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Sin.co   The Name of the bar is;

手 紙 -3-
ロックグラス.gif

 重い体を引きずって最終電車を乗り継いだり歩いたりタクシーに乗ったりして店にようやく戻ったのはすでにもう明け方近い時刻である。

 こんな時にBJが近くに居ればとにかく気は紛れるのに。そして何か言ってくれる筈なのに。
 あの野郎は向こうから連絡してくるばかりで、自分の部屋には電話がないと言う。それではこちらから連絡を取りようがないではないか。
 肝心の時に居ないなんて、役立たずめ。

 

 八つ当たりのように口の中で呟く。
 とにかく、今日は酒を飲んで寝てしまおう。眠れるかどうかはわからないが。
 店の扉が見えると妙にほっとした。しかし次の瞬間、一瞬足が止まる。
 大きな木の扉の脇に、小さな丸い影があった。蹲った人影だ。

──?

 気配を消してそろりと近づくと、それが何なのかはすぐにわかった。
「……こんなとこで何やってんだ、ツチヤ」
 眠っていたわけではないらしい。すぐに顔を上げて大きく何度か瞬きをして──
 一瞬何かを叫びそうに大きな口をあけて、ツチヤは声を飲み込みそのまま立ち上がった。

 店の扉を開けて、中に入る。
「こんなとこで座って待ってるなんて効率の悪いことして、おまえらしくないな」
 どうにか笑いながら扉を閉めるとシングルモルトの瓶を一本棚から下ろし、グラスを用意した。
「ちょっと飲ませてもらうぜ。おまえも飲むか?」
「──どこをウロウロしていたんですか」
「ん?」

「いつも仕事の後は真っ直ぐここに戻ってくるじゃありませんか!何か不都合でもあったのかと思いました」
 ツチヤは最大級に不機嫌そうな声を待ってましたとばかりに張り上げ、その勢いで抱えた鞄をカウンターに投げ出した。そこには今回の仕事の後払いの報酬が札束で入っている。
 言葉や表情に表れることはしばしばあるが、態度にまで怒りを表すのを見たのは初めてかもしれない。
 それなのに、少しも怒った顔に見えなかった。

 

「──譲さんのところへ行ってきたんですか」
 

「うん」

 谷重はツチヤと視線を合わさぬように笑った。

「殺しちまおうかと思ったけど、やめた。5回狙って、馬鹿馬鹿しくなってやめて帰ってきた」

 

 馬鹿馬鹿しくなってやめた、というのは嘘だ。
 結局、どうしても引き金を引くことができなかった。
 譲を殺すことなど、谷重には出来なかったのだ。

 

 ツチヤは谷重の言葉を聞くと乱暴にカウンターの椅子に座り、注がれたスコッチのオンザロックを一息に飲み干し、グラスが割れるかと思うほどの勢いでそれを置いた。
 驚いたのは谷重の方だ。
「おい……」
「殺してないんですか」
「……ああ」
「殺してないんですね?」
 気圧されて、叱られた子供のように小さく頷いた。
 ツチヤは何をそんなに怒っているのだろう。
 しかし、ツチヤはそのままカウンターの上で手を組み、身体を折って深く息を吐いた。

「……もし殺してたらどうしようかと思った……」

 か細い声だった。

「ツチヤ?」
 

「……わかってるんですか?依頼以外の殺しをやったりしたら元締がどんな処分を下すのか!」

 心配になって顔を覗き込むようにカウンターに近づくとツチヤは今度は勢いよく顔を上げて、再び目を吊り上げ声を高める。谷重は驚いて一歩あとずさった。

「私が──譲さんの居場所をあなたに教えたりしたから──」
「……ああ、そんな責任を感じてるのか。気にするなよ。知らないままでいるよりこの目で確かめられたんだから、おまえには感謝してる。おまえがあの住所を俺に教えたなんてことはおまえさえ黙ってれば誰もわからねえ。おまえに処分が及ぶことはなかったろうさ」
 ツチヤはぎりっと唇を噛み締めたかと思うと、溶け始めた氷だけが残されたグラスを谷重の前に突き出した。
「もう一杯下さい」
 なんだかどんどん申し訳がないような居心地の悪い気分になってきた。谷重は黙ってグラスに酒のおかわりを注いでやる。それをツチヤはまた一気に呷った。

「私が自分の処分を怖れてるとおっしゃるんですか?バカにしないで下さい!私のせいであなたがおかしな行動をとったとしたら私はアシスタントとして失格だと──」
「ツチヤ──」

