Sin.co -Re:The Ultimate Sin- main tales
幾 夜
何でなんだろう。
あんなに何不自由ないように見えるのに。
手に入らないものなどなにもないように見えるのに。
一番当たり前のものだけが──
あのひとには自由にならなかった。
泣いてもいいだろうか。
それとも、泣いたりしたらあのひとは怒るだろうか。
賭場を出るともう日は随分高いところにあった。冶多郎は刺すようなその光に思わず目を閉じ、うっすらと開ける。
ちくしょう、と毒づきよろよろと足を進めると知らず知らずのうちにいつもの動作で暖簾をくぐっていた。
「なんだい冶多さん、オケラの人に朝っぱらから飲ませる酒は無いよ!」
威勢のいい女の声がふらつく頭にきんきんと響く。
「うるせえ!勝ったらまとめて払ってやるってんだつべこべいわずに酒!」
「いつになったら勝つってのさ。それに勝ったら勝ったですぐに女郎屋で使っちまう癖に。今までのツケ全部払ってくれたら出してやるよ。ほら出てきな他のお客さんの迷惑だろ!」
箒を持ち出して冶多郎の足を払う。冶多郎は隈のできた顔を赤くして立ち上がった。
「てめえ、女だと思って黙ってりゃ──」
「冶多さん、朝から無粋なことはよしなさいよ」
くぐもった声が冶多郎の動きを止めた。見ると、麦飯を頬張って箸に齧りかけのメザシを挟み湯呑を左手に持ち上げた男がこちらを見もせずに座っている。
「茅先生──」
忌々しげに振り上げようとした腕を下ろすと冶多郎は男の向かい側に座った。男は湯呑の茶を啜ると頬張った飯を飲み下し、初めて冶多郎に視線を投げた。
「折角美味い朝飯を食ってるのにこんなとこで暴れられたんじゃ埃が立ってしようがないでしょ。酒じゃなくて朝飯なら奢って上げるから腹を満たしてうちに帰って寝なさいよ」
冶多郎はち、と舌打ちして漬物を一切れ指でつまみ口に入れると立ち上がった。拗ねたように口を尖らせているその顔はまだ子供のようにすら見える。
「先生にこれ以上借りを作ったら後が怖えや」
捨て台詞のように吐き出し冶多郎は背を向けた。その背中へ声が飛ぶ。
「おい冶多さん、ひと寝入りしたら診療所のほうに来なさいよ。おっ母さんの薬を渡すから」
知るかい、という声だけが残像のように残った。茅と呼ばれた男は笑って女将の顔を見る。
「あの博打好き酒好きがなけりゃ親孝行ないい子なんだけどねえ」
あれを親不幸者って呼ばなくてなんて言うのさ、と女将が毒づいた。茅は笑っている。
「あれは女将さんに甘えてるんだよ。病気のおっ母さんの代わりに叱って欲しくて来てるのさ」
「嫌ですよ、茅先生。まだあたしゃあんなでかい子供のいる年じゃありません」
そいつは失敬、とまたひとしきり笑うと茅は再び飯を口に放り込んだ。
茅の診療所は街外れにある。
家はもともと呉服屋である。昔にはこの家から大名の側室を出したこともあるというのだから相当羽振りもよかったに違いない。時代が変わると洋装も扱うようになり豪商ぶりは相変わらずだ。
その家の三男坊である博貴は親曰く『何の間違いか』医学を修めた。もとは武家の屋敷だったとかいう建物を買い取り診療所を開いたのが何年前だったか。
「本当は西洋風の病院を建てたいんだよ。入院施設のちゃんとしたやつをね」
「だったらちゃんと診療費をもらってください。先生はまるで慈善事業をなさってるようですわ。わたしはきちんとお給金が頂けてるから構いませんけれど」
看護婦がすまして薬の用意をしている。金持ちの道楽の延長だとでも言いたげだ。茅は苦笑してカルテに目を移した。
「このお薬のお代金だってずっと頂いてませんよ。ほんとうに困っている貧しい人にならともかくあんなやくざ者に施してやることないんじゃございません?」
「うん、そうだねえ……。でもお袋さんが可哀想でね」
看護婦は冶多郎の事を言っている。
しかし、母親が病に倒れてから冶多郎がまっとうに仕事をしようとしていることを茅は知っていた。ただ、どうにもうまくいかないのだ。うまくいかないからといってうっかり生来の短気さを覗かせればやはりやくざ者は、と白い目で見られる。結果、僅かな金を増やそうとして博打に走り増やすどころかすっからかんになってしまう、を繰り返す。
「──冶多さんはもう少し辛抱することを覚えなさい。すぐ自棄を起こしちゃいつまでたっても回りの見る目は変わらないよ」
言われた通り薬を受け取りに来た冶多郎をまるで患者のように自分の前に座らせて茅は微笑んだ。
素直に帰って寝てきたのか、素面に戻った冶多郎は神妙にちょこん、と腰掛けている。冶多郎もそんなことはわかっているのだが頭に血が上るとつい手を上げてしまうのだ。
茅はやれやれ、と溜息をついて机に片肘をついた。
「どうだね、なら私の仕事を手伝う、というのは。薬代を差し引いた分ちゃんと給金も上げるよ。それで短気を起こしたり博打をやったらもう二度とお袋さんの薬は渡さない。診療もしない。なら辛抱できるだろう?」
