Sin.co -Re:The Ultimate Sin- main tales
心恋 -1- ミヒト
好きな人にはちゃんと好きだって伝えなよ、とあの人は言った。
その時は、それがどういう気持ちなのか自分ではよくわかっていなかったんだと思う。
好きだったよ。
今ならわかる。
あの時のあなたのことも。
知らない間に苦しめていたあのこのことも。
何も望まずに助けてくれた彼のことも。
それから、今この腕の中で笑ってるひとのことも。
そのボーリング場の地下には、ライブハウスがあった。
地元ではまあまあ大きな方のライブハウスで、このあたりの街でバンドをやっている連中はまずここに出演することが目標だったらしい。ここで実績を積めば、もっと都会の有名な箱への道も、運が良ければレコード会社やプロモーターや音楽事務所などの関係者の目にとまってデビューすることも夢じゃない。そんな夢への階段の、一段がここだ。
ということは、軽音楽部の同級生に熱っぽく語られたことだった。
彼は部活としてはライブハウス出演などは禁じられているため個人のバンドでこっそり小さなライブハウスに出演したりなどしていて、実際にこのボーリング場下のライブハウスを目標にしているのだという。
茜自身は同世代の若者から支持されているバンドや洋楽などのレコードを何枚か持っている程度で、ライブハウスどころかコンサートなどにもさほど行こうと思ったこともなかった。だから、そのメジャーへの登竜門のように言われているライブハウスで人気のあるバンドのことも、さほど気にしたことはない。
ボーリング場には学校帰りに寄ったりしていたから、日によって──つまり出演者によっては入口の外に長い行列が出来ているのを見て『ああ今日は人気のあるバンドが出るんだな』と思う程度である。
その日も、ライブハウスの入口──地下から地上まで、長い列が出来ていた。男も女も揃いも揃って真っ黒いレザーの鋲がこれでもかと打たれたボトムやジャケットやバングル、びりびりに破かれたような落書きだらけのTシャツ、思い思いにがちがちに固めて立てた髪、何故か黒い目元や口紅──などの扮装で並びながら雑談したり缶ビールを飲んだりしている。
「ねえねえ茜くん、今日、ダーブラだって!すごいねえ!見てみたいけどちょっと怖いかな」
仁科陽美が長い列を振り返りながら袖を引っ張っている。
ダーブラ、というのが今日の出演者らしいが生憎茜はそのバンドを知らなかった。
「あれは何?ヘビメタってやつなの?」
「ジャンルはよくわかんないけどそうじゃない?」
並んでいる兵たちの機嫌を損ねたくないので声を潜めながらライブハウスの入口へ降りる階段の前を通り過ぎる。降り口に掲げられたサインボードには、"dArkblooD"という文字が見えた。
「5人バンドでみんなカッコいいんだけど、特にボーカルとドラムの人がすっごいカッコいいの。友達でダーブラの追っかけやってる子、何人かいるよ。もしかしたらこの列の前の方にいるかも」
「ふうん……」
「来年くらいにメジャーデビューって噂なんだよね。ほんとにメジャーデビューするんだったらその前に一度見ておきたいかも」
「え、はるちゃんもあんなの着るの?着てないと浮くよね?」
「えー、どう思う?似合うかな?」
「似合わないに一票」
「ひどーい」
話しながらライブハウスの入口を通り過ぎるとボーリング場に入る。
デートというほどではないが、学校帰りに陽美とここに立ち寄って2ゲームほどして帰るのが、予備校が無い日の日課のようになっていた。
茅茜が仁科陽美と交際し始めたのはまだ1ヶ月ほど前のことだ。
高校最後の文化祭、受験を控えているため出し物などは最低限に抑えられていたが最後の祭ということもあって思い出作りに奔走する者も多かった。
最終日に出し物の撤収をしている時、同級生の女子が3人ほど集団でやってきて、すでに日が暮れて薄暗い照明しかない階段の踊り場に連れて行かれると、別の女子に付き添われた陽美が真っ赤な顔をして立っていた。陽美以外の女子4人は陽美と茜を向き合わせるとそそくさと下の階へ降りて行き、柱の陰からこちらの様子を伺っている。
この状況で告白されて、積極的な理由もなしに断ることの出来る一般男子がいるだろうか。
実のところ、クラスメイトとしてそれなりに仲良くしていたとはいえ他の者たちと区別して特別何か好意を持っているというほどではなかった相手ではあるけれど、付き合ってみてから好きなところが出来るかもしれない。
うん、いいよ。
と返事をすると階段の柱の陰で息を詰めて見守っていた4人の女子たちがわあっと駆けあがってきて陽美を囲み、主役のひとりである筈の茜はその輪から締め出されてしまった。
似たような状況で、中学の時にも付き合った同級生の女子はいた。ただ、ひとしきり──クリスマスにバレンタインデーにホワイトデーといった冬の行事を一周過ごして、進級してクラスが別れた頃にはその彼女は卒業したひとつ上の先輩に告白されたとかで茜をふってそっちへ行ってしまった。結局、自分はあの娘を心の底から"好きだなあ"と思う間もなく去られてしまったわけだ。
だからというわけではないが、陽美との交際をOKしてこうして学校帰りにデートのようにボーリング場に行ったりはしているけれど、いつまたあんな風にふられてもおかしくないと思っている。
そもそも茜は医大を目指しているし陽美は看護学校を目指している受験生だ。日曜に一日デートをして遊ぶという時間を持つことも出来ないでいる。お互いをよく知るには時間が圧倒的に足りない。
付き合っているとは言ってもまだ、他の同級生よりは仲のいい友達くらいの感覚が抜けないでいる。男女交際の定義とは何だったかな、と検討し直したくなるほどだ。
それでもこうして一緒にボーリング場などにきて一時勉強のことも忘れて遊んでいると、陽美はよく笑うしとても可愛いと思う。陽美の友人たちほどにはテンションが高すぎることもなく、一緒にいて疲れるほどではない。
しかしこれから受験勉強の最後の追い込み時期に入ったら今よりずっと一緒に過ごす時間は減らさないわけにはいかないだろう。そうなった結果、陽美の心が離れていくかもしれない。そのあたりを視野に入れて付き合っていた方がいいのではないか。
ボーリング場のある界隈から徒歩圏の陽美を家の近くまで送ってから地下鉄に乗って帰宅する。夕食が用意されていた。
住み込みの家政婦は、茜の帰宅に合わせて調理しているわけではないが、冷めた料理を温めるくらいのことはしてくれる。どうやら母からも父からも兄たちからも、つまり茜以外の全員から、親し気に接することを嫌がられているらしいのでこの家政婦が茜に対しても必要以上に世話を焼いてくることはない。
ひとりで温め直した夕食を食べ終えるとコーヒーを持って自室に戻った。
──何があっても俺のことを一番だとずっと思っていてくれる人なんて、きっといない。
家に帰っても、自分の居場所がどこにも無くて居心地が悪い。
母はいつも、かつて失った恋人のことを思い続けている。
茜が生まれた時には父はもう母の夫だったが、血は繋がっていない。バツイチ子持ちで母と結婚した父の連れ子である2人の兄とももちろん血が繋がっていない。そのせいなのだろうか、父も兄たちも茜を身内と思っていない節がある。それどころか積極的に冷たい態度を取られていると思う。
祖父は母の父親で、子供の頃は可愛がってくれていた。だから祖父の家が居場所のように思っていたが、その祖父も結局自分の跡継ぎとしての茜にしか興味がないとここ数年でわかってしまった。
仲のいい友達が出来ても、当たり前だが彼らにとって茜が"一番"ではない。
人にとって家族が一番大事な存在であるという前提があるなら、その家族から一番大事だと思われていない自分は誰からも愛されない存在なのではないだろうか?
