top of page

Sin.co   The Name of the bar is;

代理人 -1-
ロックグラス.gif

「ありゃあ、内臓ボロボロだね。どちらにしてもいつポックリいってもおかしくない体だよ。生きた患者なら即入院即手術だ。いや、手の施しようがないな。手術するだけムダ」
 

 処置室から出てくるなり、大袈裟に肩を竦めながら医師は苦笑いしている。
「死体の解剖は本業じゃないんだ。ギャラはずんでくれるんだろうね」
「嘘つけ。生身の患者より死体をさばく方が多いだろうが」
 

 気分が悪いのを堪えるような顔をして、康平は内ポケットから封筒に入った札束を長椅子の上へ投げ出した。医師はすぐに手にとって中身を確認している。このギャラの大半は、届け出ることの出来ない死体を秘密裏に処理する手数料が占めている。

 煙草に火をつけて深く吸い込み、目を閉じてゆっくりと煙を吐き出した。それを銜えたまま、医師の出てきたドアを開けて中に入る。
 薄暗いタイル張りの床をちょろちょろと水が流れている。電球の冷たい光が一層室内の気温を下げているかのように錯覚させた。
 縫合されることもなく放置されたその身体は標本のように切り開かれていた。ここまでされるといっそ本当に標本か蝋人形のように見える。ただこの臭いだけはどうにも慣れることが出来ない。


 顔は見慣れたものの筈だったが、まるで別人に見えた。
 何で死ぬと人間は面相が変わるんだろうな──
 ふとそんなどうでもいいことが頭をよぎった。

 考えてみりゃあ、あんたもしぶとかったよ。
 なあ、知ってるか?
 あいつは逃げたよ。
 あんたは賭けに負けたのかい?
 それとも──

 勝ったのかい?

ロックグラス.gif

 澤康平が谷重バーに出入りするようになってからもう随分経つ。


 殺し屋・『悔谷雄日』に仕事──要するに殺人──を依頼するのが主な用事であるが、それとはさして関係無くよく入り浸っていると言って差し支えないだろう。実際、悔谷は『組織のヒモつき』という仕事はあまり好まないようで持ってくる仕事の大半は断られてしまっていた。この場合の組織とは、ありていに言えば暴力団である。
 つまりはヤクザ同士の抗争などには手を貸さない。他の組織とのいざこざで相手の幹部やトップを殺すような仕事は決して引き受けはしなかった。
 どんなにバーの客として常連になり、親しくなったとしてもそこは厳然とした境界線があるらしく、常連のよしみで…という引き受け方はしてくれない。


 それでも、かなりの頻度で店に通ってもう数年になる。

 単にこの店の居心地がいいのだと康平は思う。

 マスターの谷重──『悔谷雄日』は殺し屋としての名前である──は、それだけ頻繁に顔を出している客と話題が尽きたとしても、相手のプライベートに自分から踏み込むことは全くない。聞かれるのは名前くらいのもので、話したくなければ自分について何一つ話さなくてもかまわない。だから煩わしくなくていい。
 もっとも、例え尋ねられたとしても何も語る気はないが。

 ずっと通っていると常連客の変遷もなかなか興味深いものがあるのだが、最近妙な若造が入り浸るようになった。
 まだ高校生くらいだろうか。
 現在の谷重バーの客層は、どちらかといえば若くてもせいぜい20代後半くらいからで、不良少年あたりが入り浸るには退屈な店の筈だ。しかも、見た目はあまりぐれているようにも見えない。もしかしたら自分の時代と違っていかにも不良という風体ではない若者もそうやってこっそり制服を着替えて夜遊びに出たりすることが増えているのだろうか、とも思う。中学生ならともかく高校生くらいでこんな風に夜遊びしているのは不良でもなんでもなく、誰でもやっていることなのかもしれない。
 別に髪を染めているでもリーゼントにしているでも額にソリを入れてるでもない、流行の不良らしいファッションでもない。どうかすれば予備校帰りの優等生のようにも見える。かといって、真面目一辺倒のガリ勉風でもない。背が高くて顔の造作もそこそこ、いかにも女にきゃあきゃあ言われそうなタイプだ。妙にテンションが高く、いかにも快活な声が康平には鼻につく。
 しかしそのくせ、平気で酒も飲むし煙草も吸っている。 
 いい子ぶりたいのか悪ぶりたいのか、よく判らない。

