top of page

Sin.co   The Name of the bar is;

ドライブ -2-
ロックグラス.gif

 まるでコメディのアニメーションのように走りながら分解するんじゃないか──

 と思うようなポンコツ車。


「走って止まれて曲がれれば十分!」
 

 ハンドルを握るケイティはアクセルを踏みっぱなしである。
 助手席ではエイクが地図を広げて懐中電灯でそれを照らしている。日は随分長いが、すでにとっぷりと暮れている。深夜に近い時間になっていた。
「ケイティ、10マイルほど先にモーテルがある。今日はそこで一旦止まった方がいい」
「のんびり旅行してるわけじゃない。5日も6日もかけてるわけにはいかないんだ」
「砂漠でガス欠なんてことになったら元も子もないだろ?そこで止まって朝給油するのがベストだよ。だいたい──」
 がたんと車体が揺れる。舌を噛みそうになってエイクは一旦黙った。


「だいたい、君は──というか俺たちは誰に追われてるんだ?誰から逃げてるんだ?教えてくれてもいいんじゃないか?」


 前方に明かりが見えてきた。
 エイクの言ったモーテルだろう。バーか何かも併設されているらしい。
「それが判るならこんなに急ぎはしない」
 スピードを落とす。
 エイクの助言を採用し、ここに泊まることにしたようだった。


「エイクこそ、あの連中に心当たりはないのか?」
 

 荷物を担ぎ上げながら独り言のように言った。

 寂れたモーテルは、他には2台ほど車が止まっているだけである。
 チェックインを済ませる間にエイクが併設のバーで食料をテイクアウトしてきた。
「──て、ベッドが一つしかないじゃないか」
「カップルだと思って気を利かせたらしいな。私は別に構わないが嫌なら部屋を変えてもらおうか?でもそういう面倒な客はよく覚えられてしまうから出来ればそれは避けたいけど」
 荷物をどさどさと下ろすとケイティは上着──すでにオフィスを出た時のスーツは動きやすいTシャツと日よけ代わりの薄いジャケットに着替えている──を脱ぎ、アーミーブーツを解き、少し笑った。
「そんなに心配しなくてもゲイの男を襲うほどサカリはついてないから」
 普通そういう心配をするのは女性の方なんだけど、などとぶつぶつ言いながらエイクもクイーンサイズのベッドに腰を下ろした。
「俺がゲイとは限らないでしょ。バイセクシャルで女もOKだったらどうするの」
「少なくともあんたが私をレイプする前に私があんたを殺すから、ご心配なく」


 エイクの買い込んできた紙袋を開くとバーガーが2つとペプシが2本入っていた。
「やれやれ──やっぱりバーガーなのか」
 それでも、夕食もとらずにここまで走ってきたわけで腹が減っている。2人とも食べ終わるまで無言になった。

「──マシューのバーガーの方が美味しい」

 

 ぽつりとケイティが呟いた。
「食べ飽きてたけど、これよりあのバーガーの方がずっと美味しかった……」
 エイクは返事をしなかった。
「──あの連中は、どうしてマシューを殺した?あんたから何を聞きだそうとしてたんだ?」

 5時少し前、もう店内の片付けは終わってラジオの時報が鳴ったら店を出てフェンスを閉めるだけ──という時、銃声が聞こえた。とっさに階上のケイティのオフィスだと察して店を飛び出そうとしたところをあの男たちが3人、押し込んできたのだという。
 その時点ですでにマシューは至近距離から腹に2発食らった。
 すぐにもう一人の賊が降りてきて、仲間と何か会話していたが言葉はわからなかったという。
「──スペイン語っぽかった。メキシコ人かも」
 エイクは壁に手を突かされ──ケイティが見た姿勢だろう──撃たれたマシューは床に転がされた。


 そして、誰に頼まれた、と執拗に問われた。

 

 おそらくエイクの『仕事』の標的の関係者なのだろう。すでに終わった仕事か、これから取り掛かろうとしていた仕事か──いずれにせよ、『誰に頼まれた』などと問われても当のマシューだって依頼人のことは何も知らない。仲介人、つまりケイティから標的とその情報を得ているだけなのだから。
 だから連中はケイティのオフィスも荒らしたのだろうか。資料を見つけることは出来なかったようだが──

