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Sin.co   The Name of the bar is;

代理人 -2-
ロックグラス.gif

 アタッシュケースに札束とは陳腐な映画やドラマじゃあるまいし、とは思うものの、結局自分が持ち歩いて一番不自然じゃないものとなればそこいらに落ち着いてしまう。最近景気のいい連中はゴミ袋に無造作に札束を詰め込んで持ち歩き例えばクラブなどで文字通り金をばら撒いたりしているという話を聞いたりもする。ちょっと胡散臭いビジネスマン──風だ、と自分では思っている──が札束いっぱいのアタッシュケースを持ち歩いているからといって即犯罪と結びつけて怪しむような人間はそういないのだろう。


 康平は客が引けるのを待ってカウンターの上にアタッシュケースを載せ、谷重の方へ押し出した。
「最初言ってた額の1.3倍。今回は他にクライアントが居るわけじゃなくてうちの上役からの仕事だからちょっと苦労したが頑張らせていただきましたよ」
「毎度あり」
 谷重はアタッシュケースをちらりと開けてすぐに蓋を閉めるとカウンターの内側に下ろした。その手で酒瓶を1本持ちカウンターの上に置く。
「珍しい焼酎が手に入ったんだ。やるよ」
 谷重バーは洋酒専門のショットバーである。普段は焼酎だの日本酒だの泡盛だの紹興酒だのは扱わない。康平は少し驚いたように目を見開いて谷重と酒瓶を見比べた。
「気持ち悪ぃな、どういう風の吹き回しだよ?」
「置いといても俺は焼酎は飲まねえし、店にも置かねえからやるよって言ってんだ。いいから持ってけ」
 どこか上機嫌に笑うと、谷重はグラスを持ってカウンターの外へ出てきた。椅子をひいて、康平の隣へ腰掛ける。
「酒──」
「ん?」
 谷重のグラスを指差し、睨みつける。
「せめてちょっとは控えろよ。悔谷雄日が健康に気をつけるのはみっともないかもしんねえけど、病気でポックリってのも相当みっともないと思うぞ」
 なにかツボにでも嵌ったのだろう、谷重は大爆笑すると手持ちのグラスの酒をぐっと呷り、冷蔵庫のミネラルウォーターを出して席に戻った。

 ふと、沈黙がその場を支配する。

 ミネラルウォーターをラッパ飲みすると、谷重はふう、と息をついた。
「──今回はすまなかったな」
 谷重の置いた焼酎の瓶をなんとなく眺めていた康平は、声につられて谷重を見る。
 

「おまえが手伝ってくれたおかげで、最後の仕事も失敗しないで済んだよ」

 

 どきん。

 一瞬で指先が冷たくなった気がした。
「……最後って……」
「ああ、そろそろ潮時だろ」
 何でもないことのように、さりげなく言う。
「今回程度の仕事、一人で片付けられなくなっちゃあな。悔谷雄日の腕も落ちたもんだ。──それに」
 頬杖をついて康平を見て、にいっと笑う。

「ただのエージェントに身体の心配をされるようになっちゃあおしめえよ」

 

 言葉を失って康平はただほんの少し背筋を伸ばした。
 それじゃあ、まるで俺のせいで引退させるみたいじゃねえか。
 なにか皮肉か嫌味でも言ってやろうかと思ったのに、頭に何も浮かばない。
 しかし、心のどこかでほっと安心もしている。


「──急にそんな事言われちゃ困るな。悔谷雄日みたいな殺し屋、替わりはいねえんだから」
「そんなそっちの事情知るかい」
 ずっと谷重は機嫌よさそうに微笑んでいる。
「んじゃあまあ、ゆっくり入院でもしてもらおうか」
「やなこった。引退したら老後は誰も知らねえとこへ行ってのんびり余生を送るって決めてんだ。病院なんかに放りこまれてたまるかよ」

 それから半月も経たないうちに、本当に谷重は居なくなってしまった。

 どこへ行くとも告げず、ただ店をマサルに任せるとだけ言って『仕事』に出る時のようにふらりと出かけたという。私物はほとんどそのままだったが、見事なまでに『谷重宏行』と人物を特定できるような痕跡は消えていた。否、もとからそんなものは無かったのかもしれない。商売道具である銃や弾薬は別の場所に保管していたのか処分してしまったのか、それも無かった。


 マサルから報せを受けた時には予感がしていたのだろう、動転するでもなくすぐに駆けつけようとか探そうという気は起こらなかったが、夕刻になると自然に店に足が向いていた。
 一旦店に入ろうとして、突然怯んだように踵を返し、別の店を選ぶ。
 ドアを開けて、谷重がいないことを確認するのを恐れているかのように。
 

 閉店間際の時間に再び外から様子を伺ってみると、ちょうどマサルがおそらく最終である客を見送っているところだった。普段と全く変わった様子のない屈託のない笑顔で。
 店に戻ろうとして康平に気づいたのか、マサルは大きく手を振って手招きした。
「あ、飲んでるじゃない。どこで飲んできたのさ。シゲ爺がいなくなったからってもうここに来ないなんて言わないでよ」

──コイツ、ほんとは何っにも考えてないんじゃねえか?