冶多郎は目をぱちぱちと瞬かせ不思議そうに茅を見た。次に少し困ったように首を傾げる。
「先生の手伝いって──俺、医術のことなんか全然わかんねえもん。やることなんかあるのかよ」
「そりゃいろいろあるさ。往診に行くときに、ツネさんは荷物が重い重いっていつも愚痴を言ってくれるから代わりに鞄を持ってついてきてくれるとか、忙しいときに薬を配達に行ってくれるとか。人力車を引いてくれるってのでもいいな」
ツネと呼ばれた看護婦は不機嫌そうにつうんとすましている。構わず茅はぽん、と冶多郎の肩を叩くと立ち上がった。
「早速だけど今日はこれから往診なんだよ。特に今日の患者さんには荷物がたくさん要ってね、なに注射の用意やらは私が自分でやるから鞄持ちだけでいい。ついて来なさい」
「先生、今日は天月様のお屋敷でしょう?こんな薄汚いやくざなんてお屋敷に通して頂けないんじゃありませんの」
わざと挑発するようにツネが言う。冶多郎は腰を浮かそうとしてなんとか堪え、拳を握り締めた。こういう扱いにいちいち怒っているからうまくいかないのだ。辛抱、辛抱。
その様子を見やると茅は大丈夫大丈夫、と微笑んだ。
鞄は確かに重かったが、女の腕で持てる程度のものだ。自分の鞄は別にあるとはいえ茅が自分で持とうと思えば十分持てるだろう。冶多郎は居心地の悪い気分で茅の後ろを歩いた。情けをかけられているのは明らかで、しかしそれを突っぱねられない自分が酷く情けない。
もう一度、ちゃんと仕事を探そう。給金が安くてもいい。今度は短気を起こさずに頑張ろう。母にこれ以上心配をかけたくないし早く元気になってもらいたい。だから、今日のこれを済ませたら先生の手伝いの話は無かったことにしてもらおう。
ぼんやりと考えているうち、目の前に大きな洋館が見えてきた。
「いつ見てもはいからな建物だなあ。ほらごらん、あれが門扉で、お屋敷の玄関まであんなに道が長いんだよ。患者さんに辿り付くのにも一苦労だ」
茅がいちいち指をさして説明する。冶多郎はこんな建物を間近で見たのは初めてだった。茅の診療所である武家屋敷でも相当広いと思っていたのにその比ではない。しかも、煉瓦造りでひどく背が高い。いったいどういう構造になっているのか、長屋暮らしの冶多郎には想像もつかなかった。
あっけにとられている冶多郎にはかまわず、茅は門の所で番をしている人間に往診に来た旨を告げている。予め約束してあったのだろう、すぐに通された。案の定、門番は冶多郎をじろじろとねめまわしている。頭に来たが睨み返すのは思いとどまった。
その調子だよ、と飄々とした茅の声が肩越しに聞こえた。
建物に入ると可愛らしい洋装の女中に先導されて絨毯を敷き詰めた階段を上り、廊下を進む。いったい何処で草履を脱いだらいいのだろう。土足で家の中を歩くというのは落ち着かない。そわそわ、きょろきょろと後をついてゆくと、女中は立ち止まり木の扉をこぶしでこんこんと叩いた。
「幾夜坊ちゃま、茅先生がおみえです」
返事はない。
女中は構わず扉を開き、茅と冶多郎を部屋へ通した。そのまま女中は入り口で一礼してドアを閉める。
「こんにちは。どうですか、具合は」
茅は微笑みながらベッドに歩み寄った。冶太郎はベッドというものを見たのも初めてだった。
「痛みは酷くなってませんか」
「──痛みなどありません」
ベッドに寝かされた患者はきっぱりとした声で答えた。大きくはないがよく通る声で、とても病人の声とは思えない。
患者は掛け布団の上に両腕を組み、天井をみつめていた。
西洋人形というものを、一度だけ見たことがある。
赤く長い巻き毛で青く大きな瞳の、ドレスを着た人形。賭場で負けていた人間がどこで手に入れたのか盗んだものか、掛け代の変わりに出してきて人形ごと叩きだされたことがあったのだ。
その人形を思い出した。
顔が似ているわけではないし、髪も多少栗色がかっているとはいえ長いわけでもない。まして瞳など西洋人じゃあるまいし青いわけがない。第一、あの人形はどう考えても女の子だ。ここに横たわっているのが男であることは間違いない。
それでも、冶多郎はその患者の顔を見た瞬間、あの西洋人形を連想した。
「痛みがないわけないでしょう?この間の注射で魔法のように治ったというなら話は別ですが」
「わたしは軍人です。痛いなど口が裂けても言えません」
「医者にやせがまんしてどうするんです。痛い時は痛いと言ってくれなければ医者は治療のしようがありませんよ」
苦笑しながら茅は患者の寝巻きを開き叩いたり音を聞いたり、目を見たりしている。
「そうそう、紹介します。これから私の助手をしてくれる冶多郎君。お見知り置きを」
は、と我に帰り冶多郎は慌てて頭を下げた。しかし、患者は冶多郎をちらりとも見ようとしない。
