおもって(今頃?)ちょっとみずきとその空気を出してみました。いっそ犬プレイと思ったんだけどなんか変態が行き過ぎると何が書きたいのかわからなくなってくるので自重しました。てゆうか青乃が犬プレイに持っていこうとしたらみずき喜んで相手しそうだな…。新しい扉(新しいかどうかは不明)を開いていたかもしれぬ…。

そしてオリジナル主人公カップルがやっとカップルっぽくなってきたよ。オリジナルではけっこう後半になるまでずっとプラトニックだったんだけどもういいかって!オリジナルでは紋志はあくまでも天然の魔性だった(何故か男どもみんな紋志に惚れる感じ)だったんだけど多分こいつ、純なフリしてだいぶ好きやなってひそかに思ってたんです。佑介がいきなり立場逆転してキョドってます。そら見られてもヘーキヘーキとか言われたってキョドるわな。(2021/10/13)

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