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Sin.co -Re:The Ultimate Sin- main tales

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街 -1-

 ソファの上に一冊のさほど大きくない古い本が無造作に置かれている。
 茜はそれを何気なく拾い上げ、ページを捲った。
 捲っても捲っても、どこかの街の古い写真だ。


「何この本。椎多さんの?」
 声を掛けると自室に設えてあるバーカウンターから酒のグラスを持って戻ってきた椎多は懐かしそうな目をしてソファに腰を下ろした。
「同じ街を同じ場所から何十年と撮り続けたじいさんの自費出版だ。面白いだろ。終戦以降の写真はそのじいさんが自分で撮ったんだとよ」

 茜はここのところ写真に凝り始めて主に野鳥を撮りに行っている。
 だからか、写真のことには興味があるらしい。

「これを撮った写真家って……」
「どうだろ、本人とは会ったこともないが生きてたらもう90近いんじゃないかな。プロの写真家じゃなくて素人のただの写真好きのじいさんだよ」

 茜から受け取ったそれをぱらぱらと捲る。
 どんな写真が掲載されていたか、覚えてしまうほど何度も見た本だ。

 

「こうやって街を定点で撮るのって面白いよね。都会の代表的な場所なら時々こういうの見るけど、こんな何気ない場所で何十年も。街も生きてるんだなあ──あ、なんかこのあたり知ってる。俺も高校生の頃とかよく遊びに行ったよ。ここのボーリング場とか」
 茜が指さしたのは、最後の写真──つまり、この本が出版される直前に撮られた写真だ。
 この写真の頃、椎多もこの街で遊んでいた。

「──俺が入り浸ってたボロい雑居ビルが、とうとう取り壊しになるらしくてな。そこの土地をうちが買い取ることになったんだ。それでなんか懐かしくなってその本出してきた」

 あれはもう20年も前だ。
 俺がまだ、来年のことも来月のことも明日のことも考えたくなくて、ただ破滅的な遊びに夢中になっていた頃。
 そんな時にこの本と出会った。
 まだ気楽でバカな学生でいても良かったあの時の俺に、こんな扉もあると示してくれたのがこの本だったんだ。


 その頃のことを思い出すと、古い傷がまたあちこちでひりひりと痛み出すけれど。

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 父の横顔を覗き見る。
 顔は笑っているが、目線は獲物を捕らえた猛禽の様だと思う。
 その視線の先にいる人物に目を移す。相手もむしろだらしなく見えるほど尊大に笑っているがやはり目は笑っていない。

 多分外から見たら和やかで若干くだけた雰囲気の会食風景に見えるし、実際運ばれる料理についても雑談が拡がっている。しかし実態といえばぴりぴりとした駆け引きの緊張感しかない場だ。せっかくの超一流料亭の一流の料理が運ばれてきているというのに、こんな調子で味を感じている余裕があるのだろうか。

 などと思いつつ椎多はかまわずぱくぱくと目の前の料理を口に運ぶ。美味い。緊張感に支配された室内でも美味いものは美味い。同席させられているだけの気楽な立場だから尚更だ。

 近頃椎多はあまり自宅では食事をとっていない。自宅には専属の厨房スタッフが何人もおり毎日レストランのような食事が食べられるのだが、高校の頃にはもう、帰宅もせずにどこかで私服に着替えて夜遊びに出かけることが増えた。大学に進んでからはそれが殆ど毎日のようになり、家に帰ること自体も多くて週に二、三度というペースになっている。
 ここのところ異常に思えるほどの景気で、椎多の大学の学生などは学生の癖にしょっちゅう海外旅行に行ったりスキーや避暑のためにペンションを貸し切りにしたり、意味不明にコンセプチュアルな大バコのレストランバーだの悪趣味なほどギラギラなのに何故か高級ぶったディスコでパーティを開いたり、主に親の金で好景気を満喫している連中が多い。
 生憎、椎多の父・七哉はいくら自分の会社が儲かっていようが息子に無制限の小遣い銭を与えて湯水のように使わせるということはしない親だった。最低限の原資は提供してもいいが、自分の遊ぶ金くらい自分で増やすなり稼ぐなりしてこい、という主義だ。
 そんなわけで嵯院椎多は"一流大企業の御曹司"にもかかわらず、時給500円でアルバイトをしたりそうかと思えば公営違法問わずギャンブルで荒稼ぎしたり、"ギラギラの高級ディスコ"でのパーティを企画してそのパーティ券を金銭感覚の麻痺した大学のイケイケ連中に高額で売りつけて利益をごっそり頂いたり──などして自分の遊ぶ金は自分で作っている。
 儲かればお坊ちゃん連中と同じように高級な店で豪遊することもあるし、無ければ雑居ビルでひっそり営むカウンターしかない今にも潰れそうな古くて安い居酒屋で安い酒をちびちび飲んでいることもある。結論として、値段が高ければ高いなり、安ければ安いなりに美味いものは美味い。

 向かい側に座っているのは、新聞でも頻繁に顔を見るような政治家だ。もう少ししたら別の政治家がここに合流するらしい。
 自分の事業を思うように進めるための便宜を図ってもらうことが目的の接待ではなく、そんな政治家同士の話の調停役までやっているのかと思うと父はいったいどこを目指しているんだろうと思う。ゆくゆくは財界のフィクサーにでもなる気か。

 椎多はまだ幼稚園だの小学校低学年の頃から定期的に重役会議だの取締役会だのに同席させられていた。特に何の指導をされるでもなく、ただ同席させられていただけだ。社内だけではなく取引先の重役とのホームパーティやバーベキューに駆り出されることも珍しくなかったし、中学、高校と進む頃には今回のようなあらたまった会食の場に連れて行かれることも増えた。料亭どころか、高級クラブなどにまで連れて行かれてホステスたちに可愛い可愛いとからかわれることにも慣れたほどだ。


