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 母は美しくて儚げな女性だったことを記憶している。


 けれど、私は彼女の愛情を与えられたことが記憶の限り一度としてない。
 私が、彼女の胎内から産みだされた存在ではない──それがその要因だったということを知ったのは、確か小学校に上がった頃だった。
 私の三歳年下の弟は母にも祖父にもとても愛されていたが、私は見向きもされなかった。五歳年上の兄が、あのひとは僕らの母親じゃないから、と平然として言ってのけたその時の兄の服装まで私は鮮明に覚えている。
 それまで気付かなかった家庭内の亀裂を、私は漸く意識した。
 父は兄と私をひどく甘やかす一方弟にはつらく当たっていたし、母はその逆だった。もっとも、母は兄や私をいじめるというわけではなく、ただ優しい言葉をかけることも頭を撫でてくれることも抱きしめてくれることもなかったというだけだ。祖父の態度は父のそれに少し似ていたように思う。


 つまり私と兄は父の、弟は母の連れ子で互いに血が繋がっていなかったのだということがやがてわかってきた。兄は最初からそれがわかっていたし、私たちの産みの母親のことも覚えていたので特に疑問を抱くこともなく父と同調していたのだろう。


 それでも、私は本当は母の愛情が欲しかった。
 母の愛情を独占している弟をいつも羨望の眼差しで見つめていた。


 成長した弟は、何故かいつも私が欲しくても手に入れることの出来なかったものをやすやすと手に入れていった。父の財力だか地位だかを助けを借りてようやく入学できた一流大学の医学部にも、弟は実力で合格した。自分の中では限界を超えるほど努力しても、弟が平然とやり遂げることには敵わなかった。ちょっと気になる女がいても皆、弟の方を向いていた。
 私は要領はいい方だと思う。人当たりも悪い方ではないから人望が全くないわけでもないはずだ。
それでも、なんの計算も裏表もなく明朗で優しい人だと評価されて人が集まるのは弟の方だった。

 弟の明朗さ、天真爛漫さにはほのかな欺瞞の匂いや隠れた冷たさがあるような気がしていたのは私一人だったかもしれない。それはただの嫉妬、やっかみに過ぎないのかもしれない。

 しかしあいつの天真爛漫さの皺寄せを被る人間がいることにあいつ自身は気づいていない。

 それが、腹立たしい。

 

 あいつさえいなければ。

 何度、その呪いの言葉を吐いたことだろう。
 

 あいつさえいなければ、私の人生はもっと順風満帆なものになっていたはずだ。

 あいつさえいなければ───

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 まだ新築の建物の匂いの抜けきらないホールを通り過ぎ、通路の向こうのエレベーターに乗り込む。壁のクロスも床のカーペットも淡いサーモンピンクの柔らかな色彩に包まれていて、大なり小なり不安を抱えてここを訪れる人間の心を和らげる効果を与えている。優(すぐる)はどこか嘲るような笑みを浮かべるとエレベータに乗り込んだ。
 真新しいエレベータは振動も音も殆ど感じない。昇降する際の独特の浮遊感だけがこの小さな空間がエレベータであることを思い出させた。やがてやはり柔らかなベルの音が、目的階へ到着したことを告げる。

 24階、役員フロア。

 ここには各部長の個人室と奥に院長室がある。内科部長の優の部屋もある。但し優は空き時間も専ら部下の医師や看護師たちと談笑していることが多いのでたまにしか使わない。
 院長室と反対側の奥には理事長室があるが、ここも空室になっていることが多い。否、この建物を新築してからは、その部屋の主たる人間はここを訪れたことすらないという。
 理事長とその婿養子である院長が反目し合っていることなど看護師ですら知っていることだから、院長が新築したこの建物に理事長が不在であっても不思議に思う者はいない。
 エレベータホールからその奥へ足を向けると途中で総務部長の秘書とすれ違った。
「相変わらず綺麗な脚だね」
「優先生こそそのセクハラ挨拶は相変わらずですのね。一度訴えましょうか?」
 にっこり微笑むと秘書は会釈して通り過ぎた。褒めたのになぁ、などと呟きながら優は再びフロアの奥へと足を向ける。
 一番奥は二重のドアになっている。「院長室」とご大層に掘り込んだ10×30センチはありそうな金のプレートが嵌めこんである大きな木のドア。ノックして開けると、中には馬鹿げて大きな壺とそこに飾られた花──この部屋の主に言わせれば一流の華道家に作らせた芸術品らしい──、その横にしつらえられたカウンターに行儀よく並んで座った若くて見目のいい娘が二人、静かに立ち上がり優雅に礼をした。
「院長と外科部長がお待ちです」
「わかってるよ」
 もう70も越えたじじいの癖に、側に置くのはこの病院で秘書を務める沢山の女の中で最高級に美人でしかも若い娘ばかりだ。さっきの総務部長秘書にでも訴えられればいいのに、と皮肉そうに口を歪めると優は二人のうち若い方の秘書が導くのに従ってふたつめのドアの向こうへ進んだ。

「遅刻だ」
 愛想もなにもない。すっかり薄くなり残っているのも殆ど白く変わった頭髪とは対照的に皺も少なくつやのいい顔を笑わせもせず院長は顎でソファに座ることを促した。

