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ロボット

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 まるで他人事だ。


 不規則な目眩ましが、昔──若い頃に見た科学スペクタクル映画にあった洗脳の装置か何かにかけられているような錯覚を呼び起こした。
 その激しい光の合間に見える顔の多く──否、推測するにほぼ全部が、血走ったような目で私と私の横に並んでいる数人の人間を糾弾している。


 こんな場面は、テレビの報道でよく見る。特に近頃は多い気がする。
 しかし、此方側に座るのは初めてだ。
 なにしろ、私はこの年になるまで失敗はしなかった。
 今だって、自分が失敗したわけではない。
 失敗したのは、私が名前もろくに覚えていないような下っ端の人間だ。
 こんな時に此方側に座ってあまつさえ机に額をすりつけるような真似をしなければならない立場に自分がいるということを、当然私は諒解している。が──
 諒解していることと、納得していることとは少し違う。
 私は、やはり心のどこかでこう思っている。
 何故、私がこんな真似をせねばならないのか──。


 胡乱な意識の中で、下世話な報道陣の一番後ろに立っている人物の貌が何故かはっきりと見えた。
 白髪交じりの頭髪をきちんとなでつけ、腕組みをして向こうの壁にもたれている男。
 私がその姿に気付いたということを知っているかのようにその男は──


 笑った。

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 私は、外科医だが手術をするのは好きではない。
 どちらかといえば論文を書いている方が好きで、だから論文を書いている途中で手術が入るとうんざりしたものだ。


 好きではないが腕には多少自信があった。
 大学病院という古臭い縦社会で、特に研修医時代はひどく便利にこき使われた。私の人生の中で一番活発に活動していたのはあの時期だろう。
 私は、あまり嬉しくない言い方をすれば人にとりいるのが上手かったらしい。
 もちろん、技術や理論も人より勝っているという自信はあったが、同期の者たちよりも少し早くその丁稚奉公時代を終えることができたのはそのおかげだと思っている。


 少しは時間の余裕ができて、好きな論文を書くことができるようになった。
 結婚したのはその頃だが、私は帰宅もまばらだったし帰宅しても書斎にこもって論文を書きつづけていたり、もしくは夜中に呼び出されて手術に走ったりしていた。あまり、家族を省みることはなかった。
 正直言って、今となっては妻だった女の顔を正確に思い出すことすらできない。
 見合い結婚ではなく恋愛結婚だったから、確かに自分は彼女に恋したし愛していた筈なのに。結婚した途端、「恋人」は「家内」になり見つめ合うことすらなくなってしまったのだ。釣った魚に餌をやらぬとはよく言ったもので、私には妻となった女を慈しむことより好きな論文を書いていることの方が大事だった。
 決して、嫌いになったとか憎くなったとかいうわけではない。あって当たり前のものになってしまったのだ。
 子供が生まれた時も、別段感動はなかった。忙しいとはいえとりあえずすることはしていたので子供が出来るのは当然だ。しっかりした女だから、子育ても任せておけば大丈夫だろう、そう思っていた。その頃には、収入もある程度安定していたから経済面で苦労はさせていない。名前だけは、私が自分で考えてつけた。

 それは、二人目の子供が生まれた翌日だった。病院から帰宅途中、子供の名前を考えながら歩いていた時だったと記憶している。


「香坂洋さんですね」
 

 行く手に現れた男は慇懃に礼をして微笑んだ。そして懐から名刺入れを取り出し、丁寧で洗練された動作で私に名刺を差し出した。おそらく私より若いが趣味のいい高そうなスーツを着こなしている。きりっとした眉をした、所謂美男子だと思った。ただ。
 

 どこか、人間味のない──ロボットのようだ、と思った。
 

「わたくし、茅総合病院秘書室の高井と申します。お電話で前もってアポイントを取らせていただくのが筋なのですが不躾に申し訳ありません」
 

「茅総合病院──」
 

 それは、個人病院としてはかなり大きい、最新式の設備や医師の質の高さで評判の高い大病院だ。医師でなくともこのあたりの人間なら知らぬものはない。
「その茅病院の秘書室の方が私にどういった?ああ、立ち話もなんです。拙宅はすぐそこですのでよろしければおいで下さい」

 

 私は、この時既に予感していた。
 彼──高井が何の用で私に声をかけたのか。
 高井を家に招いた時点で、用件を聞かずとも私は彼の依頼に是と答える準備が出来ていたといえよう。

 

