Sin.co The Name of the bar is;
代理人 -3-
そこここに、観光客の姿が見える。シーズンではないのかもしれないが、やはり観光地だ。当然、日本人の姿も見える。
都会の方が外国人が入り込んでも不自然じゃないということなのだろう。
この街に来たのは初めてではないが、あまり居心地は良くない、と思った。
繁華街の裏手の、途端に薄暗く寂しい街並みの外れに、目的のアパートがあった。
なんとなく、谷重バーのあった辺りを思い出す。
アパート……と言っても、日本のそれとは違い、古い石造りの4階建てほどの建物でドアを開けるとすでに家の中に入ったような錯覚すら覚えた。どちらかといえば下宿と言った方がしっくりくるような雰囲気である。
木の階段は踏みしめるとぎしぎしと音を立てた。
一階には住居は無く、二階から二室ずつ──とは言ってもそれぞれ何部屋ずつかはあるのだろう。他には老婆とどこかのキャバレーの踊り子と外国人の売れない絵描きが住んでいるという。
谷重の住んでいるのは三階だ。
会ったらまず何を言おう。
駅についてからずっとその事ばかり考えていた気がする。
───三階の、左側。
扉の横に白く小さく丸いボタンがある。それを押すと、無遠慮で無粋なびいーっというブザーの音がドアの中で響いた。
「開いてるぞ」
中から、声が聞こえた。
焼酎を貰ったあの日で、康平の中では谷重の時間が止まっている。
妙に血の気が引くような気がしながら、康平はドアノブを回した。
入ると、いきなりリビングのようなスペースだった。
しかしソファの周囲には雑然と本が積み上げられ、その山は何竿にもなっている。
──馬鹿みたいに本を積み上げて一日中読んで……
そうだ、小雪もそう言っていた。
長ソファの上にカウチのように寝そべって、谷重は手に持った本を胸の上に伏せた。
「よう」
”いつも”と同じように、谷重は微笑んだ。
「──元気そうだな」
「おう、おまえに心配されるほどじゃねえよ」
本当は、元気そうだなどと思わなかった。
会っていない間に徐々にそうなったのだろうが、やはり顔色も悪いし白髪も増えているし、痩せた。そんなに何年も会っていないわけではないのに、一気に老人になったように見える。
「面倒なことを頼んですまなかったな」
「いや、俺も組の仕事でちょうどこっちに用事があったんだ。それにひっかけるためにちょっと時間が要ったけどな。あんまり慌てて動くとサツに嗅ぎつけられるし」
『スパイス』のルートを再構築する、その足がかりをつけなければならない。用心の為に一旦ロンドンへ飛び、そこから船とTGVでパリに入った。流石に海外へ飛べばいくら暴力団関係は広域指定だとしてもたかだか所轄の警察が追ってくることは出来ない。
「あいつが今ちゃんと正気に戻っていて、連に言伝てたメモに従ってくれれば──三日後にはドゴールに着く。それまでの間は俺は俺の仕事をするから、まあ気にすんなよ」
まるで立ち話のようにそこまで話してようやく気づいたように谷重は立ち上がった。
「飲むか?」
そう言いながらこの部屋に4つあるドアのひとつを開けた。その奥は台所らしい。
「俺は飲んでもいいけど、シゲちゃんは駄目だ」
「ワインは健康にいいんだぞ。アルコール度数も低いし、茶みたいなもんだ」
「だったら茶飲んどけよ。紅茶くらいあんだろが、ここにも」
くすくす笑いながらワイングラスと新しい赤ワインを一本抱えて戻ってきた。どうせ言うことなど聞きはしないのだ。
ようやく康平は上着を脱いで、別のソファに腰を下ろした。
不思議な感じがする。
考えてみれば、仕事の関係で外で会うことはあったがそれ以外は殆ど谷重バーの中でしか会ったことがない。あの店ではない場所で、こういうリラックスした雰囲気で谷重の姿を見るのはなにやら違和感があるのだ。
今更ながら──
『殺し屋・悔谷雄日』と『谷重バーのマスター』しか自分は知らなかったのだということに、康平はようやく気づいていた。
話したいことが山ほどあったのではなかったか。
それなのにいざというと何を話していいのかわからなくなった。
「シゲちゃんは──あいつがどっかおかしいって最初から知ってたのか?」
