罪 -13- 籠の鳥
アパートの一人の部屋へ戻ると、紋志は缶入りの炭酸飲料を一気に飲み干した。そのまま畳の上に腰を下ろすと帆布の鞄をごそごそと探る。
預金通帳を取り出し、ページを捲ってゆく。
普段なら滅多に見ることのないゼロの並んだ数字。何度もその数を数える。
「これで、やっと返しに行けるよ……」
ぽつりと声を零すと紋志はそのままごろりと大の字に寝そべった。
これで自由だ。
僕はこれで、自分の人生を生きていける。
目を閉じると瞼の裏に可憐な少女の微笑みが蘇る。
彼女はどうしているだろうか。
結婚して、幸せになったのだろうか。
自分の家庭が出来たのなら、もう彼女はきっと孤独じゃないだろう。
2人くらい子供が生まれて素敵なお母様になっているのかもしれない。
僕は約束を守れなかったけれど───
幸せでいてくれるなら。
僕はもう振り返らずに前を見て生きていける。
そうだ、出かけよう。今日くらいなにか美味しいものでも食べたっていいよね──思いつきを実行すべく立ち上がると紋志は部屋を出た。靴を履くのもなんだか楽しい。
「紋志、今から学校か?」
上から降ってきた声を見上げると同じアパートに暮らす大学生、野納元が二階の廊下の手摺から身を乗り出すようにして紋志を見下ろしている。
元とは同じアパートの住人なのに入居してから一年以上面識は無かった。ただ、紋志の方は元の顔は認識していた。劇団か何かをやっていていつも遅くに疲れた顔で帰ってくるのを何度か見ていたのだ。
何ヶ月前だったか、たまたますれ違った時に何故か突然名前を聞かれてそれ以来何かと行き来するようになった。そういえば以前は彼女らしき女の子を連れていたところも見たが、近頃はあの女の子は見ない。別れたのかもしれないが追及はしないでいる。
夜間の大学に通っている紋志は通常この時間には授業のことが多い。だから、元が紋志を飲みに誘うのも大抵深夜になる。
「今日は必修が休講だから学校サボってちょっと美味しいものでも食べに行こうかなと思って」
「あ、じゃあ俺もこのあと飲みだし一緒に行かね?一人か二人ガッコの友達来るけどいいよな」
「そっちがいいなら」
っしゃ決まり、と元は勢い良く階段を下りてきた。
元のきつい目つきと吊り上った濃い眉毛はきっと舞台映えするだろうと紋志はいつも思う。もっとも元は演出や脚本が主でいつも出演するとは限らないのだという。怒ったような顔にも見えるけれど笑うと八重歯が覗いたりもして少し可愛いらしい。見かけるのはいつも夜なのに、何故か日なたの匂いを纏っている。
学校の話や元の劇団の話、他愛も無い日常の会話。
元も紋志もそれぞれが日常的とは到底言えないものを抱えていることは、互いに触れはしなかった。
一応は限度額のあるクレジットカードを渡されている。
限度額の無いものならいっそ、嵯院が破産するくらい使い込んでやろうかとも思うのだがそのあたりは父とは違い経営者らしくがっちりしているらしい。だから毎月、限度額いっぱいまで使ってやる。
わたしは金で嵯院に買われたのだから、ならば嵯院の金を湯水のように使う権利がある筈だ。
逃亡することも、死んで逃れることも出来ないのならせめて夫を困らせてやるしか青乃には意趣返しの手立てがなかった。
虚しい。
わたしは一生こんな風に生きていくのかしら。
それとも密かに経営の勉強でもして、あの男から会社を奪い取ってやろうか。それもどうせ歯が立たない気がする。
青乃は自分の座席の脇に積まれた数々の箱や包みに目を落とすと溜息をついた。こんなものではわたしの乾きは潤わない───
リムジンの後部座席に一人座って窓の外を眺める。
信号で停車した車の向こうは、賑やかな夕暮れの街だった。行き交う人波。これからどこへ行こうかと相談しているらしい若者たち、仕事帰りのビジネスマンやOL。
そのどれも、青乃とは遠い世界だ。
見るともなしに眺めていた人波の中で、ぎくりと青乃の視線が止まる。
その視線の先には、数人の若者が立ったまま談笑している姿があった。
「紋志───?」
