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罪 -23- 招かれざる客人

 駅に降り立つと周囲を見回す。

 駅前のロータリーのバス乗り場にある時刻表は一日に4本しか予定が書かれていない。タクシー乗り場に1台だけタクシーが止まっていた。運転手は車を降りて缶コーヒーを片手に煙草をふかしている。目が合うと満面の笑みでどうぞどうぞ、と手招きされた。
 行先への簡単な地図を見せると、ああ、と大げさに驚かれる。
「場所は知ってるけど、あそこへ行くお客さんを乗せるのは初めてだよ」
 あそこへ行くような人はみんな運転手付きの自家用車で行くからね、こんな辺鄙な駅まで電車で来てタクシー乗る人なんかいないんだよね。
 へえ、そうなんですかと貼り付け慣れた笑顔で適当に受け答えをすると暎は車の外に視線を移した。

 真っすぐな道の向こうに高い山山が見え、すでに白く雪化粧をしている部分が伺える。駅前を抜けるとすぐに民家はまばらになり、まもなく狭くうねった山あいの道に入っていくと、道の両側には白樺の樹々が並んでいた。都会ではまだ秋が訪れた実感が感じられるようになったばかりだが、落葉樹はすでに葉を落として冬の装いである。

 危篤とまではいかないまでも、葛木柾青の容態が一時悪化してより密な観察が必要になってから数日後──

 ベッドの上に身を起こす程度には回復した柾青はこまごまと動き回っていた暎を呼び止め、ベッドサイドに座らせた。


「あの高原の別邸に、行っておいで」

 

 言われた意味がよくわからなかった。
「君、お兄さんが働いていたあそこに行ってみたかったんだろう。出来れば僕の妹か、今いる誰かがお兄さんのことを知っていたら彼の話も聞きたい」
「それはそうですが、今あなたの側を離れてそんな遠出なんかできませんよ。何のために僕がここに常駐してると思ってるんですか」
 そんなの、いつもの休暇の時みたいに代わりの人に入ってもらえばいいじゃないか、と柾青は笑った。
「僕が死んだら君はもとの病院に戻ることになる。そうしたら永遠にあそこを訪ねるチャンスはない。小さな別邸で警備の人間はそれほどいないとしても、なんの縁故もない来訪者をそうおいそれとは入れてはくれない。今しかないと思うよ」

 柾青の身体の状態は実際、予断を許さない状況だった。
 たとえ1日でも屋敷を離れたら、その間に急変して最期を看取れない可能性も低くはない。しかしだからこそ行ってこいという柾青の理屈もわかる。
 柾青はすぐに義理の弟であり現在のあの別邸の所有者となった嵯院椎多へ電話を掛けた。
「椎多さんはこの週末までは行けないから、屋敷にいる者に話を通しておくと言ってくれてる。明日、行っておいで。いいね」


 駅からタクシーに乗ってすでに15分以上は経過している。運転手曰く、目的地へは早くとも30分はかかるという。
 暎は窓の外の新鮮な風景を眺めながら、最後に会った日の兄のことを思い出していた。

──もしかしたら近いうちに今の仕事を辞めるかもしれない。

 妹には聞かせないように、二人きりになったタイミングを見計らって兄はそんなことを言った。

 住み込みで、研究対象である古い蔵書が好きなように閲覧できる。保存状態を管理するというだけで、あとは思うまま研究が進められるという理想的な職場だ。辞める理由などないだろうと思った。
「それから、場合によっては暫くここにも帰ってこれなくなる、連絡も取れなくなるかもしれない」
「やだな兄さん、なんか犯罪でもやらかしたんじゃないだろうね」


 半分冗談で言ったのだが、兄はどこか曖昧に笑って誤魔化していた。
 後から思えば、兄はあの時すでに自分の身に危険が迫っていることを察知していたのではないか。
 それが何かはわからない。兄が実際にはどんな仕事をしていたのかも詳しく知らないから想像すら出来ない。
 ただ、兄は『何か』から逃げようとしていたのだ。

