罪 -14- 異世界の住人
「死んでいた、だと?」
苛々と煙草を咥える。すかさずライターを着火しようとする柚梨子を制して椎多は自分でそれに火を点けた。
煙がゆらゆらと流れる。
「消息が途絶えたわけです。山奥の崖の下に車ごと転落。さすがに遺体の確認までは出来ませんでしたが状況からみて98%間違いないでしょう。この車も遠からず発見されるでしょうがその時確認されるでしょうね」
応接セットのソファに腰掛けていた睦月はぱらぱらと手元の資料を捲りながら立ち上がり、椎多に手渡した。
普段は睦月が座っている大机に、椎多がふんぞり返っている。ここに居る椎多は、『組長』である。
「さて、どうするかな。とりあえずサツがそれを発見して公になって、ヤツの耳に入るまではこの餌は有効というわけか。まあいい、サツがまだそこまで辿り着いていないだけで十分だ。餌の現物なんぞ無くたってどうとでもなる」
「ヤツを何に使う気なんすか」
ケンタが口を挟む。
ヤツ───とは邨木佑介のことである。
椎多がケンタに調査を指示していた、邨木佑介の妻を殺した犯人の片割れの行方。標的の潜伏先は『あの世』だったという結果に終わった。
紋志が嵯院邸に軟禁状態になる2週間ばかり前。
足取りがぷつりと切れた山奥で、標的が使用したと見られる車種の車が崖から転落しているのを睦月の部下が発見した。発見され捜索された時のことを考え、いらぬ証拠を残して追及されないように転落車に近づいて中を確認するというところまではしなかったが、その後の足取りもいずれにせよ掴めていない。
邨木佑介が復讐したいと思っている対象を確保することによって、邨木に従わせる。そこまでして邨木個人に執着しているわけでは決してなかった。
「使うのは俺じゃない。睦月が腕のいい鉄砲玉を欲しがってるんだ」
椎多が顎をしゃくって睦月を指すと、睦月は眼鏡の奥のもともと細い目をさらに線のように細めて笑った。一見してとてもやくざとは見えない、まるで気弱なうだつの上がらないサラリーマンのような風貌だが、若い頃には紫と組んで二人で50人を超える相手を全滅させたという伝説が残っている。
「お隣さんが最近無遠慮に勢力を伸ばしているんですよ。ずっとそれなりになあなあでやって来たんですが、あちらがあんまり無遠慮ならこっちにも考えがあります」
「───戦争っすか」
「人聞き悪い。そんなあからさまな事をやったら警察も、他のご近所も黙ってません。勝手に内部から壊れてもらう分にはうちは知らぬ存ぜぬで通るんでね」
人の良さそうな顔を崩すことなく睦月がソファに戻る。ケンタはデスクの椎多と睦月を交互に見比べた。
「で、椎多さん。出来ればケンタをこっちに返して頂きたいんですが不都合はありますか。これから仕掛けるのに、ケンタにも働いてもらおうと思いまして」
椎多は鼻から大きく息を吐くとスプリングの利いた大きな黒い革のチェアにどさりともたれかかった。
「警備の方は伯方が良くやってる。柚梨子もKもいるからまあ、なんとかなるだろう」
ケンタに視線を移す。
「おまえ、意外と重宝されてるな」
「意外は余計っすよ、組長」
ケンタは口を尖らせ、少し笑う。
「その駒に、ヤツを使うのか」
「傭兵上がりと聞いてます。場数も踏んでるだろうからいきなりでも色々使いようがありそうだし、そういう大きな餌があれば裏切ることもまあ無いでしょうし、なにより何かしくじった時でもうちの腹は全く痛まない」
椎多の大きな笑い声が響く。組はこいつに任せておけば心配はない。
こう見えて──
義理人情など知らぬような冷酷さも見せるくせに──
こいつもまた──
親父に心酔していたのだ。
「──柚梨子、帰るぞ。とりあえず、頃合を見計らってみずきを通じてヤツに復讐の対象はこっちが握っているように匂わせよう。そう思わせておけば、例の車が見つかっても中の遺体が特定出来るまでは何とでも言える。睦月、サツの動きからも目を離すなよ」
根元まで吸った煙草を灰皿に放り出し、椎多は立ち上がった。
子供の頃からよく遊びに来た慣れ親しんだ場所だが、今はどうにも居心地がよくない。もういない者たちの面影ばかりを思い起こさせるこの場所は。
