罪 -22- 硝子の箱庭
車の窓を開けると、突然季節が変わったように冷えた風が舞い込む。
「うちのあたりはまだ夏が残ってる感じがするのにな」
ひとりごちると椎多はぶるっと身体を震わせて窓を閉めた。
10日に一度程度の頻度だが、そろそろこの道にも慣れてきた。道には慣れたが、この往路はいつも少し憂鬱さが漂う。この車を降りた時に、妻は前回と同じように笑ってくれるだろうか──
別邸に到着し、車を降りると玄関の大きなオークの扉が勢いよく開いた。
「あなた!おかえりなさい!!」
満面の笑顔で胸に飛び込んでくる妻を受け止めて抱きしめる。ほっとひとつ息をつく。
「ただいま、青乃。寒いから中で待っていればいいのに」
「だって」
はにかんだように笑って青乃は椎多の手を握り、邸内へ導いた。
「今度はどれくらいいらっしゃるの?お忙しいのはわかるけどもっとあなたとお話したいわ」
「明日は完全に休めるからずっといられるよ」
どうせならここから通えばいいのに、と少し膨れ面をしている。その表情も可愛いらしい。
「だんなさま、おかえりなさい!道、混みませんでした?」
音符マークのついた調子のみずきが椎多の上着を受け取る。
「少しお休みになったらダイニングへどうぞ。いい鹿肉が手に入ったそうですよ」
通りかかった紋志がぺこりと頭を下げて声をかけていく。
居間の扉を開けたのは、黒のスーツとネクタイを身に付けた龍巳である。龍巳が女性であるということを椎多は知らなかったが、あれ以来晒で胸を押さえつけることをやめたらしく、背広の下には十分な膨らみが伺える。
誰も、何が嬉しいのか終始にこにこ微笑んでいる。
椎多の後ろに着いていた──車を運転してきたKだけが、どこか堅い表情のままだ。
これはきっと、青乃が見ている夢なのだろうな──
青乃の記憶をKの催眠術によって封印した後、暫く過去の現実から遠ざけるためと、記憶を失った筈の青乃がこの別邸をしきりに恋しがったために、伯方と何度も話し合った結果この別邸を葛木家から買い取った。
青乃の忌まわしい記憶を呼び起こす要因にならないように、ここに所蔵されていた蔵書はすべて売るなり寄贈するなりして書庫だった部屋はまるでダンスホールのようにがらんと空いている。実際、ここが建てられた時にはダンスホールとして作られた部屋だったのだという。葛木紘柾がそれを書庫に改造していたのだ。
そうして青乃はこの別邸へ移り住んだ。紋志、龍巳、みずきの他に看護婦がひとり、厨房スタッフがふたり。
かつて椎英を失うまではここに作り出されていた、誰も青乃を傷つけない箱庭のような、脆いガラスで出来た世界。
それを、再び作り上げ全員で守ろうとしていた。
Kが青乃に催眠術をかけた、と報告を受けたのは柚梨子が龍巳に刺された翌々日のことだ。
朝から伯方やみずきやKが何か言いたげにしていたから聞こうとはした。が、早朝から名張が屋敷まで迎えに来てさっさと会社へ連れて行かれてしまった。どうやら屋敷内のごたごたに気を取られている間に社での仕事が溜まっており、その夜の会食に備える打合せが満足に出来ていないことに業を煮やした名張が強硬手段に出たらしい。
『ドタキャン厳禁の会食』を無事に終えて帰宅したのはすでに深夜だった。重要な会食だから酔っぱらうほど飲みはしないが、どうやら疲れが溜まっていたのだろう、柚梨子に付き添って前夜はろくに眠ってもいなかったからなおさらで、椎多は帰りの車の中で爆睡してなかなか起きない状態だった。話など聞ける状態ではなかった。
たっぷりと熟睡してすっきり目覚めた椎多が朝食後のコーヒーを飲みながら新聞に目を通している時にようやくその報告を聞くことになったのだ。
催眠術で青乃の記憶を封じた。
青乃が結婚する少し前からの記憶が意識に上がってこないように──
「記憶を"消した"というわけではないので、何か些細なきっかけでするする思い出すかもしれないそうです。だね?K」
主な報告は伯方の口から語られた。Kはただ黙って伯方の言うことに頷いたりしているだけだ。
「その後青乃様は昨日の夕刻までずっと眠っておられて」
「起きたのか。どんな様子だ」
