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Sin.co   The Name of the bar is;

手 紙 -1-
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 幼い指が差し出した封筒を受け取る。
 封はきちんと糊付けしてある。


 表書きの宛名は『谷重宏行様』。

「……手紙ってのは嫌いなんだけどな」

 小さく呟きながら、谷重は少年の頭を撫でた。

「手紙」と呼べるものを受取ったのは、仕事の連絡に使うものを除けば生涯でまだ三度目だ。
 前の二通はもう、手元には残っていない。
 文書は残すものではなく、用が済めば処分するべきものだ。
 けれどそのどちらとも、一言一句、筆跡まで鮮やかに瞼の裏に思い出すことができる。

 

 だから、手紙は嫌いなのだ。

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 譲が初めて店に来た時のことは、正直言ってはっきりとは覚えていない。
 ただ、次の日もまた次の日もそのまた次の日も、結局1週間ぶっ続けで来たものだから何か他に目的でもあるのかといぶかしんだ位である。
 ぼったくっているわけではないが、国産はまだしも輸入ウイスキーとなれば値段はそう安くすることもできず、そこいらの若い連中がそう毎日通える店ではないと思う。しかし譲はツケにするでもなくきちんと毎度現金で飲み代を支払ってゆくのでいい客といえばいい客だとは思う。
 もしかしたら金持ちのぼんぼんなのか、若いがよほどいい稼ぎの仕事をしているのかもしれない。
「お客さん、お名前だけ聞いていいですか」
 尋ねると、譲、とだけ答えた。
「ええと、ごんべんのユズル?譲渡の譲だ?ジョーね」
 谷重は人の名前を聞いておいてその通りに呼ばないことも多い。自分が呼びやすいように勝手に呼び替えてしまう。しかしそう言うと譲はわかりやすく顔を曇らせた。
「ジョーはかんべんしてよ」
「あれ、ダメ?そりゃあ申し訳ない。ユズルさんね」
 内心ジョーの方が断然呼びやすいのに…と思ったが、嫌がる呼び方をわざわざするのは本意ではない。

 譲はいつも一人で来店して一人で静かに飲んで帰るのが常だが、他の常連客に話し掛けられれば普通に談笑しているし付き合いが悪いわけでもなく友達がいないわけでもなさそうに見えた。すらりと背が高く、痩せて色白で、二枚目だが映画スタアのようだと言うには優男すぎるかもしれない。谷重よりは若そうだが、そう子供でもない。飲んでいても悪い酔い方もしない。


 そんなに「優等生」すぎては逆に親しみがわかないのじゃないか、と思った。

 

 それはもう随分深夜になって、店に残っている客が譲だけになった日のことだ。
 木の扉を重そうに開けて入ってきたのは派手な化粧をした小柄な女だった。
 女はカウンターの中の谷繁の姿を認めると、満面の笑みを浮かべた。明らかに酔っている。
「お兄ちゃん!お酒ちょうだい!」
「チエミ──」
 チエミと呼ばれた娘はおぼつかない千鳥足でカウンターに近寄ると譲の隣に座った。そして戸惑っている譲の顔をまじまじと無遠慮に見つめ──
「わぁ、素敵なひと。お兄ちゃん、こちらのひと、紹介してよ」
 谷重はうんざりと溜息をつくと、手元にあった新聞紙を丸めてチエミの頭をぽこりとぶった。
「オレの店で男ひっかけようとすんなバカ。ガキのくせにいっちょまえの女ぶりやがって。おまえが来ると店が女臭くなっていけねえ──譲、悪いな。なんならもうチェックするから」
「お兄ちゃんのいじわる!お金は払うわよ!お酒出してよ!」
「いい加減にしろ。つまみだすぞ」
 谷重はカウンターを出てチエミを背後から軽々と抱え上げると、店の外でなく奥のボックス席のソファに連れてゆき、そこで下ろす。
「寝てろ、酔っ払い女」
 一瞬何事か意味不明の言葉を発したが、チエミは今の今までがあがあと騒がしかったのが嘘のようにそのまま寝息を立て始めた。