慌てる素振りもなく手早く書類をまとめた柚梨子が素早く扉を開く。その外ではいかにも極道といった風貌の者たちが小さく頭を下げながら見送りの体勢に入っていた。
「ああ、そうだ。これで皆で寿司でも取って食え。たまにはケチらずに特上でも食わせてやれよ」
「おそれいります!!」
扉の一番近くにいた者が体育会系の学生のように威勢よく返答し、恭しく椎多の差し出した数枚の万札を受け取っている。
「じゃあな。こっちのことは任せた」
はい、と微笑んで睦月は『組長』を見送る。
「椎多さん」
柚梨子が扉を閉めようとした時、睦月が小さく声を掛けた。首を少しだけ動かして目線で振り返る。
「面倒なことはこっちで引き受けます。だから何でも言って下さい。私は──手を尽くさずにあとで後悔するのは嫌いです」
頬の筋肉が小さく引き攣れたのが判った。
振り向きも返事もせず、椎多は右手を上げて扉の前から立ち去る。
俺が紫を殺したことを──
睦月は知っていて、それを責めているのだろう。
根拠もなく、椎多はそう思った。
睦月に何かを負わせるとして、何をどうしたらあんなことにはならなかったのか。俺にはわからない。
俺がどこか狂っていて、紫も多分どこか狂っていて、それがあんな結末を呼んだのだとしたら──どこで睦月の力を借りれば良かったのかなんて俺にはわからない。
だから。
俺の歯車を戻すことは──睦月には出来ない。
眠れない。
憎い復讐の対象が手に入る。それを考えただけで、昂ぶってどうしても眠れない。
2日や3日、殆ど眠らない状態でいたところで体調に異常をきたすことは無いが、それでも眠れない夜は長すぎる。
邨木佑介はいざ仇に対面した時にどうすればいいかを考え続けた。
片方は頭に血が上っていたからとにかくその場で頚動脈を一閃した。殆ど即死状態だっただろう。
まだ腹は目立たなかったとはいえ身重だった妻は2人組の男に組み敷かれてどんな恐怖と絶望の中死んで行ったのかと思うと、ただ殺しても気が済むわけがない。じっくりと、苦しませながら、恐怖を味わわせながら少しずつ殺してやる。どんな殺し方をすれば最大限に苦しめることが出来るだろうか──
淫乱な奥方が拾ってきた哀れな男を監視する業務の最中にも、佑介はずっとそれを考え続けていた。
あれからもう3日。
朝昼夜、時間は問わず青乃は気が向いた時にこの部屋を訪れ、紋志に相手をさせている。媚薬効果のある香でも焚いているか何かドラッグに近いものでも使っているのかもしれないが、いくら元気な若い男でもそう何日も持たずに精力を吸い尽くされてしまうのではないか、と思った。
そして紋志は佑介の顔を見る度に──おそらく、交代した他の者にも言っているのだろう──諦めもせずに帰してくれと懇願する。
「お願いです、とにかく僕の鞄だけでも返してもらえませんか。大事なものが入っているんです」
「──預金通帳のことですか」
会話をする気は無かった。ただ、興味無いとは言ったものの残高五千万円の通帳のことが頭に引っかかっていたのだろう。
紋志は少し狼狽えた顔をして、小さく頷いた。
「鞄の中まで調べたんですか。なんの権利があってそんなことするんです」
「ご心配なさらなくても、あなたの個人財産をどうにかしようなどとは考えておりません。主人よりお許しが出ればお帰りの際に必ずお返しします」
紋志は微かに俯いて、唇を噛んだ。
「あれは──青乃さまのご実家にお返ししなければならないお金なんです」
佑介にはそんな身の上話を聞いてやる筋合いはない。しかし、紋志は話さずには居られないようだった。
青乃の縁談に際しての突然の解雇とその時渡された五千万の預金通帳──
当面身を寄せる場所として紹介された元葛木邸の料理人はこう言ったのだという。
その金は使いたくないって言うのかい。
だが、俺もなんもなしでお前を養うほどの余裕も義理もない。
そこから少しずつでいいから俺に生活費を支払って、稼げるようになったらその稼ぎからその通帳に返していけばいい。
誰かにただ寄っかかって施されて生きてくのは惨めだろ。
それは恵んでもらった金じゃない。借りただけだ。
いつかもとの額に戻ったら、胸を張って返しに行けばいいのさ。