 ふうと息をひとつついて谷重は宥めるようにツチヤの頭に手を伸ばし、撫でた。

「心配してくれてたんだな、悪かったよ。もうあそこには行かない。明日から元通りだ」

 顔中を皺だらけにして微笑む。
 それを見てツチヤは、見開いた瞳からぽろり──涙を一粒落とした。眼鏡にひっかかったそれを慌てて指で拭い、恥ずかしそうに俯く。あくまで人前で涙を見せるのが嫌なのだろう。
 谷重の手が頭から離れるとばつの悪そうな顔で深呼吸をして、ツチヤは顔を上げた。ようやく少し落ち着いたようだった。

「……どうしてそこまで考えるんですか?いなくなった恋人が他の人と一緒になっていた、それだけなのにどうして殺そうとまで……私にはわかりません」
「わからなくていいさ、そんなこと。俺だってあの場に行くまではそんなこと考えもしなかった」

 保護してやりたいような気持ちで自分の傍に置いた気になっていたが、譲を必要としていたのはシゲの方だったのだということがようやく判った。
 判ったから──
 いずれにしてもここで断ち切るしかないのだろう。

「それにしても、おまえが男じゃなくて良かったな。男だったら襲ってるとこだ」
「よして下さい」

 困った顔で、ツチヤがかすかに顔を歪めた。ツチヤの笑った顔を、谷重は初めて見た。

「なあ、おまえ下の名前はなんていうんだ?ツチヤは苗字だろ?」
「いえ、あの、私、自分の名前が好きではないんです」
 なかなか言いたがらない。しかし以前のようにピシャリと拒否されているのでもなかった。
 押し問答の挙句、酷く恥ずかしい過去を告白するかのような顔をして──

「……こゆき、です」

 消え入りそうな声でツチヤは言った。
 女の子らしい、可愛い名前ではないか。本人はそれがきっと嫌なのだろう。
「こりゃいいや。俺がユキでおまえがコユキか。いいコンビじゃねえか」
 空になったツチヤのグラスに3杯目のスコッチを注ぐ。


「おまえの親がおまえのためにつけてくれた名前だろ。大事にしな」
 

 いつになく優しい谷重の声に照れるように、ツチヤはグラスに手を伸ばした。

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 シゲの生活は元通り──譲と出会う前に戻ったかのようだった。
 BJは相変わらず、時折電話をかけてくる。


 谷重はBJに譲の居場所がわかったこと、譲の現在のこと、そして自分が譲を殺そうとして思いとどまったことなどは一切話さなかった。電話で話すようなことではないと思ったからである。
 しかしBJは谷重の変化を敏感に察したようだった。追及してくるではないが、電話の頻度が以前より上がっている。


 ツチヤも普段は相変わらずだ。
 変わったことといえば、仕事で店に来た時に酒を飲むようになったことくらいか。
 それからほんの少しだけ、表情が柔らかくなった。

 季節はもう冬になっていた。

 

「意外と近くにいたんだな。こんなに近くちゃ、連中にすぐ見つかるんじゃないのか?おまえは歩いてるだけで目立つからな」
「うん、でもこのあたりにも昔は進駐軍がいたんだよね。だから案外不自然じゃないみたい」

 何ヶ月ぶりかに会ったBJはまるで昨日会って別れたばかりのように変わっていなかった。BJの方からは谷重に会いに街に舞い戻るわけにはいかないので、とうとう辛抱できなかったのか、谷重を呼びつけたのだ。
「それに、あまり遠くちゃユキのピンチに駆けつけられないじゃない」
 谷重に会えたのが嬉しくて仕方ないような顔をして終始にこにこしている。


──ぬかせ。一番のピンチの時には居なかったくせしやがって。


 心の中で毒づいてみたが、それでもこの心配性の友人を不必要に煩わせずにすんで良かったと思った。谷重が元気そうなのを見て、BJも不安に感じていたことを追及することはやめたようだ。

 住むところを探すのにも随分苦労したらしいが、道楽でアパートを経営している元軍人の爺さんと酒場で知り合ったおかげで部屋を貸してもらえることになったという。元日本兵だから元米兵のBJには最初やたら喧嘩を売ってきたが、何を仕掛けられてもBJは怒らないしにこにこしているせいかいつのまにか大のお気に入りになったらしい。家賃もあってないようなものだ。もっとも安いというだけあって6畳一間の共同トイレ、風呂場もないときたアパートである。6畳一間といってもBJの巨体が入ると家具などひとつも置けない。どこから拾ってきたのか、古いベッドのマットレスを置いてかろうじてベッド変わりにしている。あとはラジオと、ケースに入れたサックスがあるだけである。

