Sin.co The Name of the bar is;
魔法使い -1-
花の咲き乱れた庭。視界が遮られるほど背の高い草もたくさんある。よく手入れされた英国風の庭園である。
花々の向こうに、やはり花のような着物を纏い黒髪を結った女の姿が見える。彼女はこちらに気づくとにっこりと微笑んで手を振ったが、照れくさくてそれに応えることはしなかった。
家の中からはピアノの音が聞こえている。最初はひとつひとつの音がランダムに、そのうちそれらが美しい曲を奏で始める。母が弾いているのかと中へ入ってみると、小柄な東洋人の男がピアノの前に座っていた。
側に足を進めると男はやはりにっこりと笑った。顎のとがった小さな顔に大きな黒い目、笑うと口元から白い歯がのぞく。鼠か栗鼠のように見えた。
なんだか恥ずかしくなってその場から駆け出したものの、気になって柱の陰から男の背中を見つめる。サスペンダーを渡された小さな背中がまるで踊っているように動き始めると、また美しいピアノの旋律が聞こえてきた。
「パトリック、みんなで写真を撮るからおいで」
兄の声に呼ばれてもう一度庭に出ると、父と母と兄と妹がもう揃っていた。士官学校に通って寮生活をしている兄が休暇で帰宅してくると、こうして家族で写真を撮るのが我が家の習慣である。
「パット、もう少し笑いなさいな」
椅子に腰掛けた父の隣へ立たされたパトリックは母にそう指摘されたがこれでも出来る限りの微笑みを作っているつもりなのだ。父はパトリックの顔を見て苦笑した。
「まあ、良い。軍人はそうにやにやするものじゃない。アンドリューみたいにな」
「酷いな、父さん」
パトリック以外の家族の笑い声が花の咲き乱れる庭にこぼれる。
やたら色んな階級章や勲章をぶら提げたいかめしい軍服を身に着けた父と、海軍士官学校の制服を着た兄。首をぐるりと巡らせてそれを眺めた。パトリックにはまだ難しいことはよく判らないが、父は軍でも要職にある地位の高い人間で、さきごろ終結した戦争でも何某かの功績を挙げたらしい。数々の勲章の中にはその功績に対するものもあるのだろう。兄もほどなく軍人となりその背中を追ってゆく。パトリックもまた、士官学校へ進むための予備学校として寄宿制の学校に通っていた。
表に出すことは無いが、心の中ではいつも父と兄を尊敬し、彼らのような立派な軍人になりたいと願っている。
ブロンドの髪に大きな薄ピンクのリボンをあしらってもらい、同系色の可愛らしいドレスを着せられた幼い妹は父の膝に抱かれて頬を上気させ上機嫌だ。母のドレスは紺に近い深い紫色で、透き通るような白い肌と結い上げた明るい栗色の髪がよく映えた。
この時に限らず家族で撮った写真を後から見ると、笑顔の家族の中パトリック一人が不機嫌そうな顔で映っている。本人は全力で笑っているつもりなのに。
ただ、この時に撮影した写真だけはほんの少しだけ、表情が緩んでいる。それを見分けることの出来る人間は家族の中には居なかったのだけれど。
パトリックは赤ん坊の時から人より笑わない子供だったという。身体的には何の異常も無いし、成長するにつれ一般の子供より何倍も知能の発達は早かったので両親の心配はとにかく感情表現が乏しいことだけだった。
陰でこの子は少しおかしい──と言われていることを知ってからはなんとか懸命に表現しようと努力したこともあるが、やればやるほど不自然でぎこちない表現になってしまう。結局、寄宿学校に入れられる頃にはもうそんな努力は諦めてしまった。
写真を撮った後ピアノのところへ戻ると、さっきの男がピアノの鍵盤に毛氈を置いて蓋を閉じようとしているところだった。
「……あっ」
小さく上げた声に気づいた男は振り返るとまたにっこり笑ってパトリックを手招きした。おずおずと近づくと男はしゃがみこんでパトリックの瞳をじっと見つめる。黒くて大きい瞳にパトリックの姿が鏡のように映って見えた。
「もっと聞きたかったんですか?ごめんね。僕はもう行かなきゃ」