「本当は退職金なんだから貰っとけ、って言ってくれたんだけど、子供なりに意地みたいなものがあったんでしょうね。僕は全額返さなければ気がすまなかった。青乃さまとの約束をお金で売り飛ばすようなのは嫌だったんです」
紋志を預かった料理人の男はそんな厳しい事を言いながら、実は渡した僅かな生活費などでは見合わないちゃんとした生活もさせたり、夜学とはいえ大学にまで行かせてくれた。葛木家にまず金を返したなら、次は彼に返済してゆく番だ──
やはり紋志は青乃ともとから顔見知りだったのか、と佑介は思った。青乃の態度も紋志の反応も、見ていればそれは察することが出来る。
退職に際して渡された大金をご丁寧に返そうだなんて考えるような人間だからなのだろうか、この状況でも黙って金を受け取って従うのをよしとしないのは。
いや──
この若者は、あの淫乱な女主人があんな風になる前の彼女をを知っているのだ。昔の彼女がどんな女だったかは知らないが、多分もっと清楚で可愛らしい女だったのだろう。だから、言うなりになることが出来ずにいるのだ。
この屋敷の人間──主人の嵯院にしても夫人の青乃にしても、佑介にとっては異世界の人間だ。しかし紋志もまた、異世界の人間に思えた。
自分は金を受け取って他国の戦争に参加し、敵兵を殺し尽くした人間だ。
戦場で死にかけた時に医師である妻と出会って、初めて他人の命と自分の命が大切だということを知った。それからは、他人を守る仕事を続けてきた。
なのに、
他人を守っている間に、一番大切なものを失った。
最愛の妻とその中に宿っていたわが子を守ることの出来なかった自分が、もう何を守ることが出来るものか。
だから、俺はもう、憎い仇を殺すためだけに生きている。
貧しくても、自分の中の矜持を売り飛ばそうとはしないこの若者は、きっと綺麗な世界の人間だ。
ただ、綺麗な世界の人間は、汚れた世界の人間に食い物にされるものだ。だから彼は今こんな目に遭っているのだろう。
もう──いいんじゃないのか。
青乃がどういうつもりで紋志を拘束し続けているのか、そんなことは興味ない。ただあの執着は──憎しみにすら見える。何かの復讐をしているような。しかし、この紋志がそこまで執拗に復讐されなければならないような事をしたとはとても思えない。
なら、もうそろそろ許してやってもいいのではないか。
そこまで考えて、佑介はふと我に帰った。
それは俺にとって、『どうでもいいこと』だ。青乃が紋志のことをどう思っていようが、彼らの過去になにがあろうが、関係ない。
俺は、憎い仇をどうやって苦しめて殺すかだけを考えればいいのだ。
なかば無理矢理、思考を復讐に戻す。
標的はまだ捕らえられてはいない、と聞いた。あの男──嵯院の言うことをそこまで頭から鵜呑みにして良いものだろうか。しかしそれしか頼みの綱がないのも事実だ。
見極めなければ。
自分の目で、耳で、感覚で。
べつに何もないですよお、とみずきは笑った。
しかし、いつものように語尾に音符マークがついているような軽快さがみずきの声に無い。数日に一度程度、こうしてみずきに青乃や邨木の様子を報告させているが、どうも最近様子がおかしいと思う。
「昨日はあたしのシフトの間だけで二回ですよお。あのお部屋、お香を焚いておくように言われて焚いてるんですけど」
掌の上に抹香のようなものをほんの少量握って出す。
「これ、エッチな気分になる効果があるんですって。くみちょうも欲しかったらちょっとくすねてきましょうか?」
いつのまにかみずきが椎多を呼ぶ時の呼称が『だんなさま』から『くみちょう』に変わっている。兄のKの影響か。
椎多は苦笑して首を横に振った。
青乃は数日前にいつものように街で見繕った男を連れ帰り、現在も屋敷に留めていると報告を受けていた。本人はもう帰して欲しいと繰り返し訴えているというが聞き入れず、こういう媚薬効果のある香を焚きしめたり時には殴ったりして相手をさせているという。
おまえはわたくしに金で買われたの、と嘯いて──
それは、俺がおまえにしてきたことだ。
俺と同じことをおまえはしているのだと知っているのか?
