Sin.co -Re:The Ultimate Sin- main tales
恋愛嫌い
壁一面に掛けられた写真のパネルを眺める。
その中の一枚に目が留まった。
雪の中の一羽のシロフクロウの写真。
「これは──」
「おまえのトラウマのやつだろ?茜の父親が撮った、茜の母親が大事にしていたという」
茅優は苦い薬を口に含んだように顔をしかめた。
そしらぬ顔で嵯院椎多が歩み寄り、そのあまり大きくない、少し退色したパネルを壁から外して手に取る。
嵯院が優の弟である茜の闘病とそれに付き添うために移り住んだ海辺のマンション。ここを訪ねるのは初めてのことだ。
一周忌が終わって、ふと茜が最期に過ごした場所を見たくなった。
戸籍上の弟というだけで血も繋がらない弟。茜が生まれてから死ぬまでを見届けた40年ほどの時間の大半は嫉妬や憎悪や諸々のマイナス感情だけを向けてきた。だからこの場所へ来てみたくなった自分が少し意外だ。
「あいつ、それを母親の形見だからと飾らずに大事にしまい込んでたようだ。せっかくだから飾っておこうと思ってな。欲しければ持って帰ってくれ」
「私が若干マザコンの気があったことは否定しませんが、あなたが思ってるほど私が茜を嫌っていた理由の大半を占めていたわけじゃありませんよ」
苦笑してパネルを受け取る。
子供の頃にはもう少し大きなものだと思っていたが、こんなに小さなパネルだったのか。
「若干の?おまえが結婚しないのも恋人を作らないのもマザコンのせいだと思ってた」
からかうように嵯院が笑う。
「別に結婚くらいしても良かったんですがね。縁談がゼロだったわけでもないし。タイミングが合わなかっただけです」
受け取ったパネルを壁に戻すと優はソファに戻った。
「恋愛しないのも義母のことは無関係。私はなんというか、恋愛できない人間なんですよ」
嵯院は優が就いたソファと直角に置かれた一人掛けのソファに腰を下ろし、テーブルに置かれていたグラスのビールを飲み干した。バルコニーに面した大きな窓からは陽光が差し込んでいる。茜が海に落下した日と同じ、梅雨明けを予感させる明るい晴天。
心地の良い昼下がりには冷えたビールが美味い。
「最近は便利な言葉があるんですよ。アロマンティックってご存じですか。他者に性的欲望はあっても恋愛感情が持てない性的指向のことです。あ、私はこれだと思いましたね」
ふふ、と笑いをこぼしながら優もビールを飲み干す。それを確認して嵯院が冷蔵庫から今度は瓶からラッパ飲みするビールを持ってきてテーブルに置いた。飲み口にはスマイルカットされたライムが突っ込んである。
「もともとその傾向だったけどそれでも若い頃は恋愛くらいした方がいいかなとは思ってたんですよ。でも決定的に自分ごとだろうが他人ごとだろうが金輪際恋愛なんかに関わりたくないと思った出来事があって、それ以来ぱったりです」
「すごい懲り方だな。いったいどんな目に遭ったんだ」
瓶ビールの口に刺したライムを押し込んで一口呷ると優はちらりと嵯院を見て少し考えるように目線を泳がせた。
「まあ、もう居ないし話してもいいか。昔、茜のおかげでえらい目にあったんですよ」
そういえば父が、この身分のことを『丁稚奉公』と呼んでいたことを思い出してうんざりした。
なんとか留年もすることなく無事に医師免許を獲得することが出来たものの、研修医なんか言わば下働きだ。院長の息子だからといって現場はちやほやしてくれるわけではない。いや、多分他の研修医に比べれば「ちやほや」されているのだろう。周囲にはどうせ院長から何か美味しいことを言われて、あるいは強硬な圧力でもかけられて、甘やかされているものだと思われている。そのせいで同じ身分の筈の研修医たちからだけでなく、指導医や先輩からも微妙に距離をおかれている。かといってわざわざ他の病院に入って今よりもっときつい仕事になるのは嫌だ。
茅優は寝不足の目を擦りながらおやつのような栄養補給食品を口に咥えてもくもくとゆっくり噛んでいる。
口の中の水分が持っていかれて喉が詰まりそうだ。
屋上の空は明るく晴れていて心地よい風がそよいでいるが、いかんせん自分には明るすぎる。眩しくて目を開けていられない。しかし目を閉じたら最後3秒で寝てしまいそうだ。
「優先生、寝られてます?」
知らないうちにベンチの隣に立川夕菜が座っていた。優が研修医として配属されている科の看護婦だ。
「明日久しぶりに休める筈だからやっと布団で寝られるよ」
「じゃあ、今夜何か食べに行きません?明日ゆっくり出来るんですよね」
「今夜──急患とか急変とかなければね……」
うふふ、と小さく笑いを零すと夕菜は優の耳元に口を近づけた。
「レストラン、予約しておきますね。そのあとあたしの部屋に来るでしょ?」
返事をせずにかろうじて笑って頷く。
正直、無事に夕刻に病院を出ることが出来たのなら自分の部屋に直行してそのまま眠りたい。脳は眠れよ、と言っているが下半身は今夜の予定を待ちきれない様子だ。その戦いが起こっているのをもう一人の自分が俯瞰で眺めているような気がした。
立川夕菜が彼女だの恋人だのいう相手なのかというとそうではないな、と少なくとも優は思う。
見た目は可愛いし、そのくせベッドの上では豹変してエロいし、寝る相手としては全く不満はないのだが夕菜に対して愛おしいだの恋しいだのいう感情は持てていない。夕菜の方ももしかしたら茅優本人ではなく『茅病院の院長の息子』という商品タグと寝ているのかもしれないとも思う。長男の嫁はなにかと苦労が多いかもしれないが次男の嫁なら気楽でありながらある程度の裕福さは確保できると考えていても不思議ではない。
仮に夕菜が優を恋人だと認識して本当に恋愛感情で接してきているとしても、それに同等の感情で応えてやる自信は今のところない。それは夕菜が魅力に欠ける女だという意味ではなく、もともと優はそういう感情が欠落気味なのだ。
思春期だの高校生くらいまでは、同級生たちの話や雑誌やテレビなどの風潮に乗せられて『好きな女の子が出来た、告白した、あるいは告白された、付き合った』というストーリーを誰しもが持つべきという同調圧力あるいは強迫観念で"好きな女の子"や"彼女"を欲していたような気がする。
そうやって得た"彼女"とは当然のようにそう長続きしなかった。
医大に入ってからはたまに珍しく自分から能動的に誘いたくなる女に声を掛けてみると、そういうのに限って3歳下の弟に片思いをしている女子高生だったりした。
当時はいつもいつも自分が好きになった女は弟に取られると憤慨したものだったが、冷静に考えてみるともともと弟と親しくて好意を持っていそうな女にわざわざ声を掛けていたのは自分の方だったのだ。
若いうちは性欲を愛情とはき違えていたのだろう。こうして20代もなかばになってきて、割り切った身体だけの関係の相手や風俗店で性欲を満たすことを覚えた途端、『恋人が欲しい』とは思わなくなってしまった。