別れた時は紋志は中学生だった。あれから6年ほどは経っているから、もう二十歳くらいにはなっている。青乃よりも低かった背は伸びて大人っぽい顔立ちに変わっている。それでも、いつも青乃の側にいたあの柔らかい微笑みは変わらない。だから、すぐに気づいたのだ。
あの子、笑ってる。
ちりっ、と青乃の胸の奥の焦げる音がした。
金を渡されて葛木邸を去った紋志。まだ子供なのにたった一人で放り出されて、いくら十分な金を渡されたとは言っても途方にくれただろう。どうやって生きていくというのだろう──なのに、今の紋志は笑っている。友達と、楽しそうに、他愛もなく笑っている。
ああ、やっぱりあの子はわたしの側を離れて幸せになったんだわ。あの時渡された金で、あの子は幸せになったんだ。
わたしはあれから笑ったことなんて──
少なくとも椎英を失ってからは一度だって笑ったことはないのに。
わたしはこんなに苦しんでるのに。
「──車を止めなさい」
信号が変わって発車しようとしたのを止める。
「今日はあの男にするわ。金をいくら渡してもいいから連れてらっしゃい。もし言う事を聞かないなら──わたくしの名前を出してもいい」
金でわたしとの約束を破ったのだから。だから金でわたしの言うことを聞くがいいわ。
青乃は唇をきりっと噛み締めた。
微かに、血の味がした。
──実は、嵯院青乃様があなたを是非屋敷にお招きしたいと。
紋志は通された部屋で落ち着きなく辺りを見回していた。
黒服の男にいきなり声を掛けられたのは、元や元の友人たちと飲みに行こうと店を探していた時だ。丁度元が店に空席があるかを訪ねに行っている間のことだった。
最初は何も言わずただ「ある方」が屋敷に招きたいと言っている、の一点張りで、無視しようとすると今度はちらりと札束を見せられた。テープの巻かれた束を見て、紋志はぞっとした。
金の値打ちは身に染みてわかっている。ただこの男について行っただけであれだけの札束を貰えるなんて、そんな上手い話がリスクもなく転がっているわけがない。
しかし、それでも辞退しようとするとその男は青乃の名を出したのだ。
青乃お嬢さまが───
挨拶も出来ずに葛木邸を出された。彼女はあれからまもなく結婚した筈だ。そうだ、この男が言った名前は葛木ではなかった。今は青乃の姓は葛木ではなく『嵯院』と変わっているのだ。
彼女がどうしているのか。
それはいつも紋志の気がかりだった。
会えるのか。
会っても構わないのか。
紋志は、元の友人に謝罪し元へ伝言を残して、声をかけた黒服の男に従った。
そして連れて来られたのは、豪邸だと思っていた葛木邸も叶わないほどの、何かの博物館か美術館かと見まごう邸宅だった。
応接室と言うよりは、居間に近いような部屋。
葛木邸しかこんな邸宅の雰囲気は知らないが、これが「くつろいだ雰囲気」の部屋なのだろう。座面の低いソファは雲のように柔らかいクッションで、しかもムートンが敷いてある。明る目の色調に統一された部屋に置かれている家具の数々はどれもクラシックな装飾の施された輸入家具なのだろう。外はもう暗くなっていて、レースのカーテンの向こうには庭が広いせいか灯りも見えない。間接照明の薄明かりでまるで夜遅くのように感じるがまだ夕食前の時間だ。
ここに通されて、もう1時間も経過したようにすら感じたが、腕時計を見るとまだ二十分ほどしか経っていなかった。
「お待たせしております。主人はまもなく参ります。その前に、お食事をどうぞ」
可愛らしいメイドがぴょこんと頭を下げて扉を大きく開くとワゴンを押した者が数人、ソファとは少し離れた位置に置いてあるやはり輸入家具らしいアンティーク調のテーブルに真っ白なテーブルクロスを敷いて料理を並べ始めた。
「いえ、そんな……」
慌てて辞退しようとすると、可愛らしい──と言っても紋志と同世代か少し年上かもしれないメイドはにっこりと微笑んだ。
「お食事前にお呼び立てしてしまったので、ご用意するようにと指示されております。ご遠慮なくお召し上がり下さい」