「家内がお産で家を空けております。散らかっているしなんのおもてなしもできませんが」
 そう断って高井を家に上げた。
 実際、私は家事に関してはまったくの無能者だったので茶を淹れるだけでかなりの時間を費やしてしまった。
 上の子供は妻の実家に預けてあるので、家はまったくの無人である。
「早速ですが、まず此方をご覧頂けますか」
 高井が黒い鞄から取り出したのは、一通の封書だった。
「わたしどもの院長より香坂先生へ、どうぞお読み下さい」


 そこには、私の予想通りの内容が記されていた。
 

「院長の茅は、あなたの論文を拝見し大変感銘を受けたと申しております。また、非公式ですがお勤めの大学病院に失礼ながらあなたの実績について照会させて頂きましたところ、技術面、また患者に対する態度、全ての面で素晴らしい御方だとの返答を得ました。そこで──」
「私を茅病院に?」
「然様でございます。こう申し上げては誠に僭越ながら、大学病院ではあなたの能力を如何なく発揮することは難しいのではないかと。わたくしどもの病院でなら、設備においても待遇においてももっと上を目指して頂くことが可能です」
 上を目指す──
 それは、魅力的な言葉だ。
 正直、現在勤めている大学病院では頭打ちだと感じていた。
 年寄りどもがいつまでも居座って幅をきかせている。実質私が執刀した手術でも、手は震えてメスも持てず老眼で開いた患部をきちんと視ることもできないような耄碌した教授が執刀したことにされてしまう。幸い私ではないが逆にミスの責任を押し付けられた医師もいる。
 上がなかなか引退しないのだから、出世するにしてもたかが知れているしそれでもあと何年かかるか判らない。


 それに比べて茅病院は個人病院でしかもまだ比較的新進である。
 病院自体は明治の頃から診療所として存在したらしいが、総合病院として大きくなったのは戦後だ。現在の院長がなかなかの切れ者で、医師としてだけでなく経営者としても優秀らしい。おそらく投資としては莫大だったろうが最新の医療器具や入院設備を積極的に導入し、患者を顧客と捉えてサービスを惜しまない。優秀な医師を破格な待遇で揃え、結果あの病院はいい病院だという評判を得ている。
 その院長も、まだ壮年だという。
 腕がよければ医師としていくらでも上を目指すことが出来る環境が整っている。
 以前から私は密かに大学病院を見切って茅病院に乗りかえることを考えていたのである。
 つまり、今回の申し出は私にとって渡りに舟、ということだった。

 しかし、ここで喜んで飛びついては足元を見られるだろう、と私は考えた。
「大変光栄なお申し出です。私のような未熟者にそのような───しかし、ほんの少しだけ考える時間を頂けますか。前向きに検討させて頂きたい。できれば院長先生とも直接お会いしてお話を伺いたいと思います」
 そう、少々勿体つけた。
 高井は予め予測していたように微笑むと、
「承知いたしました。それでは院長にその旨お伝えし、すぐにでもご面談頂けるよう調整いたします」
 と言った。

 

 高井が帰ったあと、私は気分が高揚して珍しく酒を飲んだ。夜中に呼び出される事も多かったし論文を書くのに眠くなっては困るから滅多に酒は飲まないのだが、この日私はたった一人で祝杯をあげた。子供の名前を考える役目はすっかり忘れていた。

 茅院長の第一印象は声が大きい男、だった。
 予想通り、攻撃的で精力的な人物である。
 初対面でいきなり私の手を両手で握り、よく来てくれました、と言った。
「学会で発表された君の論文を見せて頂いてね、これは優秀な人物だと直感したんです。そんな人が隣街の大学病院で黴の生えた慣習に埋没しようとしているのではないかと、そう危惧したわけですよ」
 黴の生えた、と院長は言った。私もそう思っている。
「私はまどろっこしい話は嫌いだ。どうです、うちの病院に来てくれませんか。まずは今の倍の給与を約束しましょう。私は優秀な医師にはきちんとそれに見合う報酬を用意するつもりです」
 院長の声の大きさと発音の明瞭さには、アドレナリンの分泌を促す効果でもあるように思えた。
 その声を聞いているだけで私は遠足を翌日に控えた子供のようにわくわくしている。

 

「──お世話になります」


 私と院長の会談は、たった10分で終わった。

 

 

