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罪 -24- 最後の公演

 学園祭に賑わう学内の外れ、プレハブのボックスに集まったメンバーの顔を見回すと元はひとつ咳払いをした。

「いよいよ本番だ。講堂使わせてもらえる公演は年1回だから気合入れてくれ。この大事な時に休みがちになってしまってほんとごめんな。みんなのこと信頼してるから今日は思った通り表現して欲しい」

 出演者はすでに衣装を身に付け、メイクも完了した状態で主宰の言葉を聞いている。

「それと、これは俺の個人的な、勝手な話なんだけど──この公演が終わったら俺はこのサークルから引退させてもらおうと思ってるんだ」

 しんとしたボックスが一気にざわつく。
「おまえが作ったサークルなのに何言ってんだよ。脚本と演出どうすんだよ」
 主演俳優が困惑した顔で言う。
「て言ってもこれは学内のサークルだしいつかは卒業して後輩に継いでってもらうもんだから。一足先に卒業するって思ってくれたらいいよ」
「やめてどうするの、学外に劇団でも作るの?だったらそっちに入りたい」
「そうだよ。俺ら、おまえの作る舞台だからやってるとこあるんだから」
「先輩が火傷で休学してる間も、新作やらずに再演とかやって待ってたんですよ?」
 元は照れたような、困ったような、申し訳なさそうな顔で口々に言う仲間たちの顔を一人ずつ順々に見た。

「細かく全部説明するとめちゃくちゃ長くなるから肝心のとこだけ言うと、俺、腹違いの兄貴がいてさ」

 元が口を開くと一斉にしんとした。
「そのひと、ずっと身体が悪くて……今、もう危ない状態なんだ。俺、そのひとのそばにいてやりたくて、こっちのこと全然大事に出来てなかった。ほんとごめん。いずれあらためて外部に劇団を立ち上げることも考えなくはないけど、いつになるかは全然わかんないから期待しないでくれ」
 全員が微かに息を飲んだ気配がする。


「元ちゃん、そんなの早く言ってよ。何してるの、ここはあたしらでちゃんとやるから、帰ってあげなよ」


 沈黙を破ったのはかつて彼女だった真奈美だった。
「今回のこの舞台、なんか元ちゃん書くもの変わったなって思ったの。優しくなった。とんがってたり過激なのも好きだったけど、あたしは自分で舞台立ってても泣きそうになるよ。それ、そのお兄さんのことを思って書いたからなんでしょう?」
 意外なことを言われた気がして見回すと、全員がうんうんと頷いていた。

 そうか──
 何故か恥ずかしくなって少し目を伏せる。その途端にぽろりと涙がこぼれた。

「俺、大好きなんだよ。そのひとのこと」

 しんみりした空気が流れたかと思うと、ほらいいから帰れ、とボックスを追い出されそうになって慌てて押しとどめた。
「いや、今日はこっちでちゃんと舞台を見届けてこいって言われたから、そうする。さっきも言ったけどこれが俺のこの大学での最後の公演になると思うし、最後まで見るよ。打ち上げには参加できないけど」

──ちゃんと見届けておいで。
──そうだ、ホームビデオでいいから撮影してきてよ。
──元が作った舞台、僕も見たいんだ。

 昨夜、柾青はそう言って元を追い返した。
 あの日から10日ほど。柾青の状態は一進一退という様子で、リクライニングを立てて身を起こしていることが出来る日もあればほとんど眠ったように寝たままぼんやりしている日もある。起き上がれた日には、このまま回復して以前のように少しは部屋をうろうろ出来る状態くらいにまで戻るんじゃないかと思うのに翌日にはまた寝ているということが繰り返されていた。
 柾青がこんな状態なのに、看護士の暎は数日前に一日休みをとってどこかへ行っていたようだ。自分でさえこんなにずっと見ていないと気が気じゃなくて大学へ行く気にもなれないと思っているのに、と憤りもしたが翌日には何事も無かったように戻ってきていた。

