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Sin.co -Re:The Ultimate Sin- main tales

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食 卓

 中華街、というほどではないがそういうコミュニティがこの一角には存在する。


 観光客の集まる有名な街ほどの広さも派手さもないが、このあたりは明らかに他の地域とは空気が違う。当然、そこで暗躍する者たちもいるが地場の組織ともうまくバランスをとりながら共存していた。

 七哉はここが好きだ。

 

 なにしろ、深夜まで旨い麺や粥を食べられる店が意外に多い。繁華街が近いせいもあるのかもしれないが、明け方に近いような深夜に他では屋台のラーメンくらいしか食べるものがないので夜遊びをした後は大抵このあたりに小腹を満たしにやってくる。自然と顔見知りの人間も増えてきた。


 七哉の父親はやくざの組長──というより親分、と呼んだ方がしっくりくるような男だったが──数年前、七哉がまだ中学生の頃他界した。七哉は父が高齢になってからの息子でしかも兄弟はいない。年の離れた兄が二人いたがいずれも戦死し姉も嫁ぎ先で空襲に遭い死んだ。後妻だった母には長く子供が出来ず、ようやく七哉を授かったものの高齢出産だった為か産後の肥立ちが悪く出産後間もなく亡くなったのだという。

 13歳の子供に跡目を継がせるわけにもいかず、現在は父の右腕だった男が形ばかり組長を勤めている。但しこれも古いタイプの義理堅い男だったので、自分は七哉が大人になって跡を継ぐまでのつなぎだと思っているらしい。七哉はそれを嫌というほど聞かされた。モノマネをして見せろと言われればできるほどだ。


 決してやくざの組長になるのが嫌なわけではない。しかし七哉はそれだけではつまらない、と思っていた。
 約束された人生ほど面白くないものはない。
 要領がいいのかもともと頭がよかったのか、殆ど毎日のように夜遊びに出かけていながら所謂一流大学に難なく入り、経営学の理論などをやっている。もっとも、真面目に吸収しようと思ったのは最初だけで、こういうものは自分でやってみなきゃ面白くないなと思うようになった。


──何か商売でも始めてみるか?
 

 そんなことを漠然と考えてはじめている。

 その日は── 
 どこか、街がざわついていた。


「七さん、おなかすいた。蝦雲呑麺食べたい」


 少し酔ったリカが七哉の腕に絡みついて甘える。
 七哉との関係を親に反対されて家出してきたリカ。今は七哉の部屋に転がり込み同棲している。「おじょうさん」だと思ったらとんでもない。気は強いし言いたいことはなんでも言う。可愛げがないと思うことはよくあるけれど少し酔ったこんな時は本当に可愛いな、と七哉は思う。
 

 えびわんたん…ならあの店かな、とそちらへ足を向けたとき、七哉は何か違和感を感じた。
 目の端に映る路地の奥で何かばたばたと蠢いている。
 

──やばいかな。


 直感的に何か、いつもと違う不穏な空気を嗅ぎ取った。
「リカ、今日は蝦雲呑は諦めろ。帰るぞ」
「えー?やだえびわんたん食べたいー」
「帰ったら好きなもん食わせてやるから」
 酔って聞き分けのなくなっているリカを宥め、来た道を戻ろうとした。


「七哉」
 

 呼び止められぎくりと振り返る。
「トニー?」
 馴染みの店の常連でいつも顔を合わせる男。このコミュニティを仕切っている組織の下っ端だと聞いたことがある。

「子供、見なかったか」

「子供?」
「7、8歳の男の子だ。怪我してる」
 日本語があまり達者でないこの男は最低限の言葉で七哉に尋ねた。
「いや、今日は今さっきこのへんに来たところだ。こんな時間に子供なんて見やしねえぞ」
「見たら、教えてくれ。いつもの店連れてくるほしい」
 おいおい勘弁してくれよ、と思いながら七哉は適当にうんうんと頷きトニーと別れた。

 

