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罪 -6- 姉妹

 窓の外をぼんやりと眺めていると、いつの間にかまた季節が巡っていることに気づく。
 青乃がここへ来てからもう何度目の桜だろう?

 あれから──青乃が別邸からここへ戻った日以来、青乃の姿すら椎多は見ていなかった。
 

 青乃はあの別邸で恋人を作って駆け落ちでもしようとしていたという。その相手はすぐに処分された。──その事を椎多が知ったのは、青乃がここへ戻ってからのことだ。すべて紫が独断で行ったことである。

 相手がどんな男だったのか、椎多は全く知らない。見たこともない。青乃に同行させていたメイドの冴によれば、穏やかで優しい男だったという。


 青乃はその男を愛したのだろう。
 青乃は別邸に移る前、妊娠していたのを自分で無理に堕胎したのだとも聞いた。
 それほどまでに、青乃は椎多を憎んでいたのだろう。
 金と暴力で自分を蹂躙する夫から逃れ、正反対の優しい男に惹かれたのだ。
 その男に抱かれて、青乃は幸せだったに違いない。

 やり場のない感情が爆発しそうになるのをかろうじて堪える。紫に八つ当たりするのももう出来ない。これ以上青乃のことで紫に当たれば、あの馬鹿は次は青乃を殺そうとするかもしれない。
 

 紫は──
 椎多のやりそうなことを先回りして、いつも自分で被っている。それでも、あの男は涼しい顔をしているのだ。だから、ずっと手元で好き勝手に使えるように思っていた。


 紫が傷を負い、もう右手の指が元通りには動かなくなったと知った時椎多は初めて紫も生きた人間なのだと理解したのかもしれない。
 深手を負えば──命を落とすこともあるだろう。
 それでもあいつは涼しい顔をしているのだろうか?

 ぞくり、と背筋が寒くなった気がする。
 煙草を吸っていてもなんだか味がしない、と思った。

 

 ノックの音がして返事をすると、ドアの陰から現れたのはトレーニング中とおぼしき柚梨子だった。
「こんな格好で失礼します……急ぎのお呼び出しだとお聞きしたので」
 見ると汗こそ拭いてきたのだろうが手足の見えるところは殆ど痣と擦り傷だらけである。トレーニングスーツに隠れた部分も推して知るべしだろう。美しい顔も例外ではなかった。
「それほどの急ぎでもなかったのに、すまなかったね。うわあ、えらいことになってるな、可哀想に。紫のやつ、女の子だからって手加減しないんだろ?顔くらい避けてやればいいのに、全く野暮なヤツだ」
「いいえ、あたし、早く一人前にならなければならないのでしょう?手加減されては困ります」
 椎多はにっこり微笑んで柚梨子を手招きし、座らせた。冷たい飲み物を運ばせる。
「どう?訓練は辛い?」
「いいえ、大丈夫です。──あの、旦那様」
 ん?と身を乗り出すと柚梨子は一旦ぎゅっと唇を噛んだ。
「みずきの事なんですが……」
 ああ、と大げさに頷くと椎多はソファにもたれ掛かり、足を組んで笑った。
「あたし、本当に何でもします。どんな事だって。でもあの子だけは、絶対に汚したくないんです」
 椎多の笑顔と裏腹に、柚梨子は切羽詰った顔で懇願している。何度確認しても不安なのだろう。椎多は一瞬目を眇めてその顔を凝視めると、いつものにっこりとした笑顔を作った。
「心配しなくていいよ。だいいち、彼女がそういう血なまぐさい仕事に向かないことくらい私だって判るさ。今はメイドの仕事を覚えてもらってるよ。部屋も隣なんだろう?話したりはしないのかい?仲良し姉妹なのに」
「お互い時間が合わなくて……ここ暫く、妹の寝顔くらいしか見てないんです」
 寂しそうに柚梨子は笑った。

 この娘は、どうして自分のことをこんなに差し置いて、妹に全てを注ぐことが出来るのだろう?