 客席の視界の邪魔にならないように立てた三脚の脇の席に座って、元はビデオを回し始める。


 これが終わったらすぐに持って帰って柾青に見てもらおう。
 舞台で演じる真奈美を指さして、これ、俺の元カノだよって教えてやろう。
 柾青はちょっとくらいヤキモチをやいてくれるだろうか。
 だから、
 ビデオが見られるくらいに今夜の具合が良ければいいな。

 胸のうちの八割くらいは心配で落ち着かないけれど、残りの二割はそんなわくわくで満たされていた。

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 目を閉じて、眠ったふりをしていた。
 すぐ近くで聴こえていた呼吸が寝息のそれに変わっていくのを感じて、うっすらと目を開く。まだ暖かい体温が直接伝わってきている。心臓の鼓動も聴こえる。
 青乃は夫を起こさないようにそろりと上半身を起こし、その顔をじっと見つめる。

 優しかった。
 大切なものを慈しむように丁寧に。
 愛されるというのは、こういうことなのか。

 椎多の頬をそっと撫でてみる。
 この人はこんな顔の形をしていたんだ。
 忙しくて睡眠時間も足りていないのかもしれない。肌が少し荒れて、目の下にうっすら隈ができている。


 寝息が漏れている少し開いた口を指で辿り、首筋へと滑らせていく。
 椎多の鎖骨のあたりに、ぽたり、と雫がひとつ落ちた。
 もう片方の手も添え、椎多の首にゆっくり、そろりと指を絡める。
 すう、と息を深く吸い込んで、両親指に体重をかけるように力を入れた。
 一瞬、椎多の眉が苦し気に寄ったかと思うと──

「締め殺すんならそこじゃない」

 寝息を漏らしていたはずの口から出てきた言葉にびくりと手が緩んだ。
 椎多は目を閉じたまま。
 腕を持ち上げ、指で自分の首を二点指さす。
「こことここだ。だけど締めるなら手じゃなくてガウンの紐なりそこのクローゼットに掛かってる俺のネクタイやベルトを使った方がいい。おまえの手の力じゃなかなか死なないだろう」
 椎多がゆっくりと瞼を上げた。青乃は顔色を失って微かに震えている。
「確実に殺すならそのデスクにナイフも拳銃もある。そっちでひと思いにやってくれた方が間違いない。絞殺は息を吹き返すリスクも反撃される危険も大きい」

「──どうして」
 椎多は奇妙なほど穏やかに微笑み、妻の手を取った。

「思い出してしまったんだろう?俺がどれほど酷い男だったか」

 目を見開き、手を振り払う。
「──そうよ」

 あの時──
 本に目を落としていた時に耳に飛び込んできた「青乃さん」という呼びかけ。
 顔を上げるとあの顔があった。

──椎英。

 その瞬間、もやもやとした霞の向こうにあった全てが繋がっていったのだ。

「あなたがわたしに何をしてきたか。何を奪ってきたのか。全部思い出した。こちらの記憶を消したのをいいことに、何事も無かったように、まるで最初から良い夫だったように振る舞うあなたのことも」

 あなたが憎い。憎くてたまらないのよ──

 青乃の双眸から涙が溢れてきた。
「うん」
 椎多は再び目を閉じた。
「おまえには殺されても仕方ない。殺せばいい。それでおまえが解放されるなら」
「うそ!出来やしないって思ってるんでしょう?自殺さえ出来なかったわたしに何が出来るって、侮って──」
「青乃」
 それでも椎多は表情を変えなかった。

「おまえの父上からこの話を貰ったとき、俺は吐き気がするくらい腹が立った。娘を競りにでも出してるつもりかって。俺が断ってもきっとまた次の金持ちのところへおまえを売りに行くんだろうって。おまえは信じないだろうけど最初はだから本当に、おまえを助けてやりたかったんだ。おまえに笑っていて欲しかった。なのに、俺は間違えた」

 間違えて──取返しのつかないことをしてしまった。

「俺は誰を殺そうが酷い目に合わそうが、甘んじて報復を受けようなんて殊勝な心は持ってない。だけどおまえだけは別だ。おまえが俺の命で贖えというなら従おう。それだけが本当は俺はおまえを愛しているという証だ」
「そんなものに誰が騙されるもんですか!全部あなたのせいよ!」