他の男にそれを課すことで、おまえの気は晴れるのか?
「ずっとそれ焚いてるから、どうかしたらあたしまでエッチな気分になっちゃう」
みずきは可愛らしく笑って首を傾げる。元気が無いことを隠そうとしているように見えた。隠そうとしているものを無理に暴いてやらなくてもいいか、と気づかぬふりをする。
「それは誘ってるのか?」
くすくすと笑いを零してみずきの肩を抱き寄せようとした時、ほんの一瞬みずきが身体を硬直させた。
「──どうした」
「どうもしないって、言ってるじゃないですかあ」
「みずき」
大きく腕を広げる。
「おまえが嫌なことはしない。だから何があったか言ってくれ」
「だって」
みずきは何度も躊躇して、降参したかのようにその腕の中に小さく納まった。小さく震えているのがわかる。
「みずき?」
「あたしもわかんない。今まで全然平気だったのに、最近急に怖いとか気持ち悪いとか思えて」
こわい?
気持ち悪い?
「どうしよう、あたしお仕事出来なくなったら」
お仕事──それはつまり、殺し屋の仕事、ということか。
麻痺したように平然と殺人を実行してきたみずき。それに躊躇いが生まれたというのだろうか。もしかしたら、犯されたことによる男に対する恐怖も一緒に蘇ったのかもしれない。
何故急に、とは思うがそんなきっかけはおそらくほんの些細なものなのだろう。
「お仕事出来なくなったら、あたしはもういらない子になるの?」
腕の中を見下ろすとみずきはこれまで見たことのないような不安げな瞳で椎多を見上げていた。
頭の隅を、何かが掠めて通り過ぎる。
「今のおまえの『お仕事』は青乃のメイドとボディガードだろう。気にするな」
あいつにも、突き放さずにこんな風に言い含めてやれば少しは何か違ったのだろうか。
「柚梨子にも、俺の秘書やボディガードの仕事が忙しいから殺し屋なんて仕事は今はさせてない。そう言えば安心か?」
この娘は、姉に下される殺しの指令を少しでも自分で分担することで姉の『仕事』を減らそうと思っていた筈だ。自分がその『仕事』が出来なくなって真っ先に心配したのはそのことなのだろう。
案の定、みずきはあからさまにほっとした顔を見せた。
ふんわりと拡げていた両腕を回し、チークダンスのようにみずきを包んだまま自分の身体ごとゆらゆらと揺れる。ダンスというより、子供をあやしているようだ。
そもそもは伯方に対する牽制の意味でこちらで預かり、紫に訓練をつけさせた。伯方が実質『敵』ではなくなった今、無理強いをしてこの娘たちに殺しをやらせる意味などもうすでに消滅しているのだ。
腕をほどくと両手でみずきの両手を握り、にっこりと笑いかけた。
「もういい、戻りなさい。青乃を頼む」
「くみちょうが優しくてなんか変……」
まるで今にも泣きそうに鼻を赤くしたみずきはそう言うとえへへ、と可愛らしい声をこぼして笑った。
「変って何だ。失敬な」
みずきの頬を軽く指ではじく。みずきは元気よく頭を下げて弾むように部屋を出ていった。
みずきも、柚梨子も。
もしかしたらそろそろ手放してやった方がいいのかもしれない。
自分の側にいるということは、ずっとこんな世界に棲まわせるということだ。
蝶の羽根を毟るように。
美しく清らかなものを汚そうとしていたけれど。
この娘たちは決して汚れてはいない。たとえその手が他人の血に塗られていたとしても。
しかし───
手放そうとしてもそれは多分手遅れなのだ。
『君の方から電話してくるって珍しいね』
受話器の向こうの声が笑っている。もっとも、笑っていない声はあまり聴いたことがない。
紋志はあれからアパートに戻って来ない──元は首筋がざわざわと気持ち悪く騒ぐのをもう抑えきれなくなっていた。
飲みに行こうと出た繁華街で、元が店の空席を尋ねるために連れと離れた時のことだった。あれはもう5日も前だ。紋志と共にいた元の友人たちによれば、黒服の男が紋志に話しかけてきて、少し離れたところで暫く押し問答を続けていたようだったが結局紋志はその男と共に立ち去ったのだという。
無理矢理拉致されていったわけではない。
紋志は、元にも予定変更して申し訳ないという伝言を残していた。紋志がその黒服について行ったのは自分の意思だった筈だ。
