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聖 夜

 クリスマスは恋人たちで過ごすもの、

 などという認識を大多数の人間が持っているのはこの国くらいではないかといつも思う。
 キリストを信仰している国なら家族で静かに過ごすものだろう。

 

 と、毎年思うのだがたいてい毎年クリスマスというのは何某かのパーティに招待されているのであまり関係はない。

 青乃がドレスを選んでいる。
「クリスマスパーティにあなたと行くのは初めてね」
 すっかり大きくなった隼人が足元にまとわりつくのを毛がつくからと叱りながら青乃は笑った。
「──あなた?」
 上の空だったのだろう。椎多は初めて話し掛けられたように首を傾げた。


「それで、パーティのあとはどなたとお約束なの?」
 

 からかうように笑う。椎多はただうん、とだけ言って返事はしなかった。
 青乃がほんの少しだけ表情を曇らせる。椎多はそれにも気付かない。
「わたくし、お友達のパーティに招待されてますの。終わったらそちらへ直接向かいますから迎えの車はもう一台用意して下さいね」
 椎多はやはりうん、とだけ返事をした。


「……椎多さん」
 椎多の座ったソファに歩み寄ると青乃は膝をつくようにして腰を屈めた。頬に手をやり、ぼんやりした顔を自分の方へ向かせる。


「どうしてなの」


 青乃の質問の意図がつかめず椎多は小さく首を傾げた。
「あなたが渋谷さんに何をしようとしているのか、何をしたかくらいわたしが知らないと思っているの?」
 みつめ返すと妻の目には微かに怒りの火が灯っているのが見てとれた。

 

「今のあなたはわたしを犯していたときと同じ目をしているわ。手に入らないものを力ずくで奪い取ろうとしている。どうしてなの?どうしてそんなあなたに戻ってしまったの?そうまでして彼を手に入れたいの?」
 

 椎多の手に自分のそれを重ねて握りしめる。どれも椎多には答えのみつからない質問ばかりだ。
「あなたが誰を愛そうとかまわないわ。でもそんな風に相手を傷つけてしか愛せないならわたしは許せない。わたしはかつてあなたに傷つけられていたからこそ、同じ事を繰り返して欲しくないの」
 椎多はただ力無く首を振った。そんなことは青乃に言われるまでもなくわかっている。それでも止めることができなかったのだ。青乃は呆れたように、しかし哀しげに溜息をついた。
「──あなたは無い物ねだりの駄々っ子と同じね。手に入らないものだから尚更欲しくてしかたないのよ。そして手に入れば自分から手を離してしまうんだわ」
「わかっているよ」
 やっとのことで声を発する。その点について青乃に責められれば返す言葉などはなからありはしない。
「ここまでやってしまったら英二は俺のものにはならないだろうということもわかってる。なのに止められない。おまえに見捨てられても仕方ないよ」
 青乃は苦しげに顔を歪めると静かに立ち上がった。


「──わかってないわ」


 小さく微笑み、手を離す。そこへ隼人がまとわりつき、それを無意識のように撫でた。
「あなたは自分が加害者になったときどれほど自分も傷ついてるのかわかってない。わたしにはあなたが自分を傷つけたくてやってるようにしか見えないわ。お願いだからもうやめて、自分に返ってくる傷が致命傷になるまえに」
 青乃の目が潤んで見えた。それをどこか不思議そうに見やると悲しげに微笑を浮かべる。