 どのみち、今日はもうここから引き上げることにしたのだから関係ない。しかし、このざわつきとその少年が関係あるというのだろうか。たかがその少年を探すために、この街がこんなにざわざわしているというのも妙な話だ。
 首を捻り、しかし関わりあいになると面倒だなと思い直しそのことは忘れようと思った。
 思ったのに──


「七さん、あれ、子供じゃないの?」


 七哉は頭を抱えてしまった。
 路地のゴミ箱の陰に、小さく蹲る影をリカが発見してしまったのだ。無視して通り過ぎようと思ったがリカはひょいひょいとその子供に近寄り、様子を見始めた。
「ねえ、やっぱり子供だよ。トニーが言ってた子供ってこの子じゃないの?ひどい怪我してる」
 子供は、気を失っていた。死んではいないようだ。
 よく見ると、今負ったばかりの傷は多くはない。が、全身まだ新しい傷や古そうな傷だらけのようだった。どうもひどく虐待されている子供のようだ。
「かわいそう……ねえ、この子トニーの言ってたとこへ返したら、また酷い目にあうんじゃないの?」
「やつらが血相変えて探してる子供だぞ。返さなかったらどうなると思う」
「だって可哀想だもん!こんなに殴られて……」
 今にも平手が飛んできそうな勢いでリカが反論する。しかし、七哉にすればこんな外国のコミュニティのごたごたに巻き込まれたりしたくない。
 その時、子供が小さくうめいて目を開けた。その途端、おそろしく素早い動作でゴミ箱の陰へ身を潜める。

 野良猫みたいだ、と思った。

 

 子供がごく短く何か言った。
「なんだ、おまえ日本語喋れないのか?俺は中国語なんかわかんねえぞ」
 子供はそれきり口をつむぎ、ただじいっと七哉を睨みつけている。
「バカ!怪我してる子供になにすごんでるのよ!ね、あたしたち何もしないからさ。手当てしよう?手当てさせてよ?」
 手負いの獣にそうするように、リカはゆっくりと──ごくゆっくりと子供に向かって手を伸ばした。
 

「──痛っ!」


 次の瞬間、子供はリカの手を弾き飛ばすようにしてその場を跳び退いていた。
 ひらりと──子猫が壁を駆け上るような身軽さで──隣の建物の軒の上へ移動する。

 目を見た。
 やはり、野良猫みたいだと思った。

 

 一瞬で、子供は視界から消えた。
「いったーい」
 リカが弾かれた手を振っている。
「大丈夫か、リカ」
「うん、はたかれただけだから──あの子、大丈夫なのかな。あれだけ動ければ怪我はたいしたことないんだろうけど……」
 七哉は答えず、尻餅をついてしまったリカに手を貸す。弾かれた手が赤くなっていた。
「……いいか、今日あの子供を見たこと誰にも言うなよ。いや、忘れろ。変なことに巻き込まれたらコトだ」
「うん……」
 リカは少し不満げに、しかし小さく頷いた。そう言いながら──

──なんだ、あの子供は。

 ここの組織が探していた子供。野良猫のような、とても子供とは思えない目をした子供。
 自分を取り巻く何もかもが敵であるかのような──


 七哉は、あの子供が何者なのか知りたいという衝動に駆られ始めていた。

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 なかなか大層な造りではあると思う。広さとしてはまあたいしたことはないが、古い日本家屋だ。門構えだけは立派で、敷地を取り囲んだ土塀の上にはご丁寧に鉄条網がしつらえてある。以前はこんなものはなかったのだが近頃は「礼儀を知らない輩」が増えて来たのでやむなくとりつけたのだという。


 七哉は現在この家を離れて一人暮らし──実際はリカと同棲──している。
 バイクを乗り捨てるように置くと七哉は門扉をごんごん、と足で蹴飛ばした。
 途端に内側からそれが小さく開く。
「若、お行儀悪いです」
「『若』はやめろっつってんだろ」
 扉を開けた若い者の向こうに立っていた中年の男が苦笑している。
「おかえりなさい。組長がお待ちですよ」
「わかってるよ。だから来たんだろ」
 ぶっきらぼうに答えると乱暴に靴を脱ぎ上がりこむ。ずんずんと奥へ進み、広くはないがきちんと整えられた庭園の見える縁側から障子をからりと開けた。