 

 自分が何故だかこんなに落ち込んでいるのに、マサルが元気なのが納得いかない。
「もう閉店するつもりだったからゆっくりしてよ。何か食べる?」
 とりあえずいつも康平が飲んでいるウイスキーの水割りを作ると、マサルは忙しく動き回っている。


「シゲちゃん──どこ行くとか言ってねえのかよ」
 
 動き回っていた筈のマサルの動きが一瞬ストップモーションのように止まった。

「……さあ、とりあえず世界一周でもするんじゃない?住むトコが決まったら連絡くれるって言うけどあやしいよね。もっとも住むトコの手配は小雪ちゃんにやってもらってるらしいからあとで聞けばいいかなって」
「ふうん……」


 ああ、マサルは知らないのだ。
 谷重が、入院加療を勧められるほどにボロボロだということを。
 同居しているマサルには具合が悪いというところを最後まで隠し通したのだろう。
 

──うるさいから。


 違う。
 心配させたくなかったのだろう。
 本当はどういう関係なのか知らないが、谷重はマサルを大事にしていた。だから、心配させたくなかったのだ。そういう──男だ。

 なんだか、腹の底が気持ち悪い、と思った。

 

 頬杖をついてぼんやりそんな事を考えていると、いつの間に作っていたのか目の前にピラフの皿が置かれた。それを差し出したマサルの腕を見て、ふと違和感を感じる。
「……おまえ、そのシャツなんかいつものより小さくねえか?」
 特別注意して見ていたわけではないが、マサルが普段ここで着ているシャツは少し大きめのブラウスシャツで、長い袖を袖止めでたくし上げている。しかし、今日は袖止めが無い。その必要が無いほど、シャツの袖が短いように見えた。それを指摘するとマサルは酷く照れたような顔をして自分の袖に目をやった。


「あ、わかった?これねえ、シゲ爺のシャツ」
 

 無邪気にすら見える笑みを顔じゅうにのせている。康平はそれに対してどう言えばいいか迷ううちに言葉を無くし、黙ってしまったままスプーンを手に取りピラフを口に運んだ。
 マサルは身長も谷重を超えていたし、手足も長い。見た目よりがっしりした体格だった谷重の肩幅とはたいして差がなくても、袖の長さは合わなかったと見える。 
 のろのろとピラフを食べているうちに、マサルは片付けを一通り終わったらしく、グラスに酒をついで自分もカウンターに座った。
──閉店後に谷重がよくそうしていたように。

 

「ほんっと、勝手にもほどがあるよね。あと店頼むなーって、僕まだ未成年だよ。もともとここ、オーナーは小雪ちゃんてことになってるみたいだからいいんだけど、やっぱ困るじゃない?色々と」
 愚痴が始まった。特に相槌も打たずにそれを聞き流す。
「だいたい一人でほっといたらお酒ばっか飲んでろくなもの食べやしないし、掃除も洗濯もいい加減だし──」
 グラスをカウンターに置く音が聞こえる。
 

「──なんで、僕を置いて行っちゃったのかなぁ……?」


 声の調子が変わった。
 見ると、マサルは両腕で自分の肩を抱き、カウンターの上で顔を伏せていた。
 肩が小刻みに震えている。

 泣いてるのか。

 子供の頃から、殆ど笑顔しか見たことがない。
 そんな場面でしか会ったことが無かったとはいえ、考えてみたらマサルは感情を顕わにしたところなど見せたことは無かったのだ。

「……引退するのは勝手だけどさ……じゃあ、ここでずっとマスターやってくれてればいいじゃない?何もここから居なくなる必要ないじゃない?」


 独り言のように。
 見た目よりずっと気が強くて意地っぱりなマサルは、他の誰の前でも泣けなかった。ただ、康平が特別だったわけではなくたまたま事情を知る康平が来たから箍が緩んでしまったのだろう。これが小雪や連ならもっと最初からこうだったかもしれない。マサルとの繋がりは康平より彼らの方が遥かに強いのだ。

 また、腹の底が気持ち悪いと思った。

 

 食べかけのピラフはもうすっかり冷めていた。スプーンを皿の上に放り出し、水割りを口に流し込む。
 立ち上がって、マサルのすぐ脇に立った。
その気配に気づいたのだろうか、マサルはほんの少し頭を上げて、泣き声のまま小さく笑った。
「──こうしてるとさ、シゲ爺の匂いがするよ」


 谷重のシャツ。
 洗濯していても、匂いが染み付いているのだろう。酒の匂いか、煙草の匂いか、それとも──


 手をそろり伸ばして頭をそっと撫でてみる。思った以上にさらさらと手触りのいい髪の感触が掌を刺激した。
 身体中の血管が収縮したように一瞬竦む。それが突然暴力的な衝動を呼び起こした。
 そのまま髪を掴み顔を上向かせて唇を覆う。
 噛み付くように貪る。
 マサルの驚きや戸惑いが返ってきたのはほんの数秒だった。
 待ち構えていたかのように。
 吸い付くように応えはじめる。