 単にそれだけなのだろうか?
 ケイティはエイクの話を聞きながら頭を巡らす。
 そもそも、どこから情報が漏れたのだ?
 マシューが実働隊であることばかりか、エージェントがケイティだということまで知られていたのだ。
 自分は仕事の情報を漏らすようなへまはしない。ならばマシュー自身か?それとも──

「あんたマシューの本当の仕事のことを知ってたのか?」

 本当の仕事?とエイクは振り返った。
「とぼけるな。この状況でそんなに冷静でいられる素人の日本人なんているわけないだろ」
 ケイティは座った自分の股のあたりに置いていた拳銃を握り、顔だけをエイクに向けてその目を直視する。エイクは目を逸らさなかった。


「私が目的地はカリフォルニアだと言っただけであんたは真っ先に最新版の地図を買ってきてルート取りとナビゲートをこなしてくれた。──ずっと不思議に思ってたんだ。マシューのあの大雑把な性格でどうしてあんなに緻密な仕事が出来るんだろうって。あんたが彼の仕事をサポートしていたんだろう?」
 エイクは黙っている。

 

「マシューの──『殺し屋』のサポートを」

 一か八かだった。
 しかし西海岸までこう二人で行動することになってしまったなら、ある程度はっきりさせておきたい部分だったのだ。
 エイクがまったくの素人なのか、それともこちらの世界に属する人間なのか──
 ただ、ケイティには何故か確信があった。

「そうだよ」

──認めた。

 それにしても、この青年はなんと表情が乏しいのだろう。この状況でも全く焦ったり怯んだりする様子がない。
 ここまで来る間に時折笑顔のようなものを見せたりもしたが、明らかに作り笑顔である。会話をしているとそれなりにてきぱきしているし、当初感じていたような魂の抜けた役立たずといった印象は間違いだということはわかったが、それにしても喜怒哀楽を感じているのかどうか。


 自分もどちらかといえば感情や表情は豊かな方ではないと思う。しかし、単に仕事上の付き合いだったとはいえジニーやマシューが殺されれば悲しいし悔しいと思う。犯人に対して怒りも感じる。そして相手のわからぬ苛立ちも感じている。
 

 エイクがそういったものを感じているとはとても表情からは読み取れない。

「──判った。素人じゃないならこれを預けておく」
 エイクに対する疑念が晴れたわけではない。しかし、もしもの時に自分一人で戦うのは限界がある。ケイティはマシューのケチャップに隠されていた銃をバッグから取り出し、エイクの前に置いた。


「いや、いらないよ」
「いらないと言われても困る。自分の身は自分で守ってもらわないと。銃くらい扱ったことあるんだろ?」

───あ。

 動かないなと今思っていたエイクの表情がかすかに動いた気がした。嫌悪の方向に。
「それを使って誰かを殺すくらいなら自分が殺される方がましだよ」
「おかしなことを言う。殺し屋のサポートをしてきたくせに、自分で殺すのは嫌なのか」

 本当は──ケイティも殺すのが平気なわけではない。

 護身のためにその扱いを覚えただけで、出来ることなら殺したりはしたくない。しかし護身の為にだとしても持ちたくもないというのは極端な気がした。
「そう。誰が誰を殺してそれで金が動こうが別になんとも思わないけど、俺はそれには触りたくもないの。それは君の予備にしておいてくれよ。もしもの時に守ってくれなんて言わないから」
 そこまで言うなら無理やり持たせる必要もあるまい。ケイティは再びもとのバッグへ銃を戻した。

 本当に味方なのか──信用しきれていないのだから、銃を持たせずに済むなら本当はそれにこしたことない。


「わかった。守ってくれなんて言われても守る気はないけどね──さて、とにかく明日からも強行軍だ。休めるうちに休んでおこう」


 ケイティはそういってシーツに潜り込んだ。手元から銃は離さなかった。

ロックグラス.gif

 眠りはいつも浅い。

 この仕事を始める前から、子供の頃から、眠りはいつも浅かった。安心してぐっすり眠るなんてことは想像もつかなかった。
 だから、ほんの少しの物音ですぐに目が覚めてしまう。身体を休めるために横になって目を閉じたものの、神経は昂ぶったままなので殆ど眠れていないのと同然だった。
 