「呼んだか、宇佐。俺明日試験だからさ、手短にすませてくれよ」
「申し訳ありません、私が出向くべきなのですが」
「ああ、気にすんな。ぞろぞろ引き連れてアパートなんか来られたらこっちが迷惑だからな。何しろ俺はご近所ではちょっと遊んでる普通の大学生なんだから。ヤクザの息子だなんて知れたら誰もつきあってくれなくなる」
 ははは、と笑うと七哉は掃除の行き届いた畳の上に腰を下ろした。
「で、何だ?組のことはおまえに全部任せてあるだろ?」
「七哉さん、中華街の連中とはそこそこご懇意になさってますね」
「は?」
 別に隠してはいないが自分の行動が筒抜けになっているような気がして七哉は表情を曇らせた。


 組長──宇佐は、七哉の表情を見て少し困ったように笑った。五十がらみの少々強面だが、笑うと少し愛嬌がある。父が他界したときはもう七十を越えていたので、どちらかといえば宇佐でちょうど七哉の父親くらいの年だ。


「べつに咎めようってんじゃねえんですよ。どうもね、あの連中近頃ちょっと動きが妙でね。何かご存知じゃないかと思ったんですよ。部屋に電話もないし七哉さんつかまりゃしねえもんでお呼びだてした次第で」
 ふうん、と不満げに口を尖らせると七哉は首を傾げた。
「妙だって?どういうことだ」
 

 七哉の頭を、あの子供のことがよぎる。
 

 どうやら、あの地域を仕切っている組織の本体は本国にあるらしいのだがそこでなにか揉め事が起こっているらしい。そこで、実質上ここを仕切っている人物がどうやら本国へ戻る動きがあるのだという。それに乗じてあの地域の利権を掠め取ろうとするものが当然現れ現在それが水面下で争っているというのだ。
「あそこは実際のとこうちのシマの一部でね。ただオヤジがあそこの本国のボスと旧知だとかで大目に見てたんですよ。今あそこを仕切ってんのはその息子で私より若いやつらしいですがね。知ってましたか?」
「──いや」


 七哉があの街をうろうろしていたのはただ雰囲気と食べ物が好きだからという理由だ。その組織と父親が繋がっていたなどというのは初耳だった。
 

「あそこで何が行われてるのかは私は知りませんがね。ただ、今起こってる揉め事は片付けていくからあとのことをうちに頼みたいと言ってきたんですよ」
「あとのことって」
「まあ、よそに獲られねえように仕切っといてくれってことですかねえ。あとで気が向いた時に返してくれっていうのは随分とムシのいい話だとは思いますが」
 宇佐は皮肉そうに笑った。
「しかしまあ、オヤジが懇意にしてたとこならあんまり無下にもできんでしょう。どう思います?」
 任せているってのに、と言いたげな顔で七哉は宇佐の顔をじっと見ている。その宇佐は自分が現在組長をやっているのはあくまでつなぎの代理のようなものであって、重要な話を七哉に通すのは当然と涼しい顔をしている。まして、これはおそらく七哉が引き継いだずっと先にまで係る話だろうから尚更だ。


「──その時はその時だろ。ちゃんと筋を通してくれば考えなくもないが無茶いってくるなら潰す、それだけのことだ」
 宇佐は溜息をついて苦笑した。おおかた予想通りだったのだろう。
「わかりました。なら、私はその段取りにかかります。七哉さんは妙なごたごたに巻き込まれないように当分あのあたりはうろつかないようお願いしますよ」
「うるせえな、わかってるよ」
「それから──」
 言いかけて、いや、いいですと宇佐は言葉を切った。


 不審そうに睨みつけるものの、宇佐が言わないと判断したことは問い詰めても言いはしない。それは経験上知っている。七哉は立ち上がり来たときと同じように障子をからりと勢い良く開けた。庭に暖かそうな光が差し込んでいる。
 それをちらりと一瞥するなり立ち去ろうとすると背後から宇佐の声がした。