 紫が伯方との駆け引きで人質同然に連れてきた若くて可愛い姉妹。それだけの認識しか無かった。
 この時初めて椎多はこの姉妹に興味を持ったといっていい。


「──さて、トレーニングは途中?だったらもう戻っていい。今の様子を聞きたかっただけだから……呼び出して悪かったね」
 椎多が立ち上がるとそれに促されて柚梨子も立ち上がりぺこりと頭を下げた。顔立ちは大人びているがまだ動作の端々に少女っぽさが残っている。退出しようとするのを呼び止めると柚梨子はドアの前でくるりと振り返った。指で柚梨子の顔の擦り傷あたりをなぞりながら顔を近づけ、笑う。柚梨子があまりの近さに動揺しているのが手に取るように判る。
「おまえのことがもっと知りたくなって来たな。こんど時間に余裕がある時にゆっくり話を聞かせてくれ」
「は、はい……」
 距離のせいか相手の目を正視することが出来ずに柚梨子は視線を落としている。それを下から覗き込むように身を屈めるとゆっくり唇を塞いだ。
 柚梨子がぱちぱちとまばたきをしているのが判る。
 笑いそうになって顔を離すと、まだぼうっとしている柚梨子を部屋から送り出した。


 それなりに経験を積んできていてもおかしくない年のはずだが、あの様子ではまだ男を知らないのかもしれない。
 そんな娘をからかったからといって気が晴れるわけでもないだろうが、少しは退屈しのぎになる。それに──やはり姉が妹にあそこまで尽くしているのが奇異に感じるのだ。


 あの娘は、この先何があってもああして妹を守ろうとしていくのだろうか?
 妹もいつまでも子どもではない。妹が自ら姉の手を離そうとしたなら、姉はどうするのだろう?
 あの娘がもしも恋をしたなら、妹との関係はどう変化するのだろう?

 研究者が新たな研究対象を見つけたように、椎多はその考えを頭の中で張り巡らせてほくそ笑んだ。
 否、何か面白い事でも考えていなければ──
 外れて転がった歯車で自分自身がずたずたに切り裂かれてしまいそうな気がしていたのだ。

 


──どうしよう。

 

 柚梨子は椎多の部屋を出るなり、走ってそこを後にした。
 トレーニングルームの手前まで来ると立ち止まり、乱れた息を整える。
 指で自分の唇をなぞると、整えた筈の鼓動がまた乱れる気がした。
 顔が熱い。

──だめだめ。

 

 椎多の意図はわからない。しかし明らかなことがある。
 椎多は青乃の夫なのだ。
 伯方のもとで訓練を受けていた時は、伯方本人こそ何も話してはくれなかったが、他の使用人や龍巳から青乃が夫から酷い仕打ちを受けていたことは聞いた。現在の青乃が使用人に厳しく当たりすぎるのも、もとはと言えばそれが原因だと。詳細を聞こうとすると誰も口を開かなかったが、とにかく青乃の夫である嵯院椎多は乱暴者の鬼のような酷い男だということはわかった。
 最初に椎多に対面した時の印象はその先入観に基づいたものだったのかもしれないが、自分のような小娘に平然と殺し屋になれと言うあたり、あながち誇大した悪評判ではないのだろう。ただ、椎多と向かい合って話してみると、この人のどこにそんな──妻に暴力をふるって言うことを聞かせるような──面が隠れているのか判らなくなるのも事実だった。
 いずれにせよ、同じ邸内とはいえ事実上別居しているような夫婦ではあるが、現在も椎多は青乃の夫なのである。妻のある男にキスなどされても困る。

──あんなの、彼にとっては浮気ですらない。若い娘が来たからってちょっとからかっただけなんだわ。

 そんなことは十分わかっている。それなのに、跳ねた鼓動がなかなかおさまらない。
 トレーニングルームの前で何度も深呼吸をする。
 中では紫がまだ待っている筈だ。動揺したまま戻ったりしたら、絶対に何かあったと勘繰られてしまう。叱られるかもしれない。
 もう一度息を整えてドアを開けた。
「戻りました。申し訳ありませんでした」
「──何の件だった」
「いえ……特別なことは何も。ただ、訓練は辛いかとかそんな事をお尋ねになりました」
「そうか……」
 紫は右手に視線を落としたままいつもと全く変わらぬ表情と声の調子で言った。