何故かわからないがとにかく恥ずかしくなって、小さく首を横に振る。少しどこかの訛のある言葉だった。
「久しぶりにおうちに帰ってきたんでしょう?恥ずかしがらないでお母さまに甘えていらっしゃい」
「──行雄さん」
いつの間にか入ってきていた着物姿の女性が男に声をかけた。パトリックにはわからない言葉だったが、呼びかけたユキオというのが彼の名前なのだろう。ん、と返事してユキオは立ち上がった。
「それじゃあ、パトリック坊ちゃん。ごきげんよう」
ユキオはやはり栗鼠のように歯を見せて笑い、手を振った。
多くの友達──とは言ってもパトリックには友達そのものが少なかったのだが──や父の知人などの家のメイドは黒人の、何故か揃ってでっぷり太った中年の女性ばかりだったがパトリックの家のメイドは例の着物姿の若い日本人女性だった。父は当時東洋文化が好きで、中国、日本などの工芸品や美術品を蒐集したりしていたのだが、使用人もその趣味の延長線上だったのだろう。
彼女は、ひろ子と呼ばれていた。
あのピアノを弾いていた男・行雄はひろ子の夫で、音楽の勉強をしながら夜はレストランなどでピアノを弾いて稼いでいるのだという。時折こうして妻の勤め先であるこの屋敷を訪れてピアノの調律をしたり、家族のリクエストで何かを弾いて聞かせたりしていた。
すでに労働を目的とした日本からの移民は規制されていたが、夫の留学についてきた妻の小金稼ぎなので目を瞑っていてもらったのだろう──ということに思い到ったのはもう少し成長して社会のことを理解し始めてからのことだ。
二人とも第一印象では兄のアンドリューと変わらない十代ほどの若者に見えたから、夫婦者だと聞いて奇異に感じたものだ。東洋人というのは実際の年齢より随分と若く見えるものだと思ったが、考えてみれば留学生なのだから実際に若かったとも考えられる。
寄宿学校に入っていたパトリックはひろ子という新しいメイドがいることは知っていたものの、もう何ヶ月も前から定期的に訪れていたという行雄に出会ったのは初めてだった。
この子は少しおかしい。
嬉しいのか楽しいのかつまらないのか、何を考えてるのかよくわからないの。
面と向かって言われたわけではないが、母親にすらそう言われてきたパトリックだったのに。
あの日本人はパトリックの顔を見るなり、ピアノの続きが聞けずにがっかりしていることと、本当は母に甘えたいのに照れくさくて出来ずにいることを看破してしまった。
あの人はもしかして、魔法使いかなにかじゃないかしら。
だってあの小さな細い指からあんなに美しいメロディーが生まれる。
あれはきっと神様から与えられた特別な指。
それから、きっと特別な目も持っているに違いない。
だから、僕の思っていることをちゃんと気づいてくれたんだ。
休暇ごとの帰宅。
窮屈な寮生活から解放されることよりも家族が揃うという安心感よりも。
パトリックは行雄に会えるかも、あのピアノを聴けるかもという期待で帰宅を心待ちにするようになっていった。
「パットじゃないの!おかえりなさい!」
妹のメアリが手元のパッチワークを放り出すようにして立ち上がる。久しぶりに会う妹はいつのまにかすっかり年頃の娘に成長していた。
近頃流行りの丈の短いドレスなどを着たがるから困る、と母が手紙で嘆いていたことを思い出す。流石に父の立場上公式の場に顔を出したりすることもあって髪を短く切ることだけは父が止めさせているという。折角の美しい金髪を短く刈りたいなんて、流行とは馬鹿馬鹿しいものだ、と思った。
クリスマス休暇だからと再三言われ、根負けしてやむなく帰ってきたが、もう帰宅するのはまる2年ぶりになる。
「クリスマスやイースターくらい帰ってきなさいよ。アンドリューは忙しくたって必ず帰ってくるわよ」
母そっくりの口調でまくしたてる妹には答えず、荷物を置いて室内を見回すと違和感がある。庭の樅の木にはクリスマスらしい飾りつけが施されていたが、以前より少し殺風景になった気がしたのは気のせいか。それとも「子供たち」が成長したからあまり派手な飾りつけをしなくなっただけなのか。