 茅優は茅総合病院の院長の次男であり、内科部長のポストにある。一応、ポストだけではなく”ちゃんと”内科医である。長男の秀行は外科部長で、ゆくゆくは父親の後を継いで院長になるであろうことは既に暗黙の了解となっていた。──理事長を除いては。


 優はいかにも面倒そうに溜息をついて項のあたりを掻くとぼふっと音がするような勢いでソファに沈み込んだ。
「また何か悪企みですか。あまり私を巻き込まないで下さいよ。私はあなたがたと違って小市民なんですから」
「なにが小市民だ」
 外科部長がもともとむっとした顔を更にしかめて弟を睨みつける。まだ四十を少し過ぎたばかりなのだがもっと老けて見える、年齢より若く見える親父とは対照的だと優は思った。
「それともまた面倒な患者を引き受けてくれとでも?見栄を張るのもいい加減にしてくれませんか。現場は大迷惑だ」
「おまえが現場の人間の代弁をしてどうする。おまえはこちらを代弁してやつらを動かすのが仕事だろう。──いや、今日はそんな話じゃない。茜の話を聞いたか」

 茜、という名に優は微かに反応した。

 

 戸籍上は弟である茜はここにいる3人の誰とも血が繋がっていない。優も詳しくは知らないが父が理事長の娘と結婚した時には既に誰か他の男の子供を妊娠していたのだという。噂によれば報道カメラマンか何かと付き合っていた娘を理事長は無理やり恋人と引き離し当時お気に入りだった医師、つまり秀行と優の父と結婚させた──もっとも噂の範囲内だからどこまで本当の話だかはわからない。父がこの病院欲しさに優たちの母親と離婚し理事長──当時の院長にとりいって娘婿におさまった、というのもあるがこれは本当かもしれないと優は思う。


「……紛争地域の医療派遣チームに入ったとかいうところまでしか知りませんよ」
 興味なさそうに優は視線を逸らした。

 この病院を辞めてわざわざそんな危険な場所での医療に従事する。優の目から見ればやることなすこと偽善臭くて気持ちが悪い。興味がないというのも本音だが、どちらかといえば関わり合いになりたくない。


「嵯院家の邸宅常駐の主治医におさまったそうだ」
 

「へえ、そりゃすごい」
 普通の就職活動で就ける仕事ではない。そんな縁故があるだけでもたいしたものだ。と優にしては素直に反応したつもりだったのに父と兄はそれをいつもの無関心、無感動だと受け取ったらしい。兄は苛ついたように身を乗り出した。

「どういうことかわかっているのか。嵯院グループをバックになどどられてみろ。下手をするとうちは根元からやられるぞ」
「茜にそんな野心があったらとっくの昔にやってますよ」
「だからおまえは考えが浅いというんだ。茜に野心があろうが無かろうが、くそじじいと嵯院にそれがあれば十分だろう。それに今はおとなしくしている理事長派の連中がまたぞろ動き出すに決まってる」
 それはごもっともだ、と頷いた。
 小さな個人病院を大病院に育てたやり手の理事長は、唯一血の繋がった孫である茜に病院を継がせたがっている。嵯院グループは医療系が弱いので何らかの形で参入したがっているらしいというのは業界では既に知られたことだ。
 茜本人に野心が無ければ尚更、利用しやすいに決まっている。
 それに理事長は現役時代から人望が厚く、今でも院長より理事長に心酔している派閥も現存している。現在院長派のような顔をしていていざとなれば寝返る可能性のある連中まで入れるともう病院として機能しないかもしれない。さすがにそこまで大鉈を振るうことも出来ず、飴と鞭でなんとかおとなしくさせているが勢い付ければ現在の体制をひっくり返されることも危惧しなければならないだろう。


「──それで?暗殺でもしようというんですか」
「おまえにしては察しがいいな」

 顰め面のままの外科部長が言った。皮肉のつもりで言った優は少し驚いたように目をまばたかせる。
「懲りませんね、二人とも。私はそういう物騒な話には参加したくないと何度言えば解るんですか」
 優は別に平和主義者なわけでも道徳者であるわけでもない。リスクとリターンを天秤にかけて、直接だろうが間接だろうが殺人という手段にメリットがあるとは思えないだけだ。そんな橋を自分の意志ではなく腕を引っ張られるような形で渡るなどまっぴら御免だと思っている。

「私は聞かないでおきますよ。もしもの時に三人とも手が後ろに回ったりしたらそれこそこの病院は誰かの手に渡ってしまうでしょ。まあ、私は院長なんて肩の懲りそうなポストには座りたくはありませんけど」
「優!」
 立ち上がりドアへ向かうと背中に院長と外科部長の声が同時に届いた。