「6、7年分の記憶が飛んでいるわけですからね。状況がわからず混乱はされてました。柊野先生の提案で、青乃様はご病気をなさって高熱の影響で記憶が無くなったと。そう説明いたしました」
手元のコーヒーはすっかり冷めていた。いつのまにかテーブルの上に握りしめていた手がいやに冷たく感じる。
「もしあなたに一からやり直すお気持ちがおありならですが」
伯方の声に視線を自分の握りこぶしから移す。
「青乃様とあなたは祝福された幸せな結婚をして、あなたは妻想いのとても優しい夫だった──と。青乃様が今失っている記憶ではなく、そんな年月を過ごしてきたのだと思わせて差し上げることは出来ませんか」
「そんな茶番に付き合えと?」
「差し出がましいですが、あなたは出来ることなら青乃様との結婚を頭からやり直したいとお考えだったのではと」
まったく差し出がましいな──
「俺にそんな芝居が出来ると思うのか」
伯方は答えず、普段あまり見せないにっこりとした笑顔を見せた。
その術を掛けた張本人のKは、堅い表情で目線を下に向けたままだった。
青乃が希望するように椎多がここに住んでここから社の仕事をする──というのは現実的ではなく、結果的に多くても週末ごと、スケジュールの都合によっては月1、2回しか来れないこともある。しかしこのくらいのペースの方が、しらじらしく良い夫を演じるストレスも大きくなくていい。良い夫でいることがストレスなのではなく、これまでの罪状を無かった顔をしてまるでずっと良い夫であったかのように振る舞うことがストレスなのだ。
それでも──
初めて青乃を見かけた時の、犬たちに向けていた無邪気な笑顔。
椎多が本当に欲していたもの。
それを、無防備なまでに自分に向けてくる青乃を見ているとふと思うこともある。
この小さな世界の中だけでなら、自分は許されたのかもしれない──と。
ここに来るのはあまり気が進まない。
いつの間にか椎多のボディガードや会社以外に関する──組との調整も含めて──秘書業務、それに運転手まで務めるという仕事が最近のKの仕事になっていた。以前は紫が務めていた、そして先日までは姉の柚梨子が担当していた業務だ。
柚梨子は刺された傷がある程度回復して動けるようになるとすぐに何事も無かったように椎多の会社へ出社し、てきぱきと数日で仕事の引継ぎを終え、そして嵯院邸から出て行った。
連絡先すら言い残さずに去った。
椎多と柚梨子の間で何があったのかは知らない。
まさか柚梨子が椎多の側を離れて屋敷からも仕事からも去っていくなど考えたこともない。内心酷く驚いたが、何があったのかと柚梨子や椎多に尋ねることはKには出来なかった。
屋敷を去る前夜、柚梨子はKの部屋を訪ねてきた。
そして何故かなしくずしに自分の仕事の後を引き継ぐことになっていた弟に、椎多の側で働くことの心得のようなものを語っていった。業務上の引継ぎは終わっていたが、それは仕事というより嵯院椎多という人間の取り扱い注意のようなものだと思う。
姉ちゃん、俺、組長の愛人になるわけじゃないんだけど。
それじゃ愛人心得じゃん。
そう言うと、柚梨子はここしばらく見たことが無かったような明るい声を立てて笑った。
──そうね、あんたはあのひとを愛したりはしないから逆に安心だわ。
──それでも、あのひとは多分あんたが思ってる何倍も難しいひとだから。
──気を付けて見ていないと自分から壊れにいくことがあるから。
──あのひとのこと、お願いね、桂。
正直言って、勘弁して欲しいと思う。
まず、秘書なんて仕事が自分に出来るとも思わない。自分は小学校すらろくに行ってなくて当然勉強など出来ないからそんな賢くなきゃ出来ない仕事なんかできっこない。格闘術や射撃に関しては紫に指導されたしここしばらくは時折伯方に稽古をつけてもらってはいるが、そもそも体格が人より劣っているからボディガードとしてどこまで役にたつのかもわからない。運転だけは組の方に居た頃に散々乗り回したおかげもあって同世代の若いやつよりは上手いとは思うが人並み以上ではないと思う。
それだけでもうんざりなのに、なんで組長本人のケアまで俺がやることになってんだ?
