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Sin.co   The Name of the bar is;

ドライブ -3-
ロックグラス.gif

 街が近づいてきた。

 街外れのレストランで車を停め、昼食を取るとその店の駐車場に車を乗り捨てる。
 ここからは歩きだ。
 このあたりにははあまり背の高いビルがない。空は青く、そして広い。空気の匂いも違う。
 

 30分ほど無言で歩くと、妙に中国語の看板の多いエリアに出た。
「チャイナタウンというほどじゃないけど、このあたりには多いみたいだ」
 独り言のように言うと、ケイティは迷い無く道を選んですいすいと路地の奥に入っていった。
「このへん、良く知ってるのか?」
 エイクの問いにケイティは首を横に振って答えた。ぴりぴりと緊張しているのがわかる。
「電話で道を聞いた」
 それにしたって、まるで迷いがない。頭の中に地図が出来上がっているのだろう。やがて、『關藥材舖』という看板を上げた古びた建物の前でケイティは足を止めた。


 店内は薄暗く、整然と漢方薬の詰まった大きな瓶が並んでいる。漢方薬局のようである。
 足を踏み入れると、外の日差しから一転した暗さで目が眩んだ。そしてひんやりと涼しい。静謐さまで感じる。声を掛ける前に店の奥から足を引きずった白く長い髭の老人がゆっくり出てきた。物語の仙人のようだ。

「──シウシューと言います。少しでいいのだけど檳榔を頂ける?」

 

 バンロンというのは、台湾などでは眠気覚ましにそのまま噛んだりもする漢方薬の一種である。
 老人は、心得た、という顔で一つの瓶を棚から下ろした。動作は鈍く足も不自由そうなのに、そんな時の動きは随分しっかりしている。小さなマチ付きの紙袋に、計量用の匙一杯分の檳榔を入れると、このくらいでいいかね、と広東語で言いながら秤にかけて値段を言った。
 そして、紙袋の封を閉じる時に、その中に、赤っぽい装飾の小さな箱を放り込むのが見えた。

 あの箱が、ここへ来た目的である。

 

 そのまま紙袋をバッグに押し込んで金を払うと、ケイティはさっさと店を出た。今度は急に眩しい日差しの下へ出たから視界が白く飛ぶ。
 キャップをかぶり直しサングラスをかけると、エイクに構う様子もなくケイティはすたすたと歩き始めた。


 更に何十分か歩くと少々悪趣味にも思える優雅な門扉の前に立ち止まり、ケイティは先ほどの紙袋の中の小箱を取り出しそれを開けた。中には鍵が2本入っている。そのうちの1本を門扉の鍵穴に差し込んだ。
 門扉を開けて中に入ると再び施錠し、中の4階建ての建物へ向かう。どうやら高級マンションらしい。まるで地中海の街の建物のように白く塗られた外装は、しかしこの土地の強い日差しにもよく似合っている。
 階ごとに別々の階段が用意されているようで、表札を確認してその階段で最上階まで上がる。見たところ、1フロアに1戸で、随分広い。大きなドアを開けて中に入ると奥の窓からは明るい日差しがこれでもかと差し込んでいた。

「この部屋はサンルームはあってもバルコニーが無く窓は大きくても外からの狙撃ポイントがない。その上防弾ガラスだから、窓を閉めてしまえば外からの襲撃はあまり警戒しなくていい。こういう物件をいつでも使える状態で開けてあるあたりが大物らしいな、夏教授」
 一通り部屋を検分した感想を述べつつ、最後にキッチンに入るとケイティは珍しく感嘆の声を上げた。
 

「食材もちゃんと用意してくれてるよ、エイク!お米もある!今日は和食でも作ろうか?!」
「え、ケイティ、料理できるの?」
「バカにしないでよ。自分で生活してるんだから料理くらいやります!」

 緊張が解けたように無防備に笑いながらリビングに戻ったケイティは床にぺたりと座り、ずっと持って歩いていたバッグを開いた。
「とにかくやっと少しはリラックスできるね。シャワーにも入れるし。いくら乾燥してるからってさすがにきついわ」
 たいていモーテルはシャワー共同だったので、この状況下では使う気にならなかったのだ。

 バッグの中から一つ一つ荷物を取り出す。
「これも使わずに済んだ」
 マシューの銃と、補充用の弾丸。もともとケイティのものはずっとジャケットの下に持っていた。
 

 と、バッグの中からころん、と小さなものが転がり出た。
「ん?何これ?──ケイティ、けっこう可愛いもの好き?」

 それは、掌に乗る程度の小さな熊のぬいぐるみだった。

 

