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Sin.co   The Name of the bar is;

手 紙 -2-
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 かなり短く刈った髪に眼鏡。白いブラウスに黒いブレザーとすらっとしたズボン。色白で鼻筋の通った美しい容貌だが、化粧気はまるでない。どう見てもお堅い職業婦人か、教師である。
 ツチヤはチエミの後任の連絡係で、今度はヤエコやチエミのような一見ふらふらした派手な女ではなく冗談も通じなそうな無愛想な女をよこしてきた。殊更女であることを強調するのが嫌らしく、呼び名も所謂『姓』のような名前になっている。あらゆる面でチエミとは正反対だ。
 ちょうど客の出足の少ない時間帯をきちんと調査してあるのだろう、大抵は客のいない時に店に現れて、仕事を済ませると水だけ飲んで帰る。他に客のいる時に遭遇してしまった時に限り、薄い水割りを一杯だけ飲んだ。


「なんですって?おっしゃる意味がわかりません」
 ツチヤはあからさまに不快感を貌に乗せてじろりと谷重を睨んだ。
「とぼけるな。譲をどこへ隠した」

 譲が黙って姿を消した。3日前のことである。

 思い当たる箇所はすべて当たってみたが、職場にも顔を出していないらしい。


 消えてしまった。

 

「確かに元締はあなたが堅気の人間と同居しているという点は感心しないとお考えです。でも、だからといって彼に危害を加えてあなたを怒らせるということが無益だということも承知されています。むしろ仮に彼があなたの仕事を承知して協力してくれるというのなら、黙認してもいいとまで仰っているのですよ。私は今日そのことを伝えに来たのです。それを、こちらの指示で彼に危害を加えたなどと言われては心外です」

 つうんとすまして表情も変えずにツチヤはそれだけまくし立てた。

 そう言われては、返す言葉がない。
 仕事や身内の不始末に対する処分は厳しいが、その一方で状況に応じて恩情ともとれる采配を振るうこともある元締である。そこまで筋の通らないことはしないだろう。
「なら、譲を探すのを手伝ってくれないか」
「甘えるのもいい加減になさって下さい。それに我々の組織は探偵屋ではないのですよ」
 にべもない。
 それを頼むのもおかしな話だとはわかってはいるものの、とりあえず言うだけ言ってみたのだが。
「……この、ガチガチ女」
 腹立ち紛れに毒づくと、ツチヤは律儀にもそれにまで返事をした。
「生物学的にやむを得ない場合は別ですが、なんにでもそうやって性別という属性で人間を区別するのはやめていただけませんか?私は女という属性を利用して仕事しているわけではありません」
「ああ、そりゃ悪うございましたね」
 こんなものに付き合っていられない。不満げなツチヤを追い出すと谷重は苛々と扉の鍵を下ろした。


 暢気に店を営業する気にはならなかった。

 どこをどう探せというのか。

 そもそも、譲が自分の意思で姿を消したのか、それとも誰かに拉致されているのか、事故にでも遭ったのか──それすらわからないのだ。
 病院も一通り当たってみたがそれらしい患者は見当たらない。母親と暮らしていた部屋もとうに引き払っているし職場にも音信がないとすれば、仮に自分の意思だとしても谷重の元を出て譲が行きそうな場所など思いつかない。
 元締がツチヤの言葉通り関与していないとすれば、別の組織の人間が『悔谷雄日』の腕欲しさに譲を人質にとったとは考えられないだろうか?しかしそれならば姿を消して3日も経つのに誰からも何のコンタクトもないというのは不自然だろう。
 それとも、突然なにか思い立ってぶらり一人旅にでも出たというのか?誰にも何も告げずに?否、もともとそういう癖のある人間ならともかく、譲はそういうタイプじゃない。黙って戻らなければ谷重が心配することくらいの気遣いは出来るはずだ。まして、職場でも出来すぎなくらい真面目に勤めていたらしいから心配しているという。

