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Sin.co -Re:The Ultimate Sin- main tales

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秘 密

 日付も変わっただろう、もう人影が無くなってきている。


「……って」
 喧嘩して殴られた頬が熱を持っている。口の中に血の味が広がったままだ。
 川沿いの遊歩道の途中に水道があるのを思い出し、堤防から階段をおりる。目的のものを見つけると思い切り蛇口を捻って顔を近づけ、直接流れる水に晒した。
 ひどく痛むが、冷たさが気持ちいい。
 犬のように頭を振ると濡れた髪から雫が噴水のように飛び散った。
 その視界に、人影がよぎった。
 遊歩道沿いのベンチに丸く座っている小さな影。

──女だ。

 暗くてよく見えないが、そのくらいは判った。
 こんな時間に、女が一人でこんなところに座っているのも妙な話だ。
 康平は、喧嘩してむしゃくしゃしていたのも手伝ってか無性にその女にちょっかいを出したくなった。
 他に人影も無い。橋桁も近い。

──やっちまうか。

 妙に動物的な気分になってそこへ近づく。
「よう、何してんの?こんなとこで」
 女は顔を両手で覆って背中を丸めた姿勢だったが、声を掛けられても振り返りもしなかった。
「無視することねえだろ。なあ──」
「ほっといてよ」
 強い口調だったが、涙声だった。
「ほっといてはねえだろ。慰めてやろうっていってんだ」
「余計なお世話。女に不自由してるんなら他所へ行ってよ」
 頭に来て女の肩をぐいっと引っ張る。その拍子に顔を覆った手が外れた。女は初めて康平を振り返り、その目をきっと睨みつけた。

 美しい女だった。

 

 目は泣きはらして化粧が落ちている。お世辞にも綺麗とは言えないのだが、それを笑うよりも思ったより美しい女だったので康平は少し戸惑った。


「……康平?」
 

 女は康平の顔を見るなり、ぽかんとその名を呼んだ。
──は?
 自分はその女に見覚えがない。しかし、女は自分を知っている。つい今しがたまであわよくば橋桁の下へ引きずり込んで無理やり犯してやろうと思っていたのに急に腰が引けた。


「康平でしょう?東出のおじさんのとこの。あたしのこと覚えてないの?」
 

 女は慌てて目の周りを拭うと──落ちたマスカラは余計に広がってしまったのだが──今まで泣いていたとは思えないような明るい笑顔を見せて康平の腕をぱちん、と叩いた。
 父の名まで出されてはこの女が人違いをしているわけではない。しかし覚えていないのかと問われても知らないものは知らなのいだ。康平は眉を思い切り寄せてじろじろと女の顔を凝視した。
「まあ、しょうがないか。話したこともないもんね。あたし、リカよ」

 リカという名には聞き覚えがあった。

 父の所属していたやくざの組長の──情婦だ。
 その情婦が、なんでこんなところで一人で泣いているのだろう。

 急に、逃げ出したくなってきた。

 

 父は組で生涯出世することもなく、抗争の際に命を落とした。もう1年近くになる。組長とかいう若い男はまだ中学生の康平を組で面倒みようと申し出ていたが、康平にはそれをありがたくお受けする気にはとてもならなかった。
 どうやら自分はどこかの施設に保護されたことになっているようだが、実際は友人の家やナンパした女のところを転々と渡り歩いている。金は無くなれば盗むか女に「小遣い」をせびり、気にくわないやつはぶちのめし、同年代の少年たちにトルエンなどを売り飛ばし──およそ不良と呼ばれる少年がすることにしても多少度を越していた。


「七さんが──組長が康平の居場所がわからないって捜してるの、知らないでしょ。住所不定だもんね」
 康平は不満げに口を尖らせリカを睨みつけた。その顔にはまだ幼さが残っている。
「なんであいつが俺を捜してんだよ」
「ほっとけないじゃない。心配してるんだよ」
「余計なお世話だろ」
 そっ、とリカが手を伸ばす。暖かい指が触れたのを感じて康平はびくりと手を引いた。
「ね、今みたいなことしてたらきっとそのうち酷い目に遭うよ。あんたは七さんのこと恨んでるのかもしれないけど、あたしも心配なの。東出のおじさんだってきっと」
「死んだ人間がなにをどう心配するんだよ。バカじゃねえの」
「康平……」
 ふと沈黙が流れた。居心地が悪くなって康平はくるりと背を向ける。リカの立ち上がる気配がした。