 もし今、英二に関するなにもかもをすべて忘れてこの場で捨て去ることができたのなら。

 本当に青乃だけを愛して生きていけるのではないかと思った。

 けれどそれすら椎多はできずにいる。


 青乃を愛している。

 その感情はかつて青乃を征服してでも手に入れようとしていたときのものとも、

 紫を殺してしまうほどの想いとも、

 そして今まさに英二をずたずたにしてでも手に入れようとしている気持ちとも違う。

 ふと、リカを母親と慕っていた幼い頃の自分のことを思い出した。

 あの頃の感情に一番近い気がして苦笑が漏れる。


「──ドレス」
 椎多はもう一度微笑むと、ソファから立ち上がりドアへ向かった。ほんの少し振り返る。


「それよりさっき合わせてたやつの方が似合ってる」
 

 青乃が次の言葉を出すより先に──椎多はドアを閉めた。

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 クリスマスパーティは決して嫌いではない。

 むしろ好きな方なのだが今年はどれもこれも煩わしく感じている。
 イブのパーティは俗に言う上流階級の──世間の景気など無関係な人々の集まりで毎年元華族何某家の夫人が主催しているものだ。
 青乃はかつてその階級に属していたわけだが、今ではそのような肩書きももうない。また、椎多に嫁いでからはこういった公の場に青乃が顔を出すことはまずなかったので、初めて夫婦揃って参加した今年は他の招待客にとりかこまれてなにやら質問攻めにあっている。それを横目で見ながら椎多はひっきりなしに時計に目を移していた。

 昨夜──


 プライベート用の携帯電話に英二から電話が入った。
 

──明日の夜、空けられるか?
──いいね。クリスマスプレゼントでもくれるのか?

 

 電話口で笑うと、電話の向こうの英二も笑っていた。
 

──さあ、どうだろう。おまえに何をプレゼントしたら喜んでくれるのかわからないよ。


 英二は、椎多が英二に対してしてきたことに気付いていないのだろうか。それとも罠か。
 

──俺は、おまえが欲しい。
 

 真顔になっていた。
 英二はそれには返事をしなかった。

 パーティが終わったあと──
 青乃は予告通りもう一台の車で龍巳を従え次の会場へと向かう。
 それを見送ると青乃は何か言いたげに、しかし何を言うこともなくただ夫の顔をみつめていた。
「……すまない」
 見送りながら椎多は小さく呟いた。何に対して謝っているのか。ただ青乃には謝らねばならないことだらけの気がした。


 青乃を乗せた車が見えなくなると椎多はKの運転する車に乗り込んだ。

 車の中、Kも椎多も一言も発しない。とある交差点にさしかかったところで椎多は初めて口を開いた。
「憂也、そこで下ろしてくれ。帰るときはおまえを呼ぶか、そうでなければ適当に車を拾って帰るからおまえはそのまま屋敷に戻っていろ」
「そういうわけにはいきません」
 まるで、椎多がその言葉を出すのが予めわかっていたかのようにKは即答した。
「いくら野暮だと言われてもそれはできません。どうせ渋谷さんと会うんでしょう?渋谷さんがキレてまた組長を殺そうとしたらどうするんすか。俺、あとで何であの時帰ったんだろうなんて後悔するのは絶対嫌です」
 振り返りもせずKは言った。
「駄目だ。止めろ」
「止めません」
「憂也!」
 怒鳴りつけてもKは車を止めようとはしなかった。
「──憂也」
 と、止めろと言われた角を通り過ぎたところでKはようやく車を止めた。そのままくるりと椎多を振り返る。


「俺はあんたを危ない目に遭わせたくないし辛い思いもしてほしくない。それがいけないのかよ」
 

「憂也──」
 不意に。
 思わず、笑みがこぼれた。
「何が可笑しいんすか!」
 Kが怒るのはもっともだが何故か頬が緩む。椎多は微笑んだまま少し身を乗り出して振り返ったKの顔を覗きこんだ。
「……心配させてすまない。だけど、頼む。一人で行かせてくれ」
「聞いたよ、渋谷修一が行方不明だって。殺されたんじゃないかって──それは組長の命令じゃないだろ?でも渋谷英二はきっとそれも組長だと思うにきまってる」
「うん」
「絶対渋谷英二は何か仕掛けてくる」
「そうかもな」
「だったら尚更2人きりでなんて会わせられないだろ。俺はあんたを守らなきゃならないんだからそんなことさせられない」
 困ったように、苦笑しながら溜息をつくと椎多はゆっくり手を伸ばし、Kの口を押さえた。

 そして、真直ぐにKの目を見つめはっきりした声でただ一言言った。

 

「──頼む」

 