──何でも一人でお決めになるのね。
 退院して来た妻に、顔を見るなり勤め先を変わることを報告すると、妻は無表情にそう言った。私は新しい病院に移る喜びで頭が一杯になっていたが、妻のその一言でそれは全く違う感情へ大きく振幅した。
「なんだその言い方は」
「だってそうじゃありませんか。これはあなたの子なんですよ。そんな話より先に一度くらい腕に抱いてやって下さってもいいでしょう」
 妻は生まれてまだ数日の猿のような赤子を抱いていた。
「この子はまだ名前もありません。あなたが子供の名は自分で決めるとおっしゃったから、わたしは早くこの子の名を呼びたいのに我慢しているんです。なのにあなたはこの子の名前ではなくて自分の立身出世のことばかり考えてらしたのでしょう」
 そこで私はこの赤子の名前をまだ決めていないことにようやく気付いた。
 しまった、悪かったと思わなかったではない。
 けれど、私は謝らなかった。


「これはおまえたちの為でもあるんだぞ。給料もいきなり倍だ。今よりもっといい暮らしが出来る。それに医師として今よりもっとやりがいのある場所に行ける話だ。小さなことでつべこべ言わず夫のやることに黙って従うのが妻の勤めだろう!誰のおかげでこの家に住んでなに不自由なく生活できていると思っているんだ!」
 

 院長との会談で分泌されたアドレナリンはまだ私の中を駆け巡っているかのようだった。おそらく、結婚してからこれまで妻に対してこれほど強い調子でものを言ったのは初めてだ。
 妻は鼻と目を真っ赤にして、しかし涙はこぼさなかった。
「……今までだって好きなようにされてたんですもの、お好きになさればいいわ。でもこの子の名前だけはすぐにつけて下さい。明日にでも届けにまいりますから」
 震える小さな声でようやくそれだけ言うと妻は赤子を抱いたまま私に背を向けた。


 私は瞬間的に爆発した怒りで、その場にあった花瓶を床に叩きつけて壊した。しかし、妻は一瞬びくりと肩を震わせただけで振り向きはしなかった。
 

 子供には優秀の優と書いて「すぐる」と名づけた。
 しかし、それ以来私と妻の間には深い溝ができてしまった。

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 自分の決断が正しかったということは、すぐに実感することが出来た。
 何もかもが大学病院とは違う。難しい手術をこなせば、それはすぐに自分の評価に反映される。以前のように昼夜なくこき使われるでもなく、研究に没頭することも容易くなった。
 なにより、院長は魅力的な人物だった。
 おそらくこの病院で勤める多くの医師は彼の人間的魅力に惹かれている。待遇や環境だけでなく、ここで働きたい、あの院長の元で働きたいと思っている人間は少なくないと思った。

「香坂先生、お久しぶりです」
 病院内で高井とすれ違った。確かに久し振りだ。
 内部に入ってわかったことだが、高井は所謂ヒラ社員で秘書室での地位は高くないらしい。しかし、院長に目をかけられているとかでおそらく数年後、遠くない未来に室長に抜擢されるだろうことは目に見えていた。院長はなにしろ優秀な人材が好きなのだ。


「いかがですか、茅病院に来られて」
「いや、素晴らしい。そう考えれば君はまるで幸福の使者のようだよ」
 自分より年若い高井に世辞を言っておく。将来、院長に直結する人物だ。仲良くしておくに越した事はない。
 高井は少し照れたように笑った。

 それが、酷く不自然に見えた。
 私が高井に抱いていた印象はもっと冷たいものだったのだ。そう、ロボットのような──笑っていてさえ、それが機械仕掛けのように見えていた。
 こんな他愛の無い世辞で照れるような人物だとはとても思えない。

 なのに、高井はどう見ても照れくさそうに笑っている。
「そう言っていただけるとわたしも働き甲斐があります」


 こうして見ると、若者らしい初々しさがある。まだ彼は20代後半に差し掛かった程度の年の筈だ。私の処に来た時は、勅使のように緊張していたのかもしれない。それがあの血の通わないようなそぶりに見えたのだろう。
 なんだか高井が可愛い弟分のような気分になって私は彼の肩を叩いた。
「本当に君には感謝している。院長と引きあわせてくれたのも私にとっては君だ。これからもよろしく頼むよ」
 高井は元気よくはい、と答えた。頬が紅潮しているように見えた。

 私は自宅へ戻るのがいよいよ億劫になっていた。
 妻は私に対して最低限の世話──洗濯や、温め直すだけの食事の仕度──はしてくれていたが一切私とは口を聞かない。息子達とも顔を合わせることがなかった。

 顔を合わせなければその方が楽でいい。
 どんどん私は家庭に無関心になっていった。
 破滅する日がおそらく近いことを感じながら、私はそれを避けて通っていたのだ。

 

 それは突然やってきた。
 帰宅すると、誰もいなかった。
 妻も、息子達も。
 出て行ってしまったのだ。
 私は、あまり動転しなかった。心のどこかで予測していたからだ。
 翌日、郵送で離婚届が届いた。