だとしたらそういう相手を、そういう家族を、これから自分で作らねばならないのだろう。
ただ、誰からもそんな風に思われて大切にされた経験もないのに、自分自身が誰かをそんな風に大切に出来る自信もない。自分が誰かにそんな風に愛されるイメージも湧かない。
鞄から革のカバーのかかった手帳を取り出す。そこに、プラスチックのカバーに入った小さな古い写真がある。
祖父の家に頻繁に遊びに行っていた頃、祖父の父──つまり茜の曾祖父の遺品の数々をよく見せてもらっていた。その中にあった古い写真のうち、何故か茜が気に入ってあまりにも離さず飽きもせずに眺めているからと祖父が譲ってくれたものだ。そこには3人の人物が写っている。
白衣姿の壮年に見える男。
ガウンを羽織って椅子に座った洋装の人形のように美しい若者。
そして着物に袴で頭がぼさぼさのやんちゃそうな顔つきの若者。
写真の裏側には、退色して読みづらい万年筆の文字で、『幾夜君、冶多郎君と』と書かれている。
白衣の男がおそらく医師だった曾祖父だ。あとの二人は患者とその従者か、という風に見える。椅子に座った洋装の若者は身分が高いかどこかの金持ちの子息なのだろう。もう一人の若者は対照的に貧乏な庶民だ。見えづらいが身に着けた着物もくたびれて継ぎ接ぎがあるように見える。
祖父の話によれば、曾祖父の家はもともと江戸時代からの大きな呉服屋で、明治になっても士族や華族との付き合いがあったという。家業を継がずに西洋医学を修めた曾祖父だが、実家の伝手でそういった身分の高い家にも出入りしていた。当時のカルテなどが全部残っているわけではないが、この椅子に座った若者は当時の天月子爵の子息ではないかということだった。
だがもう一人の貧乏そうなやんちゃ顔の若者の正体はいまだにわからない。
ただの感覚的なものだが、おそらく天月子爵の子息とかいうのが『幾夜君』なのだろう。なんとなく貴族っぽい名前だ。ならばやんちゃ顔が『冶多郎君』だ。
子供の頃からずっと、今でも、何か考え事でもしている時にはふとこの写真を眺める癖がついてしまっていた。そのせいか、会ったこともない、おそらく100年近く前の人物たちなのに、古い友人のように思える。
写真の"友人たち"に向かって相談するように、小さく呟いた。
幾夜君、冶多郎君。
俺は、自分では何が悪くてどうすればいいのか全然わからないけど。
誰からも一番に愛されたり大事にされたりする価値のない人間なんじゃないかと思うんだ。
だから、いくら陽美の方から好きだと告白してきたとしても、彼女にとって自分が一番の存在であるなんて己惚れたりはしない。いつ彼女の方から握って来た手を自ら離したとしても、その時はせめておとなしく離させてあげるのが彼女にとっていい筈だ。そうだろう?