 そしてその直後──警察からの連絡を鵜呑みにするなら──あの帰路に兄は車の事故を起こして丸焼けになってしまった。

 兄が死んだという悲しみや喪失感より先に、ぞっとしたのだ。
 兄は危険を感じていた、そしてその通り命を落としたのではないか──


 警察では当初事故か自殺、結論としては事故として処理されたが釈然としなかった。かといって警察がそう処理してしまったものをどうすればいいのかもわからない。
 そんな時アルバイト先でたまたま親しくなった監察医が、兄の解剖を担当した法医を紹介してくれた。
 彼も自分の解剖所見がそのまま通されずに事故で処理されたことに憤懣を抱えていたのだろう、弟だと言うとかなり詳しく説明してくれたのだ。

 おそらくあれは、火が付けられる前に相当量の出血をしていたはずだ。
 つまり、どこか別の場所でで失血死した身体を車に乗せて、何らかの細工をした上で炎上させたのだろう──

 兄はきっと、殺された。


 理由も犯人も全く見当もつかないけれど、それだけは確信を持っている。そしてもし本当にそうなのだとしたらかなりの高い確率であの別邸の周辺人物が関係しているはずだ。
 殺した者がいるなら、罰するべきだ。人を殺しておいてのうのうと生きている者のことを野放しには出来ない。もう警察に頼ることが出来ないなら、私刑だとしても。


 柾青は暎がそこまでのことを考えているとは思っていなかっただろう。
 いや、まさかそれを知った上で行ってこいとでも言ったのだろうか?

 まさかね、と小声で呟くと窓の外が山の中から開けた場所に出た。これぞ高原という風景。夏ならさぞ青々として爽やかな風景なのだろう。現在は草木が枯れてうら寂しくさえ見える。もう少し季節が進めばこのあたりは雪に閉ざされるのかもしれない。いっそそうなったらそれはそれできっと美しいのだろう──
「あれですよ」

 運転手の声に目を凝らすと、山裾、背の高い針葉樹が固まっているあたりに洋館らしき建物が見えた。


 門扉の手前でタクシーを降りて、建物の全容を見渡す。
 予想していたほどは大きくない。
 葛木邸の本邸の大きさを思えば、いわゆる"離れ"くらいの大きさだ。街中に様々ある少し大きな邸宅よりもしかしたら小さいかもしれない。しかしこれもおそらく明治から大正期にでも建てられたのだろう。建物の大きさには関係なく風格のようなものが感じられる。
 とはいえここに現在住んでいるのは使用人を全部ひっくるめても7人。使用人各人が個室を持って住み込みしているのだろうがだとしても不自由が無い程度の広さはある。

 いかめしい装飾の鉄製の門扉のところに、呼び鈴のボタンがある。カメラがついているのであちらには見えているのだろう。こんなクラシックな建物にはそぐわない気がして少し笑えた。
 ややあって門扉のところへ迎えに出てきたのは、頭髪の半分くらいは白髪になっている背の高い紳士だった。

「──テル先生!」
「やあ、暎」

 かつて、暎の住む町で通っていた道場の"先生"。
 子供の頃"テル先生"──伯方照彦にとてもなついてまとわりついていた自分のことを思い出す。伯方が現在嵯院邸に勤めていることは知っていた。しかし柾青を訪ねてきた時は、顔を合わせないように隠れた。
 何故か──顔を見られたくはなかったのだ。


「あれ、先生こちらにいらしたんですか?てっきり嵯院さんの本邸の方かと」
「昨日主人──嵯院から指示があってね。君が訪ねて来るから対応してやってくれ、顔馴染がいた方が良いだろうと」
「お気遣いありがとうございます」


 違う。
 多分、警戒されたのだ。
 奥方とわずかな使用人だけが住まう別宅に、何の目的かわからない人間が訪ねてくるというから警戒して、彼をよこしたのだろう。


「そうだ、みずきがここのメイドをやっているんだよ。あれ以来だろう。本当は柚梨子もいたんだが退職してしまってね」
「みずき!そうなんですか!懐かしいなあ」
 満面の笑顔を顔に貼り付けて、暎は伯方のあとについて歩く。伯方は時折振り返ってちらちらと意味ありげに暎の顔を見ている。玄関の扉の前で一旦立ち止まり、暎に向き直った。