 父──嵯院七哉は一度も自分の後を継げと言ったことはない。
 むしろやりたい事が見つかったらそちらへ進め、と言っている。

──こういうのは場数を踏んどいた方がいいんだ。

 仮に自分の後を継がない選択を椎多がしたとしても、それらの経験は普通の子供には簡単に得られるものではない。無駄にはならないだろう、と七哉は考えているらしい。

 場数を踏ませてもらっているおかげで、24時間前には繁華街の隅の麻雀屋で賭け麻雀をやって財布をすっからかんにしたチンピラ大学生だったことなどおくびにも出さず、ブランドものの高級スーツを身に付けて七哉と政治家の会話に時折加わって世辞の嵐を浴びせられたりしている。最近はそれが面白くて仕方ない。

 政治家たちを見送ると七哉は並んで見送りに出ていた女将に、親方──板長であり経営者でもあるこの料亭の主人──を呼ぶよう頼んだ。
 先ほどまで食事をしていたのとは違う座敷に通される。座敷だがカーペットが敷かれテーブルがある。ほどなくコーヒーが運ばれてきた。こういう部屋もあるのか。
 数分も経たないうちに、白い板前装束の壮年の男と、同じく板前の若い男が頭を下げて入ってきた。
「いつもご利用ありがとうございます、嵯院様」
「こちらこそ。これは息子の椎多です。以前から連れてきてはおりましたがこいつも大学生になったのでそろそろちゃんとご紹介をと思いましてね」
 突然水を向けられて驚いたがそこはすまして挨拶しておく。
「最初にお連れになった時はまだ小学生くらいでしたね。ご立派になられて」
「いやいやまだ遊びたい盛りのやんちゃで、困ってますよ」

──別に困ってなんかないくせに。

「こちらもご紹介させて頂いてようございますか。長男の──七代目の修一です。もう煮方を務めさせておりましてね、近いうちに板場は七代目に任せることになると思います。それまでにきっちり仕込んでおきますので代替わりしても変わらずごひいき頂ければ」
 親方の斜め後ろに控えて視線を椎多たちの足元あたりに落としていた若い男が顔を上げた。
「『しぶや』七代目、渋谷修一と申します。まだまだ修業中の身ではありますが、以後お見知りおきを」
 自分より少し年上くらいだろうか。厳しい顔つきの、一般的に言えば男前だ。最近テレビで人気の何とかいう俳優に似ている気がする。そんな若い板前が近々この老舗料亭の板場を継ぐのか。大丈夫なのだろうか──と余計なお世話が頭に浮かぶ。


「椎多さん──は大学生になられたばかりですか?」
「そうです。気楽な一年生ですよ」
 にっこり笑って答えると親方は一瞬妙な顔で笑った。
「そうですか。ではうちの次男と同い年ですね」
「もうお一人息子さんがいらしたんですか。これはこの店も安泰ですね。ご次男も板場で修業を?」
 いやいや──と親方は困ったように頭を横に振っている。
「お恥ずかしい話ですが次男は好きにさせてやっていたらとんだ放蕩息子ですよ。どこをほっつき歩いているのかろくに帰ってもこない。同い年なのにこんなにしっかりなさっている椎多さんの爪の垢でも煎じて飲ませたいですよ」

 どこをほっつき歩いているのかろくに帰ってもこない──
 と聞いて、七哉が笑いを堪えているのが目に入った。
 今ここですましているだけで、それは椎多も同じことだからだ。

 

 七代目はその場で辞去し、七哉はそれから暫く親方と話していた。もう次の接待に使う日程と料理について話し合っているらしい。江戸時代から続く超老舗だというが、現在の七哉は上得意の一人なのだろう。どうせ経営者になるならこれくらいは成功しないとな、とは思う。

「──親父は本当は俺に後を継いで欲しいと思ってんのか?」

 帰りの車の中で、ぽつりと言った。
 今このタイミングを選んで尋ねようと思ったのではなく、それは子供の頃からずっと胸にあった疑問だった。
「後を継がせるためにこんな接待とか会食とかに俺を連れて行くんだろ?継いで欲しいなら継いでくれってはっきり言ってくんねえかな」
 隣の席で七哉は顔を前に向けたまま少し傾け、上目遣いで椎多の顔を見ている。
「おまえはどうなんだ。おまえがやりたいって言うならもっとガチンコで叩き込むし、やりたくない、こんなのに付き合わされるのはもう御免だって言うならもうやめてやってもいい」

 やりたくないってほどでもないんだよなぁ……

 打ち込みたくなるような趣味もないし特にこれといって興味のある業種があるでもない。父が拡げてきたものをさらに発展させるというのを、自ら進んでやりたいという意欲も今のところはない。
 まだ俺は宙ぶらりんだ。

 息子のそんな顔を一瞥すると七哉は腕を伸ばして頭をがしがしとかき回した。あらたまった席だからと珍しく整えていた髪がぐしゃぐしゃになる。
「俺がおまえの年の時には何か商売でも始めようかと考え始めてたもんだが、まあゆっくり考えればいいさ。俺の本番はまだこれからだ。継ぎたいだなんて言ってもそう簡単にくれてやるわけにはいかんからな。その頃までに考えろ」
 膨れ面になり髪を直しながら、唇を噛む。

 多分、こういうところだ。
 敵を山盛り作りながらここまでやってきた親父が、"身内"には並外れて慕われ、愛されているのは。
 俺が親父の後を継いだってきっと、こういう人望はない。
 親父を慕っていた者たちから失望され、諦められ、去られていくのが目に見えている。

 いっそ、親父の事を大嫌いにでもなれたらいいのに。
 だったら後継ぎだのなんだの、考える余地もなくとっくに家を出て今よりもっともっと好き放題やって──
 それならそれで勝手に破滅して野垂れ死んでくのか、俺なんかは。