その時のために、心の準備だけはちゃんとしておこう。
「ね、最近来る回数減ったんじゃない?」
ボーリング場の片隅に設えられたスナックカウンター。数種類のジュースとビール、3種類ほどのアイスクリーム、レンジで温めるだけとみられる簡単な軽食だけが置いてあるコーナーである。ジュースを買いに立ち寄ると、カウンターの中の店員が人懐こそうな顔で微笑んだ。
年末が近づき、さすがにそろそろ受験勉強の追い込みが本格化してきたせいもあり、週2日ほどは来ていたペースが10日に1度程度に減っていた。
「受験生なんですよ。息抜きでやっと来たって感じ」
「デートの回数減って彼女も寂しいんじゃない?」
「俺たちのこと、憶えてくれてるんですか。よく見てますね」
「かわいいからさ」
店員が屈託なく明るく微笑む。そこへ陽美が跳ねるように駆け寄ってきた。
なるほど、陽美は第三者から見ても可愛い。軽薄そうな店員の笑顔を見て、一応この子俺の彼女なんだけど、と口の中で呟く。その程度の自覚はあるらしい、と自分で思う。
「茜くん、あたしメロンソーダがいい。お兄さん、フロートに出来る?」
「出来るよ。アイスちょっとオマケしておいてあげる」
「わあ、ありがとう!」
陽美はクラスで1,2を争うほど小柄でカウンターに腕を載せると少し背伸びするような恰好になる。子供のようで可愛いらしいなと思う。
「君も?フロートにする?」
「いや、俺はコーラだけでいいです」
店員が慣れた手際で紙コップのメロンソーダの上にアイスクリームの球体を載せると、溢れそうに炭酸が弾けた。それをじっと見ていた陽美は、突然何かに気付いたように口に両手を当てて目を見開いている。
「あの、あの、もし違ったらごめんなさい、もしかして、もしかして、ミヒトさんですか?」
店員はちらっと陽美を見ると腰を屈めて自分の口元に指を当て、しいっと言った。
「コアファンの子たちは知ってても黙ってくれてるんだ。騒がないで」
「わ、わかりましたごめんなさい」
「彼氏の方は知らないみたいだね。まあ、気が向いたらギグにも来てよ。チケット取れないならこっそり回してあげるからさ。二人でおいで」
陽美は顔を真っ赤にして茜の腕をひっぱり、軽食コーナーに背を向けた。
もしかして、下のライブハウスで人気のバンドのメンバーなのか。
レーンに戻ると陽美は鞄をごそごそと探り始め、一冊の音楽雑誌を引きずり出して捲り、目的のページを発見して大きく開いた。そこには、『デビュー目前!話題のインディーズバンド特集』という見出しが躍っている。その見開きの中では比較的小さくはあるけれど、"dArkblooD"という名と写真が掲載されていた。
ああ、この間の『ダーブラ』ってやつか。あの店員はそのメンバーなのか。
「ほらこの人。さっきの店員さん、このミヒトさんてドラムの人だよ。びっくりした。まだドキドキしてる。素顔あんな優しい感じの人だったんだね。うわあどうしよう、ミヒトさんに気軽にお兄さん、なんて言っちゃった」
陽美が指さした小さな写真を覗き込むと髪を剣山のように鋭く天に向かって立てて、パンダかと思うほど目の周りを黒くしてドラムスティックを握った男が見えた。5人が5人とも、近づけば噛みつきそうな怖い顔をしていて、さっきの軽薄そうではあるが人の好さそうな店員と同一人物とはにわかには信じられない。
「はるちゃん、よくあの人がこの人だってわかったね。俺、写真見てもわかんないよ」
陽美はええ、だって…と小さく呟きながらちらちらと背後のスナックカウンターを覗き見ている。なるほど『ダーブラ』のライブに行ってみたいというのは、このドラマーのファンだからなのか。生で演奏しているところを見たことはないが、追っかけだという友達からライブのビデオくらいは回してもらってそれでファンになったのかもしれない。自主制作のレコードやカセットだけではなくライブビデオも物販で売っているのだろう。
陽美が"ミヒト"のファンだとする。
あの店員も陽美のことを可愛いと言っていた。
案外陽美にフラれることになるとしたら、陽美がファンとしてでなく恋愛対象として彼のことを見るようになるというルートがあるのかもな──
ついさっき陽美は俺の彼女なのに、と自覚した筈の茜は早くも敗北を予感せずにはいられなかった。
敗北?いや、戦う気もない。そうなったらもう不戦敗だ。
あの後、陽美は茜と一緒ではない時にひとりで、あるいは友達と、ミヒトに会うためにあのボーリング場に通ったりしているのではないだろうか──などとらしくない邪推をしながら、二人でボーリング場に行く頻度は減って行った。ミヒトを避けるためではない。入試が近づいてきてさすがに放課後遊んでいる場合ではなくなってきたせいだ。
茜は成績はいい方だし、第一志望の医大もおそらく合格できるだろうと進路指導の教諭からは言われている。外からは余裕でなんでもこなしているように見えているらしいが、茜自身は必死で、余裕があるなんて思ったこともない。
さすがにクリスマスには陽美とデートをした。と言っても普段は行かないようなお洒落なカフェバーで3時間ほどお喋りをして、プレゼントを互いに渡し合って、夜になる前には解散という程度である。冬休みにいつものボーリング場など行ったら何人のクラスメイトと鉢合わせするかわからない。そんなところで揶揄われていては時間が勿体ないと思ったのだ。
あのあとミヒトに会いにボーリング場に行ったりしたのか、雑談のついでに尋ねてみた。
「行ってないよお。友達がダーブラの追っかけだって言ったでしょ。あの子たちも我慢してるのに出し抜いてミヒトさんと仲良くなりに行ったりしたら怖いもん」
なるほど、女子の友達関係には彼女たちなりの守るべき節度というものがあるのだな。
女子同士で牽制し合っている中で、そこを離脱しあるいは敵対する勇気のある者だけが目的の男を得るために抜け駆けすることが出来るのだ。
陽美のプレゼントは手編みのマフラーだった。
受験勉強の合間に編んだのだという。編み物は頭を空っぽにして編み進められるから、勉強の息抜きにちょうどよくて、気にしないで、と陽美は言った。頭を空っぽに出来るとは言うものの、茜にプレゼントするために編んでいたのだからその作業の間だけは少なくとも陽美は茜のことを考えていた筈だ。
