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罪 -2- 花嫁人形

 このバルコニーからの眺めは、ここが街中に程近い場所だということを忘れさせる。裏山に面してはいるが圧迫感はなく、まるで自然豊かな山間の景色を見ているような錯覚にすら陥るこの一角は屋敷の中でも椎多の好きな場所のひとつだ。
 それを花嫁の部屋に選んだ。
 椎多は何度か婚約者を屋敷に招待しその内部を案内したりしたが、青乃の気に入ったかどうかはわからない。
 式の打合せをするにせよ何にせよ、青乃はいつもただ黙ったまま人形のように頷くだけだった。

 せめて二十歳くらいになるまで──と思う反面、一刻も早くあの父親の元から引き離したいという気持ちが勝って結局挙式は青乃が卒業してすぐの春に執り行うことにした。融資を受ける父親は上機嫌である。

──あんたのにやけ面なんか見たくないんだよ。

 何度も喉までそんな罵倒が出かかったがかろうじて飲み込む。見たいのはあの義父になる男のにやにやした笑い顔ではなく、青乃の笑顔なのだ。
 それなのに、あれ以来青乃は一度として椎多に微笑むことはなかった。

 披露宴は超のつく一流ホテルの大広間で催された。

 招待客は政財界に留まらず、中には芸能人やスポーツ選手もいる。司会はテレビ局の女子アナウンサーが務めている。さすがに中継はないが規模は芸能人並だ。
 笑顔を見せない青乃は、緊張して表情の硬い初々しい花嫁として周囲の好感を得ているようだ。逆に椎多は財力にものを言わせて十代のいたいけで美しい娘を娶り元華族の姻戚という地位をも得た意地汚い人間というレッテルを貼られてしまった。もっとも、そんなことを面と向かって批判してくる人間などいない。
 元華族と言ったところで、なかば瀕死の家柄だ。わざわざ手に入れる必要も感じない。
 勝者というものは往々にして批判の対象になるものだ。いちいち気にしていては大きな勝負など出来はしない。敗者の戯言になど耳を貸すなど時間の無駄と言うものだ。

 ただ──青乃本人に同じように思われているかもしれない、否、おそらくはそう思われている──というのはやりきれない。

 恩を売るつもりなどないが、心のどこかで青乃を救ってやった──という奢りが生まれていることに椎多はまだ気付いていなかった。

 披露宴の後は屋敷で更にパーティが催された。ごく小規模だが、これもビジネス上の接待のようなものだ。表面的には友人づきあいしている起業家や学生時代の友人などが少しでもおいしい話は転がっていないかと目を光らせてやってきているように見えた。
 本当に気の置けない友人がいないわけではない。ただ、それは組の若い者だったり、連絡先もわからない飲み屋の常連客だったりする。パーティに招待するにはそぐわない者ばかり。
 自分で案を出したにもかかわらず、椎多はこのパーティに次第に苛々しはじめていた。披露宴の時はまだ無理やり作ったと明らかでも苦笑のような笑顔を見せる場面もあったが、青乃はここに至ってにこりともせず色々質問を浴びせるゲストたちにも返事ひとつしない。これでは青乃がこの結婚を喜んでいないことなどまるわかりだ。


「すまないが、演技でもいいからもう少し愛想よくしてくれないか」
 たまりかねて椎多は花嫁に耳打ちした。
「──どうしてそんなことしなければなりませんの」
 椎多の方を振り返りもせず呟く。
「一応は皆、祝いに集まってくれているんだ。客に対する礼儀だろう?」
「わたくしは祝われたくなどありませんもの」
 やはり、視線はどこか遠くへ投げたままで青乃は人形のように言った。
 その場で怒鳴ったり殴ったりするほどは子供ではなかったが、瞬間的に体温が上がったのが自分でわかる。

──俺がこの話を受けなければ、おまえはどんなエロ爺のところに売り飛ばされていたかわからないんだぞ。

 腹が立つのと同時に無性に哀しくなった。
──同じことか。

 自分が家の為に利用されたことに、このお嬢様はいたくプライドを傷つけられている筈だ。相手がどんな男であろうが彼女にとってはたいした違いはないのだろう。


 ただ──
 あの青乃の可憐な笑顔を、もう一度見たかっただけなのに──
 どこかで何かを間違えたのかもしれない。
 もっと早くそれに気付いていれば、更に大きな、取り返しのつかない過ちを椎多は犯さずにすんだのかもしれなかった。