 何か絶望的な気分になって目を閉じる。閉じてすぐに車が停まった。
「椎多、最近こっちの連中とは遊んでないのか。寂しがってるぞ」
 窓の外を見ると見慣れた街並みが見えた。見慣れた顔の連中が車を取り囲むようにして後部座席の両側のドアを開く。
「しーちゃん、今日はカッコいいじゃん」
 椎多側のドアを開けたのは、子供の頃から遊び相手になってくれていたチンピラ、賢太だった。
 組事務所に来るのは本当に久しぶりな気がする。
 車を降りると七哉はもう事務所の扉の向こうへ消えようとしていた。開いた扉を押さえているのはやたら背の高いスーツの男だ。

──紫。

 今では組長代行──事実上の組長として組を取りまとめている紫が、真っ先に出てきて七哉のドアを開いたのだ。こんなもん、下っ端の仕事だろうに。
 絶望的な気分に何か追い打ちをかけられたような気がしてにこにこと迎える賢太に返事をしてやることも出来なかった。そうか、こういうのが俺の駄目なところか。

 応接に通されると七哉はソファに腰を下ろすやいなや脇に立ったままの紫に次々と何かの指示を出している。それを紫はメモも取らずに頷きながら聞いている。指示の内容は決して穏やかなものではないだろうが、七哉は終始微笑んだような顔でいる。紫も、椎多に小言を言う時には5本くらい寄っている眉間の皺がほとんど無い。
 しまいに、七哉は紫の背広をくい、と引っ張って頭を下げさせ、何事か耳打ちしている。七哉は椎多にはあまり見覚えがないような悪戯っぽい笑い顔で、それを聴いている紫もわかりづらいがうっすら笑っているように見えた。

 胸がザワザワする。

 いたたまれない気分になってチンピラたちが集まっている隣の部屋へ行こうと立ち上がると思い出したように紫が振り返った。
「椎多さん、あんまり騒ぎを起こさないで下さいよ。警察沙汰でも起こしたらオヤジがこれまで築いた社会的地位を一気に失うかもしれないことをちゃんと──」
 さっき殆ど消えていた眉間の皺がまた5本くらいになっている。
 この顔を見たらとにかく何を言われてもまず第一声は「うるせぇ」、になってしまう。
 紫と椎多の顔を交互に見比べると七哉は吹き出すように笑った。
「紫、もういい。いちいちそんな説教しなくても椎多はそんな事くらいわかってる。な?」
 しかし紫のうんざりとした口調の小言は終わらない。
「地回りの連中から時々報告が上がってくるんですよ。あちこちで揉め事起こしたりしてるって。いざとなったら連中が助けに入ることも出来ますがあんまり下っ端だと椎多さんの顔も知らないやつもいる。遊ぶのはいいがもうちょっと綺麗に、おとなしく遊んで下さい」

 さっきまでさざ波のようにザワザワしていたものがいきなりムカムカと膨張し始めた。

「う・る・せ・え!!!」


 一音一音切ってはっきりと発音すると椎多はどかどかと足音を大きく鳴らして応接室を後にした。背中に七哉の笑い声が聞こえる。

 イライラする。
 そこいらの誰にいちゃもん付けられるより、親父の前で紫に小言を言われるのが一番イラつく。
 イライラ、ムカムカしすぎて目に涙が溜まってきた気がする。気がするが、それはなんとか気合で抑え込んでやった。

 隣の部屋を覗くと賢太と圭介が将棋を打っていた。
「おいおまえら、久々に飲み行くぞ。朝までコースだ。覚悟しろ」
 賢太と圭介は喜んで!とでも言いかねない勢いで立ち上がり、嬉しそうに椎多の前に集合した。まだ父と紫がいる応接のドアを蹴り開けて飲み行くから先帰ってろよ、と父に声をかける。そしてわざと父ではなく紫に向かって大声で叫んだ。


「今日は賢太と圭介が一緒だからご・し・ん・ぱ・い・な・く!!」

 

 むかつく。
 ああもうなんかむかつく。

 

 賢太がここにしようと言って入ったおでん屋の席についてビールの一口目を飲み干すまで、椎多はずっとそれを繰り返していた。

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「おい、さすがにもう閉めるぞ。寝るんだったら帰るか上行くかしろ」

 カウンターにつっぷして眠ってしまっていた英二は、頭の上から降ってきた声にふと目を開けた。
 何か夢でも見ていたのだろうか。ほんのり汗をかいている。
 頭を上げると見慣れたバーのカウンターや壁の落書きが目に入った。腕時計に目を移すと午前3時を過ぎている。
「上で寝るんなら先上がっとけ。シャワー使ったら排水溝の毛、ちゃんと取っとけよ」

 繁華街のメイン通りから2筋ほど外れた雑居ビル。その1階の奥に『バー・リトル』はある。
 1階部分には他におでん屋とスナックが入っている。2階には麻雀店、占い屋、ビリヤード場、表向きは合法のマッサージ店。3階には歯科と眼科、興信所。4階と5階は開業当初は安いビジネスホテルで、フロントは3階にあった。近頃、近隣に新しく美麗な上に低価格のホテルが増えたこともあってホテルとしては廃業した。
 それぞれの客室を階下の店子に月極で貸し出すようになったのは今年に入ってからのことだ。テナントを入れるにも大幅に改装が必要だからと悩んでいたオーナーに、とりあえずその資金が出来るまではそうやって少額でも家賃を得ることが出来れば廃墟同然にしておくよりはいいのではと智恵を付けた者がいるらしい。
 住む場所に寝ることしか求めない者にとっては他で家賃を払うより安上がりでトイレバス付のちょうど都合のいい物件だったらしく、思ったよりテナントの店子たちはそれを利用している。
 1階の『バー・リトル』のマスター、粟野連もその一人である。