それが少しくすぐったい気がした。
茜は陽美にはすこし不似合いかもしれないごついシルバーのペンダントをプレゼントした。『ダーブラ』のファンだということは、こういうアクセサリーも実は好きなのではないかと思ったのだ。陽美は志望の看護学校に合格したら絶対ダーブラのギグに行く、その時に着けていく、と言ってくれた。
カフェバーを出ると手を繋いで陽美の家の方角に向かう。今日くらいはいつもの分かれ道までではなく家の近くまで送って行ってもいいだろう。首には早速もらったマフラーを巻いている。夕暮れの街はどんどん冷え込んでいくが繋いだ手は暖かい。
陽美の家の近くまで来るとその手前の公園で立ち止まり、別れがたいように公園の中を何周も歩きながらお喋りを続ける。すでに日が暮れて、公園で遊んでいた子供たちも帰ってしまった。
ふと会話が途切れると、陽美の手が茜の手を強く握り直したのを感じた。
あ、そうか。そういうタイミングなのか。クリスマスなんだもんな。
何故か第三者が俯瞰で見ているような意識が頭の端によぎる。
膝を少し屈めて、真っ赤な顔で少し俯いた陽美にそっとキスをした。
そのまま2人して黙ってしまい、また手を繋いで歩き出す。今度こそ陽美の家のすぐそばまで行って、じゃあまた電話するね、と言って手を離した。
陽美は顔を真っ赤にしたままこれまで見た中で多分一番可愛い顔で笑って手を振った。それを茜も笑顔で手を振り見送る。小ぢんまりとした一戸建ての家の扉の中へ消えていく陽美を見届けると小さく息を吐いて茜は来た道を振り返った。自分の吐いた白い息が纏わりつく。
付き合っている彼女と初めてのキス、こんなもんなんだろうか。
陽美は可愛いし、一緒に居て嫌な思いをしたこともない。ずっとお喋りを続けていても疲れることもない。ずっと無邪気に可愛く笑っていて欲しいし、悲しい思いも辛い思いもしてほしくない。多分、自分は陽美のことをとても大事に思っている。
なのに。
初めて手を繋いだ時も、初めて唇に触れた時も、自分で違和感を感じるほど何の高揚もなかった。
クラスの友達で彼女のいる連中はたいてい2回目だの3回目のデートにはもうキスも済ませているし、彼女の家なり自分の家なりですでにセックスまで済ませているものも何人かいる。
今はまだ2人とも入試の前だから泊まりでどこかへ行くなんてことなど想定の外だが、考えてみたらまだ陽美の家にも上がったことすら無いし、自分の居場所すらない家になど男友達でも連れて帰ったことはない。しかし入試が終わったら自然とそういう流れになるんだろうなという"段取り"だけは頭に浮かぶ。
別に性欲が無いわけでも女に興味が無いわけでもない。しかし、では自慰をするとして陽美を抱いている想像でもするかというとそうでもない。
俺は多分陽美のことを好きだのに、それは恋愛感情とはまた違うんだろうか。好きな女の子だったら抱きたいと思うのが自然なのではないのか。
ぼんやりそんな事を考えながら歩いていて、うっかり自宅ではなく普段放課後に遊んでいる繁華街の方へ向かってしまっていた。時刻を見るともう8時近く。さすがにこの時間にこの辺りをうろうろすることはあまりない。
学校帰りの中高生が多い夕方とは違い、夜の繁華街は大学生やサラリーマンやOLが多くは酒に酔った状態で歩いている。張り出した肩パットのジャケットにミニのタイトスカートの原色のスーツを着て、じゃらじゃらと耳や首に金色のアクセサリーをぶら下げ、真っ赤な口紅を塗った同じような恰好の女たちとやはり張り出した肩パットのやたら大きいジャケットの男たちが道いっぱいに広がって嬌声を上げながら歩いていたりもする。
まして今日はクリスマスだ。中にはサンタクロースの衣装を着たまま飲んだくれている浮かれ者もいる。
いつものボーリング場の近くを通りかかると地下のライブハウス前にはやはり行列が出来ていた。あの鋲付きレザーを身に着けたり髪を立てたりしている若者たちが並んでいる。中には外国の葬式のように黒いドレスに黒いベールを付けている女もいる。あれはあれでクリスマス用の扮装なのかもしれない。
この客層ということはもしかしたら今日のライブはダーブラなのかもしれない。しかしこの時間にまだ客が並んでいるというのはどういうことなのだろう。たいていこのライブハウスは19時には開場している筈だ。
歩く速度を緩めてその様子を観察していると、ちょうど階段の降り口のところで悲鳴のような声が上がった。
異常を感じて思わず足を止める。地獄の穴のような階段の降り口に、並んでいる客たちとは比較にならないほど立派に赤い髪を立てた男がもう一人の剣山のような髪の男の胸倉を掴んだまま姿を見せ、地上に着くやいなや剣山男投げ出したのが見えた。
あの剣山男は"ミヒト"だ。
並んだ客たちは最初は自分達が見に来た主役が現れたと思って歓声を上げかけて、次の瞬間それがざわめきに変わる。
「二度と俺らの前にツラ見せんな!殺されないだけありがたいと思えよ!!」
赤髪男は剣山男──ミヒトに向かって吐き捨てると、自分たちを待っている客の列に向き直り、叫んだ。
「お前ら、待たせて悪かった。でもすまねえが今日のギグは中止だ。ミヒトはクビにした。新しいドラム入れるまではギグも休む。前売り持ってる奴は金返すからそのまま並んでてくれ!」
今度こそ悲鳴が沸き起こる。
それに構わず赤髪男は再び階段の下へと消えていく。
悲鳴や泣き声に混じって、ミヒト、ミヒト…と顰めたような声が聴こえる。
当のミヒトは投げ出された体制のまま暫くじっとしていたが、やがて立ち上がった。顔はメイクの上からでもわかるほど腫れている。
「ミヒト!どういうこと!」
「何があったの!」
何人かが立ち上がってもふらついているミヒトに向かって声を荒げながら駆け寄ろうとした時──
その様子を見ていた茜と目が合った。
「よう!茜くん!!」
いきなり名前を呼ばれてぎょっと身体を硬直させているとミヒトは茜の腕を支柱のように掴んで、ようやく後ろを振り返った。髪型とメイクのせいで初対面の人間のように見えるが、口調と声はあのスナックコーナーの店員に違いない。
「ごめんな、見ての通りオレ、クビだってさ。これまでありがとうな。まあこれからもダーブラのこと頼むわ。誰が入るかわかんねえけど新しいドラム入ったらそいつもよろしくな」