お願いね、じゃねえよ、姉ちゃん。
そもそも、俺は組長に対する忠誠心などたいして持ってはいない。
タダで三食食わせてもらっているからその恩は感じているという程度だ。
だから、紫さんや姉ちゃんみたいに、本気で組長のことを案じて守りたいという強い意志を持って側にいるみたいな真似、俺には出来ない。
そんな違和感を感じながらもその業務を担当することになってしまったために、こんなところへ度々連れて来られて自分の術の成果がいつ切れるのかいつまでもつのかとつまらない心配をする羽目になる。
だから、あまりここへ来て青乃の現在の姿を観たくはない。
ここに住まう女主人とその夫、そして親し気な使用人たちが夕食後に集まって毛足の長い柔らかいラグの上で何やらカードゲームなどに興じている。一緒にやろうと誘われたがとてもじゃないがそんなことにまで付き合っていられない。それを背に、一服しようとバルコニーに出ると先客がいた。
「おう、なんだおまえ煙草なんか吸ってたのか」
龍巳がバルコニーの小さなスツールに腰をかけて煙を吐き出しているところだった。まあな、と小さく曖昧な返事。
あの軍服のような制服で直立不動、あるいは機械仕掛けのようにきびきびと動く龍巳しか知らなかったから、黒い背広の前ボタンをあけて少しリラックスした様子で煙草を口に咥えている姿がまるで別人のように思えた。
互いに、煙を吸い込む音と吐き出す音だけしか立てない。バルコニーの外は、まるで何もない暗闇だった。
「おまえ、これで良かったのか」
そろそろ1本目の煙草を吸いきるあたりでようやく口を開く。
「伯方さん、おまえは警察官か自衛官の方が向いてるってよ。俺もそう思うよ。青乃様もあんな感じだしもう安心して外の世界に出てもいいんじゃないのか」
龍巳は二本目──実際は何本目かはわからないが──の煙草に火を点けてふふっと苦笑のように笑った。
「いいんだ。これが自分の生き方だと思ってる」
わっかんねえな……と呟いて吸いきった煙草を消す。
「青乃様のお顔、見たろ。自分は今度こそあの笑顔をお守りしたい。それに自分は外に誰も縁者はいない。ここなら青乃様がいらっしゃるし、おまえという友人もいる」
「俺は"友人"じゃねえだろ」
おまえに暗示をかけて、古い友人だと思わせてただけだ。
おまえを騙して面白がってたんだ。そんなのダチでもなんでもない。
龍巳はやはり苦笑のように笑い声のような息を漏らした。笑うことに慣れていないのかもしれない。
「自分には──私には、私のためにあんなに怒ってくれるような友はひとりもいなかった。余計なことをすると腹も立ったがそれでもちょっとは嬉しかったよ。青乃様のことも、おまえには感謝している」
何か返事をしようとしたが言葉が出て来ない。腹の底がくすぐったくなって無性に居心地が悪くなった。
言葉を探しているうち、バルコニーに面した窓扉が開いた。
「おい龍巳、交代しろ。青乃が呼んでる」
椎多が両手にグラスを持って顔を覗かせている。龍巳ははい、ときびきびした動きに切替えて室内へ戻っていった。入れ替わりに椎多が先ほどまで龍巳が座っていたスツールに腰を下ろし、手に持った片方のグラスをKに渡した。酒だ。
ぺこりと頭を下げるとそれを受け取り口に運ぶ。椎多は煙草を取り出し火を点けている。
「"良い夫"の正解がわからん。疲れた」
「奥さんが喜んでんだから正解なんじゃねえの」
「そうか」
疲れた、などと言っているが表情は穏やかだ。これほど穏やかな顔をしている椎多を見たことがない。
椎多は煙を吐き出す合間に酒をちびちびと舐めながら振り返り、背後の窓の向こう、椎多と交代して龍巳が加わったカードゲームに興じる妻たちの姿を見ている。それにつられてKもその窓の向こうの場面を見つめる。
「憂也」
名を呼ばれて声の主に視線を戻した。いつの間にか椎多は窓の向こうではなくKの顔をじっと見ている。
「おまえ、あの日──行ったのか。あの店に」
あの店──『恭太蕗』に。
返事はしないが顔が強張ったのかもしれない。
椎多はそれを見ると溜息のように息を吐いた。煙がそれと共に夜空へ流れていく。
