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Sin.co -Re:The Ultimate Sin- main tales

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心恋 -2- 陽美

 エアメールが届いた。

 差出人は仁科陽美。


 もっとも、大学からの何某以外でプライベートの手紙などは陽美からしか届いたことはない。忙しくて返事を書けないこともあるが、返事をしなくても定期的に、2週間に1通は届く。


 茅茜は医大の5年になった。一般の大学生ならもう卒業している年だが、医大は計6年、さらに国家試験を通って医師免許を取得してもそこからさらに最低2年は研修医の期間を経てようやく一人前の医師になる。まだ先は長い。
 陽美は医療法人系列の看護学校だったため、卒業後はその病院に勤めている。
 この夏前から茜はアメリカの大学附属の研究所に半年間の短期留学に来ていた。ただでさえ付け焼刃の英会話に専門用語も加わって脳内は混乱を極めていたが少しはペースが掴めてきたところだ。研究所には日本人もいるので困った時には助けてもらっている。

 届いた手紙を開封し、軽量化のためにぺらぺらの薄い便箋に書かれた見慣れた陽美の文字を追う。内容はたいていは近況報告と、日本での他愛も無いニュースについて、わざわざ航空便の高い切手代を使って書いてくるような内容ではないのだが、それでも自分の近況を伝えずにはいられないのだろう。

『ダーブラのこと覚えてますか?今年いっぱいでとうとう解散するんだって。一応解散ライブやるって、まだずっと追っかけ続けてた友達にききました。売れたの最初だけだったもんね。結局一度もライブ行かずじまいだったね。ミヒトさんどうしてるのかな。懐かしいな』

 ミヒト、という文字を見て微かに首のあたりの筋肉が緊張したような気がした。
 陽美にとってはダーブラも、ミヒトも、昔好きだったバンドの懐かしい思い出なのだ。

 ミヒトはどうしているのだろう。

 あのクリスマスのあと、ミヒトは本当に姿を消した。ボーリング場のスナックコーナーも、電話でやめると連絡があっただけだったという。それを聞いて、一人で恐る恐るあの部屋へ行ってみたが、そこも引き払った後だった。
 本名も連絡先も知らない。あの時の『二度と会うことはないだろうけど』という言葉は現実のものになったのだ。


 茫然として、それから、もしあの後もミヒトと会うことが出来ていたとして自分はどうするつもりだったのか、と我に返った。まさか、また同じように部屋に入れて相手になってもらうことを期待して?
 ミヒトに対する恋愛感情が生まれたわけでは決して無いと思う。それなのに、きっともう本当に二度と会えないのかと思うとこれまで感じたことのないような鈍い痛みが胸の奥にある。
 これはどういう感情なのだろう。
 その答えはいまだに出ていない。

 なんとか無事に志望校に合格し、晴れて卒業を迎えた陽美は顔を真っ赤にして遠慮がちに春休みの予定を尋ねてきた。

──卒業旅行、行く?

 陽美にとっては決死の覚悟だったのだろう。自分からそういうアプローチをするのが恥ずかしくて仕方ない娘だ。一緒に旅行に行こうと誘うのは、つまり"私を抱いて欲しい"という意味なのだろうから。
 それなのに茜は、入学準備で忙しいことを理由に旅行に行くことを断ってしまった。

 あのクリスマスから2ヶ月と少し。あのミヒトとの事がいまだに生々しすぎて、陽美に触れることを躊躇ってしまっていた。陽美にはもちろん、親しい友人たちの誰にも決して言えないが、あのあと自分の部屋で自分を慰める時思い浮かべるのはあの時のミヒトだったのだ。
 身体つきは細くても骨ばっているし、当然胸も膨らんでいないし、脚の間には自分と同じ部品があって、自分でも紙越しにしか触ったことのないような本来汚物が排出される機能だけの部分しか挿れる場所がない。体育の着替えだの修学旅行の風呂だの、同級生の男連中の裸はいちいち覚えていないほど見ているが、それらに対して自分の下半身が反応することなど一度も無かったのに、ミヒトの身体を思い出して熱くなる自分を慰めている。

