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Sin.co   The Name of the bar is;

魔法使い -3-
ロックグラス.gif

 写真をそのまま送りつけてきたような絵葉書。写真はエリスシャー通りを往来する人々。紙を重ねて鉛筆の芯で擦ると、小さな数字と文字が浮かび上がった。虫眼鏡でそれを確認する。

『153:SZK:2:L』

 地図で通りの位置を確認すると、そこへ向かった。


 エリスシャー通り153番地の1階は肉屋だった。連なったソーセイジがクリスマスの飾りつけのように天井からぶら下がっている。
 特大のナイフで肉の塊をスライスしていたよく太った白衣の店主は一言「ハロー」とだけ言った。好みの美味いハムを探しているかのような目配りをしながらぼそりと言う。


「ミスター・スズキは?」
 

 店主は目線だけを上げて一瞥すると、その目線で店の奥を示した。奥には扉がある。
 その扉を開けて中に入ると階段があった。登って行くとドアが二つ。その左側の扉をノックせずに開ける。

 中にはあの髭の日本人がいた。

「やあ、お待ちしてました」
 特に返事もせず帽子を取ると、コートを脱いで椅子に腰掛けた。
 男は掌の中で何か金属音を立てながら脚を組んで煙草をふかしている。


「そろそろ私もおいとまする日が近づいてきたようでね」
「帰国するのか」
「もう外交官や政治家もずいぶんと引き上げました。どうやら開戦は時間の問題ですな。残っているのは何にも知らない何万人もの暢気な民間人ばかり、か」
 男の勧める煙草を一本取って火をつけた。
 

「──彼はどこだ」


「今はドイツ出身のユダヤ人の男が匿っていますが、彼らは彼らで自分の国から逃げてきた身内の面倒を見なければならないようで、そろそろ限界だと言ってきました」
 ふう、と煙を吐き出す。


「それで、いよいよ俺に順番が回ってきたというわけだ」
 

「あなた、随分なスピード昇進だと聞いていますよ。お父上のコネクションもあるのか知らないが実戦の経験もないのに司令部で随分評価されているとか」
 あきれたな、と呟きが漏れる。この男の情報網はいったいどこまで入り込んでいるのだ?
 それなら慌てて帰国などしなくてもいくらでも身を守る方法がありそうなものだ。
「それだけの情報網を張れる力があるなら、彼を日本に連れて帰ることくらい容易いんじゃないのか」
「一筋縄ではいかんから頼んだんじゃないですか。さすがに国家を敵に回したら私だっていつ闇から闇に葬られるかわからん」
 男は、初めて見た時とまるで変わらない付け髭のような立派な黒々とした髭をひとなですると溜息をついて笑った。


 行雄に撃たれた脚がようやく杖の助けを借りずとも歩ける程度に回復した頃──
 この男はふらりとパトリックの目の前に現れた。

 そして、行雄の死を告げた。

 あの時行雄は逃げおおせたと聞いていたのに。
 この男の説明によれば、アンドリューたちはそもそも行雄を殺さず捕らえる方向で動いていたらしい。その時点でパトリックの読みは外れていたことになる。父は自分の手の内の者だけでスパイ組織の黒幕まで探り出し、不都合な部分だけは隠蔽して後は手柄にでもする予定だったのだろう。
 一旦は逃げおおせた行雄だったが、アンドリューだけでなく他の配下の者も使ったのか数日後には再び潜伏先を突き止められ、追い詰められた行雄は自ら命を絶ったのだという。


 あんたが口封じしたんじゃないのか。
 そう言うと、男は苦笑した。
 そう思うなら思ってくれて結構。ただ、ああ見えてもあの子もサムライです。敵に捕らえられて辱めを受けるくらいなら死を選びますよ。

 行雄は自分の命運が尽きる予感がしていたのだろうか。
 最後の『頼み』。
 それは、ひろ子の遺した子供を預かることだった。
 これから世の中がどう変わっていくかわからない。自分たちもどうなるかわからない。だから、確かにパトリックが預かることが一番その子にとって安全なのかもしれない。けれどそれですら、容易に実現できることとは思えなかった。
 行雄のあの栗鼠のような大きな真っ黒い瞳を思い出す。