煙草を咥えて空けた右手がKの頭をぐしゃぐしゃとかき回した。
「おまえ、意外といいヤツだな。あいつにやらせずに済むように自分でやったんだろ」
あいつ、と言うところで一瞬だけ目線が窓の向こうへ動く。
「……何のことかわかんねえ」
あの事は誰にも言っていない。
自分さえ誰かに漏らさなければあれは本当に事故で済まされる事だ。
なのに何故バレたのだろう。
もしや自分の行動も監視されていたのだろうか──
「どうやら図星だな」
Kの表情を見て椎多は笑った。
監視でもなんでもなく、かまをかけられただけだったらしい。
口の中でこっそりと舌打ちをする。
ここへ来て紋志と顔を合わせるのもここへ来るのが憂鬱である理由のひとつだ。
龍巳の手を汚させないために自分が手を下したその標的は、紋志にとっておそらく誰よりも──あの邨木という男よりも、それどころか青乃よりも、大切に思っていた相手だったのだから。
普段はそんなことでいちいち罪悪感に苛まれるなどという人間らしい情緒は持ち合わせていないが、こう毎度顔を合わせて親しく話しかけられたりすると居心地は良いわけがない。
椎多はまるでそこまで見透かしたように、微笑んでKの背中を少し乱暴に何度か叩いた。
「……今回の青乃の件にしてもそうだが、自分の判断で行動出来るのはいい。ただ報告くらい自分ですぐしてこい。こないだ伯方のおっさんも俺に言ってただろ。俺に黙って勝手に色々やってもし俺の知らないところで何かやばい事が起きたら対処が遅れたりフォロー出来なかったりするかもしれない。そうなったら俺はおまえらを守り切れない」
守り切れない──?
「守るのはこっちの仕事なんじゃねえの?」
この雇い主を自分の身を盾にしてでも守るのがこっちの仕事だ。姉もそうやって傷ついたではないか。
椎多は夜空を見上げている。
少しの沈黙が流れた。
「憂也、おまえ、今の仕事が嫌なら今のうちに言えよ」
急に話題を変えられて戸惑う。
椎多は立ち上がりバルコニーの手摺にもたれかかってKの顔を見ている。
「今なら柚梨子の代わりに入ったばかりだ。まだ別のやつに代わってもたいして混乱もないだろう。組に戻って睦月の手足になる方が向いてるならそうすりゃいい」
俺の側についてるってことはこれからも危険が付きまとうってことだ。
柚梨子や紫のように、一歩間違えば命に関わる怪我を負うこともある。
命令されたから嫌々、仕方なく、と思ってるやつにはそんな事はさせられない。
俺も怖いよ。
おまえらの命を預かるのは。
だけどもう俺は逃げない。
失うのが怖いからって遠ざけたり手放したりして逃げて目を背けるのはもうやめる。
このまま俺の側にいることを選ぶなら、それは命がけだと承知して欲しい。
おまえが命がけで俺を守ってくれるなら、そのおまえを俺が全力で守ってやる。
「──ここから帰るまでに決めろ。おまえの命をどこに賭けるかは自分で決めさせてやる」
グラスの酒を飲み干すと椎多は窓扉に向き直った。それに声をかける。
「あの、組長」
「うん?」
「青乃様の記憶、いつ何のきっかけで戻るかわかんねえんだよ。俺もそこまで自分の術に自信なんかない。もし戻ったら──」
あの術を掛けてからずっと胸の底でぐるぐると蜷局を巻いていた不安。それを聞いてもらってどうなる、と思っていたから口にはしてこなかった。しかし何故かするするとそれは口の奥、腹の底の方から出てくる。
「──前よりもっと酷いことになんないかな?」
椎多は少し意外そうな顔をするとすぐにその表情を緩め、もう一度Kの頭をくしゃっとかき回した。
「覚悟はいつもしてるさ。そうなったっておまえのせいじゃない。心配すんな」
言い残して室内へ戻っていくその背中を見送り、かき回された髪を直す。
何故だか、そのあたりが熱を持っているような気がする。
そこから手を離すことが出来ない。
──おまえを俺が全力で守ってやる。
誰かに守ってやるなんて言われたことは一度もなかった。
自分のことは自分で守るしかなかったのだ。
ただそれだけのことなのに、胸が苦しい。
