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罪 -3- 初 恋

「───とうとう逃げたな」

 呟くと、椎多はバルコニーに出た。
 やはり、返事はありはしない。
 蒸し暑い夏の夜。

 報告に来たのは、青乃が実家から連れてきた使用人を取りまとめる役目を負っていた伯方という男である。


 嵯院邸に入れるからには各人について徹底的な調査を済ませてあるが、使用人の中でとりわけ伯方は特異な経歴を持っていたことを椎多はよく覚えていた。他の者は概ねある程度の年数青乃の実家に勤めたり一定年数警備会社などに所属した後住み込みで警備についていた者ばかりで特に目を引く経歴は無かったせいか、尚更目立ったのだろう。

 伯方照彦は若い頃、米国の警備会社に勤めていた。
 その警備会社というのは多くの類似した企業がその隠れ蓑を使っていたのと同様、実態は所謂民間軍事企業である。その会社に所属して伯方が派遣されていたのはアフリカの小国の紛争地であり、その要人の警護と時によっては戦闘に参加することが主業務だった。
 つまり、通りの良い呼び方をするなら、『傭兵』である。
 生憎経歴を洗っただけでは何故そのような進路を選んだかまでは不明だが、それを辞めて帰国した後は大手の警備会社に勤め、そこから青乃の実家である葛木家の専属になったという経緯らしい。しかしその後、数年でそれも辞職して子供向けの拳法道場を開いた。拳法とは言っても事実上は軍事訓練で身に着けた体術を教えていたらしいが評判そのものは良好で、鍵っ子の子供たちが大勢集まり、それを率いてキャンプやバーベキューやスポーツ大会を催したり学校の勉強を教えてやったり──と、共働きの親にとっては子供の面倒を格安で見てくれる格好の教室だったようである。
 青乃の婚姻によって警備の人間を数人連れて行くということになった時に、青乃の父親が既に退職していた伯方にそのリーダーの白羽の矢を立てたのは、それだけ信頼も厚かったということだろう。
 現在は実働は部下に任せ、自身は指揮・指導と他の使用人──青乃付きの者に限るが──の管理を一任されている。

 伯方は一見すると優しげな物腰の紳士で、特に筋骨隆々というでもなく、経歴から受けるイメージとはなかなか合致しない。

「奥様がここのところ酷く体調をお崩しになっておられます。今年の夏は特に暑いこともあり、涼しく空気のいい土地で暫く避暑を兼ねてご静養をなさっては、と医師の勧めもありました。このことについては柊野先生にも同意頂いております。高原に葛木家別邸がございまして、現在殆ど使われておりませんのでそこを使いたく存じます。所在地、建物図面などはこちらに」
 用意周到に資料を提示しながら伯方はすらすらと口上を述べた。
 許可を得るような顔をして、すでに用意は進めているのだろう、と椎多は思った。嵯院家の主治医に先に根回ししてあるあたり、小賢しい。それを意地悪く却下することも考えたが、椎多はもうすでに疲れ始めていた。

「少なくとも離れていれば、もうあんなことはせずに済む」

 一度力ずくで抱いてしまえば青乃の態度は硬化するばかりだ。もう仮にどんなに優しくしたところで、修復は難しいのだろう。
 それでも、あの刺すような視線で拒まれたらそれを征服しようとせずににはいられなかった。
 もう、自分ひとりの力ではあの獣を抑えることが出来ないところにまで来ていたのだ。

 物理的に離れることが、最良の道なのだろう。

 ぼんやりと椎多はこの歯車がどこで狂ってしまったかを考える。
 けれど、自身が狂った歯車の中にあってはどこがどう狂っているのかすらわからなくなっていた。

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 その別邸には、代々受け継がれてきた貴重な書物などをおさめた書庫があり、普段はそれら蔵書の管理人と屋敷そのものの管理人がいるきりである。
 青乃の父親はあらゆる別邸の類は処分し、本邸の他の不動産はもうこの別邸の土地家屋しか残されていない。しかしここだけは手をつけなかった。
 さほど広くない屋敷だが、青乃一人とそれについた数人の使用人──女医の芙蓉、看護婦一人、料理人と嵯院邸のメイドが一人ずつ、そして護衛として龍巳という名の若者がその屋敷へ供することとなった──が起居するには十分な広さだ。