──いけない、少しでも眠らないと──


 そう思えば思うほど、眠りは遠ざかってしまう。

 2日目の夜である。
 もういい加減腕もだるいし尻も痛いし疲れが溜まり始めているのだが、なかなか眠れない。

 背中の方で、小さな唸り声がした。


──今、せっかくうとうとし始めたのに。


 頭にきて起き上がると、ケイティに背を向けて横になっていたエイクである。
 男女の組み合わせのせいかここでもやはりダブルルームを割り当てられてしまった。安いから文句は言えないが。


 いびきではなさそうだ。うなされている。
 身体を丸めるようにして、脂汗をかいている。


 皮肉にも、うなされているその顔がケイティが見たエイクの顔の中で一番表情豊かに思えた。

──?

 ふと、うなり声が止まった。
 それと呼応して、身体がビクリと痙攣した。
「おい──」

──呼吸が止まってる!?

 頬を叩いてみてもエイクは苦悶の表情のまま喉を掻き毟り始めた。
「ちょ……勘弁してよ」
 仰向けにさせてとにかく人工呼吸を施す。
 何度目かに、ようやくエイクは息を吹き返したように咳き込んだ。
「なんて手がかかるんだ」
 ほっと息をつく。ケイティの額にも汗が滲んでいた。
 息は吹き返したがエイクはまだ目を閉じている。意識が朦朧としているのか──
 と、突然エイクが両手を持ち上げ、ケイティの華奢な身体を巻き込んだ。
「っ、おい!」

──油断した!

 その腕を振りほどこうとして──
 しかし、それがケイティに危害を加えようというものではないということに気づいた。
「──エイク?」
 まだ呼吸は整ってはいない。鼓動も早い。身体はじっとりと汗ばんでいる。
 ただ、腕だけは何故かそおっと、優しくケイティの身体を包んでいる。そして、まだ夢の中のように目を閉じたまま、髪を撫でた。

──恋人のように。

 ケイティといえば、まるで全身の毛穴が収縮したように硬直してしまっていた。

「──マシュー」

 小さく呟く声が聞こえた。

──なんだこいつ。私をマシューと勘違いしてるのか?
──失礼な。私はあんなむきむきの身体じゃないぞ!

 腕を外すようにそろっと起き上がってまだ目を閉じたままのその顔を見下ろす。


 ああ、きっと表情に出ないだけなのだ。
 本当は、マシューを失ったことをちゃんと悲しんでいるのだろう。

 苦笑して溜息をついた。
 巻き込まれて密着していた身体を離そうとして──

「きゃ!」

 女のような──実際「女」なのだが──悲鳴を上げてケイティはその場から飛び退った。勢いでベッドから落ちそうになる。
 その声にようやく目覚めたように、のろのろとエイクが身を起こした。
「──ケイティ?」
「それ以上寄るな!このバカ男!」
「なんだよ……いくら男嫌いだからって……なにをそんなに毛嫌いするかなあ……」


 寝惚けた声が神経を逆撫でする。つい今さっき死にかけていた癖に──


「なにをって、所相手かまわずおっ勃てるのが嫌だっていうんだ!」 
「あ」
 エイクは自分の下腹部に気づいて、最大限想像で補った上で気まずそうな顔をした。
「助けてやるんじゃなかった!十分元気じゃないか!」
「あー…ごめん。言い訳するんじゃないけど、これは生物学的な反応で、死の危険を感じたら勝手にこうなっちゃうんだよ。いやらしい下心でなってるわけじゃないから安心してくれないか」
 ケイティは涙目になっている。
「……悪かったって。君が助けてくれたんだろ?ありがとう」
「びっくりした……」
「たまにあるんだ。そんな時、いつもマシューが助けてくれた。俺が息を吹き返すと、大丈夫、君は悪くないって言ってくれて──」


 そう言いながら、しかしエイクの顔はやはり表情らしい表情は浮かんでいなかった。
 

「一人でいるときにこの発作が起こっても、結局自力で息を吹き返したりするんだけどね。酸欠で頭痛が酷いけど」
 ようやく少し落ち着いたように座り直す。
「マシューが殺されて、悲しい?」
「その筈だよね……。でも、よくわからない。多分、悲しいんだろうな。でも俺は──」
 膝を立てて座ったままエイクはどこか遠くへ視線を投げている。
「ベトナムにいろんな感情を落っことしてきたみたいで」

──ベトナム?