2年も帰っていなかったのだから何気ないところが変わっていたとしても当然のことだが、その変化が自分の不在の時間を目の前に突きつける。
見回しながらコートを脱いでいるといつのまにかメイドがそれを受け取りハンガーに掛けた。
──ひろ子じゃない。
メイドがかつての友達の家に居たのと同じような、ものすごく太った黒人の中年女に変わっている。新しいメイドはにっこりとメイサです、と自己紹介すると陽気に鼻歌を歌いながら下っていった。家に違和感があったのは、ハウスキーピングを担当するメイドが変わったのだから当然だったのだ。
母は頻繁に手紙を遣していたが、ひろ子が居なくなったとはひとことも書いていなかった。
「ひろ子は?」
逡巡した挙句たった一言そう尋ねるとメアリは眉を大袈裟にひそめ、大きく肩を竦めて人差し指を立てしいっ、と言った。
「その話はタブーなの」
きょろきょろと回りを見回し、殊更小声になる。
「彼女、お母さまが追い出したのよ。だからお母さまの前ではひろ子の話も行雄の話もしちゃダメ」
「追い出した?」
聞き捨てならない。
追い出したとはどういうことだ。
近頃世間では黄色人種に対する人種差別が日増しに大きくなってきているとは聞くが、父は親日家だしそんなに偏見はないはずだ。だとしたら何か別の理由なのか──
「お父さま、ひろ子に手をつけてらしたらしいの。もうずっと前からですって。お母さまは知っててずっと我慢してらしたんだけど、どうもひろ子が妊娠したらしいってわかってとうとう堪忍袋の緒が切れたのね。お父さまのお留守の間に彼女を追い出しておしまいになったの」
「──」
「本当はお母さま、東洋人なんて信用してなかったの。でもお父さまの趣味で雇っていたでしょう?だから余計に腹が立ったんじゃないかしら」
パトリックの表情は変わっていなかったのだろう。メアリはその顔を見て少しつまらなそうな顔をした。
良家の令嬢でありながらそんなくだらない、しかも自分の両親が係わるゴシップを楽しそうに語るなんて、はしたない娘だ──と思ったがそれも口にも表情にも出すことはなかった。世間知らずで何もわかっていないくせに、差別意識だけは一人前。わが妹ながら嘆かわしい。
それはパトリックにとって、寝耳に水の衝撃的な事件ではなかった。ひろ子が妊娠して追い出されたこと以外は既に知っていたからだ。
父がひろ子に手をつけていたのを知ったのは、前にクリスマス休暇でこの家に戻った時のことである。
それまでは毎年クリスマスにイースターにハローウィンに夏休み、まとまった休みがあるたびに寮から帰ってきていたし、士官学校に進んでからもその習慣は変わっていなかった。例え表情に出ていなくても心の中ではいつも家族を大切に思っているし──それにいつ行雄が来るのに遭遇できるかわからないからだ。学校でもピアノの上手な者や音楽の先生はいても誰も行雄のピアノにはかなわない。
クリスマスにはたいてい、行雄も呼ばれてパーティでピアノを弾いていた。2年前のクリスマスもそれは同じ。
ワインに少し酔ったので庭に出て一人で座っていると、庭の隅の方で女の小さな悲鳴のような声が聞こえた。何かあったのかと音を立てぬようにそちらへ向かうと──
薄暗い庭の隅、父がひろ子を家の外壁に押しつけてキスしている。手は今にも着物の裾を捲り上げそうな状態だ。
──こんなところでおやめ下さい。今日は夫も来てますし、もし奥様にみつかったら。
──あんな男に何ができるものか。
ひろ子は懸命に抵抗を試みている。けれどその抵抗は、すでに一定の関係が出来上がった上でのものにしか見えなかった。
混乱のあまり気分が悪くなってふらふらとその場を後にし、もとの位置に座り直す。視線を感じて顔を上げると、その視線の先に行雄がいた。
行雄は、あの栗鼠のような顔でただ笑って、首を横に振った。
尊敬していた厳格な父。
軍で重要なポストに就き発言力も高い。愛国者で厳しいが数々の功績を残し多くの部下に慕われている将官だと、息子のパトリックが士官学校で褒められるほどである。