「あ、それ──あの日、ウェインさんがくれたのをそのままバッグに入れたままになってたんだ。忘れてた」 
「ウェインさんが?」
 そう、あの後、オフィスの異変に気づいて──ゆっくりバッグの中を検証する余裕が無かった。いつも必要なものだけを入れていたから、こんなものが入っていることなどすっかり忘れていたのだ。
 エイクがそのぬいぐるみを手にとって、何故かじっとそれを見つめている。


「──エイク?どうした?」
「いや……考えすぎならいいんだけど……ケイティ、『ホワイトハウス』を知っている?」

──ホワイトハウス。

 それは無論、合衆国の大統領官邸の俗称である。
 しかし、エイクがそんなものを指しているのではないことくらいは明らかだ。

「──名前を聞いたことくらいはね。駆け出しとはいっても私だってこの国でこの仕事をやってる人間だから」

 それは、全米に拠点を置くと言われているある組織の名前である。
 実態はあまり知られてはいない。隣人トラブルから国家紛争調停まで──などと言われるが、実際には国家権力には決して与しないとも言われている。とにかく、法律では対応できないあらゆる事柄を秘密裏に処理してくれるらしい。
 かといって、別に正義のヒーロー集団でもない。言ってみれば、違法行為を専門にした大規模な業務代行業といったところだ。つまり、ケイティが扱っているような、殺人の代行を請け負う部門もある。代行する替わりに、報酬もやはり法外である、と言われている。

「彼らが何故ホワイトハウスと呼ばれているかは知ってる?」
「いいえ」
「──あの組織のボスは、歴代大統領の名前を順に襲名しているんだって。で、これはマシューに聞いた話なんだけど──去年、そのボスが代替わりして、新しいボスの名前は『セオドア・ルーズベルト』なんだそうだ」

──セオドア・ルーズベルト。

「──テディ──」

 ケイティはぎくりとエイクが持った熊のぬいぐるみを見た。
「そう、『テディベア』の名前の由来は、セオドア・ルーズベルトの愛称『テディ』から取ったって言うよね」

 

──気をつけなよ。

 あの時、ウェインはこれを投げよこしながら、そう言ったのではなかったか?
「ちょっと待ってよ。じゃあ、ジニーやマシューを殺した敵はまさか、ホワイトハウスだって?」
「いや、考えすぎかもしれないけど」
「マシューが言ってたんだよ?この街はホワイトハウスの息はかかってないから安心して商売できるよって──」

──息はかかってない?
──何でマシューはそんな自信たっぷりに言えたの?

 突然動物のように神経を研ぎ澄ませる。誰かがこの部屋に向かっている音がする。足音は、一人や二人ではない──

 ケイティはもうしまい込もうとしていた銃を再び握った。
「リラックスするのは少しお預けか。で、あんたはそれでも銃は握らないつもり?」
 エイクは深呼吸して一旦目を閉じると、床に転がされたマシューの銃に手を伸ばす。
「撃たずにすめば問題ないわけだよね」
「私だって殺すのは本業じゃない」
 弾丸を確認し、身を隠す。


「ただ──この土壇場で裏切ったら殺すからね」


 そう言って、少し笑った。

 ドアの鍵を開けている。
 鍵を持っているのか。
 やはり夏はホワイトハウスとの方が繋がりが強かったということか。
 ドアチェーンをバールかなにかで切った音がした。こうされてしまうとセキュリティも何もあったものじゃない。

──夏教授、ドア回りの構造はもう少し考えた方がよさそうよ。

 何故かそんな事を思った。
 ケイティのところからは見えないが、警戒しながらドアから入ってきた人間がいる。1人か──2人か?
 階段を上っていた気配は4人ほどだったかと読んだ。しかし一度には入ってこない。様子を見ているのだろう。


 一歩一歩──敵は慎重に足を進めている。

 びりびりと緊張で空気が震えているようだ。

 どうやってまずこの一人目を倒すか──

「──はい、そこまで!」

 ドアの方から突然声が響いた。
 全身が一瞬で総毛立つ。
 声は続けた。

「ケイティ、そしてエイク──出ておいで。少し試させてもらおうと思ったけどもういい。僕たちは君らに危害を加えるつもりで来たんじゃない」

──なんだと?
──信用できるか!