 それがずっと陽美に対してうしろめたい。

 おそらくそこで卒業旅行に行くのが一番いいタイミングだったのに、それを回避した。
 新しい学校での生活が始まると、今度はそれぞれの新しい環境に慣れるためにリソースが割かれてしまい、ただ会って食事しながら話すだけでも予定の繰り合わせに一苦労するようになってしまった。
 それでもその気にさえなれば何度でもそのチャンスはあった筈なのに、もううまく誘うことが出来ない。
 陽美と別れたいわけではない。話していれば楽しいし、新しい環境で疲れているなら癒してやりたいし、逆に自分が疲れていれば癒されたいと思う。それでも、抱きしめて一つになりたいという衝動にまでは辿り着かなかった。

 結果──

 付き合い始めてそろそろ5年になろうとしているのに、いまだに陽美とは寝たことがない。
 大学生活を送っている中で、悪友たちに風俗店などに連れて行かれて"プロ"の女性に性欲の処理をしてもらうことも経験したけれど、そういう事を積み重ねるごとに陽美を誘うことのハードルが高くなっていく気がしていた。
 陽美の方もそれとなく触れて欲しいとアピールすることを諦めたのか、会えた時に握った手の力を強めることも、酔ったふりをしてもたれかかってくることも、遠慮がちに腕を絡めて胸を押し付けてくることも、ここ1~2年は無くなってしまった。ただ、だからといって陽美の方からもう別れて欲しいと言ってくることもなかった。


 だから、一見何の問題もないカップルのように仲良く過ごしている。

──おままごとみたい。

 ミヒトが言った通りの幼いカップルのまま、茜と陽美はもう23歳になろうとしている。

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 母の病気が見つかったのは今年の春のことだ。乳癌だという。

 

 発見が遅く進行が速かったため、片方の乳房を切除しなければならなくなった。
 母は半狂乱になってその手術を嫌がり、そのまま死なせてくれと騒いだがなんとか説得されて手術に応じてくれた。それ以降母は殆ど閉じこもりきりとなりただでさえあまり外出しないでいたのが通院以外は全く外へ出ることは無くなってしまった。
 食事の時ですら、なるべく人払いをして一人きりで食卓に就いているのだという。茜も留学するまでは自宅から通学していたから同じ家に暮らしているのに、結局癌が見つかったと聞いてから留学に出発するまで母と会うことはなかった。おそらく意識的に避けられているのだ。


 母は父との結婚のために無理やり恋人と別れさせられたと聞いている。まだ子供の頃に、お節介で無神経な使用人が同情するふりをして教えてくれたことだ。茜はその恋人の子供なのだという。だから父とは血が繋がっていないのだ。
 だとしたら母は茜にかつての恋人の面影を見ているかもしれない。片方の乳房を失った自分の姿を、息子の目を通して愛しい恋人に見られるのが嫌なのだろう。

 祖父は娘の為に、婿の部下より優秀な乳腺外科医のいる別の病院を手配し治療に当たらせていた。自分で娘婿に選んだくせに、娘の夫のことはまるで信用していなかったのかもしれない。
 母方の祖母も早くに──茜が生まれる前に──亡くなっていたが、それも癌だったのだという。病院を大きくするために日常の大半を費やして奔走していた夫を気遣って体調が悪い事をずっと隠していて、倒れた時にはすでに手遅れであっというまに他界したと聞いている。
 祖父にすれば愛する妻と娘が同じ病に奪われることはあってはならないことだっただろう。

 

 茜が癌の早期発見の研究を行っているアメリカの研究所への留学を決めたのは母のことと無関係ではない。
 片方の乳房を奪うような手術をしても、まだ転移や再発の可能性が消えたわけではないのだ。完全に治癒するのにこしたことはないが、せめて自分が一人前の医師になるまでは寛解の状態であって欲しい。

「茅君は熱心だけどさ」

 来栖征吾はこの研究所に唯一正式な研究員として所属している日本人だ。大学で師事している教授に紹介され、来栖を頼ってこの研究所の研修に潜り込ませてもらった。こちらでの生活や研究所での言葉の苦労もなにくれとなく助けてくれている頼れる先輩である。
 この日も久しぶりに日本食でもどう、と現地の寿司屋に連れていってもらった。なんちゃって寿司やなんちゃって日本食の店もあるが、ここは日本で修業してきた板前が切り盛りしているから日本と変わらないクオリティのものも食べられる。


