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罪 -15- 鏡の向こうの顔

 自分は、どうすればいいのだろう。
 龍巳はじっと自問自答を繰り返す。

 日を追う毎時を刻む毎に、青乃が心に纏う殻が厚く硬くなっていくのがわかる。
 青乃の耳には、目には、心には、もう誰の言葉も届かない。
 どれほど自分が味方であることを示そうと、青乃はもう自分を信じてはくれない。青乃に仕えた女医の芙蓉が絶望に堕ちていったのが判る気がした。
 だけど、自分は堕ちはしない。こんなことで絶望したりはしない。
 青乃様は見失われているだけなのだ。ご自分の本当の姿を。
 いつか、きっと──
 青乃様は、取り戻して下さるはずだ。
 その時まで、自分は絶対に、何があっても、折れたりはしない。

──わたしを、守ってくださいね。

 あんな事、青乃様はきっと忘れておしまいになっている。
 それでもいいのだ。
 あの時自分は、厳しい訓練に耐えてきっとこのお嬢さまを守れる人間になるのだと決めた。それだけのことなのだから。そのために他の何を棄ててもかまわない。

 熱いシャワーを頭からかぶるとタオルで大雑把に水気を拭う。風呂でのんびりするのは嫌いだ。大きな鏡の前を通りかかるとその中に映る自分の顔をじっと睨みつける。鏡も大嫌いだ。
 呼吸を整え、両手で頬をぱあん、と叩いた。

 素早く衣服を身に着けると龍巳は青乃の部屋の隣に設置された詰所へ向かう。葛木家から来た警備担当者が当初揃えて着ていた軍服のような制服は、もう身につけている人間も数えるほどになってしまった。今は殆どの者が嵯院の者と同じ黒服である。
 龍巳が制服を着続けていることに関して、伯方は何も言わなかった。

──隊長。

 

 伯方は龍巳が葛木邸に来た時から厳しく指導された、尊敬する教官である。ずっと、嵯院邸へ移ってからも、伯方が椎英を殺してすらも、その信頼が揺らぐことはなかった。
 なのに。
 椎英を殺し青乃を追い詰めることを強要した紫が姿を消して──その後を委任されたからといって伯方はすっかり『嵯院の人間』になってしまった。少なくともその印象は否定できない。


 隊長にもなにか考えがあるんだ。
 

 何度もそう思おうとしたけれど。
 もう、頼るのはよそう。近頃ではそう思う。命令や指示に従ったとしても、大事な判断は自分自身でする。青乃様を守るためなら、隊長の命令に背くことも厭わない。
 黒服を着ないのは、その決意表明だ。

「あの、龍巳さん、よろしいですか」
 まるで常に緊張状態のように素早く振り返ると、声をかけたメイドが驚いた顔をしていた。若干、怯えているようにも見える。
「青乃さまが、お呼びなんですけど……」
 無言で立ち上がり、素早く動く。小柄でとても体格がいいとは言えないが厳しい表情とそのきびきびとした動きだけでメイドあたりには十分に威圧感を与えている。


 青乃がわざわざ龍巳を指名するということはもう随分無いことだった。青乃から見れば、龍巳もまた伯方と共に嵯院側に寝返った裏切り者の一人なのだろう。椎英をみすみす死なせてしまった自分はその罰も受け続けなければならないのだ。

「お呼びですか」
 扉を閉じ姿勢を正すとカウチに寝そべった青乃は振り返りもせず、こちらにいらっしゃい、と言った。
 青乃の投げ出した足元に膝をつく。青乃はようやく龍巳に視線を移した。
「あまり大声で話したくないの。もっと近く」
 膝をついた姿勢のまま、にじるように前へ出る。緊張する。
 青乃はふう、とひとつ溜息を落とすと、カウチの上に投げ出していた足を床へ下ろし座り直した。