「冶多さんはいくつだっけね、ああ、にじゅういち、に?じゃあ幾夜さんと同じくらいだ」
「先生、お喋りは結構です。早く治して下さい。注射でも手術でも何でもいい、わたしは──」
患者──幾夜は、壁に目を移した。そこには皺ひとつないぴしりとした軍服がそこに吊るされている。偉そうな軍服だ。もっとも冶多郎には階級のことなどもうひとつよく判らない。
部屋をよく見るとなにやら勲章のようなものだとか、これも偉そうに装飾された馬に跨ってすました姿の本人の写真だとか、銀色に輝く小さな美しい鉄砲だとかが飾られている。冶太郎には珍しいものばかりだ。茅は興味なさげに注射の用意をしながら優しげに微笑んでいた顔を引き締めた。
「早く治りたいなら、症状をきちんと正確に私に伝えて下さい。どこがどのくらい痛むのか。嘔吐や下痢はしていないか。それによっても薬を変えたりするんですからね──飲み薬はいつものように女中頭さんにお渡ししておきます。きちんと時間と量を守って飲むように」
幾夜は唇を噛み締めると小さくはい、と答えた。苛立ちを抑えきれずにいるのが冶多郎から見てもわかる。
小一時間診察を行うと、茅は道具を片付け立ち上がった。冶太郎はほっと息をつく。気詰まりで仕方なかったのだ。幾夜は結局言葉を交わすどころか、一度として冶多郎を見ることすらしなかった。
「幾夜さん、たまにはカアテンを開けて、窓も開けて空気を入れ替えましょう」
最後にそう言い残すと茅は一礼してドアを開けた。冶太郎もぺこりと小さく頭を下げるとそれに続く。部屋を出ると掌にじっとりと汗をかいていることに漸く気付いた。
「幾夜君は天月子爵のご子息でね」
帰る道すがら、茅はぽつりと言った。
天月家は昔から茅の実家の呉服屋と親交があり、そのつてで幾夜を診療している、と。
四男にあたる幾夜は父親である天月子爵にたいそう可愛がられている末っ子だという。ところがその父親に黙って士官学校に入ってしまったはねっかえりでねえ、と茅は笑った。
「なんの病気なんだよあのお坊ちゃんは、偉そうに」
答えない。口を尖らせたものの、冶多郎はそれ以上追及しなかった。冶太郎と同年代だと茅は言ったが自分とのあの違いはどうだ。世の中平等になったなどと誰がいったのだろう。幾夜の部屋に飾られていた調度品ひとつ売り飛ばすだけで母にどれだけ楽をさせてやれるものか──あの人形のような顔をもう一度思い浮かべて、冶太郎は茅に聞こえないように舌打ちした。
「冶多さん、悪いけど昨日行った幾夜君のところへ追加の薬を配達してくれるかい」
天月邸に赴いた翌日、茅はあっさりと言った。
「先生、俺昨日も言ったけどやっぱり──」
冶多郎は考えていた通り別に仕事を見つけようと思っている旨を茅に告げた。しかし茅はマアそういわずに、と聞き入れてくれなかったのだ。
「だめだめ、今日は外来も忙しいし往診の約束もある。ツネさんも大忙しだ。だから冶多さんしか行ってくれる人がいないんだよ」
とりつくしまもない。
ぶつぶつ言いながら冶多郎はひとりで天月邸へ向かった。
幾夜の顔を思い浮かべると苦虫を噛み潰したような顔になってしまう。もっとも、今日は薬を届けるだけだから門番に渡せばすむことだ。あの気まずい思いなどすることはないだろう。
と、思って門番に顔を見せると、冶多郎が名乗る前に門番は顔色を変えた。
「あ、あ、あんた茅先生のとこの人でしょ?お願いがあるんです、このまま入って下さい。メイドが案内しますから」
門番は冶多郎の腕をあたふたと掴むと門の中へ引入れ、背中を押すように屋敷の方向へ追いやった。冶多郎にすれば、ここで薬を渡して今日のお使いは終了、と思っていたのに何がなんだかわからない。それに昨日は茅のあとをついていっただけだったが一人であの屋敷に入るのはどうもぞっとしない。
戸惑いながら玄関のドアの前まで足を進めると見ていたように中から女中が駆け出してきた。昨日案内してくれた女中だ。冶多郎の顔を見るとあからさまにほっとした顔でぺこりと頭を下げた。
「茅先生の御使いの方ですね?お待ちしておりました。お願いです、幾夜坊ちゃまを──」
随分と切羽詰っている。もしや、容態が急変したとかいうのではないだろうか。だとしても冶多郎に出来ることなど何一つありはしない。背筋に冷たい汗が流れてくる気がした。
俺、いやあっしはただの使いで──、と訴えるのを聞きもせず女中は小走りのように昨日と同じ幾夜の部屋へ冶多郎を導いた。
ドアの中から何か大きな音が聞こえる。
怯えた様子で女中が合図もせずに小さく扉を開けると、中に人影が見えた。
幾夜だ。
ベッドから立ち上がり、寝巻きを振り乱して肩で息をしながら──サーベルを構えていた。
西洋人形のようだと思った顔には、どす黒い隈ができている。この距離でも額が汗で光っているのが見えた。
部屋の中は酷く荒れている。