用意されたものを下げさせてまで辞退するのもかえって失礼かと思い直し、席に就く。まるでフランス料理のフルコースのようだ。こんな食事、葛木邸にいた頃ですら食べたことはない。落ち着かないな、と苦笑してフォークとナイフに手を伸ばした。
屋敷を出された時、葛木邸の執事・早野に紹介されて訪ねたのは街で小さな小料理屋を営んでいる男だった。彼もまたかつて葛木邸の厨房で勤めていたのだが、葛木家の財政難に伴って解雇された後開業したという。さすがに中学生の紋志を宛ても無く放り出すのは早野も躊躇ったらしく、彼に紋志を引き取る──紋志に住む場所を与える、という打診をしてくれていたのだった。
今度の週末に久しぶりに帰ろう。
借りてた金が全額返せるようになったってことを報告して。これからのことを相談しなきゃ。
それに、このフランス料理もすごく美味しいけど恭さんの惣菜の方が僕の口には合ってる。何を食べようか。どれも懐かしくて全部食べたいくらいだ。
不自由そうにフォークとナイフを使いながら、週末の予定を思い浮かべ紋志はふふっ、と微笑んだ。
食事をしている間、扉のところにあの可愛らしいメイドが立っているだけで他には誰もいない。いくら豪華で美味しい食事でも、一人では味気ない。夕飯時なのだからどうせなら青乃も一緒に食卓に就いてくれればいいのに、とふと思う。が、自分は青乃にとって使用人でしかなく、使用人と同じテーブルで食事をするなどということは想定されていないのだろう。それを思い出すと今度は苦笑いが浮かぶ。
食事はきっとご主人や子供たちと摂られているのだ。
葛木家の食事風景を見たことはないが、青乃はいつも家族が家族じゃないと嘆いて、孤独に震えていた。
どうしてあんなに豊かで、ご両親もお兄さんもいるのに孤独なんだろう。実際に家族を全て失って本当の天涯孤独だった紋志には不思議で仕方なかった。ただ、青乃の孤独は思い込みや甘えではなく本物だということは感じることが出来た。
僕はずっといます。青乃さまのお側にずっといますから。
約束したのに、それを守ることが出来なかった。
大人の決めたことに逆らうには、無力な子供すぎたのだ。
でも、無力な子供にだって意地くらいはあったから──
食後のコーヒーが運ばれても、まだ青乃は現れない。
彼女の顔を見たら、まずあの時約束を守れなかったことを詫びなければ。
ちょっとむくれて、そうよ、嘘つき──なんて叱られるかもしれない。
もうそんな事いいのよ、と笑って許してくれたらいいけど。
青乃を待ちながらあれこれと青乃と対面した時のシミュレーションを頭の中で繰り広げるうち、瞼が重くなってきた。朝から夕方まで働いて夜は学校で授業を受け、週末にはそれとは別にアルバイトもしていたので慢性的に寝不足でいるせいだろう。久しぶりにゆっくりと満腹になるまで食事をして、それに少量とはいえワインも飲んだ。これほど静かだと眠くなるのも仕方ない──
目が、開けていられない。
重みに負けて一度降りてしまった瞼は、糊付けされたように持ち上がらなかった。
なんだろう、何か、いい匂いがする。
目を開けると薄暗い視界の中に人が動く気配がした。
冷たいものが頬を辿っているのに気づいて視線を動かす。頭が重く、鈍く痛む。頬を辿っているのは指だ。白く細い指。
次第にはっきりする意識を、自分の身体と接続しようと試みる。自分が置かれた状況がまだよく理解できない。
ああ、なんだろうこの匂いは。お香だろうか?
あの指が頬から喉元へ、まるで指人形が歩くように移動している。時にはスケートするように。やがてその指が胸のあたりで立ち止まる。
──?
そこに到って紋志は初めて、自分が服を着ていないことに気づいた。何度か強く目を瞑ったり開けたりして、なんとか意識を繋ぎとめる。
何度確認しようと試みても、自分は裸でどこかに寝かされているという結論しか出なかった。記憶をどれほど辿っても、あのフルコースの夕食を済ませてコーヒーを飲んでいたところまでしか思い出せない。
何故、どうして、いつのまに自分はこんなことになっているのだろう?