「龍巳、伯方はあちらへ寝返ってしまったから信用できない。でもわたくしはわかっているわ。おまえは違う」
 

 え、と思わず伏せていた顔を上げる。
「今ではメイドももう信用できない。わたくしが信用できるのはもうおまえだけなのよ」
「青乃様──」
 何度もまばたきをする。耳を掘りたいくらいだ。まさか、青乃からそんな言葉を受けるとは──
「だから、これはおまえにだけ命ずるわ。他の誰にも、もちろん伯方にも言ってはだめ。他の人間を使ってもいいけれど、決して他に漏らさないように」
「──はい」
「おまえはもう知っているでしょう、わたくしが今飼っているあの男が、葛木の屋敷に勤めていた紋志であること」
 はい、と小さく答えて視線を落とす。


 何頭もの犬を引いた紋志と青乃が無邪気に笑い合っている姿が脳裏に蘇った。
 

「なら話は早いわ。紋志が葛木の家を出てから今まで、どこでどうやって暮らしてきたのか。今、大切なものがあるのか。それを洗いざらい調べていらっしゃい」
「調べて──ご報告すればよろしいのですか」
 青乃は口の端に残酷そうな笑みを浮かべた。目は笑っていない。

「あの子の帰る場所を全部処分なさい。もうここにしか居場所がないように」

 

 処分、という言葉を青乃は殊更ゆっくり、はっきりと発音した。
 ぞくり──
 首筋に冷たいものが走る。
「わたくしの大切なものは簡単に奪ったくせに、出来ないとは言わせない」
「──」
「もたもたしないで。良い報告を待っているわ。行きなさい」

 指示された通り素早い動作で退出すると龍巳は漏れそうになる嗚咽を堪えるために一瞬立ち止まった。
 

 やはり──
 青乃様は自分を許してなどいないのだ。
 自分が変わらず忠誠を誓っていることを知っていて、こんなことを命じるなんて──

 どうすればいいのだろう。
 けれど、今の自分には、その命令に従うことしか彼女に対する忠誠を証明する術がないのだ。

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「危ねえなあ」
 びくりと顔を上げると、Kが立っていた。
「何ぼんやり歩いてんだよ。階段から転げ落ちても知らねえぞ」
「うるさい」
 驚きを隠すように龍巳はKの横をすり抜けて歩くスピードを速めた。
 本当に龍巳の顔色は判りやすいな、と苦笑してKもその後を追う。


「それで?俺は何をすればいいんだ?」
 

 ぎくりと龍巳が振り返った。
「何をって──」
「何をってじゃねえよ。手伝ってくれってお前が言ってきたんだろ。だからわざわざ来たんじゃねえか」
「あ、ああ。そうだったな。すまない」


 Kがごく簡単にかけた、Kが龍巳の古くからの友人であるという暗示はまだ活きていた。特別打ちとけるではないが、龍巳のKに対する警戒は解かれている。当然、龍巳がKに何かを手伝って欲しいなどと頼んだわけではないが、そう振ってみるだけで龍巳は自分がそれを頼んでいたかのような錯覚に陥ったようだ。

──たく単純すぎるんだよ、おまえは。

 

 真っ直ぐに青乃への忠誠だけで満たされている龍巳の心に入り込むのは困難に見えて容易だった。面倒くさい催眠など必要ない、ほんの少し暗示を与えてやっただけでこれだ。そしてそれを疑問に思う心の余裕も龍巳には無いのだろう。じっくり振り返って辻褄を合わせていけば簡単に解けてしまう程度の暗示なのに──

「桧坂紋志の、葛木邸を解雇されてからの足取りと人間関係を洗いたい。ただ、これは誰にも内密にだ」

 ははぁん、とKは頷いた。
 桧坂紋志というのは、青乃が現在囲っている──というのは語弊があるのかもしれないが、屋敷に滞在させているという若者だ。
「判った。俺の方が自由に動ける。すぐに調べてきてやるよ」
「──いいのか」
「水くさいこと言うなって。俺の事を信用して話してくれたんだろ。心配すんな。俺ひとりでやるから」
 Kは嵯院椎多の直属の部下である。本来なら龍巳が最も警戒し敵視する筈の立場なのだがそれを疑う様子はない。
「悪いな」
「ま、今度一杯奢ってくれりゃいいよ」
 Kは軽快に手を上げて龍巳の前から立ち去った。