 苦しげに顔を歪めるとKは唇を噛み締め、目を逸らした。
「……じゃあ、せめて待たせてくれよ。俺はハチ公みたいにずっと待ってるから。でもハチ公と同じ思いはしたくない」
 Kの大きな目がくるくると回りながら最後にもう一度椎多の目に戻る。椎多は小さく頷き、Kの口元に置いた自分の手をずらしてその頬を撫でた。
「わかった。ありがとうな」
「……あんたのありがとうは……」
「信用できないんだろ。でもほんとにありがとう」
 小さい笑いを洩らすと椎多は手を離し、ドアを開いた。降りようしてふと思い出したように振り返る。
「そういえば、また花が届いていたな。名前はなかったが柚梨子だろう。どうしてるんだろうな。幸せにしてるんだろうか」
 独り言のように言って、Kの返事も待たずに椎多はそのまま車を降りた。


 Kは、それをバックミラーで見送りながら──

 姉が側にいたなら、椎多を止めることが出来ただろうか。
 10年近くの間ずっと側にいて見返りも求めずに椎多を愛し守り続けた。

 今この時ではなく椎多がここまで来てしまう前に止めることが柚梨子ならできたかもしれない。
 自分は催眠を使って椎多を止めることすら出来なかった。

 椎多に拾われてから今まで。
 これほど自分がいかに無力なのかを思い知らされたことはなかった。


──悔しい。


 Kは何度もハンドルに自分の頭をぶつけ、それから──車を椎多の入って行った、クリスマスイルミネーションできらびやかに飾られた一流ホテルの駐車場に移動させた。

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 上層階用のエレベータがチン、と軽い音を立てて到着する。心もち視線を落としそれに乗り込もうとすると先客がいた。
 顔も見ずに階のボタンを押す。20階。
 背後でくすっと笑い声が聞こえた。それを聞いて慌てて振り返る。

「──鴉?!おまえ」

「や、久し振り。オレの顔忘れちゃったのかと思ったよ」


 澤の一件以来、音沙汰もなければこちらから連絡を取ろうとしても全くなしの飛礫だった。椎多は眉を酷く寄せると鴉の肩を乱暴に叩く。鴉は髪が短くなっていること以外はこれといって変わったところはないように見えた。
「……何か用か。それとも偶然か」

 偶然だったとしてもこんなホテルでイブに鴉と会うことがとても偶然とは思えない。
「いいこと教えてあげようと思って。本当ならこれ、ルール違反なんだけどさ」
 顔を上げて鴉を凝視する。

 

「渋谷修一は死んだよ」
 

「──おまえの仕事なのか」
 根拠はないが修一はもうこの世にはいないのではないかと思っていた。
「椎多がいつまでもうだうだしてるから、睦月さん痺れを切らしちゃったみたいだね」

──睦月が。

 余計な真似をしやがって──と小さく呟くと鴉は笑いながら左ポケットに手を伸ばした。

 本能的に身構える。
 鴉がポケットから取り出したのは──あの、飾り銃だった。
「なかなか返せなくてごめんね。今度こそ返しておくよ。またこっち帰ってきてるから、仕事の時は声かけてくれる?」
 差し出した銃を受け取る。懐かしい感触。形も大きさも、施された装飾のひとつひとつまで椎多の右手は覚えている。

「そいつの肩書きがまた一つ増えるのかな?」

 

 手元をずっと眺めていた顔を上げ、眉を寄せる。


その時、再びチン、と音がしてエレベータが停まった。慌てて銃をポケットへ押し込む。
 篭を降りて振り返ると、鴉は降りようとせず、壁にもたれたまま手を振っている。
「──鴉!おい!」
 叫んだ声を遮ってエレベータはドアを閉じた。

 鴉はおそらくこれを渡しに来たのだ。
 

 そいつの肩書きがまた一つ──
 

 椎多自身は覚えていないものの、七哉が幼い椎多を殺そうとしたのもこの銃だった。そして、鴉の銃弾から紫の命を守った、そして椎多がその紫の命を奪った、その銃。

 増えるとはおそらく、英二を殺した──という肩書きのことを鴉は言っているのだ。


 椎多はポケットの中でそれを握り締めた。
 

 英二に指定された部屋の前に立ち、躊躇したように立ちすくむ。ポケットの中で握った銃をこっそり取り出し、握り締めたまま祈りを捧げるようにそれを額に当てた。

──紫。

 これでさらに英二を殺したら、紫はきっとあの世で怒るんだろうな、と思うと少し笑えてきた。
 笑いながら銃をポケットへ戻し、天を仰いで深く深呼吸する。


 お守りのようにもう一度ポケットの中でそれを握りしめると手を離し、椎多はドアをノックした。

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 今でも、不思議なほど鮮明に覚えている場面がいくつかある。