──こいつ。

 背後に回ってマサルをカウンターに押し付けながら服の上から身体を弄る。抵抗はしない。ズボンの中に掌を滑らせて引き締まった形のいい尻をなぞるとマサルは小さく声を上げた。
「──なんだ、ガキだガキだと思ってたらえらく仕込まれてんじゃねえか」
 そういえばまだマサルが小学生の頃、何を思ったのかキスをせがまれたことがある。ちょっとした悪戯心で、思い切り濃厚で刺激的なのをしてやった。相手は子供なのに、なんだか妙な気分になったものだ。
 そんなことをふと思い出す。
 指をもぐらせて掻き回すとカウンターの上に顔を伏せたまま身をよじりすすり泣くような声を漏らす。
 それが、『谷重の匂い』を求めているように見えた。
「誰に仕込んでもらったんだ?──シゲちゃんか?」
 マサルは激しくかぶりを振った。
 そんなことは──判っている。
 違うけれど、マサルがそれを望んでいたのであろうことも。

 可笑しくなってきた。

 歯止めをかけることなど欠片も頭に浮かばない。
 そのままマサルを貫き、思うまま突き上げてやる。


 襟元に鼻をくっつけて抱きしめると、谷重の匂いがする気がした。

ロックグラス.gif

「お久しぶりです」

 相変わらず事務的な態度だ。
 小雪は水の入ったグラスで唇を湿らせるとにこりともせずに康平の椅子ひとつ隔てた隣に座った。
「飲まねえの?ご馳走するぜ」
「後で頂きます。用件は何?」
 やれやれ、と後頭部をがりがり掻いて溜息をつく。
 仕事の話をする時には小雪は一切酒を飲まない。それは昔からの習慣だという。
「あんた、海外でも仕事してるんだろ。信用できるエージェントか殺し屋を紹介してくんねえかなと思ってさ」
「海外といっても広いでしょう。どこがご希望ですか」
「とりあえずシアトルと台湾とメキシコとイタリア」
 小雪は呆れたように肩をすくめている。
「本当に世界中ね」
「あとはアフリカとオーストラリアだな」
「わかりました。ただし三日ほど時間を下さい。あとご指定の都市全部を紹介できるとは限りませんよ」
 康平は頼まあ、と言うと手元のグラスの水割りを呷った。


 最近、康平の組織と関係の深い企業が海外事業に進出して急成長しているのに合わせるように裏側の仕事の要請が増えている。件数が僅かなうちはこちらで手配した人間を現地に飛ばすということも可能だったが、現地に信用できるエージェントや殺し屋がいるならそれに越したことはない。現在の康平の人脈の中では、小雪の情報が一番使えるし信用出来るだろう。
 それにしても、小雪とは会った回数こそそう多くはないが、初めて会ってからもう随分経つ。それなのに、小雪は一回りほども年下の康平に対して敬語と『澤さん』という呼び名を崩さない。康平は完全に仕事オンリーの関係と割り切っているのだろう。だから谷重との仕事が終わったとしても、仕事の話ならこうして出向いてはくれる。ただそんな時、ふと疎外感を感じる自分がなんだか嫌だ。


 小雪がメモも取らずに口の中で二三度内容を反復しわずかに座り直してカウンターの中に目をやると、何も頼まないのにマサルはスコッチのオンザロックを作って小雪の前に置いた。 

「小雪ちゃん、最近シゲ爺会った?」

 小雪と康平の話が終わるのを待ちかねていたかのように切り出す。しかし小雪は小さく首を横に振った。先程までとがらりと違った、なにやら優しい顔に変わっている。微かに笑みすら浮かべて。
「そうしょっちゅうはあちらにも行かないもの。一度くらいはここに帰ってらっしゃいって言ってるんだけどね」
 落胆の一方で予想通りだったのだろう、さばさばした顔でマサルは康平に向き直り、おかわりいる?と訊いた。

 衝動的にマサルを抱いた後──

 なにやらきまりが悪くて顔を合わせづらい気がしたのは次に店に来た時だけだった。マサルは何事も無かったようにまったく同じ態度でいたせいだ。
 つまりはマサルはこういうことには慣れているのだろう。
 一度勢いで肉体関係を持ったからといってそれまでの関係を変えるということはないらしい。有り体に言えば寂しさを紛らわす為に行きずりの名も知らぬ者と寝たのと大差ないということだ。
 その後も何度かそうして関係を持ったりもしたが、マサルの態度は全く変わらない。だから気楽でいい。

「シゲちゃん、元気なのか?」

 ぽつりと問いを落とす。
 それだけが胸の奥にひっかかっている。
 一人で放っておいたら谷重は病院など行きはしないだろう。
 
「ええ、元気です。馬鹿みたいに本を積み上げて一日中読んでるような調子ですが」
「ふうん。相変わらず酒も飲んでんのかな」
「ウイスキーはやめて最近はワインに凝ってるようですよ」


──飲むなっていうのに。


 それでも、ウイスキーをやめただけまだましなのか。

 小雪は康平に谷重の居所を教えようとはしない。マサルが手紙や電話のやりとりをしている事はマサルの言葉の端々から察することが出来るが、もしかしたらマサルも小雪から口止めされているのかもしれない。