 あんたらと心中なんてやなこった──


 苦笑とも嘲笑とも取れぬ笑みを浮かべて優はばたん、と勢いよくドアを閉じた。

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「部長、今日どうです?可愛い娘のいる店見つけたんですよ」
 にやにやと表情を崩した男がポットの湯をカップに注ぎながら言った。
「大沢さんも好きですねえ。いつ家に帰ってるんですか」
 自分のカップに口をつけ一口啜る。下世話に笑って見せたが優は心の中ではやれやれと溜息をついていた。自分よりも年下の上司に卑屈なまでの態度で取り入ろうとするこの男は、軽蔑を通り越して尊敬にすら値するな──と思う。
 優は周囲に迎合したり長いものに巻かれるのは嫌いではないしたいしたストレスも感じない。そうしている方が楽だからだ。しかしこの大沢という主任は本来こういう人付き合いの仕方は本意ではない。それが解ってしまうから余計に卑屈に見えるのだ。


 院長が引退して秀行が院長になれば、空いた外科部長のポストに座るのは現在その下にいる人間になるかもしくは優が指名されるかいずれかだ。優にとっては外科は専門外だが院長権限で花形の外科部長のポストくらいは一族の人間に与えることは十分あり得る。そうなって内科部長のポストが空いたときに自分を推薦して欲しいとでも思っているのだろう。しかし──

──可哀想に、私になど取り入ったところでたいした出世は見込めないよ。

 

 実力でのし上がることが出来ないなら上の人間に気に入られてという戦略はわからなくもないが、取り入る人間を選ぶべきだ。

 

──まあ、気の済むようにやらせるさ。

 

 優は侮蔑と憐憫の入り混じった笑いをこっそり洩らすと大沢に向き直った。
「いいですよ。大沢さん、女性を見る目だけは高いですからね。楽しみにしてます」
「だけ、はひどいなあ。じゃあその前にふぐでも食べにいきましょう。女の子も呼んでおきましょうかね」
 きっと腹の中は煮えくりかえっているのだろう、また卑屈な笑いを浮かべて大沢は自分のデスクに戻った。戻りながら携帯電話でメールを打っている。その動きを目で追っていた優は大沢が腰掛けるのを見届けると、手元に無造作に広げられた医療器具のパンフレットに視線を戻した。視るわけでもなくぺらぺらとページを捲りながら頬杖をつき、冷め始めたコーヒーを口に運ぶ。頭の中では既に大沢との会話など何処かへ消えてしまい、先程の院長と外科部長の話がリプレイされていた。

 茜がまだ家にいた頃──特に、茜の母が亡くなってからの何年かの間、あの父と兄は何度となく事故を装って茜を亡き者にしようと画策していた。当然自ら手を下すなどという危険を冒すことはなかったが、素人目に見ても手際のいい仕事とは思えなかった。それもその筈で、プロに頼んだわけではなく単に使い走りのような部下にやらせたのだ。わざとらしくても仕方ない。
 しかし兄のあの自信ありげな表情はなんだろう。今度はプロにでも頼むつもりだろうか。そんな伝手をどこで入手したものか。


 父と兄はいつも優を『仲間』に引入れようとしていたし、その密談の際はいつも同席させられていた。そして、いつも発言もせずその光景を眺めていた。自ら発言してアイディアを出したりなどしたら、完全に首謀者の仲間入りだ。それは勘弁してほしい。そもそも、何故命まで奪わねばならないのか、優にはよくわからない。


 茜は鈍いのか図太いのか、命を狙われているのに気付かないのか気付いていて平然としていたのか──とにかく、何度不審な事故に遭いそうになっても騒ぎ立てることはなかった。むしろ、理事長がことを荒立てようとするのを宥めていたようにも見える。ただ、黙って家を出た。それからは一度も会ってはいない。


 兄弟とはいえ、もともとろくに会話したこともなかった。だから、茜が実は心に何を秘めていたのかなど解らない。表には出さなくても本当は自分たちを殺したいほど憎んでいたかもしれない、と優は思った。もっとも、それはお互い様なのだが──

「部長、そろそろ時間ですよ。行きませんか」

 大沢の卑屈な声が優の思考を中断させた。
 溜息をつくと優は立ち上がり面倒臭げに白衣を脱いでロッカーの扉を開けた。

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 確かに店は豪奢でありながら上品で、ホステス達も場末のラウンジなんかと違って品がいい。ワンランク上のクラブだと思う。
 が、大沢はここにはそぐわないなと優は苦笑した。

 ああ、そんなに大声を出すものじゃない。ほら、女の子が嫌そうな顔をしているじゃないか。それに話題が下品だ。
 とは思ったが極力無視して優は自分の隣に座ったホステスと会話していた。但し、大沢は優を接待しているつもりなので放ったらかしにはなかなかしてもらえない。

 店にも迷惑だな、出るか──

 と思った時。
 優と大沢のテーブルの前に一人の男が立っていた。

 店の人間にしては服装がそれらしくない。若いが随分高級そうなスーツを身につけている。どこかで見たような顔だ、と思った。それも直接知っている顔ではなく──芸能人ではなさそうだ、では──