 あの子が生き延びることが出来るように。
 どんなことをしてでも生き残ることが出来るように。
 たとえ、いつかたった一人で放り出されることになっても。
 たとえ、それがどれだけ手を汚すことになっても、他人を傷つけることになっても。
 ただ、生き延びてほしい。
 そして、いつか僕達の故郷を見せてやりたい。

 

 自分の子ではない、誰の子かわからないひろ子の子供にどうしてそこまで──と尋ねると、行雄は晴々とした顔でこう言ったのだ。

 

──僕の種ではないけど、あれは僕の妻の産んだ子です。だからあれは僕の息子だ。父が息子の行く末を気にかけるのは当然でしょう?


 行雄の死を告げに来た日以来、何度かこうしてこの男とコンタクトを取っている。
 当時はまだ単なる学生だったパトリックに、幼い東洋人の子供を引き取って不自然でない状況を作ることは困難だった。この男によれば子供は短期間ごとに様々な国籍の様々な人間に預からせて育てているという。危険を回避するためでもあったし、なまじ情が移ることを防ぐためでもある。
 ただ、最終的には自分が預かるものだとパトリックは漠然と思っていた。
 そうすることが行雄の願いだった筈だ。だから、パトリックに直接頼んだのだ。

 行雄は俺を信じてくれたから──そう思いたかった。

 しかし、この男に関しては相変わらず素性も本業も名前すら明かそうとしない。スズキというのもいくつかある偽名のひとつで、あの絵葉書に『SZK』と指示があったから使っただけだ。調べようとしても何一つ確かなことは掴めなかった。
 この男が行雄たちのようなスパイだの殺し屋だの、そういう者たちを取りまとめて仕切っているボスなのだということも──憶測の域を出ないままである。

「ご実家のお屋敷に戻られるそうですな」
 男の声でパトリックは我に帰った。
 ああ、と短く返事をする。
 妹のメアリはフランス人と結婚してフランスに渡っていたが、ドイツの侵攻に巻き込まれて行方不明だ。
 兄のアンドリューは出世する一歩手前に戦闘機で撃墜されて戦死した。
 父は行雄たちスパイの件が表向き片付いた後退官し、先日母とフロリダの別荘に居を移した。


 住む者のいなくなった家。パトリックが現在所属している部署には比較的便利な場所──そもそも父も同じ目的であの場所の家を購入したのだが──だったため、そのままそこへ住むことにしたのだ。

「東洋人の可愛い女性のメイドはもう懲り懲りでしょうから──」
 男はからかうようにパトリックの顔を覗き込みにやにやと笑った。
「同じ東洋人ですが香港人の若い男が職を探していましてね。一見不愛想だが家事全般抜かりなくこなすことができます。ついでに言えば拳法の達人でね、ボディガードにもなる。それを紹介しましょう。あの子はその弟とでも言って一緒に屋敷に住まわせれば何の不自然もありません。なあに、中国人はじきに弾圧の対象から外れるしまして香港は英領だ。雇っていて困ることはあるまい」


「それで、今度は俺のスパイをさせる気か?」
 

 父のもとに行雄を送り込んだように──
 そう言うと男は肩をすくめた。
「誤解されちゃ困りますが、私は日本政府の人間でも軍部の人間でもありません。情報や人手を金で売り買いする商売です。だが時勢がここまで来ると金にもならん。商売でもないのに危険な橋を渡るのはごめんです。暫くは休業ですよ」
 曇り硝子の窓の向こうに視線をやると、そろそろ薄暗くなり始めている。 
「ただ、その香港人を使えば時間はかかるがあなたが私と連絡を取ることは可能になるかと」
「開戦してもか」


 さあ、それはどうでしょう──と笑う。
 なんら、確実なものなど無いのだ。それはパトリックも十分承知していた。
 いつも何か企んでいそうな、うさんくさい目をしていた男がふと目元を緩める。
「お目にかかるのはこれで最後になるかもしれん。もしお時間があるなら、聞いてやって下さい」
 どこか遠くに視線を投げ、男は懐かしそうな顔をした。