結局、話したくもないエイジの話になった。とはいえ、確かに聞いてみたいことではったのだけれど。
「まあ、カンというか、匂いっていうかな。イカレた人殺しはなんとなくわかるのさ。同類だからな」
「シゲちゃんはイカレてないだろ」
谷重は小さく含み笑いをした。
「同類だよ。おまえは俺が仕事をした直後──撃った直後は見たことねえだろ。鏡で見たわけじゃねえが、多分俺も撃った時はイカレた顔してる。銃を撃つのが気持ちいいんだよ」
「──」
「そういうやつは時々居るんだ。たいていのヤツはそれでも、銃なんて手にする機会はないからなんとか無事まっとうに一生を終えることが出来る。ああ、銃じゃなくても、例えば刃物で人を刺す感覚が忘れられなくて繰り返しちまうヤツがいるだろ?それと同じだ。撃った時の衝撃と熱と、相手が吹っ飛んで頭でも破裂しようもんならそれだけで半年はオカズになる」
そんな──
谷重にもそんな狂った部分があるのか──
あれほど冷静に仕事をこなしてきた男なのに──
「昔、そんなヤツに会った。戦後まもなくに多分GHQの兵士からかっぱらったんだろう、ガキの癖に銃で強盗でもやろうと思ってて、銃を撃つことそのものにとり憑かれたヤツが。そいつは自分で銃を作って、そこいらで拾った女を犯しながら頭をぶち抜きまくった。そいつに殺しの仕事を教えてやったらそれは止んだがな」
谷重は少し意味ありげな目で康平の顔を見ている。とても狂った人殺しが住んでいたとは思えない微笑のまま。
「──おまえのよく知ってる男だよ」
どきん。
「……よせやい。シゲちゃんが昔話なんてほんとに爺さんになったみたいで気持ち悪い」
「そうか?そうだな。昔話は爺いがするもんだ」
どこかで聞いたけれど確認したことはなかった。
あの宝石箱の上に落ちていった男は、悔谷雄日の弟子だったと。
確認するのが怖かった。
しかし、谷重は知っているのかもしれない。
その弟子を蜂の巣にして殺したのが康平だということを。
「──あいつは、エイジは銃で誰かを殺したことがあったってことか?」
話を戻す。どうにもいたたまれない。
「あくまで想像だ。ま、ちょっとらしくないが気になったんで多少あいつのことは調べたがな」
確かにらしくない。
普段はバーの客の素性など全く詮索しない人間なのに。
「おまえも使ったことあるだろ?料亭の『しぶや』」
「──?ああ。俺はまだそこまで重要な仕事は任されてねえから、一、二度だが」
「エイジはあそこの次男坊だ」
「──」
料亭『しぶや』といえば江戸時代から続く超がつく老舗で、政界財界のお偉いさんたちが好んで利用する店である。料亭政治とはよく言ったもので、様々な密談がここで交わされていることは暗黙の了解だと言えるだろう。
エイジはそこの次男坊だという。
そういえば、跡取りだという若者の姿は見た。するとあれがエイジの兄ということか。家長である店の主人は近く板前としては引退し、長男に板長を任せ経営に専念すると聞いている。
面差しは似てはいるかもしれない。しかしイメージは全然違う。
若いのにとにかく真面目で厳しい、そんな雰囲気だった。
そんな老舗料亭の次男坊が何故あんな風に家にも帰らずフラフラしていたのだろう。
そして、そんなぼんぼんがどういう事情で銃と関わりあうことがあったというのか──
「こっからは新聞に載ったことしか確かなことはわからねえがな」
16年ほど昔、ある山間の村の家で、猟銃の誤射による死亡事故があったという。
記事そのものは非常に小さく、その死んだ男は猟銃の手入れ中に謝って発射してしまい、それがまた運悪く頭に命中してしまったらしい。
「その猟銃事故で死んだ男ってのが、『しぶや』の女将の実家の兄貴で──つまりエイジにとっては伯父貴にあたる人間だ。何故か普通の新聞記事には載ってないが、当時の地元の新聞の第一報によれば、事故当時小さい子供が一緒にいたというんだな」
「それが──エイジか」
「なんであいつが伯父貴の家にいたのか、そこで何があったのかはわからねえ。ただその後の報道に出てこないってことは、『しぶや』がサツに手を回して警察発表ではそこに触れないようにしたんだろう。『しぶや』ならその程度の力はあるが、ただの事故でそれは不自然だな」
ふと、空想してみる。
4、5才といったところだろうか?