 龍巳は警備担当の中では若かったが、子供の頃から当時のリーダーであった伯方に鍛えられ、伯方が退職して暫くはその紹介で警備会社に所属して経験を積んでから復帰した実戦派である。静養とはいえ主人の護衛を任されたということはそれだけ認められているということだ。

 また、龍巳は青乃に心酔していた。たとえ何があっても、自らを省みず主人を護る──そういった面で龍巳が一目置かれているのは自然なことだったといえる。
 但し、このとき龍巳が遣わされたのにはもうひとつ理由がある。むしろ、その理由の方が大きかったかもしれないということは龍巳自身も自覚していた。
 ここへ遣わされた料理人と嵯院邸からのメイドを除く三名の人間は、とある秘密を共有している。それを本邸内で漏らされぬよう、つまるところ隔離されてしまったのだ。

 秘密───

 それは、青乃が身篭った胎児を自らの手で掻き出した──あの出来事である。
 あの時、青乃の部屋の警備についていたのが龍巳だった、そのために。
 秘密を封印するために、選ばれた。
 しかし、そんな理由はどうでも良かった。屋敷に残ったところで、龍巳の守るべき主人がそこに居なければ意味がないのだから。

 青乃はここへ来てからも伏せっていて顔色も芳しくなかったが、終始機嫌がよかった。龍巳はそのように機嫌のいい青乃を、結婚が決まって以来見たことがなかったので多少ならずひるんだものだ。


──嵯院から離れられたということだけで、青乃様はこれほど回復されるのだ。


 主人の様子を見るにつけ、もう二度とあの屋敷に青乃を戻らせたくはない、龍巳はそう思わずにはいられなかった。

 常に青乃に接する者の中で唯一「秘密」を共有していない人間──嵯院家からつけられたメイドである冴は、青乃より少々年かさだという程度の若い女である。
 当然のように他の者、とりわけ龍巳からは警戒心を持って扱われ、当初は青乃自身も冴がまるで夫の代理人であるかのように警戒を解くことは無かった。しかし、冴は辛抱強く青乃に奉仕し続けた。
「奥様が私を信用おできにならないのは判ります。でも、私、奥様の前でだから言えますけど、女として旦那様のなさってることがどうしても許せないんです」
 冴はことあるごとにそう訴えた。
「奥様が疑ってらっしゃる通り、私は本当はここでの出来事を全て報告するように旦那様に指示されて来たんです。でも、私、そんなものに従いたくありません……。旦那様は奥様にあんな酷いことを繰り返すくせに、他では別の女性を連れ込んだり、使用人に手をつけたり。私、ここに遣わされて本当に幸運だったと思いますもの」
 嵯院椎多に対する不満を共有することで、冴は少しずつ青乃の信頼を得るようになっていった。

 そうして出来上がったのは、誰も青乃を傷つけない──箱庭のように小さく脆い楽園だったのだ。

「龍巳、あの男は誰?」
 少し体調がいいからとバルコニーにカウチを置かせてそこから外を眺めていた青乃が、庭で行ったり来たりしている男を指差した。
「あれは、もともとこのお屋敷で書庫の管理をしている男です」
「さっきから本を持って行ったり来たりしているわ。何をしているのかしら」
 龍巳はそれをうけて、バルコニーから身を乗り出し、男に尋ねた。
「古い本をー、虫干しー、してるんですー!」
 男は、バルコニーの青乃にもはっきり聞いて取れるような大きなはっきりとした声で答える。
「ときどきー、干しておかないとー、虫のゴハンにー、なっちゃうんでー!」
 それを聞いていて青乃はくすくすと笑い出した。あまりにも他愛も無い笑い方だったので、まるで彼女がどこにでもいる普通の娘のように見えて龍巳は戸惑う。
「……あの男、おもしろいわ。こちらへ呼んでちょうだい」
「え……はい」
 何が興にのったというのだろう、仕方なしに龍巳は男にむかってその旨を伝えた。すると、男はやはり大声で返す。
「これがー、片付いてからー、でいいですかー?」
「青乃様がお呼びなんだ、すぐに──」
「龍巳」
 青乃が制する。
「よくてよ、仕事が終わってからで。」
 笑っている。
 優しい笑顔だった。龍巳は思わず赤面してしまい、それを隠すように庭の男に向かって怒鳴り声をあげた。