 突然とびこんできた、ケンカをしたばかりで顔をひどく腫らした少年の姿。
 3分後のことだけ考えて絡み合ったエレベーター。

 メッキの剥げた重い楕円のプレートが付いた鍵。
 斬りつけた時の手応えと胸の傷と、そこから流れ出る血。
 去って行った時の声。
 互いにスーツを着こなしはじめまして、と握手を交わしたその手の柔らかさ。
 溢れ出した鮮血とその臭い。
 酸素吸入器に隠された微笑。
 涙。
 頬を撫でる海からの風。
 それから──銃をつきつけられた時の表情。

 胸が痛くなる。
 いっそ憎んでしまえばいい。自分から全てを奪っていった男のことを。
 なのに、それらの場面が邪魔をする。

 

 英二は鴉から受け取った銃の重みを確かめるように握り締めるとそれを隠した。


 窓の外へ目を移すと、眼下にはイルミネーションで飾られた巨大なクリスマスツリー。

 このホテルは3階まで商業スペースになっていて様々なブランドショップや飲食店が並び、その3階には隣の商業ビルと直結の広場とプロムナードがある。

 巨大なクリスマスツリーは地上1階からその広場を突き抜ける形で5階のあたりまでの高さがある。

 その3階広場で人々がゆっくりと行き交っているのがこの部屋の窓から見て取れる。きっと皆幸せそうに微笑みながら寄り添い歩いているのだろう。そんなものまでが何故か愛しく、英二は小さく微笑みを浮かべた。


 このイヴの夜も、死んでも忘れられない場面になる。
 

 そして。
 ノックの音がした。

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「待ったか?」
「いや、そうでもないよ」


 コートとマフラーをハンガーにかけると椎多は笑いながらさきほど英二がしていたのと同じように窓に歩み寄り、その外を見下ろした。
「ここからあそこへ落ちたら下を歩いてるバカップルどもは折角のイヴが台無しになるな」

 笑いながら振り返り、その足元までガラスに張られた窓にもたれかかる。
 言葉通りにそのまま外へ落下しそうな錯覚に囚われて英二はひやりとした。人一人の体重くらいで外れたり割れたりするような窓ではないと判ってはいても。
「危ないぞ」
 英二の言葉に、椎多は小さく吹き出しはいはい、と素直に窓から離れた。

 ”いつもの”夜と一見どこも変わらない。

 

 窓から離れた椎多はまっすぐに英二に歩み寄り、両手で頬を包んだ。冷たい。

 椎多の手はたいてい冷たい、というなんでもない事を英二は思い出していた。

 肩口に額をのせると英二は黙って腕を回し柔らかく抱きしめた。
「クリスマスプレゼントは?」
 笑い含みの言葉。


「おまえは強引に俺を自分のものにしたんだろう?それじゃプレゼントにならない」


 微かに頭を上げる。英二の声は穏やかだった。
「有姫とは別れた。兄貴は2日前から行方がわからない。『しぶや』ももう終わりだ。会社の手続きももう完了するから完全に俺の手から離れる。家もない。これでもうおまえの望み通り俺にはおまえしか残らない」
 背中に回した英二の腕に力がこもる。椎多は音がするほど大きく息を吐き、再び英二の肩に頭を預けると自らも両腕を英二の体にまわし抱きしめた。


「否定しないのか」

 全部。

 おまえがやったことだと認めるのか。


「ああ」
 短く答えて椎多は英二から離れた。
「『しぶや』に隠しカメラを置いたのも、食中毒騒ぎも俺の指示だ。おまえのところの専務を唆したのも。有姫ちゃんのおまえに対する不安や不信感を煽ったのも。『しぶや』やおまえの家を襲った連中をそうしたくなるよう仕向けたのも俺だ」
「兄貴は──殺したのか」

