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Sin.co -Re:The Ultimate Sin- main tales

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鴻 觜 -1-

 痛みを感じる暇などなかった。
 俺の意識は途切れる前、もう目の前のなにものをも見てはいなかった。
 こんな筈じゃない。
 切り落とされてもう無い両腕を俺は差し伸べた。
 目の前にいないおまえをその腕が抱きしめる。
 何故だ。
 何故おまえの手で殺してくれない。
 おまえにとっては何も難しいことじゃないはずだろう?
 今まで自分の手で何人も殺してきたじゃないか。
 それなのに何故俺をその手で殺してくれない。
 何故──

「馬鹿な奴だ、老板にあれほど取り立ててもらっていたくせに裏切るなんて」
「旺は呼んであるな。こいつは健康ではあったはずだ。多少くたびれてても十分売り物になるだろう。すぐ処置させろ」
「骨はスープにでも使うか?」
「馬鹿言え」


 血溜まりの中に横たわった、額を打ち抜かれ両腕両足が無くなった男の身体を囲んで男達は──笑った。

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「中尉どのはどちらの戦線にいらっしゃったんでありますか?」
「よしたまえ。もう私は中尉ではないし君も伍長ではないんだ」
 言いながら、宮岸は気付いたように階級章を毟り取った。こんなものはもう必要ない。
 汽車で向かいに座った男は肩を竦め、苦笑した。
「自分は故郷に帰ったら、女房と子供が待っているんですよ。子供は自分がいない間に生まれまして、初めて顔を見るんです。嬉しくてつい誰にでも馴れ馴れしく話しかけてしまい申し訳ありません」
 人なつこい笑顔だ。この男はきっと戦場でもさほど激戦区ではないところにいたのだろう。そして内心恋しい女房と産まれた子供のことばかりを考えていたに違いない。
 宮岸はふう、と溜息をついた。
 この汽車で辿り付く街には、俺の家族と呼べる者たちはもういない。
 ならば、何故俺はあの街へ帰ろうとしているのだろうか。
 親も兄弟もとうにない。結婚もしていないので当然この男のように女房や子供もいない。
 誰も俺を待っていない。なのに俺は帰ろうとしている──あの街へ。

──ここは、どこだ。


 よく見知った街の筈だがすっかり様子が変わっている。空襲にはあっていないらしく建物をよく見れば道はわかるがこんなにざわざわと落ち着かない街ではなかった筈だ。
 きょろきょろとまるで田舎から大都会へ出てきたようにあたりを見回しながら歩いても知った顔がない。空襲で焼けた近くの街から流れて来た人間や、復員してきて行き場のない人間たちが溢れかえっているように思った。
 もともと、誰が待っているわけでもないのだからそれが宮岸を特別不安にさせるということはなかったが、このざわつきはどうも好きになれそうもない。どこか、もう少し静かな土地にでも移るか。しかしこういうざわついた土地の方が自分のように寄る辺のない人間には快適かもしれない。

 土埃を立てて何台もジープが通り過ぎる大通り沿い、商店の角の地面に腰を下ろして行き交う人々をそうして眺めていると、その商店の店主と客らしき人物の会話が漏れ聴こえてきた。

「​……の中華街はだいぶ賑わいが戻ってるらしいね」

「あそこは戦時中は色々えらい目にあってたんだけど、わしなんかは特高に目をつけられたりしたくないから見て見ぬふりしてたからな。なんかこう戦争が終わったからってしれっと遊びには行きづらいよ」

「あそこで何があったんですか」

 宮岸は思わず会話に割って入った。

 宮岸の生まれ育ったこの街の外れにあった、華僑の移り住んだ小さな町。近くの港町に出来たコミュニティからさらに流れてきた職人や貿易商や通訳が住み着き、彼らの懐かしい料理を食べさせる食堂がこの外の地域の人間にも親しまれて一時は賑わっていた。

 しかしこの国が彼らの母国との戦争を始めてからは、他の土地の類似した大きな街と同様に母国へ帰って行った者も多く、残った者は様々な弾圧に晒されていたらしい。中にはあらぬスパイの疑いをかけられて拷問の上殺される者もある。戦局が悪化してくると街に親しんでいた筈の地域の住民たちからも鬱憤晴らしのように攻撃を受けたりもしたという。