そんな子供が、猟銃で大人の頭をぶち抜く?
──ちょっと考え難いな。
事故は本当に事故で、頭が吹っ飛ぶのを目の前で見ただけなのかもしれない。
谷重の判断したところ、エイジはその件については本当に覚えていないらしい。隠してとぼけているのではなく、事故のことはおろか伯父のことすら全く記憶にないようだという。もっとも、そんな幼児の頃のことは自分だって何もかも覚えているわけではない。記憶がすっぽり抜け落ちていたとしても特に不都合も不自然も無いのだろう。
しかし、自然に薄れた記憶ではなく、自分のまともな精神を守るために強制的にしまいこんで隠してしまった記憶である。そこここに綻びが出てもおかしくはない。
あいつはその時その時で何かの仮面を被ってくることでそれをやりすごしてきたのだろう。どれが自分の素顔かもわからぬまま。
素顔は、あの狂った人殺しだったのだ。
「それで──シゲちゃんはあいつをここへ呼んで、どうするつもりなんだ」
谷重はただ笑った。
あいつに新しい仮面を作ってやるつもりなのだろう。
谷重が、そしてあの蜂の巣にされた男が、被って生きてきたのと同じ仮面を。
それがあいつにぴったりと合う仮面かどうかはわからないけれど。
一見してホテルの部屋のようだがマンションの一室である。
ここの女主人は数日留守だというが掃除などは下っ端の若い連中がやっているらしく行き届いている。案の定、奥の部屋へはまだ一見して十代とわかる程の若いチンピラが案内してくれた。
ノックしてドアを開けるとこの部屋の本当の主はベッドの上にガウン姿でくつろいでいる。
偉そうにふんぞり返ってはいるが、その実女房の尻に敷かれていることを康平は知っている。だから今はめいっぱい羽根を伸ばしているところなのだろう。本当は若い女でも連れ込みたいところなのだろうが、女は女の気配には敏感だ。ばれたらえらいことになる。──替わりにさっきの若造が相手でもさせられてるのかもしれない、と思った。
「──イタリア人ってのはあれか、本当にスパゲッティーばっか食ってやがんのか?」
べりべりと包装紙を無造作に開けると中のチョコレートを口に頬張り、加納はこきこきと首を鳴らした。
先に運び込まれていたのだろう、酒だの煙草だのブランド物だのまるで本当の観光旅行に行ってきたような土産の山を見ると自分が買ってきたものながらうんざりする。
「スパゲッティーばっかりじゃなくてマカロニみたいなのとかきしめんみたいなのとか、それからピザもよく食ってますね」
適当なことを言っておく。実際にどんな料理を食べたなんて話をしたってどうせ興味はないだろう。
「若頭、そのチョコレートはヒロヨ姐さんのリクエストで。あんまり召し上がるとあとで怒られますよ」
「うるせえ、あいつはどうせ3日ほど帰ってこねえ。チョコレートをリクエストしたことなんか忘れてる」
組長の妻の肝煎りで姐さん連中だけで温泉旅行か何かに行っているらしい。ここの組織はそういった意味で女たちもきっちり系統立っているとみえる。
──窮屈だなぁ、極道ってのは。
普段は組の中で比較的自由な立場──それはいつでも切捨て可能だということでもあるが──である康平は、この組織に属してもう随分長いというのにやはりこの世界は窮屈だと思う。かといって今更堅気になる気にもならない。おそらくこれまで構築してきた人脈を駆使すれば組織の力を借りずに独立してやっていくことは可能だろうと思うが、そう簡単には行かないのがこの世界だ。
古臭い家長制度というのかこういう上下関係というやつはいつまでたっても性に合わないのだがしかしこういう世界でしか自分は生きていけないのだから仕方ない。