 紫の右手首に巻かれていた包帯はもう取れている。しかし、まだ生々しい縫い傷が目に付いた。その怪我がもとで現在紫の右手の指は殆ど機能していないというが、普段訓練を受けていてそれを意識するような事は全くなかった。
 ただ、こういうふとした合間に紫はよくその傷を睨むように見つめている。
 表情を変えない紫の気持ちを汲み取るほどにはまだ紫のことは何も知らない。動かない指に対して苛立っているのかもしれない──と想像するしかできなかった。


「椎多さんは──」
「はい」
「──いや、なんでもない。さっきの続きだ。一分で俺から武器を奪ってみろ」
 そう言って紫は柚梨子に向き直り、左手に特殊警棒を構えた。

 そういえば、椎多は紫に対してはいつも随分そっけない態度をとっている気がする。ここへ来てからまだそう日数は経っていないからこの主従について何も知らないのも同然だが、椎多の紫に対する態度は他の使用人に対するそれとは明らかに違う。自分を含め使用人には基本的には優しく紳士的に接している椎多が、紫に対しては大抵怒ったような──喧嘩をした後の気まずい空気のような──接し方だ。口調や言葉遣いまで変わる。
 おそらく、紫と接している時の椎多がきっと本来の椎多の姿なのだろう。紳士的な態度など誰にでも出来ることだ。ただ、仲が悪いのか気を許しているからそうなるのかまではまだ柚梨子には判断がつかない。
 その瞬間、特殊警棒で腹を強かに打ち据えられた。
「敵に対する時に余計な考え事をするな。命取りだぞ。おまえが先にやられたら誰が椎多さんを守る」
「はい」

 少なくとも──

 紫は、椎多を守ることを仕事だからと割り切ってこなしているわけではない。それどころか、それが紫のアイデンティティそのものであるかのようにすら見える。行動原理の全てが、椎多を守るという一点に帰結していく。
 それだけは、何故か確信できた。

 あのひとを──守る。

 確かに紫は自分に人を殺すためのレクチャーをしている。しかし、今やっている訓練の殆どは護衛として間違いなく椎多を守ることが出来るための術を体得するために行われていると言ってよかった。
 暗殺者としてではなく、現在紫がそうしているように──影のように常に従っている存在に──

 自室に戻って汗を流すと途端に眠気が襲ってくる。体が鉛のように重い。眠りに落ちそうになりながらそこまで考えて、突然椎多の唇の感触を思い出した。
 今の今まで目を閉じれば3秒で眠れるくらい眠かったというのに、また胸の鼓動が早く打ち始めてなかなか寝付けない。

 みずきの寝顔を見に行くという日課を、柚梨子はここへ来て初めてすっかり忘れてしまっていた。

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 メイドの制服といえばフリルたっぷりのロリータ系だとかヴィクトリア時代のイギリス風、現実的に言えばレストランのウェイトレス風が連想されがちだが、嵯院邸のメイドの制服はどちらかといえばオフィスや客室乗務員の制服に近い。
 屋敷の主人である椎多の好みによるもので、父の時代にはもう少し女性らしくふんわりしたデザインの制服だったがそれを一新したのだ。
 柚梨子には多分──まだ着せたことは無いが──現在の制服の方が似合うと思うがみずきには可愛らしい制服の方が似合いそうだな、と椎多は思った。


「どうだ、仕事には慣れてきたか?」
「はいっ!」
 

 良い返事だ。
 頭の良さそうな娘には失礼ながら見えないが、「はい」という返事だけは間延びした「はぁい」ではなく短く弾むように「はいっ」と発音する。他の喋り方はそれこそ間延びした、おっとりとしたものなので余計に「はい」の返事の弾むような声が目立つ。それがみずきの素直さや可愛らしさを強調している気がした。しかも、いつも何が楽しいのかと思うくらい満面の笑顔である。つられてこちらまで笑顔になってしまいそうだ。


 周囲に愛され可愛がられる娘なのだろうなと思った。

 そして、それは柚梨子がそのように育ててきたのだろう。
「姉さんとなかなか会えないんだって?寂しいだろう」
「はい、でも、皆さんが優しくして下さるので平気です」
 言葉の後ろに音符のマークでも付いているようにみずきは答えた。しかし、その弾けるような笑顔が少し曇った。