「さて、ここに入る前に頼みたいことがある。現在ここの女主人である青乃様──柾青様の妹君だが、実はご病気をなさって数年間の記憶を無くしておられる。元気そうに見えると思うが、ここに滞在されているのもそのせいだ。混乱をさせたくないので、彼女の前では椎英の話はしないで欲しい。もっとも、記憶があっても以前ここに滞在された時はご体調も悪かったし交流も無かった。会った事もないと思う。君が聞きたいような話は無いと思うよ」
「……そうですか」
「残念だがあの時期にここにお供していた人間はもういなくてね。ただみずきもいるし、ゆっくりしていってくれればいい。帰りは私が車で送っていくよ」

 まるで準備していたように澱みなく、ここで兄──椎英の話はするな、と釘を刺された。

「わかりました。あの、後で兄が務めていた書庫を見せて頂いてもいいですか?」
「蔵書はすべて売り払ったからただのダンスホールになっているがそれでも良ければ」
 嬉しそうな顔は出来ただろうか。
 伯方はでは、と玄関の扉を開いた。

 ホールの中に入ると、小走りでメイドが駆け寄ってくるのが見える。
「暎ちゃん!あたしよ、みずき!」
 暎のコートを受け取りながら、知っている頃の面影が色濃く残った、まるでままごと遊びをしていた頃の少女がそのまま大きくなったような顔でみずきが笑っている。
「暎ちゃんが青乃さまのご実家で勤めてるなんて知ってたらお姉ちゃんも辞める前に会いに行ったのに。会いたかっただろうなあ」
「僕も柚梨子やみずきがそちらに勤めてるなんて知らなかったよ。元気そうでよかった」
「看護婦……じゃなかった、看護士さんなんだって?暎ちゃん昔から優しかったもんね。わかるわかる」


 声をはずませるみずきの向こう側に、黒いスーツにネクタイの小柄な女がじっとこちらを睨みつけているのが見えた。気のせいか顔色が悪い。


 敵意?
 いや違う。緊張?

「あら、お客様?」

 涼やかな声が聴こえた。

「ああ、いえ、青乃様をお訪ねの者ではありませんので。お気になさらなくて結構ですよ」

 

 そうか──あれがここの"女主人"か。

 

 病気で記憶を失ったと伯方は言ったが、病気をしているようには見えない。健康そうで顔色も良い。表情も穏やかだ。精神的に病んでいるようにも見えない。少なくとも外見上は。

 黒スーツの女の方が何故か慌てて主人をその場から遠ざけようとしているのを、当の主人は不思議そうな顔をしている。
「業者とかではないんでしょ?ご挨拶を」
「大丈夫です、参りましょう」

 黒スーツの女はきびきびとした動作で女主人を連れていく。
 よほど警戒されたものだ。

 彼女を、自分に会わせたくないのだろうか。

 だとしたら、何故。

「あの、あなたが柾青さんの妹の青乃さんですか?」

 あえて、空気の読めない鈍感な人間のふりをして声をかける。黒スーツの女がびくりとしたのが遠目にもわかった。女主人は振り返るとにっこりと笑った。

「ええ、そうよ。あなた、お兄様のお使いの方なの?」

「はい。柾青さん専属の看護士をしております、幡野暎といいます。お兄さんからお預かりしているものがあるのですが」

「あらそうなの。じゃあみずき、あの方を応接室にお通しして」

 一瞬──

 青乃を除くその場にいる全員がぴりっと緊張したように感じた。

「はぁい」

​ みずきの返事もまた、先ほどのようなはしゃいだ声音ではなかった。

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 初冬の朝は遅い。


 まだ夜の明けない早朝──青乃がまだ寝室でぐっすり眠っているような時間、伯方がこの別邸を訪ねてきた。龍巳は前夜に連絡を受けていたため、すでに身支度も済ませてそれを迎える。
「どうなさったんですか、こんな早くに。おひとりで」
 あの、椎英を"処分"するために伯方が夜半に突然訪れた時のことをどうしても思い出してしまう。龍巳は背筋がぞくぞくと粟立つ気がしていた。
「昨日も簡単に言ったが、柾青様担当の常駐の看護士がこちらを訪ねてくるというので念のため私にも立ち会っておくようにという嵯院の指示だ」
「柾青様担当の看護士──が何故ここを?」

 伯方は深く大きい息をひとつ吐いた。


「その看護士というのは椎英の弟だ。昔私が町で道場を営んでいた時の生徒で私もよく知っている者だが」

 ごくり、と生唾を飲み込む。

「椎英はあのあと私が車の事故として偽装し、警察でもそのように処理されている。その弟は単純に『兄が最後に勤めていた場所を見て偲びたい』と願っているだけだとは言っている」
「でも──」
「出来るだけ青乃様には会わせないようにはしようと思うが、とにかく彼に青乃様には兄の──椎英の話はしないように釘を刺しておくつもりだ。おまえも気を付けてくれ」