夕菜のように特に感情は揺さぶられることはないが身体の関係は持っているような"彼女"はこれまでも何人か存在したが、相手が優に恋愛感情を向け始めて優にもそれを求めるようになった途端それが面倒に感じて離れてしまう、ということを繰り返した。
夕菜ももし最終的に優と結婚するゴールを考えているなら愛されようとはしないことだ、とアドバイスしてやりたい程だ。
時々思うことがある。
自分は"恋愛"の出来ない人間なのではないだろうか。
女を──いや、他人を愛する気持ちというのがもはやわからない。
大きく伸びをすると優は栄養補給食品のパッケージとコーヒーの空き缶をゴミ箱に放り込み、屋上を後にした。目が眩んで階段を踏み外しそうだと思った。
その日は夕刻の退勤時間まで奇跡的に急変も急患もなく、優は数週間ぶりに夕日を眺めながら病院を出ることが出来た。これなら夕菜が予約したレストランの時間には十分間に合うだろう。
そのまま帰宅して眠りたい衝動を抑えながら、レストランのある街の方へ向かう。それが面倒で何度も溜息が出るのを優は止めることが出来なかった。
立川夕菜との待ち合わせ場所に、時間をぴったり合わせて到着する。恋愛感情云々はともかく、こうした部分はきちんと履行しないと落ち着かない。
いつも待ち合わせ場所に決めている駅前の人混みの中のモニュメント前に夕菜の姿を発見して少しだけ足を速めた。夕菜は基本的には待ち合わせ時間の少し前には到着して待っている。おそらく身体の相性だけでなく、こういった部分で自分を苛つかせたりすることがない女だからそこそこ長続きしているのだろうなと思う。
しかし──
いつものように手で合図をする前に一瞬足が止まった。
待ち合わせ場所にいるのはどうやら夕菜だけではない。夕菜はその場で誰かと話している。
決して長身ではない夕菜よりもさらに小柄な、"可愛らしい"女性だ。待ち合わせに早めに到着して待っていたら偶然友達と出会ったのかもしれないが、それにしてはなんだか二人とも少し深刻そうな顔をしている。
かといってそれを遠巻きにいつまでも観察しているわけにもいかず、優は二人の娘の前に到着した。
「おまたせ。そちらは?」
「あ、優さん、おつかれさまです。ごめんね、今日の食事、彼女も同席してもいい?」
レストランはおまけで、その後夕菜の部屋で……という予定のために寝たいのを我慢してここまでやってきたというのに誰かを同席させるとはどういう事だ?その後の予定まで変わってしまうのではないか?──などと瞬間的に頭に浮かんだ諸々の異議をまるで感じさせない表情を作り、もちろん、とだけ答える。
「彼女、看護学校の時の友達で、仁科陽美ちゃん。はるちゃん、彼が茅優さん」
夕菜はいつも通りの少し甘えた可愛い声で、しかし簡潔に互いを紹介したが、考えるように言葉を一旦切った。
「──茜くんのお兄さんよ」
一瞬、心臓が委縮したかと思った。
夕菜の口から弟の──茜の名が出てくるとは思ってもみなかったのだ。
「あのね優さん。食事しながらゆっくり話すけど、はるちゃん、茜くんの彼女なの」
仁科陽美はきゅっと唇を噛んで、ぺこりと頭を下げた。
普段、デートの時に夕菜が予約するのはお洒落な高級フレンチだったりイタリアンだったりすることが多いのだが、陽美を合流させるにあたって予約を変更したのかもしれない。簡易的とはいえ個室のある落ち着いた小料理屋──"居酒屋"というほどは庶民的ではない──に3人は落ち着いた。
「ごめんね、夕菜。デートなら別の日にしても良かったのに。お兄さんにまで相談するほどの話じゃないし……」
「気にしないで。あのね優さん、茜くんって今留学行ってるんでしょ?」
「あ?ああ」
茜は継母の連れ子で血の繋がらない3歳下の弟だ。子供の頃からどうしても仲良くなれなかった。それは血が繋がっていないことが主な要因では多分ない。俗にいう『ウマが合わない』というやつだと思う。茜が何をやってもどうも気に入らない。
自分が医大に入る時、院長である父が学長に"ちょっとお願い"してぎりぎり不合格だったところをねじ込んでもらったのだということを優は後から知った。裏口入学だろうとバレて揶揄されるのが嫌で入学後は相当努力したが、自分の中では限界まで頑張った成果といえば、なんとか留年せずに国家試験にも合格できたという、医者になる人間なら誰でも通ってきた道を息を切らしてようやく通れたということだけだ。
茜は優が父の権力だか財力を借りて入学した医大に好成績で入学し、現在は半年間の短期留学で渡米していることくらいは知っている。
海外の医大に完全に留学してしまって向こうで医師免許を取るというのでもなく、興味のある専門分野の最先端に触れられるだかいう崇高な、崇高だかなんだか優には理解できないが、とにかく純粋に学問のために留学先を自力で見つけてきて旅立っていった茜の存在は、いつまでたっても優の神経を逆撫でする。
父は先代院長である理事長の娘婿である。つまり父の連れ子であった優は茅家の血は引いていない。茜を見ていると所詮お前は茅の血筋ではないからはなから頭の出来が違うのだと言われているような気になってしまう。その癖、自分の優秀さを鼻にかけるでもなく、謙虚でおとなしく、血の繋がらない父や兄たちとも無暗な衝突は避けて適切に距離を置き、高校まで地元の公立校で多くの友達に囲まれて過ごしていた。
生まれつき周囲から愛される星の元に生まれる人間というのはいるのだな、と思う。自分が茜を疎ましく思うのはどの角度から見ても単なる僻みだ。そんなことはわかっている。
頭の中で茜にまつわる諸々を思い浮かべて微かな苛立ちを感じながら、夕菜と陽美の会話にも一応耳を傾けておく。
陽美は茜と高校時代から付き合っているのだという。優が声を掛けようと思った女子高生たちは茜に片思いをしていたが、その時には茜はすでに陽美と付き合っていたのかもしれない。
「へえ、じゃあけっこう何年も付き合ってるんですね。ゆくゆくは結婚も?」
「茜くんはまだ学生だからそういう話はまだ……」
興味はないが、興味を持って聴いている素振りだけはする。
「結婚どころか、茜くんが本当はわたしをどう思ってるのかわかんなくなって。最近特に」
「前一緒に遊んだ時はすごく仲良さそうだったじゃん。茜くんはるちゃんのことすごく大事にしてるなって思ってた」
「でも留学のことだって、わたしに一言も相談してくれなかったんだ。行く直前になってから急に『来週から半年アメリカの病院行ってくるね』って。まるで一泊旅行みたいに言うんだよ。半年もいなくなるのに。あの人、すごく優しいくせにわりと最初からそういうとこあったの。自分のことは誰にも相談しないで勝手に決めて事後報告みたいな。それでこっちは何も知らされてなくて右往左往すること多かったんだけど、今回は特に酷くない?」
「なにそれ信じらんない。優さんはそういう時ちゃんと相談したり前もって言ってくれたりするよね?それが普通でしょ」