──ああ、そうだったな。

「そうだ。本当はもっと早くに始末しようと思ってたんだがな」
 椎多の言葉には何の感情もこもっていないように聞こえる。英二は──椎多の予想に反してやはり微笑んでいた。ただ、悲しげに眉を少しだけ寄せた。


「──何故だ」
「おまえを、俺だけのものにしたかったから」


 静かに、英二が足を進める。椎多はそれに応じてあとずさった。

 こんなことが前にもあったな、とふと思う。

 ただ、今日は室内だからすぐに障害物に阻まれてそれ以上後ろへは下がれなかった。英二が腕を伸ばす。腕を捕らえられると次の瞬間には抱きすくめられた。

「奪わなければおまえは自分から手放したりしない──俺の為には、な」
 抱きすくめられた体勢のまま足の後ろにつかえていたベッドにむかって英二ごと倒れこむ。身を起こそうとする英二に腕を絡めたまま離さない。
「おまえなら出来るっていうのか。俺の為に何もかも捨て去ることが──嵯院グループも、組も、奥方も、あの屋敷も」
「出来るよ」
 絡めた腕に力をこめる。

「おまえがもし、俺は何もかも無くしたからおまえも全て捨てて一緒にどこか誰も知らないところへ行こう──と言うならそうする。今からそうしたっていい」

 英二は一瞬びくり、としたけれど椎多には表情は見えなかった。
「──おまえには出来ないよ」
「出来る」
「出来ない」
 絡めた腕をゆっくりと外し、英二は上半身だけを起こした姿勢になる。そのまま椎多の目をまっすぐ見下ろした。

「失うのと捨てるのでは違う」
 互いに、目を逸らすことが出来ない。英二の目から笑いが消えた。

「返せよ」

 

 返せ。
 おまえの奪ったものを。
 燃えてしまった『しぶや』を。
 俺と有姫の家を。
 『しぶや』の窮地を悲観して首を括った親父を。
 火事で殆ど寝たきりになってしまったお袋のもとの身体を。
 兄貴を。


「それが出来るなら、俺はそれを全部捨てておまえだけのものになってやる」

──もうこの世にはおまえの居る場所はねえんだよ

 どうしても思い出せなかった、シゲの最期の言葉が頭に蘇った。

 そうだった。

 そうだったな。

「どうせもう俺には居る場所なんか無いんだから」

 それまでの緩慢な動きを一変させ、英二は枕の下へ手を伸ばした。そこから予め隠してあった銃を握り構えるまで1、2秒。まったく動きに無駄がなかった。
 数ヶ月前、そうしていたのと同じ体勢。違うのは英二の手も声も震えてはいないことだ。椎多はあの時と同じように少し驚いたような、戸惑ったような顔でそれを見上げている。

「お互い出来もしないことをあれこれ夢見るのはもうやめよう」

「英二──」
「一発で終わらせるから」

 台詞も同じ──

 しかし。
 英二は自分の喉元に冷たい感触を覚えた。

 

「……そうだな。いちにのさんで一緒に銃爪をひくか?りっぱな心中だな」
 椎多は笑っていた。
 英二の喉元にいつのまにかポケットから出したあの飾り銃がつきつけられている。ごくり、と英二の喉が鳴った。
「そうしたら、同じところへ行けるかな」
「──さあな」
 椎多の銃口が英二の喉へさらに食い込む。咳き込みそうになって椎多の額の銃口が微かに浮いた。

 次の瞬間。

 椎多の腕が英二の銃を払いのけていた。それが鈍い音を立ててカーペットの床へ小さく弾んで落ちる。椎多は英二の喉から銃を殆ど離さず体勢を逆転した。
「これだけ奪っても俺のものにならないならやっぱり殺すしかないか」
 喉をくつくつ鳴らしながら椎多は笑った。
「おまえはどうなんだ」