 譲はその一連の出来事を呆気にとられて眺めていた。

「すまんな。ああなったら当分起きてこねえから気にしないでくれ」
「驚いたなあ、シゲさんの妹さん?」
「違う違う。あんな放蕩娘が妹だったら気苦労が絶えなくて大変だ」
 カウンターに戻ると肩をすくめてコップ一杯の水を呷る。
「じゃあシゲさんの彼女とか?」
「冗談も休み休み言ってくれ」
 失笑に似た笑いを落としながら、寝息を立てるチエミに視線を投げる。それにつられるように譲もそちらを見た。
「可愛いじゃない、彼女」
「可愛いもんか。悪いことは言わねえ、あんなあばずれ女と関わったらえらい目にあうぞ」
 ふうん、と曖昧な相槌をうちながら譲は何度かチエミを見ると座り直して手元のグラスを手で弄んでいる。あれが可愛いのかねえ──と不思議に思う。女に興味のない谷重はそれがどうもよく理解できない。
 譲の方がよっぽど可愛いのにな、と思ったがそれはさすがに口にはしなかった。

 閉店時間になって譲が──まだ起きてこないチエミを何気なく気にしながら──帰って行った頃、チエミはようやく酔いが収まったのか、くしくしと目をこすりながら身を起こしてきた。目をこするものだから化粧が汚く拡がる。
 熱い湯に浸したおしぼりを手渡して顔を拭くよう促すと、谷重は呆れ顔で溜息をついた。
「譲がおまえは可愛いってさ。あんまり堅気の若いのを惑わすなよ」
「……ごめん、お兄ちゃん」
「ごめんじゃねえよ」
 すっかり神妙になって顔をごしごし拭くと、まだあどけない少女のような顔が化粧の下から現れる。
「そんなに酒やら男に弱くちゃ信用して仕事の話もできねえよ。今からでも遅くない。洋裁でも習いに行って、まっとうな仕事に就いて、それから譲みたいな堅気の男をつかまえて、嫁に行って、ガキでもぽこぽこ生んで、口うるさいババアになって、そういう人生の方がおまえは似合ってるよ。ヤエコはあの男好きが祟っていまだにフラフラしてるらしいがな」
「だってヤエコ姐さんはお兄ちゃんが好きだったのよ!」

 チエミは涙を浮かべて口を尖らせた。
 なるほど普通の男ならこういう女の表情にぐらっときたりするんだろうな、と思った。
 どうも女の扱いは苦手だ。
 
 何が本業か、と言われれば──
 谷重の『本業』とは所謂『殺し屋』である。業界では一流の狙撃手”悔谷雄日”という名で知られているが、それがこのバーのマスターであることは当然ながら知られていない。

 谷重がこの土地で殺しの仕事を始めた頃、クラシックに『元締』と呼ばれていたエージェントは戦災孤児などを何人も集めて仕事の手伝いをさせていたらしい。チエミもヤエコもそんな戦災孤児だった。
 ヤエコはまだローティーンの頃から米兵を相手に所謂パンパンガールの真似事をしながら、谷重との連絡役を務めていた。どこでどう失敗したのか妊娠したのをきっかけに売春婦も殺しの連絡係からも足を洗い、飲み屋などをやりながら一人で子供を産んで育てているという。チエミはその後任である。
 元締が連絡係にヤエコだのチエミだのいう若く美しい娘どもをよこしてくる理由は谷重にはわかっていた。これらの娘なら、谷重と深い仲になる心配がないからだ。この組織の元締はどうもそういった事にはうるさいらしい。
 谷重としては『前科』があるので、異議を唱え難い。
 以前連絡係だった男と関係を持っていたことがばれて、相手の男が処分されてしまったことがあるのだ。
 仮に谷重がヤエコの気持ちに応えることのできる「普通の男」だったとしても、深い仲になってしまったら元締から同じようなペナルティをくらうことはわかっている。どうころんでもヤエコの想いがかなうことはなかったのだ。