 椎英はここで古い本を読んで静かに研究してるだけの善良な人だった、それを殺した。
 わたしは自分の中に居た小さな弱い子を殺し、
 名前も憶えていないようなたくさんの男たちの頬を札束で叩いて買っては捨て、
 紋志を手に入れるために紋志が大切にしているものを奪って殺した。
 全部。
 全部あなたが私を狂わせたせいよ。
 いまさら愛しているなんて言われたって。
 許せるわけがないじゃないの。

 息も吸わずに吐き出した声は最後には息が尽きて声にならなくなっていた。息の代わりに涙が次から次へと溢れてくる。
 ようやくゆっくりと身を起こした椎多はそろりと青乃の肩に手を伸ばし、抱き寄せた。
「そうだ、俺のせいだ。おまえの罪は俺が全部引き受ける。おまえは無罪だよ。そして」
 青乃は拒絶はせずただ泣き叫びながら椎多の胸を何度も叩き続けている。

「おまえは、俺を永遠に許さなくていい」

 青乃が叫ぶのをやめ、ただ静かに泣いている息遣いに変わるまで椎多は青乃の背中を撫でていた。まだ、どうするのが正解なのか、椎多もわからずにいた。

 その時──

 ノックの音がした。

 身体が揺れるほど驚く。そろりと青乃から手を離すとガウンを羽織り、ドアに近づいた。


「組長、夜中にすんません。いいすか」


 Kの声だ。ドア越しでも緊張が伝わる。
「──どうした」
 ドアを細く開けるとKはひどく焦った顔をしていた。
「何かあったのか」
「今、葛木邸の執事の早野さんから電話があったんですが」
 ぎくり、とする。

「柾青さん、さきほど亡くなったそうです」

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 ニュース速報で、某大物政治家の逮捕が流れている。


「今回は検察はいいスピードで動いたみたいすね」
 睦月と共にテレビを眺めていた賢太は煙草を消して立ち上がった。
「ここからが本番だ。気を付けて頼むよ」
「あくまで戦争にならないように、でしょ。あーあ、伝説の『鷹』がいればなあ」
「今回は狙撃手も使わないから鷹さんの担当じゃないよ。よろしく」

 

 睦月に手を上げて事務所を後にすると賢太は待機していたワゴン車の一台に乗り込み、無線を手にする。
「A班はサツの手入れに巻き込まれんな。ザコは無視だ。B班は仕込んだ女が暴れるタイミング見逃すなよ。C班は俺と来い。D班は打合せ通り始めてくれ。AからCはくれぐれもサツにも相手にもとっ捕まんな。捕まったらゲロする前に消すからそのつもりでいろよ」
 無線ごしにも指示を受けた者たちの緊張が伝わってくる。


「よっしゃ、久々の大仕事だ。ぬかんなよ。時間合わせろ。ジャスト15分後に始めるぞ」

 

 無線を切ると賢太はワゴンの後部座席で短い金髪を黒のニット帽で隠すと煙草に火を点けた。
「吸うか?」
 隣に座っていた男が差し出された煙草を手にする。
「ヤクザってもっとなんというか、力を誇示しながら正面からドンパチやるもんだと思ってましたよ」
「うちの組長代理、そういう頭悪そうなやり方嫌いなんだよ。出来るなら味方の損失はゼロに抑えたいくらいだ。組員思いなんだよ」


 これから大仕事だと言った3分も経たないうちに、へらへらと笑いながら賢太は隣の男──邨木佑介の煙草に火をつけてやった。もっとも、名乗る名前はすでに邨木ではない。ユウスケ、という名はありふれているので漢字を変えてそのまま使っている。整形はそれほどの大改造でもなく済まされていた。

 なるほど、イメージ通りのヤクザの抗争なら別にわざわざ自分のような傭兵上がりをスカウトすることはないだろうと思っていたが、どちらかといえば特殊部隊がやるような作戦だ。ならば作戦に沿って緻密に動く訓練の出来ている自分のような人材が求められたのはわからなくもない。