 谷重は金田一耕助のようにガリガリと頭を掻き回して考えた。

 こんな時に組織が手を貸してくれるなら警察にまで手を回してなんらかの事件に巻き込まれていないか、最悪事故死などしていないかということが調べられる筈だが、あいにく谷重個人には警察関係のコネがない。
 

 八方塞りだ──

 じっとしていられなくなって、店を出る。街の端から端まで歩いてみる。こんなことをしても姿を消した人間と偶然出会える筈がないのに。
 たまりかねてBJが止めるまで、その徘徊は続いた。
「──もうやめなよ、ユキ。そこまでするなんて、どうかしてるよ」
「もしかしたら俺の仕事の煽りをくって妙なことに巻き込まれてるかもしれないじゃないか」
 BJが反論を遮るように谷重を抱きしめる。
 その、痩せた女の胴の太さくらい楽にありそうな腕は、よく覚えたもの。
 しかし、今欲しいのはこの腕ではない。

「譲ひとり、見つけられないなんて──」

 本職は、銃を撃つことだ。銃を撃って、人を殺すこと。
 標的の下調べをしたり、居所を突き止めたり、そんなことは造作もないことだと思っていた。けれど、組織がある程度の情報を与えてくれなければ、自分はこれほどまでに無力だったのだ。

「理由はわからないけど、どこか遠くの街にでも行ってしまったのかもしれない。日本は狭いようでいて、けっこう広いよ」
 そんな言葉が慰めになるとはBJも思ってはいないだろう。
 しかし、何か言葉をかけずにはいられずにいるのだ。

 

 手紙が届いたのは譲が姿を消してから2週間以上も経過してからだった。

 一文字一文字丁寧に書いたような、けれど下手くそな字。
 

 譲の文字だ。
 

 読みたくない、と谷重は思った。けれど、読まずに済ませることもできなかった。

 

 

──谷重宏行様

 冒頭の書き出しだけで、どきりとした。


挨拶も無く黙つて出て来てしまつた事、お許し下さい。
貴方が作つて下さつた小生の居場所は今までの何処よりも居心地の好い場所でありました。
けれど小生はもう其処には居る事が出来ません。
貴方のせゐでは無く小生の事情であります。
最後の小生のわがまゝをどうか聴ひて小生を探さないで下さい。
貴方のご多幸を祈ってをります。

譲拝

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 資料を置き、手短に口頭で情報を伝えるとグラスの水を飲み干しツチヤは立ち上がった。
「──よう」
 カウンターの中から声をかけるとどこまでもきびきびとした動作で振り返る。
「おまえさ、ずっとそんななの?仕事は今ので済んだんだから、たまには飲んでいけば?飲めるんだろ?」

 ツチヤが谷重の担当になってからもう3年近く経過しただろうか。
 

 その間、ツチヤが仕事用以外の顔をここで見せたことは一度もない。

「──私はお酒は嫌いです。酔っ払いも。酔っ払いを作るこういう店も嫌い。だから酔っ払いのいない時間を選んで来るんです。仕事ですから」
「そりゃ悪かったな。そんなに嫌なら配置転換してもらえ」
「……谷重さんは私の仕事に不満がありますか?」
 きっときつい眼を向けて睨んでくる。
 しかし近頃ではそろそろ、だいたい内心どういう心理状況にあるか察しがつくようになってきた。
「いや、おまえさんの仕事には不満は一切ないね。正確で緻密で臨機応変で、言う事ない。こっちの仕事がやりやすい。ただ、俺ってけっこう人間関係を大事にするタイプなんでね、友達になれるんならなれた方がもっとやりやすい」
「友達……ですか」
 即答で仕事なのだから友達付き合いなど不要だと切り捨てるかと思えば、ツチヤは一瞬考えたようだ。

「私の仕事を評価して下さってるならこのままで問題ないでしょう」

 ツチヤは一瞬唇を噛んでそのままドアを出ていった。


 入れ違いにBJが入ってくる。
「──どうしたの、彼女?なんだか泣きそうな顔してたよ。ユキは女に興味ないくせに女の方からは好かれるからなぁ」
「ツチヤが?違う違う。あいつは──男が怖いんだよ」