顔と目と鼻が熱くなってる気がするのは、酒のせいだ。
多分、きっと、そうだ。
十日後の公演に向けて、稽古は佳境を迎えていた。
終わったのは夜9時、そこから葛木邸へ向かう。
明日は出席を取らない講義だけだから、自主休講、つまりはサボって稽古までの時間は葛木邸にいよう。そんなことを考えながらミニバイクを走らせる。
火傷の軽傷の部分はほぼ完治し、痕も残っていないが脚と腰あたりにケロイド状に残った部分もある。歩くときに引き攣れてほんの少し歩行に支障をきたすこともあり、次の長い休みには皮膚移植の勧めを容れて手術を受けることも考えている。
元は大学に戻り、通学に便利なアパートに戻った。
しかし、以前アルバイトに使っていた時間には、出来る限り葛木邸へ赴くようになった。
本当は──
今は大学より演劇サークルより、ずっと葛木邸に、柾青のそばにいたいと思う。以前は目を背けようとしていたが、今は逆に少しも目を離していたくない。
自分が外へ行っている間に、もしも柾青の身に何かが起こったら──
元の火傷がほぼ回復して葛木邸を出た日は母の那美が迎えに来た。
丁寧に礼をして、元を連れて車に乗り込んだ母はまるで今まで息を止めていたかのように大きく息を吐き出して声を出して笑った。そしてあのね話があるの、と元に向き直った。母とそんな風に向き合って話すようなことはもう何年も無かったことで、少し身構える。
「あのお屋敷であんたを預かってもらえることになった日にね、母さん、柾青さんにプロポーズされちゃった」
「プ???」
驚いて声も出なかった。
顎が外れるかと思った。
「あたし、あの人の父親の愛人だったのよ?そんな女に、しかもお屋敷出て以来十何年ぶりかで会った、十代だったのが三十代になった女よ?なのに、結婚しませんか、って言うのよ。あの人」
──柾青が。
──もしかして、柾青が自分に親しくしてくれていたのは。
──昔から、母のことを好きだったから?
ドキドキと心臓が駆け足で打っている。何故か血の気が引いたような気がした。
「それ…で、どう返事したの」
上ずった声でようやく尋ねる。母は困ったように明るく笑った。
「断ったわよ。だってあの人、あたしと夫婦になりたいわけじゃないもの」
何故か、ほっとした。
頭にもやもやと浮かんでいた、柾青が母を抱いている姿を慌てて掻き消す。
「あたしが旦那様の遺産の分与を放棄したもんだから、どうしても何か分与したかったんでしょうね。『元の母親である那美』に」
「え……」
「あのひと、あたしのこと『元を産んでくれた女性』としか思ってないの。あたしにだってなけなしの意地があるからお断りしたわ。あたしの好きだった人は、あたしを一度だって恋愛対象だとは思ったことない。なのに夫婦になるなんてそんなのつらいだけでしょ?一気に目が醒めちゃったわよ」
明るく笑う母の顔を元はあっけにとられて見ていた。
過去、母に一時的に"彼氏"が出来たりしたこともあったから、母が女の顔をしているのを見たことがないわけではない。けれどそれは"女"の顔というより、まるで"少女"のようだった。
うまくいかなかった恋を学校の友達の前で強がって懸命に笑い飛ばそうとしている少女の顔。
そうか、母は、彼に恋をしていたのか。
那美は息子の表情がめまぐるしく変わっているのを面白げに眺めると、ふう、と大きく息を吐いた。
「元、あのひとはあんたのことしか考えてない。あんたに何をどれだけ残してやれるのか、そのことだけを考えてるの。母さんが羨ましくなるくらい、あんたはあのひとに愛されてる。だから」
無意識に握ってしまっていた手を、那美の温かい掌が覆う。もう息子の手は那美の掌には収まらない。
「できるだけそばにいてあげてね。後悔しないように」
母ちゃんまでそんな風に言うのかよ──とは思ったけれど、口に出すことは出来なかった。
少女の顔をした母は、必死に涙を堪えているように見えたからだ。
別に母に言われたから以前の何倍もの頻度でここへ通っているわけではない。元自身が、本当は火傷が治らなかった時のようにここに住んでいたい。