 本の虫干しを追えて書庫係の男が青乃の元へやってきたのは、すでに日も暮れ晩餐も済んだあとであった。龍巳があきれて意見しようとしたが、青乃は変わらず上機嫌だったので言葉を飲み込む。書庫係はこのような時間になってしまったことも、自分が遅かったとは思っていないらしい。青乃は、『仕事が終わってから』と言ったのだから、これでいいと思っているのだ。
 青乃は、龍巳に下がるよう言った。そういうわけにはいかない。が、青乃は笑って言う。
「おまえもたまには早くやすみなさいな、毎日遅くて疲れるでしょう。この男のどこが危険だというの?心配いらなくてよ」
 下がらせる為だったかもしれない。しかし、青乃の口からそのような優しい言葉が出てくるなど思ってもみなかった。感激のあまり涙が出そうになる。龍巳は一通り男の姿をじろじろと睨めつけてから言われた通りにした。

 この時、青乃が何と言おうと自らの職務を全うしてその場に残るべきだったと後悔することになるとは、龍巳はまだ知る由も無かった。

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 それから、毎日とはいわずとも頻繁に青乃は書庫係──名を、椎英といった──を呼び出した。
 椎英はもともと、この屋敷の蔵書のような古い文献などを研究していた研究者で、食い詰めていたところを知人の紹介でこの仕事にありついたのだという。
 ここにいれば蔵書の管理さえきちんとしていれば読み放題のうえ寝るところも食事にも困らない。うってつけの職場だった。
 青乃はそんな椎英の語る、古い本の物語をまるでおとぎ話のように面白げに聞いていた。もともと好奇心旺盛な娘だった青乃はこれらの話が楽しくて仕方なかったらしい。次の話次の話とねだって、深夜になり看護婦が止めに入る日も1日や2日ではない。

 それはまだそんな日々がはじまって間もないころのことだった。

「おまえ、そんなに本ばかり読んでいていつ寝ているの?」
 何気なく聞いたとき、かすかに椎英の表情が曇った。
「……青乃さん、その『おまえ』っていうの、やめませんか?」
 青乃はきょとんとする。何か悪いことを言っているというのだろうか。
「僕の雇い主はあなたのお父上だけど、あなたに雇われているわけではないんですよ」
「──」

 雇い主の娘に対する礼儀はないのか、とは思わなかった。

「では、お……椎英は、わたくしの命令はきかないということなの?」
「命令は聞く義務はないと思います。『お願い』されたらきいちゃいますけど」
 悪びれたところもなく、にっこり笑って椎英は言った。

 青乃はしばらく言葉を失っていた。
 今までまわりには、青乃や父親、夫の命令に従う使用人ばかりだった。ずっと側にいて話を聞いてくれた紋志ですら、使用人として扱っていたのだ。
 青乃にとっては新鮮な衝撃だった。
 『お嬢様』でも『奥様』としてでもなくただ自分を青乃さん、と呼んで目の前で微笑む男が、まるで別の世界から来た人のように思えた。
 不思議と怒りがわかない。それどころか、きちんと人間扱いされている気がして青乃は無性に嬉しかった。そうやって名前を呼ばれる度、鼓動が早くなり頬が紅潮するようになっていく自分に青乃は戸惑い始めていた。

 それは、青乃にとって初恋だったのだ。

 

 それから青乃は見違えるように顔色もよくなり元気になっていった。
 芙蓉が喜びながらもいぶかしむ程の回復ぶりである。
 周囲の者たちも、それは椎英との時間が齎しているのだということに徐々に気づきつつあった。

 しかし、そんな青乃が時折椎英と話している最中にもふさぎこんでしまうことがある。
 どうしたのか椎英が訊ねても、黙って首を振るだけで答えない。答えられなかった。
「何があったか話して下さい。話すだけでも荷物が軽くなることだってあるでしょう」
 そういってある日椎英は優しく青乃の目を覗きこんだ。

 目が合う。

 とっさに目をそらした青乃は、その目から熱いものが流れてくるのを感じると、こらえきれず顔を覆った。

 椎英の視線が怖い。
 あまりにも優しいから、それを失うのが怖い。
 これ以上、この人の傍にいたらわたしはどうなってしまうんだろう。
 それなら、気持ちがこれ以上膨らむ前に、終わらせてしまった方がいいのかしら?