優自身は半年もよその土地に行ってしまって帰って来られなくなるような状況になったこともないのに確定口調で言われて、曖昧に笑って誤魔化す。
女二人の愚痴話か、と内容だけは聞き逃さないように神経を向けたまま、優は料理をちびちびと口に運んでいる。まずいな、このままじゃ寝てしまうかもしれない。
「わたし、茜くんと付き合ってるって、彼女だって、ずっとそう思ってたんだけどもしかして茜くんは違うのかなって最近思い始めてて……もしかしてあの人、わたしのこと、ただの仲良しの友達くらいに思ってるんじゃないかって……」
「でも茜くんとはセックスしてるんでしょ?友達とはしないんじゃない」
陽美は夕菜のセックス、という直球の言葉にびくっとして一瞬で顔を真っ赤に染める。今にも泣き出しそうな様子の陽美の肩を抱くように撫でている夕菜が、何故か意味ありげに優の顔を見つめた。
友達とはしないんじゃない、という言葉と視線が牽制のように優に向かって飛んでくる。
あれは自分に対して、あたしをただのセフレだとは言わないよね?と圧力をかけているのかもしれない──
苦々しい顔が表に出そうになって、慌てて牽制とは気づかないふりをしてそれをやりすごそうと顔を引き締める。
陽美はただでさえ絞り出すような声を更に顰め、おそらくは優に聴こえないように、夕菜にだけ告白するように、呟きを零した。
「それが……してないんだよね」
聴かせまいとしている様子なのに、しっかり聴こえてしまった。
「もう5年くらい付き合ってるのに……茜くんとそういうことしたことないの」
「嘘でしょ?!」
思わず大声で叫んでしまった夕菜は自分の声に驚いたように身を縮めて、ごめん、と言った。
確かに高校生の頃から付き合い始めてもう成人したいい大人の男女が"付き合っている"というていでいてまだ関係に及んでいないというのは嘘とまでは言わなくても珍しいケースだろう。ただ逆に肉体関係はあっても恋愛感情が育たない自分のような人間もいるんだし、一概に無い無いと否定することは出来ないのでは──と優は妙に冷静に考えていた。
若い男だからって性欲に溢れてるとは限らないし、もしかしたら茜が性的不能者だという可能性が無いわけでもない。
ただ、立川夕菜にとっては心底信じられないことのようで、可哀想な友人のためにあたふたとパニックに陥っている。
「え、じゃあ茜くんがはるちゃんのこと本当に彼女として好きなのかちゃんと確認できてないってこと?好きって言ってくれたりは?なんでそんなんで我慢してるの?問い詰めるとかさっさと別れちゃうとかした方がよくない??」
「だって……」
夕菜はずけずけと聞きにくいことにまで踏み込み、一方の陽美の顔はどんどん赤みを増している。
夕菜のようにあっけらかんと優に誘いをかけてきたり友人とその彼氏の肉体関係について言及することが出来る娘と違って、おそらく陽美はそういう話をすること自体が恥ずかしいのだ。口にするのは恥ずかしくても、年頃の娘が彼氏と寝たこともないというのは重大な悩み事なのだろう。だから夕菜のような少しさばけた娘に相談してきたのではないだろうか。
ここは男の自分が妙に口出しをしたらよけい気まずい雰囲気になるだろうと察して二人の会話は聞き流しているような顔をして聴いているだけに留める。欠席裁判とはいえ茜が糾弾されているのを見るのはそう無いことで、悪い気分ではない。
「わたしとしてくれないなら別れるって、なんかわたしがすごくいやらしい女みたいじゃない?」
「別にピンポイントにそこを挙げなくてもいいじゃん。現実にこうして放っとかれてるわけだし。十分だよ。別れ話をしてみてその反応見てみようよ。ねえ、優さん」
部外者を決め込んでいたというのに急に水を向けられて咽そうになった。
「茜くんに優さんからも何かきいてあげるとか言ってあげるとか出来ない?このままじゃはるちゃんが可哀想」
そんな事を言われても、茜とは自分が医大に入った頃にはすでに稀に顔を見ることがあったとしても会話をした覚えもない。兄だからって何でわざわざ弟の恋愛に介入などしなければならないのだ。夕菜はきょうだいとそんなに何でも話せるほど仲がいいのだろうか。あるいはきょうだいとは仲がいいというイメージだけを持っているのだろうか。
優は夕菜の提案をその場で却下しようとして、ふと言い淀んだ。
根拠は何もないが、陽美の様子にどこか違和感を感じたのだ。
もっとも、長い付き合いである友達の夕菜がそれに気づいていないようだから、もしかしたら勘違いかもしれないが──夕菜が手洗いに立った隙に、優は自分の名刺に個人用のポケットベルの番号を書き加えて陽美に渡した。
「僕は茜とそう仲がいいわけじゃないから、僕が何か言ったところで役に立てないかもしれないけど、もし何かチャンスがあったら一言言ってみるよ。あいにく忙しい研修医でなかなか時間はとれないけど、相談したいことがあったら直接連絡くれていい」
友達の彼氏が個人用の連絡番号を、友達が居ない時に渡してくる。これを受け取る女はよほど世間知らずか、あるいは──
前者なら無邪気にこのことを夕菜に報告するだろう。そうなればあとで自分が夕菜から絞り上げられるだろうがそんなものはどうとでも言い逃れできる。もし陽美が夕菜に黙ってこれを懐に収め、実際に優に直接連絡してくることがあるなら?
その時はその時さ。
陽美はその店を出るとぺこぺこと何度も頭を下げ、恐縮しながら帰って行った。それから当初の予定通り立川夕菜の住むマンションに向かい、すぐに寝たいのを我慢してこの待ち合わせに来た優の目的は無事遂げることが出来た。
優が陽美に渡した名刺について、夕菜が優を絞り上げることは──無かった。
再び昼夜も休みもない日常に戻って数日は、仁科陽美のことなど殆ど忘れていた。
立川夕菜は現在のところは『院長の息子である研修医』と付き合っていることは外には匂わせないように振舞っているし仕事中はあの甘えたような様子は微塵もみせずにてきぱきと働いている。この娘は身体の相性の良さなどを度外視しても、なかなか有能だと優は思う。
8日目の深夜2時、救急の応援を終わらせて医局のソファに倒れ込んだ優はまる1日ぶりにロッカーから私物を取り出した。何もなければこれから3時間は仮眠が取れるはずだ。そこで個人用のポケベルに着信があったことにようやく気付いた。日付を見ると2時間ほど前。1日や2日放置していることも珍しくないので着信2時間で気づけたのは幸運なうちに入る。
『119-ハル』
ハル。仁科陽美か。
本当に直接連絡してきた。陽美から見れば優は"彼氏の兄"以前に"友達の彼氏"の筈だ。ああ見えて意外に小悪魔なのかもしれない。
119とは何だ、と暫く考え込んだが頭がよく回らない。5分ばかり半分寝そうになりながらその小さなデジタル文字を眺めていて、漸くはっ、と思い当たった。
119番か?救急の事態だと言いたいのか?
何か助けを求めているのか?