「あの、だんなさま」
「ん?」
「──おねえ…姉は、人殺しの仕事をしてるんでしょうか」

 ああ、そういえばあの時みずきもそこに居て聞いていたのだった。

「そうだけど、それを他の人に絶対に言ってはいけないよ。判ってるな?」
 あの、弾むような「はい」は口にせずみずきは黙って頷いた。流石に、そこまで馬鹿ではないらしい。

「あの、あたしにもやらせてください」

「──何だって?」
 うっかり聞き逃しそうになり、聞き返す。みずきは真剣そのものという顔をしていた。もっとも、その表情すら可愛いらしい。
「何を言ってるのか自分でわかってるのか?虫を退治するのとはわけが違うんだぞ」
「わかってますよ。姉があたしのために、辛いことは全部自分で引き受けちゃってることも。でも、あたしだっていつまでも子どもじゃないんですよ。姉に全部押し付けて、自分だけ楽しくて安全なお仕事をしてるってわかってて今まで通り笑ってなんかいられないです」
「──」


 ただ姉に保護され苦労知らずで無邪気に育ってきた娘だと思っていたが、本人の言う通りいつまでも子どもではない。姉が自分のためにどれだけ尽くしてきてくれたかはよく判っているのだろう。
 しかし、この娘はやはり自分が何を言っているのか判っていない。
 柚梨子がこの娘を汚さないためにどれだけの犠牲を払おうとしているかも。
 みずきはあの可愛いらしい笑顔をひそめて視線を落とした。
「──じゃあ、だんなさまにだけ、お教えしますね。おねえちゃんには秘密にして下さいね」
 みずきを座らせて自分は向かい側のソファに腰を下ろす。何か重大な告白が始まるらしい。みずきは深呼吸して顔を上げると、椎多の目をまっすぐ見て口を開いた。

「あたし、もう人殺しなんです」

 

「──え?」
 何かの聞き間違いか、それとも比喩か──


「中学3年生の夏休みに、学校の友達の家に泊まりに行くと姉に嘘をついてあたし、彼氏のところへ行きました。友達も自分の彼氏と旅行に行きたいから、お互いに口裏を合わせて。彼は大学生でした。彼のお父さんが山に別荘っていうかロッジを持っていて、そこを黙って使わせてもらったんです」


──おやおや。
 

 姉はああ見えてまだ男を知らないようだと思ったが、この子どもっぽい可愛らしい娘の方がちゃっかりやる事はやっているのではないか。
「二人でテラスでバーベキューをやったりして、それから一緒にお風呂に入ったりして、あたしたちラブラブですっごく楽しかったんです。でも──」
 みずきはそこで身を縮めるように肩を竦め、うつむいて大きく息を吐いた。
「テラスの下は山の斜面で油断したのもあって、窓を開けたままエッチしてたら、知らない男の人が二人入ってきたんです。たぶん、もっと早くに忍び込んで、あたしたちがエッチし始めたのを見てたんだと思います。あたしの上にいた彼氏を一人の人が引き離して、ぼこぼこに殴りました。何が起きたかわかんないうちにあたしはもう一人に押さえつけられて、その人たちに乱暴されて──殴られて倒れてた彼氏があたしを助けようとして立ち向かってくれたけど、その人たちはナイフを持っていて、彼氏を刺してしまいました。そしたらもっとテンションが上がっちゃったみたいで、その人たちはまた何度も、かわるがわるあたしを犯しました。口の中にアソコをつっこんできたり」
「みずき──もういい」
 とんでもない告白だ。そんなことを思い出すのも辛いだろう。しかしみずきは首を横に振って顔を上げた。
「だからあたし、思い切り噛んでやったんです。そいつのアソコ」
「……」
「あたし、歯は丈夫だから。ちぎれちゃったかも。そいつはものすごい声で叫んでのたうち回って、気を失ってしまいました。もう一人がそれで怒って、あたしの彼を刺したナイフを持って切りかかってきました。でもあたし、テル先生のとこで護身術とか習ってたじゃないですか。あんな時なのに不思議と身体が動いて、あたしそいつからナイフを奪い取って」