 この商店の店主によれば、あの町の者を庇おうとしたり施したりしようとすれば敵国のスパイと疑われるのではないかと恐れた多くの者は、苦々しい思いをしながらも彼らに救いの手を差し伸べることが出来なかったのだという。

 宮岸は子供の頃からその街でよく遊んでいた。友人も多い。

 彼らがどうなったのか、そもそもまだこの街に残っているのか。

 様子を見に行ってみようか── ​
 

 そんなことをとりとめなく考えている矢先、不意に背後から腕を掴まれた。と、いうよりも掴まれそうになり咄嗟に振り返り──
「おっと、殴らないで下さいよ。隙のないのは相変わらずで」
「──劉」
 少し小柄でがっしりしたその男は、笑いを浮かべ宮岸の背中をぽん、と叩いた。


「老板もいますよ。会いますか?」
 

 ほんの少し迷った。
「……龍雲は元気なのか」
 劉は当然、といった顔で笑うとすたすたと前を歩き始めた。そのあとを追う。
 と、立ち止まると慌てたように劉は振り返り苦笑した。
「その前に、着替えた方がいいです。そんな格好でうろついたら袋叩きにあって川に捨てられますよ」
 そんな格好──と言われて自分の身につけている復員服を見下ろし、宮岸は漸く納得した。きっと戦時中を思い出させるこんな服装は彼らの神経を逆撫でするに違いない。そんなものを着たままそこへ飛び込む馬鹿はいない。


 ぼんやりした間に劉が手際よく服を持って来た。ものの3分も経っていない筈だ。
「老板に会うにはボロだが今それしか手に入りませんでしたよ」
 ところどころ破れた、少し黴臭い服に物陰で手早く着替えると宮岸はそれまで身につけていた復員服をその場に捨てた。自分の罪の象徴である服と帽子。捨てたところで罪が軽くなるわけではないが、後生大事に持っていたところでそれが赦されるわけでもない。
 素直に劉の後ろを歩きながら、宮岸はしかし何度も踵を返して逃げ出そうかと思った。
 自分の背中にいる何十人もの亡霊が逃げ出すことを許さない。


──わかっている。


 自分の背中に向かって呟いた。

 街のごみごみとした騒がしさとうって変わって部屋の中は服の擦れ合う音さえ聞こえるほどの静けさだった。
 宮岸はぐるりと室内を見渡すと、以前はこの部屋に上品に配されていた高価そうな調度品が殆ど姿を消していることに気付いた。
「よく戻ってきたな、壮」
 声に振り返ると一人の男がいつの間にか椅子に腰掛けている。この静かな部屋でその気配は全く感じなかった。
「龍雲……」
 

 李龍雲がこの町を裏で統轄している組織の首領の息子であると知ったのは大人になって随分たってからのことだ。子どもの頃からここを遊び場にしていた宮岸にとって何人かいる近い世代の友人。龍雲はその一人だった。

「ひどいものだろう?終戦後になんとかもとの状態に戻そうとしているが壊れたものや奪われたものは戻らない。そこにあった壺は明朝のものだった。台ごと倒されて粉微塵だ。青銅の剣は奪われた。我々の母国の同胞を撃ち殺す弾を作るためにだ」
 口元は笑っている。しかし、目には烈しい怒りが炎のように揺れているのがわかった。
「壮、私はおまえを友人と思ってきた。しかし、おまえもやつらの仲間にすぎない。おまえは我々の同胞を一体何人殺してきた?」

 龍雲は立ち上がり、宮岸の脇まで足を運ぶとその哀れな生贄を冷たく見下ろした。宮岸も背の高い方だが龍雲はさらに長身で、それだけで威圧感がある。

 