 そう諭してみたところで、チエミはどうも納得がいかない様子である。
 要するにまだ子供なのだと谷重は思った。

──ガキでも女は女だ。扱いづらい。

 チエミくらいの役割なら、どうせ組織の重要な情報など握らされてもいないし酒には弱いが基本的には真面目な娘である。足を洗わせてやっても秘密は守ったまま墓場へ持っていくだろう。どうにもこの娘にはこんな血生臭い世界の仕事はそぐわない気がする。
 そんなわけで以前から元締宛てに何度もその打診をしているのが今のところ梨の礫である。

 酔いの覚めたチエミを店から追い出すと、ようやく人心地ついたように谷重は一旦ソファに深く沈みこんだ。

──可愛いじゃない、彼女。

 譲の顔がふと脳裡に浮かんだ。
 ああ、さっきは成行きで口に出したが、確かにチエミは譲のような堅気の若者と一緒になった方がいいのかもしれない──
 

 そう考えながら店の片付けもせずに谷重はうつらうつらと浅い眠りに落ちた。

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 元締が谷重からの進言を受け入れたのかどうか、チエミが谷重の連絡係を外されたのはそれから何ヶ月も経たないうちのことだった。足を洗わせてもらえたのか、深い仲になるならないは別としてチエミが妙に谷重になついているのを良く思わず配置転換したのかはわからない。

「──て、そんな状況だけど、おまえがここに出入りするのは平気なのか?BJ」
 狭いベッドから足がはみ出しそうな状態の黒人の腹の上に、椅子に腰掛けるようにどっかりと座ると谷重はグラスの水を呷った。分厚い腹は、谷重が座ってもびくともしない。
「俺は組織の人間じゃないもん。そっちのボスにあれこれ言われる筋合いはないよ」
「そりゃそうだけど、あんまり調子に乗って消されんなよ」
 BJと呼ばれた黒人は谷重の脚を掌で撫でながら人懐こそうな笑顔を見せる。


 簡単に言ってしまえば、BJは『武器屋』である。主に弾薬や銃を調達してきては提供する。元締は基本的に外国人嫌いでBJの介入は良く思っていないから組織としては取引しないのだ、とヤエコから聞いたことはあるが、他のルートよりも上質の品を持ってくるのでシゲがBJを利用することを黙認しているといったところだろう。


「──正直、俺もそろそろあの組織は抜けて独立したいと思ってるんだけどな。仕事が安定してるから楽といえば楽なんだが」
「”悔谷雄日”の名前だけは業界でけっこう有名になってるからね、その腕を欲しがってる組織やエージェントはいっぱいいるよ。いくらでも高く売れると思うけど」
 殺し屋に名前など必要ないと思うのだが、戯れに名乗った名前が一人歩きしているらしい。
「ま、日本人らしく言えば『義理』があるっていうのかな、後足で砂をかけるようなわけにもいかねえよ」
「ブシドーだね」
 BJは面白そうにくすくす笑っている。
「金もらって人殺しをしてんのに武士道もなんもあったもんじゃないさ」

 BJの腹に座ったまま、煙草に火を点け、深く吸い込んだ。

 

「そういえば、今日さ」

 谷重バーの客の90%はほぼ常連客で構成されている。しかし、たまにはたちの悪い客が紛れ込むのも水商売の宿命である。
 この日は3人連れのそう若くもない連中だった。
 その連中は散々何杯もの輸入もののウイスキーを飲み散らかした挙句、いざ帰ろうかという段になって大声を出し始めた。

「おい、ところで知ってるか?このマスター、昔は男の癖に進駐軍相手に身体売ってたってよ」
「本当かよ、気色悪ぃなあ」
「うえぇ、そんなカマの入れた酒飲んでたのかよ。ヘンな病気でもうつされやしねえかぁ?」

 3人は揃って下品に馬鹿笑いしている。
 他に客は譲を含めてあと4名ほど。
 谷重はカウンターの中で表情を変えず──普段通りににこやかな顔のままで──いたが、カウンターに座っていた譲ががたんと立ち上がるのを見て少々慌てた。
「おい───」
 今にも酔っ払いたちに掴みかかりそうな勢いの譲を咄嗟に腕で制止し、目で座るように促す。そして、3人のもとへ歩を進めた。
「そんなに気色悪いなら今日のお代はけっこう。どうせそれが目的でしょ?でもね──」
 頬を笑わせたまま──
「今度ここに顔を見せてみな、店に入れないだけじゃ済まないぜ」
 3人の酔っ払いのうちの一人が、突然怯えたようにあとの二人を引っ張って転がるように店の外へ出ていった。