 桧坂紋志の足取りと人間関係を洗って──どうする気だ。

 すぐに、などと大口を叩いて安請負したのには理由がある。
 わざわざKが調査に乗り出さなくても、それはもう椎多の指示によって調査済みの案件だ。つまり、今すぐにでも龍巳が欲している調査結果を齎すことが可能なのである。

 桧坂紋志は青乃の実家である葛木家の使用人だった。とは言っても当時はまだ中学生だったから「使用人」として雇っていた体裁ではなかったようだ。
 椎多は初めて葛木邸を訪れた時に青乃と共にいた少年を覚えていた。
 理由までは掴めなかったが、青乃が椎多と結婚する際に葛木邸を解雇──表向きには独立とでも言うのだろうか、とにかく放逐されている。


──青乃と恋仲だったのかもな。
 

 椎多がぽつりと漏らしたことをKは思い出した。

 結婚後の青乃はこの嵯院邸で籠の鳥だったから、その後の紋志と連絡を取り合うなどということはなかっただろう。だからこそ、今になってそれを調べよと龍巳に命じたのだ。
 自分の知らない紋志のその後の動向を探ってどうしようというのだろう。


 紋志は葛木邸を放逐されてから、街の小さな小料理屋に身を寄せて数年を過ごしている。保護者代わりになっていたのはやはり葛木邸を解雇された者だというから深い理由はなく単にまだ少年だった紋志が身を寄せる場所として紹介されたと考えるのが妥当だ。
 その後、夜間大学に進学した紋志は学校の近くのアパートに一人で移り、昼間は働いて夜は大学、週末にはアルバイトという生活らしい。どこにも怪しいところの無い、人より勤勉な青年である。
 ただ、調査の中で紋志の人間関係の希薄さが備考として付け加えられていた。
 夜学の同級生や勤務先の同僚周辺で特に親しい人間がいないかを探ってみても、誰も『紋志と仲の良い友達』が誰かは知らなかった。特別付き合いが悪いわけでもないのに、である。
 その中で、同じアパートに住むひとりの青年が浮かび上がった。


 青乃の父、葛木紘柾が認知している庶子である。
 

 つまり、青乃にとっては腹違いの弟ということだろう。
 しかしそれも、周囲から見て特別親しいようには見えなかったというから互いに互いの素性を知っていたかは明らかではない。
 と、いうことは──
 桧坂紋志の人間関係らしい人間関係というのは結局、保護者代わりになっていた小料理屋の亭主、矢島恭太郎という男くらいしか無いということだ。

 なんだろう、この実体のない架空の人間みたいな───

 

 物心付く前に誘拐され、誘拐犯の手元にいたのか売り飛ばされたのかも定かではなく戸籍も住民票もない、学校にも行っていない、実体のないような存在なのは自分の方だ。それなのに、きちんと大学に行き、就職もし、おそらく納税もきちんと果たしているだろう紋志の方が実在が怪しく感じられるのは何故なのだろう。
 好奇心がむくむくと膨れてくる。
 Kの悪い癖だ。でも自重も反省もしない。そんなものはKの辞書には載っていないのだ。

「ほらよ」
 くすねてきた調査結果のコピーを渡すと龍巳が目を大きく見開いて何度もまばたきをした。頼んでからまる1日も経たないのに──と顔に書いてある。
 報告もせず無断でこれをコピーしてきたことを、椎多は気付いているかもしれない。場合によっては罰を受けることになるかもしれないな、とKは思った。でもまあその時はその時だ。まず自分はそうやすやすと殺されたりはしない。
「親しい者というのはこの料理人くらいということか」
 調査結果に目を通しながら、龍巳がひとりごちる。顔が白く青ざめて見える。いつもは色つきのリップクリームでも塗っているのかというくらい色の濃い唇からも血の気が引いていた。
「で、それ、どうする気だ」


「───『処分』する。それが青乃様のご命令だ」
 

「え?」

 おいおい、ちょっと待てよ──
 言葉を飲み込むとKは龍巳の青ざめた顔をじっと見つめた。額にうっすら汗が滲んでいる。
 処分って、つまりこの矢島とかいうヤツを消すってことだろ。えらく過激に出たな。単にあの紋志とかいう男と親しいというだけで消すのか。あの組長だっていきなりソレはなかなかやんないぜ。
 いや、それよりも──

 おまえに、そんな事、出来んのかよ?