 宮岸の隊は南方戦線だった。龍雲が言うように彼の同胞を、ではないが敵ならいくらでも殺した。数などわからない。

 しかし敵を殺しただけではない。

 自分の判断を誤ったせいで率いた隊の兵を無駄に全滅させてしまった。

 彼らも自分が殺したのだと宮岸は思う。
 

「早いうちに帰国した者たちもその後の運命はわからないが、残った者も地獄だった。表の連中は祖国を売り渡すような誓約を押し付けられてようやく生き延びたが、それでも無実の疑義で死ぬまでいたぶられた者もいる。貴重な調度品は贅沢だの供出だの言ってば奪われ壊され、中にはどさくさ紛れに若い女どもを襲うならず者もひとりやふたりではなかった。抑圧された憂さ晴らしを、我々相手であれば誰にも咎められなかったからだ」

 龍雲は冷たく抑えた口調でありながら早口でまくしたてた。

 宮岸は相槌を打つことすらできない。

「……銘華は4人がかりで輪姦された。銘華だけじゃない、ここの若い娘の何人かは似たような目にあっている。それも一度や二度じゃない。やつらは鍵を掛けて閉じこもっていても鍵を壊して踏み込んで来ては女たちを犯して回った。そこまでの狼藉をはたらく者は多くはなかったが特高だろうが憲兵だろうが誰も助けてなどくれない」
 眉を寄せ龍雲から目を逸らすと俯き唇を噛んだ。


 銘華──とは、龍雲の妹の名だ。


 龍雲とは年の離れた妹の銘華はその名の通り花のような美しい娘だった。その頃であればまだ十代だった筈だ。それを──
「自殺した娘もいる。望まぬ子を身ごもった娘も」
「──」
「銘華は──気がふれた。今は私の声にしか反応しない」
 目を堅く閉じ、血が滲むほど唇を噛み締め膝の上に置いた手を何かを握りつぶすかのように結ぶ。

 もしそこに自分がいたとしても止めることが出来ただろうか?

 いや、おそらく何も出来なかっただろう。

 それは狼藉を働いた者どもとどれほどの差があるというのだろうか。
 まるで自分の犯した罪を恥じ入るように宮岸はただ黙ってそうしていた。

「──壮」
 声と同時に髪を掴まれた感触。それからそれを引っ張り上げられる。
「おまえは子供のころからここで育ったようなものだ。なのにおまえは所詮やつら側の人間なのだ。裏切られたような気分だ」
「──龍雲、俺は……」
 言いかけて、言葉が途中で途切れてしまった。

 好きで戦場に出たわけではない。憎くて敵兵を殺したわけでもない。そうしたくて大事な兵たちを無駄死にさせてしまったわけではない。けれど、龍雲のやり場のない怒りが自分に向けられるのならそれは仕方ない気がした。


 龍雲は宮岸の、少し伸びてきた短い髪を掴んだまま更に引っ張り上げて立たせると突き飛ばすように床へ投げ出した。
 身を起こそうとするとその肩を龍雲の足が踏みつける。
 合図を受けたように扉の開く気配がして、何人かの人間が入って来た。
 気付くと、いつのまにか龍雲は宮岸の上に屈み顔を覗き込んでいる。目が、ひどく残酷そうに嘲笑を浮かべていた。
「4人だ。銘華と同じ思いをさせてやるよ」
「龍雲──?」
「こいつらはそれぞれ、恋人や妻をやつらに犯された。ちょうどいい」
 本能的に抵抗しようとしたが、すでに上半身は二人がかりで押さえつけられていた。声を出そうとした途端、何かを口に突っ込まれそれもままならなくなった。一人の男が自分のズボンを下着ごと引きずり下ろし脱がせるのが見えた。暴れようとするその足を広げて押さえつけられる。最後に龍雲がその間に立った。
「銘華は未通女だった。無理に入ってこられてさぞかし痛かっただろう。おまえはどうかな」
 冷たい声。
 反射的に目を閉じた。それから気を失ってしまうまで、宮岸は目を開けることができなかった。

 燭台の柔らかな光が揺れているのが目に入った。
 次に、ひどく気持ちのいい感触のものに包まれていることに気付いた。ああ、これはきっと絹だ。絹など何年触っていなかっただろう。