 男に負けまいとして、女であることを利用もせず。
 本当は、心の底で男が怖くて仕方ないのだろうと思う。
 子供の時にでも、もしかしたら男に乱暴されたことがあるのかもしれない。それくらい本能的なものに見える。
 ツチヤは夏場でも肌を露出していたことはないし、立ち回りを演じたところを見たこともない。
 しかし、引き締まった体格と立ち居振舞いにはまったく隙がない。おそらく武道かなにかを修めているのだろう。ただの連絡係にしておくのは勿体無いと谷重が思うほどである。よほど格闘術に長けた大男でなければツチヤを組み伏せることなどできまい。
 

 それでもツチヤは男を怖れている。
 

「俺が絶対あいつに手を出したりしないってことはあいつはよくわかってる筈だ。それでも、絶対に警戒を解こうとしない。ま、単純に嫌われてるだけかもしれないけどな」
「仕事に支障がないなら今のままで問題ないんじゃないの?」
 ツチヤが言い残したのと同じことをBJは言った。
「……いや、あいつと個人的に仲良くなれたら、ほら、色々と組織のことをな」
 ああ、と納得したようにBJは頷いた。
 実のところ、谷重本人も『元締』と実際に会った事すらないのだ。規模もよくわからない。チエミのような頼りない娘なら組織の実態など谷重よりもっと知らなかったかもしれないが、ツチヤならもしや、と思っても不思議はなかった。それほどツチヤは優秀だともいえる。
「でも、彼女はもし仲良くなっても仕事とプライベートの境界は頑固に守ると思うけど」
「そうなんだよなぁ。想像つかんが例えばあいつに惚れた男が出来たとして、その男に抱かれてる最中に何聞かれてもそれはそれって言いそうだろ。だから信用できると思うんだけど」
 くすくす笑いながらBJのグラスを新しいものと取り替える。
「……何のために?」
「ん?」
 

「まだ譲のこと、諦めてないんでしょ?」

 

 組織には内密に、譲を探す手がかりを得ることはできないか──と考えてツチヤと近づこうとしているのだろうとBJは言う。
 鼻先を指で掻きながら、谷重は肩をすくめた。
「探すなって言われちゃしょうがないだろ」
「嘘だ。時間さえあればずっと探してるでしょ。俺に黙って、みずくさいな」

 もう譲が姿を消して季節は二巡している。もうすぐ三回目の秋がくる。
 譲が何故姿を消したのかはわからずじまいだった。
 おそらく、譲にとってはもうせいぜい思い出になってしまっているだろう。
 仮に探し出したとして、戻って来いなどと言えるわけがないのに。
 
「──自分で納得がいけばやめるよ」

 どうすれば納得がいくのかなど、自分でもわかりはしないのだ。
 どうせあんなままごとのような暮らしが長く続くわけがないと思っていたし、それが来ただけのことなのに──

「俺のことより、BJ、おまえここいらのヤクザに目を付けられただろ。こないだから時々いかにもって連中が様子を見にきてるぞ。あの様子じゃ、ここは単なるおまえの行きつけの店程度の認識だが」

 話題を強引に変えてみる。しかしこれはこれで大問題だった。


 最近では密輸入拳銃の流通もヤクザの資金になっているらしく、特にBJがそのルートを荒らしたというわけでもないのに、BJを排除しようという動きがある。
 組織には組織のルートがあるので、BJがどこかへ逃走しても商売道具に不自由することは当面ないが、そういう問題ではない。


「それは今どうするか考えてるとこ。手っ取り早いのはこの土地を離れてしばらくおとなしくしてることだけど。ユキに迷惑かけたくないしね」
 殊更大声で豪快に笑うと、BJはグラスの酒を飲み干した。

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 ほどなく、BJは本当に暫く身を潜めることにしたらしい。
 一週間に一度程度は電話がかかってきて、自分が無事であることを報告するのと同時に谷重が元気かどうかを確認している。