と、そんなことをぼんやり考えている康平にはおかまいなしに欠伸したりブランデーを呷ったりしていた加納は突然がらりと厳しい目を投げてきた。
「それで、クライアントの方はどう言ってんだ」
「良くも悪くも日本企業ってやつはこういうウラの話でも決済に時間がかかるらしくてですね。ちょっと厄介な展開ですがまあ、そこは何とかなります」
「あっちの新組織との道筋もきっちりつけさせろよ」
「勿論、それが本来の目的ですから」
チョコレートの3つ目を頬張ると加納はブランデーを口に流し込み、ふん、と鼻で笑った。
「で──今あっちでは何人使ってる?」
「3人か……4人ですかね。用心深いエージェントなんで雇ってる殺し屋のことは詳しくは」
そのエージェントのシマも喰えればなあ、儲けが増えるだろ──と加納はひとりごちた。
「まあ、そりゃそうですがあっちにはあっちの流儀がありますからね。うっかりして臍を曲げられちゃ仕事がやり難くなります」
──誰が本当のことなんか教えてやるかよ。
胸の奥でべえと舌を出す。
とは気づかぬ加納はやれやれといった顔をした。
谷重がエイジに殺し屋の面を与えてからもう数年が経過している。
当初は教えている最中にあの気違いが暴れ出して谷重が殺されるのではないかと内心ヒヤヒヤしていたものだが、それもなんとか切り抜けたらしい。いつのまにやら銃を持ったくらいではあの気違いは登場しなくなった。谷重によれば最初は確かにてこずったというが、康平はあのビストロで見て以来あの狂人の顔は見ていない。器用は器用なのだろう、腕だけならば十分一人前になったと言ってもいい。実際、加納に答えた「3、4人」にやらせている仕事というのは本当はエイジが一人でこなしている。
しかし──
殺し屋に必要なのは技術だけではない。
あの狂人は、上手く導いてやれば殺し屋にはうってつけの筈だった。
しかし、エイジはなまじっか普通の人間の──それも、種類で言えば優等生の系統の──仮面を被ることを覚えてしまったために、それが邪魔になっているという。
──外し損ねたいい子ちゃんの面が時々下から覗いてきやがる。
後生大事にそんなものを持っていたら苦しむのは自分の方なのにな、と谷重は言った。
今手がけている仕事は、とあるマフィアのお家騒動のごたごたに乗じて甘い汁を吸おうという日本企業がクライアントである。
跡取りである現在の首領の長男が暗殺されたことに端を発し、組織が大分裂を起こしている。現在はクーデターを起こした勢力が大粛清を食らってかなりボロボロだがクライアントはといえばこっちを勝利させて自分方に利益を齎す組織に作り直したいという。都合のいい話である。もっとも、もとは首領のワンマン組織らしく首領と新たに据えられた跡継ぎの首さえ取ればあとは楽なものだ。
──映画みたいだなあ。
しかしこれはかなりの大仕事である。同じ命でもそこらの2人分の報酬ではない。
──命の値段もピンキリだ。
命の重さに貴賎はないというのが本当だとしても、命の値段にはおのずと差が生まれる。それはその命を奪うことによって生まれる利益の値段でもある。それにプラス技術料だ。
例えば──
誰かが金を積んで康平を殺そうとしたとする。
しかし、康平が死んだところで誰が得をするでもないだろう。その報酬はおそらく大半が技術料だ。
今回の標的はそういう意味で随分と値段の高い命だといえる。こんな高値取引は久しぶりだ。そのかわり、難度も高い。
もっとも、今回の仕事の問題は難度ではない。
厄介なのは標的の「新たな跡取り」というやつだ。
