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Sin.co   The Name of the bar is;

魔法使い -2-
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 もう二度とこの店にも来てはいけない。

 そう言った行雄は子供の頃から知っていた男とまるで別人に見えた。
 いずれにせよ寮生活で頻繁に出来るわけではないがパトリックはそれでもその店に足を運んだ。極力ピアノから死角になる席を選び、行雄の姿を見つければその行動を目で追わずにはいられなかった。
 片思いの相手の姿を少しでも見ていたい子供の衝動じゃあるまいし。けれど、パトリックの心を支配していたのはもっと薄暗い不安だった。


 行雄は単なるピアニストではない。
 

 もしかしたら、パトリックの家に入り込んでいたのも単に妻がメイドを勤めていたから、などという当たり前の理由ではなかったのではないか。
 パトリックの父は、軍の要職にある人物だ。
 行雄が接触していた男は帽子も被っていたからはっきりとはわからないが、体格からして少なくとも東洋人だったと思う。もしや、行雄は──

「相席してようございますか」

 

 聴き慣れぬ声が思考を中断させる。
 顔を上げると、きちんとした三つ揃いを身に着け、威厳のありそうな立派な口髭を蓄えた男だった。おそらく日本人だ。一見して外交官か、そうでなければどこかの会社の重役でも通りそうな風貌である。髭のせいで年齢は量りにくいが髪も髭も黒々としていて、若くして出世したやり手、といった風情だろうか。
 見回すと他にも空席があるので、明らかにパトリックを狙って相席を頼んでいる。
「──どうぞ」
 ありがとう、と微笑むと男は洗練された動作で席に就いた。ボーイを呼んで軽食と飲み物を頼んでいるのは流暢な英語である。ボーイが立ち去るときちんと座りなおして指を組んでパトリックの眼を直視した。


「聞き分けのないことをなさいますな。ここへは来るなと言われた筈でしょう」
 

 ぎくり、と水を飲む手が止まる。
 随分ストレートな物言いではないか。
「あなたにウロウロされると、行雄が困るのですよ。あまり困らせないでやって頂きたい」
 行雄はこの男に、パトリックの訪問を報告していたということか。
「──そういうあんたは何者だ。そちらは俺の素性がわかっているのだろう?フェアじゃない」
 男は苦笑すると、組んだ指でとんとんとテーブルを叩く素振りをした。
 ボーイが飲み物を運んできて一瞬会話が中断する。どう見てもウィスキーで、言えば密造酒が出てくるところを見るとこの店の関係者なのかもしれない。
 立ち去るボーイの背中を見送ると男は一口グラスを傾けて再び指を組んだ。
「申し上げるわけにはまいりませんな。それを知ってしまうと、あなたをつまらぬことに巻き込みます」
「──」


 やはり行雄はただのピアニストではないのだ。
 そしてこの男はその指揮系統にある人間か。
 不安と好奇心がパトリックの心の中で渦を巻く。

 

「──父と関わりがある話なんだろう。ならば俺にも知る権利がある。俺もまだ卵とはいえ軍人の端くれだ。話せないと言うなら力ずくで聞いてもいいんだぞ」
「困った坊ちゃんだ──」
 呆れたように男は笑う。そちらの方が何枚も上手なのだろう、軽くあしらわれているようにしか思えない。力ずくという言葉が脅しにも何もなっちゃいない。笑いも収まらないうちに男はさらりと言った。

「あなたはこう考えているのではないですか。行雄は、お父上から情報を盗むために近づいたスパイだ」

 

 どくん、と心臓が波打った。
 はっきりと言葉にされてしまうと、恐ろしい機密事項に触れてしまった気がする。
 他人には判りにくい筈の表情を探るように男はパトリックの顔をにやにやと眺めていたが、肩を竦めてやはりさらりと何でもないことを言うように口を開いた。

 

「逆ですよ。行雄は日本人外交官や政府の要職にある人間に近づき、その動向を父上に齎していたんです。祖国に対する裏切りですな、これは」

 