 英二がこのバーに入り浸るようになったのは1年ほど前だろうか。

 英二の生まれた家は超のつく老舗料亭で、兄は子供の頃から板前修業をしていた。自分も子供の頃には一度くらいその世界に興味を持ったことがあるのだが『鉛筆を持つより先に包丁を握らされていた』という兄とは違い、包丁を持とうとするとひどく叱られた記憶しかない。その剣幕の印象があまりにも強くて、子供心に自分はここの板場には近づいてはいけないのだ、と刷り込まれた気がする。
 両親はもちろん兄も店が忙しく、小学校を卒業するまではいわゆる"お手伝いさん"が主に面倒を見てくれていた。

 自分はこの家にとって『いらない子』なのだ。

 

 成長し自分の家がどういう場であるかを少しずつ理解するにつれ、その認識は明確に、そして強くなっていった。
 反抗期の中学の頃には"ツッパリ"の連中とつるんでリーゼントにしたりボンタンを履き他校の不良とのケンカに加わったりタバコやシンナーに手を出したりしたこともあったが、中学を卒業してその仲間が散り散りになると急激に馬鹿馬鹿しくなって見た目や行動で自分の抱える不満を表現する時期は終わった。忙しいのに度々学校に呼び出されて母は大変だっただろうなと今は思う。高校に入ると今度は予備校に通うフリをして一人で盛り場をただぶらぶらすることが増えた。

 連とはその頃よく通っていたバーで知り合った。ジャズの生演奏を聴かせるショットバーで、昔はサックスを吹いていたのだという。肺を患ったとかで今はもう吹いておらず、独立して自身もバーを営んでいると言っていた。『バー・リトル』がその店だ。
 今は遊び場をこの界隈に変えたことで、連のこの店に入り浸っている。

 家に帰るのも憂鬱な日はそうして連の"階上のねぐら"に転がり込んで寝させてもらうことも少なくなかった。あまりにも頻繁に居座るものだからついに連は英二のためにソファベッドを置くようになったほどである。

 親の脛をかじりながら不味い不味いと文句を言っているようなもので、親と縁を切って家を出て大学も辞め自活するでもなく、ただ帰りづらくて連のところに入り浸っているだけだ。結局、拗ねてツッパリ仲間とつるんでいた頃からその甘えた根性は変わっていない。いや──

 無暗に状況を大きく変えることで自分の底で起こりかねないある”変化”を、おそらく無意識に英二は怖れている。だから、だらだらと昨日と同じような今日を過ごしてしまっている。そんなものが長く続くわけはないのに。


 まだ酒は抜けないしおかしな体勢で居眠りしてしまったせいか頭が怠重い。
 やはり言葉に甘えて"上"で寝させてもらおうと思った時──

 ドアの外でなにやら怒声が聴こえた。


「また誰か喧嘩でもしてんのかな」
 連は動じることなくドアの向こうに視線を向けることもしない。主にこの2階で揉め事が起こるのは日常茶飯事だ。この店の扉を出た正面にある階段を駆け下りる音が響いてくる。と思った瞬間、扉が通常の5倍ほどの速さで開き、黒い塊が転がり込んできた。
 えっ、と思う間もなくその黒い塊は扉寄りのカウンターにいた英二の足元にそのまま転がり丸まる。


 見下ろすと黒い塊が顏を上げ、しっ、と自分の指を口に当てている。

 その顔はわかりやすく腫れていた。


 すぐにまた同じ速度で扉が開き、格闘家のような大柄の男が扉の中を覗き込む。2階の麻雀屋の常連客だ。何度かこの店にも来たことがある。
「マスター、今ひとりガキが逃げ込んで来なかったか。黒い服着たチビ」
「いやあ?知らねえけど。何かあったの?」
「ガキのくせにイカサマしかけて来やがった」
「へえ、そんな度胸のあるガキいるんだな。今時のガキは軟弱なのばっかかと思ってた」
「うっせえ。もし見かけたら上に連れてきてくれ。ヤキ入れてやる」
 はいはい、と手を振って巨漢を追い払うと連は扉の鍵を下ろし、英二を──英二の足元を振り返った。
「おう、酷くやられたな。いいから座れ」
 黒い塊は立ち上がり、おとなしく英二の隣に腰を下ろした。チビというほどではないがどちらかといえば小柄な、少年と言っても差支えないような若者だ。同世代か高校生くらいだろうか、と英二は思った。連がおしぼりを氷水で絞り、投げ渡す。
「殴られたか。冷やしとけよ」
「ども」
「どもじゃねえよ、ありがとうございましただろ」
 いてて、と言いながら顔を冷やしている。冷やしながら、これも連が出してくれたグラスの冷たい水を一気に飲み干す。途端に少年はぺらぺらと喋り始めた。


「いや、あいつなんも言わずにいきなり殴りつけてきやがってさ。イカサマなんかするかよ。自力で役満上がったらイカサマ扱いすんのかよあそこの店は」


 それを聴いて連はあはははと愉快げに笑っている。
「運を役満に吸い取られたんじゃねえか。あとで取りなしてやるよ。揉めたままじゃこのへんウロウロできなくなるぞ」
「助かる。ありがと」
「お、素直にありがとうも言えるんじゃねえか。とりあえずちょっと落ち着くまで一杯飲めや。もう店じまいするとこだから奢ってやるよ」
 黒い服の少年は妙に無邪気に両手を万歳させてやったー!と笑ったかと思うと痛みで顔をしかめた。