「やれやれ、僕では信じてもらえないようだ。お願いしますよ閣下」
 そんな声も聞こえた。
「おおい、ケイティ。俺だよ、ウェインだ。おまえさんらの命は俺が保証する。それに、おまえさんに傷をつけたら、ホワイトハウスは香港を敵に回すことになっちまう」


「──ウェインさん?!」

 

 全身冷や汗でじっとり濡れている。
 銃を構えたまま、まだ警戒を解かずに隠れていた壁の裏からケイティは姿を見せた。
 最初に部屋に入ってきたのだろう、いかつい顔の男がやはり銃を持ったままそこに立っている。思わず飛び退ると、金髪の若い男が声を立てて笑った。
「デニス、もういいから。君がそこにいたらレディも銃を下ろせないよ。──あらためて、僕達も部屋に入っていいですか?」
 デニスと呼ばれたボディガードらしい男は銃を下ろすと無言でドア近くまで下がっていった。この男だけはまだ警戒を解いていないらしい。


 金髪の男と、その後ろにはあの街で路上で雑誌を売っていたウェインがいつもと変わらぬ笑顔を見せて立っている。そしてその向こうには──

「夏教授まで──」

「すまない、アシュー。こんな人の悪い話には乗りたくなかったんだがね」

 ケイティはようやく脱力したように──その場に座り込む。
 反対側で構えていたエイクも、何が起こったのかわからないという顔でおずおずと出てきた。

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 リビングに集まって座り直している間に、キッチンでデニスが紅茶を入れている。
 金髪の男は、セオドア・ルーズベルトと名乗った。

──この若い男がホワイトハウスのボス?

「そして、君たちがウェインと呼んでいるこの方が、先代のウィリアム・マッキンリー」
「先代?!」
 ウィリアム・マッキンリーとは、合衆国24代大統領の名である。


「ウェインさんが──ホワイトハウスのボスだったなんて──」

 マシューはそれを知っていたのかもしれない。
 だから、『この街はホワイトハウスの息がかかっていない』と。
 先代のボスが守っているから、逆に妙な干渉は受けないとそう言ったのだ。
 そして実際そうだったのだ。

「まず、誤解を解いておきたいんですが──」
 セオドア・ルーズベルト──『テディ』は、あくまでも落ち着いて穏やかな調子で話した。
「君のオフィスやマシューのバーガーショップを襲ったのは僕たちではありません。これは僕らも計算外の事態でね、非常に困っていたんですよ──犯人は、君のクライアントの代理人であるトンプソン弁護士です」

 そもそも、トンプソンはある企業の顧問弁護士だが、明るみに出せない闇の部分を処理したり手配したりすることも請け負っていた。その仕事の殆どはホワイトハウスに発注されている。上客であるその企業の代理人・トンプソンとは、ボスであるテディ自らが交渉に当たっていた。
 しかし、日本支社の人間のつてだか紹介だかで特に組織のバックアップがあるでもないフリーの日本人エージェントが食い込んできた。
 当然、シェアを喰われることになるホワイトハウスは面白くない。
 しかしテディはその日本人エージェントを調べるうち、彼女に興味を持つようになったのだ。

──このエージェントを取り込むことはできないか?

 テディはそう考え始めていたのだが、トンプソンはホワイトハウスの不興をかったと泡をくった。
 焦ったトンプソンは、自分でケイティに殺しを依頼しておいて、その標的に情報を売り渡したのだ。ケイティの仕事が失敗し、あわよくば消してしまえば──日本支社に対して顔が潰れることもなく、むしろ逆に貸しを作ることも出来るし、あらためてホワイトハウスに依頼すればテディの機嫌も治るだろう──と。

「あそこまで浅はかな人間だとは思っていなくてね。当然、トンプソンにはそれなりの罰を受けてもらいます。まあ、明日あたりにはハドソン川に流れていることになるかもしれないですね」
「おいテディ、自分ひとり良い子ちゃんぶらずにちゃんと本当のことを言ってやりな」
 ウェイン──ウィル・マックが口を挟む。
「本当は、トンプソンが標的に情報を売ったのを知っていたんだろう?だからそこの怖いあんちゃん──デニスっていうんだが、そいつが様子を見にきていた。やめさせることだって出来た筈なのに、事が終わるまでただ見ていた。そうだな?」
 テディは苦笑した。
「ウィルにはかないませんね。──そう、申し訳ないが、僕は連中が君らを襲う予測はできていた。しかし、君がこの事態にどう対処するのかを見てみたかったんですよ。計算外だったのはマシューがあまりに簡単に殺されてしまったこと、それから──」
 エイクに視線を投げる。
「彼が意外にも非常に良い働きをしたらしいということですね」