──今まで悔谷がお世話になりました。悔谷も澤さんには感謝しています。『悔谷雄日』は引退したことですし、もうここにも居ませんから彼のその後のことはお気遣いなく。

 確か、谷重が姿を消して半年ばかり経った頃だった。小雪はあっさりこう言って、谷重の居所などお前にはもう関係ないと切って捨てたのである。

 突然、電話のベルが鳴った。

 康平と小雪とマサルが一斉にびくりとして電話の方に視線を投げる。マサルが脱兎の如くその電話を取りに走った。
 ぼそぼそと話し声が聴こえるが、何を話しているかは聴こえない。
 何分かするとマサルはひょいと顔を出した。


「小雪ちゃん、シゲ爺」
 

 どきりとした。
 そうではないかと思ったけれど、それでも。
 そういえば、店に康平が居るときに谷重から電話がかかってきたのはこれが初めてだ。
 小雪は一分も経たぬ間に同じように顔を出した。


「澤さん、谷重からです」
「──俺?」

 まさか自分にも電話が回ってくるとは思っていなかった。
 心臓がばくばくしているのがみっともない、と思いながら受話器を受け取る。

「──もしもし」

『おう、康平か。久しぶりだなあ』

 

 声は、元気そうだ。
「どこで何やってんだよ。どうせ医者にもかからずに酒ばっかかっくらってんだろ?くたばっても知らねえぞ」
 電話の向こうで、聞きなれた笑い声が響く。
『どうせいつくたばってもいい余生だ。好きな酒かっくらって何が悪い』
 谷重の悪態を聞きながら、康平は目を閉じていた。


「シゲちゃん──たまには帰って来いよ」
『──気が向いたらな』

 谷重に話したいことが山ほどある。いや、どれもくだらない話ばかりで、話さなくてもいいようなものだけれど。電話じゃ埒があかない、のんびり顔を見て飲みながら話したい。

──なんだよ、俺。

 急に気恥ずかしくなって黙ると、谷重は電話の向こうで何かを思い出したようにああ、と言った。
『そういえば、エイジのやつはどうしてる?』

「──はあ?」

 エイジのことなど今まですっかり忘れていた。
 いや、完全に忘れていたわけではない。が、谷重が去った今、康平が自分から進んで係わる筋合いのない話である。
「さあ。連のとこには出入りしてるらしいが、あそこはウチのシマじゃねえから寄りつきにくいし、第一俺がなんでエイジの見張りまでしなきゃなんねえんだよ」
『ああ、そりゃそうだ。ちょっと気になってたもんだからな。おまえの耳に入ってないって事は多分大丈夫なんだろう──康平』


 谷重との最後の仕事──あの日、夜にこの店に訪れたエイジの姿がふと脳裏に蘇る。


『もしおまえの耳に入ったらでいいが、あいつに何かあったら知らせてくれねえか』
「は?なんで俺が──」
 思わずそう返すと、暫く考えたような沈黙の後谷重は少し笑った声で言った。
『……まあ、いい。悪かったな。気にすんな』

──どういう事だよ。

 腹の底が──
 また、気持ち悪い。

 背後をマサルが落ち着きなくそわそわ、うろうろしているのを感じて、康平はそのまま再び受話器をマサルに渡してやった。 
 少し上がった血圧が急激に下がったように、一気に疲れた──と思った。

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 空港に迎えにきた舎弟に荷物を押し付けると、車の後部座席に倒れこむようにして乗る。
「あー疲れた……」
 誰に言うともなく声に出して唸る。車が走り出すと助手席の若い男が振り返った。
「康平さん、お疲れさんです」
「おう、なんだ。伸じゃねえか。勝田はどうした?くたばったか?」
 ノブと呼ばれた若者は苦笑して勘弁してくださいよ、と頭を掻いた。普段は勝田という兄貴分について歩いている若者だ。
「そのことなんですがね、康平さん」
 妙に申し訳なさそうな顔をした。
「勝田の兄貴があっちのスパイスの方外れることになったんすよ。ここだけの話、ちょっと組がゴタついてるもんで。それで康平さんに引き継いで欲しいとこういうワケで」
「あぁ?」


 勝田というのはこの組織では幹部クラスであり下部組織の組を率いている男で、とある違法薬物の材料のルートを担当していた。『スパイス』と呼ばれているのがそれだ。ルートそのものは相手と運び屋が握っていてなかなか自由にならないだの、その相手を割り出すだのいう話だった筈だがそれに難儀していたと聞く。それを康平に引き継げという──


「で、今からヤツんとこへ行くんですがね。ご一緒願います。勝田がやってたとこまではみちみち俺がご説明さしてもらいます」
「おい勘弁してくれよ、俺今台湾から帰ったとこなんだぞ。それ、若頭の指示か?さては俺を過労死させる気だな、あの人ぁ」
「康平さんを買ってらっしゃるんすよ」

──知ったふうなこと言いやがって。

 康平は組織では一応幹部クラスの待遇を与えられている。しかし他の者と違い、下部組織を構成するでもなく、組織の下っ端が補佐につくことはあっても基本は常に単独行動である。そして、たいてい面倒で厄介な仕事ばかり押し付けられる。