「でも悪いけど君のお母さんの再発を早期発見するとかそういう次元の研究じゃないからね、まだ先は長いし十分なエビデンスが得られても実用化はもっと先だし」
「わかってますよ……」
 実際に母を救うための研究ではないことは来る前からわかっている。それでも居ても立ってもいられなくなったのだ。

「来栖さんて、奥さんこっちの人じゃないですか。どこで知り合ったんですか?」
 話が重くなりそうだったので話題を変えてみる。来栖の妻はアメリカ人だ。子供も2人いる。
「うん?大学の学内売店でアルバイトしてた時にね。彼女は大学院で別の研究を続けてるよ」
 子供の年齢などを脳内で計算する。
「学生結婚だったんですか?」
「うん、そう。専門分野が違うからさ、研究にがっつり入っちゃうと結婚どころじゃなくなるから今のうちに結婚しよう!ってプロポーズして次の日には教会行ってさ」

 すごい……と思わず声に出してしまった。

「まあ教会だけ先に行ったけどほら僕国籍が違うじゃん。そこから手続きには色々時間かかったし学業とか研究とか並行して家庭生活に子育て、大変ではあったけどなんとかここまでは来れてるって感じ」
「よくそんなすぱっと決断できますね。俺、無理そう」
「茅君は彼女いるんだっけ?いつも手紙くれてる子か」


 今の自分は来栖がもう結婚して一人目の子供も生まれていた時と同じ年だ。なのにまだ彼女を抱くことも出来ずになにをぐずぐずしているのだろう。
 いや、人は人の人生なのだから、そのペースに影響される必要はない。

「自分のタイミングってあるから僕らみたいに焦るのが最適解とは限らないけど、彼女が同業者じゃないなら医師免許取れるまで、研修医じゃなくなるまで、なんてぐずぐずしてたら待ちくたびれて他の男に取られるかもしれないよ。捕まえておきたいなら忙しくてもフォローは欠かさずにね」
「研究のことだけじゃなく人生のアドバイスまでありがとうございます……」

 来栖は茜が"彼女"とまだ肉体関係に至ってすらいないとは思いもよらないのだろう。茜の悩みは結婚のタイミングをどうするかという点だと誤解している。


 いや、誤解なのか?
 なるほど、このまま付き合っていればゆくゆくそういう話になってもおかしくない。いやこの調子ならそれが自然だ。たまたま来栖と彼の妻の話を尋ねたからそういう話になったが、茜の中にまだ陽美との結婚という進路は具体的には浮かんでいなかったことに気付いた。


 考えてみれば、小さないざこざはあっても破局の危機を感じるほどのケンカも陽美とはしたことがなかった。それは、陽美との相性がいいからだと思っていいのだろうか。自分は陽美に対してケンカになっても譲れないような意見の相違を感じたことはない。陽美の方はどうなんだろう。いつまでも自分に触れない彼氏に対して、何か思うところがあってもおかしくないのに。

 来栖と解散して自分の部屋に帰り、もう一度陽美の手紙を読む。
 時計をみると23時過ぎだった。日本はちょうど真昼。毎週金曜のこの夜に電話する習慣になっている。陽美は土曜の昼で、急なシフトの変更でもない限り部屋にいる筈だ。
 茜が寝泊まりしているのは研究所に斡旋してもらった部屋で電話はない。電話をかける時はたいてい大量に小銭を持って建物の中に数台ある国際電話対応の公衆電話を使う。

 日本の国番号を押してから陽美の部屋の電話番号。この数字の羅列もとっくに覚えている。

 

 陽美は就職して最初の半年ほどは病院の女子寮に入っていたが今はワンルームマンションに引っ越して一人暮らしをしている。勤め先の病院よりも、茜の父が院長で祖父が理事長で兄二人も勤めている茅総合病院の方が近いかもしれない。いずれ医師免許を取ったら自分もそこに勤めることになる可能性が大ではあるがさすがにそこまで視野に入れてその部屋を選んだわけではないだろう。むしろ、タイミングをみて自分が茅病院に転職することを考えているのかもしれない。