「さてと、あたし帰ろうかな。康平、送ってよ」
 

「はあ?」
「あんたさっきあたしを襲おうと思ってたでしょ。そういう悪い男がまた来ないとは限らないもの、だから送って」
 明るく笑うとリカは康平の腕を掴みすたすたと歩き始めた。あっけにとられて引きずられるようにそれに従う。
「俺がまだ襲うつもりだったらどうすんだよ」
「でもしないでしょ?あんたはそんなことしない。あたしそういうのわかるんだ」

──ガキだと思ってなめてんのか。
──女犯すくらい簡単じゃねえか。
──頭くる女だな。本当にやっちまうぞ。

 そう、反論しようとしたが言葉が出てこない。結局、予言通り康平はおとなしく家までリカを送ってしまった。


「泊まってく?但しもう一人あんたと年の近い男の子がいるけど」
「なんだそりゃ。ツバメまで飼ってんのか」
 リカはあははは違うわよ、と笑ってあわてて口を押さえ、今度は声を立てずに悪戯っぽく笑った。深夜にしては声が大きかったと思ったらしい。
「あんた一人だったら泊まっても良かったんだけどな」
「いっちょまえの事言うわねえ」
 くすくす笑い声は止まない。康平は舌打ちして踵を返した。慌てたようにリカが再びリカが康平の腕を掴む。
「ねえ、連絡先教えてよ。そうしないとあたし、毎日あんたの居そうなとこ行って待ち伏せしてやるから」
 連絡先なんかない。その日の気分で転がりこんだり飛び出したり野宿したりしているのだから。そう言うとリカは困ったような顔で俯いた。
「じゃあ、連絡して。七さんが気に入らないなら黙っててあげるから。あたしには連絡ちょうだい。でないと──」
「わかったわかった」
 リカは手に持った小さなバッグの中から手帳を取り出した。電話番号を走り書いて一枚ちぎり、無理やり康平の手にそれを握らせる。

「約束よ、連絡して」

 

 確認するように微笑むとリカはゆっくり手を離し、そのままあとずさるように少しずつ離れていった。
「気が向いたらな」
 ぶっきらぼうに答えるとくるりと背を向けたが、ふと思いついたように振り返る。
 

「なあ……なんでさっき泣いてたんだ」
 

 リカは少し照れくさそうに笑う。康平より随分年上の筈だが、その表情はひどく可愛らしく映った。
「そのうち教えてあげる」


 康平は駆け出した。
 手の中にはリカに握らされたメモ。
 その紙片がリカと同じ体温を発しているかのように、握り締めた掌は暖かかった。

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 ポケットの中の紙片を取り出し、広げる。
 一週間余り経ち、何度も広げて見るものだからもう紙はボロボロになっていた。そこに記された走り書きの数字の羅列ももう見えづらいほどになっている。
 何度も見ているうちに、一度も掛けていないのにとうとうその番号を覚えてしまった。
 

 はいそうですか、と簡単に電話するのも癪に障る。
 それに電話して七哉や、リカの言っていたもう一人の若い男が電話に出ないとも限らない。
 そう思うと受話器を取るところまでは何度も試みてみたが結局覚えた番号を実際に回したことはなかった。
 むずむずと、言いつけられた仕事をほったらかしにしているような居心地の悪さを感じる。もっとも康平は言いつけられたことなどきちんとこなしたことはない。人に指図されるのは大嫌いだ。

──こんなもん、後生大事に持っているからだ。

 そう思い立って、くしゃくしゃのゴミ同然だった紙片を本物のゴミにした。
 ほんの少し、心が晴れたような気がする。
 反対側のポケットに手を突っ込んで探ると、10円玉と100円玉が数個ずつ出てきた。他のポケットも引きずり出して見たがそれ以上の物は出てこない。
「やべ」
 またすっからかんになってしまった。少し考えて、近くの繁華街外れのマンションに以前世話になっていた女がいることを思い出す。二、三回やってやればまた1週間くらいは存分に遊べるくらいの小遣いはくれる筈だ。もっともまだ新しい男が出来ていなければ、だが。
 派手なネオンの風俗店の角を曲がると急に寂しい路地になる。寂れた連れ込みが何軒か点在し、その奥に件の女の住むマンションがある。康平はポケットに手を突っ込んで、中の小銭をちゃらちゃら言わせながらそちらへと足を向けた。


 と、目の前に人影が立ちはだかった。
 よく見るまでもなく、その人影はすたすたと康平の目の前にまでやってきて、両肩に手を乗せる。

「やっと見つけた」
「……リ」

 大きな目をまん丸に見開いてその顔を凝視する。
「言ったでしょ、連絡くれなかったら待ち伏せてやるって」
 リカはにっこりと笑った。
「あたしこう見えても情報網すごいの。アケミさんはもうここにはいないよ。彼氏が出来て先月引っ越してったから」
 あきれて言葉も出ない。
「でも良かった、今日見つかって。流石にあんまり毎日一人で遅くまで出歩いてると叱られちゃうもん」
「……余計なお世話だって言ってるだろ?!ほっとけよ俺のことなんか!だいたい、こんなとこ若い女が一人でぶらぶらしやがってろくでもねえ男がいっぱいうろうろしてんのに──」
「心配してくれるの?嬉しいな」