 しかし、その途端なにかが心に引っかかった。
 今まで全く省みなかった家庭。妻。息子達。
 私の血をわけた息子達を手放すことが突然惜しくなった。
 私は、妻の行方を捜した。息子達だけでも返してもらいたい──それがどれほど身勝手な言い分かなどわかっている。裁判をしたところで勝てっこない。それでも興信所を使って探した。


 程なく、妻の居場所はわかった。
 妻は、新しい男のもとにいた。私が家庭を顧みないうちに妻は外で男を作っていたのだ。
 息子達を返せと言うと、あなた一人で子育てが出来るのと嘲笑された。

 上の子の秀行はまだ6歳になったばかり、優にいたってはまだ2歳にもなっていない。常識で考えれば無理に決まっている。しかし、妻は簡単に息子達を返してきた。どうやら新しい男が息子達を快く思っていなかったらしい。未練が無いわけではないだろうが、思ったよりすぐに妻は息子達を手放したのだった。


 私は息子達を年老いた母に預け、がらんとした家に一人きりになってしまった。

 いままで帰宅しても妻と顔を合わせるでもなかったのに誰一人いないとなるとやはり寂しかったとみえる。私は病院の同僚や若い医師や時には看護婦たちを招待して馬鹿騒ぎをするようになった。それが、病院内の人間関係を構築するのに役に立ったのだから皮肉なものだ。

 


 その日は秘書室の連中が数人来ていた。無論、高井も同席している。
 流石に室長はいなかったが、秘書嬢たちが数人寄ればなかなか華やかなものだ。
 少し、調子に乗って酔ってしまった。


──大丈夫です。
──あとは僕が。
──お気をつけて、お疲れ様でした。


 遠くでそんな声が聞こえた。
 足音が近づいてくる。
 水道の音。足音は更に近づいた。
 ひやり。
 私の重い瞼の上に何か濡れたものが置かれた。
「大丈夫ですか、香坂先生」
 私は言葉にならない呻き声を発して応えた。あれは高井の声だ。
「皆さんには帰って頂きましたよ。明日も通常勤務ですから」
 私はやはり意味のない呻き声で返事をする。気分が悪いほどではないが、眠い。
「立てますか、寝室は上ですね?いくらなんでも僕ではあなたを担げない」
 笑っている。
 よろよろと高井に支えられて立ちあがり、階段を何度も踏み外しそうになりながら昇る。
 私は自分が何か言葉を発していることは気付いていたが、何を言っているのか把握していなかった。時折高井がはいはい、そうですか、大変でしたねと返事をしている。


 寝室に到着した。妻が出て行って以来、ろくに掃除もしていないので散らかり放題だ。
 ただ妻のベッドだけがきちんとベッドメイクされたままの状態で保存されている。
 それを見た途端、今まで外れかけていた感情の箍が外れた。
 私は多分、妻を罵倒していたのだろう。何を言ったのかはっきりとは覚えていない。
 高井は相変わらずはいはい、そうですかと言いながらてきぱきと私のベッドの掛布団をめくり私をそこに寝かせて私の外れかけのネクタイを外しワイシャツを脱がせた。次にベルトを外し、ズボンを脱がせる。手際よくそれをハンガーに掛けているのが妙に目についた。
「……君は酔っ払いの介抱までするのか」
「慣れてますから」
 苦笑しながら高井が答えた。
 私はまだ頭がぐるんぐるんと回っている。
 再びベッドの脇に来ると高井は掛布団を私にそおっと羽織らせた。そして、妙に優しい手で私の額にかかった髪を撫で付け──


「寂しいんですね」


 と言った。
 ひょっとしたら私は泣いていたのかもしれない。
 そんなことはない──
 私はそう言った。
 この期に及んでまだ私は見栄を張っている。
 随分と私は酔っているのだ。


 唇に暖かいものが触れたのを感じた。


 私はあろうことかそれに呼応して口を開いた。そのまま侵入してくるものを受け入れる。
 ややあって離れるとおやすみなさい──と高井の声が聞こえた。
 私は動けない。まだ頭が回っている。
 電気が消され、ドアを閉じる音がして部屋は闇に閉ざされた。その向こうから階段を降りる音。


 私は布団に包まったまま、額に汗をかいていた。少し息も荒くなっている。
 たまらずに私は手を自分の下腹部に伸ばした。

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 その夜のことは、私と高井の間で話題にのぼることは無かった。