 英二は目を閉じている。

「何を手放したとしてもおまえの中には絶対に消えない存在があるのを俺は知ってる。おまえだって俺だけのものにはならない」

──なんでおまえばっかりがそんなに沢山の十字架を背負わなきゃなんないんだ。
──俺にこれ以上十字架を背負わせないって言ったのは嘘だったのか。

「俺を殺して、それに苛まれてずっと忘れずに苦しめばいい。そうなってやっとおまえは俺のものになる。それでも俺"だけ"のものにはならないんだろうけど」

 表情を歪め、椎多は銃を握った拳で英二を殴った。こめかみに血が滲む。英二は堪えきれないように笑い出した。
「だけど、なにもかも奪って俺自身すら消してしまっても、俺は、おまえのものにならない」
 笑いながら、英二は椎多の髪に手を伸ばした。言葉とは裏腹にその指は優しく、そっと椎多の髪を、そして頬を撫でてゆく。
 その指に雫が絡みついた。
 指を伝ってそれは英二の掌にまで到達する。

 おまえが人殺しでも、気狂いを心に飼っていても。

 おまえがそのまま居る場所を俺なら作ってやれるのに。

 おまえが抱えてたものを自分で捨てて俺を選んでくれていたら。

 ここまでのことをせずに済んだ筈だったのに。

 

 俺は、ただ。

 これから先も──

 おまえと──

 椎多の口が、愛してる、と動いた。声は聞こえなかった。

​ 

 英二は小さく息をつくと、頬に滑らせていた手で椎多の肩から腕をなぞり、そして握り締めた銃をとりあげる。その間、椎多は全く抵抗しなかった。
 とりあげた銃を少し首を傾げて一瞬眺め、ほんの少し目を細めると英二はそれをベッドの上にそろりと置いた。身を起こす。椎多は英二の動作をずっと目を逸らすこともなくじっと見つめていた。涙を拭うこともせずに。

 どこで間違った?
 いつも俺は間違ってばかりだ。
 そしていつも俺は大事なものを自分で滅茶苦茶に壊して捨ててしまう。
 どうして俺はいつも間違えるんだろう?

 

 英二は立ちあがると、床に転がった銃を拾い上げ自分のセカンドバッグにしまった。
 もう、椎多を抱き寄せることも接吻けることもしなかった。
 コートを身につけ、振り返る。淡く微笑む。何か言おうとして口を開き、そのまま口を閉じる。

 結局何も言わずに英二は部屋を出ていった。
 それを、椎多は一瞬も逃さずずっと目で追っていた。

 "あの時"とは反対に。

 今度こそもう二度と会えなくなるのだろうという確信が、英二の最後の姿や表情を記憶に刻もうとしていたのかもしれない。
 無意識に窓に近づいた。ツリーの下にはまだ何組ものカップルが行き交っているのが見える。部屋を出た英二はここを通って帰ってゆくのだろう。


「帰る」───どこへ?
 

 英二の帰る場所を椎多が奪い取った。それならば英二は何処へ帰るのだろう。
 椎多は窓際にしゃがみこみ、窓に額をつけて地上を見下ろしながら新しい涙が溢れそうになっているのを感じた。

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 電子音が聞こえた。
 携帯電話を取り出し画面を見ると、非通知になっている。首を捻って黙殺しようとしたがふと思い立ち10回目くらいのコールで通話ボタンを押した。

『やあ、殺し合いにはならなかったみたいだね』
 

 椎多はひどく顔をしかめた。こんな時に鴉の声など聞きたくない。
「今はおまえとお喋りする気分じゃないんだ。切るぞ」
『待ってよ。面白いものを見せてあげる。そのまま下を見ていてよ』
「──下?」
 鴉はまたどこかからここを見ていたのだろうか。
 苦虫を噛み潰したようにち、と舌打ちし椎多は言われるまま今見ていたばかりの地上を再び覗きこんだ。

──英二。

 地上20階から蟻ほどの大きさに見える人間の中で、今3階広場のツリーの下を通ろうとする英二の姿を椎多は見つけた。

 一瞬、背筋が凍りついた。

「鴉!おい!!何を──」


 耳に当てた携帯から、ひどく割れた破裂音が飛びこんだ。
 英二は─── 
 目をこらす。ツリーの陰。人が集まり始めている。倒れているのは英二。
 部屋を飛び出す。

 何故。
 鴉が英二を撃たねばならない?