昨日見た、行儀よく陳列されたものの数々が床に無造作に転がっている。破損しているものもある。
「──何やってんだ、あんた」
女中を庇うように自分の後ろに隠しながらそろりと部屋に入り、大きな声をかける。
幾夜がこちらを見た。
おそらく初めて──
幾夜は冶多郎の顔を直視している。
「なんだ貴様は」
苦しそうな声が搾り出されて冶多郎の耳に届いた。
「誰が──このような薄汚い者をここへ入れていいと言った!」
冶多郎の背中で女中がひっ、と小さい声を上げた。
顔がひきつる。
薄汚い、と罵られたのが頭にきたのではない。使用人をこんなに怯えさせてふんぞり返っているのが気に入らない。
酒や阿片で頭のおかしくなった人間は何度か見たことがある。
日本刀ならまだしも、見慣れぬ西洋の華奢な刀など、怖くも何ともない。
しかし、この家の者たちは、お坊ちゃまである──まして、病人である──幾夜に手荒な真似ができるわけがなく、どうする術もないのだろう。それをいいことに癇癪を爆発させているのが冶多郎から見れば卑怯に思えたのだ。
幾夜は手にもったサーベルで、床を叩いた。絨毯の上なのにぴしり──と鋭い音がする。
「出て行け!貴様のような者に私の気が知れてたまるものか!」
あとで考えると意外と冷静だったのかもしれない。
冶多郎は一旦拳をぎりっと握るとそれを解き──
つかつかと幾夜に近付くやいなや幾夜の頬を平手で張った。
意外なほど。
その手ごたえは軽かった。
幾夜は簡単にその場に倒れた。
それで、漸く冶多郎は幾夜が重病人であることを再認識した。
けれど、すまないなどと謝る気は毛頭ない。
「あんたがどんだけ偉いか知らねえがな。うちの先生には自分は軍人だから痛いなんて言えない、なんていい格好しやがって。だったら自分より下の者相手に八つ当たりなんかすんじゃねえよ!意地張るなら最後まで張り通しやがれ!!」
崩れ落ちた幾夜はぎこちない動きで顔を冶多郎に向け、きっと睨み返した。
立ち上がるほどの力も無さそうに見えたが、その目の光は半端な人間より余程強い。
たった今冶多郎が張った幾夜の頬に、無数の赤い斑点が出来てうっすら赤黒く腫れている。それに気付くとぎくり、と背筋が痙攣した。
そう、幾夜は──病人なのだ。
冶多郎に殴られたことで張り詰めた糸が切れたように幾夜はそのまま蹲り立ち上がれなくなっていた。ただ、視線だけは冶多郎を睨み外そうとしない。
──しまった。
冶多郎は慌てて倒れた幾夜の脇に腰を屈め、その身を抱き上げた。小柄な女よりまだ軽い。幾夜は懸命に抵抗を試みているようだったが力尽きてしまっていたのか何度か力なく身を捩ったり腕を上げたりしただけだった。その度、取り落としそうな気がして気が気ではない。
ベッドの上に可能な限りそおっと幾夜の身体を置くと冶多郎はようやく入口を振り返り、そこでがたがたと震えている女中に怒鳴った。
「すまねえ、坊ちゃんは俺がここで見てるから、誰かうちの先生を呼びに走ってくれ」
はいっ、と悲鳴のような返事をすると女中はばたばたと廊下を走り去っていった。
単にただ頼んだだけだが、それだけで安心する。もう少ししたら茅先生が来る。それまでおとなしくしていてくれれば──
横たわった幾夜は鈍い動作でぎくしゃくと身を丸くして毛布に包まった。額には玉のような汗が浮かんでいる。息が乱れている。時折、ぎくりとするように身を固くしている。
──痛みがないわけないでしょう。
茅の言葉が脳裏に浮かんだ。
どこが痛いのかは冶多郎にはわからない。しかし、幾夜をひどい痛みが襲っていてそれを懸命に堪えていることはわかった。
大丈夫か、どこが痛いのかと尋ねたくても声にならない。
ただどうすればいいかわからず冶多郎は茅の到着を待つ事しかできなかった。
茅が到着するのに一時間もかからなかったが、冶多郎には日が暮れそうなほど長い時間に感じた。
「今痛み止めを打ちましたからね。すぐにおさまりますよ」
そういうと茅は女中に新しい氷水を用意させ、それで手拭いを絞って幾夜の顔を拭い、額に置いた。やはり熱も出ているらしい。
冶多郎が張った頬は尚赤黒い痣となっていた。
「……先生、すまねえ。俺……」
「事情はその女中さんから聞いたよ。なにやら啖呵を切ったそうだね」
短気を起こして手をあげたら、もうおっ母さんの薬は渡さない。昨日そう茅は言った。
2日ともたなかったわけだ。
「先生、俺やっぱ駄目だ。約束破ったらもうお袋の診療してもらえねえってわかってんのにやっちまった……」
「冶多さん、げんこつじゃなくて平手にしてくれたんだろう。けっして短気を起こしたんじゃない。わかってるよ」
ああ、そうだ。一度は握り締めた拳を解いたのは確かに相手が病人だということを忘れていなかったからなんだろう。
しかし。
目を閉じ苦しげに眉を寄せている幾夜の顔を見ると、やはり手を上げずにおとなしくさせる方法が他になかったものか、と思う。