 本能的に、『殺し屋』の殺気を含んだ視線の恐ろしさを感じたのだろう。

 谷重はやれやれ、と入口のドアを閉めると、くるりと店内を振り返って笑った。
「悪い悪い、気分直しに一杯ずつ奢るよ」
 残りの客はこういう事態には何度か遭遇している。たいして気にも留めていないし、酒を1杯得したとくらいにしか思っていないだろう。


──カウンターの譲を除いては。


「いつまでそんな顔をしてんだ。気にすんな。おまえは何にする?おかわりでいいか?」
「あんなこと好きに言わせておくなんて……」
 苦笑してそれには返事をせず、それぞれの客に酒を振舞うと最後に譲の前に酒を置いた。
「馬鹿だな、おまえが怒ることじゃねえだろ」
「あんなのただのたかりじゃないか!もっと怒っていいよシゲさん──何?」
 どうやら少々ぽかんとした顔で譲の顔を見ていたらしい。
「いや、なんか新鮮だなぁと思ってさ」

 他人が誹謗されたからといって我が身のことのように怒るような人間は今まで周囲にはいなかった。

「あいつらはただの想像かでっち上げか噂かを言っただけだろうが、まあ……実際近いもんはあるしな。あれこれ言われてもしょうがねえよ」
「本当なら尚更酷いじゃないか。昔の話だろ?」

 怒っているだけではなく、まるで自分が痛めつけられたような悲しそうな顔で譲は訴えた。
 なんだか頬が緩む。これは面白い。

 谷重は自分の来し方をさほど幸福ではないにせよ、とりたてて不幸だとは感じずに生きてきた。客観的には異常で不幸に見えるかもしれないとは思うが、そのことで他人に同情されたり憐れまれる筋合いはない。

 譲の怒りは同情でも憐れみでもないように思えた。

 譲はただ幸せに生きてきた部類の人間だと思っていたが、もしかしたら何か大きな痛みを抱えているのかもしれない。あの怒りは、自分の痛みに触れたものに近い。

 だとしても、他人のために怒ることの出来る譲はきっと太陽の下を前を向いて歩いて行ける人間なのだ。

「俺はどうやったって今更お天道様の下は歩けない人間だからさ、ああいうのは眩しくて目が潰れそうだ」

 譲の泣きそうな顔を思い浮かべて谷重は笑った。
「ユキ、楽しそうだね」
「楽しそう?そうか?」
「最近そのユズルって客の話ばっかりしてる」
 そうかな?と首を傾げる。言われてみれば確かに店に来る客のエピソードを他で話すなど、さほどあることではない。というより、店の外に出れば常連客の顔や出来事など忘れているのが常だ。

 BJとこうして素っ裸で縺れたり絡んだりしている部屋で譲のことを思い出している自分に気づくと急に後ろめたいようないたたまれない気分になった。それを誤魔化すように笑う。
「なんだ、嫉いてるのか?」
 煙草を消すと椅子のように腰掛けていたBJの腹の上に馬乗りになり、身体を折って愛嬌のある丸い鼻先に軽く接吻けた。


「あいつは俺やおまえとは世界が違うから、面白い、新鮮だって言ってんだろ」
「でも、ユキが人のことをそんな風に話すの、初めて聞いた」


 BJの太い指が少し焦らすように谷重の脚の付け根あたりを這い回る。それに時折反応して小さく息を吐いた。すでに待ちかねているBJの上に深く沈ませ、自ら動き始める。それでも──

 頭の片隅にあの譲の顔と声がこびりついて離れなかった。

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 雨が続いている。
 これで5日目だろうか。
 傘をぐるんと回すと思いのほか水滴が遠くへ飛んだので慌てて周囲を見回した。幸い、他人に迷惑はかけていないらしい。
 天候は鬱陶しいが買い物しないわけにもいかない。しかし雨の日は本当に外出が億劫だと思う。

