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Sin.co   The Name of the bar is;

ドライブ -1-
ロックグラス.gif

 くたびれた木枠に曇り硝子の入ったドアにノックの音がして、おずおず、とでもいうようにそろりと開く。
 1/3ほど開いたドアの隙間から若い娘が二人、不安そうに顔を覗かせた。

「いらっしゃいませ、なにかお困りですか?」

 

 にっこり微笑んで声をかけると、あからさまに安堵したように二人の娘はドアをもう少し開き、中へ入ってきた。
「よかったあ、日本語だ」
 一人は顔を紅潮させて満面の笑みを浮かべ、もう一人は安堵のあまりか涙ぐんでいる。
「こちらへどうぞ、おかけになって」
 カウンターの中で立ち上がり、その前に並べた椅子へ二人の娘を誘導する。二人はおとなしくそれに従った。

「ケイティです。どなたかのご紹介?」

 

「あの……パスポートの入ったバッグを盗られてしまって……英語もよくわからなくてどうしていいか……そしたら、通りかかった人がこちらを」
 一人の娘がポケットから紙片を取り出してケイティに渡す。
「ああ、ウェインさんから電話がありました。日本人観光客の女の子たちが困っているって。あなたたちね。警察へは?」
「通報してもらったんですけど、何がどうなってるのか全然わからなくて……あんまりマジメに取り合ってくれてない感じもしたし……」
「しょうがありませんね、盗られたバッグは99%はもう帰って来ないと思います。それで、パスポートの再発行手続きをしなければならないんですね」
「すみません……」
 ケイティは手馴れた様子でパンフレットのようなものと地図をカウンターの上に広げ、マーカーで印をつけながら、総領事館への行き方とそこでの身の処しかたなどを説明し始めた。まるでマニュアルを暗記したように澱みない説明だがそれだけ同じようなケースに出会っているということである。


 泣き出さんばかりに感激して娘二人はぺこぺこと頭を下げながら出て行った。

「コトバも判らないでトラブルに出会ったときにどうしたらいいかもわからない癖に自由旅行なんて気取るからこういうことになるんだ。バッグにパスポートを入れて振り回しているなんて可哀想にあの子たち、馬鹿なのかな」

 娘たちを笑顔で見送っていたケイティはドアが閉まると同時に大きく溜息をついた。


 『KT's OFFICE』は別に観光客向けのインフォメーションでもヘルプデスクでもないがオープンして半年も経たないのにいつの間にか口コミでこの界隈で日本人が困っていたらケイティのところへふっておけ、ということになっているらしい。
 そもそも日本人相手に仕事や住居の仲介をするのが本業だが、それも実のところ不許可である。だから表立って看板も打っていないし、バーガーショップの2階のボロい事務所を使っている。

 やれやれといった風に冷めたコーヒーを喉に流し込んでいるケイティの背後で、くすくすと笑い声がした。
「彼女達、きっとケイティと出会ったことがこの旅の一生の思い出になるわね。とてもクレバーでスマートでハンサムな女性に助けてもらったって」
「こんなボランティア、ほんとは願い下げなんだけど。地図代の5セントくらいしか儲からないなんて仕事とは言えないでしょ」
「でもケイティはとても親切だわ。どんなにバカな観光客が相手でも」
「ジニー、もう勘弁してよ」
 ケイティは苦笑すると立ち上がってコーヒーを淹れ直す。
 もう10年もここに住んでいるかのようなケイティだが、まだオフィスを開いてから半年にも満たないし、その前には数度短い滞在をしたのみだった。ケイティを頼ってくる者たちの方がよほど長くこの街にいるケースも珍しくない。それでも、『10年もここに住んでいるかのように』あらゆる案件をクリアしてゆくものだからその評判はアンダーグラウンドではあるが随分広がっている。


「あと15分で5時。ジニー、今日はデートなんでしょ?もう上がっておめかししてていいよ」
「ほんと?そうするわ。ケイティもたまにはボーイフレンドとデートすればいいのに!」
 そばかすだらけの顔を輝かせて立ち上がるとジニーはいそいそとオフィスの奥へ向かった。遠慮などあろうわけがない。
 手早く化粧を直すとジニーはじゃあまた明日ね、と言ってケイティの頬にキスすると弾むように出ていった。まだ5時前である。