だから5日も、心配しながらも、黙っていたのだが───
紋志は学校も仕事もある筈だ。なのにアパートに戻って来ていないというのはどうしても何かの非常事態のように思えて仕方なかった。
親戚などの不幸かとも思ったが、そもそも紋志には家族も親戚もない。
紋志に声をかけた黒服───というのが少し気にかかった。
『で、どうしたの。僕の声が聴きたくてかけてきたわけじゃないでしょ』
電話の向こうの柾青が促した。
本当は、前回訪ねた日の出来事がずっと元を悩ませている。出来れば柾青のことは当分考えたくはなかったし、何度電話を受けてもあれからは訪ねてはいなかった。ただそうも言っていられない気がしたのだ。それほど、紋志の失踪は気がかりだ。
しかし電話はしてみたものの、どこから切り出せば良いのか悩む。元が言い澱んでいる間、柾青は珍しくじっと黙ってその言葉を待っていた。
「あのさ、『おじょうさん』にくっついて歩いてた子。男の子。いたの覚えてる?」
『おじょうさん、って君の姉さんだよ。青乃だろう?僕は知っての通りあんまりこの部屋から出てないからよくは覚えていないけど、犬の世話係もしていた子かな』
「そう、そいつ。そいつが今どうしてるかって知ってる?」
まだ、何も知らなかった頃。
元がまだ、葛木邸にいた頃。
小学生くらいの年頃なのに、常に青乃に付き従っていた少年。あれが紋志だ。
『さあ、青乃が結婚する時に暇を出したというのは聞いたけどその後は僕も知らないよ』
「じゃあ、今あんたんち、昔みたいな制服とか黒服の警備の人っているの?」
『おかしなこと聞くなあ。今は民間の警報システムだけしか無いよ。警備員を置かなきゃいけないほどの財産ももう無いしね』
葛木邸が以前に比べて使用人がほとんど姿を消していることは知っている。だからもう常駐の警備員などは置いていないだろうと少しは思ったけれど、黒服と言われて思い出したのはかつては多く常駐していた警備の人間だったのだ。ただ、だからといって葛木の人間が紋志を連れていく理由などいくら考えても思いつきもしない。気になったことをひとつずつ潰していくしかこの不安を解消する術がないのだ。
『それより元、本当に話があるんだよ。今日、今からでも来れない?』
「ごめん。今日は無理。明日もわかんない。行けそうになったら電話するから」
話を変えていこうとする柾青をかわし、電話を切る。
ひとまずは、柾青よりも紋志だ。
そもそも元は紋志のことをろくに知らない。葛木邸で住み込みで勤めていたということを知っているだけで、何故そこにいたのかも知らない。親類縁者はいないというのも本人がさらりと言っただけなので本当かどうかもわからない。勤め先も知らない。学校の友人も知らない。
単に同じアパートで、顔を見れば会話をして、たまに一緒に飲んで──紋志の過去の断片を知っているだけで良く知っている気分になっていた。あれは錯覚で、本当は紋志のことを何も知らなかったのだと再確認し元は少し愕然としていた。
──あ。
親類縁者というものではないが、一度だけ紋志が以前世話になっていたという料理屋に行ったことがある。それを思い出した。
そうだ。あの店の大将。名前は何と言ったっけ、彼ならば何か知っているかもしれない。
しかし生憎、その店の電話番号などは知らない。
仕方なく、記憶を頼りにその店へ行ってみることにした。連れて行かれたのは駅から少し離れた住宅地の入り組んだ狭い路地の一角だ。場所も店名もうろ覚えで、辿り着けるかどうか自信は無いが手がかりはもうそこしか残っていない。
何度も行きつ戻りつしながら歩いている間、暖簾をくぐるとカウンターにちょこんと座った紋志が振り返って人の心配をよそににこにこ笑って手を振るという姿を何度も頭に思い浮かべた。
その時は、思い切り怒鳴りつけてやろう。連絡もせずに人に心配だけかけて、何やってたんだって。
似たような家の並ぶ細い路地を迷い歩いてその提灯を見つけたのは、最初に紋志にそこへ連れて行かれた時に要した時間の3倍ほども彷徨った末のことだった。