「……そろそろこっちに戻ってもらえませんか、七哉さん」


 振り返ると宇佐は笑っていた。
「ここはあんたの家なんですよ。ここに住まってここでオヤジの跡を継ぐ。私なんぞが主人面して住む場所じゃないんです。ここに座っててもケツが落ち着かなくてしょうがありません」
「ここは『組長の家』だ。おまえの家だと思ってろ。俺はリカと楽しく暮らしてんだから野暮いうな」


 先代の子飼いの中では比較的若手に属していた宇佐が組長になったことをとやかくいう人間はいる。実際は老いた幹部たちは先代に殉ずるかのように自ら引退していったのだから順当な人事だったのだが、それをあたかも宇佐が野心に任せて上の人間を排除し、こんどは跡継ぎである七哉をも追い出して自らの組長の座を磐石のものにしようと画策している──などと口さがないことを言い立てる者が特に外部にいることは否めない。
 宇佐はそれを七哉までもが真に受けることを恐れているのだろう、と思った。
 やれやれ、と首を回し踵を返すと七哉は座ったままの宇佐の頭をぽこん、と軽く殴る。


「おまえを知ってる誰がおまえがそんな悪巧みをするような器用な人間だなんて思うよ。言いたいやつには言わせとけ」
 

 それだけ言い捨てると七哉はどかどかと音を立てて縁側を早足に立ち去って行った。
 見送る宇佐はほっと一息つくと小さく笑い、漸く足を崩した。

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──お家騒動か…。


 バイクでアパートへ戻る間、七哉の頭には先程の宇佐の話がぐるぐると回っていた。
 あの中華街のあたりの不穏な空気はそういうことだったのか。では、あの子供とあの空気は関係なかったのだ。
 いや。
 お家騒動に係るような子供だったのかもしれない。
 しかし、そんな「大事な子供」ならあれほどの虐待の跡があったのは理解できない。お家騒動に係る者ならボスの御曹司か隠し子と相場はきまっている。それならもっといい服を着て大切に守られている筈ではないのか。


 自分も『ボスの御曹司』だったのだからそれが大事に箱入りにされて甘やかされているお坊ちゃまになるとは限らない、とわかってもよさそうなものだが、何故かそんな時だけはどこか世間的な物差しを使ってしまっていることに七哉は気付いていない。

──じゃあ、あの子供はなんだったんだ。

 人身売買の商品か。
 そのわりには妙に訓練された動きだった。
 本物の野良猫ならともかく、人間の子供が本能的にあのような動きができるわけがない。
 ならば何らかの──殺しであるとか──専門家の予備軍か。


 七哉は頭を軽く振った。
 なんであの子供の事がこんなに気にかかるのだろう。
 宇佐が暫くは──その組織がある程度自分たちでカタを付けるまでは──あのあたりに近づかない方がいいというのはわかる。普段なら自分も同じ判断をする筈だ。別に揉め事が好きなわけではない。関らないにこしたことはないのだ。


 なのに──
 七哉のバイクは、いつのまにか件の中華街へと向かっていた。

 相変わらず、どこか不安定な空気が充満していると思う。いや、以前に増してどこかぴりぴりとした緊張感すら感じる。
 ただ、そんなことに気付いているのは住人か、七哉のようにそんな空気に敏感な人間くらいのものだ。
 一見、いつものように街は賑わっている。


 トニーを見つけた。
 呼び止めると、トニーはどこかびくりとした様子だった。こんな下っ端にまで緊張感が浸透しているのだろう。
 物陰へ引きずり込み、にっこりと笑って見せた。


「なあ、こないだ言ってた子供って、見つかったのか?」
 

 トニーが顔を一層強張らせる。
「そんなガキ、なんであんなに一生懸命探してたんだ?商品か?それともボスの隠し子か何かか?」
 ストレートに尋ねてみる。トニーはまるで壊れた人形のようにぎくしゃくと何度も首を横に振った。
「……し、知らない。知ってても、言う、わたし老板に殺される」