 マットレスをソファのように横並びに座って壁にもたれながら、谷重が土産に持参したBJの好きなテネシーウィスキーを傾ける。BJは少しでもシゲに触れていたいように、肩を抱いたり腰に手を回したり時折首筋に接吻けたりしながら積もった話を矢継ぎ早に繰り出してくる。

「──ヤエコが?」

 意外な名前を聞いた。
「そう、驚くでしょ。この先の盛り場でね、スナックをやってるんだって。彼女も俺のこと覚えててさ、なんか懐かしかったよ」
 足を洗ってどこかの街で子供を育てているという話を聞いたのは随分以前のことだ。この街だったのか。

「ただ、これ組織には内緒だよ。彼女、どうも自前で殺しの依頼を請け負ってるみたいだね。少し話しただけだし俺は動きに制限があるから彼女のバックに何か組織があるのかまでは探れなかったんだけど…単発でユキに仕事を請けてもらえないか打診して欲しいって頼まれてさ。俺は多分無理だよって言っておいたけど」
「なんだあいつは。足を洗ったんじゃなかったのかよ」

 この街に現在、類似した殺しを請け負う組織があるのかどうかは知らない。
 以前成り行きで育てた殺し屋がこの街を拠点として活動していた。その殺し屋は谷重の所属するのとは別の組織から仕事を請け負っていたが、その組織は殺しが専門ではない。
 普通は外注に出すところを自前で雇っている、といった形だから、組織のあり方は根本的に違う筈だ。もっとも、その殺し屋は現在殺しからは足を洗っているので更に別組織、もしくはヤエコのような個人を介してそういった仕事を請け負わせている可能性はあるのかもしれない。
 いずれにしても勝手に他の仕事を請け負って元締に睨まれてしまってはその後の活動がやり難くて仕方ない。ヤエコの仕事を請けてやること自体はそう難しいことではないしやぶさかではないが、それが元締にばれてしまったら谷重よりもヤエコに危険が及ぶ可能性がある。
 ヤエコはそういった元締の厳しさはよく知っている筈だ。

 もう最後に会ってから十年くらいはたっているのだろうか。
 進駐軍の米兵相手に身体を売ったりしながら組織の仕事をしていたが、少しも悲壮感や暗いところのない威勢のいい娘だった。
 ただの客の筈の相手に惚れてしまってはすぐに捨てられて、その度に谷重に泣きついてきたりしていたが、そのくせ仕事はきっちりやるしっかり者だったと思う。

──ヤエコ姐さんはお兄ちゃんのことが好きだったのよ!

 ふと、チエミの半べそ顔が浮かんだ。そのままその連想はあのハイツでの幸せそうな家族へ繋がる。
「くそ、思い出しちまったじゃねえか」
「何?」
 BJがいぶかしげに顔を覗き込む。
「なんでもねえよ。もうお喋りはいいだろ。さっきから焦らしてんのかよ」
 ほんの少し苛ついたように谷重はBJのトランクスの中に手をつっこみ、分厚い唇に噛み付いた。
「こんな薄い壁じゃ隣に丸聞こえじゃないのか」
「大丈夫、隣は空家だから………」


 窓の外は冷たい雨が落ち始めていた。

 雨は翌日も降り続いている。
 昼間のうちに店に戻ろう、そうそう店を休んでばかりもいられない。開店準備に余裕がある時間のうちに戻れるようにBJのアパートを出た。


 ヤエコの仕事の話はともかく、谷重の方からBJに連絡を取りたい時はヤエコの店に電話をすればすぐにとは言わなくても折り返すことはできるから──とBJはヤエコの店のマッチ箱をシゲに渡した。使うことはそう無いかもしれないが、とりあえずポケットに収める。

 冬の雨は冷たい。

 肩を竦めて店に戻ると、傘を差した人影がじっと店の扉の前に佇んでいるのが見えた。

「──すいませんね、開店はまだですよ」
 傘の背後からそう声をかけると、びくリとしたのがわかるほど傘が動き、その人影はゆっくりと振り返った。


 谷重はそれを見て──自分の傘を取り落としそうになる。

 振り返ったのは、別人のように痩せた譲だった。

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「──傘さしてんのにずぶ濡れだな」

 扉の鍵を開け、譲を中に入れた。


 平静を装ってはいるが、首筋に冷や汗がどっと吹き出ている気がする。指先まで動悸が伝わっているように小さく震えている。
 とにかく店内のストーブを点けた。

 

 譲はゆっくりと──まるで一つ一つの動作もおぼつかないようにゆっくりとコートを脱いだ。
 こうして対面するのは譲が出て行って以来だが、谷重が譲の姿を見たのはまだ何ヶ月も前の話ではない。あの時にも以前より少し痩せたかとは思ったが、少しどころではない痩せ方である。