それは、まだたった6歳の──
谷重の住むアパルトマンの住人で、エイジとも仲良くしている愛らしい少女なのだ。
仕事の下見と準備を兼ねてエイジがイタリアへ出発したのは3日前のことだ。
案の定、あの少女を殺す仕事をエイジは一度は拒否したが、谷重に強制されて渋々引き受けた格好である。
──自分は気の進まない仕事は断りまくってきたくせに。
康平はなんだか可笑しくなった。
「この世の終わりみたいな顔して行ったな、あいつ。大丈夫か」
「どうだろうな。本人にすりゃ相当の覚悟を決めたんだろうが、殺し屋らしくやろうとしてる時点でもう殺し屋の面は外れてる」
「うまいこと言うなあ」
悲壮な覚悟など要らない。
仕事だと割り切って殺しが済んだら平気な顔をしてばくばく飯を食らう、そんな人間の方が妙に義憤に駆られた「善人」などよりずっと無害だと思う。
いつくたばっても──と言いだしてから数年、谷重はなんだかんだでこうしてまだ生きている。医者にかかっているわけではあるまい。つまり少しでも健康が回復したわけでは決してない筈だ。酔っ払ったふりをして夜も早い時間からベッドルームへ引っ込むのは、それでもエイジに身体がボロボロだということを隠そうとしているせいなのだろう。往生際が悪いことこの上ない。康平ももううるさく言うことを諦めた。本人がそうしたいというのだから好きにさせてやるのがいい。
「エイジ、あのお嬢ちゃんを殺せるのかねえ」
ぽつりと独り言を言った。
今回の標的の一人であるマフィアの首領の、暗殺されたという長男の忘れ形見がその少女である。身の安全を確保するためだろうか、ボディガードが一人ついただけの状態でこんなパリの下町に隠れ住んでいた。結局、そのわずか6歳の孫娘を跡継ぎに据えると宣言した首領は彼女を手元へ呼び戻してしまった。
エイジはあの少女と仲良くしていたし彼女のボディガードともそれなりに親交があったらしい。そんな相手を、仕事だと割り切って殺すことが出来るだろうか?
「出来ないなら俺が何と言おうと断るべきなんだよ。出来ること出来ねえことの判断くらい自分でつけられなきゃ仕事になんねえだろ」
いつまでも俺が面倒みてやれるわけじゃあるまいし──と谷重は付け加えた。
谷重はいつものようにソファに寝そべった状態で本を胸の上に伏せている。
康平はその傍の床に腰を下ろし──そのソファを背もたれ代りにもたれかかった。
どれだけそうしていたのだろう。
ただどちらもが、何となく話すことが尽きてしまったように黙ってただそうやって座っていた。
そろそろ日も傾こうかという頃、谷重が寝惚け混じりの声でぽつりと言った。
「賭けだな……」
一旦外へ出て、公衆電話からイタリアの事情通に状況を確認する。
例のマフィアは天地がひっくり返ったような騒ぎになっているらしい。おそらくエイジの仕事は上手くいったのだ。
こちらの仕事は首領とあの少女を殺すところまで。あとは大粛清を逃れて潜んでいた反体制派が勝手にやってくれる筈だ。ただし、康平の組織としての仕事はここからが本番になる。首尾は注意深く見守らねばなるまい。
谷重のアパルトマンに戻ってみたが、エイジはまだ戻っていなかった。現場から真っ直ぐ帰って来るとするなら、もうとっくに帰ってきていい時間である。
──仕事に嫌気がさしてこのまま消えちまえばいいのに。
プロになりきれずにぐずぐずしているエイジを見ているとどうにも歯痒くて苛々してしまう。谷重が最後の弟子の育成に失敗したというのは経歴に傷を付けるようで気が引けるのだが、それでもあれはどうしたって一人前の殺し屋にはなりそうにない気がした。