 老板──つまりこいつらのボスということだ。
 

 やはりただの子供ではないのかもしれない。
 七哉は苦笑した。別に脅しているわけでもないのにこの怯えようはどうだ。
 トニーはまるで今にもがたがたと震えださんばかりに身を縮めた。
「……あれは災いをもたらす子供だ。あれが来た、何かおかしくなった、皆言ってる。あれ殺したいやつ、いっぱいいる。でもそれ老板許さない。……七哉」
 なかば独り言のように小声でぶつぶつと呟き、最後に顔を上げる。七哉は眉を顰めそれを伺った。きょろきょろと、トニーは急にあたりを見回し更に声を顰める。
「七哉、人、殺せるか」
「あ?」
 唐突に何を言い出すのだろう。


「あの子供、殺してくれたらお金払う」
 

 トニーは七哉が地場のヤクザの跡取息子だなどということは知らない。おそらく、街のチンピラが何かの間違いで──という表向きで殺してしまいたい、といったところだ。
「……わたし達、殺したくても老板怖い。殺せない。それにあの子供、手強い。簡単につかまらない。薬も効かない。失敗するこっちやられる」
「おいおい、そんなあぶねえガキを俺みたいな素人に殺させるつもりかよ。うまくいくわけねえだろ」
「いや、こんど老板、国帰る。あの子供、おいていく。生きる、あとどうなるわからない」


 どうもわかりにくいがこんなところだろう。
 おそらくあの子供はやはりここのボスの隠し子かなにかなのだ。お家騒動の為に本国に帰ることになったものの、問題がお家騒動なだけに隠し子など連れて帰っては話が一層こじれる。結果、子供はおいていくことになった──


 トニーが一体なにに──ボス以外の──怯えているのかはよくわからない。ただ、トニーを動かしている人間達はこの子供を消してしまいたいと思っている。ここ暫く揉めているという別の組織に都合よく擁されるということも考えられなくはないが、それ以上にあの子供自身を怖れているように七哉には見えた。
 眉を少し寄せ、目を眇める。考えている。


「──もし殺せたら、本当に金くれんのか?いくらだ」


 トニーが示した金額は、リカと二人で5年くらいは遊んで暮らせる額だった。もっとも、籍すらあるかどうかわからない子供とはいえ人一人殺すには安いんじゃないのか、と七哉は思った。
「死体もってくる、現金で払う。どうか?」
 よほど手を焼いているのだとみえる。交渉上手な華僑とは思えない。失笑が洩れそうになって七哉はそれを飲み込んだ。


 あの野良猫のような子供が、ここの組織をここまで動揺させているのか。
 

 更に情報をもらうという約束をしてトニーと別れると、七哉は妙にうきうきと口元が緩んでいる自分に気付き小さく吹き出した。

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 宇佐から話を聞いてから1週間と経っていない。
 トニーが姿を消したという。


──消されたか?


 とはいっても、その所在や消息をあまり訊ね回っては自分の身が危ういだろう。
 七哉は歯痒い思いで一旦中華街から出ようとした。残りの情報も貰っていない。これではあの子供を捜そうと思ったところで無理だ。

──捜す?俺があの子供を?

 突然我に帰った。
 トニーの頼みを聞いてあの子供をわざわざ殺すなんてことははなから考えていなかった。
 ならば、別に自分が捜す必要などないではないか。
 可笑しいような、理解不能なような、奇妙な気分に囚われて路上に停めておいたバイクに跨る。


「嵯院七哉さん?」
 

 背後──しかもごく近くで声。驚きで肩が上がってしまった。
 気配には敏感な方だ。それなのに全く気付かなかった。
「私、ウェスリー・ラウと申します。お話があるのですがご同行願えますか」
 振り返った。
 バイクのすぐ脇に立っている。トニーなど比べ物にならない流暢な言葉遣いだ。
「俺が安全に帰してもらえるって保証がどこにあるんだ。そう簡単についてってたまるかよ」
 目を逸らさず、ゆっくりと言った。ラウは小さく笑う。
「老板はあなたがたにここをお任せしたいと言っているのです。おもてなしならともかく、手荒な真似などする理由がありません」
「あんたがそのラオ…なんだ、とにかくボスの使いだってことも俺は確認できない」
「七哉さん」
 もうひとつの声。
「宇佐──」