そう思いながらミニバイクをいつもの場所に停め、勝手知ったる様子で馬鹿でかい玄関の扉を開く。
入った瞬間、どきりと心臓が跳ねた。
普段は玄関ホールに入った時もしいんとして、せいぜい暫くすると早野か和江が顔を出すだけだ。この屋敷に住んでいる人間は柾青と、柾青の母である靖子と、そして執事の早野、メイドの和江、看護士の暎、あとは料理人が一人いるだけで、全く人の気配がしないことの方が多い。
しかし、普段より多くの人間が動いている気配がする。しかも慌ただしく。
「あ、元さま」
早足で行き過ぎようとした和江が元に気づいた。
「和江さん、何かあったの?」
「──大げさなことじゃありませんよ。柾青さまの具合が少し悪くて、先生が来られてるだけです」
「具合悪いの?大丈夫なの?」
大丈夫です、たまにあることですから、と言い残すと和江は再び早足で立ち去って行った。
自分まで具合が悪くなりそうだ──
貧血のように頭がふらつくのを自分で頬を叩いて目を覚まさせる。
生唾が出て気分が悪いのを押し殺すようにして柾青の部屋へ向かった。
柾青の部屋の扉は普段と違って開放されていた。そこへ、数人の看護婦が行ったり来たりしている。
「あ、元さん!」
暎が元に気づいて呼びかけた。火傷でここに滞在していた頃に元と接する時の人懐っこそうな笑顔ではなく、緊張した面持ちであることがさらに事態の深刻さを物語っているようだ。
「ちょうどよかった。こっち来て下さい。柾青さんのそばに」
「暎さん──」
「大丈夫ですよ、でもそばに居てあげて下さい。その方がきっといい」
言われるままよろよろとベッドサイドに向かう。
柾青は口に気管チューブが挿入された状態で横たわっていた。熱を出したの発疹が出たのだるいの気分悪いの、自主的に寝込んでいた時とはわけが違う。こんな状態でいる様子は元も初めて見た。
途端に、柾青にずっと寄り添ってきた、そして隙あらばさらって行こうとする死神の姿が見えた気がした。
やだよ。
やだよ。
まだだめだよ。
意識は無いのかもしれない。点滴の針が刺さっていない方の手をおそるおそる握る。
「まだだめだよ。まだ行かないでよ」
両手で握り、祈るように額に当てる。じっとその体勢のまま、涙を自分のトレーナーの袖で受け止める。あとからあとから溢れ出てくる涙のせいで袖が湿ってしまう。
どれくらいそうしていたのだろうか、握った手がかすかに動いた気がした。
はっと顔を上げる。
泣きながら眠ってしまっていたのかもしれない。
窓の外がうっすら明るくなっているようだ。いつのまにかもう明け方になっている。
柾青の口に挿し込まれていた気管は取り外されていた。
胸が静かに上下している。
良かった、生きてる──
安心するとまた涙が出てきた。
「元さん、ちょっといいですか」
目を覚ますのを待っていたかのように暎が背中を軽く叩いた。
「先生から説明があります。靖子さんが元さんも聞いておきなさいって」
「俺にも……?」
一旦萎んだ不安がまた膨れてくる。
たまにあることだと和江は言っていた。
そうか、自分はたまにここに来て柾青に拗ねたような悪態をついて帰るだけだったから知らなかったのだ。これまで、自分が来た時にはたまたまそこまで具合が悪い日ではなかっただけだったのだろう。
こんなことがたまにあったなら──
──僕が死んだら。
そう言って、その後のことを言い残したくなるのは当然じゃないだろうか。
それを俺ときたら──
暎に先導されて、医師と靖子の待つ部屋に入る。靖子にいじめられるわけではもちろんないのだが、いまだに同席する時は緊張する。席に就いた元と、予め座っていた靖子の顔を交互に見比べると医師はでは、と座り直した。
「結論から申し上げますと、柾青様にはもう入院して頂くしかどうしようもありません」
ごくり、と喉が鳴った。
「いえ、以前からご本人にはそうして頂くよう進言はしていたんですよ。ただどうしてもここを離れるわけにはいかないと仰って。奥様から説得して頂けませんか」
「そんなに危険な状態なの」