「ユキ……俺……」
 小さな、掠れるような声が聞こえる。
「いいからとにかく座んな」
 谷重は自分を落ち着かせるように、カウンターの中でこまごまと動き回った。湯を沸かし、茶を淹れてやる。
「ボクシングでもやるのか?えらく減量したな」
 つとめて平然と、背中を向けたまま声を掛けた。
「……ちょっとした病気でね……たいしたことないよ」

──こんなに短期間でそんなに痩せて、『ちょっとした病気』なわけがないだろう。

 喉まで出かかった言葉は飲み込んだ。

「……ユキ、ごめん…。俺、ユキにあわせる顔なんてないのに、足が勝手にここに向いちゃった。追い返されるかと思ったけど……ユキはやさしいね」

──やさしいもんか。俺はおまえを殺そうかと思ったんだぞ。

「ごめん……黙って一人で逃げ出しちゃって……」

 振り返ると、痩せて生気のなくなった顔を少し赤くして譲は涙を堪えているようだった。深呼吸をすると振り切るように大きな声を出す。


「──チエミと子供は元気なのか?」
 ハッと驚いた顔で譲が谷重の顔を見つめる。
「知ってたの?」
「俺は何だって知ってるさ」
 笑ってやる。
 しかし譲は唇を噛み締めてさらに顔を歪めた。
「ユキ、何で怒らないの?」
「……心配したし怒ったさ。でも今さら怒ってもしょうがないだろ。幸せになったことを俺に気兼ねするこたない」

──偽善者め。

 譲はカウンターの上で指を組んでその上に頭を伏せた。泣いているのかと思った。
「──ジョー」
 無意識にその頭に触れて、シゲはぎくりとその手を引っ込めた。


 熱い。
 

「バカおまえ、熱があるんじゃないか」
 慌ててカウンターの外に回り、身体を支えてひとまずソファに横たわらせる。
「待ってろ、毛布持ってくるから」
「──大丈夫、薬持ってるから……ここにいてよ」
 弱々しい声でそう言うと譲はバッグから小さなケースを取り出し、慣れた様子で何錠かの錠剤を口に入れた。谷重はあたふたとグラスに水を汲んで手渡す。
 ソファの脇の床に座り、額に浮かんだ汗を拭ってやると薄く目を開いて譲は微笑んだ。
「ユキ……ピアノ聞かせてくれる?」

──なんだこれは。
──これじゃまるで──

 谷重は譲の頬を軽く撫でて立ち上がると、ピアノの蓋を開けた。

──今生の別れに来たんじゃあるまいし。

 ぞくりと背筋が寒くなる思いがして、譲がこちらを向いていることを確認してから鍵盤に指を落とした。
 静かな、優しい曲。

 ここで暮らしていた頃──店を閉めた後に時折こうしてピアノを弾いているシゲに、譲は子供がかまってもらいたがってじゃれつくように背中から抱きついてきたりしていた──

「ユキ……」
 背後で声がする。

「俺ね……もう長くないんだって」

 指が止まってしまった。
 心臓がどくどくと音が聞こえるかと思うほど波打っている。

「あと3ヶ月って言われてから、もう3ヶ月以上経ったよ。いつ死んでもおかしくないね」
「──」


 3ヶ月以上ということは──シゲが譲の『幸せな』姿を見た時にはもう、譲は自分の命の期限を知らされていたのだろうか。
 あんなに幸せそうだったのに?

 

「──チエミは知ってるのか」
 振り返ることが出来ない。
「知ってるよ。でも、俺が自分の病気のことを知ってるということは知らないと思う」

 目を一度ぎゅっと閉じて、振り返った。
 そして、再び譲の傍の床に腰を下ろす。
 譲の痩せた手を握りしめた。
「ユキ……」
 谷重の顔を見上げる譲の目から涙が溢れだす。たちまちそれは、子供が駄々をこねているようなぐちゃぐちゃの泣き顔になった。


「俺、死にたくない──死にたくないよ……」

 俺があの時、ほんの少し指を引いていたら──おまえは「死にたくない」と訴える間もなく、もうこの世のものではなくなっていたかもしれないのに。

 幸せそうな顔をしているしかなかったのだ。
 チエミが、譲は自分の命の期限を知らないと思ってそれを悟られまいと気丈に振舞っている以上、知らないふりを続けなければならなかったのだ。
 せっかく作り上げた『居場所』だったのに、こんな風に心の全てを、迫り来る死に対する恐怖を、曝け出すことが出来ずに一人で耐えていたのだ。
 ここに来るしか、譲は本当の顔を見せる道がなかった──