「この人がボスの右腕だというのは確かです。行きましょう」
 

 見ると、宇佐は車をおいて一人だ。いつも護衛に連れている若い者たちは車に待機させている。
「大丈夫なのか?」
 いつになく用心深くなっている。宇佐はにこりともせず頷いた。

 ラウの後ろをついて2分ばかり歩くと、ネオンもきらびやかなこの一帯で一番大きな酒家についた。一番奥のVIPルームのような、高価そうな調度品の並べられた部屋へ通される。すぐに反対側の扉が開き、一人の男が入ってきた。

「わざわざお運びいただき申し訳ない。李です」
 やはり流暢な日本語。
 部屋の中には七哉と宇佐、そしてラウと李の4人だけだ。

 

──こいつがボスか。

 険しい精悍な顔をした男。本国の組織の規模がどの程度なのかは知らないが、近い将来それを全て束ねることになる人間だ。七哉は気圧されないようにぎっと顔を引き締めた。宇佐も緊張している。
「組長には以前お話したとおり、私は一両日中に本国へ戻らねばならない。そこで、もう一つ頼みたいことがあるのです」
 李は七哉のほうへ視線を向けた。顔は殆ど動かさない。
「周を知っていますね」
 トニーのことです、とラウが小声で説明する。
「あれは若いのによく働いてくれたが、鴻觜を殺そうとして返り討ちにあった。馬鹿な男だ」

──ホン…ズィ?
 

 よく聞き取れなかった。あの子供の名前だろうか。だとしたら、トニーは七哉にああ言ったものの、業を煮やして自分たちであの子供を殺そうとしたのだろう。そして、殺されたのだ。あの、手負いの子供に。


「鴻觜に会いましたか」
 

 会った──と言ってもいいものだろうか。七哉は迷い、首を横に振った。
「今別室に寝かせてある。周の他何人かで一度に襲ったが全員やられた。しかしあれも傷は浅くない。そのまま放置すればやつらの望み通り鴻觜は死ぬだろう」
「何が言いたい」
 李は椅子に深く座り直すと指を組み、組んだ膝にかけた。


「あれを暫く預かってもらえないだろうか」
 

「いや、それは待って下さい」
 宇佐が口を挟む。
「それはちょっとムシがよすぎるんじゃねえですか。いくら、そちらの親父さんとうちの先代が仲良くさせてもらってたといってもそんな厄介ごとをはいそうですかと引き受ける筋合いはねえですよ」
「一年、いや半年でもかまわない。そのあとあれをどうしようとお好きになさればよい。ただ、今は生かして保護──いや、監視して頂きたいのです」


 監視──?


 李の顔は薄く笑っていた。冷酷そうな笑顔──
 七哉はひどく嫌な気分になった。


「──あれを私の子だと思っている人間が多くてね。連れてゆくわけにもいかないがただ置いてゆくとおかしな者に利用されるかもしれん。私が本国に帰ったあと暫くはこの劉が後始末をする。それが済むまでの間、あれを監視して欲しいのだ」
 李が右手を小さく上げて合図をするとそれに応じてラウは一旦別室へ退き、すぐに戻ってきた。手には大きな布のボストンバッグを携えている。それをテーブルの上へ静かに置き、ジッパーを開けた。

「鴻觜です」

 

 李は手元の紙に何か走り書きしてバッグの脇へ滑らせ、言った。
 椅子から少し腰を浮かせて覗き込む。バッグの中には、血まみれの子供が入っていた。
 

 あの──子供だ。
 

 頭に血が上ってくるのがわかる。放置すれば死ぬかもしれないという重傷を負っている筈の子供がまるで荷物のようにバッグに放り込まれているのだ。七哉は何かを怒鳴ろうとした。──が、怒りのあまりか言葉も出てこなかった。
「李さん。私はお断りすると言って──」
「宇佐」
 宇佐を制して七哉が前に出る。