 青乃は何のきっかけで封じられた記憶を取り戻すかわからない。
 『椎英』という名前ひとつでするすると忌まわしい記憶をすべて取り戻す可能性もある。

「嵯院──旦那様はなぜそんな申し出を断らずに引き受けたんですか。青乃様の記憶がもし戻ったらあの人も」
「それは私にもわからん。何か考えがあるのか、柾青様から断りづらいような交渉をされたのか」


 だとしてもあまりにも危険ではないか。
 一度は命を奪おうとした相手である嵯院椎多ではあるが、今は青乃に対して考え得る限りの優しい夫であろうとしてくれている。おかげで青乃はすべての忌まわしい過去を封印したまま幸せでいることが出来ているのは確かだ。かつての青乃への仕打ちを許すことは出来ないが、今の青乃の幸せを壊すつもりはない。


「──もし青乃様に何かあったら、あの人の判断のせいでもしそんな事になったら……自分は今度こそあの人には償ってもらうつもりです。よろしいですか」
 伯方はそれには返事をしなかった。

 午餐が終わってその片付けも済んだ頃、その訪問者はやってきた。

 伯方がまず対応する。
 ここへ来てからすっかり落ち着いた生活になっていたが、久しぶりに手汗をかくほどの緊張が龍巳を包む。
 入ってきた訪問者にまずみずきが普段の客人のように応対しているが旧知のようで──そういえばみずきもかつて伯方の道場の生徒だったことを今更思い出していた──はしゃいだ声が聴こえる。ようやくその場に出ると訪問者の顔が見えた。その途端息を飲む。

──椎英──?!

 その"弟"は、"兄"に瓜二つだった。記憶の中の椎英がそのままそこに現れたように思った。
 弟だとは聞いていたが、ここまで似ているとは──
 反射的に、これは絶対に青乃に会わせてはいけない、と思った。
 いくら椎英の話題を出さなかったとしても、こんな、椎英と同じ顔をした若者の顔を見たら──
 青乃の記憶は──

 しかし青乃は訪問者が自分の兄の使いだと知ると応接室で話をすると言い出した。
 どうにかして回避することは出来ないかと思ったけれど、それを防ぐ言い訳が何も思いつかない。
 せめて、その場に同席して会話の内容や青乃の様子に気を配っておくしか。


 椎英と同じ顔をした客人と向かい合わせに座った青乃はしかし、特に変わった様子は見られなかった。落ち着いた様子でみずきの運んだ紅茶を飲んでいる。
「ごめんなさいね、わたし、ここ何年かの記憶がすっかり無くなっているようなの。ずっとお部屋で伏せってらっしゃったお兄様とはほとんど言葉も交わしていないのよ。だからわたしが結婚したあとにお兄様と何かお話したりすることがあっても覚えてなくて」
 青乃は正直に自分の状態を話し、申し訳なさそうに頭を下げて見せた。客人──幡野暎がにっこりと微笑み返す。
「近頃は柾青さんはあなたのご主人の嵯院さんと仕事の方で色々交流なさっているようですよ。お身体の方は相変わらず弱くて寝つきがちだけどお部屋にいるままで色々お仕事できるみたいで。便利な時代になりました」
「そう、お兄様が椎多さんとお仕事を。なんだか嬉しいわ」
 夫の名前を出されて青乃ははにかんだような微笑みを浮かべ、照れ隠しのように手元の紅茶を口に運んでいる。

 暎は思い出したように手に持っていた袋から菓子折りの大きな箱と一冊の分厚い本を取り出した。
 暎が動くたび、龍巳は緊張を走らせてそれを見守っている。
​「これは皆さまでどうぞ。この本は柾青さんから。自分が病弱でほとんど妹とは遊んでやれなかったけど、子どもの頃に一緒に読んでとても妹が気に入っていた本が部屋を整理していたら出てきたので渡して欲しいとおっしゃって」