 ケイティはカウンターの上に朝の新聞を大きく広げた。まだ全部は目を通していない。
 窓の外からがらがらと金属音が聞こえて時計を見ると5時になったところだった。階下のバーガーショップが閉店してフェンス状の外扉を閉めたのだ。ところどころ錆付いているので毎日聞こえるこの音は決して心地よいものではない。
 夕方以降になると開いているのはレストランやバーばかりになるが、バーガーショップが毎日5時で閉店するというのも珍しいかもしれない。いつもほぼ正確に17時に閉店しているので、時報のようなものだとケイティは思っている。
 金属音が聞こえなくなるとほどなく階段を軽快に上ってくる足音。まだ施錠していないドアがノックもなく開いてひょっこりと顔が覗いた。


「やあ、ケイティ。バーガーとフレンチフライはいかが?ペプシもつけるよ」
 

 紙袋をぶら下げて入ってきたのは、バーガーショップの若い店主だった。ちらと一瞥しただけで、ケイティはカウンターの新聞に視線を戻す。
「もう残り物はたくさん」
「そう言うなよ。うちのバーガー、美味いだろ?」
「こう毎日じゃ嫌にもなるよ。ああ、お米が恋しい」
 バーガーショップの店主はずかずかとオフィスに入ってくると、先ほどケイティを頼ってきた哀れな娘達が座っていた椅子に腰を下ろした。
「ケイティがもうちょっと実入りのいい仕事をくれるならこんどマンハッタンいちのレストランに招待するよ。ねえ、なんかいい仕事ないの?」
「無茶言わないの。私はまだここでは駆け出しなんだから、そんな大口の仕事が簡単にいくつも掴めるわけないでしょう?あなた、腕はいいんだから他にも仕事の口はあるんじゃないの」
 店主は自分が持ってきた紙袋をがさがさ開いてバーガーを一つ掴み出すと残りをケイティの広げた新聞紙の上に置いた。手に持ったバーガーはそのまま自分でかぶりついている。
「だってアタシ、か弱いから、変に本職のマフィアなんかとお付き合いしたくないんですもの」
 甲高い裏声を出し、おどけるように女っぽい仕草でケチャップのついた指を舐った。顔つきは少年っぽさが抜けていない感じだが体格は日本人から見ればスポーツマンのように筋骨隆々と見えるから──もっともその程度の体格の男はそのへんにごろごろしているが──その仕草はコメディアンのように滑稽だ。

「──マシュー」

 迷惑そうに紙袋を押しのけるとケイティは店主──マシューの頬をきりっと捻り上げる。途端にマシューは小さく悲鳴を上げた。
「だったらあまりしつこく私に仕事の催促しないで。必要以上に接触すると何かあった時に困るのはお互い様でしょう?心配しなくてもいい仕事が入ったらあなたに回してあげるから、それまで真面目にバーガーを売ってなさい」
 マシューは口を尖らせて大きく肩をすくめると、バーガーの残りを再び頬張り始めた。
「──それで、あなたの新しい彼氏は日本人なの?また部屋に引っ張り込んでるみたいだけど」
 やや強引に話題を変える。
「あれ、よく日本人だと判ったね。俺は最初チャイニーズかと思ったんだけど」
 日本人から見ると特大のバーガーをぺろりと完食すると、マシューは今度はフレンチフライをつまみ始めた。
「判るよ、それくらい。私も日本人だもの。あなたがどこの誰と付き合おうが興味はないけど、素性もわからない人間を身内に入れるなんてよく出来るなと思っただけ」
「仕事とプライベートは別だよ」
 この天真爛漫さが彼の長所なのか短所なのかは、ケイティにはいまだにわからない。何も考えていないように見えるが『仕事』はきちんと緻密にこなしてくれる。
「ちゃんと別に出来るんなら好きになさい。こっちに迷惑はかけないでね」
「同じ日本人なんだから親切にしてあげてよ。もっとも別に困ってもいないし同胞がいなくて寂しそうってわけでもないけど、エイクは」
 フレンチフライを全部一人で食べてしまったマシューは立ち上がった。結局雑談に来ただけという格好である。
「エイク?痛いのは頭?お腹?」
 ケイティにしては珍しくからかうような口調にマシューはからからと笑う。
「その『エイク』じゃないよ。日本人の名前は発音しにくいんだもの。ケイティだってそうなんでしょ」
 マシューは指でケイティの額をつつくとそのまま笑いながらオフィスを出て行った。それを見送りながら再び新聞に目を落とす。ふと思い出したようにマシューの持ってきたバーガーの袋を引き寄せ、手に取った。捨てるのはしのびない。
 