 頭が痛い。気分も悪い。
 身体を捩ると激痛が走った。
 それで意識がはっきりした。
 

「どうだ、気分は」
 声のする方へ視線を投げる。龍雲が小さな円卓の席について煙管を咥えていた。小さくうめいて答えにならない返事をすると龍雲は立ち上がり近づいて来た。どうやら自分はベッドに寝かされているようだ。
 龍雲はその脇に腰掛け、宮岸を見下ろした。それを目で追う。光の加減か気のせいか、龍雲の目はもう先程までのような怒りや憎しみに満ちた残酷な色は宿していないように見えた。
「吸うか」
 龍雲の差し出した煙管をのろのろと手を伸ばし受け取ると口に含む。途端にはっきりしてきた筈の頭がぐらりと揺れた。
 一口でそれを返すと龍雲は苦笑しながら受け取り、再び自分の口に咥える。
「軽い阿片だ。多少の痛みはましになる」
「……阿片は合わない。モルヒネのほうがいい」
 龍雲はまた笑った。疲れたような笑い声だった。
「しぶといな。おまえも銘華のように気がふれてしまったなら私がこれからも可愛がってやったものを」
「……悪かったな」


 沈黙。阿片の煙が蝋燭の灯りにふわふわと揺れている。
 

「掃除が大変だったよ。臭いもひどかった」
「それはそっちの勝手だろう。後始末が面倒ならそのへんの野っ原ででもやればよかったんだ」
 ふう、と龍雲が煙を吐き出す。
「……気が済んだのか」
 首を横に振る。
 龍雲は煙管を折れるのではないかと思う程握り締め、俯いて片手で顔を被った。
 

「……私は……ここを護らねばならない人間なのに……大事な妹ひとり護ることができなかった」
 

 泣いているように見える。
 おそらく阿片のせいで想いが増幅されているのだろう。宮岸はそんな龍雲を長い付き合いの中で初めて見た。
「すまない、壮……。おまえが悪いのではないことはわかっている。なのに、どうしようもなかった──」
「龍雲」
 痛みを堪えて身を起こし、龍雲の握り締めた煙管を指を解くようにして取り上げる。


 龍雲の怒りは、本当は自分自身に向けられたものだったのだ。
 

 それを、宮岸が生贄として受けるはめになってしまった。けれど不思議にそれに対する怒りはわいてこない。
「この町を陵辱したのは俺じゃない。俺が殺したのはおまえの同胞じゃない。だが、俺は当たり前のように敵兵を何百人と殺したし、俺の判断違いのせいで味方の兵も無駄に死なせてしまった。なのに俺一人のうのうと生きてここへ戻ってきた。俺は──」
 煙管を取り上げられて所在無く遊んでいた龍雲の手を握り締める。


「誰かに罰を与えて欲しかったんだ。こんなものじゃ足りないくらいだ。おまえが気に病むことじゃない」
 

「……足りないと言われるとは思わなかったな」
 龍雲は顔を上げると苦笑し、宮岸に目を戻した。困ったような顔をしている龍雲が何故か可笑しく思えてきて、笑いが洩れる。
「何故笑う」
「……さあ」


 言い終わらないうちに、龍雲の体が覆い被さってきた。
 唇が塞がれると、阿片の香りが残っている。
 宮岸は龍雲の背中に腕を回し、子供を寝かしつける時のように掌で優しく叩いた。

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 もともと帰る場所はなかったのだから自然なことだったのかもしれない。
 宮岸はそのままこの町に留まった。


 気付くと、以前はこの町に対する負い目で遠巻きに見ていた街の人間たちもいつしか美味で安価な中華料理を求めて多く訪れるようになっている。
 時代が変わったのだな、と思った。
 けれど、爪あとはそこここに転がっている。

「おにいさま」
 人形遊びをしていた女が、振り返ると花が零れるように微笑んだ。
「いい子にしていたか、銘華」
「ええ、おにいさま」
 もう既に二十代も後半にさしかかっている筈の女は、幼女のように兄にまとわりついている。
 銘華はずっとこんな調子なのだという。
 龍雲の後ろに立っている宮岸に気付くと、銘華はびくりと怯えたように兄の陰に隠れてその様子を伺った。
「銘華、これは壮だ。何度も会っただろう?おにいさまの友達だよ。銘華をいじめたりしないから隠れなくていい」
「いや、怖い……」
 龍雲は溜息をついて宮岸を振り返ると苦笑して首を振った。宮岸は了解したように手を小さく上げて銘華の部屋を後にする。