 それは分厚く古い児童書だった。
 白黒の、特に可愛いらしいでもない挿絵がそれでも頻繁に登場する。ぺらぺらとページをめくりながら青乃はその挿絵を指でなぞった。
「そうだ、わたしこれが大のお気に入りだったの。もうどこかへ捨ててしまったものだと思っていたわ」
 懐かしそうにその本を捲ってゆく。
「考えてみたらお兄様との思い出ってそれくらいしかないのよ。今さらだけど一度お訪ねしてこれからでも仲良くさせて頂くことが出来るのかしら」

「青乃さんさえよければ」

 本に目を落としていた青乃が何かに驚いたように顔を上げる。
 向かい側に座っている暎と目が合った。
 青乃の口元が、何かを言おうとするように動いた──がその口が声を発することはなかった。

──もう限界だ。

 龍巳があくまでも何事も無かったように声をかける。
「青乃様、そろそろお身体に障りますよ。お部屋にお戻り下さい」
 青乃は我に返ったようにええ、と頷くと立ち上がり、客人に向かって優雅に礼をし、そして微笑んだ。
「あの、おいで頂いてありがとう。わたしはこれで失礼しますけれどどうぞごゆっくりおくつろきになってね。お戻りになられたらお兄様によろしく伝えて下さいな」

──気のせいか。

 青乃の様子は特に変わったところはない。落ち着いているし穏やかなままだ。表情も微笑んでいるし顔色も変化はない。


 一瞬──
 あの一瞬だけ、青乃は何かに気づいたような顔をしたのだ。

 気のせいだ。
 気のせいであってくれ。

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 窓から差し込む日差しがすでに傾いている。もう夕刻に近くなっていた。


 がらんと広いその部屋には何の家具も調度品もない。
 建てられた時にはダンスホールとして、あるいはパーティの場として使われていたというその部屋は、長年書庫として使われていたために本棚の設置されていた床にのみ書庫の名残を残していた。ゆくゆくは何か別の目的に使うことも考えてはいるが、今のところ完全に空き部屋である。時折床の清掃に業者を入れたり、手の空いている時にみずきが磨いたりしているがどうしてもうっすらと埃が積もってしまう。
 その広いホールの中に暎はぽつんと立ち尽くしている。


 伯方はその背中を、監視するようにじっと見つめていた。

「ここが書庫だったんですか……」
「当時この別邸を管理していた者によると、ほとんど一日中ここに籠って調べものをしたり論文を書いたりしていたそうだよ。その人と連絡が付けられたら良かったんだが当時でももう老齢ですぐに退職してしまってね」
「その人はもう亡くなったそうです。柾青さんが確認してくれました」

 確かにもとの雇い主は葛木家なのだからこちらが調べるまでもなく柾青が把握していてもおかしくない。伯方はそうか…と呟いて暎の背後に近づく。
 不意に、暎がぐるんと振り返った。

「──テル先生」

 うん?とあくまでも優しく紳士な顔のまま首を傾げる。


「兄さん、本当に事故だったんでしょうか」


 逆光の中の暎の顔がよく見えない。
「兄さんね、あの日、ここのお仕事を辞めるかもしれない、もしかしたら暫く連絡取れなくなるかもしれないって言ってたんですよね。何か身の危険を感じてたんじゃないのかな」
「私は当時ここにいたわけではないからな……すまないが私には見当がつかないよ」

 頸を抑えたタオルをみるみる赤く染めて滴った血が脳裏に蘇る。

「兄さんが突然死んで……葛木家からいくぶんかの見舞金は貰ったけどその頃はまだ先代の借金が全然残っててあんまり現金出せなかったんでしょうね。僕の看護学校の入学金に半分使って残りは鞍子を預かってくれてる親戚に渡して。学校行きながらのアルバイトじゃ学費も生活費も全然足りないから、たまにウリとかもやって。お金のない学生が自活していくのって大変なんだなってやっと実感しましたよ」
 暎はふふっと笑い声を立てた。影になっているが笑っていることはわかる。
「まだ景気が良かったんでしょうね、僕みたいなイモくさい普通の専門学生にすっごい大金くれるお金持ちのおじさん、いっぱいいたんですよね。高級ブランドのオーダーメイドのスーツとか高級時計とか買ってくれたりね。真面目にアルバイトするのバカバカしくなりましたよ。おかげで無事看護士になれました」