 行雄は日本の田舎の、山に囲まれた貧しい農村の、子だくさんな農家の次男坊でした。
 そんな村にも一応学校はありましてね。校長は──これが私の知人ですが、音楽がたいそう好きだったのでそんな田舎の学校なのにわざわざピアノを置いていた。
 行雄は家の手伝いでろくに学校にも通えなかったがピアノの魅力に取り憑かれたんでしょう、なんとか家の用事を工面しては学校に行ってピアノを触っていましたよ。
 本当はちゃんとピアノを習いたい、音楽の勉強がしたいと思っていたが、家は貧しいのでとんでもない話だった。
 私がちょっと気まぐれ心で資金を出して街の音楽学校に入れてやろうかとあの子に声をかけると、断るんですよ。自分はもうじき街に出て工場に勤め、家に仕送りしてやらねばならない、のうのうと勉強などしていいような家の子ではないのだという。

 それで、音楽の学校に通いながらでもとても儲かる仕事がある、と教えてやったのです。

「それがスパイの仕事か」
 

 音楽を勉強したいだけの貧しい少年を、金をちらつかせてこのような汚い世界に引きずりこんだのか。
 パトリックはむかむかと憤りが胸のあたりで渦巻いているのを感じた。こいつ、殴りとばしてやろうか。


「冬には山で猟をして暮らしをしのいでいた子でしたから、猟銃以外の銃にもすぐ慣れた。家で幼い弟妹が腹を空かせて泣いているのだから、工場につとめる何倍もの報酬が手に入り好きなピアノの勉強も出来るとなれば行雄は殆ど迷いませんでしたよ。たとえそれが人を殺める仕事でも」
「──」

 街に出て暫くして、行雄は偶然ひろ子に出会いました。
 ひろ子も行雄と同じ農村の出で行雄の幼馴染でしたが、両親を流行り病で亡くしてね、しかも借金を残していた。借金のカタにあの子は遊郭に売られて女郎をやっていたんです。
 女郎を続けるのと、スパイの片棒担ぐために毛唐の妾になるのと、どれほどの差があるんでしょうな。
 それでも行雄はひろ子を助けてやってくれと私に泣きついてきた。
 私はそんな慈善家じゃない、助けたところで人には言えない裏側の仕事しか与えてやれん。女郎なら年季が明ければ堅気に戻れるんだからそれまで辛抱すればいいんじゃないかと私は言ったが、ひろ子が夜毎別の見知らぬ男の玩具になるのが我慢ならんかったんでしょう。
 ひろ子はひろ子で、女郎からは足を洗えたものの、すでに綺麗でなくなった自分が行雄に対して恥ずかしくて仕方なかったようです。
 だから、仕事のために政治家だのどこやらの会社の重役だの、そういう連中を誘惑して寝るのは平気でも、後にこの国に渡るために籍を入れて夫婦となってもどうしても行雄とは本物の夫婦になることが出来なかった。
 あの子たちは互いに本当に惚れ合っていたんですがねえ──


 あの頃の、行雄とひろ子の姿を思い出す。
 ああ、あれは父や我々家族を騙すための芝居などではなかったのだ。
 仮に肌を合わせたことが本当になかったのだとしても、あの二人は愛し合っていた。
 だから行雄は、ひろ子の子供を自分の息子だとあんなに晴々とした顔で断言することが出来たのだ。
 鼻の奥がつうんとしてきたが、この男の前で涙を見せるなどもっての他だ、と懸命に堪えた。

「何故、そんな話を俺に?」
「さあ──あなたが行雄やひろ子を日本人だからどう、みたいな見方ではなく素直に慕ってくれていたからでしょうか」
 男はははは、と珍しく大口を開けて笑う。