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「───お疲れさま」
 既に夜半近くなっていた。
 窓からは見えないが月が仄かに夜の風景を照らし出しているのはわかる。
「今日からここは君の部屋だ。好きに使っていい」
 間接照明の柔らかい光が青乃の美しい横顔を照らしているけれど、やはりその表情が和らぐことはなかった。椎多は青乃の正面に移動し、椅子に腰掛けた青乃と視線を合わせるように床に屈んだが、こんどは青乃が顔を逸らす。
「青乃さん」
 小さな溜息が落ちた。
「君は納得いかないだろうけど、私たちは夫婦になったんだよ。もう少し互いに歩み寄りたいと思うんだけどね」
 そう言うと椎多はその手を青乃の白く小さな手に重ねた。


「──触らないで!」
 

 驚くほどの大きな声と同時に、青乃が椎多の手を振り払った。その拍子に綺麗に形を整えた爪が椎多の頬を掠める。
 少し。

 椎多の目が色を変えた。
「いつまでもそうしているつもりか。少しは大人になったらどうだ」
 そういう椎多自身が大人になるべきだった。

 大人なのだから、大人の振る舞いをすべきだった。

 しかしこの瞬間、椎多は大人でも紳士でも、あるいは人間ですらなくなっていた。


 青乃の白くて細い腕を、まるで握りつぶそうとでもしているかのように強く捉える。その痛みに顔をしかめると青乃はきっと強い視線を突き刺されとばかりに夫である筈の男に放った。
「──離しなさい!わたしに触らないで──汚らわしい!」
 次の瞬間、青乃は弾き飛ばされていた。
 

 殴られたことなど生まれて一度もない。

 あの下品な父も、暴力だけは振るわなかった。


 涙をいっぱいに貯めた目は、それでもまだ屈服してはいなかった。

 しかし、その目に映った夫の口元は──

 笑っていた。

 それは、どんな憤怒の形相よりも残酷に見える。
 初めて、青乃の表情に恐怖が差した。
「──来い」
 ただ短く言うと椎多は青乃の腕を掴んだまま立ち上がった。腕にはきっと痕が残るに違いない。しかしそんなものには構いもせず引きずるように奥のドアを開け、そこへ華奢な青乃の体を放り投げる。青乃が投げ出された場所はベッドの上だった。
「そう、おまえはその汚らわしい男に金で買われたんだ。自分の置かれた立場ってもんを判らせてやる」
 椎多はそう宣言すると、シャツのボタンを外し始めた。

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 ぼんやりとした頭にドアの閉まる音が妙に大きく響いた。
 どれくらい、身動きをとることもできずにそうしていたのだろう。不意に、青乃は身を起こしてふらふらとベッドから立ち上がった。
 確か、こちらがバスルームのはず。
 まだ慣れぬ部屋ではあるが、備えられた洗面所や風呂の位置くらいは把握している。

 頭が酸欠になった時のようにガンガン痛む。実際酸欠状態だったのかもしれない。


 自分の身体のどこもかしこも泥まみれになったような気分だ。
 石鹸をこれでもかと泡立てて、何度も何度も何度も洗う。自分の身体の一部でありながら一度も触れたことすらなかった場所が、いまだに微かな熱をもっている。青乃はそこにもおそるおそる指を伸ばして洗った。鈍い痛みに顔を顰めた途端、そこからどろりと紅く染まった液体が流れ出した。

 

 寒気と吐き気が同時に襲う。
 やはり、あれがあの男の本性だったのだ。わたしの気持ちなどまるで考えもせず、自分が金で買ったと嘯いた男。金で何でも思いのままになると信じているのだろう。
 優しそうな顔をして色々わたしのご機嫌をとろうとしていたみたいだけれど、結局わたしをこうして蹂躙することが目的で父に資金を提供したのだ。だからわたしが思い通りにならないからといってあんな風に殴って、そして──


 悔しくて、情けない。それ以上にあの男が憎い。
 青乃は涸れることが無いかと思われるほど涙を流すと、少し熱めのシャワーをじっと浴び唇を噛み締めた。
 負けるものか。
 力では敵わない。彼はおそらくこれからもわたしが拒めばあんなふうにわたしを抱こうとするだろう。
 でも、どんなに踏みにじられても蹂躙されても、わたしは決してあの男には屈服しない。
 何度も何度も、青乃はそう口の中で呟いた。
 そうしていなければ、今の自分が置かれた状況に耐え切れなくなりそうだったのだ。
 シャワーを止めて、大きなバスタオルに身を包み顔を拭くと青乃は息を整えるように深呼吸をした。