「ユウスケ、これ終わったらどうすんだ?」
「どう、とは」
「とりあえず今回のこれの為におまえをひっぱり込んだんだが、その気があるならこのままウチに残ってもいいと組長代理は言ってる。おまえみたいなのは重宝だし、ウチでなら世間のイメージするヤクザみたいに振る舞う必要も別にねえし」
「俺を引き留めてるんですか、賢太さん」


 思わず笑うと賢太は先ほどの無線の時の凄みのある顔とは打って変わって人懐こそうな顔でははっ、と声を出して笑った。自分よりも10歳近く年上の筈だが、同世代くらいに見える。
「終わってから考えさせてもらえますか。いくら顔と名前を変えたところで指名手配が無くなったわけじゃないしこのまま裏の世界にいたほうが無難かとも思うけど……」

 その道を選んだとして、紋志を迎えに行っても良いものだろうか。
 時間を下さい、と紋志は言った。
 それはどれくらい必要なものなのだろう。
 恭太郎を過去のものとして胸の奥にしまいこむ──それは、もしかしたらとてつもない年月が必要なのではないだろうか。

 

「ま、いいさ。とりあえず今は今日の仕事を抜かりなく終えることだけ考えろ。しくったらその後のこともねえからな」
 時計を確認しながら賢太は煙草を消す。


 相手の事務所にカチ込むこともなくひとつの組を壊滅させるなんて本当に出来るもんなのか──


 半信半疑のままユウスケもまた時計を確認して煙草を消した。

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 兄が亡くなったと聞いても、青乃は悲しいという気持ちが沸いてこなかった。

──わたし、そんな当たり前の情緒も失ってるのね。

 いや。
 無理もない。兄に関してたどる思い出も思慕も何も無いのだから、悲しみの核になるものがそもそもわたしの中には無いのだ。まして、兄は子供の頃からいつ亡くなってもおかしくないと言われていた人だった。ついにその時が来たのだ、むしろ兄は楽になったのではないのかとすら思う。

「通夜と葬儀には俺が参列してくる。おまえはここに残っていてくれていいよ」
 夜が明けるなり葛木家へ電話を入れ、母の靖子に悔やみの言葉を述べている夫の姿を何か不思議なものを見るように見ていた。

 すべての記憶が戻ってこの男に対する憎しみが蘇ったはずなのに、それが消えたわけでは決してないのに、以前のようにその姿を見るだけで沸騰するような怒りや恐怖や嫌悪感が迫ってくるようなことは無かった。

「──いえ、わたしも参ります。わたしの兄ですもの」
 椎多が驚いたような顔をしている。
 それを無視して龍巳を振り返った。
「龍巳、みずきも連れていくから旦那様とは別の車で行くわ。あなたが運転して。紋志は悪いけどここでお留守番をお願い」
 てきぱきと指示をすると、今度は龍巳が妙な顔をしている。みずきが首を傾げて側に近づき、顔を覗き込んだ。

「……ごしゅじんさま?」
「あなたも出かける準備をなさい、トイプーのみずき」
「やっぱり──思い出されたの?全部?」

 空気が一瞬でぴりっと張り詰めたのがわかった。
 なるほど、自分は彼らをこんなにも緊張させていたのか。
 まるで第三者のように自分のことが見える気がした。
 大きく息を吸って、何かを吹き飛ばすようにそれを一旦全部吐き出す。

「そうよ」

 みずきが腕をぎゅっと握って青乃の顔を見上げている。まだ不安げな顔だ。それを撫でて、笑った。
「もうそんなに緊張しなくてよくてよ。あなたたちに当たり散らすのは愚かだということはわかったから」
 紋志は最初に話しかけたその場所で身動きせずにこちらを見ている。みずきが腕に絡まったまま自分からそこへ足を進めると紋志もやはり少し緊張した面持ちで向き直った。
「あなたには本当に酷いことをしてしまったわ。あなたは何も悪くなかったのに。本当にごめんなさい」
 紋志は返す言葉がみつからないらしく慌てていえ、あの、とだけ言っている。
「兄の葬儀から戻ったらちゃんと話しましょう。あなたが本心でどうしたいのか、考えておいて。もうあなたが離れようとしても嘘つき呼ばわりなんてしないから」
 青乃は最後に龍巳のもとに近づく。龍巳もまた以前の直立不動に戻ってがちがちに固まっている。
「あなたが誰よりも一番わたしのことを思っていてくれたのよね。ひどい主人でごめんなさい。あなたがもう嫌だと思わなければ、あなたさえよければ──」
 龍巳の頬に手を伸ばす。掌でゆっくりとその頬を撫でた。