「康平、おまえは今日は帰ってろ。明日にでも報酬の残金を持ってきてくれりゃいい」
自分が仕事を成功させた時のような顔で微笑み、谷重は康平を追い返そうとする。
帰れという言葉がひどく浮いて聞こえた。
けれど、谷重の顔は康平の反抗をまるで寄せ付けない。
それはただの気のせいなのかもしれないのに。
渋々部屋を後にしたけれど、どうしても立ち去り難かった。
帰るふりをして、つい先日まであの少女とそのボディガードが住んでいた隣室に忍び込む。
ドアの内側に聞き耳を立てるように座った。
なんでこんなに胸騒ぎがするのだろう。
──賭けだな。博打みたいなもんだ。
さっきの谷重の言葉がふと頭に蘇る。
──賭け?何が?
谷重は答えずにただ笑っていた。
エイジのことだろうとは思ったが、谷重がその賭けに一体どの目を見ているのかがよくわからなかった。
笑って誤魔化して、谷重は天井を仰いで目を閉じた。
──なあ、独りは嫌だなあ。
皆、俺を置いていっちまったんだよ。
──何言ってんだ、小雪姐やんも、マサルも連もいるじゃねえか。
谷重は妙に幸せそうな顔をして、うん、と答えた。
思い出しながらもしかしたらうとうとしていたのかもしれない。
木の階段をどたどたと駆け上がる音が聞こえて一気に目が覚めた。
──なんだ、帰ってきちまったのか。
そろりと隣室のドアを抜け出て、谷重の部屋のドアに張り付く。中の声が手に取るようにわかった。
階上の踊り子はこの時間は店でいつものようにその肢体を客の前に晒している頃である。絵描きは昨日からスケッチ旅行に行くと言って出かけた。当分帰って来ない。階下の老婆はそもそも耳がほとんど聞こえない。それにもうとっくに眠っているだろう。
あいつ、何を慌ててるんだ。
誰が自殺したって?
ああ、あのお嬢ちゃんのボディガードだった男か。
お嬢ちゃんが殺されたからって自殺したのか?
馬鹿な野郎だ。
──待てよ。
シゲちゃん、なんかいつもより言葉に棘が無いか?
──ちょっと待てよ。
あのお嬢ちゃんが標的になるように細工したって?
言うに事欠いてそれは無いだろ?
仕事の筋に干渉するような真似、するわけないじゃねえか。
いくら俺だってそこまではやらねえぞ。
いくらエイジを一人前にするためだからって、
そんな事のためにシゲちゃんがずっと守ってきた矜持を曲げるわけないだろ?
何鵜呑みにしてんだよ。わかれよそれくらい。
シゲちゃんもシゲちゃんだ。
何でわざわざそんな、エイジが怒るような──
谷重の笑い声が聞こえた。
聴きなれた楽しげな笑い声じゃなく。
なんだか嫌な笑い声だ。
──怒るような──?
背筋がぞくり、とした。
その瞬間、康平は背後のドアを蹴破らんばかりの勢いで開けた。
同時に──
乾いた、しかし耳が潰れるかと思しき音がした。
──やっ
──ちまいやがっ
──た
声が喉にはりついている。
うめき声ひとつ、発することが出来なかった。
エイジが腕をだらりと垂れた。
その向こう側で、まだ痙攣するように動いている身体が見えた。しかし、それもじきに止まった。
──この。
──気違いが。
ゆっくりとエイジは振り返った。
それは、あの狂人ではなく、笑ってもいなかった。
──なんだ。
──正気で撃ったのかよ。
いつものようにソファに寝そべった死体にもう一度視線を移す。
右手に拳銃を握っているのが見えた。
──拳銃まで持ち出して
──そんなに撃たれたかったのかよ。
悔谷雄日が病気でポックリいくなんてみっともない。
どうせ死ぬなら銃で撃ち殺されるのがいい。
──もう、楽になりたかったのか?