──まったく、お節介なやつ。

 そのお節介に何度も救われてきたことを谷重は自覚している。しかし、現在どこの街に落ち着いたのかは聞いていない。

──誰もいなくなっちまった。

 そういえば、BJと知り合う前に一度、谷重は絶望的な孤独を感じていたことがあった。そんな時、BJが、あの手紙を持ってきたのだ。


 寸分の歪みもなく閉じられた封筒には、暗褐色の蝋で封印が施されていた。その印もやはり封筒に対して定規を当てたように直角で、歪みがなかった。
 活字のようなかっちりとした筆跡。
 箇条書きのように書かれた短い文章。
 その紙の端に、走り書きされた小さなメモのような一文だけが、生きた人間が書いたもののように見えた。

 俺はそれを見て泣いたのだったか。
 自分でははっきり思い出せない。
 ただ、他人事なのにBJが馬鹿のように号泣していたことは鮮明に覚えている。

 あの時からBJとの腐れ縁は続いている。


 谷重はカウンターに頬杖をついて、指で自分の頬の笑窪をなぞった。

 木の扉が開くと、ツチヤが入ってきた。
 狙いどおり、他の客はいない。
「よう。仕事かい」
 ツチヤはカウンターの端のいつもの席に座ると、黒い皮のショルダーバッグから書類を数種類取り出し、シゲの前に出した。
 シゲがそれを見ながら何点か質問する。
 時間にして10分足らずでいつもこの打合せは終わる。

 打ち合わせが終わってグラスの水を飲み干すと、ツチヤはいつもと違ってほんの少しぐずぐずしているように見えた。
「ん?どうした。なんか話でもあんのか」
 カウンターの中の椅子に腰掛けるとにっこり笑う。
 普通なら、相手の話を聞こうとする時はむしろカウンターに乗り出すようにして熱心に聞く姿勢を取るのだが、ツチヤ相手にそれをやると引かれてしまう。距離をとってやった方が話し易かろう。
 するとツチヤは唇を一文字に引き結んだまま自分のジャケットのポケットに手を突っ込んで一枚の紙片を取り出した。

「谷重さん、私に銃を教えて頂けませんか」

 

 ほんの少し眉を寄せて煙草を取り出す。
「あなたは『鷹』を育てたと聞いています。私にも教えて下さい」
「元締はなんて言ってるの」
「……まだご意向は聞いていません」

 いつになく思いつめた様子に見えた。

「誰かを殺したいのかい?だったら元締に頼みな。おまえさんがわざわざ手を染めることはないだろう」
「私怨で誰か殺したいというのではありません。ただ私は自分の仕事として──」
「やめておけ」
 ツチヤの顔に焦りが浮かんでいる。取り乱したというのではないが、そこまで表情を顕わにしたのは見たことがない。
「ああ、おまえさんが反論しそうなことを先に言っておいてやる。俺は女には殺しは無理だ、なんてことは言う気はない。多分、おまえさんならかなり腕のいい狙撃手になれる。ただ、殺しを仕事にするってのはさ──」
 谷重はロックグラスを一つ取り出し、氷を放り込むとスコッチのオンザロックを作り、ツチヤの前に置いた。

「男とか女とかじゃなくて、その道でしか生きてけない人間がやるもんなんだ」

 

「───」
「それに、おまえみたいな優秀な連絡係に一本立ちされて俺から外れると俺も仕事がやりにくくなるからな」
 にいっといつものように顔を皺だらけにして笑う。そして、もう一度勧めるようにグラスをツチヤの前に押し出した。
「ツチヤ、酒だ。飲んでみな。心配しなくても俺はおまえも知ってる通り、女には手を出さない。もし酔っ払って寝てしまっても、おまえが目が覚めるまで誰にも邪魔させずに眠らせといてやるから」
 決して泣くまいと堪えているような顔で俯くと、ツチヤはそろそろと手を伸ばし、グラスを自分の口に持っていった。
「どうだ?」
「……美味しい……です」
 谷重は得意そうな顔で微笑み、再びカウンターの中の椅子に腰掛けた。