「エイク……ね」

 その日本人の姿はマシューのバーガーショップで2度程見たことがある。
 先刻、マシューにはああ言ったが実は生粋の日本人なのかどうかは判じかねた。
 心ここにあらずこの世の終わりのような暗い顔をしていて、最初は何かの病気かと思った。しかしああいう表情の人間には覚えがある。
 ベトナムの帰還兵だ。
 激戦に晒された挙句、精神を病んでしまって人が変わったようになってしまった帰還兵を何人か知っている。
 それに似ている。
 だから、最初は日系アメリカ人の軍人かと思ったのだ。

 しかし、口数が少ないものの会話しているのを聞いていると、ネイティブには思えなかった。意味は十二分に通じるがまだ片言の域を出ていない。滞在半年のケイティの方が余程流暢な英語を話している。


 ベトナム帰還兵というならマシューだってそうだ。もっとも、マシューは帰ってきて退役はしたものの激戦の影響などこれっぽっちも受けていない。受けているとするなら──人間を殺しても何の痛みも感じなくなったということだろう。ただ、もともと人殺しするのが平気だったからなのか戦争でそうなったのかはケイティは知らない。
 

 アメリカンドリームとやらを夢見て単身渡米する日本人の若者も最近は随分増えた。ケイティの本業はつまりそういう連中に便宜を図ってやることなのだが、要するにあの男──エイクもその類なのかもしれない。思うようにいかず、挫折してああいう暗い表情になっているということなのだろう。彼はケイティの姿を見て、一瞬ひどく嫌な顔をしたのが印象的だった。

 同胞がいなくて寂しい?
 違う。

 夢を追って挫折して──というのはあくまで仮説だが──今やゲイのヒモである。同じ日本人にそんな姿を見られるのはいきなり現実に戻されたようで嫌で、そして恥ずかしいのだろう。だからきっと彼は日本人を避けたい筈だ。

 食べ飽きたバーガーをとにかく最後まで食べ切るとケイティは手を洗いに席を立った。
 手を洗いながらふと顔を上げると自分の顔が目に入る。それを見て小さく溜息をついた。


「……親切にしてあげてと言われてもね」
 誰に言うでもなくひとりごちてケイティは蛇口を閉めた。

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「では残りの報酬はご指定の口座へ振り込みます。確認して下さい」
 受話器を置くとケヴィン・トンプソンはテーブルに戻った。


 テーブルには、恰幅よく白髪交じりであるトンプソンの、息子と言っても通るような若い金髪の男が座ってワインを傾けている。
「例の日本人のエージェントですか」
「ああ、そう。なかなかエキゾチックで美しい女性だよ。少なくともヨーコ・オノよりは私は好きだね。セクシーさが足りないのが残念だが」
 席に就きながらトンプソンは笑いを漏らした。
「……日本支社の人間からの紹介でね。若い女が来たもんだからこんなの使えるわけないだろうと思ったんだがどうしてもと言われてね。使ってみたらこれがなかなか優秀なんだよ、君」
 金髪の男は微笑みながら黙ってワインに視線を落とした。
「最初に来た時には、ろくな英語も話せなかったんだ。片言な上どこで覚えたんだかひどいテキサス訛りでね。この国で仕事したいならまともな英語くらい話せるようになってこいと追い返してやったら、たかだか一ヶ月ほどだったかな?次に会った時にはCNNのアナウンサーみたいな美しい英語を完璧にマスターしてきたんだよ。こっちがスラングまじりに下品なジョークを言えばそれにもちゃんと返してきた」
「素晴らしい。努力家は好きですよ、僕は。で、僕が知りたいのは彼女の語学力ではなくて仕事についてなのですが」
 皮肉に笑うとグラスを置く。トンプソンは困ったように苦笑し溜息をつくとテーブルの上の前菜に手をつけた。トンプソンがそれを飲み下すまでの間、沈黙が流れる。
「……そうヘソを曲げないでくれたまえよ。私はなにも君との関係を解消する気はないんだ」
「他人が聞いたら誤解を招く言い方ですね」