──言ってくれれば俺が撃ってやったのにさ。
エイジはそのままうつむいて、銃をごとり、と床に落とした。
殺そうかな。
シゲちゃん、エイジは殺すなとは言わなかったよな?
こいつ、ぶっ殺してもいいだろ?
動かなくなった谷重と、あの宝石箱の上に落下する男の姿が瞼の裏で重なる。
──ああ。
──師匠殺し、か。
──なんだ、俺と同じじゃねえか。
「──馬鹿だ馬鹿だと思ってたが──」
声が出た。
「ここまで馬鹿とはな。シゲちゃんもここまで育てて挙句殺されたんじゃ、甲斐がねえこった。耄碌したもんだな」
結局表面に上がってきたのは今までで一番嫌味な笑い顔だった。 再び顔を上げて振り返ったエイジの顔には怒りだか憎しみだか悲しみだかよくわからないものが浮かんでいた。自分で殺したくせに、谷重を馬鹿にされるのは腹が立つのかもしれない。そもそも、エイジは康平のことを嫌っていた──と思う。だから尚更だ。
「さて、おまえはこれからどうすんだ?殺し屋を続けるならまた仕事を持ってきてやってもいいんだぜ?」
エイジは首を横に振った。
「──もう握らない」
ようやく搾り出したような声。
康平と同じで、喉に声が張り付いたように何も言えずにいたのだろう。その声は掠れていた。
「そうかい。じゃあ今回の報酬のおまえの取り分はどうする」
「あんたにやるよ……」
──なんで俺は笑っているんだろう?
「じゃあただ貰うのはなんだから、ここを始末する手数料ってことで貰っとくか」
「あんたは──」
ひょいと顔を上げてエイジの顔を見る。
こいつ、こんな顔をしていたのだっけか。
「俺を始末しようとはしないのか。俺がシゲさんを殺したのに」
もしかして、谷重の目的はエイジを一人前の殺し屋にすることなどではなく──
あの狂人をエイジのどこかへ埋め塗りこめてしまって、たとえ撃っても出てこないようにしてしまうことだったのではないのか。
──俺は。
「俺はおまえに仕事を持ってくる、ただのエージェント──だぜ?そっちの内輪の揉め事は俺の知ったこっちゃねえ。シゲちゃんが死んでおまえも廃業となると困るこたぁ困るが、俺がおまえを始末する筋合いじゃねえな。もう行きな。せいぜい二度と俺に逢わねえようにお日さんの下を歩いときゃいいさ──まあ、」
エイジを部屋から追い出しながら──
「どんなに上手に仮面を被ってお日さんの下を歩こうが、一番下の素顔はあの気違いの人殺しだ。顔に仮面はかけられても、汚れた手はきれいにはならねえぞ。覚えとけ」
もしも、また逢うことがあったら──
簡単には殺しはしない。
生きてるのがやんなるくらい、じわじわと苦しめてやる。
そのくらいの腹いせはさせてくれよな。
シゲちゃんの目論見通りこいつを更正させてめでたしめでたしなんて俺は納得いかねえんだよ。
エイジを追い出してドアを閉めると、急に力が抜けた。その場に座りこんだまま、まだ部屋に漂う火薬と血の臭いを鼻いっぱいに吸い込む。
少し咽た。
足の方から見やると、いつものようにソファの上に寝そべっているだけに見える。
「とっとと片付けなきゃなあ……」
その谷重に語りかけるように、康平は呟いた。
手の中に、ひしゃげた弾丸がひとつ。
賭けとは何だったのだろう。
エイジがあの少女を殺せるか否か。
エイジが谷重を殺すか否か。
エイジがあの狂人を封じ込めることが出来るか否か。
もしくは──
康平がエイジを殺すか否か?