 この長雨が始まる前──もう一週間にもなるだろうか。
 三日と空けずに店に来ていた譲がぴたりと顔を見せなくなった。
 そんなことはこの商売をしていれば珍しいことではない。来なくなる理由を店に説明する義務は客には無いのだ。


──つまんねえな。


 何が、というわけではない。
 別に、譲は店に来ても大抵はおとなしく静かに飲んで帰るだけなのだ。
 こういう時は、仕事が忙しい、女が出来た、急に引っ越した、他に気に入った店が出来た……というあたりの理由が相場だろう。

 ぽりぽりと頬の笑窪のあたりを指で掻くと、谷重は苦笑まじりに溜息をついた。


──何を一生懸命譲が来なくなった理由を考えているんだろう。馬鹿馬鹿しい。


 傘をくるくると回しながら店への帰路を歩いた。

 この道中に、小さな教会がある。
 普段は人がいるのかいないのかひっそりしていて、時折日曜の朝に通りかかると一応礼拝のようなことはやっているらしいのがわかる程度である。
 しかし、いつもと様子が違う。
 教会の扉が開いていて、西洋風の棺が運び出されてきたところである。
 葬式だ。
 ただ、それに携わる人間はひどく少ないように見えた。
 牧師と、棺を運んでいる数名の男──これは態度が事務的なので葬儀屋か何かかもしれない──と、そして遺影を抱えた喪服の男が一人。
 それだけである。
 葬儀にしては随分と寂しいものだ。

 谷重はその光景から目を逸らせずにいた。
 遺影を抱えて俯きがちに佇んでいる喪服の男は──譲だったのである。

 譲が霊柩車に乗せられてその車が見えなくなるまで、谷重はそれを見送っていた。

 親族だか何だか知らないが、譲が店に来なくなっていた理由はおそらくあれだ。ということはまだ当分来ることはあるまい。いや、場合によってはもう二度と来ないかもしれない……
 そんなことを考えながら店を開ける。
 雨が続いているせいか、客の出足が悪いと見える。
 開店してから二時間ほどは誰も来なかった。


──ああ、つまんねえ。


 店の奥にしつらえた安物のアップライトピアノの蓋を開け、指を落とす。
 こんな日に限って、BJも来ない。
 何曲か弾きちらかして、ふう、と溜息をつくと谷重は店の扉へ向かった。
 こういう日はどうせたいした客足ではない。ならばもう閉めてしまって、一人で飲もう。
 扉を開けるとぎょっとした。
 店の前に、傘を差して佇んでいる人影があった。
 本能的に扉を盾に身を避けたが──それは、譲だった。


「──なんだ、びっくりさせんなよ」
「もう、店じまい?」
 顔に疲れが浮かんでいる。しかし表情は微笑んでいた。
「いや、あんまり誰も来ないからと思ってな。入れよ。傘差してるくせにずぶ濡れだな」
 中に招き入れて熱いおしぼりを渡す。あの喪服の青年が譲だったなら、こんな所に飲みに来ていていいのか、と思った。
「弾いてたの?なんか聴かせてよ」
 ピアノの蓋が開いたままになっていたことに気付いたのか、譲はグラスを持ってピアノの前のボックス席のソファに座った。谷重は少し考え、看板の電気を落として扉の鍵を下ろした。今日は貸切にしてやろう。
 自分の分も酒を注ぎ、それをピアノの上に置いて弾き始める。

 ソファに身を沈めて聴いている譲を、振り返らずに鍵盤を叩き続けた。

 

「──シゲさんさ、最初に俺のこと、ジョーって呼んだじゃない」

 独り言のような声が聞こえた。

「本当は……俺、ジョーっていうのが本当の名前なんだよ」

 

 静かな曲に切り替えて、聴いていないふりをして聞く。

「俺の両親は、どっちも日系二世のアメリカ人なんだ。父はハーフで母は両親とも日本人でね。戦争になって収容所に入れられた時に、父は合衆国への忠誠を選んで徴兵に応じたら残された俺たち母子は日系人の中でも孤立して」

 指を止めた。

 