「君、若い女性とばか騒ぎがしたいならキャバクラにでも行きたまえ。ここは静かに会話を楽しみながら酒を味わう場所だ」

 笑顔を見せてはいるが、大沢よりも──ひょっとしたら優よりも──若く見えるこの男はどこか威圧的な、そして軽蔑を含んだ声で大沢に言い放った。
 酔っている大沢はなんだと──と立ち上がろうとしたがよろけて再びソファの上に尻餅をつくように座った。
「君の連れも困っているだろう。これではどちらが接待しているのかわからない。ママの立場もあろうかと黙っていたが店の品位を落とすような真似はすぐにやめるべきだ」
 優たちのテーブルについていたホステスが数人立ち上がり、他のテーブルから和服姿のママが慌ててやってきてその場をとりなしている。優はなんだか少し愉快になってきた。

 

「大変失礼しました。すぐに連れて帰ります」
 こういう時は素直に謝っておくべきだ。何を偉そうに──などとまだ文句のありそうな大沢を座らせて優は頭を下げた。
「つまらない部下は甘やかすといつまでも間違いに気付きませんよ。あなたがそれを楽しんでいるならお好きになさればいいがあまり他人を不快にさせないように願いたいものです」


 男は大沢に対するのとは違う態度で言うと軽く頭を下げて背を向けた。席を外していたらしい同席者が戻ってきたのを見てとると男はホステスに指示してコートを出させている。気分を害したのか、今日は帰るつもりなのだろう。
 半分寝そうな大沢に視線を戻して溜息をつき、タクシーを呼んでもらうように頼もうとした時優はふとひらめいたように先程の男へ視線を戻した。

 連れの男の顔がちらりと目に入る。
 その視線がそのまま釘付けになった。

 そうとは気付かず男とその連れは仲良さげに笑いながら出口へ向かっている。

 

 無意識に、優はその後を追っていた。

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 なるほど、見たことがあると思ったのはいつだったか何かの経済誌のインタビュー記事の写真だったのだろう。
 その誰でも知っている大企業の社長が自分と同い年だと思って印象に残っていたのだ。
 優と大沢に説教をぶったその男はにこやかに微笑んで名刺を差し出した。


「先程は失礼しました。嵯院と申します。弟さんにはいつもお世話になってますよ」
 

 なんだか含みのある表情だと思ったのは自分の側にどこか後ろめたい気持ちがあるからだったのかもしれない──と思いながらごく当たり前のビジネスの場面のように優も名刺を渡しながら礼儀正しく挨拶を返した。大沢は呼んだタクシーに押し込んで先に帰してしまっている。結局3人揃って店内に逆戻りすることになったが居心地が悪くて仕方ない。嵯院が気を利かせたのか、店のホステスも同席はしていない。


 今日の昼間父と兄が弟に関する陰謀を口にし、だから今日は優も久し振りに弟のことを思い出していた。その同じ日に本人に会うなんて、偶然にしてもできすぎている。とはいえ──
 優は声をかけてしまったことを早くも後悔していた。


「……何年ぶりかな、茜。もうボランティア活動はやめたのか」
 茜の顔は少し強張っているように見える。
 特に何の話があったわけでもなければ、会いたいと思っていたわけでもない。なのに、思わず呼び止めてしまった。思わず、の事なのでこうして向かい合わせに座ってみたものの、話題がない。
「ボランティアというか、非営利団体だけど報酬はもらってたよ。今の仕事が決まったからもう行ってないけど」
 茜は笑っているけれどやはり表情が硬いと思った。ふうん、と適当な相槌をうちながら茜と嵯院をちらちらと見比べる。
 立場でいえば雇い主とお抱え医師だが二人で飲みに来たりしているところを見ると年も近いことだし仲良くやっているのだろう。
 昼間の父と兄との会話をふと思い出した。
「……病院、新築したぞ。30階建てだ」
「知ってますよ。事業が順調でなによりです」
「順調なんだかどうだか。あの中を歩いていると偽善の臭いがぷんぷんしていて笑えるほどだよ」


 病んだり傷付いた人間を治療し癒す施設。見た目にもいかにも人に安心感を与えるように設計されている。おそらく大抵の人間はその術中にはまり、居心地のいい病院だと感じるだろう。しかし同じ建物の高層階を覗き見れば人を──しかも血の繋がりがないとはいえ身内を、殺す算段をしているのだ。