 何度も譲の頬や額を撫で、接吻け、覆い被さるようにその痩せた肩先に顔を埋めた。

「ユキ……愛してる……」

 微かな息と共にそんな囁きが聞こえる。
「馬鹿野郎、今更なに言ってんだ」
「……こんなことになるなら、ユキから離れるんじゃなかった……ずっとユキと一緒にいればよかった……」
 独り言のように呟いている。もしかしたら少し意識が朦朧としているのかもしれない。
「わかったから、今日はもう帰れ。病院か?送ってやるから」
 車だと3時間近くかかるだろうが電車を乗り継ぎさせて連れていくわけにもいくまい。ツチヤに車を手配してもらおう──
「病院は嫌だな……薬も注射も点滴も検査も、苦しいばっかりで……」
「おまえな、死にたくないなら辛抱しろ」
「……だって……」

 今死にたくないといった口で病院は嫌だと?
 ああ、子供みたいな我侭言いやがって。

 

 このまま病院にもチエミの元へも返さず、この腕の中で譲の最期を見届けられたら──

「死にたくないんだろ?だったらとことん戦ってみろよ。それでもし──」
 両手で譲の頬を包み、鼻先をくっつけるようにして真っ直ぐに譲の目を見つめた。

「本当にもう楽になりたいって思ったら俺に言え。俺が楽にしてやる」

 

 譲は何度かゆっくりとまばたきをした。
 知らないはずだ。
 谷重が殺しを生業としているなどということは。
 しかし、譲は谷重の言葉をどのように捉えたのか──

「きっとだよ」

 

 とだけ言って、目を閉じた。
 そのまま、ゆっくりと唇を重ねる。貪るように舌を絡めると譲は弱々しくそれに応えた。

 

──『死』の匂いがする。

 再び譲の肩先に顔を埋めて抱きしめると、涙が滲んできた。

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 ツチヤに連れて来られたのは、来たこともない高級レストランの貴賓室である。
 豪奢な調度品が部屋を飾り、テーブルの上には何の必要があるのかと思うような派手な花が飾られていた。

 谷重は席に就かされたが、ツチヤはその斜め後ろで立って控えている。
 向かい側の上座には、白髪で長い顎鬚を蓄えた老人が座っている。

 

「ユキ……と呼んでいいかな」

 老人にしてはよく通る声。

「わしは外国人が嫌いだが、ヒュー・リグレットバレイはなかなか面白い男だった。やつに頼まれておまえさんを引き受けたわけだが、これまで見事な働きをしてくれたな。さすがはヒューの子飼いだと感心しておったものだよ」
「はじめましての挨拶もさせないつもりですか」
 谷重は苦笑した。


 この老人が『元締』なのだ。
 

 あまりにも想像通りの人物が出てきたので何か騙されている気分でもある。
「つまらん挨拶なんぞはわしは好かんのでな。さて、料理が運ばれる前に話をしようか」
 とりあえず大きなグラスに注がれた水だけが目の前にある。
 なるほど、仕事の話や用件は手短に先にすませてしまうというのはこの元締らしい。

「今日なぜここに呼ばれたか、ユキは判るかね」
「……『仕事』以外の殺しをしたからでしょう」
 ふむ、と老人は小さく頷いた。


 譲が店にやってきてから僅か1ヶ月足らず──

 譲から電話がかかってきた。
 そして短く一言、こういった。


──約束したよね。楽になりたいんだ。

 譲の病院へ行くと、もう譲はベッドから起きるのもやっとという状態に見えた。
 谷重が手を下さなくても1日2日の違いで譲は旅立っていたのかもしれない。
 しかし、谷重は病床の譲に照準を合わせた。

「──銃撃事件だ。当然警察も動いたが、何故か被害者の妻が立件しないでくれと言ったそうだ。殺されなくても、もう夫は助からなかった。1日でも早く苦しい思いから解放されたのだからそれでいいと言ってな」
「──」
「チエミは、犯人がおまえさんだと察したのだろうよ」
「でしょうね」


 谷重はかすかに微笑んだ。

 最期だけは、ジョーは俺のものだった。
 チエミでなく、ジョーの命は俺のものだった。

 もう、それだけで満足だ。

「さて、ユキ。わしは配下の者が指示に従わないことを嫌うということは知っているな」
「知っていますよ。処分するならどうぞ。俺が勝手に──自分の想いでやったことです。腕を切り落とすなり殺すなり好きなように見せしめにして下さい」


 わかっている。
 すべて、覚悟の上だった。
 ツチヤが沈痛な顔をしている。
 ツチヤにだけは悪いことをしたと思う。

 