立ち止まった指がそのあたりを小さく一周したり駆け出したりする度にぞくりと何かが走る。
「おまえもやっぱりただのオスね」
声が、耳の中にこもったように届いた。
声の主の姿を探そうとした途端、紋志の胸の上で散歩するようだった指は一気にジャンプして紋志の下腹部を捕らえる。
息が止まる。
思わず閉じてしまった目を再び開くと、その指の持ち主の全体像が漸く目に入った。
───お
───嬢さ ま?
薄暗い視界の中で、あの頃知っていた少女とは顔の造作が同じでもまるで違う、勝ち誇ったように妖艶な微笑みを浮かべた女の顔が浮かび上がって見えた。
「あの男、暫く飼うわ。逃げないよう見張っておきなさい」
扉の向こうで青乃の声が遠く聴こえた。
まだ悪い夢でも見ているようだ。
あれは、確かに青乃だった。けれど、紋志の知っている青乃ではなかった。
約束を守れなかったことを謝罪するどころか、ろくな会話すら出来なかった。
のろのろとベッドの上に起き上がる。途中から煽られるまま我を忘れてしまった自分が惨めだ。
───おまえもただのオスね。
シーツの乱れや汗で湿ったそれが無性に汚らしく思えた。
半分ほど開いたドアから黒服の男が顔を出した。反射的にシーツを手繰り寄せて下半身を隠す。
「そちらの向かって右手のドアが洗面所になっております。シャワーなどご自由にお使い下さい」
ロボットのように事務的に述べると黒服を小さく一礼をしてドアを閉めた。
なんなんだろう、これは。
自分に起こった状況がまだはっきりと把握できない。
青乃に呼ばれてこの屋敷に来た。おそらくここは彼女の夫の邸宅の筈だ。
フランス料理のフルコースを食べて、食後のコーヒーを飲んでいるうち、眠くなった。
目が覚めたら裸にされていて、青乃さまが──
薬でも盛られていたのだろうか。いや、もはやそんなことはどうでもいい。
何故、彼女は───そこでどうしても思考は先に進まなかった。
別れてから今まで青乃の身に何が起こったのかを知るよしもない紋志に、青乃の行動の理由を推測する材料は何もなかったのだ。
黒服の男が言った通りの扉の奥には一流ホテルのようなバスルームが設えてあった。もっとも、紋志は一流ホテルなど宿泊したことがないので雑誌やテレビで知っているものしか比較対象がない。
自分の服はさてどこにやられたのだろうと探してみたが、別の洋服が用意されているだけだった。サイズも紋志の身体にぴったり合っている。それを仕方なく身に着けてバスルームから出てくると、いつのまにか先ほどまでいたベッドはきちんとメイクされていた。なんという素早い仕事なのだろう。
黒服が顔を出したドアを開けると、昨夜──奥の部屋を出ると窓の外が明るかったので夜が明けていたのだろう──散々待たされていたあの部屋だった。ソファの前のテーブルには水差しとグラスが置かれている。扉の前には昨夜とは違うメイドが立っていて頭を下げた。
「おはようございます。朝食をご用意させていただきます」
「ちょっと待って下さい!僕はもう帰ります。僕の着てきた服と鞄を返して下さい」
慌ててメイドがドアを開くのを止めようとしたが、メイドは聴こえていないように昨夜と同じように大きく扉を開き、ワゴンを押した者たちを中に入れた。デジャヴュのように感じるが、並べられているのは、サラダや卵料理やベーコンなどの朝食である。
「聴いてるんですか?僕はもう帰ります」
「申し訳ありませんが──」
ワゴンの男たちが撤収するのと入れ違いに、先ほどの黒服が部屋に入り扉を閉める。
「主人はあなたのことをいたくお気に召したようですので、何日かこちらに滞在して頂きたく存じます」
「何言ってるんですか?!僕にだって予定はあるんです!」
「急遽こちらにお引止めしたことであなたが蒙るであろう損害も含め、お望みなだけ報酬を差し上げるよう申し付かっております。必要であればこちらからご指定の連絡先にご連絡させて頂きます。どうぞゆっくりおくつろぎ下さい」
やはりロボットのように無表情に黒服は言った。
「冗談じゃありません!とにかく帰して下さい!」