間違った事を言ったとは思わない。けれど、殴ったのは拙かった。
ようやく鎮痛剤が効いたのか、幾夜は寝息を立て始めたようだ。
それを見届け立ち上がった茅のあとに続こうとして──
あの西洋人形のような顔を、冶多郎はもう一度じっと見下ろした。
粥を一口すすると、冶多郎の母はもういい、おまえがお食べと微笑んだ。
「何言ってんだ。せっかく先生の薬があっても食うもん食わなきゃよくなんねえだろ」
ぶっきらぼうに答える。
「冶多郎、おまえ先生に迷惑かけてないかい」
子供の頃から悪い仲間とつるんでつまらぬ悪さばかりしていた冶多郎が、そう簡単に真面目にはなれまい。
世話になっている堅気の医者に迷惑をかけてはいないか母親はそればかりを危惧しているようだ。
「お袋はつまんねえ心配しねえで体治すことだけ考えなよ」
苦笑する。すでに迷惑をかけてしまった、とは病床の母には言いづらい。
「……おまえが本当に堅気になってくれたら嬉しいねえ…」
独り言のように呟く母をそろりと寝かせ布団をかけてやる。
俺には親父はいねえ、お袋だけの息子だからな──とまじないのように言うと母親は涙を浮かべて目を閉じた。
その時、戸を叩く音がした。
「冶多郎?いるの?わたしよ、ツネ。茅先生がお呼びなのよ。出てきて頂戴」
いつも冶多郎に厭味ばかりいう看護婦。冶多郎は怪訝そうに眉を寄せると戸をからりと開けた。母親に聞こえないように声を顰める。
「んだよ。俺はもう先生のとこにはいられねえって言ったろ。あんただってその方がいいんだろうが」
「そりゃそうよ。わたしはほっとしていたのだけど、天月様のお坊ちゃまがあんたを連れてきなさいと仰ってるそうなの。だから先生があんたにも来るようにって」
「え──?」
幾夜が、自分を?
「まさかこないだ殴られた仕返しでもしようってんじゃねえだろうな」
小さく呟くとツネは仕返しでもなんでもさせて差し上げなさいよ、とこぼした。
「どうでもいいから早く出てらっしゃい。あんたを連れて帰んなきゃわたしが先生に叱られるわ」
徐々に苛々し始めたツネに、ともかく従うことにする。こんなところでヒステリイでも起こされては母に心配をかけてしまう。
「……あんたは暢気でいいわよ。あのあと、先生が天月子爵にどれだけお叱りをうけたと思ってるの。本当は他の医者に替えるとまで仰ったのだけど、幾夜さまご本人が茅先生を替えないでくれとご進言して下すったのよ。そのときに、幾夜さまこうも仰ったそうなの」
──あの私を叩いたならず者、次も連れて来て下さいね。
「……ぞっとしねえなあ」
自分程度の人間なら、頭に来たらぶん殴る、もっとひどけりゃぶっ殺す。ある意味単純でわかりやすいのだが身分の高い人間が頭に来た時はいったい何をするものやら見当もつかない。しかも、これ以上茅に迷惑をかけるわけにもいかないので反撃も出来ないだろう。流石に殺されやしないだろうが、こんなことならドスを持ったちんぴら十人に囲まれたほうがよっぽどましだ。もっともそんな目にもあんまり遭いたくはないが。
茅は冶多郎の顔を見るとにっこり微笑み安心させるように背中を軽く叩いた。
「大丈夫、幾夜君も今は随分落ち着いている。けれどもしも罵られても我慢しなさいね。暴れていたのを止めようとしたとはいえ叩いたのは事実だから。もっとも──」
溜息交じりの声は少し低い。
「幾夜君の病状、…叩いたりぶつけたりしたら少し面倒なことになるということを冶多さんにきちんと教えておかなかった私にも責任がある。それがわかっていたらきっと冶多さんは思いとどまってくれただろうから」
唇を噛んで茅の顔を見つめ返す。
平気です、とだけ言うと冶多郎はこれから裁判を待つ被告人のようにしゅん、と身を縮めた。
部屋はすっかり元通りの状態になっていた。たいしたものだな、などと妙に冷静に感じている。
幾夜の頬の痣は少しはましになっているようだった。
気の重いことはさっさと済ませてしまおう。冶多郎は幾夜が口を開く前に床に座ると頭を下げた。
「叩いちまったことは謝ります。すんませんでした」
けれど、幾夜は何も言わなかった。肩透かしを食らったように顔を上げ、その顔を見つめる。連れて来いといっておいて、幾夜は冶多郎を無視していた。
今まで一度たりとしたことのなかった土下座をして──茅のためではあるが──謝っているのにその態度は何だ、と少し頭にきた。
「許してやって頂けるんですか?」
茅の優しい声が聞こえる。それにも幾夜は返事をしなかった。
「診察をお願いします、先生」
「──」
幾夜の声は穏やかだった。最初に聞いた苛立った声でもない。
どこが痛むのかという茅のいつもの質問にも、今日は幾夜は素直にあそこがここがと答えている。
診察が終わり、茅が道具を片付け始める。居場所の無くなっていた冶多郎がそれを手伝う。
「先生、彼を少しお借りしてよろしいですか」