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「いいわ、それほど言うなら帰してあげましょう」
 青乃がようやくそう口にしたのは、紋志が最初にこの屋敷へ連れてこられてから1週間も経ってからのことだった。
「ただし、その後またここへ戻って来るというのなら」
 微笑む。しかしそれは笑っているようには見えなかった。
「ねえ紋志。まさか、わたくしとの約束を忘れたと言うのではないでしょうね。おまえはずっとわたくしの側にいるのよ。それがおまえのつとめ」
「青乃さま───」
 あくまで冷酷に言い放つ青乃の声音を聞きながら紋志は胸のどこかがぎりぎりと締め付けられるのを感じた。

 彼女は、ずっと孤独だったのだ。
 家族が出来たならきっと孤独ではなくなっただろうと思っていたのに。
 彼女は、あの頃よりもっと絶望的な孤独の中にいる。
 その孤独が、彼女にこんな行動をさせているのだ。
 だとしたら確かに、あの約束は今こそ守られるべきなのではないだろうか───

 きゅっと一旦唇を噛み締めると紋志は顔を上げた。
「わかりました。僕は戻ってきます。ただ、戻ってきたらこんな風に見張りをつけて閉じ込めたりしないで下さい。逃げたりしませんから」
 葛木邸を出てから今まで積み上げてきたものを棄ててしまうことは容易ではない。しかしそれらを棄てずに青乃との約束を守ることだって出来る筈だ。監禁などされていなければ、住むところと勤め先が変わったと思えばいい。

 紋志は青乃の心の闇がどれほど深いのかをまだ本当に理解してはいなかった。

 

 最初に着ていた服などはぼろだからもしかして棄てられたのではないかと思ったが、きちんと洗濯されて返された。愛用していた帆布の鞄も同様だ。中を確認すると、例の預金通帳をはじめとして何も無くなったものなどなかった。
 このお金を葛木家へ返すという計画を、青乃に告げるべきなのか紋志は迷っていた。返すならば葛木家へ返すのが筋である。それに、青乃は紋志が金を渡されて追い払われたということも知らないのかもしれない。ならばわざわざそれを知らすことに意味を感じなかった。かえって傷つけることになりかねない。


 屋敷を辞去しようとすると、黒服を一人付けられた。車で送る、と言う。
「用事が済んだらその男と一緒に戻っていらっしゃい」
 戻ってくるとは言ったものの、信用はされていないとみえた。
 結局はずっと監視がついている状態なのだ。別に警察に訴え出るつもりも何もないが、おそらくそうしたくとも出来ない。それどころか、あれほどの富豪なら警察にだって裏から手を回して揉み消されるのかもしれない。


 大きなリムジンが用意されていたが、自分の行き先は下町の細い路地ばかりでこんな車は入れないと辞退すると、別のセダンの乗用車が出てきた。これでも紋志には十分大きいのだが、さすがに軽自動車のような庶民的な車は無いらしい。それでもリムジンに比べれば目立たずに済みそうだと紋志は思った。
 黒服は紋志を後部座席に載せると自分が運転席に座った。
 紋志を監視していた数人の黒服のうちの一人。
 ずっと厳しい顔をしている、確か、邨木とかいう名の男だ。
「どちらへ向かいましょうか。ご自宅のアパートで」
 邨木は機械的に尋ねた。
 元は心配しているだろう。しかし今はまだ講義か劇団で大学にいる時間帯の筈だ。
「いえ、東梓条駅の方へ」
「『恭太蕗』ですか」
「──どこまで僕のことを調べたんです」
 邨木は答えなかった。