 老人はふうっと息を吐いて椅子の背もたれに大きくもたれかかった。
「やれやれ、そう開き直られると見せしめにもなりゃあしないな」
 くつくつと含み笑いをしている。と、視線を谷重の斜め後ろに立つツチヤへ投げる。
「さて、小雪」
「──っはい」
 ツチヤは緊張した面持ちで姿勢を正した。
「先日言った件は決心がついたかね」
「元締──」
「決断は早くなければやっていけないぞ」
 ツチヤはシゲの後姿を一瞬見つめると老人の方へ再び視線を戻す。

「悔谷雄日を貰い受けることをお許し頂けるなら」

 

 谷重はきょとんと背後のツチヤと前方の老人を見比べる。話が全く見えない。
 と、老人が笑い出した。

「そう言うと思ったよ。悔谷雄日はわしの命じない殺しをした。だからわしの配下から追放する。それをどう使おうがおまえの好きにするがいい」
「──ちょっと待って下さい、何の話ですか」


「ああ、すまんな。実は今度、小雪──おまえさんたちの前ではツチヤと名乗っていたかな。この子があんまり出来がいいものだから暖簾分けすることにした。ユキ、おまえさんはすまんがこの頼りない小娘をカバーしてやってくれ。まだまだ頭でっかちで融通がきかんがな」
 

「──」
「もうわしの配下でなくなったら、そっちはそっちで好きなルールを作ってやってくれ。その代わりあんまりわしのシマを荒らさんでくれよ。そうそう、だから悪いが今の店は引き払ってもらう。どこか別の土地へでも行って新規開拓から始めてくれればよかろう。苦労するだろうがな。わしの指示に従って仕事をしている方が楽だったと後悔することだろうよ。いい気味だ」

 元締は水戸黄門のようにわっはっはと笑っている。そういえばあの顎鬚は水戸黄門そっくりだ。呆気に取られて老人の顔を見つめる。

「さて、話はまとまった。ほれ小雪、何をそんなところで突っ立っている。そちらの席にかけなさい。 おまえも一緒に食事にしよう」

 

 ツチヤは顔を真っ赤にして一礼すると、指示された席についた。

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「シゲちゃん、んじゃ俺買出し行ってくるわ」
 連が欠伸をしながら出て行った。
 開店前だが、カウンターに女が一人座っている。
「あれ、ヤエコさんの息子なの」
「そうだよ。でっかくなったろ。あいつがガキの時に一度会った事があんじゃねえのか」
「うん。結局ユキって、居場所の無くなった可哀想なひとを放っておけないんだよね」
 

 女はくすくすと笑っている。

 あれから何年経っただろう?
 もう10年くらいは経つのだろうか?

 

 BJは結局追っ手を振り切ることが出来ず、殺された。
 独立してからヤエコの仕事を請けるようにもなっていたが、ヤエコも殺された。
 昔育てた殺し屋『鷹』は復帰していたが殺された。つい最近のことだ。
 元締は隠居したとか他界したとかで、組織は蜘蛛の子を散らすように離散したという。結局元締のワンマンで「組織」としてのきちんとした枠組みは出来ていなかったのだろう。もしかしたら小雪を独立させたのはそうなる前に独り立ちさせてやろうという元締の親心だったのかもしれない。ただその小雪ですら元締が結局まだ存命なのかもうこの世にはいないのかもわからない。

「──どいつもこいつも俺を置いて先に行きやがって」
「すみませんね、残ってるのが私なんかで」
 女──小雪はグラスを傾けながら肩をすくめて笑った。

 今でも小雪の持ってくる仕事がメインではあるが、以前の元締との関係のような拘束はされていない。むしろ別のエージェントを小雪自身が谷重に紹介することもある。そうこうしているうちに、実際に顔を合わせるのは年に数えるほどになっている。
 それでもこうして時々痛いところをついてくる。結局今一番谷重のことを知っているのは小雪だということになってしまった。

「ユキが居場所を求めているから、同じように居場所のない者が引き寄せられてくるのよね。私も多分その一人だけど」
「よせやい」
「だって、私が遠出していてさあ帰ろうかな、と思ったときにはまずここが……ユキのそのむさくるしい顔が思い浮かぶんだもの。私はユキのお相手はできないけど、ユキに恋してるんだわ」
「言うようになったなぁ。いつまでもそんなことばっかり言ってると真剣に行き遅れるぞ。たまには男でも連れてきてみやがれ」
「馬鹿言わないで。そんなことしたらユキに取られてしまうじゃない。あなた、男をたぶらかす腕も天下一品なんでしょうから」
「人聞き悪いこと言うなよなぁ」

 小雪がどこかの男と恋愛した、あるいはしている、という話は結局聞いたことがない。とはいっても小雪の性格上、もしそういうことがあっても谷重には報告しないだけだという可能性も高い。
 