それだけ言うと、ミヒトは茜の腕を引っ張って歩き始めた。自分はいったい何に巻き込まれているのだろう。
ミヒト!ミヒト!と泣き叫ぶような声が背中から飛んでくるがミヒトはそれきり振り返らなかった。追ってくる者もいない。
「ちょ、ミヒトさん……」
「わり、ちょっとそこまで肩貸して」
見るとミヒトは脚を引きずっている。殴られただけでなく脚も怪我をしているようだ。
右腕を茜の肩に回して体重を掛けながら、空いた左手で刺さりそうに立てた剣山のような髪をぐしゃぐしゃとほぐしている。ミヒトは茜よりも20センチ以上背が高く見えたが、足元を見たら底が分厚くヒールの高いブーツを履いていた。
「大丈夫ですか?」
「うん。足の方はほらこのブーツだから殴られた拍子にくじいただけなんだけど。ごめん、オレんち実はこの近くなんだよね。そこまで付き合ってくれたら助かる」
"ミヒト"のメイクのままながらやはり口調はあのボーリング場の店員で、今更ながら本当にあの人が"ミヒト"なんだなと理解した気がする。
どのみち今日くらいは勉強は休もうとは思っていた。陽美を見送った後考えていたことをもう一度ちゃんと考え直したいと思っていたのに、と少し躊躇したが結局そのまま言われた道を進む。
時折振り返られながら繁華街を抜けると、5分もしないうちに古いマンションに辿り着いた。エレベーターが無く、3階まで支えながら連れていく。辿り着いてミヒトが鍵を開けると茜は安心したように溜息をついた。
「足も殴られたとこも、ちゃんと冷やして下さいね。じゃ、俺はこれで」
「ちょい待ち。お礼にお茶でも飲んでってよ。それとも門限か何かあんの」
別に茜の帰りが多少遅くなっても誰も心配しないだろうと思いながら首を横に振る。
「じゃあ、少しだけ」
茜の返事に満足げに頷くとミヒトは玄関で腰を下ろして底の厚いブーツを顔をしかめながら脱ぎだした。玄関が狭いのでそれが終わるまでは茜も扉を抑えたまま待っている。
ブーツを脱ぎ終わってどうぞ、と促されたので上がり込むと入口すぐの小さなキッチンは思ったより片付いて清潔だった。ゴミが溜まっている様子もない。通路兼小さなキッチンを抜けると8畳ほどのワンルームだった。間取り的には1Kとなるのだろうか。
一見ものの少ない部屋に見えたが、壁には茜でも知っているような海外のヘビメタバンドのポスターが所狭しと張られたいた。担当はドラムらしいがギターも弾くのだろう。アコースティックとエレキギターのケースが1本ずつ置いてある。
「狭いけどどこでも座ってくれていいから。オレは酒飲むけど、茜くんも飲む?それともコーヒー?」
ミヒトは顔のメイクを落としながら冷蔵庫を覗いている。
「コーヒ……いや、やっぱ俺も飲もうかな。いいですか」
「そうこなくちゃ。ビールでいい?」
メイクを落とし終わると殴られた頬に氷を当てながらミヒトは缶ビールを1本茜に向かって投げ、自分の分の缶ビールを開けてまるで1本を一気に飲み干すくらいの勢いで飲んでいる。茜の向かいに腰を下ろすとピチピチの革パンツを不自由そうに脱ぎ、ベッド代わりのマットレスの上に無造作に放り投げてあったスウェットを引っ張ってそれを穿いてミヒトはようやく人心地ついたように天井を見上げてあー!と叫んだ。
一瞬の沈黙が流れる。
時計の秒針の音が大きく聴こえる。
「あの、何があったんですか、……って聞いていいのかな」
わけもわからず巻き込まれたような形でここに座ってビールなどを飲んでいるわけだが、そもそも発端は何だったんだろう。ただ、自分は完全な部外者だ。巻き込まれたとはいえずけずけと踏み込んでいい領域なのか躊躇われる。
しかしミヒトはあっけらかんとした顔で、ほぐしはしたもののまだ整髪料が残ったままで変な形に固まっている髪を掻いた。
「リク……あ、さっきの赤髪のやつね。あいつダーブラのボーカルなんだけどさ。あいつの女寝取ってやったらキレた」
なんの悪びれもなく笑う。そうですか、くらいしか言えることがない。付き合っている彼女とキスはしたもののその先どうするなどという次元で悩んでいる自分にはフィクションの世界に近い話だ。
「あいつさ、女癖悪くて。自分のファンをわりと片っ端から食いまくってたんだよ。デビューとなったらさすがにそれはやめた方が良くないかとは思ってたんだけど。それが最近付き合ってた女ってのが毛色が違ってて、あいつのファンどころかダーブラのことも知らないような女だったの。今回は本気だとか言っちゃってさ」
バンドマンが自分のファンを片っ端から食う……そんなの現実の話だったのか。
「で、その女をちょっと誘ってやったらわりと簡単についてきたのね。あ、そうなんだ。リク、本気だって言ってたけどこっちはそうでもないみたいだなと思って、そのままヤってやった。そしたらリクがキレたの」
「そりゃ……怒るでしょ、自分の本気の彼女を取られたら」
圧倒的経験不足でも当たり前のことくらいなら言えるんだな、と思いながら相槌を入れる。
ミヒトは茜の座ったわきに置いたマフラーに手を伸ばしてそれを眺めている。
「これ、はるちゃんの手編み?気持ち重いね。手編みのマフラーとか首に巻いてたら首絞められてるみたいな気分になんない?」
「なんないです」
せっかくなんとかミヒトの話についていこうと相槌を捻りだしたのに突然話題を変えられて戸惑い、ひったくるようにマフラーを取り返す。そのマフラー、茜の手、そして最後に茜の顔に視線を移動させながらミヒトは微笑んでいる。
「茜くんはさあ、たとえばはるちゃんをオレが取ったらオレのこと殴って取り返す?」
何故か──
ドキリとした。
「えと……ミヒトさんが本気でないなら怒ります。あとはるちゃんを泣かしたら許さない」
ふふふ、と笑い声が聞こえる。なんでそんな優しそうな顔をしてるんだ。
「そうじゃなくてさ。茜くんの気持ちを聞いてんの。じゃあ質問変えるよ。誰かに取られそうになったら相手を殴ってでも取り返さなきゃって思うくらいはるちゃんのこと好き?」
いつ陽美の方から手を離してもすんなり離させてあげられるように──
と、陽美の気持ちを考えているふりをして、陽美に対する想いがそれほど強くなっていないことを誤魔化していたのではないか?