 漠然と、この若造とはあまり関わりたくないな……と思っていた。
 若造の名前はエイジ……とか言うらしい。

「シゲちゃん、最近あの高校生にピアノまで教えてんだって?」

 深夜、他の客も引きあげて谷重はそろそろ店じまいの準備に取り掛かっていた。
 どういう関係だか深くは知らないが谷重と同居しているマサルという青年が確かもう高校を卒業して普段は店を手伝っている。勉強が出来る子だったので大学にでも行くのかと思っていたが、結局進学はしなかったとみえる。ただ、今日はちょうどマサルの『休み』にしてやっている日だからどこかへ遊びに行っているかすでにもう眠っているのだろう。

「まあな。ガキの頃にバイエルくらいはやったことあんじゃねえかなぁ。なかなか筋がいい」
 ふうん、と欠伸まじりに頬杖をついて谷重の動作を見るとはなしに眺める。
「俺、なんかあいつ嫌いだよ。どこが気に入ってんの?」
「気に入ってるっていうかなあ……」
 谷重はボックス席のテーブルを拭いているかと思ったらそのソファに腰をかけた。何か重労働でもしたように天井を仰いで大きく息を吐いている。
「康平、おまえ……」
 言いかけてやめる。
「なんだよ」
 グラスの酒の残りを持ってそちらへ足をすすめると谷重は目を閉じていた。眠ったのかと思った。
「誘ってんの?」
 康平が吹き出すように笑うと、谷重はうっすらと目を開けにっと笑顔を作った。
「誘うか馬鹿野郎。それにじーさんに誘われても嬉しかねえだろ」
 言葉は普段通りに聞こえるが、どうも声に力がない。それに額に脂汗が浮かんでいる。
 康平は突然、不安になった。


「……どっか悪いのか?医者連れてってやろうか?」
 

「いや、たいしたことねえよ。ちょっと風邪で熱っぽいだけだ。風邪薬でも飲んで寝ておくさ。昔は風邪なんかひいたこと無かったのになぁ。やっぱ年か」

 そういえば、今初めてはっきりと意識したが最近谷重の動作が少し鈍い気がしていた。店ではどこも変わったところは見せないし、本業もそつなくこなしているようだから全く気にしていなかった。
 しかし、もしかしたらずっと数日にわたって谷重は具合が悪かったのかもしれない。誰にも気付かせずに。

──本当に風邪なんだろうか?

 自分はそんなに心配性な方ではない。むしろ、心配しなさ過ぎの傾向だと思う。なのに、まるで虫の報せでもあるかのように不安が胸の裡を占めてゆく。
「シゲちゃん、俺の知り合いの医者紹介するから診てもらえよ」
「大袈裟だな。ただの風邪だって言ってるだろ」
「……」
「仕事には影響させねえよ。心配すんな」

──そういう問題じゃ……

 反論しようと思ったが、こうなると絶対譲らない頑固親爺だ。康平はやむなく食い下がることを諦めた。
「本当に仕事に支障をきたすようになったら覚えてろよ」
 そう毒づいてみることしか出来なかった。


 何故かは判らないが、どうしても今一歩谷重に対して強く出ることが出来ない。悪どいことでも筋に外れたようなことでも利用できるものは何でも利用して目的を遂げることを身上としているはずが、谷重に対してだけはまるで単なるいきがった少年の頃に戻ったような感覚で結局やりこめられてしまうのだ。そして、康平自身はそれを不快には思わないから始末が悪い──と思っている。