「───騒々しいわね」
ドアが開く。黒服に向かってなおも言い募ろうとする紋志はそこで言葉を飲み込んだ。
「お嬢さま……」
青乃は紋志をちらりとも見ずにあくまでも上品な立振舞いで部屋に滑り込み、あの柔らかなソファに腰を下ろした。指で合図するとメイドがすかさず果物の冷えたジュースをグラスに注いで運ぶ。
「おまえの望むだけお金をあげようと言っているのよ。何が不満なの」
困惑が紋志の頭の中を支配する。青乃の側に戻り、膝をつくとようやく青乃は紋志の顔を見た。
「おまえたち男は女を抱くために金を払ったりするのでしょう、金を貰って女が抱けるのだからこれほどうまい話はない筈よ」
「そういう問題じゃありません──」
びしゃり。
青乃は手に持っていたグラスの中のジュースを紋志に浴びせかけた。
「おまえはわたくしに金で買われたの。黙って従えばいいのよ」
金でわたくしとの約束を売ったくせに───
心の中で呟いた青乃の声までは、紋志には届かなかった。
邨木佑介は部屋を退出し扉を閉めるとその横に立って姿勢を正した。小さく零れてくる溜息を誰かに見られないようにこっそりと漏らす。
──狂ってる。
嵯院邸に勤めることになって何ヶ月か経ち、ある程度信用を得られるようになったせいか最近は女主人である青乃の比較的近辺の警備に就くことが増えた。しかし今回命じられたのは、どこで拾ってきたのか知らないが閨の相手をさせるための若い男を監禁し、その監視をするという下らない仕事だ。
金が有り余って退屈するとあんな風になってしまうものなのか。
俺はこんなことをしている場合じゃないのに──
焦りが佑介を支配する。
妻を殺したゴミの片割れはまだ逃げているのだ。時折、この屋敷に紹介してくれた警備会社の上司と連絡を取ってはいるが、警察に捕まったという話も聞かない。警察になど先を越されてはあのゴミを処分することも出来ないではないか。どうせ、死刑になどなりはしないのだ。何年かくらいこんで、また当たり前の顔をして普通の生活に戻るだけだ。
ぎりっ、と歯噛みする。
淫乱な奥方のツバメの監視など、誰でもできる。警察の追っ手から逃げるためとはいえ何故こんなことを続けねばならないのだろう。
あの上司も、いっそ誰か整形手術の名人でも紹介してくれれば良かったのだ。顔を変えればある程度は警察の目も誤魔化せる。こんな大富豪のコネはあってもそういう裏のコネは無かったのか。
そうだ、この屋敷の仕事も辞去して、自分で整形手術をしてくれる医者を探そう。その方が全然いい。この数ヶ月の報酬は殆ど手付かずだ。不法な手術でも依頼できるほどには貯まっている。
あの伯方という警備責任者のおっさんなら、もしかしたらじっくり話し合えば判ってくれるんじゃないだろうか───
「邨木、交代だ」
不意打ちを食らったように声の主に目を移す。別の黒服がさっさと配置を入れ替われという顔で立っていた。
同じことをぐるぐる考えているうちに、もう交代時間になっていたらしい。ということは、もう昼過ぎだ。そう言われてみれば少し腹が減っている。
「所持品は一通り検分した。特に危険物などは無いが、ただ──預金通帳が少し気になる」
「預金通帳?」
「あんな貧乏そうな学生が持っていた癖に、残高が5000万ちょうど。どう思う」
佑介は眉を顰めた。
「そんなのは自分達には関係ない話だろう。せっせと貯めたんだかヤバイことに手を出して入手したんだか知らないが」
「ただの学生だと思っていたが違うなら報告しておいた方がいいかと思うんだがな」
好きにしろ、と背を向けかけて振り返る。
「報告するなら奥様に直接じゃなく伯方さんにしろよ。面倒くさいことになっちゃいけないだろ」
それはわかっている、と返事が背中に聞こえた。
着ている服もあちこち擦り切れて古着のようだった。帆布の鞄も、随分何年も使い込んだようだった。多分あの男は、節約に節約を重ねて金を貯めたのだろう。何の必要があって5000万円もの大金を貯めたのかはわからない。金を貯めたいのなら、あの淫乱な女主人が満足するまでの何日間かいい食事をさせてもらって彼女を抱いて大金がもらえるなんて濡れ手に粟の話に素直に従えばいいものを、何故あんなにあの男はそれを拒もうとしていたのだろう──