「…あなたが好きなの。でもわたしは駄目。あなたにふさわしい女じゃない──」
 椎英はただ黙って首を傾げ、青乃の髪に触れた。

「わたし、殺したの……わたしの中にいた子供を──」

 青乃は溢れ出た涙を止めることも出来ないまま告白を始めた。

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 話し終えると、青乃はもう顔を上げることもできなかった。

──わたし、なんて醜い女なんだろう。
──あの男の子だからって、どうして自分の子供を殺したりしたんだろう。
──あの子には何の罪もなかったじゃない。
──わたしの中でしか生きられない、か弱い命だったのに。

──わたしは子殺しなんだわ。

 

 椎英の前にいると自分がどれほど醜いのかを思い知らされるようで、恥ずかしくて消えてしまいたかった。そんな気持ちはこれまで感じたことがない。

 と、クッションが沈む感覚がした。椎英が隣に腰掛けて、ゆっくりと青乃の肩を抱き寄せる。

「つらかったでしょう。かわいそうに」

 椎英の声はそれでも優しかった。

「……あのこは悪くなかったのに……殺したの…」
「もういい、もう済んだことです。青乃さんが悪いんじゃない」
 椎英は身体をずらして両腕で青乃を包んだ。悲しみから青乃を守ってやろうとするように、そっと。怯えるように身を硬くしていた青乃は深く呼吸をするとその胸の温かさをようやく感じることが出来た。再び新しい涙が溢れてくる。

 最初にあの男に犯された日から、もう涙など枯れてしまったと思っていたのに──

「怖かった……こわかったの…。あの男が…。わたしが殺したあのこが……」
「大丈夫、僕がここにいますよ」

 いつか、きいた魔法の呪文。

 しかし、側にいると約束した紋志は、もう今はどこにいるかもわからない。


「──あなたはいなくならない?わたしの側にいてくれるの?こんなわたしでも?」
 椎英は答えるかわりに、指で青乃の涙を拭うとその目にくちづけた。
 そのまま唇にも──
 青乃は椎英の胸にもたれて、生まれて初めて胸が痛むような幸福を感じていた。

 わたしは、あんな罪を犯したのに、あなたを愛してもいいの?
 あなたは、あんな罪を犯したわたしを、それでも愛してくれるの?

 それなら、わたしは──

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 龍巳が椎英を呼び出したのはその数日後のことだった。
「奥様……青乃様を、自分は子供の頃から見てきた」
 遠くを見ながら龍巳が言う。椎英は黙って聞いていた。
「ご結婚が決まって以降、青乃様の笑顔は消えてしまっていた。しかしここへ来てからは日を追うごとにお顔が明るく穏やかになっておられる。それは、おまえのおかげなのか」

 ただ寄り添って気持ちを確かめ合っただけ。
 それでも、青乃がどれほど幸せを感じているのかは顔を見ただけで判る。

「……さあ、わからないよ。ただ、青乃さんはひとりぼっちだった。あの小さな身体でひとりで罪や悲しみや寂しさと闘ってきたんだと思う。僕は……」
 椎英は呟くように言った。

「僕はあのひとを愛してる」

 

 龍巳は発作的に椎英の胸座を掴み、今にも殴りそうになるのをかろうじて堪えた。
「──わかっているのか?青乃様は……嵯院の奥様なんだぞ」
「知ってる。だけど、僕はあのひとを助けてあげたい」

 椎英の表情を見て、龍巳はぎくりとした。
「おまえ、まさか──青乃様を──」

 椎英は、機を見て青乃をここから連れ出そうとしている──
 龍巳はどうすればいいのか激しく葛藤していた。自分の立場ならばそれは絶対許してはならないことだ。
 しかし、今の青乃を見ていると、椎英と共に生きていくほうが彼女にとってどれだけ幸せなことか自明のことだった。


 現在の雇い主は嵯院だ。そんなことは判っている。しかし──
 自分は単なる雇い主に隷属する人間なのか?
 青乃様を守りたい一心でここまでやってきたのではなかったか?
 青乃様が幸せになることを、どうして妨げることが出来るだろう?