 しかし、この時に無理にでも医者に連れて行って鉄格子の部屋にでも監禁してやればよかったのだと康平が後悔することになるまでに、そう年月は費やすことはなかった。

ロックグラス.gif

 悔谷雄日が仕事をしくじった──なんて話はこれまでに聞いたことがないし、実際に仕事を持ってくるようになってから一度も失敗は無い。仕事の成功率は少なくとも康平が持ってきた仕事に関しては100%だった。
 単に殺すだけでいいなら狙撃の腕さえ良ければいい。しかし、当然だが狙撃手は誰にも目撃されてはならない。そうすれば自然、狙撃するポジショニングにも制限が生まれる。その制限の中で確実に標的の生命を奪う狙撃が出来るか否かが腕の違いだと言えるだろう。
 そろそろ老眼かな、とよく冗談で言う近頃の谷重だが、少なくとも射撃場で態勢を整えた状態でなら目を瞑ってでも標的を打ち抜くことが出来る筈だ。

「今回はちょっと難しいんじゃねえ?場所だけでなく時間の制限も厳しいんでね。その分割り増しの報酬をふんだくるけど」
「全く、年寄りをこき使いやがるなあ。下見もろくに出来やしねえ」
 ずっと微熱状態は続いているようだが、具合が悪そうに見えたのはあの時だけだった。
 本当は、今の状態の谷重にあまり厄介な仕事は持ってきたくなかったが、他に請け手がない。そしてこんな時に限って谷重は断らなかった。
 自分では年寄りだの老眼だの耄碌しただの言うくせに、まだ若い者には負けないと思っているのだろう。

 普段康平は谷重の腕を絶対的に信頼しているから、仕事の時に近辺で立ち会うということは殆どしてこなかった。しかし、あの虫の報せのような不安が去らず、どうにも落ち着かない。
 標的は若者で賑わうディスコのオーナーで、毎日のように自分の店に顔を出しては客の女をナンパしたりしているらしい。裏で賭博を開帳したりドラッグの流通に手を出したり、つまりはヤクザにとっては筋も通さず勝手に縄張りを荒らすたちの悪い若造だ。しかし、康平の組では現在警察沙汰を起こしてはまずい事情があった。そうでなければとっとと血の気の余った連中をやつの店に乗り込ませ暴れさせて営業妨害でもすれば済むことである。
 組とは無関係のスタンスで、標的を消してしまいたい。依頼としてはそういったところだ。
 この用心深い標的は、たいてい常に人混みに姿を見せ、それでいて周囲から自分の腹心数人を離さない。離れるとしたらナンパに成功してどこかのホテルにでもしけこむ時と、自分の店でフロアに出る時くらいのものだ。自分が命を狙われても止むを得ないということを承知しているのだろう。

その用心深い標的を、ろくな下見の時間もなく仕留める。それは簡単なことではない。
 丁度いい女殺し屋でもいれば、やりようもあるだろう。それでも女の好みもうるさくわざとらしく誘ってくるような女にはなかなかひっかからないというからいずれにしても面倒だったかもしれない。命こそ狙ってはこなくても、金目当てで誘ってくる女はいくらでもいるのだ。

 期限の前夜に片付けると谷重は宣言したが、康平の元には一向に標的が殺されたという報が届かなかった。嫌な予感がして時計と睨めっこしながら谷重が狙撃に使いそうなポイントを回る。
 康平が谷重の姿を発見したのは、標的のマンション近くの路地裏だった。
 まるで酔っ払いがそのまま座り込んで眠ってしまったように見える。座り込んだ周囲の地面には吐瀉物が散らばっていた。
「──シゲちゃん?!」
 声を掛けると、眠っていたわけではないらしく重そうに頭を上げた。
「……悪い、タイミング逃しちまってな。期限までには必ずなんとかする」
 それでも笑っているのか。
 首筋をざわざわと寒気が走っている気がした。
「もういい、この仕事は断ろう」
「ばか言うな。一度引き受けた仕事を、出来ませんでしたから返しますなんてわけにいくか」
「いいや、シゲちゃんは病院に連れてく。今日くらい言うこと聞いてもらうぞ。立ち上がりも出来ないくせに」
 はっはっはぁ、と殊更大きな声を立てて笑うと、谷重はよろよろと立ち上がった。
「──『悔谷雄日』がそんなみっともねえ真似できるかよ。どうしても医者に連れていきたいならこの仕事が終わってからにしろ」
「こんな状態でもしヤツの護衛連中に捕まってみろ。殺されるぞ」
「黙れ」
 ぐ、と言葉につまる。
 喉元に、拳銃の銃口が突きつけられていた。
「それ以上言ったらお前を殺すぞ」
 笑い皺だらけの人の良さそうな顔は、目だけが殺人者の鈍い輝きを放ち康平を射抜くように睨みつけていた。