ミヒトの質問に「はい」と即座に、強く、自信を持って答えることが出来ずにいることが急に後ろめたくなった。
「茜くん、はるちゃんと付き合ってどれくらい?秋ごろからだっけ?もうはるちゃんと寝たの?」
「そんなこと──」
「まだか。まだだよね。やることやったカップルには見えないもん。おままごとみたい」
自分の経験不足を揶揄われたようで、あるいは他人にそんなことをとやかく言われるのが不本意に思えて、茜はぐっと口を噤み恨めしげにミヒトを睨んだ。
こんな風に茜を揶揄って、あるいは挑発して、ミヒトは本当に陽美を奪い取るつもりなのだろうか。
「──ミヒトさん、はるちゃんのこと可愛いって言ってましたよね。前から狙ってたの?」
え?とミヒトは驚いたように目を丸くしている。思ったのと違う反応に逆に茜が動揺する。
ミヒトはぱちぱちとまばたきをすると思い当たったようにああ、と笑った。
「違うよ。可愛いのは茜くんだよ。てゆうかまあふたり、初々しくて可愛いカップルだなとは思ってた」
ミヒトは痛めた方の脚を伸ばして座ったまま、茜のコートとマフラーをどけて茜のすぐ隣に座り直した。
「もう一度言おうか?オレが可愛いと思ってたのは茜くんの方だよ」
もう一度言われても意味がよくわからずに困惑しているうちに、ミヒトの両手が茜の両耳あたりを捕まえた。
「ミ」
言い終わらないうちにミヒトの顔が近づいてきて、唇を塞がれる。
さっきしたばかりの、彼女との初めてのキスの余韻を、ミヒトが拭い去っていく。
唇と唇を触れただけのキスとは違い、唇と舌を使って巧みに茜の口の中にまで侵入してきた。
陽美との時はあんなに平静でいたのに。鼓動が急に早くなった気がする。全身が軽く痺れる感覚までする。
顔を離すとミヒトは悪戯っぽく笑って床に置いたままだった缶ビールを呷っている。茜は何も言えなかった。
「あれ、もしかしてこういうディープキスもしたことなかった?やっぱ可愛いね」
空になった缶を持って不自由そうに立ち上がり流し台に置くとまた冷蔵庫を覗いて次の缶ビールを開ける。
「オレさ……」
ミヒトは戻ってくると再び茜にくっつくように隣に座った。茜はそれを避けることも出来ずにいる。
「リクのこと好きだったんだよね。あいつは女しか好きじゃないことわかってたから、ずっと黙ってようと思ってたんだけど」
あいつが片っ端からファンの子食ってる時はどうでもいいやって思ってたのに。
今度の娘は本気だって聞いて。
なんかもう嫉妬で心の中のモヤモヤが限界まで膨れちゃって。
リクとその女が別れちゃえばいいと思ってあの女誘ったの。
オレがあの女と寝たってことがリクにバレて、リクはもちろんそれで怒ったんだけど──
もういいかと思ってオレ、全部ぶちまけたんだよ。
今日ね、リハも終わった後に。
オレはリクのことが好きだって。
メンバーとしてとかボーカルとしてじゃなくずっと恋愛感情で好きだったって。
そしたらリクが、いつもドラムから俺のケツ眺めてやりてえって思ってたのかよって。
おまえに背中を預けて安心して歌ってたのに、そんな目で見てたのかよって。
それで殴られた。
違うよ。
オレはリクに抱かれたいって思ってたんだよ、って言ったらもう一発殴られた。
誰がおまえのきったねーケツの穴になんか突っ込むと思ってんだ、キモイんだよってさ。
バッカみたいだよね、オレ。
こんなこと言わなきゃ一緒にメジャーデビュー出来たのにね。
ミヒトは笑っている。
笑いながら、傾けた片方の目から涙が溢れているのが見えた。
「ノンケの男に惚れるとこういうことになるから嫌だったのにさ。やっぱオレ、バカだわ」
「ミヒトさん……」
「ごめん、こんな話聞かせて。茜くんもキモいよね。もうオレあのボーリング場のバイトも辞めるし、二度と君らの前には現れないから。忘れて」
何度か逡巡し──茜はすぐ隣にあるミヒトの肩に腕を回して抱き寄せた。肩や胸筋はそれなりについているのに、同じ男とは思えないくらい細い。
「あの、キモいなんて思わないから」
何を言えばいいのかわからない。が、そのままじゃあさようならお元気でとここを去ってもいいものかどうかを迷った。ミヒトはまだ笑ったまま泣いている。
「やめなよ、優しいなあ。そんなに優しくされたら慰めて欲しくなっちゃうからほんと」
まだ鼓動が少し早いままだ。寒いはずなのに少し汗ばんでいる気がする。呼吸が苦しい。生唾が出る。
泣き喚きたいだろうに笑みを作ったまま泣いているミヒトを見ているだけで胸のどこかをぎゅっと絞られている気がする。どうにかしてミヒトを悲しみの淵から掬い上げたいという思いが膨らむ。
陽美と手を繋いで歩いて唇に触れた時にもこんな感覚にはならなかった。
なのにどうして、こんな──
抱き寄せて肩口にあるミヒトの顔を見下ろす。そこへ自分の顔を寄せて自ら唇を重ねる。圧倒的な経験不足のせいでどうするのが正解なのかが全くわからないが、ミヒトが待っていたように応えた。
口の中のあらゆる感覚を刺激されていたかと思うと顎から耳もとをなぞり、また唇に戻ってくる。それを何度も繰り返す。ようやく解放されるとミヒトは運動していたように乱した息の下で何か小さく呟くと茜の両肩に手を置いてぐいっと自分の腕を伸ばした。
「ごめん、このままじゃほんとに甘えちゃうから。もう帰んなよ」
そうですね。帰ります。
そう言って立ち上がるだけでよかった。
陽美にもらった手編みのマフラーを巻いて、コートを羽織って、靴を履いて、この部屋を出ていくだけだ。
それだけのことが何故とても難しい課題のように思えるのだろう。