 駅前の大通りから細い住宅道路へ入ってゆくと紋志のよく覚えた住宅地である。幼い頃から過ごした葛木邸よりも、ごく普通の生活を送った数年間のこの町での暮らしの方が思い出に富んでいる。
 道案内をしなくても邨木は迷いなく『恭太蕗』への道を進んだ。一方通行まですべて頭に入っているようだ。
 軽自動車二台がやっとすれ違えるほどの道に入ったところで、あの赤い提灯が見えてくる筈だった。


「──あれ?」
 

 後部座席から身を乗り出すように車の進行方向を見つめていた紋志がぽろりと言葉を落とした。ある筈のものがない。見慣れた風景の中に、『恭太蕗』だけが無い。
「ここですか」
 機械的な邨木の声と共に車が停まる。停まると同時に紋志は車を飛び出した。

 そこにあるのは、あの丸く赤く大きい提灯ではなく──


 焼け焦げて半ば朽ちてしまった『恭太蕗』だった筈の建物だった。

「火…事──?」
「あんた、もんちゃんじゃないの!!」
 どこかへ浮遊しそうになる思考を、ヒステリックな中年女性の声が繋ぎとめる。
 恭太蕗の隣家から飛び出してきた肉付きの良い中年女性は紋志の両腕を掴み派手に揺さぶった。
「どこ行ってたの!大変だったんだよ!お店は爆発するわ燃えるわ、恭さんが──」
「爆発……?燃え……?恭さ……」
 自失したように隣人の言葉を反復すると紋志は突然スイッチの入ったように隣人の顔を覗きこんだ。
「恭さんは?!おばさん、恭さんは」
 ヒステリックに見えた隣人は紋志の問いかけに押されて逆に口ごもった。言葉を選ぼうとしたのだろうが、言葉の代わりに愛想程度の涙を見せて首を横に振った。何度も。
「嘘でしょ?どこの病院?」
「開店前だったけどお客さんが一人いて、その人は病院に運ばれたけど──恭さん、爆発に巻き込まれちゃったみたいで」
「───」

 

「即死だったらしいわよ」

 

 隣人の言葉の意味がうまく呑み込めない。 
「こんなに密集してるのに隣近所に燃え広がらなかったのは不幸中の幸いだったけど、うちも壁が焦げたくらいで済んだしね。でも消防やら警察でほんと大変だったんだよ。さっきも刑事さんが帰ったとこ。──そうだ。ちょっと待ってて」
 言い難そうにしながらもぺらぺらと状況を説明すると隣人は脱兎のごとく家に駆け込み、すぐにまた飛び出してきた。
「これ、さっき来てた刑事の名刺。あんたアパートにも帰ってなかったんだって?警察があんたのこと探してるからこの刑事訪ねといで。あと、恭さんの遺体、解剖から帰ってきたらあんたが引き取るんだろ。うちでは預かれませんって言ってあるからそこんとこちゃんとやんなさいよ」
 親切そうに見せつつももう関わりあいたくないという空気を全身で放ちながら、言うだけ言うと隣人はさっさと家へ引き返してしまった。

 それを見送りながら持ち上げていられないように手がだらりと下がる。その拍子に渡された名刺もその場にはらりと落ちた。

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 ことの次第を少し離れて見守っていた邨木佑介は隣人の姿が消えたのを見てとると一歩前に出た。
「大丈夫ですか」
 紋志は返事をしなかった。もう一歩前に出て、紋志の腕を軽く叩き注意を促す。紋志はスローモーションのようにゆっくりと振り返ったが振り返った途端、ふらっとよろめいてその場に座り込んだ。
「大丈夫ですか」
 もう一度訊ねると紋志は何度か立ち上がろうとしたが足に力が入らないようにその都度地面に手をついて、激しい運動の後のように何度も大きく呼吸した。背後から支えて立ち上がらせる。
「とにかく車に。横になった方がいいでしょう」
 ほんの数分の間に紋志の身体は冷や汗でぐっしょりと湿っていた。車まで支えて歩いても、まるで泥酔した人間を運んでいるようにぐったりとしてろくに足も動いていない。後部座席に押し込むとそのまま横になっているよう言って、ともかく佑介は車を発車させた。