時計を見ると丑三つ時だ。陽美が一人暮らしをしているのか実家住みなのかも聞いていなかった。電話をかけて良いものかどうか少し考える。夕菜も今日はすでに退勤して寝ているだろう。夕菜の友人とはいえこちらにSOSが入ったとわかれば夕菜の機嫌も損ねることになりかねない。いや、もしかしたら陽美は夕菜にも同様にSOSを発信しているかもしれない。だとしたら女友達に任せた方が良いのではないか。
およそ30秒ほどの間それだけのことが頭を巡ったが、生憎頭の回転は鈍いままだった。
気づかなかったふりをしてこのまま無視するか。
深夜でもかまわず電話をかけてみるか。
何かが心のどこかに引っかかっているような気持ち悪さを感じて、優はテレホンカードを手に公衆電話に向かった。20回コールして出なかったら夕菜に知らせて確認してもらった方がいいかもしれない。ポケベルの番号を教えていたことについて追及されるだろうが、そもそも優と夕菜は恋人として付き合っているわけではない。夕菜も現在の感情がどうかはさておきその前提があることは承知している。とやかく言われる筋合いは無い筈だ。
考えているうちに少しずつ脳が回転し始めていた。
呼び出し音が続く。家人が居れば誰か取るだろうし、一人暮らしで何事もなく眠っていたとしてもたいていは気づいて起きるだろう。
16回、17回……夕菜に電話をした時の説明方法について考え始めた時、公衆電話がカタンと小さな音を立てた。繋がった。
『……はい』
優は自分でも驚くほど安堵していた。とにかく電話には出られる状態だということだ。
「こんな深夜に大変申し訳ありません。仁科陽美さんのお宅ですか」
『はい』
「陽美さん?茅優です」
『はい』
電話の向こうの陽美の声は、この深夜の病院の廊下だから聞き取れるくらいの小さな弱々しい声だった。
「ポケベルにメッセージくれましたよね。ごめんね、救急の対応してたから気づかなくて」
『ごめんなさい、わたし、ごめんなさい』
──泣いてるのか?
「陽美さん、今はひとり?夕菜にそっち行ってもらおうか?」
『やめて、夕菜には言わないで』
どういうことだ。
電話口では陽美が泣いている気配が強くなっている。すでに涙声だ。
『茜くんに会いたい……茜くんに会いたいよ……』
そんな事を僕に言われても困る。国際電話でもかけて本人にそう言いなさい。
普段の優ならそう言って突き放していたかもしれない。
しかし、この深夜に泣きながら電話でこんな事を言う女は、何をしでかすかわからない。
「陽美さん、家どこ。近いならとりあえずそっち行くよ」
とりあえず本人の様子を確認しなければ落ち着かない。様子を見て大丈夫そうならすぐ帰ってくればいいし、心配なら本人がどう言おうと夕菜に連絡しよう。
仁科陽美は、特に迷う様子もなく、自分の住むマンションの住所を言った。
夕菜のマンションよりこの病院に近い。これなら自転車で10分もかからない。
「わかった。今から行くから何か温かい甘いものでも飲んで落ち着いて」
なんで自分は"自分の彼女"の為にだってこんな風に病院を抜け出して何かしようなんて思わないのに──
"茜の彼女"の為に走ろうとしているんだろう?
優は当直の指導医に少しの時間抜け出すことを報告し、自転車置き場に向かった。
こんな時だけは、『院長の息子でちやほやされている』ことを有難く思う。それでなくとも真面目に昼夜問わず休み無しで働いているのだから、これくらい大目に見て欲しい。
教えられたマンションに到着し、部屋番号と表札で仁科陽美の部屋であることを確認してインターホンのベルを鳴らす。けれど返事がない。
ドアノブを回してみると鍵が閉まっていなかった。若い娘の部屋なのになんて不用心なんだ。
扉を少しだけ開けて中に向けて声をかける。パーティションとカーテンでお洒落に目隠しされて玄関からは中の様子が伺えない。
「陽美さん?優です。来ましたよ。入っていいですか」
やはり返事がない。
「入りますよ」
声を掛けながら靴を脱ぎおそるおそる暖簾のようなカーテンを捲る。ワンルームだ。間接照明のような小さな灯りだけで部屋は薄暗い。ベッドの上に膝を立てて座っている人影が見えた。
「陽美さん?」
座った人影が微かに動くのが見えた。なぜか背筋がざわざわする。
立てた膝に伏せていた頭を上げ、こちらを見ている気配がする。
「ほんとに来てくれたんだ……いい人ね、お兄さん」
「君の兄さんじゃない」
そろりそろりとベッドに近づくと、陽美は座った姿勢のまま左手を差し伸べた。薄暗さに慣れてきた目がその手に釘付けになる。
陽美の左手が黒く濡れているのが暗い照明に反射した光でわかった。
ギクリ、と反射的にその周辺に視線を巡らせると、ベッドの下に刃を出したままのカッターナイフが目に入る。
「陽美さん!」
慌てて手当をしようと手を取ると、すでにその左手に付着した液体はねばねばと固まり始めているのを感じた。
「大丈夫、もう止まったみたいだから。ごめんなさい」
安堵すると同時に急激に腹が立ってきて、優はキッチンに掛けてあった布巾を取り水を含ませて陽美の左手を乱暴に拭う。なんてことするんだ。
こびりつき始めていた血液を拭っていくと、まだ真新しく完全には塞がっていない疵の他に、いくつかの傷痕を発見した。そういえば先日会った時も、もうそろそろ半袖のシーズンだというのに陽美は長袖の陽美には少し大きく見えるサイズのカーディガンを羽織っていた。だから手首が見えなくても特に不自然には感じていなかった。
あれは、このいくつかの疵を隠すためだったのか。
「またやっちゃった。でも痛いのはこわくて深くは切れなくて、いつもこのくらいで勝手に血が止まっちゃう。度胸ないね、わたし」
なんでこんなことを、と尋ねてはいけないのだろうか。
「……救急箱とか、消毒薬とかそういうのはある?」
「一応。そこ」
指さした先にあった可愛い箱の中はナースらしくきちんと緊急時に使いやすいように整理されたまさしく救急箱だった。それで傷口を消毒し、ガーゼを当てて包帯を巻く。病院を抜け出してきたのに何でこんなところで怪我人の手当てなんかをしてるんだ。
気持ちを落ち着かせて部屋の中を見回すと、小さなテーブルの上には酒を飲んでいたと思しきグラスが2個並んでいる。
「──誰か、来てたの」
「しらない人」
「え」
「ひとりで飲んでて声かけてきた人と盛り上がって、ここまで連れてきちゃった」
陽美はそのグラスを流し台まで運び、深呼吸のように何度か息を吸ったり吐いたりしている。
「酔ってたしわたしはそこまで考えてなかったけど、そうよね、男の人からしたらこんな夜中に部屋に上げられたらワンナイトOKなんだと思うよね。でも乱暴な人じゃなかったからそれはいいんだ、別に」
下着姿とまでは言わないが、トランクスにTシャツ。なるべく見ないようにはしているが、Tシャツの下はノーブラのように思える。
生唾が出てごくりと飲み込む音が自分の中に大きく響いた。
「その人が帰ったらなんか急にものすごく寂しくなって、なんでさっきの人は茜くんじゃないんだろうって思ったら寂しくて寂しくてたまんなくなって、でも夕菜にこんなこと言ったら叱られると思って……それでこないだ優さんがくれた名刺を思い出して。メッセージ打っちゃった。ほんとにごめんなさい」
流しの前に立ったままの陽美に近づく。
「こんな状況で僕のことを呼んで、君は僕に何をして欲しいの」
陽美が振り返る。
返事はせず背伸びをして優の頭を引き寄せ、唇を塞いだ。
ちょっと待て。
この女、今の話が本当なら、この数時間前には別の男を連れ込んでここでヤッてたんだぞ。
茜のことを思いながら、見ず知らずの男に抱かれてた。
そのくせ、そのあとにリストカットして、好きな男の兄貴を呼び出して。
やばい。この女には関わらない方がいい。
優の脳はそう制止をかけているのに、身体の方は指の先まで下半身が主導して動き始めていた。
陽美は高校時代から茜と付き合っていて、その茜とはまだ寝てないと言っていたはずだ。下手をしたらまだ処女なのかもしれないくらいに思っていたのに、とんだ女狐だった。どうかすれば夕菜に負けないくらいエロくて慣れている。
おい茜、おまえの"彼女"がこういう女だということを、おまえは本当に知らないのか?