 つまるところ、便利に使われているだけだ。

 否、おそらく上役は──俺を根からは信用していないのだろう。

 他の組織を黙って抜けて来た若造を拾って、たまたまそれなりに使えるから使い続けている。それだけなのだ。
 もといた組織は妙にやくざらしからぬ部分があったから、黙って抜けた康平の破門だの絶縁の回状を他組織に回すということはしなかった。だから康平が現在の組織に拾われたことはこの世界の仁義に悖ることではない、と若頭は嘯いている。

 仁義に悖るというのならもっと酷いことを自分はやっている──

 そのおかげで一定の信用は得たが、本当に身内として受け入れられているという感覚はない。現在康平が任されている事も、いざとなれば康平一人を切り捨てれば誰も困らないようになっている。結局は交換のきく部品のようなものだ。
 使えるうちはせいぜい便利に使っておけ、ということだろう。
 もっとも康平の方も、別にこの組織の組長だの若頭だのに忠誠を誓っているわけではない。お互い様だ。

「ところで康平さん、お食事は済んでますか」
「いや、まだだ。腹ぺこだぜ」
「そいつぁよかった。ちょっと洒落てフランス料理なんていかがです?」
 伸が再び振り返って妙に人懐っこいような笑顔を見せている。
「フランス料理だと?こちとら疲れてんだ。そんな肩の凝りそうなもんよりそこいらの定食屋でなんか食わせろ」
「いや、どうでも来ていただきます。大丈夫っすよ、そんな片肘はったトコじゃなくてビストロすから」

──何だそりゃ。だったら聞くなよ。

「オーナーシェフと厨房見習いが一人、大学生のアルバイトが3人。ホール係の、ギャルソンってんですか、それが一人とランチ時間だけのウェイトレスが一人、それと下働きの新入りが一人。そう大きくない店で、まあ繁盛してないワケでもないんですがこんだけ人を雇うほど儲かってるとも思えない。──ってコトですよ」
「他に金づるがあるってわけだな」
「どっかにたんまり溜め込んでる筈ですよ。親玉はオーナーシェフです。こっちとの交渉もこいつがやります。厨房見習いが2ヶ月に1回くらいフランスに研修とかいう名目で行ってましてね、その時に向こうの売人と接触してるらしい。ブツの出所はあっちのルートでイギリスかなんか経由でインドだかスリランカから来てるようです。回りくどい話ですがこの上モノってやつが他のルートではなかなか手に入らなくてね」
「あとの従業員は」
「まあ、こいつらはただのアルバイトでしょう。ギャルソンは勤めて長いからもしかしたら一枚噛んでるかもしれませんがウェイトレスは時々変わってるし、下働きは新顔なんで」


 車が停まった。
 街外れに近いが駅からは徒歩10分といったところか。店舗は1階だけで2階は事務所になっている。若い娘が喜びそうな可愛らしい店構えだ。
 

「あ、康平さん。念のため銃とかドスとか持ってたら置いてってもらえますか。荷物は先に運んどきますから。あと、康平さんはとりあえず黙って見てて下さればいいんで」
 車を降りる前に伸が言った。常に銃を携帯しているわけではないのだが妙な事を言うなと思った。
 降りると車がそのまま走り出す。伸が康平を先導する形で店に入った。


 ちょうどランチ時間が終わるあたりで、店内にはふた組が食事を終えようとしているところである。
 ギャルソンの顔色が微かに変わった。
 ウェイトレスの娘は屈託なくいらっしゃいませ、とメニューを持ってきたので伸は何気なくランチを二つ頼んだ。
「悪いねえ、ランチの時間終わりかけなのに」
「いいえ、かまいませんよ」
 厨房に注文を告げたウェイトレスにギャルソンが声をかけると、娘は奥へ引っ込んでいった。ほどなく、私服に着替えた娘は残った客に──伸と康平にも──会釈して店を出て行った。ランチ時間のアルバイトだと言うから、もう上がっていいと言われたのだろう。


 伸と康平のテーブルにランチが運ばれてきたのと同じくらいのタイミングで、残っていた客が席を立つ。二人だけが店に残った。
「なかなか美味いでしょ」
 煮込みハンバーグのランチである。確かになかなか美味い。
 食後のコーヒーを運んできた白衣にコック帽の男は神妙な顔をしている。


──こいつがオーナーシェフか。


 まだ若い。せいぜい三十代だろう。
「鎌井さん、勝田さんは」
「ああ、兄貴は今日は別の用件でな。こちら澤さん。こちらも俺の兄貴格だ。失礼ないようにな」
 オーナーシェフは畏まって康平にも礼をした。しかし顔つきはまるで畏まってもいないしヤクザを恐れているようにも見えない。ヤクザ相手に違法な品物を取引しようというのだから、根性が座っているのは当然だといえるだろう。敬語が慇懃無礼にすら思える。
「で、今日はどうなさったんですか。まだ品物は──」
「ああ、わかってる。並木は今日戻るんだろ?そんなこたあちゃあんと調べてあるさ。そろそろ帰ってくる頃だよな?待たせてもらうぜ」
「──」
 並木というのは伸の言うところの厨房見習いという奴だろう。つまりブツを持って『研修』から帰ってくるのを待ち伏せしているということになる。