 暎がそっと右手を伸ばし、伯方の頬に触れた。


「あの頃、ここでのお仕事を貰う前、兄さんはどうやって僕と鞍子を養ってたんでしょうね。お金持ちのパパでもいたのかな」
「椎英は真面目に働いていたよ。それで自分の研究も出来ないと嘆いていたからここでの仕事を紹介したんだ」


 真面目──ね、と口の中で呟き、暎が一歩近づく。


「身体を売って生きてた不真面目な僕と違って」
「暎、よしなさい」

 暎の唇が触れた。
 幾度か啄んでくる間もうっすら目を開けたままその顔を見る。暎は目を閉じている。
 目を閉じたまま、唇が殆ど触れたまま暎は顰めた声を漏らした。

「ね、先生。兄さんを誰が殺したの?」

 暎の両頬を捕らえてゆっくりと引き離す。
「椎英は事故で死んだんだよ、暎」
「どうせ警察なんか動きやしないんだから教えてよ。それともどうしても教えられない人がやったの?青乃さん?嵯院さん?それとも──」
 閉じていた目を開く。じっと伯方の目を見据える。

「──先生?」

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「もうそろそろこのあたりは雪が降るんじゃないのか」
「でしょうね。スタッドレスだけじゃなくてチェーンもいるかな。俺、チェーン巻くの苦手なんすけど」
 返事をしたのに会話が続かない。
 溜息をつくとKは山道の運転に集中することにした。

 椎多は自分の何気ない問いかけへの答えなど耳にも入っていないように窓の外を見ている。


 今週の始め、義理の兄である葛木柾青から電話があった。


──住み込みで常駐してくれている私の看護士が、あの別邸を訪ねたいと言っています。
 実は、たまたまなのですが彼の兄は昔あそこの書庫の管理を任せていた、幡野椎英という者で。まだあそこで勤めてくれていた頃に、不幸にも車が炎上してしまって亡くなりましてね。私の看護士──暎というのですが、彼はお兄さんの死に目にもあえなかったしご遺体も黒焦げの見るに堪えないものだったために周囲の人間が気遣って先にお骨にしてから渡したんだそうでね。彼としてはお兄さんとちゃんとお別れが出来ていない、と心残りがあるそうなのです。
 だからせめて、彼のお兄さんが最後に勤めていた場所を訪ねて、そこでお兄さんを偲びたい──と。


 口調も弁の立つ様子もいつもとは変わらないが、電話が遠いのかと思うほど、柾青の声は弱かった。途中で時折息切れがしたように言葉を途切れさせながら話している。

 彼の容態は芳しくないのかもしれない。

 柾青との仕事上の話は大枠ですでに合意済みで、万が一ここで"何か"があったとしてもその時点で計画がスタートになる程度には煮詰まっている。あのスピードからして彼は自分の命の期限をおそらくは実際より短めに見積もっていたはずだ。
 あの部屋から一歩も出ることもなく、自分のように取引相手や政治家を接待したり贈賄だの談合だの場合によっては裏から脅迫したり邪魔者を葬ったりすることもなく、まあまあ大きな事業を義弟を使って自在に動かそうとしている。なかなかのやり手だ。こんなことなら結婚当初から彼との仕事を考えればよかった。面白いことが出来たはずだ。きっともうすぐいなくなる仕事相手がこれほど惜しいと思うことはなかなかない。


 柾青の容態はさておき、今回の電話はプライベートな件だ。
 それだけを聞けば特になんということもない、龍巳に一報を入れておけば済む話だが──

 "幡野椎英"──の弟。

 会ったことも当然ない、結局写真すら見なかったが。
 かつてあの別邸で青乃と恋仲になり、紫の判断で排除、つまり殺された男の名だ。

 

 その弟が、たとえ他意はなかったとしてもうかつにあの別邸で青乃と邂逅し、兄の話でもしたなら。"ほんのささいなきっかけでもするすると戻ってしまう"という青乃の記憶の糸口になってしまうかもしれない。
 それはおそらく、封じた青乃の記憶の中で最も触れてはならない一番深い傷のはずなのだから。

 その場で断ることは出来たはずだった。
 理由ならいくらでも作ることは出来る。
 しかし、椎多は断ることはしなかった。

 もし、その"椎英の弟"と青乃が会ってしまったとして──
 そこで青乃の記憶が戻ってしまったなら所詮そこまでの儚い夢だったのだ。
 あんな脆いガラスの箱庭が、本当にこの先何年も、何十年も維持出来るとはとても思えなかった。しかし、これでもし青乃の記憶が戻らなければ──もしかしたらもう何年かはあの夢を見続けることは出来るのかもしれない。