──なんだい、ちょっとは可愛げがあるじゃねえか。

 ツチヤはそのまま暫く黙ってちびりちびりと酒を傾けていた。
 おそらく、ツチヤ本人は別に酒に弱いわけではないのだ。ただ『酔っ払いが嫌い』なだけで。

「まあ、殺しはやらねぇって約束してくれるなら護身に使う銃の扱いくらいなら教えてやるよ」

「──谷重さん」

 はいはい、今度は何だ、と顔を向けると、ツチヤは先ほど取り出した紙片を掌でカウンターの谷重の側へそっと滑らせた。


「本当は、銃を教えてもらう交換条件にしようと思ったんです。でも……差し上げます。私もこれ以上知っていて黙っているのは心苦しいので」


 立ち上がってその紙片を拾い、見ると住所が書かれている。
 この街から電車で2時間近くかかる街だ。
 

 谷重がいぶかしんでツチヤの顔をまじまじと見つめ首を傾げると、ツチヤはどこか後ろめたそうな顔で言い訳をするのではありませんが、私も最近知ったんです、と言った。それからすうっ息を吸い込んで──

「……譲さんは、そこにいます」

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 今更一分一秒を急いでも仕方ない。
 それなのに急がなければ間に合わないような気分で電車に揺られる。

 何に間に合わないっていうんだ。

 

 途中、売店で大衆紙などを買ってみたものの、目を通してもまったく頭に入らない。
 乗り換えの時も、一本の電車も乗り遅れまいとするように足が急ぐ。時折小走りにもなる。しかし、そういう運動量とは関係なく、ずっと心臓の鼓動は早いままだ。


 これが、譲が姿を消して間もない頃なら『間に合った』かもしれない。
 しかし、今会って、姿を見て、どうしようというのだ。もう何もかも元には戻らないというのに。

 

 駅に降り立ち、予め調べた地図の通り迷いなく歩く。目的地に近づくにつれてあれほど気が急いていたというのに徐々に足が重くなっていった。

 

 怖い。

 ただ単に昔の男の姿を見に来ただけなのに、たったそれだけのことが怖い。
 そうだ、3年も経っているのだから、見た目は大きく変わっているかもしれない。
 いっそ、思い切り贅肉たっぷりのデブにでもなっていればいい。
 俺はデブは嫌いだ。
 それで、百年の恋も醒めるってもんだ。
 それなら、あっさり納得して、ここいらの旨いもんでも喰って帰ろう。

 

 住宅地に入った。
 戦後出来た新興住宅地である。
 同じような家が立ち並び、向こう側には建設中の団地が見える。
 紙で作った模型の中に入り込んだような気がした。


 現実感が薄い。
 地図は習慣で頭に叩き込んできたが、これからこんな街並みが増えるなら目印作りが厄介だ。

 

 そうこうしているうちに目的のハイツを発見した。
 2階建てで8戸、その2階の一番通りに近い角部屋。
 窓側に回ってみた。
 ベランダには洗濯物が干してある。
 少し先に4階建てのマンションを発見し、そこからなら部屋の中まで見えるかもしれない──と考えてふと足が止まった。

──別に、殺しの標的を探りに来たわけではないのに、なにをこそこそと除き見しようとしているんだ?

 かといって、居るか居ないかもわからないのにドアをノックする度胸がない。

──何でそんなに意気地がないかね。

 何に納得行かないかと言えば、譲に関することでだけ自分はどうしようもなく駄目な人間になっていることだ。
 踵を返してハイツの方向へ戻ろうと振り返った時、ぎくりと再び背を向け、足早に他家の塀に身を隠した。

 駅から来たちょうど同じ道を、人影が二つ歩いてくる。そのままハイツの階段を上っていった。

 穏やかに微笑む譲。
 背中に小さな子供を背負っている。
 その隣でその微笑を受け止めていたのは──

──チエミ。

 組織から抜けたのかどうかもわからなかった、あのかつての連絡係、チエミだった。

 驚きはしなかった。
 譲が現在はチエミと家庭を持っているらしいことはツチヤから聞いていた。
 しかし、目の前で見ると逆に虚構めいて見える。

──チエミさんはあなたの担当を外れた後、組織の仕事はしていませんでした。

 ツチヤの言葉を思い出す。
 流石にツチヤでも幹部ではないので──もっとも、幹部などという組織形態があるのかどうかはシゲは知らない──ツチヤの知る範囲内では、ということだ。しかし、チエミはかつて谷重がそうすればいいのに、と言った通りあの派手な化粧や酒場でフラフラすることも止め、洋裁学校に通ってそういう関係の仕事に就いたという噂は『連絡係』の中で流れていた。