 この家族──と呼んでいいのならば──の中で「医者」と呼んで差し支えないのはおそらく茜だけだ。

 しかし皮肉なことにその茜は多くの患者ではなくたった一人の為の医師をしている。
「気をつけろ」
 ぽつりと言った言葉に、茜は怪訝な顔をして次を待っている。


「院長と外科部長がまたおまえを狙う作戦を立ててる。しかも今度はかなり腰を入れてな。プロに頼むコネでも見つけたのかもしれない」
 

 陰謀を、洩らすつもりなど別になかった。
 言ってしまってから茜と嵯院の顔をもう一度視線の先で見比べた。その途端、回転の鈍っていた頭が急激に回り始める。
「ちょっと待って下さい、優さん」
 ソファに深く沈みオブザーバーをきめこんでいた嵯院がふいに口を挟んだ。
「私は席を外しましょう。どうも込み入った話のようだ」
 半分立ち上がりながら嵯院は微笑んでいる。それを優は手ぶりで押し留めた。
「いえ、身内の恥をお聞かせするのもどうかとは思いますが、あなたがお嫌でなければ一緒に聞いていただきたい」
 嵯院は一瞬眉を顰めたが、再び座りなおした。優にしても嵯院に席を外されては折角回り始めた口が半分空回りになってしまう。
 視線を茜に戻すと、茜はまだ怪訝な顔で優を見つめていた。
「そんな意外そうな顔をするな。おまえが私のことを、自分を狙うあの人たちの仲間だと思っていても仕方ないが……」
 実際、彼らは優を仲間だと思っている。仲間じゃないと思っているのは優自身だけだろう。テーブルの上のフルーツをひとつ口に放り込むと優は再び口を開いた。
「考えてもみろ。おまえを消したところで私には何も得るものはない、おまえが生きていようがいまいが今の私の位置はたいして変わらない──だろう?それにおまえが考えているほど私は親父や兄貴に隷属しているわけでもないんだよ」

「……でも優兄さんは俺を憎んでるよね?」

 心臓が、止まるかと思った。
 茜は少し困った顔をしている。
 首筋に冷たい汗が流れているような気がした。
 そして、茜のその言葉が何故そんなにも自分を戦慄させるのかは優には判らなかった。

 茜は困った顔のまま少し笑った。
「父さんや秀行兄さんはわかるよ。俺が自分たちの地位や利益を脅かすかもしれない、それが怖いから俺を狙う。単純明快だよ。でも」
 グラスの酒をごくりと音を立てて飲むと茜は何か言いづらいことでもあるかように言い澱んだ。
「でも優兄さんは違うよね。子供の頃から兄さんは俺を嫌ってた。いや、憎んでた。地位も金も名誉も何の属性も取り払った俺そのものを。そんなこと子供にだってわかったよ」
「茜──」
 優は何か、否定の言葉を発しようと思った。けれど、何の言葉も出ては来なかった。


「だから俺は父さんでも秀行兄さんでもなく、本当に俺を殺すとしたら優兄さんじゃないかと思ってた。さっきも、兄さんの顔を見た瞬間殺されるかもと思ってちょっと焦ったよ」
 

 ごくり、と今度は優の喉が鳴った。生唾が出てくるのに妙に口の中が乾く。
 確かに、優は昔から茜がいなければいいのに──と何度も思ったことはある。
 けれど、本当に消してしまおう、殺そう、などと意識したことはない。むしろ、父や兄が茜を殺そうと相談しているのを馬鹿を眺めるような目で見ていたのだ。失敗してはざまを見ろと思ったものだ。


──ざまを見ろ。
──あんたらなんかに茜を殺させてたまるものか。
──殺すのは──

──この私なんだから。

 全身に、鳥肌が立った。
「──違う!」
 立ち上がった拍子にグラスが倒れそうになり、中の酒が少し零れた。それで少し我に返ると掌で口を覆い、大きく息を吐き出して再び腰を下ろす。
「……違う。確かに私は……おまえがいなくなればいいと子供の頃はよく思っていたよ。おまえがいなくなれば……母さんは少しは私を可愛がってくれるかもしれない、と。だけどそんなものは子供の嫉妬だ。私は兄さんだって大嫌いだった。いや、今でも大嫌いだよ。おまえを憎んでいるなんて……勘違いだ」
 言い訳をしているように、言葉が上滑りしている気がする。茜はほんの少し、悲しそうな──どこか何かを諦めたような顔をした。
「そう……でも、兄さん、何を見ていたの?俺は母さんに愛されてなんかなかったよ」


 聞いてはいけないことを、茜は言おうとしている。優は直感した。

「優兄さん、覚えてる?小さい頃……俺たち、ほとんど一緒に遊んだりしたことなかったけど、一度だけ母さんの部屋に2人で入ってすごく叱られたこと」
 ああ、それはよく覚えている。確か、まだ茜が幼稚園にあがる前だ。
「母さんの部屋に、シロフクロウの写真のパネルがあっただろう?パネルを落として汚してしまったから母さんは見たことないくらい泣きながら怒った」


 そうだ。
 大きな、梟の写真。
 雪の中に溶け込みそうに真っ白く大きなその梟はとても優しい顔に見えた。細めた目が微笑んでいるように。

 

 もっと良く見たくて茜と2人で見ていて、落としてしまった。
 あの時、たしか茜も叩かれていたけれど私もひどく叩かれて、あんたの顔なんて見たくない──と言われたのだ。
 幼かった私は泣きながら兄にそれを訴えた。すると兄はあっさりとこう言った。


──だって、あの人は僕らの母さんじゃないからさ。だからおまえも近付かない方がいい、苛められるぞ。


「大人になってから知ったんだけどね。あのパネルの写真は、俺の本当の父親の撮ったものだったんだ」
 頭の中で記憶がフル回転する中に茜はかまわず話を続けた。
「母さんはね。ずっとずっと、別れさせられた恋人を想いつづけていた、ただの女だった。あの人は死ぬまで『母親』にはなれなかったんだ。俺を、そりゃ可愛がったり甘やかしたりはしていたよ。でもそれはあてつけだったんだ。自分の父親と、無理矢理結婚させられた夫と、それからその子供たちである兄さんたちに対する──」
「あてつけ──?」
「その証拠に、母さんは誰の目もないところ──俺と2人きりになったときは、俺のことなんてほったらかしだったよ。そんな時は彼女は今はどこに行ってしまったのかわからない恋人のことをいつも考えていた。俺がその人の子供でも、母さんに必要だったのは子供じゃなくてその本人だったんだ」
 茜の表情は変わらない。