「俺も母もアメリカ生まれでアメリカ国籍だったけど、収容所に入れられる前も日系人だってだけで周りから苛められたし収容所も酷かったし、母は国籍放棄をしてまあなんとか僕を連れて日本に帰ってきた。でも来たら来たで俺にとっても母にとってもここは外国だった。当たり前だよね、ルーツはあっても初めて来たんだもの。」

 

 振り返って座り直す。

 

「母の両親の親族を探してもみたけど、空襲で跡形もなかったみたいで、俺たちは見知らぬ外国で頼る人もなく生活していくしかなくなった。でもどうしても馴染めなくて……どこにも居場所がない気がずっとしてた」

 譲がグラスの底に残った酒の滴を絞るように飲み干す。

 

「不思議なんだ。初めてこの店に来た時、すごく落ち着いて……居心地がよくて……シゲさんが『いらっしゃい』って言ってくれたら、ここにいていいんだって思えた」
「───」
「でも、俺がひとりで居場所を見つけた気になって浮かれてる間に、ママはどんどん孤独になって……」

 グラスを置き、両手で顔を覆って声を絞り出す。声が震えていた。

「ママは俺に具合が悪かったのをずっと黙ってて、俺も気付いてやれなくて……ひとりぼっちで逝かせてしまった……」

 あの葬式は、譲の母親のものだったのだ。
 小さく蹲るように身を縮める譲の頭をそっと撫でる。

──ルーツはあっても初めて来たんだもの。

 譲と自分に共通点などひとつもないと思っていた。

​ 譲が母親と身を小さく寄せ合いながら感じていた孤独を、谷重は知っている。

 譲の横に腰を下ろし、嗚咽を漏らすその頭を抱き寄せた。
 胸のどこかでふつふつと何かが沸き立っている。
「………『ジョー』」
 譲が微かに顔を上げた。その耳に頬擦りするように腕に力をこめて抱きしめる。


「おまえは、ここにいていい」
 

 指の先まで熱を持っているように身体が熱い。ゆっくりと腕をほどくと両手で譲の顔を包み額に額を当てて目を閉じた。

「おまえにキスしたい」

 英語で小さく呟くと譲が一旦目を開いてまばたきをした気配がする。そのまま目を閉じたのを感じると谷重はこれまでで一番遠慮がちに──譲の唇に触れた。

 何度か小さく啄むうち、譲が少し口を開く。乱れ始めた息ごとそれを吸い込む。貪りながら手を譲の下腹部に伸ばすと一瞬息を飲んだのも伝わってきた。

 

 愛おしい、というのはこういう感情なのだろうか。

 

「おまえが嫌でなければ──抱いてほしい」

 繰り返すキスの合間に呟く。

 誰かと寝る時にそんな野暮なことを聞くやつがあるか。

 いつもの自分ならそう馬鹿にするだろうに。

 

 譲は小さく、いいの?と答えた。

 譲が母親と暮らしていた部屋をひきはらって谷重のもとに転がり込んだのはそれから数日も経たないうちのことである。

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「これお土産」
 平日の深夜、そろそろ客足が途絶えて自分だけが残ったのを見てとると、BJは足元に置いた紙袋からスコッチの箱を3箱出してカウンターの上に並べた。
 それを下ろす谷重の動作を頬杖をついて見つめている。


「やっぱりね。そうなると思ってたんだ」
「何がだよ」
「何でもない」


 目の前に置かれたテネシーウイスキーのオンザロックを指で揺らす。
 

「当分俺は二階に上げてもらえないってことだよね」
「ま、そういうことだ。悪いな」
 にやりと笑って見せると、BJは指で銃の形を作って谷重を撃つふりをした。笑っている。

「愛してるの?」
「うるせえ」
「照れなくていいよ」

 他人を──それも素人を、自分の領域に入れるということが今まで無かった。BJは所詮共犯者で、取引相手で、ついでにセックスフレンドだ。それ以上でもそれ以下でもない。

 他の何のメリットもないのに、いや、むしろリスクしかないのに。

 ただ譲のために居場所を与えてやりたい──その理由だけで、谷重は譲を自分の部屋に住まわせている。
 自分の行動原理にはまったくそぐわないということは自覚しているし、BJにそんな風に指摘されるとばつが悪いことこの上ない。
 BJは大きく息を吐きながら、伸びをして再び頬杖をついた。