「でもエイク、日本人なんじゃ……」
「日本人だよ。ベトナムへはカメラマンとして従軍したんだ。通信社に所属してね。記者には専門の護衛兵がつくんだよ、知ってた?」
 ケイティは首を横に振った。
 マシューはその護衛兵だったのだという。
 戦場で悲惨な写真ばかりを撮っているうち精神的に病んでいったエイクを、マシューは退役のどさくさでアメリカへ密入国させた。おそらく日本では行方不明だということで戦場で死んだことにされているのではないだろうか──


 アメリカで暮らすうちにエイクの精神は徐々に回復したが、感情はほとんど動かなくなったまま。嬉しいも楽しいも悲しいも寂しいも、怒りもそれから恐怖も──


「俺が怖いのは、俺自身だけだよ」
 

 エイクはそう言って、自分の掌を見つめた。

 だからか。
 銃をつきつけられても、恋人が目の前で殺されても、あれだけ冷静でいられたのは──

「俺が撮った写真は通信社を通じて日本の雑誌社に送っていたんだけどね、ある時こんなことを言われたんだよ」

 

──もっと過激でセンセーショナルなのは撮れないかな。

 平和な日本で担当者は無責任にそんな要求をしてきた。
 君の写真程度だと、なかなか売れないんだよね。もっと目を背けたくなるようなすごいの撮ってきてよ。せっかく戦場にいるんだからさ、そんな素材いくらでもごろごろしてるだろ?
 学生上がりで発言力のないエイクは気分が悪いのを堪えながら、要求に応えるために徐々に悲惨なものへ悲惨なものへとエスカレートしていく自分自身にすでに気づかなくなっていた。


 そして──
 敵の空爆によって倒れた民衆の写真を撮っていた時である。
 マシューではないもう一人の護衛兵がエイクにマシンガンを渡してこう言って笑った。

──もっと過激なのがいいんだろ?どうせ死んでるんだ。やっちまえよ。

 そして、エイクはそれを受け取り、その死体をバラバラになるまで撃った。その写真を撮った。その時、背後で悲鳴が聴こえた。空爆からなんとか生き延びた数人の、まだ子供と言って差支えない若者がエイクを見て恐怖に怯えている。死体とはいえ、味方の民間人を撃っているところを見られて、エイクは咄嗟に彼らにマシンガンを向けた。

「──撃ったの」

 エイクは一瞬電池が切れたように固まったかと思うと、小さく頷いた。

 せっかく生き延びた若者たちを殺した。

 そして、そのまだ息絶えずに苦しんでいる彼らに今度はカメラを向けた。

 シャッターを1度押した瞬間突然我に返り、エイクは持っていたカメラを地面に叩きつけるように投げ出して胃に残っていたものを全て吐いた。吐くものが無くなっても胃液まで吐いた。

 エイクのカメラは、それきり──動かなくなった。

「でも、俺はまだどうしようもないままなんだ。マシューが死んでも、死体を見ていたら無意識のうちに写真を撮らなきゃ、って思ってた。だから俺はカメラも銃も持っちゃいけない人間なんだよ──ケイティ?」
 振り向いたエイクは、少し笑っているようだった。


 マシューの死体を見つめながら、胸の前で何かを探るように手を動かしていたエイク。
 あれは胸の前にいつもぶら下げていたカメラを探していたのだ。
 

「君がそんな顔しなくてもいいよ」
「そんな顔ってどんな顔よ──」
 唇を噛みしめて俯いた。エイクが感じていない分を被されてしまったようだ。

──痛くてたまらない。

「そんな身の上話聞かされてどうしろって言うの。困る……」
「ごめん」
「謝られたらよけい困るわ」

 笑い声が聞こえた。
「──何よ、笑えるんじゃない」
「こんな時は笑った方がいいのかなと思って」


 一言余計だ──と言ってエイクの顔を見ると、その顔は作り笑いには見えなかった。

ロックグラス.gif

「──ラジオが壊れた」
「壊れたね」

 いずれにせよ電波状態も良くなかったのだが、ついにカーラジオはうんともすんとも言わなくなってしまった。
「──あと50マイルほどでガスステーションがあるから、そこで給油してちょっと休もう」
 もう随分西海岸には近づいている筈だ。日差しは益々強くなりつつあった。