 昔話から察するに、この男は髪や髭が黒々としているだけで実はけっこうな年配なのだということに今更気づいた。
「私は正直言って、白人ってやつは大嫌いだ。肌が白いというだけで偉いみたいな顔をして、我々や黒人を勝手に下の位だと決め付けている。だが、あなたは少し違う。だから行雄もあなたに心を許したんでしょう。行雄やひろ子がどういう子だったか、あなたには知っていてもらった方が行雄も喜ぶだろうと思いましてね」 

 曇り硝子の向こうはすっかり暗くなっている。
 男はさて、と言いながら立ち上がった。

「そうそう──」
 普段は書付けなどという後に証拠を残すような手段は使わないこの男が小さな紙片を渡す。そこには、漢字と思われる文字と、それにアルファベットで振り仮名がふられていた。

「それが、行雄がつけたあの子の本当の名前です。いつか、あの子が日本に帰る時が来たらこの名前を返してやってくれますかな」

 

 紙片をじっと目に焼き付けるように数秒間睨みつけた後、パトリックはそれに火を点け灰皿に落とした。
「燃やしますか」
「心配するな、記憶力はいい。ただ、その日が来るかはわからん」
 そりゃそうだ、と男は笑った。
「こんな時代だ、明日の命があるかどうかもわからん。約束など無意味ですわい。例の香港人とあの子は明日10時にお宅を訪ねさせますがよろしいか」
 無言で頷くと、男は手を伸べてパトリックに退室を促した。
 これで用は全て済んだということだろう。


「お元気で。『ユキ』を頼みます」
 

 握手をすることもなく、男は日本人らしく腰を深く折り曲げて「お辞儀」というやつをした。

「──ありがとう」

 パトリックは一言そう言ってドアを開ける。
 何に対する礼なのか、よくわからないが無意識にそれが口を出ていた。
「無事を祈る」
「あなたも、パトリック坊ちゃん」
「あんたにそう呼ばれる筋合いはない」

 パトリックは苦笑した。


 それが笑い顔だと男は気づいただろうか──
 

 そう思いながら、ドアを出る。
 階段を下りると肉屋はもう閉店していて、裏口から追い出された。

ロックグラス.gif

 両親がこの家を去ってからそんなに何ヶ月も経ったわけではないのに、パトリックの育った家はまるで廃墟のように見えた。
 かつてひろ子が隅々まで手入れしていた美しい庭は芝も雑草も伸び放題。窓も床もうっすらと埃をかぶっていた。


 母はピアノを調律させていただろうか?
 

 蓋を持ち上げて、毛氈の下に人差し指を差込み、一音だけ鳴らしてみる。
 目を閉じてその余韻に浸っていると、行雄の指が頭に浮かぶ。

 あの男が言った通り、午前10時きっかりに東洋人の若い男と子供がパトリックの家を訪ねてきた。


「夏朝偉です。これが『ユキ』」
 

 目つきの悪い、東洋人にしては背の高いその男は必要最低限のことだけを言って、脇に立っていた子供を前に押し出した。

 ユキ──

 そう呼ばれているのだという。誰が呼び始めたのかは知らない。
 これが、ひろ子の産んだ子か。
 ユキの顔を見ながら、ひろ子はどんな顔だったかを思い出そうとした。
 しかし、思い出そうとすればするほど、あの鮮やかな着物の柄ばかりが頭に浮かんでひろ子の顔は鮮明に思い出すことが出来なかった。


「よく来てくれた。これから頼む。パ…」
 ハーチウウァイと名乗った香港人に握手を求めながら自分も名乗ろうとして、一瞬口ごもる。

 

──パトリック。

 行雄がそう発音する口の形を思い出した。
「──ヒュー・リグレットバレイだ。呼ぶ時はヒューでいい」
「召使いなのに?」
「かまわん。俺はそういうことは気にしない」

 リグレットバレイ家では、子供たちは皆クリスチャン・ネームで呼ばれていた。それは家族の中でだけ許された親しみを込めた呼び名。
 行雄がパトリックと呼んだのは例外中の例外だったのだ。
 これからユキは自分の家族になるわけではない。
 この子がこれからどんな環境に置かれても、たとえ一人ででも生きて行けるように訓練しなければならないのだ。
 戦局によっては自分もいつどこへ配属されるかわからない。だから、一刻の猶予もない。