──なんだこいつ。

 苦笑して頬杖をつき、少年の腫れた頬を観察する。
 針でつついたら破裂しそうなくらい腫れてるな──

 煙草に火を点けて今度は腫れていない方の顔を見た。
 少年は顔半分が腫れあがっていることなどおかまいなしでウイスキーのソーダ割りをスポーツドリンクのように一気に飲み干している。英二の視線にようやく気付くと少し気まずげになんだよ、と口を尖らせた。

「俺、英二。お前は?」
 
 煙草の箱を開いて勧めるように差し出すと、"少年"は躊躇することもなく一本を抜き取り口に咥えた。顎を突き出して火を要求しているのが何か可笑しくて、笑いながら火を点けてやる。
 一口目の煙をを目いっぱい吸い込んでうまそうに吐き出す。それから──にっ、と笑った。

「俺は椎多」

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 深夜1時過ぎ。
 客足が途切れたので今日はそろそろ閉めようかと思ったところでいつもの2人がなだれ込む。


「連さん、酒の前に水一杯飲ませて」
「なんだおまえら、またどっかでケンカしてきたのか。いい加減おとなしくしろよ」

 

 椎多も英二も汗だくでシャツがぐっしょり濡れている。英二のTシャツはどろどろに汚れているし、椎多のシャツはどころどころ破れていた。が、二人とも特に怪我をしている様子はない。息を乱したまま二人で大笑いしながらカウンターにとまり、コップ一杯の水を一瞬で飲み干した。

 バー・リトルに初めて椎多が転がり込んだ日の夜が明ける前には、連がうまく取りなして2階の麻雀屋とのトラブルは丸く収まった。もともとあの巨漢が酔っぱらって急にキレたのだというのを店の他の人間は皆把握していたようだ。だからといって身を挺してあの巨漢を止める者がいるでもなかったのだが。
 結局、椎多はあの巨漢とも最終的に意気投合して仲良くなったらしい。
 すっかりこの雑居ビルが気に入った椎多は、頻繁にここに足を運ぶようになった。
 1階のおでん屋でちょっと腹を満たし、2階の麻雀屋かビリヤード場で賭けゲームをしたり、そこで儲けが出れば"表向き合法"のマッサージ店で多少違法に踏み込んだようなサービスを受けたり、あるいは1階のスナックで同席した客全員に奢ったりして散々遊んだ後最後にリトルで締める──といった具合にこのボロい雑居ビル1棟で一日の──夕方からの遊びを完結させることも少なくない。


 同世代──どうやら同い年の英二ともどこか馬が合ったのだろう。
 ちょくちょく二人で連れ立って他へ遊びに行っては最後にリトルに立ち寄るということも増えていった。

「すげぇ肩パッドの連中が道いっぱいに広がって邪魔だったからちょっとどいてもらえませんかね、って言っただけだよ」
「言っただけなわけあるかよ、しかもそんな丁寧に」
 苦笑しながらオンザロックを作り二人の前に置く。
「それより連さん、こいつやべえよ。プレッピーか!マジメ大学生か!みたいな恰好してると思ったらめちゃくちゃケンカ強えの。知ってた?」
 椎多は特ダネでも得たようにうきうきと叫んだが、英二はどこか居心地悪そうな顔をしている。
「そりゃ英二、中坊ん時は族だったんじゃなかったっけ?」
「族のダチはいたけど族じゃないただの不良のグループだよ……やめろよ。黒歴史だよ」
「マジか。道理でケンカが本モンだと思ったわ。こいつ、ほっといたらケンカ相手殺すぞ。要注意だ」
「悪かったって……もう勘弁してくれよ……」
 英二は本当に気まずそうな顔で連に酒のおかわりを要求している。
 英二の前のロックは一瞬のうちに無くなり、椎多が2杯めのおかわりをする頃にはもう4杯めを飲み干すところだった。そして、ここに座って1時間も経たないうちにカウンターにつっぷして眠ってしまった。

「なんだこいつ。内心ビビってたのかな」
「まあいいけど、わざわざ喧嘩売ったり買いにいったりすんなよ。刺されても知らねえぞ」

 実際、喧嘩沙汰でナイフだの場合によってはハジキ──拳銃などを持ちだす奴がいることは、椎多は実感として判っている。連が言うのは脅しでもなんでもない。


「別に喧嘩したくて行ってるわけじゃないんだけどな。まあ気を付けるよ」
 思い出したように煙草に火を点けると椎多は2杯目を飲み干した。

「あーでも暴れたから疲れた。俺もこのまま寝たいなー」
 3杯目が無くなる頃、ちょうどいい具合に酔ってきたのかにこにこしながらカウンターに頭を置くと連が新聞紙を丸めて頭をぽこりと叩く。
「おい、さすがに二人泊める気はねえぞ。寝るなよ」
 椎多は口を尖らせて顔を上げ、妙に得意げな顔でポケットから何かを出した。
 これは"上"の、ここの店子に月極で貸し出しているだけの筈の、元ホテルの部屋のキーだ。営業当時のまま重く大きいキーホルダーがついたままである。
「……これ、どした。上はここの店子にしか貸してない筈だぞ」
「だってここのオーナー、俺の知り合いだもん。上の部屋貸せばいいんじゃねって提案したの俺だし。だから空いてる部屋あるなら俺にも使わせろって言ったらくれた。いちいち帰るの面倒くせぇからここに部屋あると便利だよな」
「知り合い──」


 連にとっては椎多はただの遊び歩いている学生のひとりでしかない。このビルのオーナーはそこそこの老齢で、この一帯の地上げにも応じない頑固者だ。

 そんな頑固爺が嵯院七哉の持つ"組"とは七哉の前の代から旧知で、椎多にとっても親戚の爺さんのような存在だということなど、連には知りようがなかった。この土地も、『地上げに応じない』のではなくはなから地上げの対象になっていなかったのだ。