 ラジオの音が無くなると、ただ車のエンジン音と今にも壊れそうな軋みの音と、砂漠を吹く風の音だけになる。
 エイクが煙草に火を点けた。
「私ももらっていい?」
 前を向いたままケイティが言う。
「あれ、煙草吸うんだ?ちょっときついよ」
 エイクはもう一本の煙草を取り、ケイティの口元に運んだ。それをケイティが銜えると火を点けてやる。
「──たまにはね」
「ケイティ、焦ってる?」

 このばか広い国は東から西へ行くだけなのに時差まであるのだ。ドライブをしながら横断そのものを楽しむような人間でなければ飛行機に乗る金の無い者か余程の飛行機嫌いの者でなければわざわざこんなことはしないのではないだろうか。
 しかし、飛行機を使うのは足がつきやすすぎる。だから、急いでいるのに車を使ったのだ。
 1時間や2時間の差ではないし、目指す目的地が追っ手に知られているかどうかも判らないのだから焦っても仕方ないのだが、落ち着かないのは止むを得ない。

「ロスには何があるの?誰がいるって聞いた方がいいのかな」
「ある大学の教授だ。中国の伝統文化などを教えている。まあ、風水とかそういう眉唾もののまじない関係が専門らしいけど」
 ケイティは吸い終った煙草を運転席の窓から手を出しドアでにじり消すとそのまま投げ捨てた。
「というのは表の顔で、香港のある組織の大物幹部といったところかな。渡米した時も世話になった」
「ケイティがその人と関わりがあったということはどれくらいの人間に知られてる?先に手を回されてる可能性はないの」
「夏教授と接触した時には私は別の名前を使っていたし、その後の足取りは彼にも知らせていない。よほどの情報網を駆使しなければ彼と私を繋ぐ線は出ない筈だけど──万が一このままアメリカを出国した方がいいようなケースになった時に、パスポートやビザの偽造を依頼するのは彼の伝手を使うのが一番確実で上質だと思う。自由になる家やマンションやオフィスの部屋をいっぱい持っているから暫く匿ってもらうことも可能だ。全面的に信用するのはどうかなとも思うけど──」
 独り言のようではあるが聴こえるような大きさだった声をほんの少し静める。

「もしもこの敵が、教授に私を引き合わせた人以上に彼と繋がりの深い人間だったら──やられるかもね」

 会話が途切れた。
 風の音がごうごうと響いている。

「退屈なら寝てていい。今更助手席で寝られたからといって居眠り運転はしないよ」
「いや──」

 更に短い沈黙。ふと思いついたようにケイティが再び口を開いた。


「──昔昔、戦争で親を失くした女の子がいました」
「?」
「退屈しのぎに勝手に喋ってるだけだ。別に聞かなくてもいい」
「……」

 