「これからも、わたしを守って下さいね」

 その途端、龍巳の両目からいきなり滝のように涙が溢れた。思わず笑いが漏れる。
「やだ、この子ったら。もういいから車の準備をしてちょうだい。運転に支障がないように、出発までに泣き止んでおきなさいね」
 完全に鼻の詰まった涙声でかろうじてはい、と返事すると龍巳は走るように部屋を出ていった。出て行くなり、大声で泣いている声が聴こえてきて青乃はまた笑った。

 椎多がその笑い顔を静かに微笑むような顔で見つめていることだけは、青乃は気づかないふりをした。


「──青乃様、記憶戻ったんすね」
 後方をついてくる龍巳の車を確認しながらKが呟いた。
 椎多は大げさな溜息をついて笑う。
「良かったな、『もっと酷いこと』にならなくて」
「いや、俺は別に……」
「おまえはそれが気が気じゃなかったんだろ?だけどまだわかんねえぞ。いきなり龍巳がこの車にぶつけてくるかもしれん」
「あれよりこっちの車のが丈夫だからぶつけたって向こうのボンネットが潰れるだけっすよ」

 冗談にして笑っているが、青乃は使用人たちに八つ当たりすることをやめる程度には落ち着いたというだけで、椎多に対する憎しみが消えたわけではない。頭の整理がついて落ち着いた上で、冷静にそして計画的に椎多を陥れたり葬ったりする方法を模索し始めていたとしてもおかしくはない。


 だとしても。
 脆い硝子の箱庭でつくりもののような笑顔を向けられるのではなく、すべてを飲み込んだ上で朗らかに笑っている青乃を見ることが出来たのが単純に嬉しい。


 たとえそれが、椎多に向けられたものではなくても。

「一旦屋敷に向かうんすよね。通夜なら喪服でなくてもいいと思うけどさすがに平服すぎるっしょ」
「ああ、それに靖子さんや元くんと話すことがあるから資料も持って行きたい」

 ほぼ準備は万端だった。
 柾青はそのスタートボタンを押す日がいつ訪れてもいいところまで想定していただろうが、椎多はこんなに早く押すことになるとは思っていなかった。


 直接の死因は肺炎だが、すでに全身に腫瘍が転移し、手術に耐える体力も無かったという。長い年月をかけて巣を張り巡らした病がとうとう一斉に攻撃をしかけてきたのだろう。そこまで進行する前に手術しておけば良かったのではないかと素人考えでは思うのだが、手術を繰り返して病院に居続けることになることよりもあの指令室に留まってその後も生きていく者たちのために出来る限りのものを残す道を柾青は選んだのかもしれない。


 おそらく椎多も他人よりは『死』を身近に生きてきた側の人間だが、物心ついた頃からずっと死神の顔を見ながら狭い世界の中で他人とほとんど接触することもなく生きてきた者の考え方は、想像は出来ても共感は難しい。

 柾青の母である靖子と電話で話した時、通夜の後に弁護士が来て遺言状の公開をすると言っていた。随分早いなと思ったが、柾青がかねてからそうするように弁護士と靖子に言伝ていたという。
 遺言状の公開が早ければその分、進めていた計画のスタートが早くなるのだから椎多には有難いことだが、あの腹違いの弟である元はどう思うのだろうか。とても慕っていたという兄を失ったばかりの弟には、兄の死を待ち構えていた冷血漢のように映るころだろう。