 呼び出し音がしばらく続く。
 確かシフトでは夜勤明け部屋に戻って寝ている時間帯で、茜からの電話が目覚ましになると陽美は言っていた。だから、呼び出し音が長く続いてなかなか電話に出ないこともさほど珍しくはない。


『もしもし……』


 小さな声が応答する。
「あ、はるちゃん?寝てた?大丈夫?」
『大丈夫だよ、起きるところだったから。茜くん、元気?』
 眠そうではあるが元気そうだ、と小さく笑みが浮かぶ。
「元気だよ。今日は来栖先輩がお寿司屋さんに連れてってくれたんだ。久しぶりにちゃんとした寿司食べたよ。おいしかった。はるちゃんは仕事とか大変じゃない?うまくいってる?」
『時々面倒な患者さんとかいるけど、先輩ナースの対応見てたらすごいの。はやくあんな風に出来るようになりたいな』


 いつもと同じ、他愛も無い近況報告の会話が続く。

 こんな風に、他愛も無い話をずっと続けていられる日々が、これからも当たり前にあればそれが"幸せ"っていうやつなのかもしれない。


 ミヒトも来栖も、自分のペースだとかタイミングだと言っていたけど、ちゃんと正面から陽美のことを見て、そして抱きしめてやれたらその先にも自然に進めるような気がする。そもそも自分は考えすぎなのだ。たまには考えなしに行動したっていいじゃないか。
 それから、来栖のように今すぐどうこうじゃないけど、これからもこんな風にずっと、一生、一緒にいて欲しいと、そう言おう。そう言ったら陽美は喜んでくれるだろうか。
 驚いて喜んでくれるだろう、泣くかもしれない。電話越しではそんな顔が見られない。だからそれは帰ってから面と向かって言おう。

 他愛も無い話をしながら頭の中で徐々に考えが固まっていくのを感じた。

 


 翌週。
 エアメールが届いた。
 差出人は、仁科陽美。

 通常は2週間に一通のペースで、2週続いての手紙は珍しい。
 荷物を置いてシャワーを浴び、ビールを飲みながら買ってきたハンバーガーを齧る。日本のものに比べて倍近い大きさで、それで十分腹が膨れる。食べ終わって手を拭いてから陽美の手紙を開封し、いつもと同じ薄い便箋の文字を追う。

 文章を読む前に微かな違和感を感じた。
 見慣れた筈の陽美の文字が、時々震えたり行が揺らいだりしている。

 読み終えた瞬間、茜はまず時計を見た。
 午後7時。日本は今、朝の8時ごろの筈だ。シフトがどうあれ部屋にいる確率は高い時間帯だ。茜は小銭を搔き集めて公衆電話に走った。
 指が覚えた数字の羅列を叩く。 
 呼び出し音が続く。
 留守番電話にすら繋がらない。
 何度かけ直しても、呼んでも呼んでも、電話には誰も出なかった。
 一瞬考え、陽美の実家にもかけてみた。
 しかし、実家の電話にも誰も出ない。

 心臓がばくばくと早鐘を打っている。


 一旦部屋に戻り、電話帳を繰る。指が震えてうまくページが捲れない。

 手紙の中に陽美の看護学校時代の友達の名前が書かれていた。一度3人で食事をしたことがある。その時電話番号を書いてもらった筈だ。


 見つけた。
 "立川夕菜"
 この娘だ。一緒に食事した時、陽美とはとても仲が良さそうだった。しっかりしていて、陽美が頼りにしている感じだった。彼女なら手紙に書かれていた詳細についても何か知っているかもしれない。
 特に親しいわけでもない若い女の部屋にこの朝の時間帯に電話をするのは普段なら絶対にしないことだが、そんな事を言っている場合ではなかった。

 呼び出し音。
 3回目で電話は繋がった。繋がったことでまずは自分と世界は隔絶されていたわけではないことを確認できてほっと安堵する。


「立川夕菜さんのお宅ですか」
『…はい』
「朝からすいません、茅茜です。覚えてますか」
『茜くん……?茜くんなの?』


 どきりとした。
 夕菜の声は掠れて憔悴している。寝起きだからという声ではなさそうに聞こえた。


「あの、不躾にごめん。最近はるちゃん……陽美と連絡とってますか?どうしても話したいことがあるんだけど連絡つかなくて」
『………』
「立川さん?」
『茜くん、落ち着いて聞いて』