──女の子は親を失くしたので親戚にひきとられました。
 けれど、終戦直後で食べ物も少なく、困った親戚は女の子を人買いに売り飛ばしてしまいました。
 女の子は、顔に傷のいっぱいある怖い顔のおじさんに手を引かれて連れていかれた先で、お風呂に入れてもらい、煤けた顔や身体を綺麗に洗ってもらいました。髪を梳いて、きれいなおかっぱに切りそろえてももらいました。それから、体じゅうをお白粉で真っ白にされ、唇には真っ赤な紅をひかれ、見たこともないような綺麗なおべべを着せてもらいました。
 そのあと、不思議な匂いのする部屋にぽつりと座らされて、じっとしていると、そこにやってきたのはやたら背の高い、おヒゲを生やした青い目のおじさんでした。
 青い目のおじさんは女の子を見てそれはそれは大喜び。
 まるでお人形さんのように女の子を抱き上げて自分の膝に座らせ、頭を撫でてくれました。
 ただ、女の子には青い目のおじさんが何を言っているのか、全然わかりませんでした。
 おじさんは身ぶりで女の子にお酒をつぐように言ったようだったので、女の子はその通りにしました。そうするとまたおじさんはたいそう喜びました。
 けれど、しばらくすると、青い目のおじさんは、女の子の着物の裾から手を入れて、女の子の足を撫で始めました。しまいには、足の間の股のところまで。
 女の子はそのままじっとしていました。
 なぜなら、あの怖い顔のおじさんに、なにがあっても嫌だと言ってはいけないよ、もういいよと言われるまでちゃんと嫌がらずに我慢できたら、あとでご馳走をお腹いっぱい食べさせてあげるからね、と言い含められていたのです。
 女の子は、なにしろお腹がすいていたので、気持ち悪かったり、そんなところを触ったらきたないのじゃないかと思ったけれど、嫌だといわずにしんぼうしました。
 最後にはすっかり帯も解かれて、お白粉で真っ白の身体を青い目のおじさんが長い舌を出してぺろぺろとなめまわしても、我慢しました。
 そうしたら、本当に、すごいご馳走をお腹いっぱいに食べさせてもらえたので、次の日も、同じように我慢しました。
 次の日は、別のおじさんでしたが、やっぱり最後には女の子をすっかりはだかにして体じゅうをいじくって帰りました。
 来る日も来る日もそうして女の子はご馳走を食べさせてもらうために我慢しつづけました。
 時には、これをしゃぶってごらん、と自分のあそこを出してくるおじさんもいました。
 触るだけじゃなくて、股の間に指をつっこんでくるおじさんもいました。
 それでも、毎日女の子は我慢しました。
 時どき、怖い顔のおじさんにひどく叱られるようなこともありましたが、「うりものだから」と言って、顔や身体をぶったりはしませんでした。その替わり、頭をたんこぶができるくらいぶったり、股の間をつねったり、変なものを入れて痛くしたり、練習だといって自分のを舐めさせたりしました。

 どれくらい我慢したのか、いつの間にか女の子の、ぺったんこだった胸がほんの少し膨らんできました。
「小さいうちは傷になっちゃいけないんでね、どんなお客様にも本番はご遠慮願ってたんですよ。でもそろそろ、ああ見えていっちょまえにいじってやりゃ濡れますんで、ここは是非一番のお客様に最初の男になってやってもらおうかと思いましてね。──ええ、そりゃ高くつきますよ。ここまで大事に育ててきたんですからね。でもそれだけの値打ちはございますよ」


 怖い顔のおじさんが、「お客さん」と話しているのが聴こえました。
 女の子はもう、何を相談されているのかがわかっていました。
 このお屋敷には、その子よりも年上のお姉さんもたくさんいたので、おおきくなったら今度はなにをされるのかも教わっていたのです。


 そして、その通りになりました。
 これまで、指やら棒やらを入れられて痛い痛いと思っていたけれど、それどころではありませんでした。
 その上、入れたまま動くので痛いのはずっと続きました。
 お客さんが帰った後を見たら、足の間は血だらけになっていて、もう何も入れられていないのに、まだ何か入ったままみたいだし、ひどくひりひりとしました。


 女の子は、これまで辛抱してきたことが嫌で嫌で仕方なくなりました。ご馳走にも飽きて、何を食べても味がしません。どんなにおなかがすいても、もう酒くさいおじさんたちに体を触られるのも見られるのも嫌になりました。
 それで、女の子は思い出しました。
 「うりものだから」と女の子の顔や体がいつも綺麗に綺麗に磨かれていたことを。
 だったら、それを醜くしてしまえば、女の子は「うりもの」にならないのじゃないかしら。


 女の子は、ある冬の日、火箸をよおく焼いて──

──胸やお腹や背中や、色んなところに押し当てました。


「本当は顔にもしたかったけれど、その前に女の子は気を失ってしまったのです。熱くて痛くて死にそうだと思ったけれど、もうあんなことを我慢するくらいならこの痛みで死んでしまった方がましだ、と女の子は思ったのでした。」

 ケイティはじっとフロントガラスの向こうの地平線を見やりながら、淡々とした表情のままでいる。
 と、ちらりと助手席のエイクを振り返ると、小さく笑ってみせた。
「おしまい。退屈だったでしょ」
「──」
「だから、その女の子は大人になっても男の人も酔っ払いも大嫌いなの」