灯りのともっていない赤く丸い提灯には、墨の文字で『恭太蕗』と書かれている。そういえば紋志が大将のことを『キョウさん』と呼んでいたことをそれを見て思い出した。まだ暖簾は掛かっていない。入り口には『支度中』という木の札が下っている。中からは良い香りが漂ってきた。
緊張したように一度深呼吸をして扉に手をかける。鍵はかかっておらず、霞ガラスの嵌った格子の引き戸はからりと開いた。
「ああ、すんません。開店は6時ですよ」
カウンターの中の男は愛想の良い、よく通る声を上げてから振り返った。カウンターには少々乱雑に、ビニール袋やタオルや布巾が置かれているだけである。想像とは違って、紋志はそこには座っていない。
「あの……」
遠慮がちに声を掛けると、男──恭太郎は元の姿を確認してああ、と大きく頷いて笑った。
「あんた紋志の友達だっけ、前に一度来てくれた」
そうです、と返事をしながら元は急速に失望し始めていた。彼の反応を見るに、紋志はきっとここにも来ていない。
詳細は話さず、紋志が連絡も無しに帰ってきていないことだけを告げると恭太郎は眉を派手に寄せ、唇を突き出して『考え事をしています』という顔をした。
開店前でもあるし、長居しては迷惑だろうとそのまま帰ろうとすると恭太郎は手早くカウンターを片付け、少し何か食べて行けと元を引き止めた。ここが最後の手がかりで、急いで行く次のあてがあるわけではない。腹も減ってきたし、元はそのままカウンターの席に就いた。
「あいつが連絡もよこさずに帰ってこないなんてのは、少なくともうちで面倒見てた時には一度も無かったな……」
「そうでしょ。ここにも連絡してないんだったら……やっぱり警察に捜索願とか出した方がいいですよね」
なにも後ろめたいことがあるわけではないが、警察に届けるというのは本当に最終手段にしたかった。正直言って、紋志も元もあまり一般的とは言いづらい生い立ちである。あれこれ詮索されて不快な思いをさせられるのが関の山ではないかと思う。
「捜索願なんか出したって、警察は人探しなんかしてくれねえですよ。身元不明の死体が出た時なんかに照合に使われる程度だ。警察に頼むくらいなら探偵屋に頼んだ方がまだ見つかる可能性はある」
死体、という言葉に食べかけた里芋の煮物を飲み込んでしまった。喉が閊える。
「縁起でも無いこと言わないで下さいよ!」
恭太郎は静かな声ですんません、と言った。苦笑している。
「あいつは、紋志は友達とうまくやってましたか」
話題を変えるように恭太郎はくるりと背を向け、火を入れた炭火焼のコンロに焼鳥の串を並べ始めた。
「あいつはちょっと育ちが特殊だったんでね。人付き合いとかちゃんと出来てるんだかちょっと心配してたんですよ」
「──」
特殊といえば自分だってかなり特殊だとは思う。ただ、まだ小学生くらいの頃には母とあの葛木邸を出て生活してきたし、母が何故か葛木家からの援助を拒否していたらしく決して裕福ではない暮らしで育ってきたから柾青あたりを思えば俺こそ庶民代表、と胸を張りたいくらいだ。
紋志が葛木邸の使用人だったことは多分間違いないが、その紋志が何故この店で恭太郎と生活していたのかは元は知らない。元が葛木家の庶子だということを紋志は知らないのだから、自分の身の上を元に話していないのも当然のことだ。
ともすれば同じところをぐるぐると回るだけの思考を繰り返しているうち、ふと恭太郎がじっと自分の顔を凝視していることに気づく。顔を上げ無言で何か、と問いかけると自分の視線が無遠慮だったことに思い至ったのか恭太郎は少しばつの悪い顔をした。
「兄さん、もしかしてお母さんはナミさんとおっしゃるんじゃありませんか」
不意打ちをくらったように元は恭太郎の顔を見つめ返す。その通り、母の名は那美と言った。恭太郎は笑っている。
「俺も若い頃、葛木のお屋敷に勤めてましたんでね。ナミさんのことも兄さんの──ほんのチビすけだった頃に見てましたよ。そんのリッパな眉毛で判りました」
指でその眉毛をなぞる。そんなに目立つ特徴なのだろうか。自分ではよくわからない。