 はるちゃん、亡くなったの。
 きのう。

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 掌の中に握りしめていた残りの小銭をテーブルの上に投げ出す。テーブルの上には先ほどまで食べていたハンバーガーの残骸と、缶ビールが3本。1本はまだ飲みかけである。
 陽美の手紙は握りしめていたせいでくしゃくしゃになっていた。

 立川夕菜の言葉を反芻するが、いまだに現実味がない。

 陽美は昨日、自殺した。
 歩道橋から車道に向かって身投げし、落ちたところを車に跳ねられ、搬送中に亡くなったのだという。


 陽美からの手紙に書かれていたのは、いつものどうということのない近況報告や世間話ではなかった。

 


 茜くんには黙っていたいと思っていたんだけど、どうしたらいいかわからなくなってしまったので告白します。
 2ヶ月くらい前のことです。
 立川夕菜ちゃん覚えてますか?看護学校で仲良くしてくれた友達です。夕菜の彼氏が茜くんのお兄さんの優さんでした。私はちょっと仕事のことで悩んだりしてたこともあって、優さんが相談に乗ってくれました。それだけのつもりだったのに、茜くんのお兄さんだからって私、隙を見せてしまったんだと思います。優さんにむりやり乱暴されました。
 優さんは夕菜の彼氏だし、夕菜に相談することも出来なくて。
 私の部屋、優さんの病院から近いのは知ってますよね。だからか時々部屋に押しかけてきて、そのたびに関係を迫られました。茜に知られたくないなら秘密にしておけって言われて、私、茜くんにだけはそのことを知られたくなくて、言うことをきくしかなくて。
 でももう本当にどうしたらいいかわからない。このまま優さんの言うなりになるくらいなら、自分から茜くんに言ってしまおうと思ってこれを書いています。


 私、茜くんの彼女だよね?私のこと好きですか?私は茜くんが大好きです。いつか茜くんのお嫁さんになるのが夢でした。でもこんな私のこと、茜くんはもう嫌だよね。
 もう手紙も書きません。楽しかったよ。ありがとう。大好き。もう一度会いたかった。


 先週電話で話した時、陽美はどんな声をしていた?
 何を話したんだっけ?
 もしかしたら陽美が発していたSOSを、聞き逃していたんだろうか?

 夕菜から聞いた陽美の話は、ほとんど茜が知らないことばかりだった。
 陽美は看護学校を卒業したあと務めた病院をとっくに辞めていたこと。寮を出て一人暮らししていたけれど、親にも茜にも病院を辞めたことを言い出せずに、勤務を続けていると装って実家には帰らずにいたこと。
 茜が陽美を抱こうとしないことを陽美はとても気にしていたこと。恋人であるという自信が揺らいでいたこと。
 茜に会えないことを寂しがって泣き暮らしていたこと。
 本人もまだ気づいていなかったかもしれないが陽美は妊娠していたということ。

 なんどもリストカットを繰り返していたこと。

『ごめんなさい、あたし、友達なのに何の力にもなれなかった』

 受話器を通して聴こえてくる夕菜の泣き声も、現実のものには思えなかった。友人として力になれなかったことを謝罪しているようでいて、本当に力になるべき茜が全く何もしてこなかったことを責めているように思える。

 そうだ、俺はいったい何をしてたんだろう。

 朗らかでよく笑う可愛らしい娘。おしゃべりかと思えば恥ずかしがりやですぐ真っ赤になってうつむいていた。何時間も何時間も話し込んでいても話題に困ることもなかったし疲れることもなかった。陽美と一緒にいることは、とても居心地が良かった。茜が陽美について知っているのは実はその程度のことだったのではないか。5年も付き合ってきたのに、陽美のことを何一つ知らず理解もしてこなかったのだ。

 思えば陽美が看護学校を卒業して病院に勤務し始めた頃、茜も実習がどんどん増えて正直に言えば自分のことで精いっぱいのことも多かった。それを言い訳にしていいとは思わないが、半年ほどで病院を辞めるほど悩んでいたことも、勤め先を辞めるなんて大きな生活の変化にも全く気付いていなかった。最近仕事どう?と尋ねた時に出てくるエピソードは、同じ看護学校を出た夕菜や他の友人たちから聞いた愚痴やエピソードらしい。