 それで──

「それであたしはそいつを刺しました。一度刺したら、それまでとにかく逃げたくて夢中だったのに急にそいつらが憎くなってきて、何度も刺しました。動かなくなってもまだ刺しました。それから気を失ってたやつの方も。刺しすぎて、内臓が見えてきてやっとあたし気持ち悪くなって。トイレ行っていっぱい吐いて、それから血だらけになってたからシャワーを浴びました。あたしの荷物は汚れてなかったから服を着て、警察に知らせようかと思ったんだけど、あたしが刺しちゃってるし、それに嘘をついてそこへ行ったことがおねえちゃんにばれたらものすごく叱られるだろうなと思って──それでそのままロッジを出ました」

──それから。

 

「山って言っても駅から歩けるくらいの距離だったから、駅まで行って、始発に乗って帰ってきました。その後、彼の両親がロッジで現場を見つけてニュースになってたけど……あたしと彼、まだ出会ったばかりで、それもたまたま彼にナンパされて付き合い始めたところだったからまだ誰も彼が付き合ってたのがあたしだって知らなかったんです。あたしも友達にも彼を紹介したりしてなかったし。誰か女がいた筈だということはわかったけど、結局それがあたしだってことは警察も突き止められなかったみたいです。不思議ですよね」
「──」
「あたしは家にも平気な顔をして帰って、口裏を合わせてくれた友達にも彼とラブラブで楽しかったよって報告して、夏休みが終わったら普通に学校に行って──。あたし、おかしいでしょう?彼氏が目の前で殺されて、知らない男にめちゃくちゃ犯されて、それで2人も殺したのに、いつも通り学校行ってご飯食べて遊んで笑って。たぶんね、あたしあの時ちょっとおかしくなっちゃったんだと思うんです」

 みずきはふう、と息を吐くとテーブルの上の飲み物を一気に飲み干し──笑った。
 あの可愛らしい、満面の笑顔で。

「だから、おねえちゃんよりあたしの方がずっと、人殺しの仕事は向いてると思います。あたしが出来るようになってれば、おねえちゃんがする仕事の数も減るでしょう?」

 

 椎多は立ち上がるとみずきの隣に席を移した。

──まったく、この姉妹は。

 まじまじと、みずきの顔を眺める。今この娘が語った過去が作り話に思えるほど純粋で無邪気な顔だ。
 恋人を殺され、意に沿わぬ男に犯され──
 それは青乃とてそうではないか。
 反撃して相手を殺してしまったみずき。椎多が青乃にそんな風に殺されてもおかしくなかった。
 背中から腕を回し、みずきの肩を抱き寄せる。
「わかった。ただ、柚梨子の気持ちも大事にしてやらなきゃならないだろう?おまえにやってもらうとしてもまあ、隠密みたいなもんだ。普段はこれまで通りメイドをやっていて欲しい。訓練についてはこれから考えるよ」
「隠密ってなんかかっこいいですね」
 やはり無邪気に、語尾に音符がついたような声でみずきは答えた。

「──そんな目に遭って、みずきは男が憎いとか怖いとか思わないのか」
 みずきは椎多の顔を見上げるとぱちぱちとまばたきをした。普段あまり似ているとは思わないが、やはり柚梨子の妹なのだなと思う。
 しかし、距離の近さに戸惑って目を逸らした柚梨子とは違い、頬が触れるかという近さなのにみずきは臆する様子もなく椎多の目を見上げている。
「相手によりますよー」
 試しに唇を寄せてみるとみずきはあらかじめ口を可愛らしく開いてそれを迎えた。姉のぎこちなさとは対称的だ。
「人によるのか。私は?」
「試してみてもいいですケド」
「──今から試してみてもいい?」
「あたしは出来たらちゃんと夜ベッドでノーマルのがいいんですけど、こういうトコで服着たままするのが好きな人っていますよねー」
 肩を抱いていた手を腰にすべらせていくと、みずきはくすぐったそうに少し身を捩って笑った。
「ただ、こっちからもひとつ注文がある」
「なんですかぁ?」
「──噛み切らないでくれよ」
 ぷうっと吹き出し、みずきはけらけらと可愛らしい笑い声を上げた。本人の印象とはかけ離れた艶めいた声がそれに混じってゆくのに、そう時間はかからなかった。