自分の両肩に伸びたミヒトの腕を取る。それをもう一度引き寄せ、今度は自分から口を開いて最初から舌を絡める。そのままミヒトの後ろにあったマットレスの上に押し付けた。解放されたミヒトの手が片方はセーターの中の背中へ、片方は下半身へ伸びて蠢き始める。その動きに呼応して何度も微弱な電流が流れるような快感が走る。かつて感じたことのない衝動をひとつひとつ解放する。友達から回ってくるグラビアや成人向けの漫画やアダルトビデオなどを眺めながら自分で慰めている時にも、陽美と手を繋いだり可愛らしいキスをした時にも生まれなかった衝動。
茜の反応と表情を見てミヒトは鼻どうしが付きそうな距離でその頬をそっと撫でた。
「オレちゃんと言ったからね?もう帰れって」
言葉が出せずに小さく頷く。ミヒトは触れるだけの──数時間前に茜が陽美にしたような──キスをするとそのままの距離でにっこり笑った。
「だったら教えてあげる」
帰宅した時にはすでに日付が変わろうかという時刻になっていたが、受験生の茜が無断で遅くなったからといって咎める者は家にはいない。そもそも父は帰宅していないし母はもうとうに就寝しているし、長兄は結婚して独立しているし医大生の次兄もまだ帰っていない。意見したり説教する使用人もいない。
台所を覗くとダイニングテーブルの上に書置きが置いてあった。
──冷蔵庫に切ったケーキがあります。ニシナハルミ様からお電話がありました 21時
急激に罪悪感のようなものが下りてきてメモをくしゃっと握りつぶした。
クリスマスだからと用意してくれたのだろう、カットしたケーキを冷蔵庫から取り出して自室に持ち帰る。
陽美からの電話が21時。
陽美が茜の声を聴こうと電話してきた時、茜自身はミヒトの部屋でミヒトを抱いていたのだ。陽美のことも忘れて、夢中になっていた。
クリスマスなのに、彼女を放っておいて俺は──
ただ単に性欲に突き動かされたのとも違う気がする。
かといって、ミヒトに対して恋愛感情が沸いたというわけでもない。
ただ、あの時あの刹那はミヒトを放っておけなかったし、どうすればいいのかもわからないくせに深く触れたい衝動に勝てなかった。あの衝動は本来恋愛感情を伴う相手に──つまり陽美に対して発動するのが自然なものではないだろうか。
──ありがとうね。
コートを羽織る茜の背中で、ミヒトがベッドの上からのろのろと起き上がる気配がした。
陽美のプレゼントの手編みのマフラーは首に巻き付けることはせず折りたたんで鞄の中に押し込む。
「おかげでなんか色々吹っ切れたよ。多分もう二度と会うことないと思うけど、元気でね」
「ほんとに引っ越すの、バイトもやめて」
「だってダーブラ追い出されたのに気まずいじゃん。一度地元にでも帰るか、どっか遠くで一からやり直そうかな」
何故か振り返ってミヒトの顔を見ることが出来ない。
「まあ今日の事なんか忘れてはるちゃんと幸せにね。あの子泣かせちゃ駄目だよ。ってオレが言うことじゃないか」
そう笑うとミヒトは茜の鞄から陽美のマフラーを引きずり出し、無理やり茜の首に巻き付けた。首を絞められてるみたいな気分になんない?と言われたことを思い出す。
重たい荷物を持っているようにのろのろとミヒトを振り返る。
「ミヒトさん、リクさんに本当の気持ちを打ち明けたこと、後悔してる?」
「してないよ」
ミヒトは不思議なくらい晴れやかな顔で笑っている。
告白しなきゃダーブラをクビになったりしなかったしもっと側にいられただろうけど──
黙ったまま側にいたら多分これからもオレ、
リクが誰かと付き合う度に嫉妬でおかしくなって、
どんどんエスカレートして、
もっと酷い事しでかしてたかもしれない。
ちゃんとオレの気持ちを伝えて、その結果きっぱりフラれたんだからこれで良かったんだよ。
「なんか俺、まだそういうのわかんない」
「何言ってんの。はるちゃんのこと好きなんじゃないの?」
好きだとは思うけど、あんな風に触れたいと思ったことがない。それは"好き"だと言っていいんだろうか。
「ほんとに好きならそのうち、この子にもっと触れたいなって思う時が来るよ。焦って段階踏まなくてもさ」
「うん」
「あと好きな人にはちゃんと好きだって伝えなよ。相手がどう思うかじゃない、自分がどう思ってるかなんだから」
「うん」
「いいからもう帰んな。ほら」
笑いながらミヒトは茜をドアの外へ押し出した。最後に聴いたじゃあね、という声が頭の奥にこびりついている。
自室に持ち帰ったケーキを机の上に置いてそれから風呂に入った。風呂に入りながら、まだ記憶に生々しいミヒトの肌の感触を思い出してしまう。洗いながら、これまで意識しては洗ったり触れたりしてこなかった部分に指を伸ばしてみたりもした。そこがそんなに気持ちいいものなのかは自分ではわからなかった。
部屋に戻っても陽美よりもミヒトのことばかりが頭の中で膨らんでしまう。
自分は同世代の男子たちよりもしかしたら性欲は薄いのかと思っていたが、経験が伴った途端こうなるのか。これまでの自分は単に想像力が足りなかっただけなのだ。それでも、肌の感触の記憶を陽美に置き換えて想像することは出来なかった。
ゴミ箱に積もったティッシュペーパーの山を見て急に気まずくなり、手に臭いがついているような気がして手を洗ってからあらためてケーキを食べる。唇や舌に触れるクリームや苺やスポンジの感触にまた、ミヒトの唇や舌を思い出しいていることに気付いてとうとう笑えてきた。
手帳からあの写真のカードケースを取り出し、眺めて溜息をつく。なんだかこの3人のうち、"冶多郎"だけには今の自分の状態を──そんな下世話な相談も、できるような気がした。
冶多郎君、俺、なんかおかしいよね。
オカズにするにしたって、今までは女の子の水着グラビアとか、裸の写真とか、エロ漫画とかだった筈なんだけど。
帰ってきてから俺、ずっとミヒトさんの身体を思い浮かべてる。出来るならもう一度あの部屋に押しかけていってもう一度抱きたいくらい思ってる。そうはしないって程度にはぎりぎり理性が勝ってるけど。
どうしよう。
せっかく陽美とキスしたのに、陽美の唇がどんなだったか思い出せない。
どうしたらいいと思う?