「そいつはもらってく」
 

「七哉さん!」
「言っとくがおまえらに頼まれたからじゃねえぞ。とにかくそのガキは俺がもらってく。『預かる』じゃなくて『貰う』だ。あとで返せって言われても文句は言わせねえ」
 怒りのせいか声が震えているのが自分でもわかる。しかし、当の李は相変わらず冷酷な笑みを微かに浮かべたままだった。
「おまえらの用ってのはこれだけか?!だったらもう帰る。金輪際こいつのことには口出すなよ!」
「七哉さん!」


 宇佐が小さく礼をして七哉のあとを追ってくる。そのあとを更にラウが続いた。
「──お待ち下さい」
 酒家を出るところで呼び止められる。素早い動きでラウが七哉の前にまわりこんだ。
「どけよ」
「老板はあのようなことを言っていますが、本当は鴻觜を死なせたくないだけなのです」
「知るか!どけ!」


「本当に邪魔で必要ないものなら自分の子供だろうがなんだろうが、老板は抹殺します。そういう人です。なのに、老板は鴻觜にどんな酷い仕打ちをしても決して殺そうとはしない。本当は──」


 ラウはどこか哀しそうに言った。
 本当は愛しているとでも言いたいのか。
 

 けれど、それを理解してやろうとするには七哉はまだ若すぎた。
 ラウを乱暴に押しのけ、バッグを肩に担いだまま表へ出る。


 背後で宇佐が苦虫を噛み潰したような顔をしているのは想像に難くない。しかし今は宇佐の小言も何も聞きたくなかった。

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 医者に診せてみると、確かに酷い怪我ではあるが別に致命傷などは見当たらないと言われた。
 いっぱいくわされたかもしれない。
 そう思うと尚更腹が立つ。
 暫くは人の大勢いる本宅より、リカと二人のアパートの方がいいような気がして七哉は子供をそちらへ連れ帰った。


 子供は目覚めても睨みつけるだけで一言も口をきかなかった。ただ、命に別状はなかったとはいえ重傷であることに変わりはない。流石に部屋から逃げ出すほどの元気はないようだった。
 リカは心配で仕方ないらしい。


「ねえ、ごはん食べてよ。このままじゃ餓死しちゃうよ」
「……ほっとけ。死にたくなきゃ食うさ」
 そういいながら、七哉はリカに食事を毎食3人分ずつ用意させている。そして──
 目覚めてからまる2日が過ぎたとき、ついに子供は食事に手をだした。


 ここへ連れてくる前から一体何日胃に物を入れていなかったのだろう。ほとんど手づかみで口の中へ放り込んだ食べ物は胃が受け付けてくれなかったらしくすべて戻してしまった。
 リカが慌てて粥を作り差し出すと、子供は七哉とリカから一瞬と目を離さずそろそろとそれを口に運ぶ。その様子を見てリカは漸く安心したように微笑んだ。
「よかった、食べてくれて──ねえ美味しい?」
 子供はじっと二人を睨みつけたまま表情を変えず、けれど鍋いっぱいの粥を結局平らげてしまった。
 七哉とリカは顔を見合わせ、小さく吹き出す。

 本当に、野良猫でも拾った気分だ。

──まあでも、こりゃあなつきゃしねえな。


 なついて欲しくて拾ったわけではない。ただ、あのままあそこに置いておけなかっただけだ。だいいち、七哉自身もまだ未成年だ。子供を育てようなどという気はさらさらない。元気になって、ほとぼりが冷めたら自分で好きなように生きていけばいいことなのだから。

 食べ物は口にしたもののまだ二人に近寄ろうともしない子供に無理に接近しようとせず、薄い布団を投げるように与える。おそるおそるそれにくるまると子供は座ったまま寝息をたて始めた。


 数日間そんなことを繰り返し──

 その日、食事の準備をしながらリカが何気なく訊ねた。
「ねえ、あんた名前は?なんて呼んだらいいのかわかんないよ」
 リカのもっともな問いかけに子供は答えなかった。いや、ここへきてから子供はまだ一切口をきいていない。