「テディ──」

 

 やれやれ──と天を仰ぐ。息子ほどの年の目の前の男に、トンプソンは頭が上がらない。
「僕との関係を解消する気がないというなら、彼女の情報をもっと頂けませんか」
 口元は微笑みながら射抜くようにトンプソンの目を直視すると、トンプソンは思わず目を逸らした。額にじんわりと汗が浮かんでいるのは別にワインに酔ったわけではない。
「そうは言っても、私だってそれほどの情報を持っているわけじゃないよ」
「持っていないなら調べて下さい──と言いたいところですが、あなたの部下にやらせるより僕の部下にやらせる方が早そうですね。わかりました」
 額の汗をハンカチで拭っているトンプソンを尻目に金髪の男──テディは立ち上がった。
「待ってくれ、君はいったい何を」
「ご心配なく。あなたにご迷惑はおかけしませんよ、トンプソン弁護士」
 窓の外の摩天楼を目を細めて眺めた後テディはにっこり微笑んでトンプソンのテーブルに背を向け、その姿が見えなくなるとトンプソンはようやく大きく深呼吸して食事の続きを始めた。

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 歩きながら腕時計を見ると、17時を少々回ったところである。
「やあ、ケイティ。こないだのお嬢ちゃんたちはちゃんとたどり着いたかね?」
「こんにちは、ウェインさん。ええ、私のところへは無事にやってきました。決して判りやすい場所じゃないのにウェインさん道案内が上手だから」
 社交辞令などと頭にも浮かばないウェインは得意げな顔をした。


 道端で雑誌などを売っているウェインは一日中そこに座っているので人の動きを驚くほどよく見ている。しかも子供の頃から何十年と同じ場所で商売をしているのでこの街の生き字引と言ってもいい。ケイティにとっても仲良くしておいて損のない相手だった。


「そういえば、どこのヤンチャどもか知らんが今日はそこらで爆竹が鳴ってたよ。聞いたかい?」
「いいえ──爆竹?」
「チャイナタウンで買いこんできて破裂させて人を脅かして遊ぶバカが時たまいるのさ。チャイニーズニューイヤーでもあるまいし」
 確かに爆竹といえばチャイナタウンと相場が決まっている。
 昔からここにいるウェインにすればそうは珍しくないことのようであるが、ケイティがこの街に住むようになってからはそういう事は無かった。

──思い過ごしならいいけど。

 妙な胸騒ぎ。
 ケイティはとりあえずウェインから雑誌を一冊買う。
「ケイティ──」
 ウェインは雑誌の合間に置いてある──それも売り物らしいのだが──ガラクタの中から小さな熊のぬいぐるみを拾い上げるとケイティに向かって放り投げた。


「気をつけなよ」
 

 ウィンクをしてにっと笑う。この爺さんの笑顔はいつもどこか懐かしく感じられて気が緩む。小さく微笑みを返すと受け取ったぬいぐるみをバッグに押し込んでオフィスに向かった。
 もう17時は過ぎているので、ジニーは戸締りをしてもう帰っている筈だ。そしてマシューのバーガーショップももういつもの錆付いたフェンスを閉じている筈──

 遠回りをして、オフィスのあるビルの全体像を見渡せる数少ない位置へ行ってみる。
 2階のオフィスの窓には格子が嵌っているし窓ガラスもワイヤーの入った曇りガラスになっている。
 ジニーには留守番が済んで帰宅する時は必ず青いカーテンを閉めて帰るように指示してある。当初はよくその指示を忘れていたのを根気強く指導して、やっと間違いなく必ず閉めて帰る習慣がついたものだ。
 それは、外から見てジニーが日常通りオフィスを後にしたか否かを知るためである。