家族のことも大切にしている。両親はいつ見ても仲睦まじい。
なのに、父は妻も子供たちもいる場所で、夫のある女を抱こうとしていた。
そして彼女の夫はおそらくそれを知っていて、妻を助けようともせずそれを見過ごしていた。
あなたが本当に魔法使いだったなら──
ひろ子を助けだして空を飛んで逃げてしまえばいいのに。
大事にしていたものが一斉にすべて地に堕ちて泥まみれになってしまったような気がした。
それ以来、パトリックはこの家には帰ってきていない。家族の、とりわけ父と母の顔を見るのも、ひろ子の姿を見るのも、そして行雄に会うのも怖かったからだ。そうして帰ってきていない間に、事態は大きく動いてしまったのだろう。
ひろ子を追い出されたことを知って父は母を叱ったが、ひろ子と関係を続けていたことを指摘されると多少開き直るくらいしか出来ず、結局新しいメイドを雇ったのだという。追い出されたひろ子のその後の消息はわからない。
流石にひろ子の腹の子を殺すなどという酷いことまでは母は出来なかったらしいので子供がどうなったのかもわからない。ただ、その子供は決してわが夫の子ではない、後に認めてくれと言われても知らぬと念書まで書かせたという。
母が罪もない胎児に危害を加えるほど逆上してしまってはいなかったことにパトリックは漸く少しだけ安堵した。
「とにかく、この話題はこの家ではタブー、よ。それさえなければ、お父さまもお母さまも今は仲直りなさってるんだから」
メアリがそう念を押した直後、母が奥から出てきて満面の笑顔で息子を出迎えた。その顔には何の澱みも浮かんではいなかった。
「休暇だっていうのに居残りかい。じゃあちょっと遊びに行こうぜ」
居残っているとこういうやつが一人や二人は必ずいる。この日は寮の隣室の住人、ジェラルドだった。
パトリックは付き合いも良くないしそもそも普段からさほど誰とも仲良くしていないので、パトリックにまで声がかかるというのは相当色んなやつにフラれたのだろう。
いつもなら断るところだが、ふとたまにはいいか、と思い直した。
あれ以来、クリスマスには帰宅するものの最低限の日数の滞在で済ませ、他は旅行や寮の部屋で読書したりすることに充てている。家族に対する想いが急速に減退したせいだ。
何もかも面倒になってしまった。
尊敬する父や、兄の後を追って立派な軍人になるべくこのエリートコースに乗ってはいるものの、カリスマが地に堕ちてしまっては何を追いかけていいかももう判らない。そもそも立派な軍人とは何なのだ。軍人であることがそれほど誇り高いものなのか。それすらパトリックは見失いかけていた。
ジェラルドに連れて行かれたのは、狭苦しい裏通りの下世話な娼館だった。あてがわれた女を義務のように抱くと、下品な香水の匂いに耐え切れずにさっさとそこを後にした。ジェラルドはまだたっぷり楽しんでいるのだろう。どうせ、二人で仲良く遊ぼうと思っていたわけではない。奴は放っておいて、自分は適当にどこかで食事でもして帰ろう。
この界隈はあまり馴染みがない。表通りにはそれなりの構えのレストランやカフェが軒を連ねているようだが裏通りに入ると途端に薄汚れた安物の店が並ぶ。今出てきた娼館もそういった店のひとつだ。密造酒を飲ませたりお世辞にも上質とは言えないダンサーが踊る酒場やも多く、あまり柄が良くない人間が往来している。
近くにそういうコミュニティでもあるのか、妙に東洋人が多い気がする。
──次の角になったら表通りに戻ろう。
何となくそう考えながら歩いていて、ふと足が止まった。
前方に人影が見える。表通りの店の裏口のようだ。白いシャツに黒いベストを来た小柄な男が、もう一人の、帽子にトレンチコートを着た男に何かを渡している。茶封筒だ。何か怪しい取引のように見える。
しかしパトリックが足を止めたのはその怪しい取引ではなく、白いシャツの男に目が釘付けになってしまったからだ。
──行雄?