 なにしろ自分がそのろくでもない男のうちの一人なのだから──

 本当は。
 あれからリカのことばかり考えていたなどとは口が裂けてもいえない。
 そして、リカが自分をこんなに気に掛けてくれるのは七哉が心配している東出昌平の息子だからに過ぎないというのも判っている。

 リカは少しだけ、寂しそうに笑った。
「あたしね」
 リカはぽつりと言うと康平が今来た方向へゆっくりと歩き始めた。康平は通り過ぎてきた連れ込みを思い出してまだ女を知らなかった頃のようにどぎまぎと赤くなる。
「家に残してきた弟がいるんだ。康平と同じくらいの年でね。だから気になっちゃうのかなあ……あの子は真面目で優しいいい子で、康平みたいなヤンチャじゃないけど」
 振り返り、悪戯っぽく笑う。しかしその笑顔はやはり寂しげだった。

 弟かよ、と何故か酷く落胆している自分が滑稽だ。

「……俺を連れてったって弟替わりにはなりゃしねえよ」
「うん、わかってる」
「俺はあんたの男が大っ嫌いだから、絶対上手くいきゃしねえぞ」
「あの人もけっこういいとこあるんだよ。段々わかってくると思うけどな」
「わかりたくねえや」

 連れ込みの並んだところを通り過ぎた。

 

「じゃあ、あんたが──」
 すうっと息を吸い込んで大きな声を出した。リカが振り返る。

「あのときなんで泣いてたのか教えてくれたらちょっとくらい言うこと聞いてやってもいい」

 

 リカは目をぱちっと開けて何度かまばたきをした。それから、数歩戻って康平の腕をとる。
「なんか食べようか、康平。お腹すいたでしょ」
 微笑んだリカはやはり少し照れくさげだった。

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 結局、リカに引きずられる形でいつの間にか組に入った康平はしかし、あまり他の者たちと馴染めずにいた。組長が嫌いだからそれを慕う者たちが馬鹿に見えてしまう。特に、まるで訓練された軍用犬がその飼い主に従うかのように──と康平には見える──組長に付き従っている紫などは気狂いじみていると思う。もっとも、紫も康平を最初から敵視しているのでお互い様だ。ただ紫と派手に喧嘩するとリカが怒るし悲しむから、出来るだけ顔を合わせずに済ませることにしている。

 リカが組長の子供を預かるようになったのは、あの河川敷で初めてリカと出会ってからもう2年近く経った頃のことだ。
 自分の男が他の女に産ませた──実際には愛人なのはリカの方なのだが──子供が、なんでそんなに可愛いのかわからない。しかしリカは嬉しそうに、我が子のようにその子供を育てていた。

「中華街がざわついてるんだって?それ康平が収めに行くの?」
「まあ、あのあたりは旨みがあるからな。何処だって欲しがるだろ」
「紫は……」
 言いかけて、リカは口を噤んだ。中華街の揉め事に紫を派遣するほど七哉は無神経ではない。
「でもすごいねえ、康平。それ大役じゃない。七さん康平のこと買ってるんだよ」
「うるせえな」
 大嫌いなのは変わらないが、何年も経てば状況にも慣れるというものだ。それに、親父が出世できなかった分まで自分は甘い汁は吸わせてもらわなければ損だなどと思う。
 リカは3歳になった七哉の子供を寝かしつけながら笑っていた。
「ちょっと待ってね、しーちゃんが寝付いたらお茶入れたげる」
「いいよ、もう行くから」
「あ、康平。中華街行ったらお茶と麺買ってきてよ。生麺だよ」
 はいはい、と返事をして康平はドアを開けた。ふと思い出したように中のリカを振り返る。
「姐やん、なんか最近誰かに見張られてるような気がするって言ってなかったか?組長とか紫とかには言ったのかよ」
「ううん、だってあのヒトたちってコトをすぐおおごとにしちゃうんだもん。多分気のせいなんだよね。神経質になってたのかも」
 神経質になるくらいのほうがいいのではないかと思った。
「……紫、どこ行ってるんだ。やつが帰ってくるまで居てやろうか?」
 紫は気に入らないし別に会いたくもないのだが急に心配になって康平は言った。しかしリカはあはは、と笑って手を振った。
「いい、いい。多分遅くなる前に帰ってくるし、あんたもあっちで約束あるんでしょ。時間とか約束とか守らないとうるさいよ、あそこの人たちは」
 追い払うように手を振ったリカに溜息をつき、康平は少し伸ばした髪をぽりぽりと掻くと何度か頷いて再びドアを開けた。