 はっと我に返り、きょろきょろと回りを見回す。そんな事実を誰かに聞かれでもしたら行雄は──
「ご心配なく。聞こえやしませんよ」
「しかし──」
「つまり、この店にはお父上の手の者も出入りしているということです。ごくたまにご本人が見えられることもある。あなたがここに通ってこられてもし鉢合わせでもしたらどうします。いや、もしかしたら既に見咎められているかもしれない。だからここには来ないで頂きたい。そういうわけです。よろしいな」
 ウィスキーを飲み干すと男は立ち上がり、お辞儀とやらだろう、頭を下げた。


「あなたを巻き込みたくないという行雄の気持ちも察してやって下さい」
 

 立ち去り際にそう呟くと男はそのまま背を向け、店の奥へと消えていった。やはりこの店の経営者かあるいは関係者なのだ。その証拠に、席を立ったというのにボーイが勘定をしにくるわけでもない。『客』ではないからだ。

 

 行雄がスパイ──

 改めて今耳にした事実を頭の中で反芻する。
 確かに、あの男が言った通りパトリックを揺らしていた不安とは、行雄が父を探るスパイなのではないかということだった。が、それが逆だという。
 あの男も日本人だろう。では、行雄やあの男は組織立って自分の国の情報を米軍将校に売り渡しているということか?

 何か、釈然としない。

 あの男が言ったのは、事実なのだろうか?
 確かに近年、日米関係は決して良いとはいえない。日本政府の情報は高く売れるのだろう。けれど、行雄あたりの一介のピアニストが得られる情報などさほど知れているのではないのだろうか。


 一度積み上げた積み木を崩そうとするようにパトリックは頭を強く振った。
 一方的に与えられた情報を鵜呑みにするな。
 知りたければ、自分で調べるしかないのだ。

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 どこからかジャズの曲が聞こえる。
 享楽的なジャズ・エイジが終結したと言っても、人々の心を捉えた音楽が消えるわけではあるまい。

 卒業を控えてパトリックは焦っていた。卒業後配属される隊が遠く離れた海の上である可能性も否定できない。そうなれば、行雄のこともそのままうやむやになってしまう。
 一人で行う調査には限界がある。それはすぐに思い知らされることになった。まして、パトリックは寮生である。そう頻繁に抜け出していることが父にでも報告されたら面倒だ。あの男が言った通り行雄が父の支配下なのであれば直接父に問い質すという手段もあるのだろうが、もし違ったとしたら藪蛇になる。下手をすると行雄に危険が及ぶ。
 結局、なにひとつパトリックの疑惑を解く材料は手に入りはしなかった。
 いくら士官学校の成績が優秀でも、ただの学生に簡単に踏み込める領域ではないということだったのだ。

 あれ以来あの店で食事をするということは控えているが、休みごとにここへ来て目立たぬように周辺をうろうろと見張っている。もし本当に父か、パトリックの知っている父の知人や部下などの姿を見つければなにか打開できることがあるかもしれない。
 実際、そんなあてのない事しか残っていなかった。

 自分は何をしているのだろう?

 行雄やあの男の言った通り、自分は何も知らなかったことにして学校に戻りそれまでと同じ生活を続け、卒業し軍人になり、有事の際は国の為に戦う。エリート軍人の辿る道として正しい場所に戻れば良いだけのことなのだ。
 行雄をめぐる疑惑を仮に明かすことが出来たとして、それが自分にとって何になるのかそれすらわからずにパトリックは動いていた。


 父に対する尊敬を取り戻したかったのか。
 行雄の本当の姿を知りたいだけなのか。
 自分が歩いてきた、そして歩いて行こうとしている道が本当に正しいのか。
 いずれにせよこれからを自分自身が信じることの出来る道で往きたい、そのために、これを有耶無耶にしたままではいられない。

 あの店の裏口周辺は時折ぶらついて様子を見ているが、以前偶然に見た時のトレンチの男らしき人間が出入りしたのはあれきり見ていない。もっともずっと張り付いているわけではないしわざわざ週末に動くわけでもないだろうから、もし見れたら幸運、程度のチェックである。
 通行人のふりをして2度ほど行き来した時に、同じあの裏口を監視していると見える人影に気づいた。ずっと同じ場所であそこを見張っている。


 あれは、父の配下かまた別の──

 と、目を眇めてその姿を確認しようとしてパトリックは声を上げそうになった。同時にあちらもパトリックに気づき、大慌てで駆け寄ってきたかと思うと細い路地にパトリックを引っ張り込んだ。