 伸は何かしようとしているのか。
 説明します、と言いながら今日ここに来て何をするのか、何のために康平を連れてきたのかは伸は一切説明しなかった。
 

「まあ、並木が帰ってくるまでコーヒーでも飲んで待とうや。汀、おまえもあいつらにまかないでも作ってな。坊やがお腹を空かせてるぜ」
 汀と呼ばれたオーナーシェフはええ、とだけ答えて厳しい顔をして後ずさり、厨房に戻った。

「おい、これからどうする気だ」
 小声で伸に言うと、伸はやはり小声で笑いながら言った。
「運び屋が帰ってきたらブツをここに出させます。それから俺がこいつら始末しますんで」
「何だと?」
「汀と並木とバイト二人。殺すのは汀だけのつもりですがね。康平さんはコトが終わったら、サツに通報して下さい。ランチを食いにきて、そうだなあ、汀のやつにヤクザは来るなとか言われて俺がキレてたまたま持ってたハジキで暴れた。康平さんはそれを止めて、落ち着かせて通報した。それをサツで証言して下さい。汀はともかくあとの三人は回復しても報復が恐ろしくて口は割らんでしょう。並木は実際運び屋をやってたわけだから喋ったら自分もヤバイすからね」
「なんで汀を──ああ、ルートが押さえられたってことか」
「そういうこと。となると汀は邪魔でね。康平さんの殺し屋にキレイに始末してもらう手もあるんでしょうが、そうするとサツに汀とうちの関係を痛くない腹まで探られちまうでしょう、勝田さんや俺がここに何度も出入りしてんのは色んな人間に見られてますんでね。単なる揉め事で片付けた方がいいんですよ。なに、俺は初犯だし、殺人と傷害と銃刀法違反だけどまあ計画性はないってことで何年かブチ込まれりゃ出てこれます。出てきたら出世ですよ」

──馬鹿馬鹿しい。

 しかも、何でそんな馬鹿な役回りをやらねばならないのか。
 康平は苦虫を噛み潰したような顔でコーヒーを啜った。
 これも若頭の指示なのだ。

 

──試されてるのか。

 こちらはヤクザだから、警察からは証言者として出頭したとしてもそれこそ痛くもない腹を探られかねない。それでもこちらを立てて偽証しろと言うのだ。
 裏切るつもりなら他にいくらでもやりようがあるだろうに。
 だいいち、どんなにこの組織での扱いを俺が腹に据えかねていたとしても、サツに協力するくらいなら死んだ方がましだ。

──舐められたもんだな。

 そのうち吠え面かかせてやる。だが、今はその時じゃない。

 

 

 入口のカウベルが軽快な音を立てて開いた。
 いかにも海外旅行から帰ってきたという風情の若者が入ってくるなり伸の顔を見て怯んでいる。
 これが『並木』だろう。
「よ。おかえり。待ってたぜ」
「───」
 無言で通りすぎ、厨房へ向かおうとするのを伸は立ち上がって進路を遮る。
「まあ、コソコソすんなって。ここで店開きしようぜ」
「鎌井さん、ちょっと待って下さいよ」
 奥から汀が出てきた。
「急ぐんでな。ブツはそのまま貰って帰るぜ」
「待って下さいと──」
「それとも何か?このブツはうち以外にも売ってんのかい?」
 汀が言葉に詰まる。
 伸はポケットから黒光りする鉄の塊を取り出した。
「まあ、いいから出しな。全部だ」
 この場面になっても汀は取り乱していないが、並木は踵ががカタカタ音を立てるほどに震えている。なるほどこれならば、殺さなくても喋りはしないだろう。震える手でスーツケースを開け──丁寧に包まれた小瓶を5本、取り出した。
『スパイス』とはよく言ったもので、スパイスの瓶に入っている。どこからどう見ても黒胡椒の粒である。
 伸は銃を構えたまま、それを用意した紙袋に入れ窓から外へ出すように並木に指示した。
 並木はがたがた震える手でその通りに紙袋に入れ、口を何度も折って仮の封をし、そして窓から落とした。おそらく誰かそこに目立たぬように待機しているのだろう。
「ご苦労さん」
「鎌井──どういうつもりだ」
 汀の口調が変わっている。
「おまえもなあ、ヤクザ相手にこんな商売すんじゃねえよ。あんなに美味えハンバーグ作れるくせに、つまんねえ欲をかくからこんなことになるんだぜ」
「───」


「もったいねえなあ。あのハンバーグ、もう食えねえのかあ」
 

 伸はそう言って笑いながら銃口をゆっくりと汀に向けた。

 耳を劈くような銃声。

 並木は紙のように真っ白い顔になってがたがた震えている。伸はその並木にも銃を向けた。そこへギャルソンと少し遅れて下働きの若者という二人が駆け出してきた。
「ヤクザ怒らすとこういうことになんだぜ。おまえらもサツでつまんねえこと言ったらぶっ殺すからな。よく見とけ」
 並木を撃った。
 並木は腹を撃たれて倒れもがき苦しんでいる。次はギャルソン──


 と、もうひとりの──『下働きの新入り』がふらふらと伸の前に進んできた。

──え

──エイジ?!