 柾青からの電話を切ると椎多は伯方を呼び、翌朝、暎が到着するより先に別邸へ赴いて注意を払うように指示した。
 それは極力暎を青乃と接触させないよう伯方なら行動するだろうことを見越してのことでもあるが、もしも青乃が記憶を取り戻して、Kのいう「もっと酷いこと」になってしまった時に龍巳と紋志とみずきだけでは対処しきれないかもしれないと思ったからだ。

──俺はどうしても週末までは行けない。
──だから何かあったら──いや、何が起こっても、おまえが見届けてくれ。

 暎が訪ねてくるという日の間、伯方からもみずきからも特に大きな報告は無かった。伯方からようやく連絡があったのは夕食が終わったのだろうというくらいの時間である。
 青乃は暎と邂逅はした。応接室で軽く会話もした。晩餐もテーブルを共にし、無難な談笑はした。しかし青乃には変わった様子は見られない。記憶は戻ることはなかったのだろう。これから暎を車で葛木邸まで送り届けて帰邸するという報告だった。
 青乃は遅くなるから泊まっていけと客人に勧めたが、客人の方が遠慮をして──というよりおそらく柾青の容態が芳しくないから──辞退したのだという。


 その日の深夜には暎を葛木邸に送り届けたという電話と、ほどなく本人が嵯院邸へ戻ってきた。

 さすがに片道数時間、しかも山道の運転だ。一日で日帰りするにはいくら伯方でもそろそろ老齢の身にはこたえるだろう。報告の内容は異状なしであるわりには酷く憔悴しているようだった。
 報告内容に安堵していた筈の椎多は、伯方のその顔を見てどこかうっすらとした不安が胸を覆うのを感じた。
 感覚的なもので根拠はない。
 それでもそのうっすらした不安は少しずつ、椎多の胸の底にも溜まっていった。

──この車を降りた時に、青乃は。
──前回と同じように笑ってくれるだろうか。


 Kが手動で門扉を開き、車を敷地内に乗り入れたところで再び閉めに戻る。
 たいていはこの音で青乃は夫の来訪を察知し、玄関前で車を降りた時には扉から飛び出してくる。
 しかし、車を降りた時にタイミングよく扉を開いたのは──みずきだった。


「くみちょう、おかえりなさい!途中、雪とか降らなかったですか?」
 いつものように語尾に音符のついた調子でコートを受け取る。

「──青乃は?」

 胸の奥がざわざわと波立つのを隠すように言うとみずきは悪戯っぽくくすっと笑った。
「おくさま、待ちくたびれて今は居眠りなさってます」


 居間を覗くと柔らかなソファの上に横になった青乃に薄手の毛布が掛けられていた。向かい側のソファには紋志が座って何かの本を読んでいる。椎多に気づくとにっこり笑って会釈をした。
 ほっと胸を撫でおろしてそっと青乃の頭を持ち上げ、自分がその場に座って青乃の頭を膝の上に移動させる。紋志に向かって言葉を発しようとすると紋志は人差し指を口の前で立て、しいっ、というポーズを見せた。


 膝の上の青乃の顔を見下ろす。
 幼くさえ見える白い頬を親指で撫でる。夢の中でも幸せでいるのだろうか。微かに微笑んで見える。
 柔らかく肉厚な唇をなぞると青乃は目を閉じたまま口を開き、それを唇で噛んだ。微かに舌の当たる感触がする。どきりとして手を引っ込めるのと同時に青乃がうっすらと目を開けた。
 夫の姿を認めたのか、一瞬大きく息を吸い込むと青乃はまだ目が覚めきっていないような顔をして身を起こし、椎多の顔を2秒見つめてその胸にもたれかかった。それをなだめるように腕を回して抱きしめる。

「おかえりなさい」
「ただいま──青乃」
 髪を撫でると、青乃はまるで自分を椎多の胸に塗り込めようとでもしているかのように強く、椎多の背に回した両腕に力を込めた。