「──こんなところで何を?アンドリュー」


 それは兄のアンドリューであった。
 今は海兵隊に所属し、汽車で何時間も先の海上で空母に搭乗している筈ではなかったか。戦闘機乗りになったと聞いている。
「おまえこそ、こんな柄の悪い場所になんの用だ」
「俺だって羽目を外して遊びたい時もある」
 アンドリューは意外そうな顔をした。弟は表情どおりの堅物だと思っていたのに決まっている。
 兄が隊を離れてここに張り付いてあの店を監視しているということは、おそらく父の指令で動いているのだろう。だとしたら──

 

「──行雄を張ってるのか?」

 

 思い切って行雄の名前を出してみた。案の定兄は眼を見開いて息を呑んだ。自分と同じ血が流れているとは思えないほど表情豊かだ。
「おま……」
「行雄は父さんの配下のスパイだったんじゃないのか。見張っているということは何か事態でも変わったのか」
 ごくりと唾を飲み込みアンドリューは目玉をぐるぐる動かして周囲を気にした。子供の頃には思わなかったが、兄は意外と小心者なのかもしれない。
「なんでお前がそんなことまで知っているんだ。これは機密事項だぞ」
「そんなのは父さんや行雄を観察していたら察しはつくよ」
 この裏通りで行雄の姿を見るまでそんな可能性すら一筋の髪ほどにも考えていなかったのに、ハッタリにも程がある。可笑しくなったが、兄にはその表情を読むことは出来ない。
 ともあれ、兄の反応はあの時のあの男が言っていたことが概ね真実であることを暴露することになった。これだけでもパトリックには大収穫だ。


「──お前だから信用するが、その通りだ。もともと行雄は父さんの配下だったが──最近、二重スパイだったんじゃないかという疑いが出ている。つまり、日本のどうでもいい情報を父さんに渡して安心させ、そんな父さんの動きを日本のどの筋だかはまだ判らないが、とにかく持ち帰っている。疑い、じゃないな。もう確定だ。逮捕するか始末することになるだろうな。まったく日本人てやつは油断も隙もない」
 アンドリューは小声でまくしたてた。


 ごくり、と今度はパトリックが唾を飲み込む。
 二重スパイ。
 あの時感じた違和感はこれか。
 いや、それよりも。

 逮捕するか始末する──

 この場合逮捕ではなくおそらく「始末」なのだ。


 本来なら生かして捕らえ、背後の組織なり人物なりを特定するのが規定路線だが、父が二重スパイに気づかずずっと情報を垂れ流ししていたなどと他に知れたら父自身処分されるだろう。そんな経歴に傷がつくような真似を父がするわけがない。まして、スパイの妻を事実上の愛人にしていたなど、なんという間抜けな話だ。
 だとしたら、行雄自身につまらぬことをべらべら喋られると色々不都合もあるだろう。
 

 行雄は命を狙われている。
 

 もしここに行雄が現れてしまったなら、何人いるか判らないがおそらくここを取り囲んだ父の配下の者によって有無を言わさず射殺されるだろう。そのために兄はここにいたのだから。