 もう、新たな涙はなかった。

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 夫婦間の性交渉でも状況によっては犯罪と見做されることくらい、知識の上では青乃も知っている。性的暴行だけでなく、殴られてもいる。
 かといって、かろうじて青乃を支えている自尊心がそれを許さない。
 自分が怯えて震えている何の力も無い弱い女だと認めること、認めて他人に救いを求めることがどうしても青乃にはできなかった。

 それに、こんなところに警察を呼んだところでどうせ適当にもみ消されてさらに暴力が酷くなるだけなのではないかとも思った。どのみち誰も助けてなどくれない。


 そうこうしている間に──
 もう夏が目の前に来ている。


 季節を感じる余裕などなかったけれど、確か結婚式の頃には桜が咲いていた筈だ。その頃の柔らかい日差しがすでに強い夏のものに変わりつつあった。

 まわりの人間は気晴らしを勧めてくれたが、どうしても外出する気にならず数ヶ月の殆どをこの部屋で過ごしてしまっている。
 食欲も減退して、最低限のものしか摂取していないため、随分痩せてしまった。もともと太ってはいないが若い娘らしく健康的な張りのあった身体が病人のようだ。


 だから、月経が止まったことも当初不思議に思わなかった。


 急激なダイエットをするとホルモンのバランスが崩れて不順になることはよくあることだ。
「お嬢様、まさかとは思いますが一度お使いください」
 実家から伴ってきた女医がそれを目の前に出すまで、青乃はその可能性を欠片も考えていなかった。
 妊娠検査薬。
 その女医は、青乃がまだ小学生の頃から側にいる年の離れた姉のような存在で、数少ない青乃の信頼を得ている人物だった。
「お嬢様。私は今は嵯院様から雇われている立場です。出すぎたことをすればすぐに解雇されてしまってここから追い出されてしまうでしょう………せめてこのくらいしか私には………お許し下さい」
「でも芙蓉先生……これは………」
 考えていなかったというより、考えることから逃げていた可能性。

 しかし現実は青乃に更なる過酷な運命を課そうとしていた。

 何度試そうと、その薬は冷たく「陽性」を告げる。


 青乃は、妊娠していた。
 

 自分の胎内に何か得体の知れない恐ろしい怪物が巣食っている。

 ここに──
 あの男の分身がいるというの?
 わたしを殴りながら陵辱しているあの男の分身が、とうとうわたしの体を食い破って、やがて食い尽くしてしまおうとしているというの?


──嫌、ぜったいに嫌。

 

 検査の結果を、芙蓉に伝えることも出来なかった。
 この結果を誰かに知られでもしたら、どこからどう漏れてあの男に知られるかわからない。
 どんなに堕胎したくても、許されないだろう。囚人のように閉じ込めて手足を縛り付けてでも産ませようとするだろう。それはあの男の『跡継ぎ』になる子供なのだから。
 それとも、それを産んでしまえばあの男はわたしに興味を無くすだろうか?
 否、妊娠しているとわかれば、少なくとも出産までの間は殴られることも犯されることも無くなるのではないだろうか?
 様々な考えが頭をぐるぐると巡る。

 ここまであの暴力に耐えてきたのだから、いくら望まぬとはいえ子供を胎内で育てて産むことなどどうということではない筈だ。
 それでも──

 青乃はそれを誰にも、信頼している芙蓉や龍巳にも相談できなかった。

 やがて、青乃の身体は検査の結果通りの変調をきたし始めた。もともと体調が安定しなかったとはいえ、このままでは遠からず誰かに──少なくとも芙蓉には感づかれるだろう。身の回りの世話をするメイドも同じ女である。きっと誰かに気づかれるに違いない。
 恐怖と焦りが青乃の思考回路を徐々に侵食し始めていた。

 この子供を産んでしまったら、あの化け物のような恐ろしい男の分身をこの世に迎えることになってしまう。

 化け物の子は化け物になるに違いない。

 一時あの暴力から逃れたいという自分勝手のせいで、そんなことを許していいものだろうか?