哀れな供物となったあの男の顔を思い浮かべる。何もかもを黙って受け入れてしまいそうで、そのくせ頑固でもありそうで──
佑介は頭を振って、その面影を振り払った。そんなのは、今はどうでもいい。少なくとも俺にとっては。
遅めの昼食を摂り、少し仮眠でも取ろうと邸内にあてがわれた自室に向かっていた時である。
「佑介さん、ちょっと」
背後から可愛らしい女の声が聞こえて驚いて振り返る。自慢じゃないが戦場で研ぎ澄まされた感覚のおかげで気配には敏感だと思うが、後ろに人が来ているとはまるで気づいていなかったのだ。
そこに立っていたのは青乃づきのメイドのひとり、みずきだった。
「ちょっとお話があるんですけどお、お部屋にお邪魔してもいいですかあ」
頭の悪そうな娘だと思った。メイドとして勤めている仕事ぶりを見る限り、特別トロいというわけではなさそうだが話し方が良くない。
妻は戦地の医療ボランティアをしていた医師だった。なんでもハッキリ言うし、相手が男でも遠慮なく噛み付いていった。自分の妻ながらかっこいい女だと思っていたものだ。
それに比べて、自分の可愛いらしさを承知してそう振舞い媚を売っているように見えるこういう女性は佑介はあまり好きではなかった。
「仮眠するから、手短に済ませてくれるか」
「はいっ」
短く弾むように返事をするとみずきはとことこと佑介のあとをついてくる。さっき、気配を全く感じなかったのは何だったのだろう。いくら考え事をしていたとはいえ、不覚すぎる。
邨木佑介はまだ、みずきが嵯院お抱えの凄腕殺し屋だということは知らない。
「で、何」
部屋に通すと座らせるでもなく佑介はみずきを振り返った。
「これ、だんなさまからの伝言です」
にっこり可愛らしく笑うとみずきは小首を傾げた。
「佑介さんの奥さまを殺した犯人の、生きて逃げてるほう、見つかりそうですって」
一瞬──
頭が真っ白になった。
「──なんだって?」
「ですからあ。佑介さんが探してる、ゴミの片割れ。だんなさまたちが探してくれてたんですよ」
だんなさま──というのは、この屋敷の主人であり青乃の夫である嵯院椎多のことだ。佑介の採用が決まった時に一度だけ会ったことがある。妙ににこにこした、しかし目の奥には油断ならない何かを沈めているような、あまり頭から信用したくない印象の男だった。
それが何故、妻を殺した犯人を追っていたのだ?
「まだ捕まえるとこまでは行ってないらしいですけど、もう数日中には生かして捕らえるって。そのうち大きな仕事をしてもらうかもしれないから、それがうまく行ったらご褒美にそいつを下さるってそうおっしゃってました。以上でえす」
餌か。
俺に対する餌にする気か。
それでも、警察に先に捕らえられるよりは何倍もマシだ。嵯院の思惑がどこにあろうと、狙った相手が手の届くところへ来る。
心臓がどくどくと音を立てているのが自分でもわかった。
額に汗が滲む。
その様子を暫く見ていたみずきが部屋を出ていったことにも、佑介は気づかなかった。
Note
ここで「TUS」の物語の冒頭にやっと追いつきました!
確か冒頭は「若奥様」こと青乃がもんじを「あの男にするわ」と指名するとこで始まってたはず(何度も言いますが元のテキストがすべて吹っ飛んでしまったので確認できません…)。ここからのストーリーを書くために嵯院と青乃のこれまでをつらつらと書いてきたわけですがやっと本編です。が、だいぶ困ってます(笑)。
「TUS」で出てきたけどどうしても物語世界とそぐわないし複雑になるので使わないと決めたキャラは何人かいます。青乃のツバメ・セシルとか謎の助っ人(???)ダーク鷹野とか。ダーク鷹野はなんか怪しい術とか使いそうな感じのキャラだったので、そこは涙を呑んで出すのをやめようと思ってます。いいキャラなんだが。ジャンルが変わってしまう。