「兄さん、兄さんは俺がいなければ母さんの愛情を受けられると思ってたかもしれないけど──じゃあ俺はどうすればよかったのかな。俺はどうすれば母さんに愛されたんだろう」

 

 ずっと心の底に積もり固まって取り除くのが困難になった汚泥のような茜への憎しみ。その最も奥深い根拠が覆されそうに感じた。下手をすれば自分自身のアイデンティティまで崩壊しかねない恐怖を感じる。

「こんなに話す機会がずっとなかったからこれまで聞くにも聞けなかったんだけど」

 茜は大きく息を吐くと一瞬天井をみつめて再び優に向き直った。

「兄さん、大学時代に俺の彼女が自殺したのは知ってるよね」
 

 ぎくりと顔が強張る。

「俺が半年留学していた時。彼女は妊娠していた。当然、俺の子供じゃない」
「やめろ」

 血の気が引いていくのが自分でわかる。

 母の話だけで十分ダメージを受けたのに。

​ あれから10年以上、そのことに一度も触れてこなかった癖に。

 

「俺あての遺書が留学先に届いたんだ。優さんにつきまとわれて乱暴されて、脅されてる。どうしたらいいかわからないって」
 

 その手紙を私は知っている。

 そんなものは遺書なんかじゃない。

「俺が憎くて、俺を苦しめようとしてあんなことをしたの?それとも兄さんは本当に彼女を愛していたの?」

「黙れ!迷惑を被ったのはこっちの方だ!もとはと言えばおまえが──」

「俺が、何」

 ああ、くそう。

 何を並べ立てたって無駄だ。それくらいわかってる。

「──どうしようって言うんだ。あんなに放ったらかしにしてた女のために、今更復讐でもするつもりか」

「兄さんに復讐したって彼女は戻ってこないよ」

 優は自分の心に沈殿したあの憎しみの汚泥は溶かせることも流すことも出来ないことを確信し始めていた。

 おまえがその明朗で天真爛漫な外面の下で何を考えているのかは知らない。だが私はずっと、いつも、その皺寄せを被る側だった。

 不本意に寄せられた皺を伸ばす権利くらいあるだろう?

 茜はやはり諦めたように笑い、首を横に振った。

 何故だ。

 あの手紙を信じているなら、私が憎いだろう?

 だから今更その話を持ち出してきたんじゃないのか?
 茜には怒りだの憎しみだのいう感情はないのか?

 不意に、あの白い梟を思い出した。

 

「帰る」
 立ち上がり際に、優はようやく同席者を思い出した。
「……大変見苦しいところをお見せしました。こんな話になるならやはり外して頂くべきだった」
 やっとのことで、それだけの言葉を搾り出すと優は頭を下げる。
 嵯院は微かに首を横に振り、会釈した。

「兄さん」
 酒と話に酔ったようにふらふらと出口へ向かう優を今度は茜が追ってきた。
「本当言うと、優兄さんとは一度ゆっくり話してみたかった。だから今日は……ありがとう」
「馬鹿にするな」
 振り返りもせず吐き捨てる。
「これ以上私を惨めにするつもりか。おまえはそうやっていつも内心では私を見下していたんだろう。私を可哀想なやつだとでも思っていたんだ」
「そんなわけじゃ……」
「私も今日おまえに会って話できて良かったよ」

 振り返り、笑った。

 本当は、おまえと仲直りする振りでもして、嵯院氏にとりいろうかと思っていたんだ。
 うまくいけば親父と兄貴を、ついでに理事長を綺麗に排除してくれそうだと思ってな。
 たまには私だってそんな野心を抱いてもいいだろう?

 だが、おまえと仲直り──はできそうにない。

 危険な橋は、自分の意志で渡るものだ。

 まるで「仲直り」をしたかのように笑って茜の肩を叩くと、優は店を後にした。

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 ただの思いつきだった。
「たまには外で飲もう」
 仕事のあとそういって呼び出し、ちょっと美味いしゃぶしゃぶなどを食べてからクラブへ行った。
「どうせ、おまえこんな店で飲んだことないだろう」
 茜ははいはい、どうせ女の子のいる店でなんて飲む習慣はありませんよ、と笑った。
 商談の際によく利用している店で、他でも一流企業クラスの人間が接待によく利用しているとあってママもホステス達も話題に富みまた口も堅い。
 ただし、プライベートで使うことはあまりなかった。
 だから、この店を選んだのもほんの気まぐれだったのだ。

 今日は隣の客がどうもうるさいな──


 会員制ではないものの、あまり一見客のない店なので店の雰囲気に構わず騒ぎ立てる客というのは普段はほとんど見かけない。
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人だがどうやら接待のようだ。年配の方が若い方をしきりによいしょしているのが伺える。しかし声が大きいので聞きたくもないのに部長、部長と耳障りの悪い声が耳に届き、癇に障った。あれは商談としての接待ではなく部下が上司におべっかを使っているというやつだ。
 おそらく、あと5分黙っていたならウェイターあたりが注意を促してくれたのだろう。しかし、茜が手洗いに立った隙に椎多は隣の席へ向かった。茜がいたらきっとまた大人気ないだの文句をいうだろうと思ったのだ。