 小雪の言う通り、谷重バーには何故か居場所のなさそうな人間がよく入り浸っている。
 連のように本当に居場所がなくなって棲みつくということはないが、常連の多くは家に帰っても居心地の悪い思いをしている人間のような気がする。


 谷重の作った浮島は、いろんなそういう者たちが漂着する場になっているのだろう。

 扉が開いて、連が戻ってきた。
「シゲちゃん、お客さんだよ」
 見ると、連の背後に小さな影が見えた。

 子供である。

 谷重と小雪は一斉にその子供を見つめた。
 小学校の3,4年生くらいだろうか。
 黒いランドセルを背負っているので男の子だろうが整った少女のような可愛らしい顔の少年だった。


「あの……タニシゲヒロユキさんは……」
 声変わり前のやはり少女のような声。
 谷重はカウンターから出て、少年の前にしゃがみこんだ。
「谷重宏行は俺だけど、なんの用かな」
 にっこりと顔を皺だらけに笑わせる。
 少年は妙にてきぱきした動作でランドセルを下ろし、中から一通の封筒を取り出した。
 

「これ、母からあなたへの手紙です」
「母──?」
 小雪は背後からその様子を見ていたが、小さくあっと声を上げた。

「ユキ、その子──チエミさんの──」

 ぎくりと小雪を振り返り、もう一度少年の顔を見て、封筒を裏返した。
 

 中澤千恵美、とあった。

 チエミと──譲の子か。
 あの時、まだ赤ん坊だった、あの子供か。

 再び封筒を表に向けると、丁寧な字で「谷重宏行様」と表書きされている。


「……手紙ってのは嫌いなんだけどな」

 小さく呟きながら、谷重は少年の頭を撫でた。

 

 今更チエミが俺に何故手紙など──
 心中ざわつかせながら、封を切る。

 便箋を取り出してそれを広げている間に、小雪が少年に声をかけてカウンターの椅子に座らせた。連は不審そうな顔をしながらもカウンターの中に入り、開店の準備に取り掛かっている。
 

 嫌いでも、読まねばならないだろう。
 それは、何枚にもわたる長い手紙だった。


 長らくのご無沙汰、お許しください。
 お話しなければならないこと、謝らねばならないことがありすぎて、何から書けばよいか迷っています。

 譲があなたの元を離れたのは、あなたの本当の仕事を知ってしまったからでした。
 彼は真っ直ぐで正しい人でしたから、とても悩みました。あなたのことは愛しているけれど、人を殺して報酬を得るという仕事を認めることが出来なかったのです。そんな思いでいる自分があなたの側にいるのがあなたに対して申し訳なくて、けれどあなたにどう別れを切り出せばいいかもわからずに黙って出てくるという手段を選んでしまいました。
 譲にあなたの仕事を教えたのは私です。
 私はあの組織を抜けた形ではありましたが、元締から何か要請があれば時々そういう仕事をしていました。そして、元締はあなたが譲と同居しているリスクを重く見て、何らかの方法で彼をあなたから引き離すように私に命じたのです。
 私は、彼を何度も誘惑しました。けれど、その時の彼はあなたをとても愛していて、まったく見向きもしてくれませんでした。
 それで私はとうとう、彼にあなたの仕事をばらすという手を使いました。
 彼は、最初全く信用しませんでした。それどころか、ユキは君を妹のように案じていたのにどうしてそんなでたらめを言うのだ、と叱られました。けれど、あなたがカウンターの下にいつも銃弾を隠していることを教えると、そのありかを確認して、認めざるを得なくなった彼はひどく落ち込みました。
 あなたにはきっと悩んでいる顔は見せなかったでしょう。でも、彼はとても悩んでいました。

 もしあの時、彼がそれでもあなたの側にいることを選んだのなら、私はそこで身を引くことになっていました。それだけの覚悟があるなら、逆にあなたのバックアップをしてもらうことも元締は考えていたそうです。
 けれど、譲は結局あなたの仕事を受け入れてあなたの側にいるという道を選ぶことは出来ませんでした。
 というより、自分があなたの側にいればむしろあなたに迷惑をかける、とも思ったようでした。