 エレベータの到着するのを待つのが永遠のように長く感じられた。
 3階に到着する。
 3階のエレベータホールに降り立つとそこに、鴉が立っていた。たった今銃を撃ったとは誰も思わないだろう顔で。その向こうには何も知らず通り過ぎる者、何事かがあったと察知して足早にそちらへ向かう者の姿──


「貴様──」
 鴉は人差し指を立てしいっ、と微笑むと今椎多が下りてきたエレベータに再び椎多を押し込んだ。
「椎多が殺せなかったみたいだから俺は俺のやりたかったことをやらせてもらったよ」
「──?」

「オレの師を殺した彼に死の報いを」

 芝居がかった口調でポーズをつけながら鴉は死神のように笑った。
「これでオレの私的な殺しは全部おしまい。肩の荷が下りたよ。ああ、もう君を殺そうとは思ってないから安心して。できればこれからも仕事させて欲しいからね」
 椎多は殴ることも忘れただ呆然とその死神の姿を見つめていた。
「英二君はどのみちどこか知らないところへひとりで行ってしまうところだったんだ。生きていようが死んでようが椎多と二度と会うことはないことには変わりはないだろ?それともあれだけの仕打ちをしてもやっぱり生きてはいて欲しかったの?」
「──もういい。もう何も言わないでくれ」
 倒れそうに頭がふらふらする。何が起こったのかまだきちんと理解できずにいるのだ。
 いずれにせよ鴉が撃ったのなら、結果は聞かずとも判っている。それだけは間違いない。

「せっかくのクリスマスが台無しだったね。来年は楽しいクリスマスでありますように」
 あっけらかんとした調子で笑うと鴉は最上階でエレベータを降りた。

 倒れた英二の姿を確認しようとも出来ず椎多はそのまま地上3階ではなく地下の駐車場へ向かう。Kが「ハチ公のように」待っている筈だ。

 

「クリスマスなんか二度と来ない」


 あれほど流れた涙は、もう一滴も湧いてこなかった。

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「妙なことを頼んで悪かったな」
「いいんだけどさ。あの往来でもし関係ない人に当たったらどうしようとか考えなかったの?」
「だからあんたにしか出来ないって言っただろう?撃たれたふりなんてしても椎多にはお見通しだから実際撃ってもらわなきゃならなかったんだ」


 後部座席に寝そべったまま英二は煙草に火をつけている。
 

 鴉は4階客室を取り、その窓から移動中に防弾チョッキを身に付けていた英二を撃った。高層ではない窓だから嵌め殺しではないが窓は僅か10cmほどしか開かない。しかし鴉にとってはそれだけあれば十分だった。

 周囲の通行人には自主制作映画のゲリラ撮影だと説明した。エレベーターで椎多を見送った鴉から合図があると同時に撤収し、用意した車に素早く乗り込む──段取り通りだ。あの通りすがりのカップルたちには今夜の話のネタを提供したことだろう。

「もしオレが君の胸じゃなく頭を撃ってたら芝居じゃなくて本当に死んでたんだけど、随分オレのこと信用してくれてんだね」

「そうなっても別にいいかって思ってたんだよ。命が惜しいわけじゃない。まああんたはタダ働きはしないだろう程度には信用してたけど」
 見透かされてるわー、と鴉の笑い声が転がる。
「で、何でわざわざこんな芝居を打ったの。椎多とは別れてきたんじゃないの」
「───」
 車を停めると鴉は英二を促し降りさせ、その前に停めてあったもう一台の車に乗り換えた。今度は英二が運転席へ乗りこむ。ふと思い出したようにコートと背広を一旦脱ぐと、その下に着こんだ防弾チョッキを脱ぎ後ろへ無造作に投げ込んだ。

 生きて姿を消すのと。
 自分で殺してしまうのと。
 自分の手の届かないところで死んでしまったのを知るのと。

 二度と会えないのが同じでもどれが一番いい?
 きっと、椎多にとっては俺は死んでしまった人間になってしまった方がいい。

「ねえ、ひとつ訊いていい」
 なかば独り言のような英二の言葉を聞いていたのかいないのか。鴉は助手席で前方を見つめたまま言った。
「椎多のことは憎くないの?本当はもっと苦しめばいいとか思ってたんじゃないの?」

──俺を殺して苦しめばいい。

 

 鴉の言葉に英二はちらりとだけそちらを見やった。
「憎んでないように見えるか?」
 苦しめばいいと言った自分の言葉は、全くの嘘ではない。
 けれどこれ以上苦しめたくないというのも確かにある思いだった。