 チエミが結婚したらしい、子供が出来たらしい……という噂も流れたが、その相手が譲だとはツチヤが知るよしもない。

 

 たとえば谷重の元を離れた譲が、どこかで偶然チエミと出会ったとしたら?
 一応面識のある二人である。
 まして、譲はもともと異性愛者だったはずだ。
 場の流れのようなもので男女の関係になって、結局結婚したとしても不自然とはいえない。

 いや、順番が違うのだとしたら?
 譲がまだ谷重の元にいる頃に足を洗って堅気になったチエミと出会い、谷重と暮らしていることの「不自然さ」「不安定さ」に気付いてしまったのだとしたら?
 それで、『もう其処には居ることができません』と考えるようになったのだとしたら?

 

 今、あの『家族』は帰宅していった。
 今なら、譲もチエミもあの部屋にいる。ほら、部屋の電気が点いたのが見える。
 階段を上って。
 ドアを叩いて。
 チエミと譲に、お幸せにとでも言って笑ってやればいい。
 そしてそのまま帰ればいいのだ。

 

 谷重はハイツに背を向けて、さっき目星をつけたマンションに向かった。
 建物の端に位置する階段の踊り場から見やると、予想通り譲とチエミの部屋まで障害物がない。
 習慣のようなもので鞄には双眼鏡が入っていた。それを取り出し、覗いてみる。
 ピントをあわせると、まだカーテンは閉められていなかった。
 サッシをあけて譲がベランダに出る。洗濯物を取り込みながら、中にいるチエミと何か会話している。洗濯物を抱えて室内へ戻るとサッシを閉め、それを置くと自分で畳むまではせず、今度は子供を抱き上げた。さすがに遠くてよくわからないが、着せられているベビー服が水色なので多分男の子なのだろう。

 なんの変哲もない、幸せそうな家族の生活である。
 じっと、目を離すことが出来ずに双眼鏡を覗きつづけた。

 

──なんだお前、ちゃんとした居場所が出来たんじゃねえか。どこから見ても普通の『日本のお父さん』だよ。

 譲は太ってはいなかった。
 むしろ、以前よりも少し痩せたくらいだろう。
 谷重と暮らしていた頃見せていた、年よりずっと子供っぽいやんちゃ坊主のような顔ではなく──
 落ち着いた、穏やかな大人の顔になっていた。

 ようやく双眼鏡を外すと、踊り場の壁に背中を預けて座り込んだ。
「……そうだ、仕事が来てたんだっけな……」
 小さく呟いた。
 ツチヤが一件仕事をもってきていたではないか。あれは期限が4日後だ。それまでに指定された標的を仕留めなければ。こんなところでぐずぐずしている時間があるならとっとと戻って標的の行動確認でもしろ。
 それでも立ち上がれなかった。

「なんで譲なんだよ、チエミ……」
 
 口の中でこぼした声は、泣いてるみたいだ──と他人事のように思った。

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 ミリ単位の狂いもなく心臓を打ち抜かれた標的は夜の海に落下していった。このあたりは海流が複雑で、おそらくどこかに浮かぶ頃には遺体の損傷は激しく銃撃された痕跡も残されないだろう。仮に間違って死因は心臓への銃撃だと判明したとしても弾丸は貫通しそれこそ海の底である。
 とりあえず、仕事は仕事だ。プロとしてやるべきことはやる。
 谷重は銃をしまいこみ、手袋を外して何食わぬ顔でその場を離れた。

 これが俺の世界だ。
 譲は俺とは世界が違う人間だ、自分でそう言っていたではないか。
 そしてチエミはこの世界にはそぐわない、堅気になって幸せな家庭を築けばいいと思っていたではないか。
 その通りになっただけなのだ。