「ここのビルも、どうせなら売り払うか建て直してもっと儲かるテナント入れたり上のホテルを整備したりすればいいのにって言ったんだけどここはこの薄汚れた感じがいいんだってさ。確かにここは変に小綺麗になるより今のままのが落ち着くな」
「椎多、おまえって──」
「もう一杯だけ飲んだら引き上げるよ。アイラのくっせーの一杯くれ」

 連の訝しむ目線を逸らすように棚の瓶を指差すと椎多は隣で鼾をかいている英二の顔を覗き込むように一瞥した。もうこれで最後にしろよ、と言いながら連が差し出したグラスを受け取るとそれを一息に呷る。と同時にへらへらと笑いが漏れた。
 カウンターから出て表の看板を仕舞う連の背中を見ながら酔ってたどたどしい指で財布から札を引っ張り出し、それを持ったまま連の背中に抱きつく。

 振り向いた連の唇を覆うと連は動じることもなく椎多を引っぺがした。
「お前、酔ったらキス魔だな。たまにおかしな奴もいるから気を付けろよ」

 ひったくるように椎多の指に挟まった札を取り上げると肩をすくめてカウンターに戻っている。さすがに酔っ払いのあしらい方には慣れていると見える。
「おかしな奴──こいつとか?」
 今度は英二の頭を平手ではたくと大笑いし始めた。英二はようやく目が覚めたように頭を上げ、目をしばたかせてきょろきょろと辺りを見回している。


「よーし、英二、いいことしよーぜ!」


 笑いが収まりきらないまままだきょとんとした英二の腕を引っ張り立ち上がらせてふらふらとリトルの扉を出る。背後で連が何か言った気がしたが聞き取れなかった。


 扉の正面にあるエレベーターに英二を押し込むと壁に押し付けたまま唇を貪る。かつて3階にフロントがあった名残で、3階で一旦ドアが開くがこの時間この階で出入りする者は基本的にはいない。再度5階のボタンを押し、その短い間に更に深く貪る。英二はまだ寝ぼけたようになすがままで応えている。


 営業しているホテルのようには清掃も入っていないので古い上に薄汚れているが内装はビジネスホテルのままだ。

 503号室。
 オーナーからせしめた部屋の鍵を出して鍵を開けて中に入る。部屋に煙草の臭いがこびりついている。入った右側にクローゼットとユニットバス、その奥に備え付けのデスクとさほど大きくはない鏡。ユニットバスの陰の向こうがセミダブルのベッド。突き当りにカーテンが掛かっているがその向こうはろくに景色も見えない窓だ。

 この鍵をせしめた時にシーツや布団カバーなどは新しいものを買ってかけておいたが、カーテンは営業当時のまま。色あせて埃っぽくくすんでいる。

 室内の照明も付けずに椎多は英二の身体を捕らえたまま奥に進み、ベッドの上に押し倒した。


「おまえ、男とやったことある?」


 殆ど口が触れた状態のまま囁き、服の上から英二の下腹部を握る。英二は顔をしかめて頭を左右に振った。
「──じゃあ新しいアソビ、教えてやるよ」
 そう言い残し、ぺろりと舌なめずりすると英二をそのままにして椎多はユニットバスへ向かった。


 明るさにふと目を開けると、見覚えはあるが少し違和感のある部屋にいる。
 目と鼻の先に、くるくる巻いた髪の頭が見える。腕の下に自分より一回り小さい体が素肌のまま寝息を立てている。

──ああ、そうか。

 断片的に、記憶の欠片がパズルのようにばらばらと蘇ってくる。
 俺は酔った勢いで、誘われるまま、椎多と寝てしまったのだ。


 腕の中で椎多が寝返りをうつ。まだ眠っているのか。
 椎多の顔をこんなに近くで見たのは初めてではないだろうか。
 くるくると細かく巻いたパーマの少し長めの髪は少し茶色がかっている。眉の生え方の癖、睫毛の長さ。鼻の形、輪郭の骨格、唇の厚み。首の太さ、肩巾、胸板の厚さ──


 知り合ってから下手をすれば毎日のように連れ立って遊ぶようになっていたのに、こんなに細かく観察することは無かった。いや、普通は知り合いの顔など離れてそれと認識できればそれでいい。細かい部品など観察する必要はないのだからむしろ当然だ。

 

 グレてツッパリ連中とつるんでいた頃に、何人かツッパリやレディースの女と付き合ったりしたことはある。中には寝た相手もいる。しかしそんな時に、ここまで相手の顔を観察しただろうか。

 閉じたままの瞼の下で眼球が動いたのが見えた。と、うっすらと開いていく。
 目を開けた間近に英二の顔があることを即座に認識した筈の椎多は、別に驚いた様子も焦る様子もなく、眠そうにとろんとしたまま首を動かして英二の顎に唇を当てた。英二の方がどぎまぎとしてしまう。椎多はそのまま、昨夜の続きのように唇で英二の唇を噛んでにやりと笑った。


「おまえ、あんまりよく覚えてないだろ。俺もだけどだいぶ酔ってたし」


 言いながら英二の片手を自分の下半身へ導き、そのまま自分も英二のそれを再び刺激し始めた。酔いが支配していた時と同じように体温が上がっていく感覚がする。
 目の端に、枕元に転がった瓶や散乱したコンドームのパッケージや残骸がちらちらとそれらを使って何度も行為に及んでいた形跡を残していた。


「こういうの──慣れてるのか」


 ゴムはともかく、あの瓶の中の液体はこういう使い方をする者以外が常備するものではないだろう。というより使い道すら自分は知らなかった。


「まあな」
「あんな風に男誘ってやってんのか。いつも」


 はっはっは!と大声で笑うと椎多はやんわりとしごいていた英二のモノを強く握った。思わず腰を引き顔をしかめる。


「なんだ、一回やったからって早速"俺の女"扱いか?」


 英二を仰向けにさせてその腿の上に馬乗りになる。
「おまえだっていつも、どこの誰だかわかんねえような女のあそこに咥え込まれてんだろ。偉そうに」
 椎多は征服者の顔で笑ったまま──枕元に転がっていた瓶に手を伸ばした。