 年配の方の男は既に酔っ払っていたが、若い方の──部長、と呼ばれていた方の男はまるで素面のように立ち上がって素直に非礼を詫びた。
 自分も接待を受けることの多い立場だからわからなくもないが、重要な商談などではなくどうも相手は自分の部下のようなのに他人事のようにしたいようにさせていたこの男も気に入らない、と思った。が、手洗いから茜が戻ってくるのが見えたのでそれ以上追及しないことにした。


「店を替えよう。他で飲みなおすぞ」
「なんの我侭ですか、今度は」

 

 どうやら茜は椎多が苛々していた隣の喧騒はたいして気になっていなかったようだ。椎多は苦笑するとホステスにコートを出させた。
「社長、本当に申し訳ありませんでした。あんなお客様滅多にお見えにならないんですよ」
 ママが見送りについてきた。何があったか知らない茜は怪訝な顔をしているがそれにはかまわずママに気にしないように言って微笑む。
 その時、背後のドアが勢いよく開いた。

「──茜」

 それは、さっきの「部長」だった。
 茜は、一瞬椎多が今まで見たことがないくらい驚いた顔をした。

 

「優兄さん──?」

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 これが噂の「いじわるな血の繋がらない父と兄たち」──の兄の片割れか。


 椎多は興味深くその男を観察した。
 外面は良さそうだがどうも腹では何を考えているのかわからない、嫌なタイプだ。
 茜が命を度々狙われていたという話を聞いていたから余計に胡散臭く感じるのかもしれない。先入観で人を見てはいけないな、と思っているうちに、茜とその兄の間ではなにやらどろどろとした話が交わされ始めていた。


 茜は自分の過去のことを具体的には語ったことがない。
 自分の事は調査済みなんでしょう、それ以上の何も出ませんよ──
 そう言っていつも煙にまいていた。
 だから、茜とその母のことも、まして茜の昔の恋人の話など初耳だった。

 聞くんじゃなかった。

 何故か、そんな後悔が頭の中を巡る。
 茜はそんな話をしながらも、少し微笑んでいた。それが、妙に目についた。

 

 あの優という男は何故、自分に同席を求めたのだろう。
 おそらく、茜をめぐる陰謀を明かすことで自分は敵ではないということを、茜ではなく椎多にアピールしたかったのだ。
 茜が苦手だといっていたそんな腹芸が得意な椎多は、自分がその立場であの言動をするならまずどういう利益が見込めるからなのか──と考えればおのずと結論は出る。
 あの男は、父親や兄を見限ってこちらに寝返る気だったのだ。
 否、寝返るというより、こちらを利用して自分があの病院のトップに立つことを考えたのだろう。
 あちらについていても所詮外科部長止まり。うまく父や兄が早死にでもしてくれない限り優が頂点に立つことはあり得ない。しかし茜側にとりいれば、茜本人は継ぐ気がないのだから院長くらいにならなれる可能性が高い。


──なびかないのはおまえくらいのもんだ。


 いつか、椎多は茜にそう言った。茜が食いつかなかったその餌に余計な魚がかかってしまったわけだ。

 席を立った優を追っていった茜は戻って来た時少し照れくさそうに苦笑していた。
「ほんとにすみません。見苦しいところを見せて」
 先程の兄と同じようなことを言って茜は座った。
「……帰るか」
 時計を見ると、もう深夜に近い時刻になっていた。さっきはもう一軒と思っていたがやはり屋敷へ帰ることにしよう──


「椎多さん、先に帰って下さい。俺はあとで1人で帰ります」


 眉を寄せて茜の顔を凝視する。茜は笑ってはいたが顔に憔悴の色が浮かんでいた。一旦立ち上がった腰を屈めて茜の頬を軽くぱちん、と叩く。
「馬鹿野郎、さっきの兄貴の話を聞いてなかったのか。おまえは狙われてるんだぞ。しかも相手はプロかもしれん。運だけで助かってきた今までとはわけが違う。つべこべ言わずに俺と一緒に帰るんだ。いいな」


 茜は困ったような顔でやはり笑い、わかりました──と素直に従った。

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 帰りの車の中では何も会話しなかった。茜はただいつもと同じような平然とした顔をしている。
 ここであれこれ詮索してもしかたないだろう。
 そう思って椎多は「詮索したい」気持ちを押し留めた。

 屋敷に着くと、椎多を部屋へ送り届けるような形になる。その間も互いに何の言葉も出なかった。気を紛らわすような無関係の冗談や世間話すら出なかった。


「もう一杯だけ飲むか」
 

 部屋のドアを開けながら呟くように言って茜を振り返る。
「もう充分飲みましたよ。これ以上は飲みすぎです。椎多さんもね」
 いつもと同じ口調で茜は笑った。
「では、おやすみなさい」
「──待てよ」