──今更誰にどう思われようがどうってことはないがな。

 気が付くと車はすでに高原のエリアを抜け、高速道路をひた走っていた。

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 葛木柾青の訃報を受け取ると、伯方は事務的に主人である椎多へ報告し指示を仰いだ。椎多のもとへも葛木邸から直接知らせがあったらしい。
『動ける人間を選定して集めておいてくれ。また葬儀の応援が必要だろう。俺は明日朝いちで一旦そっちに戻る。明日さっそく遺言状を開封するらしいから忙しくなるぞ。それから──』

──青乃の記憶が戻った。

 一瞬ひやり、としたが本人は今のところ落ち着いた状態でいるという。
 本当に落ち着いたのかどうかは椎多の話からは推測しかねた。
 人員の手配を部下に任せ、伯方は早朝から葛木邸へ向かう。実際に必要なものは靖子の指示に従う方が良い。

 葛木邸へ向かう車中、伯方は先日暎をこの車に乗せた帰り道のことを思い出していた。

 


──誰が兄さんを殺したの?
──先生?

「ふたりきりになれたからたっぷり話してくれるよね、先生。長時間ドライブだし、退屈しないよ」
 別邸を後にするなり暎は待ちかねたように言った。何故かどこか楽しそうにさえ見える。伯方はここに至っても、暎が最終的に何を目的にしているのかが判断出来ずにいた。

「何度聞かれても椎英は事故死だったとしか私には言えないよ」
 これでは根比べのようなものだ、と思いながら伯方はまっすぐ前方を見据えて街灯もないうねった山道を降りてゆく。すでにとうの昔に日は落ちて周囲は暗闇に閉ざされていた。ヘッドライトに照らされた部分だけがここが木の茂った山道であることを示している。
「仮に事故では無かったとして、おまえはその犯人をつきとめてどうしたいんだ。警察に再捜査でも要求するのか。それとも復讐するのか」
 暎がこちらを見ているのが目の端に映る。
「一度握りつぶした警察なんか頼りたいなんて思わないよ」

 雪がちらついている。
 まだ積もるほどの雪ではないが、もうすぐここが雪に閉ざされる季節がくる。

 

「では例えば私が犯人だったとしたらどうする?この山道だ。しかも夜で、雪が降ってきて視界もよくない。それこそ車の事故を装って私を殺すことも不可能じゃない」
「そうだね──」

 助手席で、笑う声がする。
 本来なら客人なのだから後部座席に乗せるのだが、暎が助手席に座りたがったのだ。

「今、僕がいきなりハンドルを持ってぐるんって動かしたらきっと崖下に真っ逆さまだよね。でもそうしたら心中になっちゃうな。やだな、僕はまだ死にたくはない」
「暎」
 視界は前方に固定したまま、ぺらぺらとよく喋る暎の言葉を遮った。


 このまま根比べを続けてもこの分では暎は絶対に折れはしないし、その半端な疑念のまま葛木邸に戻す方が面倒かもしれない──

「おまえがことの真相を全部知ってしまったら、私はおまえを殺さねばならない」

 息を飲んだ気配。しかし平静を装うように変わらぬ声音でへぇ…という返事ともつかない声が聴こえた。
「それくらいヤバい話だってこと?」
「まあ、そうだ」

 嵯院椎多が妻を暴行し続けたことから逃げるように別居生活をしていた青乃が、そこの使用人と不倫関係になり、それをもみ消すために嵯院の命令で伯方がその不倫相手を殺した。
 一から十まで、外部には絶対に漏らしてはいけない話だ。
 そんなに知りたいなら教えてやろう。
 だが、知ったからには口を封じなければならない。