「──お前はただのエージェントだ。俺が成功すれば金を運んでくりゃいいし失敗すれば始末すりゃいい。それだけのことだ。殺し屋の身体の心配なんてお前の仕事じゃねえだろ。らしくねえことすんな」

 

 らしくねえこと。

 

 確かに、自分は組織の利益を考えればいいことで、悔谷雄日はいかにトップクラスとはいえ何人か抱えている殺し屋のうちの一人にすぎない。しかも悔谷は康平の組織の専属でもなんでもないのだ。谷重の言っていることはひどく真っ当なことだった。確かに自分らしくないと思う。こう言われてしまえば、もうぐうの音も出なかった。
 しかし、現実問題として期限は迫っている。このまま標的をしくじるようなことがあれば谷重だけでなく康平自身もなんらかのペナルティを課されることになるだろう。殺し屋の手配は康平の担当なのだ。指の先っぽくらいは持っていかれるかもしれない。
「わかったよ。だけどあんたにこの仕事を確実にやらせるのは俺の仕事だ。だから俺に手伝わせろ。いいな?」
「……邪魔はすんなよ」
 ようやく表情を緩めて谷重は深く息をついた。それを見て康平もまた安心したように息をこぼす。とりあえず指をくわえて首尾を見守るよりはずっとましだ。

 標的は遅い午前から護衛を引き連れたまま女を車に乗せ、出かけて行った。この場で再びマンションを出るタイミングを狙うには態勢が建て直せていない。
 高級レストランでランチをとり、その後は宝石店へ。
 レストランや宝石店は郊外店で、準備の出来ない状態ではむしろ狙いにくい。
 繁華街のブランドブテッィックに入った時点で谷重は動いた。
 この辺りなら、射撃ポイントは全て頭に入っている。時間もおそらくたっぷりかける筈だ。
 もしこのタイミングを逃して標的の経営するディスコにでもしけこまれた日には、期限である今日の日付中に仕事を完遂することは難しくなる。これほど警戒深い人間の経営する場所だ。監視カメラもあるだろうし、そもそもエントランスの黒服は確実に客の顔を覚えるだろう。常連でない見慣れぬ客なら尚更だ。そんな中に殺しに入るわけにはいかない。


 手順を確認して康平は谷重と別れた。
「標的は見えるんだろうな?老眼鏡持ってるか?」
 わざと冗談めかして言う。谷重は顔色こそ悪いがもう足元はふらついてはいなかった。
「ぬかせ。お前こそタイミング間違うなよ。失敗したら蜂の巣になるのはお前の方だぜ」
 にいっといつもの笑い顔を作り、谷重は康平の乗った車に背を向けた。

 店内には護衛は1名だけついて入り、残りの者は入り口で周囲に気を配っている。ヤクザを警戒するにしても念の入ったことだ。本当はただの臆病者なのかもしれない。だったらヤクザに睨まれるような真似はしなければいいのに──そんな事を考えながら康平はブティックのショーウィンドウ越しに店内を見守っている。
 そろそろ夕刻に近づいた繁華街。人通りが多くなってきている。学校帰りの学生などが生意気にブランドのショーウィンドウを覗き込んだりしている。このまま人が増えていけば難度が増してしまう。少しずつ康平は焦れ始めた。
 本来の状態の谷重であれば、いかに周囲に人間が殺到していようが一瞬でも足を止めることが出来れば間違いなく標的のしかも急所を仕留める筈だ。しかし、今の状態でそれが可能かどうか自信が持てない。もしもの事があれば──康平が谷重を始末せねばならなくなる。