 椎多は茜の腕を掴み、部屋の中へと引き入れた。そのままドアを閉める。
「大人ぶるのもいいかげんにしろ」
 茜は目を何度かまばたかせて、怒った顔の椎多をじっと凝視めた。
「だって、大人だもん」

 何故、茜はあんな風に笑っていられたのだろう。
 何かを諦めたような顔で。
 苦しくはないのか。

 苦しいのを我慢しているのか。

 それとも苦しすぎて麻痺してしまったのか。

「もし、俺が誰かに殺されても──」
 腕を掴んだまま。
 ドアに押し付けて詰問するような姿勢になった。
「おまえはあんな風に笑ってるつもりか」

 兄さんに復讐したって彼女は戻ってこないよ──

 茜のいつもの微笑が消えた。眉を寄せ苦痛そうな顔で首を振り俯いて声を絞り出す。
「例え話でも冗談でもそんな話はやめて下さい」
「怒った筈だ。あの兄貴を憎んだ筈だ。本当は復讐したかった筈だ。そうだろう?」

 

 俺の悪い癖だ。どうしてこう追い詰めるような言い方をしてしまうんだろう──

「死んでしまったら俺には生き返らせるなんて出来ないんだよ!復讐して帰ってくるなら何度でもやってる!」

 なんだよ。

 やっぱり泣きたいんじゃないか。

 そんな泣きそうな顔して──

 茜の泣きそうな顔を、椎多は初めて見た。

 ずっと笑顔のカーテンの奥にあった顔が、やっと一つ目に入った。

 そうだ。
 どんなことをしても、逝ってしまった者たちは帰って来はしない。
 どれほど後悔しても、殺してしまったものはとりかえしがつかない。
 それは椎多も痛いほど知っている。

「だから殺されたら、なんて言わないでよ。俺はただの医者なんだ、死んでしまったら俺には手の下しようがない」
「だったら」
 手を離し、そのまま今度は茜の両頬を固定するように掴む。
「おまえも死ぬな。いつ殺されてもかまわないみたいに無防備で俺が見てられない。おまえが死んだら俺は──」


 言葉に、詰まった。

 茜が死んだら何だ。

 こんなやつ、

 家族でも恋人でもなんでもない、

 ちょっと苦労して見つけただけの、ただの主治医だ。

 居なくなられたら替わりを見つけるのが面倒なだけだ。

 なのに。

 なんでこんな──

「──困る」

 言葉を選びきれずにただそれだけ零す。

「なんで?俺のこと、嫌いなくせに?」
「ああもう、おまえみたいなやつ大嫌いだ。大嫌いだけど困るもんは困るんだ」


 頬を掴んでいた両手を滑らして髪に潜り込ませ、そのまま唇を重ねる。何かを確かめるように、何度となく繰り返した。茜の両腕が背中に絡みついて徐々に力が入っていくのを感じる。

 唇を離し鼻先を首筋に押し付ける。

 襟から微かに消毒薬の匂いがした。

 紫のとも、英二のとも違う。
「硝煙の匂いはもうしない」
「戦場をうろうろしてた時の服についた臭いだもん、するわけないでしょ」
 言い終わる前に、再び唇が塞がれる。

 

「──今日は熱はないぞ」
「うん」

 

 茜は漸く目元を緩め、熱を測るように額と額をくっつけて目を閉じた。


 

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*Note*

​多分1年くらいかけてゆっくり育ててきた椎多と茜ちゃんの恋(笑)がやっと結実し始めたようです。ただし椎多はまだ自分で認めてはいない気がします。さすがにだいぶ懲りたみたい。認めてはいないけど茜ちゃんがしっかり心に根を張ってきてることにちょっとは気がついてきてるみたいで、そこんとこをわりとボリュームつけて加筆しました。そういえば紫さんの時も英二の時も体臭については書いてなかったなぁと。紫さんは動物なみなとこまで神経張ってたから体臭とかにもすごい気を付けててもしかしたら無臭に近かったかもしれないけど(そのくせ服に煙草の匂いついてそう、そしてケアしてなかったとしたらまあまあ体臭強そう)、英二ってなんか体臭強そうなイメージ。茜ちゃんはちゃんとお風呂入ってればもともとあんまり体臭なさそう。本当はそれぞれの身長差があるから直立の状態で抱き合った時に椎多の目がどのへん、鼻がどのへん、みたいなことを書こうと思ったんだけど書き方が難しかったのでやめました(くどいし)。紫さんはもちろん英二でも、ふつうにハグした状態の時には首に鼻が届きません。茜ちゃんは椎多とたいして身長差ない(気持ち高い?くらい)ので襟の匂いが嗅げます。何の話だ。

茜と優が言い合いになる、自殺した昔の彼女の話ですが。最初書いた時には茜の知っている話を「真実」として書いていたんだけど後から本当はどういう状況でそうなったかを考えていて。だいたいの流れが決まったのでこそこそとこちらの方も直したりしています(ずるい)。ぼちぼちそのへんの話も優目線で書いています。そのうちUPします。

​※優目線「恋愛嫌い」2022/5/25UP ※茜目線「心恋-2-陽美」2022/7/20UP

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