 

 譲は谷重の店を居場所だと言ってくれた。

 『居場所』を持たなかったのは俺の方ではなかったか。
 どこにも帰る場所がない。どこにも行くべき場所がない。
 だから、自分であの店という浮島を作ってかろうじてその上にしがみついていただけなのだ。浮島ごとどこへとわからずたゆたっていただけ──
 譲が自分の居場所だと定めたことで、あの店はただの浮島ではなくなったのだ。まるで陸地になったように。

 譲の居場所が俺の居場所でもあったのだ。

 いつの間にか店へ戻るのと反対方面の電車に乗っていた。
 この前は妙に急いで通り抜けた改札をのろのろと通って駅の外へ出る。ここから徒歩20分あまり。
 ほぼ無意識のまま、谷重は譲とチエミの暮らすハイツの前に再び立っていた。

──何をしてるんだ、俺は。

 もう二度とここへは来ずに忘れてしまえばいいではないか。
 譲と出会う前に戻るだけだ。むしろそれが谷重本来の暮らしだろう。

 すでに深夜に近い時間になっているが、窓から見える奥の部屋にはまだ電気が灯っているようだ。
 ふと、ベランダ側の部屋の灯りがつくと、チエミが入ってきて子供を抱き上げているのが見えた。夜泣きしているのをあやしているのかもしれない。

──チエミがいなくなれば、譲は再び居場所を失って俺のところに戻って来やしないだろうか。

 そんな考えが頭に浮かぶ。
 それに気付くと谷重は掌に汗が吹き出したのを感じた。
 担いだ鞄の中には先程人を一人殺してきた銃がそのまま入っている。

──何考えてるんだ。チエミを殺す気か?

 チエミを殺したところで、あの子供を抱えて譲がおめおめと谷重の元に戻ってくるなど、ありえない。
 それとも、戻ってこないとわかっていてもあえて居場所を奪って苦しめてやろうとでもいうのか。

──銃なんか、持つもんじゃねえな。

 銃を握り、人を殺すことを仕事にし始めた時から今この時に至るまで、谷重は自分の私怨で他人を殺したことは一度たりとも無かった。
 あくまでも、人殺しは『仕事』である。
 あの人間を殺せと指示を受けてそれを実行してきただけなのだ。
 指示もされない標的を殺したいと思ったこともなかった。

 その自分が、チエミに対して漠然と殺意を抱いている。

 衝動を鎮めるように踊り場の手すりに顔を伏せて息を整えた。

「……おまえのせいで俺はどうにかなっちまったぞ、ジョー」
 呟いて顔を上げる。再びハイツへ目を向けると、駅からの道を降りてくる人影が目についた。


 譲だった。 
 

 ここへ初めて来た日は休日だったが、今日は平日である。おそらくこんな時間まで譲は働いていて、今帰宅したのだろう。ネクタイにスーツを着てどこにでもいる若いサラリーマンに見える。チエミが電気を灯したまま起きていたのは、譲の帰宅を待っていたのだろう。


 無意識のように、鞄から銃を取り出していた。
 

 スコープを覗くと、眠そうな顔をした譲がのろのろと歩いている。

 

──このままこの指を引いたら、お前はもうチエミのところへは戻れない。

 

 口元にふっと笑みが浮かんだ。

 

──いっそ、このままおまえを殺して俺もここで死んでやろうかな。べつに長生きする気ももともと無いし。

 

 引き金にかけた指にぐっと力がこもる。
 ほんの少しこれを絞ったら、全て終わる。

 けれど、その指は一ミリたりと動かなかった。

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*note*

ツチヤコユキちゃん登場。彼女は実に作者のお気に入りでして、今回の加筆修正にあたって本編にも谷重バー関連の時には多少名前くらいは仕込ませてもらっています。そして「孤高」の章ではご本人も登場します。

「​一通目の手紙」については「犬」という話に出てきますが「二通目」がこの譲の手紙です。三通目は次の話にて。

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