──だめよ。
──これは、産んではいけない子なのよ。

 どうにかして──

 

 そして、青乃はそれを実行した。
 家具から外した金具を使って──
 その「化け物」を。
 その巣である胎内から追い出すことを。
 それはまるで、悪魔祓いの儀式のように。

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 目を覚ますと、芙蓉の泣き顔が目に入った。
 わたしは、気を失っていたのか──
「なんてことをなさるんです、お嬢様!もう少しでお嬢様の命まで落とされるところだったんですよ!」
 血の気が引いて冷え切った頭をのろのろと巡らせると、医者の姿が見える。あれは、この屋敷に住み込みでいる嵯院家の主治医ではないか。
 芙蓉が内密に処置するには事態は深刻すぎたのだろう。あやうく命を落とすところだったというのは本当なのかもしれない。

 これで、このことはあの男に知れてしまうんだわ──

 優しそうな顔の老医師は微かに笑みを浮かべている。
「奥様、残念でございましたな。いや、あなた様の望んだ通りでしょうか……そこまで思いつめる前に、ひとこと言って下されば良かったのに」
 静かな優しい声で意外な言葉を聴いたけれど、それも青乃には信じることは出来なかった。
「どうせ、あの男に、あなたのご主人様に報告するのでしょう?わたしはまた同じことを繰り返すんだわ。一生逃げられない……」
「いいえ、これはここだけの話にいたしましょう。私は当家の主治医ですからな、奥様のご健康も私の責任のうちです。身体だけでなく、心もですな。旦那様にご報告することであなたに負担を与えるなら、黙っておきますよ」
「……」
 青乃は返事をしなかった。
 それでも、やはり信じることが出来なかったのだ。
「それと奥様、あなたご報告があります。無茶をなさいましたからな、もう今後、ご懐妊は難しいと思います」
 わざとそうしたのだろう、いやに淡々とした調子で医師はそれを告げた。

「──もう、妊娠しないということ?」

 

 青乃は目を見開いて医師の顔を凝視する。それならば──
「そういうことになりますな。傷が随分深うございました。仮に受精してもすぐに流産してしまうでしょう」

 その時、芙蓉は目と耳をを疑った。
 一瞬の間を置き、青乃は弾かれたように笑い出したのだ。
「お、お嬢様──?」


「聞いた?芙蓉先生、聞いた?!もう妊娠しないのですって!もう何があってもわたし、あの男の子供を産まずに済むのよ?!」
 

 芙蓉はなんと声を掛けていいかも判らなくなってただ青乃の手を握り締めるしかなく──
 狂ったように笑い続ける青乃を黙って見つめていた医師は、青乃に鎮静剤の注射を打つと小さく呟いた。

「奥様、あなたが追い出した血の塊の中には、生まれてくる筈だった命があったのですよ。あなたの血をわけた、小さな命が。そして、この先いつか同じように命を宿したいと願っても、あなたにはもう出来ない。あなたはどうしてご自分にそんな罰を与えてしまったのでしょうなあ…」

 眠りに落ちていきながら、それでも青乃は笑っていた。

──あなたにはわからないわ、わたしがどれだけ恐ろしかったのか。
──これは罰じゃないのよ。

 

──これは、わたしを憐れんだ神様が、わたしを救ってくれたの。

Note

「TUS」を書いていたときに一番「我ながら酷いえげつないこと書くなぁ」と思ったくだりがここらへんです。これはTUSでは物語途中、青乃様をたいがい頭のおかしい夫人として描いた後に「実はこんなことがあったんです…」みたいな感じで書いたもので、この「2」~「4」あたりの話を1章でざーっと書いたように記憶してます。こっちでは主人公は椎多と青乃だと思って書いているのでめちゃくちゃ膨らませました。

しつこく言います。​これシリーズ全般に言えることですが倫理に反することをよしとしているように書いている箇所がまあまあ多くあるんですが、あくまでも「この登場人物はそういう考えのもと行動している」ものとして書いている(「地の文」でも、誰かの心象風景とか心の呟きとして書いていることも多い)ので、現実世界で「アリ」と思ってはいません。

​まあ椎多なんかは最初から悪役として登場してるんで、悩んでる顔してても悪役らしいことしてます。

​なお、同じ頃にあった出来事としてスピンオフ群の方に書いています。よろしければ合わせてどうぞ。

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