 勘弁してくれよ──

 と思ってふと、苦笑が漏れた。

 何言ってんだ、俺は。
 俺は自分の出世の為に、誰を殺した?
 仕事をしくじった殺し屋を一人始末するくらい、なんてことねえじゃねえか。

 再びショーウィンドウの中に集中する。同じように、近くのビルの上の方から、谷重が同じ場所を狙っている筈だ。いつ合図があってもいいように。
 今の谷重にこれだけの時間集中力を持続させることが出来るだろうか。自分が送る合図に即座に反応することが出来るだろうか。──信じるしかない。

 店の外にいた護衛の人間がわずかに動いた。
 出てくる。
 気取った高級店らしく、自動ドアではなく店員が扉を開けた。
 標的の左腕に女が絡みついている。
 扉を出て二歩。
 三歩。
 店内に同行した護衛の一人は両手に紙バッグをぶら下げさせられている。
 両手が塞がって護衛にも何もなったもんじゃない。
 それを見送って店員が頭を下げる。

 スローモーションのようだ。

 康平が指を絞る。
 足元の地面に向かって放たれた弾丸。
 その瞬間、護衛の隊形が一瞬乱れた。

 その場にいた人間はには銃声はひとつに聞こえたかもしれない。
 二つ目の銃声は一つ目の残響と重なってビルにこだまして消えた。

 康平は撃った瞬間既に蓋を外してあったゴミバケツの中に銃を放り込み、何事もなかったように現場の方へ向かった。野次馬が集まってきている。それに紛れ込む。

──よし。

 標的が倒れていた。漸く何が起こったのか気づいたかのように、連れの女が金切り声を上げている。護衛の連中は結局どこから狙われたか判らずじまいのまま方々へ散って犯人と思しき不審者がいないか捜索している。もう無駄だ。やがてサイレンを鳴らしてパトカーが到着する。

 完璧だ。

 胸を撫で下ろし、現場を後にする前にもう一度その現場を見た。

──え?

 その現場のすぐそばに、その『犯人』の姿が見えた気がした。
 気のせい──ではない。
 谷重は、でくの棒のように突っ立っている長身の若者の腕を引っ張って、裏通りへと消えていった。

──エイジ?

 見間違えでなければ、あの気に入らない高校生だ。
 何故ここに?いや、それよりも少し離れたビルの上から標的を狙撃したばかりの筈の谷重が何故?

 停めてあった車を拾って谷重が消えた路地へ向かう。再び車を停めて周囲をぐるりと走り回ってみると、繁華街裏の小さな社の境内にその姿を発見した。
 地面に座り込んだエイジに谷重がハンカチか何かを投げ渡しているところである。
「──シゲちゃん」
 振り返ると谷重は、やはり顔色は悪いものの、いつも仕事を完遂した時に見せる得意げな笑みを浮かべていた。
「お疲れ」
 見ると、谷重が渡したハンカチは濡らしてあるようだった。エイジはそれで頬を押さえている。殴られたのかもしれない。──谷重に?
「帰るぞ」
 谷重は座り込んで頬を冷やしながらまだ放心しているようなエイジに背を向けて、康平の方へ向かってきた。帰るぞ、は康平に言ったらしい。
「ちょ、どういうことだよシゲちゃん」
「ああ、たまたま偶然通りかかっただけだ。目の前で人が撃たれるのを見て吃驚したんだろ」
「そ──」
 それならわざわざ撃った本人が介抱しに来ることなど無いではないか。康平はパトカーが来るまであそこで野次馬に紛れていたわけでその程度の時間はあったとはいえ、あのタイミングであの場所に谷重が到着するには余程大急ぎで真っ直ぐ駆けつけなければならなかっただろう。怪我でもしていたのなら──いや、仮に怪我していたとしてもそんな危険を冒す義理が何処にあるのだ。まして、谷重は──体調が最悪の筈だったのに。
 抗議したいことは山ほどある。
 しかし谷重は康平の背中をぽんと叩くとすたすたと追い抜いて境内を出て行った。まるで結界を抜けるように境内から足を踏み出す一瞬に、まだ座ったままのエイジをちらりと振り返った。