「冶多郎を?」
うわっ、来た──と冶多郎は思った。
先生を先に帰しておいて、どうするつもりなのだろう。
「彼と少し話がしたいと思います。よろしいですか」
茅は幾夜と冶多郎の顔を交互に見比べ、小さく息をつくとどうぞ、と言った。
「冶多さん、手荒な真似は我慢なさいよ」
からかい半分、本気半分で茅が冶多郎にこそりと耳打ちする。困り顔で頷くと茅は冶多郎の頭をぽんと叩くと微笑み、幾夜に挨拶して部屋を退出した。その途端、居心地の悪い沈黙が部屋を支配する。
「かけたまえ。君──冶多郎君といったか」
気まずい沈黙のあと、幾夜がそう言った。
おずおずと、先ほどまで茅の腰掛けていた椅子に座る。
「先日のことは君の言う通りだ。無様なところを見せた」
「え……」
思わぬ言葉を聞いた。
「そうだな。使用人に当り散らすなど愚の極みだ。わたしはいつの間にか病に支配されて甘えていたようだ」
目をぱちくりさせて聞いている。
昔の侍というのはこういうものだったろうか。
冶多郎の知り合いの中にも昔武士だった年寄りが数人いるが、武士とはそういうものだと高説を掲げても自分はどうなのだ、というような情けない輩ばかりなのでぴんとはこない。しかし、華族のくせにこのお坊ちゃまはなんだかその侍のようだ。
返事に困っていると、幾夜はそれだけだ、と言った。
「……ええと、坊ちゃん」
「よしたまえ。幾夜でいい。坊ちゃんと呼ばれるのは好まない」
「ああはい、じゃ幾夜……さんは治ったら軍に戻られるんで」
何故か、話題を切りたくなくなくてとっさに口にする。幾夜は少し表情を歪めた。苦笑のように──笑っているようには見えなかったが。
「海軍だ。倒れなければ軍艦に搭乗することになっていた。君も徴兵検査は済んでいるのだろう?」
「ええまあ。やくざだろうが遊び人だろうが避けることはできませんからね。あいにくと五体隅から隅まで健康体のお墨付きを頂いちまいましたよ。ま、いくさが無きゃ俺たちにはあんまりせっぱつまった話じゃありませんからね」
「戦……か」
幾夜は一瞬遠い目をした。
「俺には病気のお袋がおりますんで、いくさになったらあれをおいて入営しなきゃならねえでしょう?そんなのあ気が気じゃねえ」
病人の前で病人の話も妙だと思い直し、まあ幾夜さんにくらべりゃ屁でもねえ病気かもしれませんがね、と付け加えた。
「冶多郎君」
はい、と少し身を乗り出して顔を覗き込む。
「茅先生は、わたしの病をどうだと仰っていた」
覗き込んだ顔を少し傾げる。
「どう──とは」
「わたしの病は、治らぬのではないのか?」
どきり、とした。
茅は冶多郎に幾夜の病気はああでこうでと説明したことはない。だから重病だろうとは思っていても病名すら知らないのだ。
「茅先生の腕を信用しないわけではない。いや、むしろ信じるからこそ──いくら治療を施されても快方に向かうどころか私の身体はますます蝕まれているように感じるのだ。茅先生ほどの医師にかかってもそうならば、私の病はもう治らぬものではないかと思う」
冶多郎は困ってしまった。
生憎と自分は病気で寝込んでしまったことなど殆どない。母親の病気も根気良く治療を続けていれば必ず治ると信じているのだ。まして、自分で治らぬかも、などと感じるほどの病気など自分の理解の外にある。こんな相手に何を言ってやればいいのかなど冶多郎にはまるでわからない。
「……すんません。先生は俺に幾夜さんの病気がどうという話はしねえんです。でも、治らねえと思ったら幾夜さんの負けじゃねえんですかい。たとい医者が見放したって負けちゃいけませんよ。まあうちの茅先生は患者さんを見放すなんてこたありませんがね」
わざと、明るく笑って見せた。
幾夜は少し落胆したように苦笑を洩らした。やはり、笑ったようには見えなかった。
気まずいな、と思うと幾夜はがらりと声の調子を変えた。
「冶多郎君は文学などは読むか」
「へ?……いやあ、俺、お恥ずかしいですがろくに読み書きもできなくて」
「では今の政治についてはどう思う」
ぷるぷると首を横にふる。
いくつか話題を持ち出されても冶多郎には興味もなければ縁もない話ばかりだった。
「では君は普段どんなところで遊んでいる」
うーん、と唸って考え込む。
遊ぶといえば賭場か女郎屋か安物の飲み屋か──ろくなものではない。
「幾夜さんなんか一生縁のねえような薄汚えとこですよ。酒に博打に女に阿片に……俺が幾夜さんの世界がまるでわかんねえのとおんなじで……」
本来なら、自分が幾夜のような人間とこうして話をすることなど一生無かっただろう。
冶多郎はなんだか自分の身の上が今までないほど惨めに思えてきた。
幾夜の顔を直視することすら不敬なのではないかという気がして思わず視線を自分の手に移す。
「……冶多郎君」
は、と落としていた視線を声の主へ戻すと──
幾夜は、微笑んでいた。