 茜くんの勉強の邪魔になるようなこと、言いたくないから──と陽美は夕菜に言っていたという。

 寂しい。会いたい。もっと側にいたい。触れたい。触れて欲しい。好きだと、愛しているとちゃんと言って欲しい。
 そんな恋人同士なら当たり前の要求も。
 職場の人間関係になじめずに思い悩んで退職を選んだことも。
 別の男に暴力で脅かされていたことも。
 それらは茜の"勉強"の邪魔になることだと、自分の中に全部飲み込んできたのか。


 そんなことをしていたら、いつか破裂してしまうのは当たり前ではないか。

 

 それに──

 突然自分と陽美の間に割り込んできた血の繋がらない兄・優の存在がさらに混乱を深めた。
 二人いる兄のうち、自分の3歳上の次兄。
 長兄の秀行はすでに医師として茅病院に勤務している。次兄の優は研修医だ。


 父や秀行からはわかりやすく敵対のスタンスを取られているが、優はまだ幼い頃にはごくたまに遊んでもらったような記憶がある。秀行とは違い、優は茜の母になんとか気に入られようとしていたような印象がある。母は実子の茜にさえあまり母親らしい愛情を見せたことはなく、血の繋がらない優に対してはほとんど無視しているような状態だった。その八つ当たりだったのか、優はなにかというと茜にきつく当たるようになっていった。

 まさかさすがに茜への嫌がらせのために陽美を苦しめようとしたわけではないだろう。では、優は夕菜と付き合っていながら陽美に横恋慕でもしたのか。それとも──いや、理由などどうでもいい。どんな理由があったとしても、優が陽美を蹂躙してその結果自殺へ追い詰めたというのが事実なら。

 瞬間的にこれまで沸いたことのないほどの怒りが身体を満たした。
 テーブルの上に残されていたハンバーガーの残骸とビールの空き缶を両手で薙ぎ払う。中身の残っていたビールが床に零れていく。

 だめだ。
 今この状態で日本に帰ったら──俺は優兄さんを殺してしまう。

 生まれて初めて、本物の殺意を覚えた。
 自分の中にそれほど激しい感情があることも知らなかった。


 しかし、初めて生まれた殺意は次の瞬間にはこれまで茜を動かしてきた"理性"に総動員で抑え込まれていた。

 何を偉そうに──
 俺だって、陽美の盾になるどころか、陽美の悩みも痛みもまるで気づくことも出来ずに放置して呑気に留学なんかしているじゃないか。いまさら陽美の仇討ちなどと喚く資格などない。

 どの時点でなら陽美を助けられたんだろう。


 あの時ミヒトの言葉に従って素直に帰っていたら"一般的な段階"に従って陽美に触れることが出来ただろうか?
 卒業旅行に行って陽美を抱いていればその後の関係はもっと違うものになっていただろうか?
 楽しい事だけじゃなく苦しい事や辛い事も共有できるような関係になっていた?
 もっとちゃんと目を見て何度も好きだと言ってやっていれば?
 電話の声や手紙の文字の表面だけを鵜呑みにせずに、もっと繊細に感じ取ってやっていれば?

 この手紙が、あと1日早く手元に届いていれば?

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 斎場の煙突から立ち上る煙を見上げる。
 結局、母の癌は転移が見つかりそこから数ヶ月であっという間に母をあの世へ連れ去ってしまった。

 人はなんてあっけなく死ぬんだろう。

 一瞬の紙一重で生死を分けることもあれば、どれほど最先端の医療を施しても救えない命もある。人の悪意で理不尽に奪われる命もある。自ら手放す命も──。


 助けられる筈の命を取りこぼさないことだけが、医師の出来ることなのだろうか。
 健康な人間を一瞬で死なせることは誰にだって出来るのに、死に瀕した人間を一瞬で健康にすることは神にだって出来ない。しかし生死に関わらない病や怪我でも、当人にとっては人生を左右することもある。命を救う救わないだけが医師の価値ではない。