「今日も来いよ」
 

 エイジはほんの少し顔を上げただけだった。
「おい──」
 何から抗議していいやらわからずそれだけ言って黙ってしまう。谷重は首をこきこきと鳴らして回すと小さく溜息をつくと──
 
「──寝た子を起こしたんじゃなけりゃいいけどな」

 と呟いた。

ロックグラス.gif

「お疲れ様、康ちゃん」
 目の前に水割りのグラスが置かれる。それを半分くらい一気に喉に流し込んだ。
 康平はあまり酒が強い方ではない。こんな飲み方をしたらすぐに酔っ払ってしまう。
「何か食べる?」
 顔を上げるとマサルはにっこり微笑んでいた。
 小学生の頃から知っているが、今ではいっちょまえにバーテンらしく振舞っている。
「ああ、何か頼む」
「じゃあパスタでもするね」
 簡単な調理が出来るキッチンはカウンターではなく奥のバックルームにある。もともと、谷重バーでは調理の必要な食べ物など扱ってはいなかったがマサルの提案でちょっとした軽食程度は頼まれれば出すようになったのだ。


 誰もいなくなったカウンターから椅子に座ったまま振り返ると、ピアノを弾いていた谷重がそれに気づいたかのように振り返った。指は動かしたままである。他に客はいない。
「シゲちゃん──」

 余計なことは言うなよ。

 口の動きでそう言ったのがわかる。
 マサルに聴こえないように、そうしたのだ。

 

 エイジを置いて現場付近を後にしてから、康平はそのまま車を医者のもとへ走らせた。谷重は最後まで抵抗したが、今度は康平が押し切った形である。谷重の言う通り仕事を完遂させたのだから、今度はこちらの言うことを聞いてもらう。
 医者は呆れ顔で言った。
「あのさあ、シゲさん。悪いこと言わないから入院してもうちょっと検査させてくんないかな」
「入院って、何か病気なのかやっぱり?」
 谷重ではなく康平が声を上げる。
「どこもかしこも大病の一歩手前みたいな感じ。肝臓も腎臓も胃も腸も肺も心臓も血液も血管も、多分その他も全部がったがただよ。あちこち悪すぎてこんな短い時間じゃ何か病気が隠れてても見つけられない。普通こんなんじゃ具合が悪くて動き回る気にすらなんないだろうよ。もうちょっと長生きしたいなら入院しなって」

 しかし、案の定谷重は入院は拒否した。


「──マサルや小雪には言うなよ」


 それだけ言うとじろりと康平を睨んですたすたと医院を後にしたのだった。
 小雪とは、昔から谷重の──悔谷雄日のエージェントをやってきた女である。エージェントと言うなら康平と立場は同じようなものだが、エージェントと言うよりはアシスタントというかマネージャーというか──とにかくもっと密接な関係だと言っていいだろう。しかし現在では昔馴染みのように時折訪れるだけである。
 マサルも小雪もなにかとうるさいから、体調が悪いなどということは知られたくないのだという。自分もこの数日随分うるさく言ったつもりだったが、谷重にとってはうるさいうちに入らなかったらしい。
 しかし、このままではいつ倒れてもおかしくない。谷重は、殺し屋が長生きを望んで医者通いなんて馬鹿馬鹿しいと嘯いているが──

──そりゃあ。

 確かに、健康に気を使って100まで生きる『殺し屋』など、なんだか滑稽な気はする。しかし自分なら体調が悪くてあちこち痛いとか身体がだるいとかいうなら迷わず病院へ行ってその症状を改善したいと思うだろう。何もそこまで意地を張ることはないじゃないか。