 妻が殺された時のことを、佑介は思い返していた。

 あの時、自分は妻の無残な死に顔を見た。その場に、妻を殺した仇敵もまだいた。
 だから、頭に血が上ってふたり組のうちひとりを殺したのだ。
 もし、自分があとでその事を知って──妻の遺体も死に顔も見ることが出来ず、誰が妻を殺したのかもわからなかったのだとしたら──
 こんな風に、糸の切れた操り人形のように、世界との繋がりが切れてしまってぐったりと横たわるしか術がなかったのではないだろうか。

「──さん」
 微かな声。聞き逃しそうになって慌てて現実へ頭を引き戻す。
「何か」
「ほんとうに、恭さんは死んだんでしょうか」
「警察に探りを入れてみます」
「爆発って、何が爆発したんだろう」
「──事故ならガス漏れに引火というのが考えられる原因でしょうね。開店前だということは火気は使っていたでしょうから」
 事故なら、と何故付け加えてしまったのだろう。
 

「事故なら」
 

 佑介が自分でひっかかった部分が、紋志もひっかかったらしい。
「事故じゃないなら、恭さんは誰かに殺されたということですか」
「──自分は恭太郎という方がどういう人となりだったかは存じません。ですから彼が殺される理由を持っているかどうか判断できかねます」
 どうしてこうもって回った言い方をしてしまうのだろう。佑介は自分の言い様に苛立ちを感じた。
「恭さんは他人から恨まれるような人じゃありません」
 紋志はゆっくりと後部座席のシートで身を起こし、座り直している。
「事故ではなく、恭さんが殺されたのだとしたら──」

 きっと、あの女主人だ。

 佑介はそう思った。
 あの女ならやりかねない。
 この青年を完全に手に入れるために。
 しかし佑介はそれを口にしなかった。いくらなんでも根拠が無さ過ぎる。紋志もそれ以上は口にしなかった。

「──事故でしょう、きっと」
「事故でも殺されたのでも、本当に恭さんが死んでしまったというなら──同じことです」

──同じ?

 

 同じわけはないだろう。
 誰かが殺したのだとしたら、殺した犯人がいるのだ。誰かの悪意によって、彼は強制的にこの世を去ることになってしまったのだ。その相手がいるのと居ないのでは天と地ほどの差がある。
 同じわけがないのだ。
 もし妻が自宅の火事で死んだのだとしたら。自分は今頃こんなに憎しみに支配された生き方はしていない。
「犯人が憎くないんですか」
「憎いけど、憎んでもたとえば仕返ししても、恭さんはもう帰ってこないんでしょう?二度と僕は恭さんに会えない。だったら同じじゃないですか」

「同じわけない!」

 

 怒鳴ってしまった。
 警護対象に感情を露わにしてどうする。この仕事の初歩の初歩じゃないか。
「同じですよ」
 それでも、紋志はそう言った。真っ白に血の気が引いた顔の中で目だけが充血して赤いのがミラー越しにも見てとれる。が、泣いているわけではない。
「誰か、恭さんを返してくれるんですか」
「───」

 失った愛するものを返してくれる者などいない。
 けれど、この遣り切れぬ思いを憎い仇敵に向けなければ──俺は生きてはこれなかった。

 そうか──

 佑介はふと思い当たった。


 なんの根拠もないけれど。
 紋志はおそらく、恭太郎を愛していた。
 それがどういう形のものであろうと、紋志にとっては恭太郎は世界と同等の意味を持っていたのだろう。
 自分にとって、妻がそうであったように。


 仇をとことん憎む自分と、どうでもいいと目を背ける紋志。正反対のようでいて、おそらくその元になっている思いは同じ。
 そこまで考えが到って、佑介はぎくりと後部座席を振り返った。
 仇敵を憎むことで自分は生きてこれた。それを放棄しようという紋志はまさか、これ以上生きていく意味を失ってしまったのではないのか。