 その頃には、私も彼を愛してしまっていました。

 落ち込んで行き場所を失った彼に私はつけこんで、彼と関係を結びました。なかば自棄になっていた彼はひどく簡単に私と結婚しました。
 それでも、徐々に落ち着いてきてからは、つとめていい夫であり子供が生まれてからはいい父親であろうとしてくれました。けれど、私には彼が無理をしているのがわかっていました。無理に、いい夫いい父親を演じている、というのは見ていてもわかりました。それはあなたを愛していた頃の譲を見ていたから判ったことだと思います。いいえ、譲は、あなたの側を離れても、私と結婚して家庭を築いても、ずっと変わらずあなたのことを愛していたのです。
 彼が倒れてから、余命がもう短いと宣告されたのはあっという間のことでした。
 譲の命を奪ったのは病でなく、銃弾でしたね。
 あなたが彼の苦しみを救ってくれたのですね。
 私は、夫を失ったのに涙が出ませんでした。とても悲しかったのに、これでも私は譲を愛していたのに、彼を失っても泣くことができませんでした。
 これで、彼も苦しみから解放され、私も罪の意識から解放される、そんな風に思ったのです。

 お兄ちゃん。
 もう一度だけ、そう呼ぶことを許して下さい。
 謝っても謝っても許してもらえることじゃないと思うけど。
 お兄ちゃん、本当にごめんなさい。
 お兄ちゃんから譲を奪ってごめんなさい。譲を苦しめてごめんなさい。

 

 それから今まで、勝と二人でなんとかやってきました。
 私は馬鹿な女ですからなにかと男につけこまれたりもしました。けれど今、どうしても、許せない男が出来ました。
 私だけならともかく、勝にまで…。
 本当は、お兄ちゃんにお金を渡して仕事をお願いしたいくらいなのですが、あなたに合わせる顔もそんなお金もありませんし、私ももう疲れてしまいました。自分の手で色々なことに決着をつけたいと思います。
 身勝手すぎるのは承知の上ですが、勝にこの手紙を持たせます。あなたしか勝をお願いする人がいないのです。
 譲の息子は母親の私などよりよほど悧巧で、あなたにご迷惑をかけることはそうないと思います。
 どうぞ、私の最後の願いをお聞き届け下さい。         千恵美


「──小雪」
「はい」
 谷重は小雪に便箋の束を渡すと険しい顔でその目を見つめた。


「チエミを探してくれ。すぐに。早くしないと手遅れになる」
 

 小雪は小さく頷いてすぐに飛び出していった。こういう時の動きは流石に早い。

 少年は可愛らしいけれどどこか無表情な顔で谷重を見上げていた。
 唇を噛み締めてその顔を見下ろす。そうして、腰を少し屈め目線を合わせるともう一度ゆっくりとその頭を撫でながら、出来る限りの笑顔を作った。
 くるんとした目はチエミ似だが、顔全体の優しい印象は譲によく似ている。

「──母さんが帰ってくるまで、ここにいるか」

 少年は無表情な顔を少し不思議そうに変化させて、首を傾けた。そして何かを悟ったように、よろしくお願いします、とお辞儀をした。

「名前は?」
「なかざわ、まさるです」

 いつものように、何か適当な呼び名を考えようかと思ったけれど──

「マサル……ね」

 

 譲が息子のためにつけた名前なら、そのまま呼んでやろう。

 

 小雪の仕事は迅速だが、手紙のチエミの思いつめた様子ならばもう見つけても間に合わないだろうと直感的に思った。おそらくチエミはその『許せない男』と刺し違えるつもりだ。だとしたら、マサルもまた、居場所を失ったことになる。けれど──

 心配するな、ジョー。
 おまえのマサルは、ここにいていい。

 

 屈めた腰を真っ直ぐに戻すと、谷重はもう一度マサルの頭をくしゃくしゃとかき回してにいっと笑った。


*the end*

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*note*

長め3編、お疲れ様でした。

このチエミの手紙、マサルは読んでないんですよね。多分お母さんがその男を殺して自分も死んでってしたのをマサルは知らないです。あと「マサル」でもちらっと触れてますが、そのチエミの男、マサルに性的虐待やらかしてんですよね。自分もDVとかやられてたかもしれないけどチエミが殺すとこまで思い詰めたのはそれが引き金だと思います。

​しかし特にこの-3-は本来、譲の最期とチエミの手紙を書くのがメインの筈なのにツチヤこと小雪と元締め書くのがほんと楽しくてですね!!!!!

谷重バー移転履歴ですが、

①1号店かどうかは不明だけど譲が来ていた店

②元締めのとこから独立して移転した店(嵯院のシマ)で・紫さんが常連になった・子供時代の連が来た

③BJが殺されて移転した店・高校時代の連が来てた

④ヤエコが殺された時に移転した店・連がサックス吹きに来た・マサルが来た・康平が来た・ハジメが常連になった・鴒が来た・英二が来た・マサルが引き継いだ現在の谷重バーです。

 あー、チエミは元締のツテ(というか元連絡係のネットワーク)を辿って現在の谷重バーの所在地を調べたんでしょうね(考えてなかった。テヘ)

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