「夏──」
「リチャードで結構です。リチャード・ハー」
「ではリチャード。早速だが見ての通り、この家は暫く空家になっていたから埃まみれだ。まずは掃除から始めてくれ」
 リチャードは小さくイエッサーと答えるとざっと家を見回り始めた。どこからどう手をつければいいのか、まず全体を把握してから着手するのだろう。どうやらそつのない仕事をしてくれそうだ。


「──ユキ」


 呼ばれたユキは意思の強そうな目でパトリック──ヒュー・リグレットバレイを見上げる。
 これまで何人の人間に匿われて育ってきたのかは定かではない。ただ、着衣や薄汚れた顔を見ればいずれにしてもあまり感心した扱いは受けていなかったことが察せられた。
「おまえは当分あのリチャードの弟の香港人だということにしておく。よく覚えておくことだ。何語が話せる?」
「英語、フランス語、ドイツ語、アイルランド語、日本語」
「では、リチャードから中国語を習っておけ。広東語だけでなく北京語もだ。銃は扱ったことはあるか」
 ユキは首を横に振った。
「わかった、それから始めよう。その前にシャワーでも浴びて身体を洗ってこい。リグレットバレイ家の使用人がその様子では困る。リチャード、バスルームの水は出るか」
「出るようです」
「だそうだ。自分の身体を洗うついでにバスルームの掃除もしてこい。手を抜いたら最初からやりなおさせるぞ」
「はい、ご主人さま」

 意思は強そうだが無表情のユキをじっと見下ろす。

「聞いていなかったのか、呼ぶ時はヒューでいい。俺はおまえの『ご主人さま』じゃない。あえて言うなら教官だ」
 

「……わかりました」
 そう答えるとユキは小走りでバスルームへ向かった。
 なるほど、こんな風にこき使われてきたわけか。
 それもまた、生きていくために必要なことなのだろう。
 自分があのくらいの年の時には、世間のことなどまるでわかっていなかった。父の軍服に飾られた勲章の意味も知らずにいた。あの頃にもしたった一人で放り出されたりしたら、きっと生きて行けなかっただろう。
 あの子には、誰も保護してくれる者などいない生き方をさせねばならないのだ。
 それがあの子にとって幸せかどうかはわからないけれど。


 ソファの埃を軽く叩くとそこへ身を沈め、駆け去るユキの小さな足音を聞きながらヒューは目を閉じた。

 やがて、あの髭の男が言っていた通り──日本との戦争は始まった。

「クリスマスはどうします、ヒュー」
 数日ぶりに帰宅すると、脱いだコートをハンガーに掛けるなりリチャードが伺いを立ててきた。
 そういえばそんな季節か。言われてみれば周辺の家はすでに庭の飾りつけも本格的になってきている。
「わざわざ飾りつけなどしなくていい。それにおまえたちにはもっと必要ないだろう、クリスチャンじゃないんだから」
「ごもっともです」
 そんな家族の行事など、我が家には必要ない──

「……七面鳥までは要らないが、たまには3人で晩餐でもするか」

 

 リチャードは普段無愛想な顔を崩して、にっと笑った。
「わかりました。献立を考えておきます」
「なんだ、結局おまえがご馳走にありつきたかったんだろう。いや、ご馳走を作りたかったのか?」
 どちらもです──しれっとした答えに肩をすくめる。


「──ユキは?」
「今日はそっちの部屋に──ここのところ毎晩、暗い部屋で散らばしたビーズを拾ってますよ」
 夜目を鍛えるために命じた訓練をユキはどうやら真面目にやっているようだ。
 しかし、気配を殺してその部屋を覗き込んでみると──

 ぽろん、と澄んだ音が聞こえた。

 

 魔法にかけられたように、身体が動かなくなる。
 また別の音がぽろん、と聞こえる。
 行雄がピアノの調律の仕上げをしている時、いつもこんな風にぽろん、ぽろんと音を鳴らしてからあの美しい曲を奏で始めたものだった。

──行雄──?