「だがおまえはまだ葛木邸に戻ってする仕事があるだろう」
 そうだね、と暎は何度目かの相槌をうつ。

「このあと柾青さんの側に戻りたければ──死にたくなければ黙っていろってこと?怖いね、先生」

 怖いね、と言いながら暎の声は少しも恐怖を感じているわけではなさそうだ。
 想像以上に暎は野蛮で薄汚れた世界を歩いてきたのかもしれない。

「契約満了までまだ何か月かあるし、僕は柾青さんに気に入られたから延長してもらえるかもしれないし、そうしたらいつになるかわかんないじゃない」

 ちらりと暎の横顔を覗き見る。
 直観的に、柾青はすでに命の期限が近いのではないか、暎はそれを知っているのではないかと思った。

 会話が途切れた。

 山道の終わりが近づいてくると、真っ暗な夜の田舎風景にそぐわないネオンがぽつりぽつりと見え始める。


「先生、ホテル行こ?」


 急に何を言い出すのかと思うと、暎は笑い声を漏らしながらギアを握る手に自分の手を重ねて撫で始めた。

「こういう取引はどう?抱いてくれたらこのことはしばらく聞かずにおいてあげる」

「暎──」
 とりあえず車を幅寄せして停め、呆れたように溜息をつく。
「それとも先生、男なんか絶対抱けない派?」
「私はもう見ての通り爺さんだよ」
「言ったでしょ、ウリやってたって。先生よりお爺さんなんかいくらでもいたよ。それだけ鍛えてたらあっちも全然現役なんじゃないの?」
 車を停めたのをいいことに、暎は自分のシートベルトを外して身を乗り出し、伯方の顎に唇を押し当ててきた。片手が股間に伸びている。
「なんだったらここでしてもいいけど、山の中ならともかくここまできたらたまに車通っちゃうよね」
 軟体動物のように身体を摺り寄せてくる暎を腕で押しのける。
「暎、とにかく自分の身体をそんな風に使うんじゃない」
「──ほっといてよ」
 何の癇に障ったのか、暎はぷいっと手を離してそっぽを向いた。
 その隙に車を発進させようとすると今度はドアを開けて降りようとする。
「もういい、ここから歩いて帰る。朝までにはどっかの駅に着くでしょ」
「やめなさい、このあたりには当分駅なんか無い」
「うるさいなあもう!」
 本当に車を降りて歩き始めた暎を慌てて追いかけ、捕まえる。背中から抱きすくめる格好になると暎は顔を逸らしてうつむいた。

「先生がやったんでもそうでなくても、兄さんが死んだせいで僕はこの身体を使ってでも生きてかなきゃいけなくなったんだよ!責任とってよ!」

 抱きすくめた手に雫がぱたぱたと落ちてきた。
「わかった。わかったからとにかく車に戻れ」
 そうしている間にも、何台かの車が猛スピードで通り過ぎていった。こんな車外ですったもんだしている場合ではない。暎を宥めて車に再び乗せると、車を発進させ、ふう、と大きく息を吐くとネオンの足元でハンドルを切った。

「──1回ですぐ帰るぞ」

 暎は鼻をぐすぐす言わせながら黙って再びギアを握る手に自分の手を重ねた。


 その後、予告通り1回で帰路についたが暎は後部座席で気持ちよさそうに眠っていた。兄の死の真相を知りたいと切羽詰まってやってきたのかと思っていたのに、どういう心理状態なのだろう。
 葛木邸に到着したのはすでに日付も変わった深夜になっていた。門の前で車を停め、暎を起こすと後部座席から身を乗り出すようにして伯方の首筋に接吻け、耳を噛む距離でうっとり囁く。
「先生、すごくよかった。またデートしてね」
「──椎英を殺したのが私かもしれないのに?」
「もしそうだったら黙って僕に殺されてくれればいいじゃない」
 ふふ、と何でもないことのように暎は笑った。
「約束だから当分はこのこと聞かないでいてあげる。でも」
 車から降りて運転席の窓ごしに伯方の目をじっと見つめる。口の動きだけが見えた。

──いつかは教えてもらうからね。


 これは面倒な相手に捕まってしまったのかもしれない、と伯方は思った。


 葛木邸に到着すると、邸内はどこかざわついている。悲しみが満ちているように感じるのは情緒的に過ぎるだろうか。来訪を告げると執事の早野が沈痛な表情で迎えてくれた。常に明るく動き回っているメイドの和江も目を真っ赤に泣き腫らしている。