──知っていて。
──ジニーとマシューが殺されるのを、ただ見物していたのか。

 じりじりと、腹のあたりに言いようのないむかつきが湧いてくる。
 ケイティはじいっとテディの顔を睨みつけて話を聞いていた。

「マシューの腕は捨てがたいと思ったのですが、まああんな素人ギャングにあっさり殺されるような殺し屋では、どのみちうちの仕事はしてもらえないでしょうが」

 ぎりっと唇を噛む。
 そして、エイクを見た。
 それでも、エイクは怒りを感じないの──?

 エイクの表情は変わらないように見えた。
 少なくとも、出会ったばかりの数日前なら、本当に無表情に見えただろう。
 しかし──

 エイクの顔は怒りなのか悲しみなのかで泣きたいのを懸命にこらえているように今のケイティには見える。

「しかし、完璧とまではいいませんが、対応としてはまずまずでした。たまたま我々があらかじめ君の調査を始めていたこと、全米に情報網があったことでリチャード・ハー先生との関係を割り出すことが出来ましたがそうでなければ車で横断のタイムラグがあったにしてもこちらが後手に回っていたでしょうね。我々がここを突き止める前に君たちはもう日本へ、もしくは香港へフライ・アウェイだったでしょう──さて」
 何故か非常に満足そうな笑みをテディは浮かべている。

「ここからが本題です。単刀直入に言いましょう。ケイティ、エイク。君たちの力を我々の組織に貸してもらえませんか」
 

「それは──私を部下にしたい、ということですか」
 テディが言い終わる前に、ケイティが声のトーンは抑えたままながら、噛み付くような勢いで言う。
「まあ、そうですね。傘下に入っていただきたい。ケイティ、君と──それからエイクも。きっと僕たちはうまくいくと思いますよ」
「何の根拠でうまくいくなんて──」

──マシューとジニーを見殺しにしたようなやつの部下になんか!

 目を吊り上げて喰ってかかりそうになったのを、静かにすっと押しとどめたのは──エイクだった。

「俺たちはずっとほとんどゆっくり休む間もなくドライブしてきて、とても疲れてます。逃げも隠れもしませんから、今夜一晩くらいはゆっくり休ませてもらえませんか。あなたも忙しいんでしょうが、こんな遠くで話し合いをする羽目になったのはあなた自身の判断でもあった筈です。それくらいは譲って頂きたい。明日もう一度おいで下さればそこで返事します」
「エイク──」
 そのエイクの言葉にすら、テディはどこか満足そうだ。
 その表情がまたケイティの癇に障る。


「判りました。それでは明日、朝10時ちょうどに伺います。もし君たちが返事もせずに逃亡したりしたら、今度はハー先生に迷惑をかけることになりますよ」

 4人の男が去った後、残されたケイティとエイクはただ放心したように、リビングの床に座り込んだまま、暫く動けなくなった。

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 リチャード・ハーは帰り際、この計画の片棒を担いだことをケイティに丁重に詫び、気が済むまでこの部屋を使ってくれと言った。
 組織の大物幹部で、切れ者だの冷酷だの言われている人間だが、自分が気に入る人間には色々と良くしてくれる、実は人の好い男だというのも間違いではないのだろう。しかし、それもホワイトハウスに対して貸しを作るという駆け引きの方が優先した上での話だ。だからといって失望する程には夏に対して全幅の信頼を寄せていたわけではない。ただ少し自分が甘かったのかもしれないとはケイティは思った。

 ぼんやりとリビングの床に座ったまま、少し日が傾き始めた窓の外の空を見つめる。

「──私たちのドライブは一体何だったんだろうね」

 ぽつり、とこぼした。

「ケイティ、とにかくシャワーでも浴びてさっぱりして、それから飯を作ろう。俺も手伝うよ」
「そうね──」

 自分はどちらかといえば物事に動じない方だと思っていた。
 けれど、好きでそうなったわけではないにせよ、感情の大半を失ったというエイクが制止してくれなければ、あの段階で自分は暴走していたかもしれない。エイクの存在がこれほど有難いと思ったことはなかった。
 