うっかりそのまま眠ってしまいそうになって、慌てて自分の頬を叩く。風呂場を借りてとにかく水で身体を流すとあたふたと脱ぎ散らかした服を再び身に付けた。陽美はうとうとしていたようだがその物音で目を覚ましたようだった。
「仮眠の時間に抜け出してきただけだからもう病院に戻らないと」
陽美は焦点の合っていないような寝ぼけ眼でごめんなさい、とだけ言った。
この調子でまた茜が恋しくなって手首でも切られたんじゃたまらない。
「いいか、もう朝だ。僕は病院に戻るけど、どうしてもまた寂しくなったら夕菜でも他の友達でもいいから女の子に来てもらった方がいい。ゆうべあったことは誰にも話さなくてもいいから、とにかく寂しい時にひとりのままでいちゃいけない。言っておくけど君の寂しさは他の男じゃ埋まらない。よけい寂しくなるだけだ。だから女友達を呼ぶんだ。いいね」
捲し立てそうになるのを辛抱してできるだけゆっくり、諭すように言って優は陽美の部屋を後にした。
茜のやつ、全くどういうつもりだ。
本当に、陽美を恋人だと思ってはいないのか。
それとも、あの女のヤバさを察知して深入りしすぎないようにしているのか。
だとしたらさっさと別れれば済むことじゃないか。なまじ手も出さずに付き合ってるせいであの女、めちゃくちゃ拗れてしまってるぞ。
しかしあれだけ男に慣れた身体になってしまっていたら、いざ茜とうまくベッドに持ち込んだとしても付き合っている期間に他の男とヤリまくっていたことがバレるんじゃないだろか。
いや、茜はそういうことを気にするタイプの男じゃないのか?それともまるで初めてのように初々しく抱かれる演技の自信でもあるのか?
病院に戻る自転車を漕ぎながら自分が延々茜のことを考えていることに気付き、優は口の中で舌打ちした。
なにが悲しくて茜と茜の女のセックス事情についてあれこれ考えなきゃいけないんだ。馬鹿馬鹿しい。
とにかくもうあの女には金輪際関わらない。あれはそうとうヤバイ女だ。近寄らないに越したことはない。
そう決意したにも関わらず、その日からポケットベルのメッセージが毎日のように入るようになった。実際に忙しくて受信を確認できないことも多いが、電話をしようがしまいがメッセージは毎日入ってくる。
『119』であったり、『サビシイ』『アイタイ』といった短いメッセージが真綿で首を絞めるようにじりじりと優を追い詰めてくる。
電話をすれば最初の日のように茜に会いたいと泣く。あるいはいつ休みなのと問い詰めてくる。
もう頼らないで欲しいと遠まわしに言ってみると、殊勝にごめんなさい、もうやめます、などと言いながら最後に『わたしなんて居なくなっても誰も悲しまない』などと言い捨てて電話を一方的に切るのでまた仕方なく部屋を訪ねることになってしまう。何度も死なない程度にとはいえリストカットを繰り返している陽美が、いつ本当に本気でそれを実行しないとは限らない。自分の対応のせいでそんなことになられてはたまらない。
部屋を訪ねれば訪ねたで、めそめそと泣きながらちゃっかり優をベッドへ誘い込むことは忘れない。
陽美は見ず知らずのナンパ男を漁るリスクより、友達の彼氏を寝取るリスクの方を選んだのだろう。
そのくせ陽美は優に抱かれながらも思い浮かべているのは茜なのだ。陽美からは優が茜の顔の面を付けている男にしか見えていない。
他人から愛されることが面倒だと常日頃思っている優にすれば、それ自体は本当は気にならない。ただそれが『茜の代わり』だということが腹立たしいだけだ。
時折そうして抜け出したり、やっと休める日に様子を見に行くことが増えたせいで夕菜と会う回数が減ってしまっていることには優も気づき始めていた。もともと夕菜に恋愛感情を持っているわけではないので、浮気をしているという罪悪感は特にはない。が、夕菜にすれば友人の浮気相手が自分の男だというのは面白くはないだろうと察することくらいは出来る。
いっそ、最初の段階で夕菜に丸投げすれば良かった。もう何度となく関係を持ってしまった以上、完全にそのタイミングを逸してしまったとしか言えない。
茜の帰国予定はまだ2か月以上先だ。
陽美は茜と国際電話なり手紙なりでちゃんとコミュニケーションをとっているのだろうか?
その時には優を誘う時のように弱々しく会いたい会いたいすぐに会いに来てと涙声で訴えたりはしていないのだろうか?
寂しすぎて自分の手首を何度も繰り返し傷つけていることを話すこともなく?
「優先生、今日は上がりですよね。明日休めそうですか?お話があるんですけど」
背後に声がして、まるでドッキリの悪戯を仕掛けられたようにビクリと振り返る。そこには立川夕菜が立っていた。周囲の目が無いタイミングを見計らっていたのだろう。優の背中をつねらんばかりに白衣を掴んでいる。
何かを感じ取っているのか、自分が夕菜に対して多少の後ろめたさを感じているせいなのか。夕菜の視線が刺すように鋭いように感じる。
ああ、面倒だ。
きみも結局、身体だけの気楽な関係のままでいることは出来ないのか。
愛されようとか独占しようなんて考えずにいてくれたら、そのまま結婚することだってやぶさかではなかったのに。
これだから、恋愛なんて嫌なんだ。
「最近、仮眠時間とか当直の合間に2、3時間居なくなることがあるんですってね。どこ行ってるの?そんな風にしてまであたしに会いに来てくれること、無かったよね?」
いつものデートの時のように外で食事することもなく夕菜の部屋に座らされて優は尋問を受けている。
テーブルの上にはデリバリーのピザとジュースがあるだけだ。酒も飲ませてもらえない。
どう説明していいかわからず答えに詰まっていると、夕菜は小さなテーブルを押しのけて優の前に座り、険しい眼のまま優を睨みつけている。
「はるちゃんはあたしの友達なんだけど、わかってるよね」
普段の甘えた声からは想像できないような低めた、ドスのきいた声。
「こんなに忙しい忙しいって言ってるくせに、自分の彼女は放っておいて弟の彼女につきまとう時間はあるわけ?信じらんない」
え?
つきまとう?