 柾青の部屋へ行くと、ずっとベッドの周りに設置されていた様々な器具が早くも撤去されていた。
 ベッドサイドに背中を丸めておそらく泣いている元と、隣に座ってその背中を撫でている暎の姿がある。
 それを立ったまま見下ろしていた柾青の母、靖子が伯方に気づいて会釈をした。
「こんな早朝からありがとう。顔を見てやって下さる?」
 夫の通夜や葬儀の時には涙ひとつ見せずにいた靖子だが、やはり息子の死は堪えているのだろう。憔悴した顔をしている。


 柾青は安らかな顔をしていた。ずっと病に苦しめられ、自由のない人生を送ってきた柾青はようやくすべての苦しみから解放されたのかもしれない。きっとそれでも心残りはあっただろうが。

 伯方が柾青に対して合掌しているのを見て元がまた声を上げて泣き始めた。
「俺の舞台見たいって言ったじゃん……いくなら見てからにしてよ……」
 よく見ると元は手にホームビデオのビデオカセットを握りしめたまま泣いているようだった。
 元の肩を抱いて、肩や腕や背中をずっと撫でていた暎が顔を上げる。伯方の顔を見て一瞬唇を噛みしめ、会釈するようにゆっくりまばたきをした。


 悲しみに沈む故人の弟に背を向け、靖子に目くばせをして部屋を出る。
「嵯院は午後にはこちらへ伺うことが出来ると思います。青乃様もご一緒に」
 靖子は意外そうな顔をした。何か?と尋ねると苦笑のように顔を歪める。
「いえ、青乃は体調がすぐれないと聞いていたので。それにご主人とご一緒に来るとは思わなくて」
「──」
「あの子、ご主人とはうまくいってないんでしょう?紘柾の葬儀の時も隣に座っているだけで辛そうだったもの」
「奥様にはかないませんね。今は──以前ほどではないと思います。今回も青乃様ご自身が参列すると仰ったそうです」
 そう、と靖子は安心したのか逆に信じていないのかも掴みきれない曖昧な表情をする。
「椎多さんにはお伝えしたけど、あとで弁護士が参ります。わたしたちは通夜のあとその話し合いになると思うので葬儀の準備などはまたお手伝いお願いしたいの。早野と相談して進めてちょうだい」
「かしこまりました。応援の人数は確保しておりますのでご負担はおかけしませんよ」
 深く礼をしてその場を辞去する。
 すでに早野は親族への連絡に奔走している。忙しくなりそうだ。

「──先生」

 振り返ると先ほどまで元を慰めていた暎が立っていた。
「思ったより早く、"僕が帰ってやらなきゃいけない仕事"が終わってしまったみたい」
「そうか」
 悲しげに目を伏せ、小さく笑うと顔を上げて伯方の顔を真っすぐ見る。

「お葬式が全部終わったらまたちゃんと話したいです、先生。逃げないでね」
「──逃げないよ」

 もしかしたら。
 私は椎英だけでなく本当に暎を手にかけなければならないのかもしれないな。
 それとも──

 私も、そろそろ全て終わらせて楽になってもいいのかもしれない。


 

Note

ちょっと魔が差してアキラと伯方さんのくだり書いちゃいました…楽しかった…(おい)一応回想シーンとして書いてるので、ラブホ突入後のことは割愛しました。

普段このシリーズ書いてる時、殺すの殺されたの死んだのってわりと簡単に書いてしまってるとこあるんですが、「柾青さんが亡くなった」と書くのがちょっと自分でびっくりするくらい辛かったです。オリジナルでは本文中全く登場せず、このあたりの展開で「兄上が亡くなったと連絡が」と書いただけで「おぅ、兄おったんかい!」ってレベルでしか書いていなかったキャラなのにね。なのでReでちゃんと名前をつけて登場させた時も「この人は終盤に死ぬ人」と思いながら書いていた筈なんですが。自分が思ってた何倍も気に入ってたみたいです。

​あ、あとユウスケの存在を忘れていたわけではもちろんありません(笑)。ケンタちゃん、作戦指揮してる時はカッコイイすね。紫さんが死んだ時に鼻水垂らしてた人とは思えません。この時潰された組は澤康平のいた組です。どさくさに逃げ延びた康平が修一兄さんに捨て台詞言いに会いにいったあの騒動のことです。英二はまだ椎多と再会してないと思います。

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