 広いバスタブに湯を張って、それに肩まで沈みこむ。
 そういえば、渡米してから湯船につかるなどということは一度もなかった。
 緊張が解けたせいか、無性に眠い。

 時折湯の中でうとうとして溺れそうになりながらようやくバスルームから出てくると、エイクはとっくにもう一つのバスルームでシャワーを済ませ、キッチンに立っていた。


「色々食材を用意してくれてるのはいいけど、調味料がいまいちだね。中華系なのは仕方ないか。和食は無理かも」
「エイク、料理できるの」
 さっき、エイクから同じ質問をされた気がする──バスタオルで頭をがしがしと拭きながらまだぼんやりとリビングのソファに沈みこんだ。
「日本で学生時代も一人暮らしだったしね。中華料理店でアルバイトしてたこともあるから。でもたいしたものは作れないよ」


 美味しそうな匂いがしてくる。
 

「出来たよ」
 反応鈍く振り返ると、ダイニングテーブルにはチャーハンと、酢豚と、野菜炒めと、卵スープが並んでいた。
「すごいじゃない」
「味は保証しないけど」
 料理を目の前にするとようやく空腹だったことに気づいた。
「美味しい」
「それはどうも」
 あとは無言で食べた。
 後片付けはケイティがした。
「お酒もあるよ。飲む?」
 そう言って、エイクはケイティが『酔っ払いは嫌い』だと言ったことを思い出して発言を撤回しようと言い澱むと、ケイティはそうね、飲もうか──と笑った。


「ブランデーとバーボンと──やっぱり老酒はあるのね。テキーラ、ウォッカ、ジン、ラム──あった、スコッチ」


 ぶつぶつ独り言を言いながら酒を選ぶ。エイクは缶ビールを開けた。

「ハー教授って、なんか変わった人だね」
「いい人なのは間違いないと思うんだけどね。嫌われたら怖いと思うわ。日本にいる私の相棒の殺し屋のことをとても信頼してくれていて、だから私のことも信頼してくれてるんだと思う」
 ケイティは少し懐かしそうな目をして手に持ったグラスを見つめた。
「君が相棒と呼ぶ殺し屋か──今度、紹介してよ。会ってみたいな」
「嫌」
「何で」
 くすくすと他愛もなくケイティは笑った。
「彼もゲイだから、あんたと会わせてもし恋仲にでもなられたら私が仲間はずれになっちゃう」
 ぷっとエイクの吹き出す音が聞こえた。


 ずいぶん簡単に、自然に笑うようになったじゃない──と思ったが、口にはしなかった。


「そういえばハー教授は君を『アシュー』とか呼んでたけど、あれは?」
「ああ、あれは──教授は私をもともとシウシューと呼ぶの。私の名前を広東語読みしただけよ。アシューというのはまあ、『シューちゃん』みたいなものかな」
 

 シウシュー……と口の中で呟いた。

「そういえば、君の名前をまだ知らなかった」
「私もあんたの名前を知らないわよ」

 アメリカ人が勝手に呼びやすいように呼んだニックネームしか。

「──俺は、水原茜。あらためてよろしく」
「こちらこそ。土屋小雪といいます」

 どちらからともなく、右手を出して握手する。笑いが漏れた。
「茜──A・K・A・N・Eで頭を取ってエイク?」
「そう。最初はAMとかAKとかだったけどエイクで定着したみたい。ケイティはまんまイニシャルだね」
「安易よね、アメリカ人」


 冷蔵庫に氷を取りに行き、また酒を注ぎ足す。
 小雪さんは──とエイクが言いかけるのを、なんだか気持ち悪いからケイティでいい、と遮った。
「じゃあケイティは──ずっとアメリカで仕事するつもりだったの」
 さばさばした顔で、首を横に振る。
「じゃあ、どちらにしてもテディの申し出は受けないよね」

「私はあんな形で人を試すような人の下に入る気はないわ。それに──もともと、誰の下にもなる気はないし」
 ふうん──エイクは次の新しいビールを開けた。
 

「──提案があるんだけど、聞いてくれる?」


 再びソファのエイクの隣に腰を下ろすと、ケイティはどうぞ、と先を促した。

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 随分飲んだが、朝は早くに目が覚めた。


 多分、自分にしてはかなり深く熟睡できたのだろう、とケイティは思う。頭がすっきりしていた。
 顔を合わせると、エイクもなんだかすっきりした顔をしている。

 