ほどなくトレンチの男は人目を避けるように小走りで角を大通りとは反対側に曲がって行き、行雄とおぼしき男は扉を開けて建物の中へと姿を消した。
鼓動が早まっている。
男たちの姿が完全に見えなくなるとパトリックは慌てて表通りに出てこの店を確認した。特別高級でもないが、下品そうでもないレストランである。階上はホテルになっている。
店の看板と扉を何度も見比べて、一大決心をしたようにパトリックはその扉を開けた。
席についたものの、そのテーブルに就いたボーイは行雄ではなく、だからといって行雄がいるかを尋ねるのも躊躇われる。料理が運ばれてきて、単に食事をしに来ただけのような状態になってしまった。
いっそ、この階上のホテルに部屋でも取って一晩粘ってみようか。どうせ今日は休暇だ。外泊許可は取ってきている。
料理を口に運びながら考えを巡らせていると、ぽろん、とピアノの音が耳に届いた。
はっ、と息をのんで音の出所を探す。
──いた。
店の中央あたりに、グランドピアノが一台置いてある。
行雄がそこに座って音を紡ぎだしている。
やっぱり、行雄の指は魔法の指だ。
たった10本のその細く短い指で、なんと美しい音を作り出すのだろう。
パトリックは食事をするのも忘れて、じっとその姿を見つめていた。
行雄が何曲かを弾き終えて退場し次にヴァイオリニストが登場すると、パトリックは慌てて立ち上がった。正確には立ち上がろう、として思いとどまった。
ここで行雄に声を掛けたとして、何を言えばいい?
今、どうしているのか。ひろ子はどうなったのか。ひろ子のお腹の子はどうなったのか。それは──父の子だったのか。
そのどれもパトリックには到底行雄に対してぶつけることの出来ない質問だった。
行雄がここでピアノを弾いているということが判っただけでもいい。
ここに来れば、行雄のピアノを聴くことが出来る。
それだけで、いいじゃないか。
すっかり冷めてしまった食べかけの食事を平らげ、行雄のピアノの余韻を味わいながらぎりぎり許可されている薄い酒を注文して手洗いに立つ。
用を足してテーブルに戻ろうとした時、目の前にすいっと鍵を持った手が伸びてきた。
「パトリック坊ちゃん、お久しぶり。時間があるなら後でゆっくり話しませんか。この上の部屋で待ってていただければ」
あの、栗鼠のような笑顔で、行雄が言った。
渡された鍵の部屋へ入ると、そこは行雄が滞在している部屋とみえて、私物らしきものがいくつか置いてあった。小さなシングルベッドひとつで殆ど占められている小さな部屋である。
突然静かな空間にぽつりと一人になって漸く息をつくと途端にここに来る前に抱いてきた女の香水の匂いが鼻を掠めた。
流してしまいたい、と思ったがここはシャワールームのない安宿らしい。部屋を出て廊下を見回すと、同じ階に共同のシャワールームがあった。
あんな香水の匂いが残った身体で行雄の前に居たくはない。
まるで身体を清めるように慌てて水を浴びた。
ろくに拭かずになかば濡れたまま服を羽織って慌てて部屋に戻ると、部屋の前で行雄が待っていた。行雄の笑顔を見ると、あの香水のことも何もかも見透かされているような気がして酷くばつの悪い気分がした。
「そのままじゃ気持ち悪いでしょ。これで拭いて、これ着ておくといい」
笑いながらてきぱきとタオルと着替えのシャツを出すと行雄は2本持ってきていた密造ビールの栓を抜き、ベッドの上に座った。椅子など無いから、座るならそこしかない。
漸く落ち着いて座る。一瞬の沈黙が行雄との時間と距離を思わせた。
「──すっかり一人前の青年になられて」
行雄は懐かしそうな顔をする。
「今は?士官学校?」
「もうすぐ卒業です」
「そう、卒業したら本物の軍人になるんだね。あの小さな坊やがね」
「───」
話題が続かない。他人との会話が苦手だというのがこれほどハンデに思われることは今まで無かった。
「どうして──」
壜のビールを一口ラッパ飲みして、行雄は前屈みに自分の腕を膝で支える。
「ここが判ったんですか」
「偶然……」
最低限の言葉。しかしそれは本当だ。店に入ったのは行雄の姿を見たからだが、行雄を見たこと自体は本当に偶然なのだから。
「──お父上に指示されたからでは?」
「?いや」
「そう──ですか」
父が?