「今日のようなことがまたあったら、次は助けられるとはお約束できません。ここでは緊急の時に対処するにはあまりに設備も人員も足りない。どうか入院して下さい」
医師の発する言葉が、どこか遠くで聴こえてくるように耳の奥で迷っている。
「先生、あの子はね。子供の頃から二十歳は越えられない、いつ何があってもおかしくないと言われてきたの。それが騙し騙しもうすぐ三十のところまで生き延びてきたんだけど、医学の進歩は追いついてくれなかったのかしら」
「健康にして差し上げる方法はまだ見つかりません。現在抱えている疾患のいくつかは手術で改善できるかと思いますが、今の体力では手術に耐えられるとは言い切れない。それに完全に寝たきりになってしまうかもしれない」
「元さん、あなたはどう思う?」
突然水を向けられ、小動物のようにきょろきょろしてしまう。その顔を見て靖子は小さく苦笑した。
「──あなたの意見で決めるのは酷よね。ごめんなさい」
柾青の母は充血した目をきっぱりと見開いて背筋を伸ばした。
「もうここまできたら最後まであの子の希望通りさせてやりたいの。せっかくのお申し出だけど先生、あの子、ここでまだやることがあるのよ。入院は出来ません。もしものことがあっても先生に責任を問うことはありませんから、不自由でしょうけどこれまで通りここでお願いします」
翌日──と言っても数時間後には夜が明けたのだが──、元はサークルのメンバーに連絡を取り、今日の稽古には立ち会えないと伝えた。すでにある程度の演出は固まっているからあとは役者たちに任せよう。自分は今はそれどころではない。
一命をとりとめた柾青はそのまま眠り続けていたが、昼過ぎにうっすらと目を開いた。
自分の手を握っている元に気づくと目元だけでにっこり微笑む。
「心配させちゃったね、ごめん」
普段よりももっと弱く、殆ど声にならない声で言うと重たげに腕を持ち上げ、元の頬を撫でる。元は何も言えず、たまらなくなって柾青の肩先に顔を伏せた。それに呼応するように柾青が顔を動かして、元の頭に鼻を擦りつけている気配。笑ったように息の漏れる音がする。
「元の匂いがする。大好きだよ」
やめろって──といつものように言いながら顔を上げる。そのまま触れるだけのキスをすると、柾青は数時間前まで気管チューブが挿さっていた口を開いた。
「そういうんじゃなくて、恋人のキスをしてよ。元が彼女を抱く時にするみたいなエッチなやつ」
「何言ってんの」
声はただでさえ弱い普段の何分の一の力しかないくせに。
「俺が本気出したらあんた呼吸困難になってまた大騒ぎになるからだめだよ」
ふふ、と笑い声になる。
「ねえ、俺、聞くからさ。全部話して。あんたが俺に伝えておきたいこと全部。俺ちゃんと聞くから。逃げないから」
こんな事を言ったら、柾青はもう自分の命が本当にあと僅かだと宣告されたことに気づいてしまうだろう。
だけど。
聞いておけば良かったと後悔するのも、伝えきれなかったと後悔させるのも嫌だ。
柾青は静かに微笑んだまま、いいよ、とだけ答えた。
Note
さて最終章(といいつつまだ何篇か書きます)。
犯してしまった罪を青乃ひとりの記憶を消しただけでリセットできるのか?という話に入ります。
本当はこの編の中でもうひと段落、展開させるつもりで書いてたんだけどそのもうひと段落が思ったより長くなってしまいそうなので一旦ここで区切ります。
元とまさお兄さん、実は脳内とテキスト下書きの時点でもっといっぱいエロいことやらせておいてからこの程度におさめてます(笑)。オリジナルの時点ではアキラもゲイの人として出てくるんで(こっちではその展開は無いんだけど)、なんならアキラとまさお兄さんでもエロいことやらせてもいいくらいなんですがまあそこはそれ…。ちなみにオリジナルではアキラは葛木家とは何の関係もないです。実はかつて青乃様がそのへんで見繕って相手させてはポイしてた人のひとりだったという設定だったんだけどそこは無しになりました。
あと、椎多には飯の義理くらいしか感じてなかったKが、俺がくみちょ守るんだ…とちゃんと自覚するくだりを入れてみました。うふふ。