 高井の態度はそれまでとなんら変わる事は無かったし、私も極力何もなかったふりをした。
 極力──
 そう、それ以来私は高井を意識するようになっていた。
 私は男色の趣味はない。少なくともこれまでは男に興味を持ったりなどしたことはなかった。それなのに、高井の姿を見かけるとつい目で追うようになってしまった。


──どうかしている。


 私はきっと欲求不満なのだ。別れた妻とはとっくに交渉はなくなっていたし、何故か風俗店などに行って発散する気にもならなかった。離婚したのだから他の女をひっかけても何ら問題はないのにそれもどこか面倒だった。心はそんなだったが体の方はやはり溜まっているのだ。だからあんな他愛もない接吻くらいでこんな状態になってしまうのだ。高校生でもあるまいに──


 高井はそういう"人種"なのだろう。
 どう考えてもあの時高井はたいして酔ってはいなかった。仮に酔っていたとしてもそうそうこんな30もとうに越えた男に介抱がてら接吻などするものか。
 では高井はあの時もし一線を越えるとしたならどうするつもりだったのだろう。私を抱くつもりかそれとも逆か?
 暇さえあればそんなことを考えてしまっている。
 頭を大きく振った。


 忘れよう。高井もあのことには触れないじゃないか。きっと本人もしまった、と思っているに違いない。
 

 

 そう自分に言い聞かせながら数ヶ月が過ぎた。

 高級フレンチレストランなどあまり慣れない場所だが、私がその席に就いたのは招待主が院長だったからだ。
 蒸し暑い夏の宵のことである。
 何故招待されたかをいぶかしみながら席に就くと、院長は若く美しい娘を伴ってやってきた。
「香坂君、娘の雛子だ」
 機嫌よくいつものような大きな声で院長は娘を紹介した。
 院長の細君は数年前に亡くなったと聞いている。きっと大事に育てられた箱入り娘なのだろう。仕草がいかにも上品だ。
 何の為にこの席が設けられたのか、私は不覚にも全く察することが出来なかった。
 ただ、世間話だけをしてその食事会は終わった。
 レストランを出ると既に車が待っており、そこに高井が立っている。院長親娘がその車に乗りこみ、高井が外からドアを閉めた。
「じゃあ香坂君、これからもよろしく頼むよ」
 なにをよろしく頼むのかよくわからないが院長は上機嫌でそう言い残し、去った。
 首を傾げながらそれを見送っていると高井の声がした。
「香坂先生、タクシーを拾います。送りますよ」
 手馴れた動作ですぐにタクシーを見つけた高井は私をそれに乗せ、自分は乗りこもうとはしない。ここで私を見送るまでが今日の彼の仕事なのだろう。
「いや、高井君。聞きたいことがある。君も乗ってくれないか」
 少し困った顔をして、しかし高井ははい──と私の隣に座った。


 本当に聞きたいことというのは、実は先日の一件のことだったのだが殆ど素面の今その話題を出す度胸は私にはない。
「今日は一体なんの催しだったんだ」
 高井の返事はなかった。
「君──」


「香坂先生は、雛子お嬢さんをどう思われました?」
 

 こんどは私が虚をつかれたように一瞬黙ってしまう。
「どうって……まあ、綺麗な娘さんだね。まだ若いだろ」
「ええ、雛子お嬢さんは大学生です」
 なるほど、はたちぐらいってとこか。そうだろな──と呟く。
「香坂先生は、ご再婚の意思がおありですか」
「は?」
 話題が飛びすぎだ。今はお嬢さんの話ではなかったか。


「院長は──香坂先生を雛子さんの婿にと考えられています」
 

 私は思わず笑ってしまった。
「おいおい、からかうのもいいかげんにしてくれ。私は30もとっくに過ぎた子連れのやもめ男だぞ。しかも女房に逃げられたような、だ。いくらなんでもそれはあのお嬢さんに失礼だ」
「あなたを後継ぎにと考えていらっしゃるのです、院長は」
「後継ぎ──」
 いっぺんに笑いが吹っ飛んでしまった。高井の表情を見る限り、冗談ではない。否、高井というのはそういう冗談は決して言わない男だ。
 それでは今日の食事会は。
「見合いのようなものということか?」
「そうです」
「だが私がいいといったところで、あんな若い娘が私のような男に嫁ぐことをうんというわけがない」
「雛子さんには否とは言わせない──と院長は」
「そんな──」
 時代錯誤な。


「着きましたよ」
 いつのまにか、私の家の前に到着していた。
「ではわたしはここで」
 礼をして高井は再びタクシーに乗りこもうとした。
「待て。まだ話は終わってない」
「後日──明日にでも院長から直接お話があるはずです。わたしでなく院長からお尋ね下さい」
「待てと言ってるんだ」
 高井は少しだけ考えたようだ。そしてここまでのタクシー料金を支払い、乗りこむことはしなかった。