 母を見送ったこんな時には常に胸の底に沈んでいた迷いがふと浮上する。


 陽美も母も、自分にとって大事だった人たちを救うことは医学にはできなかった。
 そもそも俺はなぜ医者になろうとしていたんだろう。俺はまだ、医学になにか期待しているのだろうか。


 無意識のように、常に身に着けているあの古い写真──祖父から貰った、曾祖父の写真を取り出し見つめる。
 この写真を貰った頃、祖父は尊敬する自分の父親がどれほど立派な医者だったかを繰り返し語っていた。それできっと、当たり前に自分もそういう医者になるのだと思い込んで進んできたのだ。

 写真の人物たちに向かって声にならない呟きをこぼす。

──俺はなんのために医者になるんだろう?
──このまま医者になっていいのかな?
──ひいじいちゃん、幾夜君、冶多郎君。どう思う?


 陽美の死を知った翌日、陽美の両親からも電話でそのことを告げられた。茜に送ってきた手紙以外に遺書は無かったらしく、彼らは自分たちの娘が何に追い詰められて、あるいは何から逃げて自らの命を絶ったのか見当もついていないようだった。


 客観的な事実は、陽美が勤めていた病院を辞めていたこと。手首に多数のリストカット痕が残されていたこと。妊娠初期だったこと。そして誰に加害されたのでもなく自ら歩道橋から飛び降りたこと。それだけだ。


 両親はともにこの現実を突きつけられてもなお、静かに悲しみに沈んでいるだけだった。
 明らかに茜ではない胎児の父が誰なのか、娘が何度も繰り返し手首を切るほど悩んでいた原因は何だったのか。現実の過酷さに打ちのめされているのかこれ以上深い真実を追及したくはないという。


 彼らの思いが本当はどこにあるかはわからない。本当は憤りに満ちていたのに茜を気遣ってあんな風に言っただけなのかもしれないが──

 両親に真実を告げるか否かを茜は迷った。娘が何故死を選んだのか知る権利は彼らにはあるはずだ。陽美の手紙が本当にすべて真実かどうかはわからないが、両親にそれを告げればおそらく彼らは優を告発する。そうすればそれは"客観的な事実"になるだろう。ただそれは十分悲しみの淵にいる彼らをさらに鞭打つことのような気がした。悲しみだけでも負荷は十分なのに、そこに憎しみまで負わせるのは酷なのではないか。
 優をたとえば社会的に抹殺するまで、あるいは実際に命を奪うところまで追及して追い詰めたとしても、それで陽美を失った悲しみが癒えるわけでも陽美が戻ってくるわけでもない。

 復讐して戻ってくるなら、自分も迷わずそうしていただろうけれど。

 結局、茜は陽美の両親には自分宛に"遺書"が届いたことを話すことが出来なかった。
 優を追及したり告発したりするとしたら、それはあの遺書を受け取った自分の役目なのだろうから。
 しかしあの手紙を書いた陽美は、茜が優を罰することを望んでいたのだろうか?
 ここへ至ってもまだ、自分は陽美が本当は何を望んでいたのかを推し量ることすら出来ないのか──

 


 あれから3年も経ってしまった。医師免許を取得後、茜はそのまま大学病院で研修医として勤めている。
 研修医となってからは勤めている大学病院のすぐ近くのマンションを借りて一人暮らしを始めた。同じく研修医時代から茅病院のすぐ近くで一人暮らしを始め、その後もそれを続けている優とは結局陽美の一件以降一度も会ってはいない。


 だから──
 母の葬儀の時、数年ぶりに顔を合わせることになった。

 俺は優兄さんの顔を見て平静でいられるだろうか。

 優は茜の顔をちらりと見ると少し眉を顰めて目を逸らした。


 優は知らないのだろう。
 陽美の遺書、優が陽美にしたことが書かれた手紙を茜が受け取っていることを。
 いや、優にとってはもう過去の話になっているのかもしれない。自分が陽美に対してどんな仕打ちをして、それがどういう結果になったかということも。
 陽美を死に追い詰めたのが自分だということも。
 過去の、忘れかけたさほど重要ではない出来事の一つに過ぎないのかも──