「ユキは一生大佐のことだけ愛してくのかと思ってた」

 ちくりと針が刺さったような顔をして谷重は煙草に火をつける。
「あれは……そういうんじゃねえよ。そういう種類のもんじゃ」
 顔は微笑んでいる。
「でも、大佐はユキのこと……」
「ブライアン・ジュード・バワーズ」

 声を遮り、煙草の灰を落とす。小さく首を横に振って笑った。


「俺は『悔谷雄日』だよ。これからどんなことがあっても、俺は、リグレットバレイ──”後悔の谷”、だ。そういうことさ」


 BJは寂しそうな、嬉しそうな複雑な顔で微笑んでいる。

「ユキが幸せになってくれるのは良いことだけど、大丈夫なの仕事の方は」
 今まで穏やかに微笑んでいた顔を一瞬引き締める。
 

 BJの懸念はわからなくもない。ただでさえうるさい元締だ。素人を身内に入れるような真似を好むわけがない。どこから足がつくかわかったものではないのだ。
「まだ俺を飼っておく気なら譲を殺すとこまではしないだろ。もしやつらが譲に手出ししたら俺がどうするか位わかるだろうしな」
 自分を安心させるように言う。

 俺はいつでもユキの味方だからね、と言い残してBJは帰っていった。

 谷重が進駐軍のクラブでピアノを弾いていた時から、BJは近くでなにかと谷重を気にかけてくれていた。日本での谷重を全て知っていると言ってもいい。おそらくBJは谷重を愛している。
 しかし、それに気付かないふりをしてきた。
 BJのことは信頼しているし、失いたくない友人だと思う。しかしそれは愛だとは思えない。それも承知の上でBJはただ一方的に谷重に奉仕してくれていると言っていい。
 BJの好意に甘えて胡座をかいて、ただ踏みにじっているのだ。

──卑怯者め。

 自分自身をそう詰る。
 それでも、たとえ愛ではなくても、BJが今までも谷重の一番近くにいてこれからも一番近くにいる人間だと思っていた。


 譲とこうなるまでは。

 谷重と暮らすようになってから、譲は表情豊かになった。
 笑う。
 怒る。
 拗ねる。
 いつかはBJだけが谷重のことを『ユキ』と呼ぶのに嫉妬したのか、自分も『ユキ』と呼ばせて欲しいなどと言い出した。


 聞かん気の少年のように。

 これまで、『優等生』を演じていたのだろう。
 『居場所』を見つけた譲は『優等生』を演ずる必要が無くなった。そんな譲の些細な変化を、愛しいと思う自分がいる。

 それでも──否、だからこそ、自分は譲に明かせない秘密ばかりで固められた人間だということを思い知らされた。
 こんな虚飾の人間である自分が、堅気の譲といつまでもこうしていられるとは思えなかった。きっと、長く続くものではない。

 いつか、譲は自分の元から離れてゆくのだろう──

 それはシゲが思っていたよりずっと早く訪れた。

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*note*

本編「聖夜」の章のラスト「マサル」で触れた、『シゲ爺の昔の大恋愛』の話です。

最初、譲のキャラが若干ウザくて(自分で書いてるくせに…)ちょっと英二みあるなこいつ、と思ったんだけどアレか?シゲさんが妙に英二を気にしてたのはちょっと譲に似てたからなのか???(違う)(多分)あ、でも譲は英二よりぜんぜん誠実な男だと思います。一般人なだけです。書けば書くほどBJが不憫です。多分BJは初対面の日からユキにぞっこんなので(次の「犬」という話に出てきます)肉体関係はあっても気持ちは友達以上とは思ってもらえないってそれはそれでつらいね…。

 太平洋戦争の時の日系人強制収容についてもざっとしか調べてないのであんまり厳しく追及しないで下さい。似たような出来事があってもこれ、異世界の話なんで!!!​

​ 3編に渡るちょっとした長編なんで、続きをどうぞお楽しみください。それではまたのちほどお会いしましょう。サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ。

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