 その、青いカーテンが閉まっていない。

 さらに、1階のバーガーショップ。
 一見、いつもと同じようにフェンスは閉じられている。
 しかし──

 常に携帯している小さな双眼鏡を覗き、フェンスの継ぎ目を見ると──
 きちんと閉じられていない。
 わずか20センチばかりだがちょうどショップのドアのあたりで隙間を空けている。
 

 あのフェンスは最後の30センチばかりを締めるのが一番錆付いていて硬い。マシューは当然毎日開閉しているのだからそれを上手く閉じるコツを知っている。
 つまり、あそこで止まっているということはマシュー以外の人間があそこまで閉めたということではないのだろうか?

 全身を緊張が包む。


 一旦その場を後にすると再びぐるりと回って、ビルの裏手へ出る。
 外の非常階段を音も立てずに上がる。まずは自分のオフィスだ。ジニーに何か起こったかもしれない。
 胸ポケットからまるで玩具のような小さな銃を取り出し、構えながらオフィスの裏口の扉をそろりと開けた。

 人の気配はない。

 銃を構えながらドアの中に入り、完全には閉めないようにして奥へ進む。
 キッチンは片付いていた。
 つまり、少なくともジニーは17時10分前までは日常通りだったわけだ。
 洗面所にも異常はない。
 オフィスを覗き込んだ。

 カウンターにもたれかかって床に座ったような人影が目に映る。ケイティは一瞬深く息を吸い込み、ほんの一秒、目を閉じた。

──ジニー。

 血と火薬の臭いがオフィスに充満している。
 ポケットのハンカチを丸めてオフィスの中に向かって投げてみた。
 反応はない。
 賊はもう撤収した後のようだ。
 靴を脱ぎ裸足で姿勢を低くしたままオフィスに入る。
 カウンターの下の金庫が破られていた。

──金目当ての強盗?
 
 しかし、その割には金庫以外の場所が妙に荒らされている。
 金庫にはある程度まとまった現金が入っていたから、この金庫を開ければ強盗ならもう用はない筈だ。
 明らかに、金目のもの以外のものを探した痕跡である。
 しかし、おそらくあまり長くはここにいなかったのだろう。隅から隅まで探ったわけではないらしい。
 金庫の隣、カウンター下のキャビネットにはファイルが何冊も並んでいる。捲ると不動産の物件情報やら観光地図やら、『このオフィスに必要な書類』 ばかりなのだがそれも探った形跡があった。
 慎重にその中の一冊を広げ、このあたりの地図と主要な観光スポットの電話番号などが印刷された紙を抜く。その下に隠れていた書類を見てケイティはふう、と息をついた。どうやら、賊の目的はこれではなかったのかもしくは発見できなかったのだろう。
 同じように何冊かのファイルから書類を何点か拾い出すとキッチンのシンクでそれを燃やす。
 その間にケイティが寝泊りに使っていたベッドの下からアーミーブーツを引っ張り出し、それを履いた。服は後でなんとでもなる。
 とにかく、問題は階下のマシューだ。もしかしたらエイクもいたかもしれない。
 再びオフィスを後にしようとして、ふと、振り返る。

 

──ジニー。

 オフィスを構えてまださほど経たない頃だったか。
 夜の街で日本人のビジネスマンらしき中年男性といかにもな売春婦がトラブルを起こしているのにたまたま遭遇してしまった。カモられて可哀想な目に遭うのはこういう場合哀れな日本人であることが多いのだが、どうやら風向きが違う。売春婦の方が男に繰り返し殴られたりしている。
 ケイティはよせばいいのに、そのトラブルに割って入って売春婦を助けた。それがジニーである。
 以来ジニーはすっかりケイティに心酔し、オフィスに入り浸ってついに留守番役として『就職』してしまった。
 少々でも稼ぎがあれば、売春婦から足を洗えるだろうか、と親切心を出したのが仇になったか──