 この数年間、何度も同じ場面を繰り返した。それでもやはり銘華は兄以外の男を寄せ付けようとしない。
 銘華の受けた瑕はもう二度と癒えることがないのかもしれない。
 小さな中庭で、切り取られた小さな空を見上げる。
 同胞が犯した罪を、忘れられないように目の前にぶら下げられているようなものだ。


「壮。すまん」
 ぼんやりしている間に空に見えていた太陽はすっかり建物の影へ姿を隠していた。龍雲は何時間かを妹の部屋で過ごしてきたのだろう。
「仕方ない。銘華はおまえしか頼る者がないんだから」
 龍雲は寂しげに苦笑して宮岸の隣に腰をかけた。
「……でも見ていたらまるで恋人だ。妬けるな」
「馬鹿を言うな」
 つ、と手を伸ばし龍雲の顔を引き寄せる。唇を重ねると龍雲は舌を絡めそれに応えた。
 時代も変わったけれど自分たちの関係も変わった、と宮岸は思う。


「……私の恋人はおまえだ、壮。愛している」
 

「だけど一番大事なのは銘華、だろう?何度も聞いた」
 くすくすと笑いが洩れた。片手で龍雲の首筋をなぞりながらその喉へと唇を移動させる。もう片方はすでに龍雲の身体を弄りはじめていた。
「おい、よせよ」
 宮岸の手を退けようとする龍雲の手には力がない。
「嫌だ。今すぐ抱きたい」
「……壮」
 声に怒りが滲んでいるが目が笑っている。それを了解と判断し、宮岸はさらに龍雲を煽った。

 外へ出れば冷静で冷酷な老板。
 それが、自分の腕の中でだけほんの少し乱れる。それが愛しくてたまらない。
 身を沈めると龍雲は自ら腰を揺らし宮岸を抱きしめ何度も囁いた。

──どこへも行くな。
──ずっと私の側にいろ。
──愛している。

 それは、まるで呪文のように宮岸の体の隅々へと染み渡っていった。

 異世界のようなこの小さな空間で小さな儀式のように抱き合う龍雲と宮岸は、それを物陰から凝視める目に気付くことはなかった。

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「老板は今朝本国へ向かいましたよ。一月ばかりで帰ってくるとか。伝言があります」


 そんな話は全く聞いていなかったが、劉に言っても始まらない。宮岸は伝言と小箱を一つ受け取るとそれを開いた。
 銘華に約束していた贈り物があるのだが、急用で本国の父親の元へ行くことになったとある。
 その贈り物を銘華に渡して欲しい、という伝言だった。
「といっても銘華はまだ俺を怖がっているぞ」
 ひとりごちて、しかし近づかねばいいのだと思い直して宮岸は銘華の部屋を訪ねた。
 

 世話係の女がいることが多いのだが、今日は一人で人形遊びをしているようだ。
「──銘華」
 声を掛けると銘華は案の定びくり、と身を堅くしてこちらを伺っている。
 溜息をつくと出来る限り優しい声で語りかけた。
「銘華のおにいさまからの贈り物だよ。約束していたんだろう?さ、とりにおいで」
「……おにいさま?」
 ふいに、銘華が反応した。目をぱちぱちと瞬かせ、じいっと宮岸の顔を凝視している。
 赤ん坊が這うように、四つん這いになって銘華は宮岸の足元へやってきた。その場にぺたり、と座るとまだ銘華は宮岸をなにか不思議なものを見るようにみつめている。
「銘華?」
 宮岸から目を逸らしもせず銘華は小箱を受け取り、そこで初めてそれに視線を落とした。
 小箱を開けるとそれは上品なオルゴールだった。
 可憐で美しい音色が響く。
 銘華は嬉しそうに微笑むとそれをじっと眺めていた。


 安心したようにその場を立ち去ろうとした時ズボンの裾を引っ張られて振り返る。
 銘華がにこにこと微笑みながら宮岸を見上げていた。
 何年間も、何度龍雲が紹介してもどうしても馴染んでくれなかったのに、ようやく銘華は宮岸が怖れるべき相手ではないことを理解したかのようだった。
 これは龍雲に報告せねばなるまい。きっと龍雲は喜ぶだろう。これがきっかけで銘華は少しはよくなるかもしれない。
 そう思ったとき。