 なんでこんなところで。
 『下働きの新入りアルバイト』は。
 エイジだったのか。
 

 瞬間的に谷重の声が康平の頭の中に響いた。

 

──あいつに何かあったら。
──俺に知らせてくれ。

 

「……んだお前は?!文句あんのか?!」
 伸がエイジに銃口を向ける。

 

──違う。
──正気じゃない。

 エイジはまるで夢遊病者のような顔をしてじっと伸の銃を見つめている。
「なんだコイツ、薄気味悪ぃ!」
「やめろ、伸!殺したら帰ってこれねえぞ!」
 びくりと伸が腕を縮めた。
 二人殺したら、いくら計画性や残虐性がなくても無期をくらうかもしれない。帰ってこれないことはないかもしれないが何年かかるかわからないのだ。
 康平の声が一瞬伸を冷静にしたのだろう。
 緊張が緩んだ。その時──


「うわぁああ」
 伸の手から拳銃を奪い取ったのは──


「──エイジ!!」
 ギャルソンが叫んだ。
「てめ、何しやがんだ!」
 伸がエイジの手から拳銃を奪い返そうと──

 銃声。

「──」

 康平はただ、あっけにとられた。


 エイジが──
 撃ったのは、ギャルソン。

「な、な、なんだよおまえ……」
 怯んだのは伸の方である。アルバイト仲間のギャルソンを、なぜこいつが撃たねばならないのか。
 エイジはただ自分の握った銃を見下ろしている。
 すでに血溜まりになった足元で、肩から血を流して恐怖に戦くギャルソンの姿が見えた。
 ふらりと、エイジが振り返る。

 ぞくり──

 康平は、背筋を冷たいものが伝っているのを感じた。

──これは。
──人殺しの貌、だ。
──それも。

──狂ってる。

 エイジは、至福の笑みを浮かべていた。

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 ようやく解放されたのはもう日付も変わろうかという深夜だった。
 コトがコトだけに、この一回では済まないだろう。
 直前に遅いランチを腹いっぱい食ったとはいえさすがに空腹だが、すでに頂点を過ぎてあまり食いたいとは思わなかった。

 我に返った時には、康平は通常より冷静になっていた。
 まずエイジの手から拳銃を取り上げる。
 ぶん殴ると、その場に簡単に倒れて血まみれになったままそこにへたり込んだ。まだ自分が何をしたのかはっきり自覚していないのかもしれない。
 それから当初の予定通りすぐに警察に電話した。110番ではなく、常から多少の交流のある暴力団対策係の刑事を直接呼び出す。あれだけ派手な銃声を立てたのだからどうせ近辺の人間が110番するのだろうが、単に110番を呼ぶだけよりもなにかと便宜を図ってくれる筈だ。それから救急車も呼んだ。


 警察が到着するまでの間に、拳銃をテーブルクロスの端で丁寧に拭いてエイジの指紋を消す。それから伸にもう一度握らせて、最後にもう一度康平が受け取って自分の背中に差し込んだ。
「──伸、この気違いは俺が後でなんとかしとくからお前は予定通り逮捕されとけ。このガキもお前が撃ったことにしといた方がいい、ややこしいことは御免だ。予定より撃った人数が一人減って刑がちょっと軽くなるかもな」
 それからまだガタガタ震えているギャルソンの前にしゃがみ込んだ。
「お前を撃ったのはこの怖え怖えヤクザだ。銃声がしたから飛び出してきたら汀と並木が倒れてて、あっと思ったら撃たれてた。他のことは何も覚えてない。いいな?心配しなくてもこのイカレた野郎は俺の方で始末しとく。うっかりした事言ってみな、どうなるか判るよな?おまえの名前も住所も家族も全部割れてんだ」
 とっておきの凄みで睨みつけてやるとギャルソンは今にも意識を失いそうな顔で何度も頷いた。


 次にエイジに近づく。エイジはまだ血溜まりに尻餅をついた状態のまま呆然としていた。ギャルソンや伸に聴こえないように、耳元に口を近づけてゆっくりと声を出した。偶然とはいえ、自分がエイジと顔見知りだということはなるべく知られたくなかった。


「まさかこんなとこで会うとはな──いいか、お前もこの状況にびびってここですっころんだだけだ。サツに連れてかれても一切何も喋るな。解放されたら──そうだな、連の店にでも行っとけ。上の部屋にでも上げてもらって誰か迎えにやるまで一歩も外に出んな。わかったか?」
 聞いてるだろうか──と思って顔を覗きこむと、殴られせいかとにかく先程までのまるで何かに憑かれたような目ではなくなっているようだ。もう一度いいな、と念を押すとエイジは迷子の子供のような顔をして小さく頷いた。