──ごめん、ジニー。
──私なんかに関わらなければ。

 オフィスに背を向ける。
 入ってきた裏口から音を立てずにそろりと降りて、階下の店の裏口に張り付いた。
 壁に沿って腰を落とし、慎重にドアノブを回すと鍵はかかっていない。『もしもの時のために』、通常ここに鍵はかかっていないということをケイティは知っている。
 ほんの少しドアが開くようにすっと押し出す。中からの反応はない。
 するりと忍び込み、バックルームと店を隔てるドアに近づく。マジックミラーになった覗き窓から店内を伺う──

──いた。

 表のフェンスは概ね閉じてあるとはいえ、もともと通りに面してはほぼ前面ガラス窓になっている。しかし閉店の際にはその窓にはブラインドカーテンがかけられ、外からは店内の様子が判らない。
 とはいえ通りから覗き込もうと思えば伺うくらいの隙間はある。大胆だ。
 パイプで出来たチープなテーブルや椅子が乱雑に転がっている。カウンターの死角にまだ誰かいるかもしれないが、最低4人はいる。
 全員白人か──いや、メキシコか中南米か。体格は特別屈強そうでもない。が、それぞれ拳銃を持っている。
 床に血溜まりが出来ている。
 誰か撃たれたのだろう。
 向こう側の壁に、両手を付かされている男が一人。

──あれは、エイクか。
──ということは、撃たれたのがマシューなのか。

 賊の一人はエイクに銃口を向けてなにやら詰問しているように見えるがよく聞き取れない。

──エイクから何を聞き出そうとしてる?

 口の中で小さく舌打ちするとケイティは一旦後ずさり、再び非常階段に戻った。
 拳銃を背中に収め、腰のベルトを抜いて身構え、バックルームの入口に乱雑に積んだ木箱を蹴倒す。派手な音がした。すぐに、賊の一人が様子を見に店内から出てくる。慎重に、周囲に気を配りながら──
 扉から顔を出した瞬間、手に持ったベルトを賊の首に巻きつけ、ぎりっと締め上げて背後から拳銃を持った手を蹴り上げた。不意を突かれて男が拳銃を取り落とすとそのまま脇腹に膝蹴りを食らわせる。十分警戒していた筈の男はその場で膝を崩した。既に男の白い首は赤黒く変色し、声を上げることも出来ずにいる。半ば意識朦朧とし始めている筈だ。
 その勢いでうつ伏せに男を倒し段の上に伸ばさせた膝を全体重をかけんばかりに踏みつける。
 折れはしなくてもこれで暫くはろくに歩けもしない。

──ちょっと手間取ったな。

 息も乱さず、ケイティは再び男の首のベルトを引っ張り、今度は立たせる。巨漢が来たのでなくて良かった。
 男の体を盾のようにその後ろに隠れ、首に銃を突きつけて店内への扉に再び立った。勢い良くドアを蹴り開ける。


「全員動くな!FBIだ!」
 

 目の端でエイクに銃を突きつけていた男が一瞬怯んだのが見えた。

 

──あいつ!

 その隙をつくようにエイクが男の銃を払い落とし、傍のカウンターを踏み越えたのだ。
 そちらに目を奪われた間に、賊どもはがしゃがしゃと音を立てて表のフェンスの外へと退散し始めている。
「待て!」
 叫んだ瞬間、ケイティの頭上からばしゃりと何か液体が降ってきた。

──やられた!

 ケイティが盾にしていた賊の一人──
 その後頭部が花瓶のように割れて体ごと崩れ落ちる。

──目を狙ったか。いい腕だな。

 しかし、仲間をあっさり殺すとは思わなかった。
 生かしておいて、目的を聞き出そうと思っていたのに。
 つまりは、口封じされたのだ。

──汚い。

 カウンターに入りシンクに頭をつっこんで水道で頭を流す。服は今は仕方あるまい。
 そのまましゃがみこんで、シンク下の収納庫を開いて中のケチャップの缶を引きずり出した。
 蓋を開けて手を突っ込み、ケチャップの中に沈められたビニール袋を引っ張り出す。
 拳銃と弾丸。
 それを袋から出し、やはりズボンの背中と弾丸はポケットに突っ込む。


 脇を見ると、エイクが呆然とカウンターの向こうを見下ろしていた。
 視界の先には、倒れた身体がある。

 

──マシュー。

 腹に何発かくらっているらしい。
 苦しんでもがいた痕が床の血の海にくっきり浮かんでいた。
 反撃しようとしたのだろう、手には拳銃を握っている。

──あなたほどの『殺し屋』が。
──いったいどんなへまをやらかしたっていうの。

 眉を顰めて小さく呟くと、再びエイクに視線を戻した。

──?