 銘華が立ち上がり、宮岸の手をとった。

 オルゴールは床で可憐な音を立てつづけている。

「銘華──?」


 銘華は、宮岸の手をゆっくりと自分の胸に押し当てた。
 

 動作は子供のようでも、身体は大人の女だ。掌に柔らかく十分な膨らみの感触がする。
 ただ、戸惑った。
 銘華は不思議そうな顔をして、今度は背伸びして両腕を宮岸の首に回した。そして──
 宮岸の唇を覆った。
 小さく、何度も接吻を繰り返すと花弁のような舌を出して宮岸の歯の間からそれを侵入させ、吸い付くように絡める。
 目を閉じた。
 その波に呑まれそうになって我に帰り、宮岸は銘華を引き離した。
 銘華は更に宮岸の両手を取り、片手を自分の胸に、もう片手は尻へ導く。


 宮岸は混乱した。銘華はならず者たちに輪姦されて気がふれてしまったのではなかったか。


 なのに何故、このような真似をするのだ。だいいち、犯されたとき銘華は処女だったと龍雲は言っていた。それ以来龍雲以外の男は寄せ付けていない筈だ。しかしこれではまるで春を売る女が客の男を誘っているようではないか。

──まさか。

 頭に浮かんだことを否定するように宮岸は首を振った。
 銘華はやはり不思議そうに、そして少し悲しそうに宮岸を見ている。そして──

「おにいさまみたいにして…」

 

 ぎくり、と宮岸は身を強張らせた。
「銘華──きみは……」
 ふつふつと、何か掴みようのない感情が湧き上がってくる。
 体が痺れているような気がした。
 銘華の胸にあてがわれた掌に、力が入った。

 銘華の部屋を後にすると、吐き気が襲った。
 龍雲と関係する前は宮岸も女を抱いていたからわかる。
 あれは、昨日今日で馴らされた身体ではない。
 今まで見てきた幼女のような娘からは想像もできない。ねだり、宮岸のものを美味そうに頬張り、自分の悦いように腰を回し、淫らな声を上げ──


 あの娘を、龍雲がそんなふうに仕込んだのだ。
 何よりも大切だといった妹を。
 男たちに輪姦され疵を負った妹を。
 龍雲はずっと犯しつづけていたのだ。
 恋人はおまえだといった。
 愛していると、ずっと側にいろといった。
 おそらくその数十分前まで龍雲は銘華を抱いていたのだ。


 気付くと、宮岸の目からは涙が溢れていた。

 それから宮岸は龍雲が帰ってくるまでの一月の間、毎日のように銘華の部屋に通った。
 復讐でもしているつもりだったのか。
 自分でも何故そんな真似をするのかわからないまま、足は銘華の元へ向かった。
 最初の数日間こそ顔を出すといつものようにびくびくとしていたものの、銘華は宮岸の顔を見ると最初からむしゃぶりついてくるようになっていった。


 龍雲はどんな風にこの娘を抱いているのだろう。
 そう思うだけで銘華を滅茶苦茶にしてしまいたい衝動が走る。
 もっと淫らな女にしてやる。
 帰ってきて銘華を抱いたとき、他の男の味を覚えたのだということがすぐにわかるくらいに──


 それが俺だとわかったとき、龍雲はどんな顔をするだろう。
 俺を殺そうとするだろうか。
 想像するだけでぞくぞくする。
 早く帰って来い。
 銘華にしたのと同じように抱いてやるから。


 宮岸は日課のように毎日そう心の中で唱え続けた。

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 闇の中で龍雲の身体が揺れている。
 荒い息の下で奇妙に冷静に宮岸は龍雲を苛んでいた。


 ほんの数時間前、龍雲は帰ってきた。
「銘華にはもう会ったか?」
 返事は声にならなかった。ただ、首を横に振っている。
 笑いが洩れた。
「大事な妹より俺に先に会いにきたのか。嬉しいな」