 高井を伴い家に入る。
 飲み物を用意し──酒はやめにしてコーヒーを淹れた──向き合って座った。
 最初に高井をここへ通した時に比べれば、コーヒーを淹れるくらいもう慣れてしまっている。さほどの時間は要しなかった。
「……院長はあなたを高く評価しています。あなたは向上心はあるが野心家ではない。院長には男子がいません。雛子さん一人です。あなたを雛子さんの婿として茅家に迎えれば、あなたを後継ぎにすると宣言しても異議を唱えられることは少ない。つまり院内の軋轢は少しでも回避できるということです」
「野心家ではない」
 反復するように私は呟いた。院長は私の何処を見てそう判断したのだろう。
 自分が思っている以上の高い評価を得ているということは素直に嬉しい。しかし反面、私はどこかで落胆していた。


 院長はやり手だ。だが、そこまで手段を選ばない人物だとは思っていなかった。
 高井はその私の落胆を見てとったのだろう。
「院長には院長の考えがあるのです。茅病院を任せられる人物は誰なのか───随分長い間悩んでおられました。雛子さんのことにしたって、昨日今日思いついたことではありません」


「君は随分院長のことをよく知っているんだな」
 

 なにげない言葉だった。
 高井は、それに妙な反応をした。
 言葉を飲みこみ、体を硬くして何度も瞬きをしている。
 とある考えが頭をよぎった。


「高井君、君──院長と」
 

「──ち」
 違います、と言おうとしたのだろう。しかしそれは言葉にならなかった。
 急に、凶暴な気分になった。なにが私をそうさせたのかはわからない。
 私は立ちあがり、高井の横に座る。高井は逃げ腰になっている。その腕をソファの背もたれに押し付けて固定した。
「君、前にここで私が酔っ払った時──私にキスしただろう。わかってるんだ、君が男が好きなんだってことは」
 高井は逃げようとしている。だがどこか本気ではない。そんな腕は振り解こうと思えば振りほどけるはずだ。首筋が真っ赤に紅潮していた。
「なんで私だった。男なら誰でもいいのか」
 急に抵抗がなくなった。
 高井は黙って首を横に振った。顔は真っ赤だし目は多少潤んでいる。最初に見たときロボットのようだと思った青年は、誰よりも人間らしい姿に見えた。


 私は──
 その唇を覆った。
 それは待っていたように私を出迎える。吸いつき絡み付きながら奥へ奥へ。高井の息が荒くなっているのがわかる。いや、それは私の息も混じっている。


 過去に数は少ないが妻以外の女と寝たことはある。しかし妻はおろかどんな女とした時にも接吻だけでこれほど興奮することはなかった。
 高井の左手は私の首や顔の周辺を余裕なく這い回り、右手はいつしか私のズボンのベルトを緩めその下へ忍び込もうとしている。


──触れた。


 その動作はまるで私にその模倣を要求しているように思えた。

 手についたねっとりした液体をぼんやりと眺めていると高井が濡らしたタオルを持ってきた。
「手を洗って下さい。申し訳ありませんでした」
 何故彼は謝っているのだろう。
 結局、互いを慰めるだけでそれ以上のことはしなかった。
「……君が院長に目をかけられているっていうのはこういうことなのか」
 いや、高井が優秀な人材だということはわかっている。だからそんなことは週刊誌のゴミのような記事と同じ、下劣な言葉だと自分で思った。
「そう……ではないと思いたいです。ただ」
 高井は泣きそうな顔で笑っていた。
「僕は院長の命令は全て実行する、それだけです」

──ロボット。

 高井は院長のロボットなのだ。その命令の中にはこういったことも含まれていたのかもしれない。
「じゃあ、何故君は──」
 私と。
 こんな風に。
 高井は答えなかった。
 少なくとも、さっきの高井はロボットではなく血の通った人間だった。


「僕は帰ります。雛子さんとのこと、前向きに考えて下さいね」
 そう言って、高井は慌しく帰って行った。
 その背中を見送り、玄関のドアが閉まる音がしても私は暫く施錠することもせず脱力したままソファにもたれかかっていた。


 茅院長に対して抱いていた、魅力的な人物という印象が急速に薄れてゆくのをただ感じた。 

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 私が雛子と結婚したのは年が明けてまだ雪のちらつく季節だった。
 当初、式は春にという話だったのを少し繰り上げたのだ。