「どうだろう、わたしの病が治ったら一度君のよく遊んでいるところへ連れていってくれないか。その女郎屋にいい女でもいるなら紹介してくれ。実を言うと一度賭場というのにも行ってみたかったのだ。君が一緒なら心強い」
──病が治ったら。
頬が自然と緩んでくる。
「何言ってるんです。そんなとこにお連れしたら俺ばっかりか茅先生までまた子爵に叱られますよ。それにせっかく病が治っても女郎屋で別の変な病気を伝染されたらどうするんです」
こみ上げる笑いを抑えもせず冶多郎は言った。
「いいや、父にはわからぬようにこっそり行くさ。それにわたしはそんな子供ではない。約束したぞ」
「わかりましたよ、しょうがねえ若さまだ。じゃあその前にきっちり治しておくんなさいよ」
幾夜は目を細めてもう一度にっこりと微笑むと、そうだなそうしよう、と言った。
いつの間にかすっかり日が暮れている。
「あ、いけねえ。俺もうおいとまします」
「引き止めて悪かったな。……冶多郎君」
立ち上がった冶多郎を目で追いながら幾夜は少し──照れているかのように言い澱んだ。
「……よかったら往診の時でなくとも、君だけでもいいから遊びに来たまえ。門番には君が来たら通すように言っておくから」
「幾夜さん──」
「久し振りに沢山話ができて楽しかった。是非来てくれたまえ」
返事の替わりに満面の笑みでぺこりと頭を下げた。
きっと幾夜は俺のようなならず者の話が珍しいのだろう。
そう思ったが、不思議ともう頭には来なかった。
幾夜が笑ったのが何故だか嬉しくて仕方なかった。
なあんだ、難しい顔ばかりしてたけど無邪気な顔して笑うんじゃないか。
冶多郎は屋敷を後にするとどきどきと胸が弾むのにまかせて跳ねるように走りだした。
賑わいを抜け、沢山の邸宅の立ち並ぶ道をゆく。そのうちあの洋館が見えてくる。
いつのまにか、この風景もすっかり覚えてしまった。
戦争が始まった。
「しょうがねえです。甲種合格ですからね」
冶多郎は笑った。
「どうせ始めるならわたしが治るのを待っていてくれればいいものを。君に号令をかける側だったぞ、わたしは」
幾夜の冗談めかした言葉をなんとか笑って受け止める。
冶多郎は三日後には入営することになっていた。
ふと思い立ったように、幾夜はのろのろと身を起こし、ベッドから下りた。足元はおぼつかないが壁際に並んだ装飾品のところにまで進む。その中から銀色の鉄砲を取り、確かめるように眺めるとそれを手にして戻ってきた。
「冶多郎君、これを──」
飾りのような小さな鉄砲。最初にこの部屋に入った時にも目に付いた。銃座にも銃身にも細かで美しい装飾が施されている。
「これはな」
ベッドに腰掛けると冶多郎の手を取り丁寧にその掌に乗せ、幾夜は微笑んだ。
「わたしが産まれた時に作られた魔除けの銃だ。儀礼用の空砲を撃つためのものだがこれを守りがわりに戦地にもって行ってくれたまえ。わたしも君と共に戦おう」
「幾夜さん」
唇を噛み、ぎゅっと銃を握りしめるとぺこりと頭を下げ冶多郎はそれを懐にしまった。
微笑んでいた幾夜の顔が少し歪む。
「生還したら返してくれたまえよ。それまで──わたしも頑張るから」
声が少し震えていた。
「冶多郎君」
歪みかけた顔を隠すように視線を落とし俯かせると、探るような動きで冶多郎の手に自分の手を重ね、握り締める。
「意地を張るなら張り通せと君は言ったが── 一度だけ弱音を吐いてもよいだろうか」
これほど弱々しい幾夜の声は初めて聞いた。
どきり──と心臓が萎縮したような気分になる。
「わたしはやはり治らないのだろう?」
手も震えている。
「わたしが産まれる予定の日まで、わたしの父はあと幾夜眠れば産まれるのだろう、と心待ちにしていたのだそうだ。うちには女の子がいないからな、父は女子が欲しかったのだ。だから、産まれるのが女でも男でも、『幾夜』と名付けようと決めていた。けれど今は──わたしはあと幾夜、生きていられるのだろうと考えてしまう。夜になっても眠れない──眠ってしまったら二度と目覚めることができないのではないかと……冶多郎君」
握り締めた手は氷のように冷たい。まるでもうこの世のものではないのかと錯覚するほどに。
「怖いのだ……わたしは死ぬのが怖い……」
「幾夜さん──」
おそるおそる、片腕を幾夜の背中に回してみる。壊れ物のようにそっと抱き寄せると、こんなに華奢だったのかと驚いた。
「すまない……わたしは本当はこんなに臆病者なのだ。ほんの少しだけ目を瞑っていてくれ………」
もう片方の腕もそろりと背中に回したけれど、抱きしめたら折れてしまいそうに思えてそれ以上力を込めることができなかった。
幾夜は冶多郎の肩に額を預けたまま小さく震えている。泣いているのかもしれなかった。
「必ず、戻ってきます」
自分の声も涙まじりになっているのがわかる。しかし、冶多郎は自分にも言い聞かせるようにきっぱりと言った。