「あのお屋敷で使用人が順々にくびになった時にね、俺は厨房で一番若手でまだ経験が浅かったせいでしょう、真っ先に切られましてね。しょうがねえからこの店を始めたんですが、その縁であいつを預かることになったんですよ」
「紋志を、ですか」
恭太郎はそう、と言って頷いた。
自分の手元に注がれたビールの水滴が流れるのを目で追う。
面影が残っていればこうして成長してからも気付く者もいる。自分は紋志に気付いた。けれど──
「あいつは俺のことには気が付いてないみたいです。眉毛も関係なさそうですね」
気付いていないというよりも、元が葛木邸にいたことすら紋志は知らなかったのではないか。
そう思うと無性に寂しい。寂しいと思うのが何故か悔しい。
そんな元の胸の内を察しているのかいないのか、恭太郎は言い訳するように苦笑した。
「まあ、あいつは──お嬢さんの側をひっついて歩くのに精一杯だったんでしょう。今でもずっとお嬢さんのことを気にかけてますよ」
お嬢さん──
「──黒服」
「え?」
「大将、おじょうさんが嫁入りした先ってどこか知ってますか」
おじょうさんじゃなくて姉さんだろう、と柾青は言ったけれど。彼女を姉と呼ぶのはなにやら不遜な気がした。恭太郎は申し訳なさそうに首をかしげる。
「さあ、俺がくびになったのはそれよりずっと前のことですからね」
そうだ。
さっき柾青と話した時、何故それに気づかなかったのだろう。
青乃が結婚した相手が同じように大富豪なら、ああいう警備の人間がいてもおかしくないではないか。
元の知る限り、青乃は紋志を可愛がっていたし紋志もずっと青乃を気にかけていたという。紋志が青乃に呼びつけられたなら、友人との遊びの約束を反古にしてそちらに行ったとしても不思議ではない。
青乃の嫁入り先なら、それこそ柾青に尋ねればわかる。
慌てて店内を見回すとピンク電話があった。財布を探り、小銭を確認する。
「ちょっと電話借りますね──」
と、言いかけた時である。
カウンターの中で焼かれている香ばしい鶏の匂いに混じって、なにか異臭がした気がした。それを確認しようと恭太郎を見ると険しい顔で足元をきょろきょろと見ている。
その顔がぎくりと強張ったのが見えた。
「伏せろ!」
恭太郎の叫び声。
わけもわからずそれに従う。
次の瞬間───
すさまじい轟音と熱とともに、直前までカウンターだった筈の木材が元の上に崩れ落ちてきた。
Note
さて本格的に「TUS」本編の書き直しに入ったわけですが、もうここまで来てしまうとほぼ別の話みたいになってきます。
なにしろ「TUS」は成り立ちが成り立ちなので時代もいつかわからん、土地も謎の「オーサカの国」みたいなのが出てくる、絶対警察いなさそう、てゆうか刑法あるのか、携帯電話的なものどころか「電話」すらあるかどうか怪しい、なのになぜか軍隊だけはあるらしい、というファンタジーにしたってなんの舞台設定も出来てない中でキャラの設定だけきゃっきゃ詰め込んで作った話だったわけです。
これを書くにあたって、一応異世界だという言い訳はしているもののなるべく自分の生きている現代日本(に似た世界)を舞台にする上で多少は整理する、そうするとキャラ設定自体が変わってしまったり物語の進行を変えねばならなかったりといろんなハードルを越えながら書いているところですよ。
そんな中、またオリジナルキャラ「恭さん」という人が出てきました。中学生で単身放り出されたもんじを保護というか、さすがに大人に短期間でも預けたんじゃないかと思って出したんですがこれを出したおかげでその後の流れが良くなった感じです。
元はTUSでは何故か(ほんとに何故か)もんじのことを好きになってしまうキャラだったんですが、ここではただの友達くらいの関係性のまま進めようかと。
なおこっちとは直接は関係ないけど睦月がケンタを使って仕掛けようとしている件というのは、MainTalesの「信仰」という話に出てくる澤康平の組織を壊滅させた時の話。ケンタは渋谷修一に近づいて情報戦に入るために呼び戻されたという感じです。おお、つまりこの頃にはもう英二は日本に帰ってきておるのだな……。
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