「アソビだよ。面白くて気持ちいいアソビ、それだけだ」

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 カウンターの隅に、見慣れない本がある。


 ぱらぱらと捲ると、ページの3分の2くらいは古い写真だ。

「ああそれ、オーナーが持ってきたんだよ」
「ジイちゃんが?何これ」


 それは、戦前ごろからのこの街の写真とそれを語った本だった。オーナーは生まれた時からこの界隈に住んでいて、同じようにここで育った幼なじみの写真家が変わりゆく街を撮っていたのだという。自分が撮った写真だけでなく、さらに古いものなどもかき集めて作った一大クロニクルだ。

 その写真家が自分でカメラを手に入れてからは、同じ場所同じ角度から何度も繰り返し撮っている。街並みが変わる度、新しい建物が出来る度、撮り溜めたその写真を老写真家が自らの集大成として自費出版した。

「へぇ……」
 鄙びた埃っぽい田舎町が徐々に見知った街へ変貌していく様子が面白い。栄えてきたと思ったら空襲で焼け野原になり、そこから見慣れたビルの繁華街へ育っていく。そして今また、この街は未曽有の好景気で大きく姿を変えようとしている。椎多がこのビルに入り浸るようになってからも、周りはどんどんと古い建物が取り壊されては新しいビルに生まれ変わっていた。

 老写真家は出来ればこの景気が収まるまで──街の変貌が一段落つくまでこの撮影を続けてこの本を出したかったが、老齢もあって最近体調を崩したのをきっかけに"生きているうちに何か残しておこう"と思ったのだという。

「面白いな……」

 呟くと椎多は珍しく黙って酒を傾けながらその写真のページを何度も捲っては戻りを繰り返している。
 それぞれの写真についている解説は、半分くらいは写真家の思い出話のようで、時折このビルのオーナーの名も登場する。なるほどこれほどパーソナルな記録なら自費出版にせざるを得なかったのだろう。
 解説にもなっていないその解説文を読んでいると、その思い出話の向こう側にある、時代背景や景気や社会情勢がどうだったのかが気になり始めた。


「連さん、ちょっとこの本借りてっていいか」
「欲しいんだったらやるよ。珍しいな。おまえが何かに興味持ってるの初めて見た気がする」

 

 そう──か。
 そういえばそうだ。


 俺はたいていの事には深く興味を持たなかった。

 正確には、他人との会話に不自由しない程度には広く浅く知識はあっても、何かについて自分から深い興味を持って夢中になるということが無かった。
 音楽にも絵画や彫刻や書道にも骨董にも歴史にも文学にも映画にも、マンガやアニメーションにもテレビゲームにもアイドル歌手にも、それほどの興味はない。野球もサッカーもラグビーも大相撲も、観戦に連れて行かれることはあるし最低限のルールは知ってはいるがどこかのチームや力士のだれそれを特別応援するほどではない。競馬などの公営ギャンブルもギャンブルとしてしか嗜まない。自分でするスポーツやエクササイズも得意ではないし大学の連中にテニスだのスキーだのに誘われても全く行く気がしない。乗り物も利用する最低限の知識しかない。宇宙にも海にもサバンナにも高山にも火山にも興味はない。動物にも鳥にも昆虫にも魚にも花にも草木にも。

 だから──
 連も意外そうに見ているのだろう。

 椎多は翌日久しぶりに大学へ行った。大学にはやたらでかい図書館がある。試験とレポートの時くらいしか利用していなかったが初めて自分の興味で本を探した。一週間図書館に通い、物足りなくなって街の大きな書店や古書店を捜索する。卒論を書くわけでもあるまいに、自分でも可笑しくなるくらい資料になる本を買い込んで自宅の屋敷へ持ち帰った。
 昼間、サボれる講義はサボってパチンコだの麻雀だのに興じていた時間を、椎多はそれに割り当てるようになっていた。とは言え、夜には以前とさほど変わらない頻度でリトルには通っている──つもりだった。

 

「最近椎多が付き合い悪いから英二、機嫌が悪いんだよ」
 聞えよがしの連の声に英二がむっと眉間に皺を寄せる。
「どしたのー、英二クン、寂しいんでちゅかー」
 茶化して頭を撫でると英二は別に機嫌悪くなんかない、と"機嫌悪そうに"その手を振り払う。それが妙に可笑しくて椎多は笑っている。

 つい先月くらいまで、飽きもせずにケンカしたり大麻だのマリファナだのカクテルドラッグだのをどこからともなく手に入れてきてトリップしたり賭け麻雀で大儲けして豪遊したり──などをしていたのに、あの写真の本を手に入れて以降椎多はそういうものには以前ほど興味を持たなくなっいたのは確かだ。しかしそれを"寂しいのか"などと本人に言われるとそうです寂しいですとは言えるわけがない。

 深夜一時。
 これまでならこれからが遊びの本番のようだった椎多が立ち上がった。
「さて、俺はそろそろ帰るかな」
「おい──」
 英二は思わず椎多の腕を引っ張った。意外そうな顔で椎多が振り返る。
「今日はいいだろ」

 一瞬の間。

「そうだな。なんか久しぶりな気がする。先上がっとくよ」

『アソビ』だと椎多は言ったのだ。
 喧嘩や、麻雀や、ドラッグなんかと同じ。
 それらをひとつひとつ下りていった椎多は、次は英二とのあの『アソビ』ももう下りようとしているように思えた。
 英二と二人でやってきた刹那的で破滅的な『アソビ』の数々よりもずっと面白いものを、椎多は見つけたのかもしれない。英二を取り残して椎多は1人で先へ先へと進んでいるように思えた。