「──アンドリュー、提案がある」
 咄嗟に口を開いた。
「あちらもスパイなら無防備でそこへのこのこ出てくるわけないだろう。もしここで失敗でもして取り逃がしたら厄介なことになる」
 アンドリューは怪訝な顔で小さく頷いた。
「俺はまだ学生で、しかも子供の頃行雄のピアノを一番熱心に聴いていたのは俺だ。俺がたまたま行雄の姿を見つけて懐かしくなって訪ねてきたのだとしたら行雄も少しは油断するんじゃないかと思う。そこで、俺が彼を兄さんたちの待ち構える別の場所に誘い出す」
「ダメだ、それは危険すぎる」
「大丈夫だ。俺だって、尊敬する父さんを虚仮にされてはいくら相手が行雄でも黙ってはいられない。何か役に立ちたいんだ」
 兄はじっとパトリックの顔を見ている。どうせ、その表情の奥に何が隠されていようとアンドリューにそれを見抜くことなど出来ないだろう。
「それに兄さんは知らないだろうけど、俺だけが知っている行雄の秘密があるんだ。それを使えば必ず誘い出されてくる。最悪の場合はその場で俺がやる」
「なんだ、その秘密って」
「切り札は味方にもそうそう明かすもんじゃない。兄さんは喋りすぎだ。人が好過ぎるんじゃないか」
 口の中で皮肉に笑ったが、その笑いすら兄は気づかなかったかもしれない。むっとした顔をしたが少し考え、大きく深呼吸をした。自分の判断でそれをやっていいものか迷っているのだろう。兄がこれほど煮え切らない、決断力の無い人間だとは知らなかった。
 これでは軍で出世して隊を率いるようになってもろくな功績は上げられまい。
「いいね、とにかく今から訪ねてみるから回りで監視している連中は一旦下げてくれ。俺は正面のレストランの方から何も知らないフリをして訪ねていくからな。それで──2時間後にここでスタンバイしていてくれ。必ずそこへ誘い出す」
 ポケットから手帳を取り出しメモを書いて兄に渡す。決断しきれていなかったアンドリューはパトリックの速攻にただうんと頷くしかなかった。
「で、周辺には何人配置してたの?」
「6人だ」
「わかった。ああ、拳銃を貸してくれるかい?さすがに遊びに来るのにそんなものは持って歩いていないのでね」
 アンドリューは自分の懐から拳銃を取り出しこそこそとパトリックに渡す。すでにパトリックが完全にこの作戦の主導権を握っていた。アンドリューは言うなりである。
「大丈夫か」
「射撃の成績は学年で一番だ。心配いらない」


 もしかしたら、子供の頃から考えてもこんなに兄と会話したことは無かったかもしれない。クリスマスなどの休暇の時しか会わないし、パトリックが無表情で無口な子供だったからか兄は妹ばかりをかまっていた。兄もきっと、弟がこんなにぺらぺらと喋ることを驚いているだろう。
 パトリックはそんなどうでもいいことをふと考えながら拳銃を懐にしまい、手を振って路地から駆け出した。

 何故か、頭の中がいやに冷静になっていく。

 何気なく視線だけを巡らせると、何人かの人影が動いているのが見えた。兄から一時撤収の合図があったのだろう。少し遅れて表通りからもそれらしき人間が撤収していった。
 アンドリューが無能で良かった。
 有能な指揮官なら、こんな思いつきの作戦に乗せられるわけがない。監視の人間を本当に全員撤収するとは狂気の沙汰だ。
 

 行雄を誘い出すための「秘密」などパトリックが持っているわけもなく、何もかも口からでまかせだった。とにかく監視の人間を一時引かせて、別の場所に移すのが目的だったのだからよく考えればその不自然さに気づく筈だ。
 

 本当に、あの兄は人が好い。騙したり騙されたり、そんなことに向いていない人間なのだろう。弟だからという理由だけで、機密を暴露し作戦の不自然さにも気づかず──
 ジャズ・エイジのような時代がずっと続くのなら、アンドリューのような人間はさぞかしそれを享受できるだろう。
 彼は生まれる家と時代をきっと間違えたのだ。

 では、自分は──?

 店はもう閉店近く、客も居なかった。
 ホテルのレセプションカウンターへ向かう。日本人らしき小さな老人がそこに座っている。
「行雄にパトリックが来たと伝えてくれ。どうしても今すぐ会いたい」
 それからカウンターに身を乗り出すようにレセプションの老人の耳元に顔を近づけて言った。
「──危険が迫っているから、と」
 老人はパトリックの顔を承知していたかのように訳知り顔で頷くとのろのろと階段へ向かった。
 老人が降りてくるまでの間、何時間も待たされているような気分になる。ようやく老人が降りてきた時時計を見ると、まだ5分も経っていなかった。
「部屋は変わっていません、どうぞ、と申しております」
 聞き取りづらい日本語訛りの英語で老人が言うとパトリックはゴムの仕掛け人形のように階段を3段飛ばしで登った。

──行雄はとりあえずまだ無事だ。

 

 ノックをすると、かすかにどうぞと返事が聞こえた。そろり、と開ける。
 あの狭い室内に、行雄の姿が見えない。


──?