 10時10分前にはテディからこれから行くという電話が入った。
 正確に10時にチャイムが鳴る。

「おはようございます。ああ、よく眠れたようですね。疲れは取れましたか?」
 昨日と同じようにデニスがキッチンへ向かおうとするのを制して、ケイティが紅茶を用意した。


 顔ぶれは昨日と同じである。
「アシューのことが心配で、今日の朝の講義は休講にしてしまったよ」
 そう言ってリチャード・ハーも同席している。むろん、ウェインもいる。

「それでは皆忙しい身です。早速お返事を聞かせていただきましょうか」


「私は──あなたの部下になることはできません」


 ケイティがきっぱりと言い放った。
 ほんの少し、一同の顔色が変わる。


「私の本拠地はあくまで日本です。この土地へはマーケットの拡大というよりも──こちらで信用のおける殺し屋やエージェントとの関係を構築することが目的でやってきました。だから、あなたの傘下に入ってこの国で活動を続けるということは出来ません」

──落ち着いて話せた。

 続いて、エイクが口を開く。
「ある意味で、あなたがたホワイトハウスとこうして接点を持てたことは、彼女にとって渡米の目的の大半を果たしたようなものです。そこで──」
 リチャード・ハーはテディの背後で何故か笑いを噛み殺すような顔をしている。ケイティと視線が合うと、目立たぬようにウィンクして見せた。


「俺に、彼女とのパイプ役をやらせてもらえませんか」
 

「エイク、君が?」
「そう、俺単体でなど必要ないと言われてしまうとどうしようもないのですが──俺がそちらに所属して、彼女が日本から発注してくる仕事をホワイトハウスで請ける。もちろん、それを優先させてくれるという条件つきで、俺自身は組織の指示には従いましょう。彼女がそのままホワイトハウスを蔑ろにするようなら俺を人質にすればいい」


 テディは少し表情を堅くして目を細め、エイクとケイティを見比べている。その背後からハーが声をかけた。
「テディ、彼女をホワイトハウスで独占するのは私も出来ればさけて欲しいと思っているんだよ。シウシューを君らに獲られたとなると、私も古い友人に顔が立たない」

 最後に、一番後ろで黙ってその会話を見守っていたウェインが、突然爆笑しはじめた。

「テディ、もう勘弁してやれよ。ケイティはえらく人気者だ。おまえさんが独占するわけにはいかないようだぜ?──おまえさんにすりゃ、ふられるのはプライドが許さんかもしれないがホワイトハウスに迎えたからってファーストレディになってくれるわけじゃねえぞ」
「ウィル・マックは黙ってて下さい!」

 確かに、テディはふられるとは思っていなかったのだろう。


 しかし、それは怒りというよりも拗ねたような顔だった。

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 空港には、リチャード・ハーが見送りに来ていた。


「──何からなにまでお世話になりました。テディにはああ言ったけど、これからも夏教授には頼らせて下さいね」
「君はそんなに気を使わなくていいよ。私は商売抜きで君を本当に可愛いと思っているのだからね、娘のように──ただ、アメリカにまた来ることがあったらテディよりも先に私を訪ねてくれ。それだけでいい」


 裏社会の幹部とは思えない人のよさそうな顔をほころばせてハーは右手を差し出した。それを握り返す。
 

「──ユキによろしく言ってくれ、また是非一緒に酒を飲みたいと。あの子はなかなかアメリカには来たがらないだろうがね」
「わかりました。必ず伝えます」
 手を離すと深くお辞儀をして一歩下がった。

「──ケイティ!」

 声に振り返る。
「エイク──」
「気を利かせすぎたかな?私が知らせたんだよ。阿雪……ケイティは今日日本に帰るとね。バディに知らせずに発つなんて、つれないじゃないか」

 ハーがにやにやしている。

 

──教授ったら、私とエイクが出来ているとでも思ってるのかしら。

 呆れたようにハーの顔をまじまじ眺めるうちに、エイクが傍まで駆け寄ってきた。

「俺がパイプ役だって言ってるのになんで黙って帰ろうとするかなあ。テディにやっぱりあれはその場しのぎの言い逃れだったかと思われるじゃないか」
 息を切らしている。
「──帰ったら連絡するつもりだったの!」
 なぜかばつの悪いような気持ちになって、わざとつんとすましてみる。