「俺は必ず生きて戻ってきますから、それまで幾夜さん──待ってて下さい。早く治って、 一緒に遊びに行きましょう。ちょいとはこましな女のいる女郎屋も見つけておきます。それから安物だけどうまい飯屋も──」
冶多郎の腕に包まれたまま、幾夜は小さく頷いた。そして、涙は見られぬように顔を逸らしたまま拭うと、小さく息をついて──
微笑んでみせた。
躑躅が満開になった。
街の戦勝ムードもそろそろ落ち着いてきている。
「茅先生、お世話になりました」
冶多郎は左足を引きずりながら玄関先まで茅を見送る。母の初七日に線香を上げに来てくれたのだ。
「力になれずにすまなかったね」
「先生はできる限りのことをして下すったんです、謝っていただくことなんざありません」
にっこりと微笑んだ。
「それで、冶多さんはどうするんだい──跡目の話、受ける気かい」
「ええ、結局俺は堅気にゃなりきれないんだ。お似合いでしょう」
母が亡くなった通夜の日、見知らぬ男たちが何人か訪れた。そのうちの初老の男が母の遺体を見て号泣するのでいったいどんな縁者なのかと尋ねると──男は、冶多郎の父親なのだと名乗った。
その男はとあるやくざの一家の大親分なのだという。そして母はその妾だった。
しかし、母は息子には堅気になって欲しくて子供を連れてその父親の元から出奔した。
道理で、冶多郎が悪い仲間とつるむのを嫌がった筈だ。
父親は、出奔した妾と息子を探してはいたのだというが、先の戦争で跡目を継ぐべき本妻の息子を亡くしてしまったために尚更目の色を変えて残された唯一の息子──冶多郎を探し、そしてようやく発見したときには妾だった女がちょうど亡くなったところだったのだ。
冶多郎には寝耳に水の話だった。
その上、降ってわいたような跡目の話。
けれど──冶多郎はそれを受けることにした。
「おっ母さんは喜ばないと思うよ、その話を受けるのは」
「でしょうねえ。けどやっぱり人間、分ってやつがあるんですよ。俺はやくざがお似合いなんです」
少し哀しげに笑うと、茅は冶多郎の肩を叩いた。
「──なあ、冶多さん」
はい、と微笑む。
「今だから言うけれど、最初に冶多さんが幾夜さんをぶった日があるだろう。本当はあの頃もうすでに幾夜さんは長くない、長くないどころかいつお迎えがきてもおかしくない状態だったんだよ。だけどねえ──」
何故だろう冶多さんがお屋敷に出向いて話相手になってあげるようになってから随分と幾夜さんの命は延びたんだよ、と茅は遠くを見つめて呟いた。
「幾夜さんは本当に頑張ったよ。冶多郎君が戻ってくるまで待つと約束したのだ、と何度も言っていた」
「俺も、あの鉄砲を幾夜さんに返さなきゃなんねえからと、どんなことをしてでも生き延びてやるとそればかり考えてましたよ」
そして、左足を負傷し手の指も数本凍傷で失い、同じく凍傷で顔にひどい痣もできてしまったけれど──そして、冶多郎の所属した隊は数名を残してほぼ全滅したけれど──冶多郎は生きて帰ってきた。
「あと1ヶ月、もう1ヶ月辛抱しててくれたら──いや、俺が病院に入院なんかしてねえで這ってでもここへ戻ってきていたら──」
幾夜は、ちょうど今頃の躑躅の時期に旅立って行った。
──あの銃は君にあげるから、もう返さなくていい。
幾夜が茅に託した最後の伝言だった。
ぐすん、と冶多郎が鼻をすする。ちょいと風邪気味でね、と照れたように笑った。
「先生──」
ん?と茅が首を傾げ答えると冶多郎は空を仰いだ。
「俺が泣いたら幾夜さん、人前で涙をみせるな、無様な──とか言って怒りますかねえ」
「ばかだねえ。怒りゃしないよ」
くすくす、と喉の奥で笑った。
あんたはあと幾夜、生きていられるのだろうと不安がっていましたね。
でも幾夜さん──
俺が生きて帰ってこれたのは、
あと幾夜生き延びればあんたに会える、と思っていたからです。
俺の命は──
だから、あんたに貰ったものなんですよ。
もう一度ぺこりと頭を下げると。
冶多郎は大きく手を振って茅の背中を見送った。
*the end*
*Note*
「冶多郎」は「やたろう」と読みます。お察しの通り、椎多のお祖父さんの話でした。こっちの世界()の歴史に準えると、冶多さんの行った戦争というのは日露戦争にあたるようです。
TUSの頃から繰り返し登場する重要アイテムの椎多の飾り銃の由来の話といったところでしょうか。この頃の冶多さんは椎多とよく似ていたらしいです。「梟」の章を先に読まれた方はああ、茅先生って…、とかあの幽霊…と思って頂ければ。
幾夜さんはもし元気だったらそれはそれで面倒臭い人だったかもしれんなぁ、でも元気だったらやたさんとは出会ってないしなぁ、とか思いながら書いてました。お気に入りの話のひとつです。
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