 次の瞬間、ピアノの前に立っていた小さな人影はぎくりと振り返り、慌ててピアノの蓋を閉じた。
「ごめんなさい」
 少し、怯えたような声。きつく叱られると思ったのだろう。
 ヒューはこっそりと深呼吸をすると、灯りをつけた。


「かまわん。続けなさい」
 

 その時、自分はどんな顔をしていたのだろう?
 ユキは酷く驚いた顔で、けれど少し嬉しそうな顔でヒューの顔を見つめている。頬に小さくえくぼが出来ているのをヒューは初めて発見した。
 ここに来て初めて、ユキの年相応の少年らしい表情を見た気がする。


 おずおずとピアノの蓋を再度開けるとユキは椅子に腰掛けて人差し指でランダムに鍵盤を押し始めた。曲にも何にもなってはいない。
 教える者もいなければ楽譜も無いのだから、弾けなくて当然だ。

 そうだ。
 今度、初心者用の楽譜を買ってきてやろう。クリスマスプレゼントだ。


 たまにはいいだろう?

 あなたの息子も、きっと魔法の指を持っているに違いないから。

ロックグラス.gif

「それでは元締──長い間お世話になりました」

 深々と頭を下げると、孫娘が可愛くてしょうがない祖父のように目を細めて老人は小雪の姿を眺めた。
「何か困ったことがあればいつでも言ってきなさい。まあ、わしもいつくたばるかわからんがな」
「なるだけご面倒をおかけしないように頑張ります」
 甘えて欲しいのにわからん娘だ──と口の中でこぼすと、思い出したように手元の資料を取り出す。
「そうそう、これを最後の指令だと思って受け取ってくれんかな」
 小雪は怪訝な顔でそれを受け取る。

「出来れば近いうちにユキをそこへ連れていってくれ」

 

 添えられた地図を見ると、どこか田舎の山奥の農村のようだ。何か名所があるわけでもない、民家の数も少ない鄙びた集落でしかない。
「その村はせんだってダムに沈められることに決まった。その前にな、その村の小学校に行って欲しい」
「小学校──ですか?」
「もう殆どの住民も立ち退いて、廃校になっている。そこの音楽室にピアノが一台ある。まだある筈だ。古いし手入れもされてないだろうから音が鳴るかどうかはわからんがな。それでユキを連れて行ったら、こう伝えてくれ」


 老人は何かを思い出すように、濁った目を遠くへ投げた。

 

ヒュー・パトリック・リグレットバレイが
日本で一番ユキを連れて行きたかった場所は、そこの筈だから──と。


*the end*

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*note*

お疲れ様でした。

パトリック=ヒュー・リグレットバレイ、髭の日本人=元締。シゲさんの両親とヒューのお話でした。あと、最後に出てきた香港人のリチャードは「ドライブ」に出てきた夏教授です。特にどこにも影響しない裏設定だけど、嵯院とこのシマ内の中華街を仕切っていた李龍雲の組織が実は夏教授の属する組織です。

ジャンルがBLなので(しつこい)、パトリックと行雄がムニャムニャ…という展開も考えなくはなかったんだけど、これは圧倒的にプラトニックというか「思慕」で終わらせる方がいい!と確信してハグすらさせずに終わらせました。俺の意思、偉い。

で、行雄への重すぎる思慕と実際にユキに接して満ち満ちに父性を溢れさせてるヒューがなんでどうしてユキをF××Kするようなことになるのかという件について、リチャードとの関係も絡めて何か書きたいという気はずっとしています。本当はそこ追記してここにぶっこもうかと思ったんだけど、ピアノに触ることを許してもらうユキ、で終わった方が綺麗なので。そっちの話は別にします。

​そうでなくてもアメリカのことは全然詳しくないのにわざわざ大戦中のアメリカとかいうマジでよく知らない舞台で書いたので「これは異世界」の合言葉が心の支えです。作者がまあまあ自信満々に書けるのはバーの描写くらいなんでね!!!

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