 名前──

 確かあの時李はこの子供の名前を言ったが、中国語の発音で言われた名前などよく聞き取れなかった。ただ──
 あのバッグの脇に置かれた李の書いたメモ。漢字が二文字記されていた。おそらくあれがこの子供の名前なのだろう。しかしあの時はバッグの中に詰められたこの子供に目が行ってしまっていて、ちらりと見ただけではなんと書かれているのかよくわからなかった。しかも走り書きだ。


「なんか……むらさきって字が使われてたような──?違うかな??」
「紫?」


 しかし七哉はこの子供のもとの名前などどうでもいい気分になっていた。
 この子供があの社会の中でどんな扱いをされていたのか、実際のところはよくわからない。しかしどうであれもうあそこには戻らせない。ならばそこで呼ばれていた名前などもう必要ないではないか。
「名前なんかどうでもいいだろ。不便ならなんか適当な名前つけてやれよ」
 七哉がそう言う前にリカは既に名前を考え始めているようだった。


「紫……紫か……ねえ、紫とかいてゆかりってどう?」
 

「バカそりゃ女の子の名前だろ?」
「いいじゃない別に!あ、なんかもうそれって思ったら他の思いつかない」
「もうちょっとこう男らしい名前にしてやれよー。裕次郎とか慎太郎とかさ」
「やーだそんなの。だいいちあたし太陽族なんて嫌いだもん。この子はこれからゆかりって名前にするの。もう決めたからね」
 溜息をつく。そんな思いつきでこの目つきの悪い子供に女の子の名前などつけてしまったら大人になった時さぞかし恥ずかしいのではないかと思った。けれどリカがこうと宣言したことを覆すのは至難の業だ。

「あんたはこれから『ゆかり』よ?そう呼ぶからね」

 

 リカにそう言われて、子供は少しきょとんとした顔をし──口の動きだけでその名を復唱した。それを見てリカがにっこり笑う。
「そうよ紫。さっ、ご飯食べよう?ほらここ座って。一緒に食べようよ」
 リカはそう言うと台所へ戻った。子供──紫は部屋の隅に丸く座ったままそれを見送っている。

「……なにぼやっとしてるんだ。来い、紫」

 

 七哉は笑って食卓の自分の隣をぱんぱんと叩いた。
 今までずっと七哉やリカを敵意のこもった目で睨みつけてばかりいた紫は、初めて少し困ったような顔をし──
 おずおずと、這うようにして食卓に近づいた。
 まだ、警戒を解ききってはいないのは纏った空気でわかる。
 けれど、随分な進歩だと七哉は思った。

「おい、おまえ『ゆかり』なんて名前気に入らないなら今のうちに嫌だって言えよ?」
 台所のリカに聞こえないように声を顰め、七哉が紫の顔を覗き込む。
 紫は首を横に振った。
「いいのか?それで」
 頷いた。
 

 七哉はそうかあ?と笑うと手を伸ばす。反射的に紫はびくりと身を逸らそうとしたが、七哉の手は紫の頭を軽くぽんぽんと叩いただけだった。引っ込められた手を不思議な物を見るように紫は目で追っている。

 そうしている間にリカが食事を運んできた。七哉は座ったままそれを受け取り食卓に並べる。


「さー食おうぜ。いただきます。ほら紫、おまえも遠慮なく食えよ。卵焼きだ、ご馳走だぞ」
「そうだよ、紫。いっぱい食べな」

 伺うように七哉とリカの笑顔を交互に見る。
 紫はそうしてそろりと箸に手を伸ばした。

 

 

*the end*

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グリーンアイド猫

*Note*

このグループ、最初は時系列で「鴻觜」を上にしようと思ってたんだけど、こっちの話を先に読んでてもらわないと「鴻觜」が誰の話か全くわからんことになってしまうのでこちらを上にします。

七さんが野良猫を拾った話です。

​あと、「嵯院」のグループにある「雪夜」って話に出てくる宇佐さんが出てきます。変な感情が絡まない(・・・)分、宇佐さんと七さんの疑似父子主従(従が親)っていいですねぇ…。宇佐さんは一朗さんにラブだったかもしれないけど七さんにはそっち方向の感情はゼロなので。ビュア。

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