──"俺の女"扱いか。

 

 違う。
 そういうのじゃない。
 ただ──
 俺は──

 

 先に上がっとく、と椎多が言って消えてから1時間ほどはぐずぐずと飲み続けた。連がおい椎多待ってるんじゃねえか、と気を使って声を掛けるまで、一杯の酒をまるで舐めるように少しずつ飲んでいた。それまでにある程度酔っていたはずが、すっかり酔いも醒めてしまった気がする。
「別に椎多が今日を最後にもう来なくなるわけじゃねえだろ」
 英二のどこか煮え切らない様子を黙って眺めていた連は、英二に勘定票を渡しながら微かに笑い声を漏らした。
「ま、どんなに一緒につるんで遊んでたっていつかはだんだんばらばらになってくもんさ。飲み屋の常連仲間なんかそんなもんだ。俺はくたばるまではここにいるから、お前の気が済むまでここでくだ巻いてりゃいいよ。お前がこの店を必要としなくなる時もそのうち来る。多分な」

 そうだな。そんなことは理屈ではわかっている。
 頭ではわかっている。
 椎多の素性も家も行っている大学も、姓すら知らない。
 自分の素性も家も行っている大学も、姓も名乗っていない。
 互いに、ここへ来なくなればきっとそれきり、連絡をとる方法すらわからない。
 そうなる日はきっとそう遠くない。

 

 エレベーターを降りて、すでにもう場所も覚えてしまった部屋のドアをノックする。
 ドアを開けた椎多は、すでにシャワーを済ませていた。置きっぱなしにしていた薄手のパーカーを裸の上から羽織っただけでいる。
「遅かったな。とっととシャワー浴びてこ……」
 言い終わる前に口を塞ぐ。そのまま抱きしめて貪りながら奥へ進み、ベッドへ倒れ込んだ。
「おい、待たせといて何だよ」
 抗議の声に返事もせず、そのまま自分の服を脱ぎ始めると椎多がパチン、と英二の頬を叩いた。
「わかったよ。すぐ帰るとか言わねえから落ち着け。とりあえずシャワー浴びてこいよ」
 叱られた子供のようにしょんぼりと身を起こし、英二はおとなしくその言葉に従った。

 

 ベッドの上に本が一冊あったのがいやに目につく。

 待っている間に椎多はあれを読んでいたのだろう。それだけで、何か置いてけぼりを食らった気分になる。


 外はもう寒いのに、頭を冷やしたい気分になって水のシャワーを頭からかぶっていると、ユニットバスの扉が開く気配がした。
「水なんか浴びてんのかよ。風邪ひくぞ」
 笑いながら水を止めて湯の蛇口を捻ると、椎多は狭いバスタブの中に入ってきて英二を背中から抱きすくめた。笑い声。
「──この野郎、隅から隅まで洗ってやろうか!」
 背中からはしゃいだ声が聴こえる。
 それは、英二と遊び回っている時とどこも変わらない声。


 二人で泡まみれでバスタブの中であちこちぶつけたり滑って転びそうになりながら大笑いしてひとしきり絡み合うと熱めのシャワーで泡を落とす。

 すでにバスタブに座り込んでしまって笑っている椎多の胸の中央には、赤く火照った肌に白く大きな傷跡が浮かび上がっている。
 これは英二が刻んだ──刻んでしまった傷だ。それをゆっくりと丁寧に唇でなぞる。その頭を一旦奇妙なほど優しく抱きしめると椎多は英二の手を取り、脚を上げてその向こうへ導いた。指示されたように英二の指がその奥へと侵入する。待っている時間の間に自分でもある程度用意していたのか、すでにほぐれ始めている。指を増やし拡げていくと椎多が掠れた声まじりの吐息を大きく吐いた。動かす度に英二の首に回した腕に力が入る。


「──来いよ」


 待ちかねるように指を締め付ける。英二は何も言わずに指を抜き、命令に従った。初めてじかに擦れ合う熱に、自分の中に生まれかけていた蟠りが溶けていく気がする。

 濡れた身体をろくに拭きもせずにベッドになだれ込むと、明け方まで繰り返し抱き合った。それから二人して眠ってしまい、目が覚めた時にはすでに午後になっていた。

「あー腹へった。ラーメン食って帰ろ。今日はもうこっち来ねえけど、拗ねんなよ。鍵は預かっといてくれ。じゃあな」

 そう言って椎多はあくびをしながら部屋を後にした。
 今日はもう来ないけれど、明日はまた来るという様子で。

 ひらひらと手を振って。

 次に椎多がこの雑居ビルに来たのは、それから一か月余りも過ぎてからのことだった。

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*Note*

さてある意味「ついに」このあたりの話。本編であれだけすったもんだした椎多と英二なんですが、出会いとかお初とかを全く書いていませんでした。

でこれを書くにあたって、連ちゃんの「バー・リトル」の詳細な設定を初めて整理しまして、なんか適当に出していた「階上の部屋」は実はこのビルで昔ホテルだった部屋を使わせてもらってる、という設定にごろっと変えました。(これまで出てきたそのへんの記述はこっそり変えていく予定)最初一本にまとめようと思ってたんだけど、なんやかや長くなってしまいそうだったので分割。これ書きながら、そういえば昔よく行った飲み屋とかで顔見知りになった人とか、連絡先をわざわざ聞くこともないから店に行かなくなったら結局それっきり。っていうことが実際自分でもすごく多くて、刹那的な場所だなーと思ったりします。

後半(2)は、本編でもあちこちで登場した場面が別目線で出てきます。この時こんなこと考えてたのかー。っていうのが書いてても興味深いです。

​(2022/2/25)

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