 一瞬反応が遅れた。
 部屋に入った途端、首筋に冷たい金属の感触。
「──手を上げて」
 指示に従い両手をホールド・アップすると、パトリックの首に銃をつきつけた行雄が銃口はそのままに左手でドアを閉めた。そしてそのまま正面に回りこむ。
 あの漆黒の大きな瞳は今まで見たことのない凶暴な光を放っていた。
「拳銃は内ポケットだ」
 パトリックから目と銃口を逸らさず、左手でパトリックの上着の中を探る。ポケットからアンドリューの拳銃を拾い上げると行雄はそれをベッドの向こう側へ投げ捨てた。
「それをどけてくれ。俺は話をしにきたんだ」
「ここへは来るなと言ったはずでしょう。だからきみを巻き込みたくなかったのに」
「──この外ではアンドリューとその部下が6人、あなたを監視していた。とにかくそれをある場所に追いやったし、俺がいるから無理に突入してくることもないはずだ。危険には変わりないが、今は拳銃は必要ない。俺はあなたを助けたくて来たんだ。俺の顔を見てくれ。嘘を言っているかどうか」

 あの特別な目で、俺が本気で行雄を助けたいと思っていることを見抜いて欲しい。

 

 行雄は静かに拳銃を下ろした。けれど、その手から離すことはしなかった。警戒は完全に解いてはいないのだ。
「あなたが二重スパイだというのは本当なのか」
 時間がない。単刀直入に尋ねる。
「ええ、本当です」
 行雄にも時間がないのだろう。決してパトリックから目を離さず、あっさりと肯定した。
「正確に言えば、ひろ子です。きみの父上が彼女を溺愛して油断しきってベッドで色んな話をしてくれた。それを僕が全部とある場所へと報告した。もちろん、きみの父上は僕を小回りのきく便利な飼い犬のように思っていたから、僕が適当な情報を持っていくと調子にのってやはり色々話してくれましたがね」


 聞いているうちに、胸が苦しくなってきた。
 ひろ子は、その役割を担ってわざと父と愛人関係になったというのか。
 

「ひろ子はあなたの妻なのに──」
 行雄の眼が一瞬、パトリックの知っている優しく哀しげな色に変わった。
「彼女とは役目を果たすために便宜上結婚しただけです。本当の意味での夫婦ではありません」

 ピアノの勉強をしにアメリカに来たと言った。それも嘘で、本当の目的はスパイだったのか。子供の頃、行雄が来ているとひろ子と互いに労わりあっていて、アメリカ人の夫婦のようにわかりやすい表現ではないけれど愛し合っている素敵な夫婦だと思っていた。あれも全部芝居だったのか。

 もう全て知られていると観念したのだろう、行雄の述懐は止まらなくなっていた。
 

 パトリックの父は、行雄が裏切らないための人質としてひろ子を雇っているつもりだったこと。
 そしてひろ子もまた父から身体を要求されて拒めば行雄を処分すると脅されていたこと。
 父は、完全に行雄とひろ子を掌握しているつもりだった。最初からそうなるように仕向けたのは行雄たちの方だったのに──

「きみの父上は軍人として指揮官として非常に優れているかもしれないが、女性が絡むと途端に判断力が低下する。そこにつけこんだのです」
 パトリックは絶句していた。
 自分が見ていたものは全部、何もかも虚像だったのだ。

「──それで、ひろ子は?」

 ここまで聞いてしまったらもう気遣いなど要るまい。全部明らかにしてやろう。
 行雄は唇をぎりっと噛み締め、眉をしかめた。


「ひろ子は──最後には発狂して、自殺しました」

 美しい花柄の和服を纏いその上から真っ白いエプロンをつけていた、慎ましく黒髪を結い上げて、いつも静かに優しく微笑んでいたあの頃のひろ子の姿が目の裏に蘇る。

「次の質問は、『ひろ子が身篭っていた子供はどうなった』……ですか?」
「──」
「なんとか無事生まれましたが安心して下さい。あれはどう見ても白人との混血じゃない。つまり、あなたの父上の子ではない。良かったじゃないですか、妙な弟が出来なくて」

 父の子ではない?
 では──

「ああ、もちろん僕の子でもありません。言ったでしょう、僕とひろ子は事実上は夫婦ではなかった。結局あの子の父親は誰か、僕にもわかりません。ひろ子は日本の外交官や政府の高官たちにも場合によっては肉体関係を迫られていましたからそのうちの誰かではないかと思いますが」