その夜はなかなか寝付くことが出来ず、どうせ眠れないならとクリスマスの夜なのに受験勉強をした。
明け方近くになってようやく眠気が訪れると──
夢の中で、冶多郎を抱いていた。
夢のせいで後ろめたさが増幅しただけの寝起き、もう深夜だからと自分に言い訳をして保留していたが意を決して陽美に電話してみた。
「──ゆうべごめんね。調子が悪くて寝てたらまだ帰ってないと思われたみたいで」
こんな嘘をついて、やはり罪悪感がちくちく胸を刺す。
『そうなの?大丈夫?あのね、帰ってから家族でご馳走とかケーキとか食べてたんだけどそしたら友達から電話がかかってきて──あの、ダーブラの追っかけやってる子の一人』
ぎくりとした。
そうだ。クリスマスのギグに、追っかけの娘たちが行こうとしていないわけがない。
あの場に茜がいてミヒトに連れて行かれたことを見られていたのではないだろうか?
『あのね、あのね、何があったかわかんないんだけど、ミヒトさんがクビだって言われて、昨日のギグも中止だったんだって……友達、めちゃくちゃ気合入れてオシャレして早くから並びに行って初めて列の一番前取れたのにって号泣してた』
列の一番前ということはあの時は地下にいたのだろう。ミヒトが通りすがりの茜と消えたことは気づかれていないようだ。何故か胸を撫でおろす。
『メンバーでケンカとかわりとよく聞くけど、今回みたいなのは初めてだって。もっと小さいライブハウスの頃からずっと追っかけてたけどギグを中止にするくらいのケンカ初めて見たって。ほんとにミヒトさん、クビになっちゃったのかな……まだあたし、ギグ行ったことないのに……』
電話の向こうの陽美は涙声だった。
ミヒトのファンだったのだから、そりゃあショックだろう。
陽美がショックを受けて泣いていたその頃、当のミヒトが自分の彼氏である茜と寝てだなんてことは──口が裂けても言えない。墓場まで持っていかねばならない。
ヘヴィメタルバンド"dArkblooD"がメジャーデビューしたのは茜が第一志望の医大に、陽美が看護学校に、無事に合格し新しい生活を始めた次の夏のことだ。
ドラムは当然ながらミヒトではなく──新しいメンバーに変わっていた。
デビューアルバムはまあまあのセールスを上げ、シングルも短くもチャートの上位に食い込む程度には売れた。あっという間に会館クラスの全国ツアーを敢行するほどになり、あのボーリング場の地下のライブハウスに出演することは無くなった。
しかしデビューシングルとアルバムが売れただけで、2枚目からは急激に落ち込み、"ダーブラ"はあっという間に一発屋のグループにカテゴライズされるようになり、4年ほどで解散したという。
そしてちょうど"ダーブラ"が解散した頃──
仁科陽美は、自殺した。
*Note*
タイトル「心恋」は「うらこい」と読みます。心に秘めた恋心みたいな意味なんですが。まあ心に秘めた、というより本人があまり自覚できてないという話ですがこんなタイトルにしてみました。単語にしたかったんで無理やり。そうでなかったら多分「好きな人」とかいうタイトルにしてたと思う。
茜ちゃんの話です。
スピンオフとしてはこれまでにない長さ(4編)になってしまったので、サブタイトルに各話のメインになる人の名前を入れてます。
茜ちゃん、本編では実はあまり心理描写をしていない方のキャラなんですよね。たまに心理描写を描く時もあったけど、圧倒的に「言動で何を考えているのかを読み取ってもらいたい」系のキャラだったんだなと本編を終わらせたあたりで気が付いて。それって結局作者の中で茅茜という人がきちんと確立していなかったんではないか(今更???)とあらためてエピソードとしてしか提示されていなかったものをちゃんと茜ちゃん目線で、その時々何を考えてたかを中心に掘り下げてみました。
そうすると、エピソードはあったのに茜ちゃん目線で書いてなかったものがいっぱいありすぎてめっちゃ長くなってしまいました(笑)。
書いていると、特にこの1とか2とかあたり、作者のくせに「ああ、茜ちゃんてこういう人だったんだな…」というあらたな気づきがいっぱいありましたわ。
この1の前半なんかは、何かよくある青春ラブストーリーかな?みたいになってたわけですが急転直下にBLになって自分でもおかしかったです。
なお、「街」で茜ちゃんが言ってた「このボーリング場よく行ってた」っていうボーリング場がここ。
茜ちゃんが彼女とおててつないで歩いてた頃同じ街の片隅では椎多は例の雑居ビル上の廃ホテルで英二とやりまくってたんですね…(言い方)
私自身はメタルとかハードロックとかパンクとかには傾倒したことはないんですが、クリスマスライブでウキウキ入場列に並んでるところに目の前で推しがクビ宣告されてライブ中止とかなったら当分立ち直れないです。リク、よくミヒトのファンに襲撃とかされんかったな……。
ちなみにミヒトの本名は史人(ふみひと)くんといいます。この話の中では本名は出てこないけど、それぞれのメンバーの変な呼び名と本名は考えてあります。
次の話(2)は茜ちゃんの医大生の時の話です。
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