 エイクは、恋人──マシューの言っていたのが本当なら──の死を悲しむようでもなく、ただじっとその『遺体』を見つめていた。
 それはまるで、何かを観察するように──

──何をしてる?

 そうやってマシューを見下ろしながらエイクは両手を、まるで胸の前の『何か』を探しているように落ち着きなく動かしていた。

 一瞬、ぞくりとした。

 しかし、そんなことには関わってはいられない。
 自分の頬をパチンと叩く。
「エイク」
 ケイティの声に突然我に返ったようにエイクはケイティを振り返った。
「生きたいか」
「?」


「死にたくないと思うなら私と一緒に来い」
 

 それだけ言うとケイティはカウンターを出る。エイクはそれを追ってきた。死にたくないらしい。
「ケイティ──君、FBIだったの」
 日本語だった。
「本物のFBIが単独でこんなとこに踏み込むもんか。あいつらはすぐに戻ってくる。そうでなきゃ本物の警察が来る。いつまでもぼうっとしてたらあっさり殺されるぞ。今の、仲間を簡単に殺したのを見ただろう?」
 早口で言いながら非常階段に置いたままにしていたバッグに自分のとマシューの拳銃を放り込む。
「エイク、軍事訓練を受けたことは?」
「ないよ、そんなの」
「スポーツは?」
「学校の体育の成績は悪くなかった」
 小さく溜息をついてもう一度エイクの顔を凝視する。
「ついて来れなければそのまま放っていく。いいな」

 エイクの第一印象──ベトナム帰還兵のような、魂の抜けたような顔では無くなっている。しかし今はそんなことを深く追及している場合ではない。

 裏道を駆け出してまず隣のビルとビルの隙間へ入った時、背後でものすごい轟音と爆風が起こった。
「まったく派手好きだな、アメリカ人てやつは。アクション映画か」
 振り返りもせず、先を急ぐ。
 エイクはそれにただ従った。
「──何処へ?」
「とにかく、この街を出る。西へ行こう」

──西へ。

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 慌しく人の行き交うオフィス。
 いくつものブースのドアを幾人もの人間が出たり入ったり忙しい。


「ワーナー先生、お客様です」
 

 そのブースの一つのドアに駆け込みながら、腕いっぱいにファイルを抱えた若い女が叫んだ。ワーナー先生、と呼ばれた男はちらりと視線だけを向けたが肩をすくめただけである。
 

「先生は忙しいってお断りしたんですけど──ウィル・マックが来たと伝えてくれと仰って」
「なんだって?」
 客人を無視しようとしていたワーナーは突然椅子をぐるりと回転させて立ち上がった。
 

「ウィル・マックって言った?」
 

「ええ。背の低い、小太りで白髪交じりの癖毛の、白人でアルコール焼けみたいな赤い顔のお年寄りですが。お心当たりがありますの?」
「あるとも。僕はちょっと出てくる。30分で戻るから悪いがここを暫く頼むよ。ええと、ロンはカナル氏にはこうなったら陪審員の心証を良くするためにうそ泣きの練習でもしろと言ってやれ。ケリーは引き続きあのレディの知人を探っておいてくれ。範囲は全米で──いや、念のためカナダとメキシコもだ。デニスは僕と来て」
 早口に指示を飛ばしながらハンガーにかかっていた背広を羽織るとワーナーはブースの中をざっと見渡し、ドアの外に出る。それにデニスと呼ばれたいかつい顔の中年の男が従った。ブースのドアには『アンソニー・T・ワーナー』と名札がかけてある。


 ブースの中の騒がしさとは一変してブース外のオフィスは静かなものだ。
「デニス、注意だけしておいて」
 歩きながら振り返りもせず小声で言う。小さくはいとだけ返事が返ってきた。