 なんだか──
 目が熱い。

「どうしたの、そんな泣きそうな顔をして」
 行雄が優しい顔で微笑んでいる。それは初めて会った時の人懐っこそうな笑顔と寸分変わらなかった。
 その変わらぬ顔が尚更胸を締め付ける。


 行雄はひろ子を愛しているわけではなかったのか。
 だからそんな他人事のようにひろ子の悲劇を語ることが出来るのか。
 

「確かに彼女は辛かったでしょうがみんな承知の上でこの国に来たんです。ただ出産後落ち着くと、自分がしてきたことの醜さを自分で責めるようになってしまった。それがどんどん彼女自身を追い詰めたんです。でも──」
 ずっとパトリックから逸らさずにいた視線を静かに落とす。


「これから時代がどうなるかを考えたら彼女が先に逝けたのはむしろ幸せだったかも」

 

 ひろ子も辛かっただろう。
 でも行雄だって辛かったはずだ。
 二人はその小さな身体にいったいどれだけの重みを抱えさせられていたのだろう?

「子供は──」
「今はある人に預けてあります」

 とうとうパトリックの目からこぼれ堕ちてしまった涙を、行雄は左手の指で拭った。
 

 その指は、人の涙を拭うためでも引き金を引くためでもなく、あの美しい音楽を生み出すためにある指なのに。

 頬の上の指に手を伸ばし、壊れ物のようにそっと握って目を閉じる。

 俺はただ──
 行雄のピアノを聴いていたかっただけなのに──

「パトリック」
 右手の拳銃をベッドの上に置くと、両手でパトリックの頬を包みこむ。


「もしもの時、きみに頼みたいことがあります」
 

 行雄の顔はもうすっかりパトリックのよく知っている栗鼠のような顔に戻っていた。
 大きな黒い瞳が心なしか潤んでいるように見えた。

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 なんだか監禁されているような気分だ。
 もしかしたら、本当に監禁されているのかもしれない。


 病室はとにかく退屈で、気ばかりが焦る。

 パトリックは右脚に大袈裟にぐるぐる巻きにされた包帯を眺めると、うんざりと溜息をついた。
 ノックの音がして勢いよく入ってきたのはアンドリューだった。
「ああ、起きてたのか」
 寝ているかもしれないと思うならあんな大きな音を立てなければいいのに──と思ったがアンドリューは自分のことで手一杯といったていで、そんなことを気遣う余裕は無いように見えた。
「杖があればもう歩ける。いつまで入院させておく気だ」
「俺がこの後始末にどれだけ苦労したと思ってるんだ。抗議する権利は今のおまえにはないぞ」
 興奮さめやらぬようにアンドリューはまくしたてたがパトリックには兄が何をそんなに興奮しているのかがよくわからない。


「おまえは撃たれるし、撃たれたからただの事故でも届けられないし、警察や軍にあれこれ詮索されたら今度は父さんの力を使って揉み消すことになるし、この病院でも口止めしなきゃならないし、そのうえ連中はてんで散り散りに逃げやがって全部取り逃がすし、もう踏んだり蹴ったりだよ。どうしてくれるんだ」

──逃げた。

「逃げられたのか」
 いつものように無表情──としかアンドリューには見えていないだろう──な弟の言葉に、アンドリューは何かのスイッチが入ったかのように目を吊り上げた。


「ああ!おまえの『作戦』のおかげでな!!おまえがあんなところで間抜けにも脚を撃たれて倒れて転がってヤツを逃がしてしまったりしなければ今頃少なくとも行雄だけでも捕まえるか殺せてたのに!!」
「声が大きいよ。外に聞こえる」
 冷静なパトリックの声に更に頭に血が上ったようだったが、なんとか大声だけは飲み込む。
「──いくら士官学校の成績がいいとはいっても、おまえは所詮現場を知らずに机上で作戦を立てるのが好きなただの子供だってことだ。うっかりおまえの作戦になんか乗ってしまった俺が間違っていた」

 ふむ、その程度の反省は出来るのか。
 パトリックは心の中では爆笑したいくらい高揚していたが、当然アンドリューはそれにも気づくことがなかった。
 とにかく、当面は行雄を逃がすことが出来たらしい。

 

──それにしても。

 本当に撃つことは無いじゃないか。
 そんなことをしなくても、あの裏通りの曲がり角で俺は行雄を逃がす予定だったのに。
 定期的に襲ってくる脚の疼痛に少しだけ顔をしかめて包帯を睨みつける。

「その傷では、卒業後すぐにどこかの隊に配属されるのは無理だろう。いや──」
 アンドリューの言葉にふと我に帰る。兄はそれまで途切れなくずっと口を動かしていたのに、突然口を噤むと少し言いにくそうに弟の顔を見た。


「医者によると最悪、脚に後遺症が残るかもしれないというんだ。そうしたら──」

──軍人になることが出来ないかも?