 

 龍巳は投げ飛ばすような勢いで掴んだ胸座を離した。
「……嵯院に知れてみろ。おまえ、殺されるぞ。文系のヒョロヒョロの身体のくせに、青乃様を守って行けるとでも思ってるのか」
「ありがとう」
 脅されているというのに椎英はにっこり笑った。龍巳が忠告してくれているのが嬉しいのだ。

──何だこいつは。

 

 かなわない、と龍巳は思った。

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 深夜の呼び出しに応じて伯方照彦がそのドアを叩いたのはそろそろ空も秋の色を映し始めた頃である。

「突然申し訳ありません。緊急かつ内密にお話したいことがあったもので」
 呼び出し主は、常に椎多の影のように付き添っている紫だった。
 伯方が青乃付きの使用人をまとめているように、紫は実質的に嵯院邸の警備をとりまとめている。トップ会談のようなものだ。
「早速本題に入らせて頂きます。現在葛木家別邸における奥様の警護担当は一人ですね」
「はい。私が指導した若いながら優秀な人材を配置しております」
「優秀──ですか」
 紫は意味ありげに顎を上げ、腕組みをしたまま伯方を見下ろした。伯方もどちらかといえば長身の方だが、紫の方がはるかに高い。伯方は眉を微かに寄せて次の言葉を待った。
 次の瞬間。
 だん、と激しい音を立てて紫が脇のデスクを叩いた。

「──あんたらは嵯院家を、嵯院椎多を馬鹿にしているのか」

「なんですって?」
「別邸であんたらのご主人が何をしているのか、知らんとは言わせんぞ。嵯院椎多の妻が男を作ってあまつさえ駆け落ちまで計画しているなど──」
 激しい音を立てたのはデスクだけで、紫は終始抑えた声で話している。しかしそれが聞くものにとっては十分すぎる威圧になっている。そんなものに圧される伯方ではないが、しかし驚きは隠せない。
「待って下さい、どういうことですか」
「俺のところで止めているからいいようなものの、嵯院が知ったら奥方だけじゃない、おまえら使用人も全員処分することは目に見えている。それだけじゃない。葛木家も徹底的に潰す。嵯院椎多とはそういう人間だ」
「ですから──」

 今度は側にあった重厚そうな木製の椅子が吹っ飛んだ。紫が蹴飛ばしたのだ。

「なるほど、あんたの目は節穴だったというわけだ。それとも、『おじょうさまを逃がしてさしあげる』のがあんたらの最終目的か何かなのか」
「───」
「俺の言うことがでまかせだと思うなら直ぐに別邸に人をやって確認すればどうだ。なんならあんたが直々に出向くといい。奥方の浮気相手は書庫番の男だ。──これからも葛木家のためにこの婚姻を破綻させたくないと思うなら、あんたにもあんたなりの嵯院家に対する誠意を見せてもらいたいものだな」

 にこりともせず、紫は自分が蹴飛ばした椅子を元の位置に戻し、デスクに軽く腰掛けて煙草に火をつけた。視線は伯方からずっと外しはしない。
 

「いいか、相手の男は嵯院椎多のみならず、あんたらの大事な『青乃お嬢様』を辱めて恥をかかせた男だぞ。あんたがどうカタをつけるのか──俺はよく見させておいてもらう。その対応次第によっては、あんたら葛木家関係の使用人は全員解雇だ。命が取られないだけでも有難いと思うんだな」

 半分ほど吸った煙草を無造作に消すと紫は、時間はそう無いぞ──と念を押してその部屋から退出した。
 残された伯方が我に返るまでには数秒とかからなかったが、伯方には何時間とそうしていたように感じられた。

Note

ここでは「伯方照彦」という名で出てきているこの方。「TUS」ではこのお屋敷の執事さんでした。執事なのに、かつて傭兵だったり町(町?)で子供たちを教えてた先生(学校の先生ではない)だったりとかよくわからん設定だったので(チャットなどでキャッキャしながら設定してたので整合性のない設定がいっぱいあります)、青乃の実家から連れてきた警備責任者というところに落ち着きました。この方、TUSではある意味いろんなところで色々巻き込まれてまあまあややこしい立ち位置なんだけども。

とはいえ設定を大幅に変えていって、TUSには出てきてなかった紫とのやりとりとかを書くのはとても楽しかったです。

椎英はへんな名前なんですが名前を借りた人のHN自体が変わってたので当て字に困ったんですよね。椎多と漢字がかぶるのでいまだにちょっとしっくりきていない名前です。モデルの人、ある文系の研究者だったのでこの人も(ジャンルは違うけど)文系の研究者、ということにしました。

​龍巳は名前だけじゃなくビジュアルイメージもちょっと借りています。こちらでは記述はしてないんだけど実は髪色は緑に染めています(TUSでは「あの緑の髪の子」と椎多に認識されているというくだりが出てくる)当時、このモデルの人が緑髪だったので。

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