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 紫の呆れたような溜息が椎多を苛立たせる。
「柚梨子だけでも厄介なのに、あののんびりした小娘まで指導しろとおっしゃる。酔狂もいい加減にして下さい」
「あれは柚梨子よりよほど実戦型だ。嘘だと思うなら一度訓練をつけてみたらどうなんだ」


 どうしてこんなに苛々するのか。
 紫はいつものように平然とした顔をしている。ただ、椎多の提案に呆れたりうんざりしていることは困ったことに判ってしまうのだ。


「あの娘たちはもとはといえば実際に使うためではなく、伯方の弱みを握ることが目的でこちらに引き取ったんですよ。勿体無いでもあるまいし、何も無理に使うことはありません。メイドで十分じゃないですか」

 紫の言うことは特に間違ってはいないだろう。
 わざわざあんな素人の若い娘を殺し屋に育てる意味など無い。


 みずきの告白が本当なら、尚更そのトラウマを刺激するのは本当なら残酷な仕打ちの筈だ。柚梨子にしてもあの真面目そうな娘の手を、妹や恩師の命を盾に脅迫してまで汚させるなど──
 自分の女に売春をさせて稼がせるヒモ男の方がいっそ可愛げがあるというものだ。

──蝶の羽を毟って遊ぶ子ども。

 

 いつだったか、紫が椎多をそう表現したことがあった。
 そうだ。
 あまりに美しすぎるものは毟ってバラバラにしてやりたい。
 美しいものが堕ちた時、どうなるのかを見てやりたい。

「おまえは俺の命じることに従ってりゃいいんだ。それとも──ご褒美でも無けりゃいう事をきく気にもならないか?」

 椎多は紫のネクタイを掴み、ぐいっと引っ張るとその唇に噛み付くように接吻けた。
 無意識のうちに、左手で紫の右手を握りしめる。
 何十秒もそうしているかのような錯覚に囚われ──
 ふと薄目を開けると、紫の表情は苦痛に耐えているように見えた。
 顔を離すなり、思い切り平手でその頬を張り飛ばす。
 その勢いで、デスクの上に置いていた酒のグラスも薙ぎ払った。

「もういい出てけ!俺の命令に逆らうのは許さないからな!」

──なんだか、泣きそうだ。

 

 その時、遠慮がちな小さなノックの音が聞こえた。

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 椎多の私室のドアをノックしようとした瞬間、その中から大きな声と何かの物音が聞こえた。この部屋の主の怒声であることは間違いなさそうだ。
 柚梨子は椎多があんな風に怒鳴っているのを目の当たりにしたことはない。
 しかし、ここで引き返すわけにもいかず、物音と怒声が収まった一瞬にドアを叩いた。
 ほんの短い間を置いて、返事が聞こえる。
 ドアを開けると柚梨子と入れ違いに紫が部屋から退出していった。

 紫の表情が妙に目についた。

「──旦那様?」
 椎多は暗い夜の窓の外を見ていて柚梨子には背中を向けていたが──
 デスクの脇に置いてある屑箱を力任せに蹴飛ばした。
 その大きな音に、びくりと萎縮する。
 床を見ると、散らばった屑箱の中身の他にも、酒とおぼしきグラスが転がったままだった。先程の大きな物音はこれをぶちまけた音だったのかもしれない。
 振り向かずに窓枠に両手を掛けて再び窓の外へ向き直ったものの、椎多の全身から何か苛立ちのようなものが発せられているのは柚梨子にも判った。

──どうしよう。

 