何故?
行雄は何かを考え込んでいるように見える。
「俺はもう随分と家には帰っていない。父に会ったのも去年のクリスマスが最後だ」
あの大きく漆黒の瞳がじっとパトリックの眼を見つめる。
まるで、何かを探っているかのように。
「行雄の眼は特別だから、俺が嘘を言ってもすぐわかるだろう?」
「え?」
虚をつかれたように行雄がぱちぱちと瞬きをした。
「俺が何を考えているのか顔を見て判るのは行雄だけだ。家族も友人も誰も俺が何を考えてるのかわからないと言う」
見慣れない険しい顔をしていた行雄の顔が一瞬で緩んだ。
「特別なんてこと無いですよ。あなたの顔をちゃんと見れば、わかります」
小さく声を立てて笑うと、ふう、と大きく息を吐く。
「──あなたが何を知りたがっているのかも」
ぎくり、と行雄の顔を見る。やはり、特別な目じゃないか。
しかし行雄は悪戯っぽく笑っただけだった。
「でも、教えてあげない」
何故、とおそらく浮かんでいるだろうパトリックの顔を一瞥すると行雄は自分の手元に視線を落とし、目を閉じた。
「……僕とひろ子は、同じ土地で生まれた幼馴染でした。山と田んぼばかりで何も無い田舎町です。僕は音楽の勉強がしたくて都会へ行き、そこで僕のピアノを認めてくれる師に出会いました。彼の紹介でこちらの学校でさらにピアノを勉強することになり、ひろ子と結婚して一緒に渡ってきたんです」
初めて聞いた行雄とひろ子の物語。
呼吸の音さえ邪魔になるのではないかと思うほどの静寂を感じる。パトリックは無意識に息を潜めて物語の続きを待った。しかし、その続きは語られることはなかった。
ただ一言、帰りたいなあ、という呟きをピリオドにして。
行雄が帰りたい場所。
それは遠く海の向こう。
日本の田園風景がどういうものなのか、パトリックにはうまく思い浮かべることが出来ない。
行雄は泣きそうな顔で微笑んでいたと思うと、不意に顔を上げてパトリックに目を移した。大きな真っ黒い瞳がパトリックの心の奥の奥まで見通すようにじいっと真っ直ぐ見つめる。
「あなたは、このまま学校に戻って、ちゃんと卒業して、そのまま誇り高き合衆国軍人になって下さい。もう二度とここへも来ちゃいけない」
返す言葉も見つからず、パトリックは手元のビール瓶を見つめた。
先ほど見た、行雄が誰かに茶封筒を渡している場面が頭を掠め、ひやりと首筋が冷える気がした。
行雄は──
もしかして──
頭に浮かんだ不気味な仮説を、頬に触れる指の感触が一瞬で霧散させる。パトリックの頬をあの魔法の指でそっとなぞりながら、もう一度行雄はゆっくりと発音した。
「もう、帰りなさい。そして僕のこともひろ子のことも忘れてしまいなさい」
*note*
さらに突然何が起こったのかという話(笑)。異世界のアメリカ1920年代ごろのスタートだと思います。パトリック坊ちゃんとピアニストの行雄さんの話ですが誰やねん!と。
これまでのお話に出てきた人たちもちゃんと何人か出てきます。