 会ったとき、銘華を抱いたとき、どんな顔をするのか見たい。
 見ることができるわけではないが、見てみたい。
 

「龍雲……愛してるよ」
 笑い含みに囁くと龍雲は小さくうめいて宮岸の手の中で果てた。

 翌日、龍雲は宮岸を伴って銘華の部屋を訪れた。

 今まで通りなら銘華は宮岸を怖がり、宮岸が自ら退出してあとは二人の時間になる筈だ。
 銘華はいったいどういう行動をとるだろう。


「おにいさま!」
 

 ひと月ぶりに会った兄に銘華は嬉しそうに駆け寄り、胸にしがみついた。それを龍雲は愛しそうに受け止め、髪を撫でている。
「長い間留守にしてすまなかったね。いい子にしていたか」
「ええ、おにいさま」
 いつものように微笑むと銘華は宮岸に気付き、そして宮岸の胸にも同じように抱きついた。


 龍雲が目を丸くしている。
 宮岸はぷっ、と吹きだした。
「驚いたか?銘華はやっと俺にもなついてくれたよ。これできっと少しずつでもよくなってくるさ」
 銘華の頭をとんとんと叩きながら引き離す。
 龍雲の顔にさっ、と暗いものが走ったのを宮岸は見逃さなかった。
「さあ、銘華。大好きなおにいさまだ。ぞんぶんに可愛がってもらいなさい──じゃあ、龍雲。久し振りに水入らずでゆっくり過ごせよ」
 そう言って宮岸はその場をあとにした。笑いが止まらなくなりそうだ。
 壮、またね──と、銘華の声が背中に聞こえた。

 いつもと同じように、中庭で龍雲を待つ。
 考え事をしている時はあっという間に時間が過ぎたものだが、今か今かと待っているとなかなか時間は過ぎないものだな、などと考える。しまいには宮岸はその場で座ったまま居眠りを始めていた。

 

「壮」

 目を開けると、龍雲が座っていた。
「どうした、顔色が悪いぞ龍雲」
 待ちに待った時が来たのだ。沈黙の後、龍雲がようやく口を開いた。

「……銘華を抱いたか」
「ああ」

 殴るか。蹴るか。いや、いきなり刺すか、撃つか。
 

 しかし、そのいずれでもなかった。
「……では、わかってしまったのだな」
 宮岸は眉を顰めた。龍雲は自嘲するような微笑を浮かべている。
「私が妹を抱いていることを。おまえは知ってしまったのだな」
「龍雲──?」
 龍雲は宮岸の想像したいずれの行動もとらなかった。宮岸に向き直り、縋るように抱きしめる。
「おまえは私を軽蔑したのだろう。だから銘華を抱いた。そうだな」
「……」
「そうだ。私は銘華を愛している。だがおまえを愛しているのも本当だ。だから頼む──私から離れないでくれ」


 宮岸は──叫びだしそうになった。
 何故怒らない。
 そうだ、俺はおまえを軽蔑した。そして、おまえの愛する妹を犯した。
 銘華を輪姦した連中とどこも変わらない。

「おまえの大切な銘華を犯した俺を、それでもおまえは離さないというのか」

 口から出た言葉は、叫びとはかけ離れた呟きにしかならなかった。
「それほど俺に抱かれるのが悦いか?怒りも憎しみも感じないほどに」


 くすくすくすと。
 宮岸は笑った。
 

 龍雲は眉を寄せたまま、答えない。
「なら望み通り抱いてやる」
 銘華にしたのと同じように──


 宮岸は乱暴に龍雲の唇を塞ぐと、掌で、指でその身体を弄び始めた。

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レッドランタン

*Note*

​突然何が始まったのか、って話ですがこれ実はこの2編だけ読んでも誰の話かわからないんですよね。先に「食卓」を読んでもらったら何の話か最後にはわかると思います。あるいはこれの続きに「食卓」を読むと答え合わせが出来る感じです。

​繰り返しますがこのお話の舞台は地球、あるいはこの世界によくにた別の星/異世界の話なんで、だいぶセンシティブな舞台設定になっていますがツッコミは無用に願います。「この物語はフィクションです。実際にこっちの世界であったかもしれない歴史的な出来事とは一切関係ありません」と思って読んで下さい。

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