 その場ではまだ寝ぼけ眼だった青乃は、晩餐の用意が整う頃には普段と変わらない明るさを取り戻した。
 しかし、普段なら何か変わったことがあれば必ず楽し気に報告しているというのに週の始めの訪問者についてはひとことも触れないことがほんの少し引っかかる。
 この様子では青乃の記憶が戻ったわけではなさそうだとは思った。きっと、数日前の客人のことなど本当に忘れているか、とるに足らないことだと思っているのだ──


 夕食後の時間、いつものようにみずきや紋志を交えてゲームをしたり談笑したりした後、青乃はみずきに促されて寝室へと下がって行った。龍巳は口に出しはしないがほっとしたような顔をして椎多を見ている。

 この別邸へ移ってから、椎多がここに滞在する時も寝室は別にしていた。青乃は病気が原因で記憶を失ったことにしていることもあるが、椎多自身がまだ青乃に触れる勇気がなかったのだ。
 あれだけ拒絶され続け、だからといって無理やり犯してきた。
 記憶がなくても青乃の身体はその恐怖を覚えているかもしれない。
 もし、また拒絶されることがあったらその時に同じことを繰り返さないという自信がない。

 自分用の寝室に引き上げ、一旦ベッドに横たわるが寝付けない。読みかけの小説を取り出して続きを読もうとするが、全く頭に入らない。それではと、進行中の仕事のことを頭に思い浮かべるが、ここへ来る時には極力仕事の資料は持ってこないことにしている。所詮頭の中で考えているだけではこれもなかなか進まない。


 仕方ない、少し飲むか──
 と、ベッドから立ち上がった時、ノックの音がした。


 この別邸では警戒のレベルは本邸に居る時よりも下げているくらいなのだが、深夜のノックの音にはやはり警戒心が呼び起こされる。
 ドアに張り付き、もう一度ノックの音がするのを待つ。

「あなた」

 小さな声。
「青乃?」
 慌てて扉を開けると、青乃が夜着のままするりと部屋の中へ滑り込んできた。そして夫の胸に抱きつく。
 とにかく扉を閉め、胸の中にいる妻の頭を撫でる。
 こんなことはここへ移ってから──否、結婚してから初めてだった。
「……うん?どうした」
「わたし──」
 何かを言いかけて口を噤むとそのまま両腕を椎多の首に回し接吻ける。
「青乃?」


 声ごと飲み込むように口の中へ侵入し、舌を絡める。頭の芯が痺れてくる。ベッドに尻もちをつくように座ると青乃はなおも椎多の顔を掌で弄りながら唇を貪った。ようやくそれを離すと、青乃はじっと椎多の目を潤んだ目でまっすぐ見つめた。

「──どうして抱いて下さらないの?」

 すでに早くなっている鼓動がさらに跳ねた気がした。
「わたし、あなたの妻なんでしょう?抱いて下さい。わたしは大丈夫」
「青乃──」

 

 意を決したように夜着の胸をそっと開く。指が震えている。
 掌に収まりきらない膨らみの柔らかさを確かめながら、首筋に鼻を埋める。花のようないい香りがする。
 壊れ物を扱うようにおそるおそる触れていくと、やがて青乃は自ら脚を開き、椎多を迎え入れた。

 こんなに小さくか細い身体だったのだ。
 それを自分はあんなに乱暴に扱ってきた。
 壊れるのは当然じゃないか。

 すまない。
 愛してるよ。

 椎多の声は青乃の押し殺しても漏れてくる声に絡まって消えていった。

Note

アキラ無双回。どさくさ紛れにゲイ設定もぶっこんどきました。実はここまで来てまだどうしようか迷っている部分があります。オリジナルでのアキラは素でかいがいしくて清らかなばかりの青年だったんですが、こっちの暎は若干汚れてるし拗れてますね。妹がいる設定はなんなら削除しても良かったんですがそのままにしてます。多分出てくることはないと思うけど。

別邸はイメージでは信州です。岐阜か長野かな。メインの舞台はどこの都市か設定してなくて、普通に考えて東京とその近郊なんだけども書いてる時のイメージはどっちかというと作者のホームグラウンドである関西なんですよね…。関西なら嵯院邸は芦屋あたりにあるんでしょうか。料理旅館「はなや」なんかはもう箕面とかのイメージで書いてますもん。嵯院邸が東京なら別邸は山梨あたりが妥当なのかな。

​そろそろゴールが見えてきました。

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