「エイク──本当にあれで良かったの?あいつら、マシューを見殺しにしたんだよ?」
「大丈夫、俺は平気だよ。だって──感情を落っことしてきてるからさ」

──嘘つき。

 ケイティの立場が不利にならないように、ホワイトハウスに睨まれて今度こそ追われるような羽目にならないように、そして、今後のケイティの仕事がやりやすくなるように──エイクは自分をあんな巨大組織の中へ放り込んだのではないか。
 それは、考えすぎで、自惚れなのかもしれないけれど。

「ケイティ」
 俯きがちにそうやってぼんやりした頭の上に、声がかかる。


「ハグしていい?」
 

 返事をする前に、エイクの両手がケイティの身体を包み込んでいた。
「君とのドライブは楽しかったよ。これからも──日本とアメリカに離れるけど、君は俺の相棒だって、思っててもいいかな」

 エイクは思っていたよりずっと背が高かった。
 体温が暖かくて、そして『男』の匂いがする。
 『小雪』がずっと恐れていた、男の匂い。

 それでも、ケイティはおずおずと自分の両手を上げて、エイクの腰に回した。
 『女の子』のように──


「──うん」

 だから会わずに帰ろうと思ったのに。
 涙が出そうなのを懸命にこらえながら、ケイティは最終案内のアナウンスがかかるまでそうしてエイクの胸にもたれていた。

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 分厚く古い木の扉を開けてそのバーの店内に入る。


 カウンターの中にいるマスターが微笑んだ。
「よお、久しぶりだな。仕事かい」
 小雪は肩をすくめて微笑むと、いつもと同じ椅子に腰掛けた。
「残念ながら今日は違うわ。ちょっと気分がいいから飲もうかと思って」
「へえ、珍しいじゃねえか」
「たまにはね」

 肩にかけたショルダーバッグを置きながら、その中から紙袋を取り出した。
「ん?なんだそれ」
「そこの本屋で見つけたの」

 紙袋の中には、一冊の小さな写真集が入っていた。

「ん?……ベトナムの戦場写真集か?そういうのが好みなのか?意外だな」
「ベトナムはベトナムでも、この写真はちょっと違うんだから」

 そのページは、鳥や、動物や、子供たちの表情豊かな写真で埋め尽くされていた。
 そのファインダーを覗くカメラマンの、彼ら被写体に対する優しいまなざしが感じられる。

──あなたの写真は、こんなに優しいじゃない。

 微笑みながら閉じたその表紙には──
『撮影・水原茜』
 と、記されていた。

*the end*

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*note*

お疲れ様でした。はい、小雪ちゃんと水原くんの話でした。これが縁で水原は「梟」となり(多分ホワイトハウスではアウルとか呼ばれていたのでは)どこかのタイミングでホワイトハウスから独立して商売してるんだと思う。なのでケイティとエイクは本編現在でも実はバディ関係が続いてる感じ。

この二人はまあ多分付き合いが長くてもはっきりした恋愛関係にはならないだろうとは思ってたんだけどよく考えてみたら小雪って水原より10歳近く年上なんだよね。(小雪は終戦時5~6歳くらい、売り飛ばされたのは1,2年後。水原は戦後生まれ)

ホワイトハウスの設定を考えるのが楽しかったんで、機会があったらまたテディのこととか書きたい気はあります。

あとハー教授らしき人(らしき…?)はこの後の話にもちょこっと出てくるかもです。です。ユキのアメリカ時代の知人なので。

最後に出てきた写真集は、長さんこと長部が出版したアレです。

これ書いてて一番迷ったのは、ケイティの言葉遣い。小雪ちゃんは「女性らしい」という価値観がすごく嫌なのでできるだけ一般的に「女ことば」と言われる言い回しは避けて青年が喋ってるような言い回しをさせたんだけど、本当は相手を「あなた」と呼ぶ丁寧さは失いたくなかったのでそこの兼ね合いが難しいです。結局、相手を「あんた」と呼ばせることでだいぶ違和感解消できたけど、ちょっとしたときに女の子っぽい喋り方になってしまうこともありますね。ずっと敬語を喋らせとくのが一番楽っちゃ楽なんだけども。なんか思いつきがあったらっこっそり書き替えることがあるかもしれません(ずるい)。

​これ、最後の最後にしかシゲさんが出てこないので当初「昔日」に置いてたんだけど、まあ小雪ちゃんの話だしシゲさんも出てくるので今回はこっちに仲間入りさせました。

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