 雛子は妊娠していた。
 

 春まで待っては腹が目立ちすぎて何を言われるかわからないからである。
 私が結婚を承諾して雛子と会うようになったのは秋のことである。雛子は確かに若くて美しい娘だったが、特に婚前交渉を要求することはなかった。
 雛子は誰か他の男の子供を身篭っていたということだ。
 私はその事実を特にどうということなく受け止めた。
 箱入りお嬢さんだと思っていたが、大学でちゃっかり恋人を作りすることだけはしていたのだ。
 嫁入り前の娘がふしだらな──と彼女の父親は娘を叱りつけていたが、私は意に介さなかった。私にはすでに2人の息子がいる。花嫁が処女であろうがなかろうがたいして興味はない。


 後で聞いた話だが、雛子の恋人という貧乏学生には金をやって別れさせたのだということだった。

 雛子の産んだ子供は男の子だった。
 私の子供たちには私が名前をつけたが、それは私の子供ではない。雛子がつけたのは
「茜」
 という名だった。
 女の子のような名前だ──と思ったが、どうやらそれは別れた恋人の名前だったらしい。自分の意思を無視して恋人と別れさせられ他の男と結婚させられた、そのせめてもの反抗の証だったのだろう。


 茜を出産し、体調が落ちついたころ漸く私は私の新しい妻を初めて抱いた。
 人形を抱いたようだった。
 雛子は拒否こそしなかったが、私に決して心を開かなかったし私の行為をまるで拷問に耐える罪人のように受けとめていた。
 いくら若くて美しかろうがそんな女を抱いても面白くも何ともない。


 今思えば、その時嘘でもいいからもう少し雛子を大事に、優しくしてやればよかったのだ。
 気付いた時には、流石に一人娘を不憫に思ったのか院長の子供達に対する態度に違いが見られるようになっていた。
 院長にとっては茜が唯一血の繋がった孫だ。
「茜、早く大きくなれよ。立派な医者になっておじいちゃんの跡を継いでくれ」
 まだ言葉も発しない赤ん坊を抱き上げてはあの大きな声で話しかけているのを何度も見た。
 私に対する牽制ともとれる。
 すでに、院長に対する失望は絶望へ変わりつつあった。
 私は──
 自分の息子達が不憫に思えてきた。
 父親不在の家。母に捨てられ祖母に預けられ、そしてここには自分たちを見向きもしない新しい母親と祖父しかいない。
 息子達を守れるのは父親の私しかいないのだ。

「私は野心家ではないと──」
 煙草の煙を吐き出しながら私は思い出したように言った。
「院長はそう思っているといつか言ったな。何故だ」
 高井は背中を向けている。眠っているのかもしれない。


 結局、時折こうして高井と関係を結ぶようになっていた。
 

 私は返事がないので煙草を消し、自分も布団に潜り込んだ。
「僕がそう言ったからですよ」
 小さな声が聞こえた。布団の中で動く気配がする。高井が向きを変え、私の胸の上にのしかかってきた。
「僕が、香坂先生は向上心は人一倍だけれど野心はありませんと進言したんです」
「──?」
「香坂先生」
 唇を重ねてくる。味わいながら私の手を自分の後ろへ導いた。再度の行為を要求している。
 私は婿養子で入ったから既に姓は香坂ではなく茅に変わっていたが、高井は2人の時には相変わらず香坂先生、と私を呼んだ。
 乞われるまま指を高井の中に潜らせ、蠢かす。高井は苦しげな悦びを顔に浮かべて何度か小さく声を漏らした。人形のような雛子とは違い、体温も汗も吐息も何もかも血が通っている。


 恋愛ではないと思った。
 そういう感情では多分ない。単なる欲情に過ぎない。
 しかし、正直なところ私は高井に溺れていたといっても過言ではないだろう。

 

「……私が院長になったら」
 激しく突き上げながら私は戯言を言う。
「君は私のロボットになるのかな」
 高井はただ、笑っていた。

 野心がもともと無いわけではないのだ。
 ただ、自分が院長になるなどという実現不可能な夢を見るのは愚かだと思っていた。実力には自信があったから、自分より劣る人間の下で使われるのが嫌だから少しでも出世したいという程度の野心である。権威だけは天下一品の大学病院の教授の座を目指すより、民間の病院で高い地位に登る方が早そうだし儲かりそうだったからこちらの道を選んだだけだ。しかし、その院長になるという馬鹿げた夢は射程圏内に入った。否、手に入ったも同然だ。
 こうなると人間欲深いものだ。権力を手に入れたなら維持したい、そう考えるのが自然というものだろう。