 呼び出されたのだから、用事がある筈だ。だが、どうにもそんな雰囲気ではない。
 くるりと柚梨子を振り返ると椎多はずかずかと大股で近づいてきた。その動作ひとつひとつがまだ苛立っている。戸惑う暇もなく、腕を引っ張られた。
「ちょっと来い」
 そのまま奥のドアを開ける。
 奥はベッドルームになっていた。
 椎多が自分の妻を抱くのにも殴ってでも無理強いしていたという話が頭を過ぎて、突然柚梨子は恐怖に駆られた。
「旦那様──」
「座れ」
「え?」
「いいからそこへ座れよ」
 逆らうことも出来ず、言われた通りに広いベッドの上に腰掛ける。
「ちょっと膝貸せ」
 椎多は自分もベッドの上に上がるとそのまま柚梨子の膝を枕に横になった。
「──」
 戸惑いながら見下ろすと、椎多はどこを見ているのか──泣きそうな顔をしていた。
 探るように手を泳がすと、柚梨子の右手を探りあて握り締める。それから手首に、掌に、そして指に順に接吻けた。
 膝と右手に全身の神経が集まってしまったような気がする。
 その右手に視線を落としながら、ふと紫の右手を思い出した。

──このひと、もしかして。

 

「……旦那様、酔ってらっしゃるんですか」
「悪いか」
 いいえ、と小声で返す。どうすればいいのか柚梨子にはわからない。
「──なんで俺はこうなっちまうんだろうな……」
 聞き取れるかどうかの小さな声で椎多は呟いた。独り言なのだろうか。
「柚梨子──」
「………はい」


「俺にくっついてたら、そのうち死ぬぞ」
 

 どきりとして顔を見直すと、椎多は笑っていた。自嘲するように。
 

──ああ。
 

 椎多は恐れているのではないだろうか。

 紫を失うことを。

 視線がぶつかった途端、椎多は身を捩って柚梨子の腹に顔を埋めるように腕を回して抱きしめた。そのあたり一帯が痺れたように感じる。おそるおそる左手でその頭に触れてみた。

 

──どうしよう。

 

 こんな椎多の姿は見たことがない。
 鬼のように恐ろしいという評判の乱暴な男?
 常に微笑んでいる紳士的なご主人?
 評判で聞いていたのとも自分が見ていたのとも違う、何かに怯える子どものように弱々しい男がここにいる。


 心拍数が上がって息苦しい程だ。

 このひとは孤独なのかもしれない。

 そんなに紫を必要としているなら、あんな態度で接しなければいいのに。
 妻の青乃を必要としていたなら、もっと大事にしてあげればよかったのに。
 それが出来ずにいることで、どんどん孤独になっていく。
 あんなに器用に何でもこなしているように見えるのに、本当は誰より不器用で──

 上半身を屈めて、椎多の頭を抱きしめる。
「──あたし、旦那様をずっとお守りします。早く一人前になって、どんなことからもお守りします。だからずっとおそばに置いて下さい」
 その言葉を聞き届けたように頭を浮かせると椎多は柚梨子の身体をそのままベッドに押し付けた。
「──おまえも、馬鹿か」
「はい」

 愛しくてたまらない。
 このひとの役に立つなら、このひとを守るためなら、あたしはきっと何だって出来る───

 

 胸のボタンを外す指にも、スカートの中を探り始めた掌にも、もう戸惑うことはなかった。

Note

​みずきがあのかわいらしいキャラで殺し屋をやってるっていうのを、過去になんか麻痺するような出来事があったということにしたんだけどさすがに名前元のお嬢さんが見ている間にはあれは書けませんでした。書く側としては完全に切り離して書いているとはいっても自分のHN(もしかしたら本名由来)を使ったキャラがああいう目にあって、って気分悪いでしょうし…。なんかほんとごめん。ご本人とはもうずいぶん会ってないな。お元気だろうか。

​チャットで設定遊びしてた時に、何故か私(=嵯院)が『一見笑顔の素敵なさわやかイケメン社長だけど実はめっさ怖いヤクザの組長』ってことになってしまい、その上『妻一人愛人3人(うち一人は男)』と決められてしまった(私じゃないよ!周りがそういうことにしたんだよ!!)せいでTUSの中では男の愛人(これが後に紫さんになる)は出て来なかったけど残りの愛人2人がこのゆりこみずき姉妹になったんですよね。シリアスで書こうとしたら相当酷い男ですね、嵯院。まあもともと酷い男なんですが。

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