「はるちゃんは言いにくそうだったけど白状させた。あんた、はるちゃんに乱暴したの?はるちゃんあんなに茜くんのこと一途に想ってるのに、相談乗るふりして無理やりやったの?それからつきまとってるんでしょ?そんな人だと思わなかった!」
「ちょ…ちょっと待てよ」
「言い訳なんか聞きたくない!はるちゃん泣いてたんだから!わたしがお兄さんだからって隙を見せたのがいけなかったんだって、あの娘、自分を責めて、それで──」
どういうことだ。
つきまとわれて困っていたのは僕の方じゃないか。
陽美と寝てしまったのは事実だけど、それだってあっちが誘ってきたんだ。
「あの娘、はるちゃん、何度も何度もリスカしてたんだよ?!幸いまだ命に関わるほどのことはしてないけど、それくらい追い詰めたんだよ?!わかってんの?!」
夕菜は自分も涙で顔をぐちゃぐちゃにして、優の頬をひっぱたいた。
ああ、そうか。
陽美は、夕菜に自分があんたの彼氏を誘って寝たんだなんて言えないから。
僕が無理やり彼女を犯したというストーリーにしてしまったのか。
夕菜が鋭い視線で糾弾しようとしていたのは、"彼氏が浮気をしたこと"ではなく"友達に乱暴したこと"だったのだ。
なんてこった。
これまで、陽美が本当に自殺してしまうことを恐れて、気遣って、それでうかうか茜の代理で抱いてやってきたのは──一体なんだったんだ。
「ねえ、なんとか言いなさいよ!」
「きみが喋らせてくれないんじゃないか」
優の気配が変わったのを察知したのか、夕菜はそれこそ優が口を挟む隙もなく捲し立てていた口を怯むように噤んだ。
「きみは僕より可哀想な"はるちゃん"の言葉を信じるんだろう?じゃあ何を言っても無駄だ。リストカットすると脅しながら僕を誘ったのはあの娘の方だなんて言ってもね」
「そ……」
「ああ、本当にばかばかしい。心配しなくてももう二度と彼女の部屋には行かないし、きみともこれまでだ。きみとは相性がいいと思ってたから残念だよ」
心底、すべてがばかばかしい。
優は夕菜を押しのけて立ち上がった。夕菜はあっけに取られて──あるいは疑わしげにそれを目で追っている。図星をさされて言い訳ではなく可哀想な友達を嘘つき呼ばわりして逆ギレしている男だとでも思ったのだろう。
「大事な友達のはるちゃんにも言っておいてくれ。僕は二度ときみには会わないから安心しろって。そんなに茜に会いたいなら自分でアメリカに会いに行って、僕にしたように自分から茜を押し倒してやりたいだけやればいい。僕はもう知らない」
言い終わるか終わらないか、夕菜の部屋の扉のところで何かが落ちる音がした。
振り返ると、そこに陽美が立っている。足元に、近所のコンビニエンスストアで買ってきたのだろう、飲み物の瓶が入ったビニール袋が落ちていた。
陽美は蒼白な顔でじっと優の顔を見ている。
「はるちゃん……!」
夕菜が慌てて陽美に駆け寄り、優から隠すようにして抱きしめる。
夕菜が呼んでいたのか、あるいは知らずに陽美が訪ねてきたのかはわからない。
ただ、おそらく優の最後の言葉は陽美の耳に入っただろう。
しかしもう優は陽美に対しても夕菜に対しても完全に興味を失っていた。
この娘たちがこの後どうなろうか僕の知ったことか。
「聞いてたの?じゃあ話は早いな。僕が最後に言えることがあるなら、君に必要なのは茜の代わりになる男じゃなくて心療内科の受診だよ。夕菜も、今までありがとう。出来たら病院ではこれまで通りお願いしたいな。じゃ」
それだけ言うと優は夕菜の部屋を出た。
陽美はきっと、暴行されたなんて被害届を出したりする気はない。もしそうなったらおそらく自分は抗弁する余地も与えられずに彼女を強姦したことにされてしまうだろうが、そんなことが陽美の目的ではないだろう。ただ、友達やかまってくれない彼氏が可哀想な目にあった娘だと優しく慰め甘やかしてくれればきっとそれで満足なのだ。適切な治療を受けた方がいい。
夕菜はそれでも陽美の言葉の方を信じるだろうか。
恋人だとも思っていなかったし身体だけの関係だと思っていたけれど、いざ信じてもらえないとなるとせつないものだな、と思った。
そのまま真っ直ぐ自分の部屋へ帰り、優は数ヶ月ぶりにゆっくりとひとりきりで眠った。ほぼ丸一日眠っていた。
目を覚ますと、病院用のポケベルには幸い呼び出しは無かった。個人用のポケベルには、夕菜から何件かと、あの数時間後に陽美からのメッセージが入っている。
『ゴメン アイタイ ハル』
あれだけ言ってやったのに、まだ僕に何か望むのか。
熟睡しすぎて気づいていなかったが、眠っている間に部屋の電話にも着信があったようだ。留守番電話のランプが光っている。留守番電話に繋がったものの迷ったのか、何件かは無言のまますぐに切れていたが、最後に、夕菜の声が録音されていた。
『さっきはごめんなさい。もういちどゆっくり話したい』
こちらの言い分を信じる気になってくれたのかどうかはわからないが、優はもう夕菜との関係を修復する気にはならなかった。たとえ感情抜きの身体だけの関係だとしても、当分女はこりごりだ。
休み明けに出勤すると、立川夕菜は何か言いたげな目を向けてはくるが仕事は特に普段と変わる様子もなくこなしているようだった。優も最初に夕菜の顔を見た時こそ腹の底に気持ちの悪い塊があるように重い気分になったが、すぐに忙しくてそれどころではなくなった。
休みも昼夜もなく、少し仮眠しては叩き起こされ、という状況は、余計なことを考えずに済ませるにはちょうど良かった。
夕菜が結局陽美の方を信じたのか、優が示唆したことを信じることにしたのかもわからない。
休憩の時に習慣的にポケベルの受信チェックをすると、やはり陽美からのメッセージは毎日のように入っていた。しかしもう優は電話をすることもあの部屋を訪ねることも無かった。夕菜とももう別れるのなら、この個人用のポケベルも一旦解約してもいいかもしれないと思い始めている。
5日目には陽美からのメッセージも途切れた。
あの日から2週間ぶっ続けの勤務。
さすがにもう休まないと倒れる──そう思いながらふらふらと自分の部屋へ向かう。休みの前日に夕菜にも陽美にも煩わされることなく真っ直ぐ部屋へ帰れたのは実に久しぶりだ。
勤務の合間に着替えを取りに数時間だけ帰ることはあってもゆっくりと羽根を伸ばせる自分の部屋はやはりいい。レストランや居酒屋の食事より、自分の部屋でのんびり食べるカップ麺の方が疲れた身体に染みわたる気がする。
その優の平穏を電話のベルが破った。
思わず居留守を決め込んでやろうかと思ったが、留守番電話に繋がると流れてきたのは夕菜の声だ。電話越しでもわかるほど小刻みに震えている。
『はるちゃんのことなんだけど……はるちゃん、本当にやっちゃった……もしこれ聞いたら電話下さい…』
『本当にやっちゃった』とは──自殺、した、のか。
このメッセージだけでは未遂で運ばれたのか本当に死んでしまったのかわかりかねた。
慌てて受話器を取ってみたが、もう電話は切れている。もう陽美のことも夕菜のこともどうでもいい。興味ない。そう思っていたが──夕菜の部屋へ電話してみた。
僕はなんてお人よしなんだ。
夕菜はコール1回ですぐに電話に出た。
「悪い、今帰ってきたところだったから取るの間に合わなかった。彼女、何をしたの」
余計な挨拶など無しに本題に入る。電話口の夕菜はやはり泣き声だ。