 受付に到達すると、『エリザベス&オーウェン弁護士事務所』と書かれた看板を珍しげに舐めるように観察している客人の姿を発見した。

「──ウィル!」

 ワーナーの声に振り返る。客人はにっこり笑うと気軽そうに手を上げた。
「お久しぶりです。わざわざ来ていただいて──ご用なら呼びつけて下されば」
「よせよせ。すまんな、こんなとこへ押しかけるつもりじゃなかったんだが年を取るとせっかちになっていかん」
 ワーナーは客人をこのビルの上階のテラスへ案内した。この時間にはあまり利用客がない。二人は窓際の席に向かい合って座り、デニスは着席せずに、ワーナーの斜め後ろに立った。
「まともなコーヒーなんて久しぶりに飲むよ。こんな小奇麗なとこもな」
「最近はどうなさってるんです。相変わらず路上生活同然ですか?ビバリーヒルズの豪邸だって買えるくらい財産をお持ちでしょうに」
 ウィル・マックは肩を揺らして笑うとコーヒーを美味そうにすすった。
「今の暮らしの方が性に合ってるのさ。おまえさんたちと違って、大富豪の暮らしなんて3日も持たねえな」
 ワーナーは小さく肩を竦めた。テーブルの上に手を組み、身を乗り出す。時間は余り無い。


「それで──閣下がわざわざおいでになったのはどういうご用で?まさか僕の顔を見にいらしたわけではないでしょう?それとも、何か訴訟でも起こしますか?誰かから訴えられましたか?」


「閣下はよせよ。それを言うならおまえさんが『閣下』じゃねえか、今や。なあ──テディ?」
「ここでその呼び名はお許し下さい、ウィリアム・マッキンリー」
 

 一瞬、沈黙が流れた。

「──俺の街でハデに爆竹を焚いてくれたのはおまえさんの手下かい?」

 眉をかすかに寄せる。目を細めると青い瞳の色が濃くなったように見えた。
「爆竹?何のことですか?」
「ちょうどあの時、そこのアンタ、あそこに来てただろ」
 ウィルが顎をしゃくって示したのはワーナーの後ろに立つデニスである。しかしデニスは表情を変えない。
「デニス、行ってたの?」
「いいえ」
「──まあいい。俺が何のことを言ってるのかは判ってるようだからな。全く無関係でもないんだろう」
 少し冷めてきたコーヒーを半分くらい一気に飲むとウィルはへへへ、と少々下卑た笑いを漏らした。
「どうしてそんなことを?それこそ引退したあなたには関係のない話だと思いますが」
「関係ねえけど、俺の街で勝手に芸のないドンパチやられるのは気に食わねえって言うんだよ。それに──」
 コーヒーの残りを飲み干して立ち上がる。


「俺はあそこのバーガーはいつも昼飯にしてたんだ。それを派手にぶっ壊しやがって。それからあの日本人のお嬢ちゃんもな、気に入ってたのに行方不明だ。逃げたのか殺られたのかもわかんねえ。面白くねえ、それだけさ」
 

 言うだけ言うとテラスを後にする。それを追おうとするデニスをワーナーは腕で制した。
「──ウィル・マック」
 呼びかけにちらりと振り返る。
「もし僕だったらどうするんです?今のあなたには何も出来はしない」
「さあ、どうしようかなあ」
 再びへっへっへと笑いを落とすとそのままウィル・マックと呼ばれる老人は立ち去ろうとした。その前を今度こそデニスが遮る。


「まだお帰しするわけにはいかなくなったようですね、マッキンリー閣下」


 振り返ると、ワーナー ── テディはまるで何か楽しいことでもあるかのように微笑んでいた。
 

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*note*

突然何が始まったのかという話(笑)。一見、本編にも「谷重」にも出てきてない全く別世界の話ですが、実はあの人とあの人の話です。だいたいこっちの世界でいう1970年代ごろの話のつもりなんですが、実は作者、そもそもアメリカに行ったことがありません(笑)。白状すると洋画とかドラマで得たイメージが大半です。​せっかくなので、セリフまわしなんかもちょっと洋画の字幕みたいな感じを意識しました。

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