 そう言って、ケイティは自分のTシャツの襟をぐいっとひっぱって見せた。その中の白い素肌に赤黒い筋がいくつか見える。
 

 エイクは何も言わなかった──何か言おうにも言えなかったのだが。
 やがて、目的のガスステーションが視界に入った。

「──どうしてそんな話を俺に?」

 

 ようやくきっかけが見つかったように、エイクが口を開いた。
 車を停め、何事も無かったように降りてバタンとドアを閉じるとケイティは大きく伸びをしている。振り返ったケイティはやはり笑っていた。


「これでおあいこでしょ?あんたも少しは昨日の私みたいに困ればいいんだよ──私は電話してくるから、給油しておいて」
 きびきびとした動作で公衆電話に向かうケイティを目で追いながらエイクは指示に従った。

 給油が終わると売店でコーラを買い、一気に呷る。強い炭酸が喉を攻撃した。ケイティの分のコーラとホットドックを二個買い、車に戻る。
 ケイティは険しい顔で電話している。相手は、さっき聞いた夏教授とかいう中国人なのかもしれない。その電話を切ると、ほんの少し間をおいて、また電話をかけはじめた。随分コインをつぎ込んでいる。どこか遠距離なのだろう。


 しばらく会話して戻ってきたケイティの顔を見ていて、エイクは無意識に両手の指で四角い枠をつくっていた。

「──何?」

 ケイティが怪訝な顔をする。
「誰に電話してたの?恋人?」
「何言ってるんだ。ただの──仕事の相棒だよ」
 素っ気なくエイクの差し出したホットドックとコーラを受け取ると、一口コーラを呷った。

「だってケイティ、今──女の子みたいな顔してる。かわいい」

 エイクがそう言った途端、突然ケイティは息をのんですっかり日焼けして赤くなっていた顔をさらに赤らめた。
 

「──うるさい!エイクだって今の、カメラマンみたいだった!」


 そう言い放つとケイティは車の反対側へずかずかと歩いていき、車体にもたれてもくもくとホットドックにかぶりつき始めた。
 エイクが声を立てて笑う。
 それにつられるように、背を向けたままケイティも笑った。

ロックグラス.gif

「ああ、大丈夫だよ。私は可愛いアシューの味方だからね。おやおやそう怒らないで。キミに手を出したりしたら私が殺されるよ」


 リチャード・ハーは大声で笑うと受話器を置いた。
 それから、助手のムイを呼び寄せ、美しい細工を施した小箱を渡した。
「クヮンの藥材舖に行って、シウシューと名乗る女が檳榔を買ったらこれを渡すように言ってくれ」
 

 ムイがハイと答えてすぐに研究室を出て行ったのを見送るとハーはうろうろと研究室の中を歩き回り──考えごとをする時のハーの癖である──何度も電話の受話器を持ったり戻したりした。


 ハーの研究室には教授らしく壁いっぱいに文献が並んでいるが、赤字に金文字の掛け軸や様々な装飾物がその印象を塗りつぶすほどに所狭しと並んでいる。
 

 何度か逡巡してから、ようやくハーは受話器を取った。
「夏朝偉だ。これは大きな貸しにさせてもらうよ。それから──約束は必ず守ってくれたまえ。もしも違えることがあったら、わかっているね?」
 電話を切るとリチャード・ハーは大きく溜息をついて苦笑した。そして小さく呟いた。

「──阿雪、許しておくれ。きみの無事を祈るよ」


 

レビューを投稿いまいち何もまあまあ好き大好きレビューを投稿

*note*

「ドライブ」というタイトルですがドライブしてるのはこの2だけだったりします。

そろそろケイティとエイクが誰と誰かというのは、「手紙」や「梟」の章を読んで下さった方にはお察しいただけるかと。ネタ晴らしは3で。

​エイクのトラウマは当初死体を撃ってその写真を撮るとこまでだったんだけど、もう一歩踏み込んでもっとひどい体験を付け加えてしまった。エスカレートした出版社の要求なみのクズな作者でほんとにすみません。ほんとにすみません。

bottom of page