 振り返ると紋志は目を充血させたまま、小さく微笑んだ。


「帰りましょうか、青乃さまのところへ。どうやら僕はそうするしかないようなので」
「──」
 青乃がこれを指示したのだろう──紋志もおそらくそう感じている。
 自分を手に入れるために。帰る場所を奪うために。
 恭太郎を排除した。
 それでもなお、青乃のもとへ帰ろうというのか。
 それで青乃に復讐しようというのなら自分にもまだ理解の範疇にある。しかし紋志はもう『自分のことはどうでもよくなった』からただ青乃に従うことも厭わないように見えた。


「いや──」
 車を走らせる。
 スピードが上がる。
 嵯院邸の方向へ向かう大通りの交差点を───反対方向へ折れる。

「もうあの屋敷には帰らない。あんたの人生は恭太郎って人のためでも、ましてあの奥様のためにあるんでもない。あんたは、自分の人生を生きるべきだ」


 言いながら、その言葉を自分の中にも咀嚼して飲み込む。
 俺は妻を失ってから、自分の人生を生きてきたか?
 あの時俺は自分も死んだのだと自分に言い聞かせて生きてきたんじゃなかったか?

 ミラーの向こうで紋志が目を丸くしている。その顔が諦めのような色を浮かべた。
「でも、僕にはもう誰もいない。ひとりきりで生きていくのは──」
「俺がいる」
 言いながら、俺は一体何を言っているのだろう、と思った。
「どうせ、あんたを逃がしたとなったら俺もあの奥方に追われることになる。一人でのこのこ屋敷に帰ったらそれこそ俺も殺される。だから俺も逃げることにするさ。あんたと一緒に」


 探し求めていた憎い仇敵が、もう少しで手に入るのに。
 俺は一体何をやっているんだ。
 逃げたところで、嵯院家の情報網をかいくぐってどこまで行けばいいのか見当もつかない。

 

「──宛てはあるんですか」

 ミラーの向こうで紋志が笑った。やさしい、柔らかい微笑み。


 ああ、こういう笑い方をする子なのか。
 

「無いけど、ジャングルの中を毒虫を避けたり木を薙ぎ倒しながら進むよりはなんとかなるさ」
 そう言って、我ながら無茶苦茶な事を言っている、と思ったら笑えてきた。

 妻を失ってから、邨木佑介は初めて声を立てて笑った。

Note

ここでネタバレ(?)してしまうと、「TUS」はユースケともんじの恋の物語だったんですよ。

ところがこの「Re:TUS」を始めた時点でまだ手元にあったもとのTUSを読み直してみたら、ユースケともんじが恋におちる前提で書いているので「えっ、なんでユースケは急にもんじのこと好きになったの?!異性愛者だったじゃん?!」とか「なんでもんじはユースケのことを好きになっちゃったの?!」てことがことごとく書けていなくてウッ…ってなって、そこが煮詰まらないうちにこのあたりの段に入ってしまい。しかもユースケのキャラをだいぶ硬派な感じに変えてしまったからこの亡き妻に愛情がまだいっぱいあって復讐で心がいっぱいになってる男がなんで急にそのへんの若い男に心を持っていかれるのだ!!というのが最大の難関だったんですがまずは「連れて逃げる」とこまでは書けました。

「好きになったから一緒に逃げた」んじゃなくて「一緒に逃げてるうちに好きになる」に切り替えたらだいぶ楽になりました。

​あとはユースケの気持ちがどこから恋愛感情に切り替わるのか、はたまたなんか恋愛感情とかよくわからなそうなもんじが果たしてユースケに恋することが出来るのか、勝負はこれからです(勝負…)。

​本来ならこの後、捕まったり監禁されたり拷問されたり殺されかけたりまた再会したりまた捕まったりいっぱいあるんだけど、どうせ元テキストなくて正確には覚えていないのでもっとスッキリした筋立てに変えようと思います!

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