「行ってらっしゃい、気をつけてね」
「お茶と生麺な。帰ってきたらラーメン作ってくれよ」
 

 そう言うと静かにドアを閉める。数歩足を進めるとがちゃりと鍵を落とす音が聞こえて、康平はようやく安心したように歩き始めた。

 凶事を康平が知ったのは中華街から戻った後のことだった。

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 ビニール袋に突っ込んだままの茶と生麺をゴミ箱に投げ捨てる。

──気のせいじゃなかったんだ。

 康平があの家を後にして、紫が帰ってくるまでの僅か数時間の間の出来事だったのだという。

──残っていればよかった。

 紫が帰ってくるまで。

 でなければ誰か他の者を代わりに呼べばよかった。
 見張られているような気がすると、リカは自分だけに言っていたのに。

 一体誰が──

 七哉は、犯人は自分の妻だと考えているという。但し、証拠は無い。
 四畳半の暗い部屋のど真ん中に膝を抱えて丸くなっていた康平は、突然がばりと顔を上げ立ち上がった。
 靴をつっかけると転びそうになりながら康平は走った。

 戻った時には、もうリカの遺体は焼かれた後だった。
 頼まれた土産はちゃんと買ってきたのに、受け取るリカが居ない。

 走って走って、康平は心臓が口から出そうになりながら事務所にたどり着いた。
 組員たちはまだリカが死んだとは聞かされていない。
 姐さん姐さんとリカを慕っていたこの連中が血気に逸って何かしでかさないようにという配慮なのか。
 多分、ほとぼりの冷めたころ旅行にでも行ってその先で事故に遭ったとかそんなところで片付けるつもりなのだろう。


「……組長、いるのか」
 康平より先輩に当たるような組員はその礼儀知らずの態度に眉を顰めながら、しかし顎をしゃくって在室していることを示した。
 ノックもせずにドアを開ける。


「康平………」


 夢でも見ているようなぼんやりした目で七哉がこちらを見やる。康平はまだ肩で息をしていた。

「……あんたのせいだ」

 一言、口火を切る。


「姐やんが笑ってるからってガキまで押し付けてへらへら甘えてるからこんなことになったんだ!ほんとは──姐やんがどんな辛かったかなんか知らないんだろ!」

──あの時ね。

 リカの声と照れくさそうな微笑みが脳裡に蘇る。

 

 七さんが結婚するって言ったの。
 どうしても欲しい会社があるんだって。
 だから別に好きでもなんでもないけどその令嬢と結婚するって。
 あたしは、どうぞって言ったんだ。
 社長夫人って柄じゃないし、組長のオンナって感じでしょ、あたし。
 そりゃ、悔しいよ?あたしだって。でもね。
 どこにでもいる女みたいにやきもち焼いて取り乱したりしたくなかったんだ。
 だからね。
 泣きそうになっちゃったからあそこへ行ったの。誰にも見られないように。
 なのにあんたに見られちゃったなあ。
 

 これ、絶対秘密よ?康平。

「姐やんは──強かったわけじゃない!好きな男が他の女を抱いてたら嫉妬もするし悲しくて泣いたりもする、普通の女だったのに!あんたのせいで──」

 泣き声になっていた。
 自分が泣いていることに康平は驚いていた。

 

「康平──」
 いつのまにか、七哉が目の前に来ていた。
 ぐいっと、引き寄せられる。大嫌いな七哉に抱きしめられたのに、康平はじっとしていた。
「──すまん、康平」
 小さな呟き声。


 リカが殺されて一番苦しんでいるのはこの男だ。自分がリカとこの男のことでとやかく批難する筋合いはない。
 判っているけれど、黙っていることができなかった。


 自分の罪の意識を七哉に押し付けることで少しは楽になったか?
 いいや、楽になどなるわけがない。
 むしろ苦しさが何倍にも膨れ上がったような気がする。
 

 突き飛ばすように離れると、康平はふらふらと七哉に背を向けた。

 リカが泣いていたことも。
 不安がっていたことも。
 知っていたのに何も出来なかった。


 俺には、何も出来なかった──
 俺は、無力な子供だったのだ。

 

 おとなに、なりたかった。

 力が──欲しい、と思った。

*the end*

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醸造茶

*Note*

康平かわいいシリーズぅー!本編では憎々しい澤(東出)康平はスピンオフではひたすら可愛いです。書いてて楽しい!!!康平ちゃん、リカのこと大好きだったんだねぇ…ほんとあんたってさあ…。

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