『歩道橋から車道に飛び降りて──落ちたところを車にも撥ねられたみたい。搬送中に心肺停止になってそのまま』
そうか。
自分は手首では死ねないことを知っているから、より確実な方法を選んだのか。
一旦もう関わらないと思ってしまった相手のことはこんなに冷静に聞けるものなのかと思った。あんなに、陽美が本当に自殺してしまうかもしれないことを恐れてあれこれ付き合ってやっていたというのに。
受話器の向こうの夕菜はがたがた震えているのが目に見えるような声でどうしよう、どうしようと呟いている。
『あたしのせいだ。あたしが、優さんとのことであの子を責めたから。本当に死んじゃうなんて、どうしよう。優さん、あたしどうしたらいいの。あたしがあの子を殺したんだよ』
ついには夕菜はしゃくりあげて泣き始めた。
これを放置しておいたら夕菜も引きずられて何かやらかさないとは限らない──
今この電話を置いて、とにかく夕菜の部屋まで走って、そして抱きしめてやれば少しは落ち着くのかもしれない。そう思う一方で、冷たく醒めた優の一部がもう興味は無いんだろう、放ってほけばいいと囁いている。
「どうしようもこうしようも、どうもしなくていいよ。夕菜は悪くない。僕が悪いんだ。僕が彼女を無理やり犯してつきまとった。彼女はそれに耐えかねた。それが原因だということでいい。きみもそれを一度は信じたんだろう?きみが何を言ったかは知らないけど、それが原因じゃない」
優しい言葉をかけているようでいて、自分で驚くほど冷たい声音で言った。
「──あの後も彼女から何度もポケベルのメッセージは入ってきてたけど、僕はそれを全部無視した。誰にも手を差し伸べてもらえなくなって彼女は絶望したんだよ。だからやっぱり僕が最後の一押しをしたんだ。それにそもそも元はと言えば茜が彼女を生殺しで放置していたことが発端なんだから、一番悪いのは茜だろ」
噛んで含めるようにゆっくりとそれだけの事を言う間、夕菜はただ泣きじゃくっているだけで何の返事もしなかった。
『はるちゃん、妊娠してたんだって……』
「そうか」
『それって、もしかして……』
「まさか。きみだって知ってるだろ」
優は陽美と寝る時も、夕菜が相手でも、これまで付き合ってきたどの女が相手でも、どんなに酔っていてもほとんどの理性が性欲に支配されている時でも必ず避妊具を装着するかあるいは膣外射精していた。身体だけの相手を妊娠させてなしくずしに結婚という事態だけは避けたかったからだ。
つまり陽美が妊娠していたとしてもそれは自分の子ではない。
だが夕菜はそうは思わないかもしれない。
『優さん、そっちに行っちゃだめ?ひとりでいたくない……』
なるほど夕菜は少し冷静になった後、優の方を信じることにしたのだろう。だから陽美を責めたのだ。
だとしたらもう一度夕菜とやり直すことも不可能ではないとは思う。
しかし──
弱々しく震える声の夕菜を、やはり愛おしいとか恋しいとか、守ってやりたいという感情は起こらなかった。
「悪いね、僕は僕を信じてくれない人とこれ以上秘密の共有は出来ない。愛でも恋でもない、これは信用の問題だ。きみとのこういう関係はあの日解消した。それは撤回しない」
絶句するように黙った電話の向こうの夕菜の溜息のような小さな息の音が聞こえる。
『──知ってたけど、冷たい人ね』
冷たい人。そうかもしれない。
僕はきっと、普通の人より"優しさ"の量が圧倒的に少ないのだ。
そのなけなしの優しさで、陽美が生死のラインを踏み越えることを阻止するために奔走した。まるで患者に相対するように。
その見返りが僕を強姦犯のストーカーに仕立てることだったのだ。
そして夕菜は僕を信じるより、そういう男だと真に受けて責めることを選んだ。
そんな彼女らに変わらず向けてやるほど僕の"優しさ"の量は潤沢じゃない。
僕の名の"優"は"やさしい"ではない。"すぐる"と読むのだから。
「きみは有能だし友達思いで優しい、明るくてとても素敵な女性だよ。きみをきちんと愛してくれる人は必ずいる。そういう人を探してくれ。これまでありがとう。じゃ」
『まって。茜くんには』
「僕は茜の留学先なんか知らないよ。僕らは兄弟と言っても仲が悪いからね。あいつが自分の彼女を大事にしていて定期的にちゃんと連絡してるなら、連絡がつかなくなった彼女を心配して誰かに尋ねて回るはずだ。きみの連絡先を茜が知ってるなら向こうから連絡してくるだろう。それまで放っておけばいい」
それだけ言い残し、受話器を置いた。
妙な脱力感と、解放感が優を包む。
自ら命を絶った陽美にも、優を頼ってきた夕菜を拒絶したことにも、何の罪悪感も感じなかった。
それから数日経って、立川夕菜から手紙が届いた。
自分を手ひどく拒絶した優に再び電話をする気にはならなかったのだろう。
優が予告した通り、あの電話の翌日には茜から国際電話があったという。夕菜が夜勤の時でなくすぐに電話を取れたのは幸運だったのかもしれない。
茜くんのところに、はるちゃんから手紙が届いたそうです。
茜くんは濁して言っていたけど、多分そこには私がはるちゃんから聞いた方の、優さんとのことが書かれていたみたい。はるちゃんは、自分が言ったことが嘘だって私にはばれて責められてしまったのに、茜くんにかまって欲しくてまたあの手を使ったのかもしれません。
もし茜くんがそのことで優さんに対して怒ったり何かアクションを起こそうとしたら、本当のことを話すべきかと思ったんですが、茜くんはつらそうで悲しそうだったけど、優さんを責めるようなことは言わなかったから……
ごめんなさい、私、茜くんに本当のことを言えませんでした。
はるちゃんは本当に茜くんのことを好きだったから。はるちゃんが寂しいからといって他の男の人を誘ったり、自殺を匂わせて回りを振り回すような娘だったって茜くんに最後に知られるのがどうしてもかわいそうで。
そうか。
最後まで面倒な娘たちだ。
茜はこれで僕のことを、自分の彼女を犯して付け回して追い詰め、自殺に追い込んだ大悪党だと思うだろう。
「まあ、いいか。茜が僕のことをどう思おうが僕には関係ない」
手紙を読みながら誰もいないのに声に出して呟いていた。
夕菜が茜本人から聞いたところによると、茜へは陽美から電話を掛けてくることもなく他愛もない内容の手紙が定期的に届くだけだった。週に1度茜から電話をかけていたが、その時には寂しさに追い詰められているような素振りはまるでなかった。夕菜から陽美がいつも寂しい寂しいと言っていたことを聞いてむしろ驚いて、そしてすまなそうにしていたという。
茜が陽美との将来のことをどのように考えていたのかは知らないが、5年も付き合っていたくせに互いに心の中を曝け出すこともせずに相手が何を考えているかも知らずに永遠に別れてしまうことになったのだ。
恋愛なんかしてるつもりになってたって、所詮そんなもんだ。
やっぱり、愛だの恋だのなんて面倒でしかない。
僕にはそんなもの、金輪際必要ない。
昔のことだと終始微笑みながら話し終わり嵯院の顔を見ると、なんとも言えない顔で眉間に皺を寄せているのが見えた。
「じゃあ茜が、おまえがしたことだと思ってたことはその彼女の出まかせだったってことなのか?」
「まあ、そうです。ちょっと想像して下さい。休みも昼夜もない、10連勤くらい当たり前みたいな仕事をしていたのに、わざわざ茜に嫌がらせをするために茜の彼女をストーキングして強姦するなんて、私はそんな暇じゃなかった。性欲を満たすためのセフレとのデートの時間だって自分の休みを削ってやっとの思いで捻りだしてたくらいなんですから」