 そんなことをぼんやり考えていた時、入口の木の扉が遠慮がちにゆっくりと開いた。
 

「──よお、来たな」
 康平が扉を振り返る前に、谷重が立ち上がる。エイジだった。
 普段の妙に鼻につく快活さは影を潜めている。よっぽどあの現場を目撃したのがショックだったのだろう。

──腰抜けめ。

「あれ?英ちゃん」
 パスタの皿を片手に戻ってきたマサルが声を上げた。
「元気ないね。どしたの?」
 マサルが皿を康平の前に置いてエイジの──谷重の側まで足を進めようとした時、谷重が思い出したように大声を上げた。
「マサル、すまねえが連のトコ行ってアードベック1本貰ってきてくんないか。無くなってんの忘れてたんだ」
「……無いなら酒屋に注文しようか?」
「いや、今聞いたら在庫ねえってよ。今日は多分ホリさん来るから置いといてやんねえと」
 連というのは以前この店でサックスを吹いていた男だ。今は別の街で同じようなバーを営んでいる。しかし、バイクを走らせても往復20分はかかるだろう。


 しかし、マサルは少し肩を竦めただけで出て行った。
 おそらく、マサルに聞かせたくない話をこれからするのだということを察したのだ。昔から察しのいい子供だった。

 

 その間、エイジは一言も発しなかった。

「──まあ、飲め」
 エイジの前にロックグラスを置く。
 康平は離れた席でマサルの置いていったパスタを頬張りながらそれを眺めていた。
「飲んで、忘れろ。今までだって上手く忘れていたんだろ?」

 

──今まで?忘れていた?

「シゲさん──」
 エイジが漸く顔を上げた。少し驚いたような顔をしている。
「お前は、今まで通りちゃんとやっていける。親と上手くやれなかろうが、学校で仮面を脱ぐことができなかろうが、とにかく『普通』にやっていけるんだ。今までだって出来てたんだからこれからも出来る」

 話が──
 見えない。
 谷重は、エイジの一体何を知っているというのだろう?

「今日はたっぷり飲んで酔っ払っちまえ。今日のことも酒と一緒に忘れちまえばいい。で、もう二度とこの店には来んな。俺のことも忘れろ」
「シゲさん、俺は──」


「この先お前がグレようがどんな悪さしてサツにしょっぴかれようが知ったこっちゃねえが、銃にだけは手をだすなよ。後戻り出来なくなるぞ」
 

 目の前のグラスにおずおずと手を伸ばし、エイジは中のスコッチを一気に飲み干した。そのままグラスを置くと両手で顔を覆う。

「俺は──大丈夫?」

 弱々しいほどの声。
 あの鼻につく快活な声は作り物だったのだろうか。
 そういえば谷重は『仮面』がどうとか言った。だとしたら、今のエイジはようやく『仮面』を脱いだとでも言うのだろうか。
 谷重はにっこり微笑んで、エイジの頭を撫でている。


「お前は大丈夫だ。やっていける」

 

 康平はその光景を何か奇妙なものを見るような気分で黙って見つめているしかなかった。
 皿のパスタはきれいになくなっていた。

レビューを投稿いまいち何もまあまあ好き大好きレビューを投稿

*note*

いよいよ「このエピソード」です。本編「聖夜」の「天使」という話と裏表になってる話ですが1ではまだその前段と言う感じ。

康平目線で書いたらもうひたすら康平がかわいい(うるさいよ)。

ここでのエイジ(英二)はまだ椎多と出会う前です。「十代の頃にこんなしぶいバーに通ってた」時の英二です。ちなみにこの時点でシゲさんは50代後半くらい、康平で30代後半くらいでしょうかね。

シゲさんの実際の「仕事」の場面ってこれくらいしか書いてないな…そういえば…。これはだいたいバブル期ごろの話。ディスコとか郊外路面店の高級レストランとか宝石店とか、ブランドショップとか。たいして恩恵にあずかった記憶はないけど、時代の空気感は自分が触れてきたものなので書きやすかったです。

bottom of page