とりとめなく、色々な事が浮かんでくる。
──なあ、独りは嫌だなあ。
──何言ってんだ、小雪姐やんも、マサルも連もいるじゃねえか。
谷重は妙に幸せそうな顔をして、うん、と笑ったのだった。そしてこうも言った。
──おまえもな。
まるで撫でるように康平の頭を叩いて。
──おまえも、ただのエージェントの癖に、よくまあここまでこの爺いに付き合ってくれたよ。
足音がする。
そちらへ目をやると、青ざめた女の顔が見えた。
「澤さん──」
「ちょっと、遅かったな。もう遺体は処分しちまったぜ」
「そう……」
こんな時でも、小雪は表情を崩さないのか。
不思議な気分でそれを見つめる。
知らせはしなかったけれど、もうこの場所を嗅ぎつけたのだ。遅かった、とは言ったけれど胸の中では早かったな、と思う。
立ち上がって、小雪の手をとり、自分の手の中のものを握らせた。
「シゲちゃんの頭んなかにこれだけ残ってた。他はなんも残ってねえ」
小雪はそっと掌を広げてその弾丸を見つめている。
「……どうして、こんな風になるまで黙ってたの」
「ん?」
「ユキは、エイジのことは私には何も話してくれなかった。こんなことになるなら、もっと何か出来た筈だわ。どうして私に言ってくれなかったの」
「でも、シゲちゃんは──多分これで楽になったのさ。もうずっと前から──シゲちゃんはボロボロだったから」
小雪は掌の弾丸に頬ずりするかのように顔を伏せ──その場に崩れ落ちた。
泣いている。
小雪が、声を上げて泣いている。
小雪のそんな姿は、初めて見た。
しゃがみこむと、泣き止まない小雪の肩を抱き寄せる。
「……ごめん、小雪姐やん」
最後まで、『ただのエージェント』だった。
小雪と仕事をしても。マサルを抱いても。
康平は谷重の『身内』にはなり得なかった。
けれど。
『ただのエージェント』でいたから、最期まで見届けることが出来たのだろう。
小雪ですら、最期には間に合わなかったのだから。
──俺がもしくたばっても、小雪やマサルには言うなよ。
それは谷重の、『身内』に対する気遣いだったのかもしれない。
だったら、身内でなくて良かった。
身内でなくても谷重は康平を、傍にいるものと思ってくれていたのだから。
ようやく泣き止んだ小雪はハンカチで丁寧に涙を拭うと最後にぐすん、と鼻をすすった。
「あなたが最後までユキの傍にいてくれて良かった。ありがとう──康平」
誰に意地を張って、涙をこらえているのだろう。
康平は小さく微笑んで、よせやい、と言った。
*the end*
*note*
本編でシゲさんが登場して、英二の過去が出て来て、みたいな時にはうっすら考えていた「英二がシゲさんを殺す話」、「天使」という話の中では英二視点でこの出来事を書いたんですが。その後「昔日」や「谷重」の章を書く中で康平とかシゲさんを掘り下げて行き、その上で書いたこの「代理人」という話。康平目線で書いたら全然違う景色の話になりました。康平、主人公の敵役のゲスい奴として書き始めたのにね…なんやお前、鷹さんのこともシゲさんのことも大好きだっただけやん…どこで間違えた…。
ちなみに、前回の加筆修正の時に追加した部分なのですが「英二がヤベェ気狂いを中に飼ってる」ことにシゲさんがちょっと勘付いて、実際に調べてみたくだりがあります。この事件についての話をけっこうな行数書いていたのですがそれもHDDクラッシュで消えてしまいました……うふふ……。気が向いたら記憶を頼りにまた書きたいと思います。