「父さんの息子であることや士官学校での理論や実技、あらゆる成績が主席クラスだったことを考えれば、作戦司令部だとかそこまでいかなくても本国での総務関係に回されるかもしれないが──父さんのように武勲を挙げて出世して、という道は閉ざされたかもしれないな」

 それでもパトリックの表情は変わっていなかったのだろう。
 けれど、アンドリューは無表情な弟がきっと落胆の気持ちを表現できずにいるのだと勝手に解釈したらしく、突然泣きそうな顔になった。
「──すまない、パトリック。やはりおまえを巻き込むのではなかった。俺の責任だ。おまえの将来を台無しにしてしまった」
 本当にめまぐるしく表情の変わる男だ。
 兄の顔を見ていると、これが同じ血が流れている兄弟なのか、やはり自分は脳の機能に少々異常があるのではないだろうかと思わずにはいられなかった。
「いいか、あのジャップども、絶対見つけだして全部始末してやる。おまえの報復の分までな」
「そんなことより今は少し一人にしてくれ、兄さん」
「おまえ、自殺なんかするんじゃないぞ」
「俺がそんなことをするタイプに見えるかい?」
 しょんぼりと肩を落とした兄は、何度も振り返りながら病室を出ていった。
 兄には自分が『誇り高き合衆国軍人』への道を閉ざされて大きなショックを受けているように見えたのだろう。

「──ブラヴォ」

 口の中で小さく呟くと、口元ににんまりと笑いがこみ上げてきた。
 他人が見れば笑っているのかどうか判断に困る程度の変化だったかもしれないが、とにかくパトリックは笑いを堪えきれなくなっていた。
 行雄がパトリックの脚を撃ったのはおそらく、パトリックが身内に疑われなくするためだ。
 ただ単にミスで逃がしてしまっただけだと、下手をすれば積極的な関与を疑われてしまう。しかし流石に撃たれてはそんなことを疑う者はいないだろう。身内だから尚更──
 しかし、まさかとは思うが行雄はここまで計算に入れて撃ったわけではあるまいか。

 リハビリを始めてみなければわからないが、脚に障害が残るといってもおそらく少し引きずる程度だ。杖までは必要あるまい。そこから壊死して脚を切断するするだの破傷風になるだの、すぐに手当てをしているのだからそんな事にもならないだろう。
 日常生活にたいして支障が無い程度なのに、兵として戦地に向かわずに済むかもしれないのだ。
 自分はもうすでに、軍人として昇進するという目標はどこかに置き忘れていた。兄が気遣うようなショックなど受けるわけもない。
 
 不可能に近いと思われた行雄の『頼み』を叶えてやることが出来るかもしれない。

 突然視界に明るい光が差したような気がして、パトリックは脚の痛みも構わず立ち上がって飛び上がりたい衝動に駆られた。
 そんな気持ちになったのは生まれて初めてだった。

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*note*

まだ本編とかこれまでの話に出てきた人が出て来てる感じしませんね!!!(笑)実はすでに2人は出てきてるんですよ!!!←

​しかもこのシリーズ全体、一応ジャンルはBLというか古い言葉でいうとオリジナルJUNE!!なのですがその気配すらない話ですね、なんのジャンルだこれ。別にどっちでもいいんだけど、パトリックの父上はひろ子だけじゃなく行雄にも手を出してる可能性はなくはないと思う一方この人本気で「女好き」みたいだから無いかも、と。同性愛者とかに偏見もってそうだし。あと​一応親日家だったという設定だけど、同等の人間とは思ってない気がします。蒐集している美術品と同じレベルでひろ子を愛人にしていたって感じ。

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