 英二に拒絶されたことで椎多は傷ついたし苦しんだだろう。それに暫くは英二が『死んだ』ことで苦しむかもしれない。
 それでも、英二から奪い続けることや英二を椎多自身が殺してしまうことより苦しみはましな筈だ。

 あれほど愛した有姫をひとり投げ出し、父を自殺に追い込み母を絶望の淵へおいやり、身を粉にして育てた会社を人手に渡し、新しい道を見つけて希望に顔を輝かせていた兄の命を奪った──

 その張本人のことを、何故憎みきることができないのか。自分でも不思議なほどだった。


「やっぱり、俺は甘ちゃんの馬鹿なんだな……」


 英二は苦笑し、それから思い出したように片手でハンドルを操作しながら片手で自分のセカンドバックから銃を取り出した。
「返すよ」
「え?いらないよ。それは君にあげたものだからね」
 そう言いながらその銃を手に取ると鴉は小さく首を傾げた。
「マガジン入ってないじゃん」
「オートマだぞ、指加減でうっかり撃ってしまったらかなわない。殺すつもりで行ったんじゃない」
 そういえば。
 椎多のあの小さな銃にも弾が入っていなかった。弾の入っている重さではなかった。

 椎多も──英二を殺す気などなかったのだ。
 仮に英二に殺されようとも、英二を殺す気などなかった。

「英二君、やっぱり運転替わるわ。事故られたんじゃ大変だしね」
 英二は返事をせずただ黙って車を停めた。そのままハンドルにつっぷすようにもたれかかる。肩が小刻みに震えていた。鴉は溜息をひとつつき、そのまま窓の外に視線を移した。

 愛していると。
 答えてしまいそうだった。
 愛していると抱きしめてキスして。
 けれど、そうしてしまったら再び同じ迷路をさまようことになる。

 暫くの間そうしていた英二が次に顔を上げたときには、普段と変わらない顔になっていた。


「──オレはね、英二君」
 英二が顔を上げるのを待っていたように鴉が口を開く。
「君に興味があったんだよね。本当にシゲさんは見こみ違いをしていたんだろうかって」
 少しだけ顔を鴉の方へ向ける。
「シゲさんは、『殺し屋はその道でしか生きていけない人間がやるもんだ』っていつも言ってた。そのシゲさんがどうして君みたいな普通の人をひっぱり込んだんだろう?シゲさんは見る目が無かったわけじゃないのに、どうして君だったのかって──」


 英二の目が一瞬暗みを帯びた。
 

「その理由はわかったのか?」
「ううん?まだよくわかんない。まあ、なんでもいいよ。今日の報酬は分割でしたっけお客さん?」
「──何回払いで終わるのかな。とりあえず何か仕事でも見つけないとな、今日の宿にも明日の飯にも困るありさまだ」
 大きく息を吐いて両手を頭の後ろで組み、シートにもたれかかる。鴉はその首筋に手を伸ばし、ぐい、と引き寄せた。
「君さえその気なら仕事紹介してあげてもいいけど?」
 にっこりと微笑む鴉を一瞬きょとん、と見つめて英二は吹き出すように苦笑した。
「考えとくよ」
 そう答えると英二は鴉の手を無造作に払いのけ、車を発進させた。

 椎多は今頃、泣いているのだろうか。それとも──
 ああ、そういえば言うのもすっかり忘れていた。


 メリークリスマス。
 せめておまえの苦しみが長くは続かずにいますように。

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クリスマスツリー

*Note*

ドロドロ不幸飽きしてきた作者、一気に決着に持っていく段。

結末については当時読んでくれてた友人に「なんじゃそれ!!」とキレられてしまいました(笑)。

なお、ホテル部屋でのやり取りをだいぶ直しました。一旦ある程度修正したものの、やっぱ自分的にしっくりきてなかったっぽくて。

で、この章実はこれで終わりではありません。もういっこ話が残っているんですが、タイトルを見てわかるように谷重バーのマサルがメインの話です。

なんでこれがこの章のエピローグとして置いてあるかというと。

​本当のラストはそっちです。

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