嵯院はなるほど、と言って苦笑している。
「まああいつは結局そのことで私を強く責めることはしませんでしたし、私はあいつにどう思われようが構わないと思ってた。ただあんな面倒に巻き込まれたのは茜のせいだといまだに根に持ってます。だから私はあいつが嫌いなんだ。言いたいことがある癖に全部許したみたいな顔ですましているのも含めてね」
──兄さんに復讐したって帰ってこない。
それは裏返せば復讐したい気持ちはあったということだ。優に復讐しようと本当は何度も思ったのかもしれない。それを抑えるために、自分に言い聞かせるように、あんなことを言っていたのではないだろうか。
彼女が自殺したと聞いても茜は研究や研修を中断して慌てて帰国してくることはなかった。すぐに帰国すれば葬儀には間に合ったかもしれないのに、いや間に合わなくても本当に愛している恋人なら居ても立ってもいられなくものなのではないのかと首を捻ったものだ。
もしかしたら。
あの時すぐに帰国して、優が手に届くところに居ることがわかっていたなら──理性で抑えることが出来ずに優を殺しかねないほどの怒りや憎しみがあったのかもしれない。
あの高級クラブで再会した時、茜は優を見て「殺されるかと思った」などと言って笑っていたが、その裏に真逆の衝動が隠れていてもおかしくはなかったのだ。──「兄さんを殺してしまうかと思った」という衝動が。
そうだとしたら、茜も少しは人間らしい汚いマイナスの感情を持ち合わせていたのだな、と親しみの一つも感じたのではないかと思う。優にとっては冤罪であることは変わりないけれど。
「それにしたって、自分がやってもいない罪で憎まれているのを何の申し開きもせずによく平気でいたな」
「いつか真実を告げてやったらあいつどんな顔をするかなとは何度も想像しましたよ」
茜が症状の始めに"あのこと"を忘れてしまった時。
脳の異常を疑うと同時にどこかでほっとしていた。
茜にとって、意外にそれほど重要な記憶ではなかったかもしれない。あるいは重すぎて思い出したくなくて触らずにいた結果、真っ先に失われたのかもしれない──などと考えたりもした。
当然そんなものはただの偶然に違いないのに、そうであって欲しいとどこかで思っていた。
茜が忘れてしまえば、それはただの陽美の嘘に戻るのだ。
確認したことはないが、茜と嵯院はただの主治医と雇い主の関係ではなかっただろう。そんなことは嵯院とビジネス上の関係を構築した頃には薄々感じていた。だからこそ、茜の病について"他人"である嵯院に告知した。おそらく茜にとって誰よりも"家族"と同等だったのが嵯院だとわかっていたからだ。
優は自分が性的マイノリティである自覚があるからなのか、他人のそれにも寛容な方だと思う。それ自体は全く気にならない。
ただ、茜があの件が原因で女性を忌避するようになったのか、もともと同性愛者だから陽美と寝なかったのかはわからずじまいだ。こんなことなら生きているうちに訊いておけばよかった。もっとも、そんな立ち入った話をフランクにするほどの和解も出来ていなかった。
もっと──互いに、腹に持った一物を曝け出して言い合い、殴り合いの喧嘩でもして、全部ぶちまけていたら。
もしかしたら少しは普通の兄弟か、友人程度にはなれたんじゃないだろうか。
それは、きっと自分が誰かと恋愛することよりよほど簡単なことだっただろう。
「考えてみたら、自殺した陽美を悪者にしたくないって言う夕菜の希望を後生大事に守ってきたんですよね。私にしては随分優しいことだ」
「それ、本当はその彼女のことを愛してたからなんじゃないのか」
優は苦笑して違いますよ、と言った。
「ただ──」
あの時もし夕菜が陽美の訴えではなく、最初から私のことを信じてくれていたら──
もしかしたら私は彼女を愛するか、少なくとももっと長く付き合っていくことが出来たかもしれない。
嵯院が優の言葉の続きを待っているようにじっと見ている。
「いえ、何でもありません。とにかく恋愛なんて面倒なだけだという気持ちは変わらないし、もはや性欲も減退したしこの先は凪のように静かな人生を送っていく予定なんですよ」
「プライベートは知らんがまだ凪に入られても困る。まだ病院経営でやることも波風もいっぱいあるだろうが」
「確かに」
窓の外の陽光が傾き、空に雨雲が流れているのが見える。
梅雨明けはまだ先の様だ。
「今日は夕食も食ってくだろ?久しぶりに外部の客が来たから厨房が張り切ってるんだ。作らせてやってくれ」
「断る余地を与えない感じで言わないで下さいよ。ご馳走になります」
「ああそうだ、あと」
夕食の話をしながらまだ何か飲むつもりなのか、嵯院はまた冷蔵庫を覗いている。
「おまえ、こういう時くらいもうタメ語で喋れよ。同い年なんだから」
「友達じゃあるまいし、そういうわけにはいきませんよ」
「何言ってんだ。俺はダチだと思ってるぞ」
冷蔵庫の扉の陰から顔を出すと嵯院は口を尖らせている。拗ねた子供のようだ。
「そりゃ恐れ入ります。習慣になってしまったものはなかなか直せないんで、徐々に変えていきますよ。ええと、椎多──さん」
”さん”も余計だなあ、などとぶつぶつ言いながら嵯院は冷凍庫からアイスクリームを取り出し、子供のような顔で笑った。
*the end*
*Note*
茜ちゃんの「血の繋がらないいじわるな兄」のひとり・優さんの話。
最初「梟」で書いた時は茜ちゃんに届いた手紙通りの出来事があって、優さんはそれが負い目になっていると作者自身も思いながら書いていたんですが、心のどこかではなんとなくしっくりこないなと思っていて。茜ちゃんはいつから男を相手にするようになったのかとか、実際には自殺した彼女とやらとはどういう関係だったのかとか、優さんのキャラが立ってくればくるほどこれはちゃんと考えた方がいいなと思ってわりと本編の終盤書いてるころからこの話を優さんサイドと茜ちゃんサイドから書きたいと思っていました。これ私あるあるなんですが書いているうちに「おう何やおまえけっこうええ奴やんけ」というパターンになってしまった(笑)。
例によって例のごとく、研修医の実態についてはあまり細かく調べていません。冒頭と締めの段落以外の話(事件当時)はだいたい90年代初めくらいだと思うのでまあ24時間働けますか時代の名残が残ってる頃なんでね。
優さんは自己評価が低めの人なんだけど、多分自分が思ってるよりはいい医者だったと思います。
ちなみに夕菜さんは基本的には正しい側の人だったのでこのことで優さんに嫌がらせをしたり脅したりすることもなく、ただ居心地が悪くなって茅病院は辞めたと思います。隠して付き合わなくてもよくてちゃんとラブラブになってくれるイケメンの医者でもげっとするか、優さんと同じように懲りて当分恋愛恐怖症みたいになって気づいたら婚期逃しそうになって慌てて出会い系とかに走るかどっちかな気がします。
最後の方書いてて、椎多は恋愛感情のない優だからって面白がってちょっかいかけたりしないでしょうね…って思ってしまった(多分しません…)
茜ちゃんサイドの話はまだ構想が固まってないんだけど、この事件を書くにしてもちょっと触る程度になるかと。病む前の陽美ちゃんは出てくるかと思うけど。