 優の前に行って、胸倉でも掴んで、俺は何もかも知っているぞ、とこの場で全てを暴露してやろうかという衝動が湧き上がる。それに呼応してか手が痺れたように小刻みに震えている。
 しかしやはりそれも"理性"が総動員で抑え込んだ。
 なにより、ここは母の葬儀の席だ。
 たとえこちらに理があったとしても、やっていいことと悪いことはある。その区別くらい出来る。

 斎場には兄たちは来なかった。さすがに故人の夫として父だけは来た。思えば祖父と父が揃っているところなど、滅多に──父が院長になってからは特に──見たこともなく、酷く見慣れない違和感のある光景に感じる。
 本当なら二人は互いに言いたいことや言うべきことがあっただろう。
 しかし結局一言も言葉を交わすことなく、別々の車に乗って帰っていった。
 遺骨も位牌も、祖父が持ち帰り──

 ああ、これでもう自分の居場所は完全に家から無くなったのだ。

 と、茜は思った。

 


 母の遺品を整理していると、一冊の写真集が出てきた。
 発行はもう十年ほど前だ。


 戦時下のベトナムで、ただ鳥と動物と子供だけを撮った写真集。
 カメラマンの名前を見ると、『水原茜』とあった。

──そうか。

 母がずっと恋い慕っていた恋人。それがこの水原茜という写真家なのか。自分の名は実の父の名から取られたのだ。
 写真集の発行者は『長部一之』となっている。
 これは手がかりになるかもしれない。探してみようか。


 茜が生まれる前に母と別れさせられていた父親。もしかしたら自分の息子が生まれてこうして生きていることさえ知らないかもしれない。ベトナム戦争に写真を撮りに行っていたのか。日本に帰ってきているのか。そもそもまだ生きているのか。

 生まれ育った家からも完全に居場所が無くなり、
 これから共に家庭という居場所を作ろうと漠然とでも思っていた相手もすでに亡い。
 今はまだ、次のそういう相手を探そうという気にもならない。
 職場でのポストなんて、単なる役割だ。居場所というものではない。

 俺はもう、居場所も帰る場所もない浮草のように生きていくことになるのだろうか。

 実の父親を見つけたからといって、自分の居場所が見つかるわけではないだろう。
 それでも、自分のルーツを辿っていれば何かを見つけることが出来るかもしれない。

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*Note*

(2)は医大生になった茜ちゃんと陽美ちゃんの話です。

​先に優兄さん視点のこの話「恋愛嫌い」を公開していたんですが、先に「恋愛嫌い」を読んでいたらはるちゃんの手紙のくだりはまあまあなサイコホラーじゃないかと思うよ…。もしはるちゃんが病んでなかったらぐだぐだしつつも茜ちゃんははるちゃんと結婚してそれなりに幸せに生涯普通の勤務医として生きて椎多と出会うことはなかったんだろうな。

はるちゃん事件は茜ちゃんと優兄さんの確執を描く時にどっから思いついたんだか覚えてないんだけど突然出てきたもんで、ちょっと周りから浮いてるエピソードだったんですよね。浮いてるエピソードを放置するのが気持ち悪くて、実際は何がどう起こっていたのかを書いたのが「恋愛嫌い」で、その時茜ちゃんは本当はどんな感情だったのかを書いたのが今回のこれです。はるちゃんに対してはっきりとした強い愛情を持っていたわけではないけど、ちゃんと悲しんで怒っていたので書いててちょっとほっとしました(自分で書いてるのに…?)

 同時進行でお母さん(雛子さん)にもちょいと触れています。癌になりやすい体質の家系ってありますよね…うちの母方とかそうなんですが(母方の近い親戚、亡くなった人は全員癌。母は癌サバイバー)

ちなみにアメリカの研究所の来栖先輩はここだけの登場なのになぜかまあまあ詳しく設定してしまったwまあこの人を書くことは無いと思いますが。

​それにしてもセンカさんたら、相変わらず医学のことも医大のことも病院のこともアメリカの大学のことも全く何一つ知らないくせに見てきたようにさらっと嘘書きますね…いいんです……これ異世界の話なんで……。

 

​茜ちゃんのライフワーク(?)のひとつだった水原茜探しが始まります。

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