 ほどなくパトカーと救急車が到着し、汀──はすでに頭をぶち抜かれて事切れていたのだが──と先程までもがいていたが気を失った並木と、顔色を無くして震えているギャルソンとそして茫然自失のエイジは救急車で運ばれていった。
 伸は手錠をかけられ、先に連行される。現場で待っている間に連絡をとった刑事が到着した。
「おいおい澤ちゃん、若いやつの教育はしっかり頼むよ。堅気の人間に危害を加えられるとこっちもやらざるを得んだろ?お互い平和になあなあでやってこうや」
「よく言うよ。あいつはもともと俺の部下じゃねえ。たまたま俺を迎えに来ただけで、あいつの上役は勝田だからな。教育云々言うんだったら勝田に言ってくれ」
「わかったわかった。とにかく詳しい話を聞かせてもらおうか。丁度ヒマだったんでね、ゆっくり付き合うよ」

──なにがヒマだったんでね、だ畜生め。

 なにか美味しいネタでもないかと、伸や拳銃に関すること以外のこともしつこく延々と探られた。この指示を出したのが若頭だということは、拳銃所持の件でガサ入れが入るかもしれないことくらいは計算済みだろう。こっちがあれこれ考えることではない。のらりくらりかわして、なんとか解放された。もっとも、1日や2日は尾行がつくかもしれない。


「しつこい男は嫌われんだぜ」
 

 毒づいて、とりあえず谷重バーではなく住処の近くの居酒屋に寄る。その間に、ピンク電話で谷重バーへ電話を入れた。
 

「──マサルか。事情は後で話すが、シゲちゃんと至急連絡が取りたい。お前が教えられねえってんなら、小雪姐やんの許可を取ってくれ。シゲちゃんに頼まれてたことがあるんでな。明日そっちへ行くからそれまでに頼む」
 

 マサルは短くわかった、とだけ言った。
 居酒屋で腹を満たし、少々飲んで部屋へ戻ると風呂へ入るのも億劫なくらい疲れがどっと出た。倒れこむようにベッドに身を投げてごろごろしながら服を脱ぐとその場に投げ捨て、そのまま眠りの淵に引きずりこまれる。

 目覚め際に、夢を見た。

 何度も繰り返し見る夢だ。

 夜のビルの屋上。
 宝石箱をぶちまけたような輝る街。
 蜂の巣になった血まみれの男が──
 その宝石箱の上に落ちていく。

 夢なのに、掌が熱くじんじん痺れている。

 自分の隣に、人の気配を感じてそちらを見ると──

 自分と同じように銃を構えた男がこちらを向いた。

──エイジ。

 エイジはあの狂った笑みを浮かべて、こちらに銃を向けた。

 

「──!!」

 跳ね起きると、すでに朝になっていた。全身が汗でびっしょり濡れている。
「──くそ」
 鈍く痛む頭を揉みながらだらだらとシャワーを浴びた。

 谷重は、エイジがああなるということを知っていたのだろう。
 寝た子を起こしたんじゃなきゃいいけどな──
 確か、あの日谷重はそう言った。
 エイジの中にあの人殺しが『眠って』いることを察知して。
 目の前で人の頭が吹っ飛ばされるのを見たことでその寝た子が起きたのではないかと。

──そういうことか。

 あれだけ谷重が気にしていたというのは、『寝た子を起こした』かもしれないことに責任を感じているのかもしれない。今までうまくやってこれていたんだから──やっていける、と言ったのに。


「完全に起こしちまったって事かな」
 

 しかし、康平にはそんな事は知ったことではなかった。
 だいたい、あんな所に偶然居合わせるなんて、そもそも運が悪いのだ。否、これはもう運命としか言いようがない。エイジは、堅気ではやっていけない運命なのだ。
 ならば放っておけばいいではないか。
 『寝た子』が起きてしまったエイジがこの先どうにかして拳銃を入手し撃ちまくって何人殺そうが、他の手段の殺しも覚えて連続通り魔殺人鬼になろうが、そしてやがて捕まって死刑になろうが康平にはなんの関係もない。
 谷重には知らぬ存ぜぬを通せば済むことだ。

 なのに、何で俺はご丁寧に危険を承知でシゲちゃんに知らせようとしてるんだ?

 

 ち、と舌打ちして康平は冷蔵庫から牛乳パックを出した。飲もうかと思って見たら、すでに中の牛乳は腐って固形化し始めていた。

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*note*

この「代理人」という話はもちろんシゲさんの最期だとかシゲさんと康平の関係性、英二のことなど、本編の補完という位置づけの話として書き始めたわけですが、書いてる最中はなんというかそういう辻褄合わせとかいうより話を書くこと自体が楽しかったのが後から読み直してみてもわかりますね。

そして康平が乙女。なんか、恋愛感情とかじゃなくても大好きな人ってあるじゃないですか。その人とただ内容の無いお喋りしてたいとか。康平にとっては谷重バーってそういう場所だったんだろうなと。

あとなんか意外と康平、有能なんですよ(意外って何だ)。この人、堅気の世界で生きられる人なんだったら(会社員は無理でも)普通に起業して成功しそうなんですけどね。あ、でも人望ないからダメか。

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