 もっと手に入れたい。
 この病院の未来も、あのどこの馬の骨の子供かもわからない茜にではなく私の息子たちに。 
 そして今私の下で悩ましげに身を揺らすこの男も──
 自分だけのものにしたい。


 野心というのはそうして育ってゆくものなのだ。

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「院長先生、血圧はいかがですか」
 次男の優がからかうように言った。


 あの、私が名前を付け忘れて妻と言い争いになった息子は、もうあの頃の私くらいの年になっている。
 

 今は理事長になったかつての院長は、いまだ健在なのだろう。もう数年姿を見ていないが死んだとも倒れて入院したとも聞かない。そして、まだ孫の茜を私の代わりに院長に据えることを諦めてはいない。もっとも、茜自身にはその気はないようだ。
 雛子が急な病に倒れて亡くなり、私が院長に就任した頃私の野心は最高潮に達していたと言ってもいいだろう。茜の存在が邪魔で仕方なくなった。その頃には長男の秀行も私に同調するようになっていた。
 事故に見せかけて茜を亡き者にしようと何度も画策した。
 今思えば──何故あそこまでする必要があったのだろうか。
 殺人など、割があわないことこの上ない。

──理事長が、茜が事故にでも遭って死んでしまったらどうすればいいのだろうと妙に弱気になっているんですよ。

 

 そうか。
 それで、私は思いついたのだ。
 茜が事故にでも遭えば、そして死んでしまえば、理事長は気力も衰えておとなしくなるだろうと。

 高井は結局私が院長になっても私のロボットにはならなかった。
 その頃には互いに年もとっていたし、以前のように溺れるというほどの関係ではなくなっていたが、高井はそのまま理事長の秘書に収まってしまいそれを私は酷く悔しく思ったものだ。
 ただ、殆ど絶えてしまった私と理事長との唯一のパイプ役──否、理事長の情報を齎すスパイのような役目であることに変わりはなかった。

 ふと、何かがひっかかる。
 

 どうせ邪魔者を排除するなら直接理事長を狙えば話は早いのに、わざわざ茜を狙うなどとそんな回りくどい策をとったのは何故だ?
 私が理事長と対峙する時、いつも予断を与えていたのは──高井ではなかったか。
 逆に、理事長が私を見る時、いつも高井というフィルターを通して見ていたのではないのか。
 そこに、あの高井というロボットの意図が含まれていたとしたら──

 扉の向こうが騒がしくなった。
 秀行が血相を変えて飛びこんできた。

 

──初歩的な投薬のミスで、患者が死亡した。

──更に、内部告発で治療における杜撰な処置が発覚。

 きちんと事故や告発の内容を把握するより先に、リスク対策委員会が用意した記者会見の場で用意された原稿を読み上げるのが精一杯で、自分がどこにいるのかも認識できなくなっている。


 ああ、血圧が上がる──
 血圧が上がるのはわかっていたのだから会見が始まる前に薬を飲んだはずなのに──
 視界が朦朧としてきた。
 このフラッシュというやつが否応無く現実感を殺ぐ。
 空気も悪い。
 報道陣の奥に、高井が立っている。
 何故笑っているのだ。
 携帯電話を取り出し、何か話している。理事長に報告でもしているのか。


 おまえは──
 私を──

 視界が、フラッシュの光でかき消されたまま真っ白になった。

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「院長がもともと高血圧で服薬していることはわかっていましたから、誰も疑いませんよ。しかもあの状況です。脳溢血くらい起こしてもまあ、不自然に思う者はいないでしょうね。見事です」

『では、お約束の残金のお支払いをお願いしますよ』
 携帯の向こうの声がほくそえんでいる。
 一旦切り、高井は再度携帯を耳に当てた。

 

「高井です。院長が記者会見終了直後に倒れられました。え、テレビで見ていた?そうですか。少しここに残って経過を見ます。また報告します」

 

──あなたは結局、私を使いこなす器ではなかった。
──それでも、権力の座に10年以上も座っていられたのだから本望でしょう?
──残念ですよ。
──さようなら、香坂先生。

 ロボットのように──
 機械的に、高井は携帯電話を自分の懐におさめ、会見場を後にした。


 

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*Note*

オリジナルJUNE(死語?)っぽいの久々だな?!って感じ(いや「夕立」もちらっとBLでしたが)。

また昔話ですがこの章は茜ちゃんの章ではあるんだけど、過去の因縁が現在(物語上の)にどう影響してこうなったかみたいなのをゆっくり書くのが楽しかったみたいです。そろそろ現代でちゃんと話が動きます。

​あと、院長(理事長)秘書サイドからの話は「昔日」章の「女郎」という話です。両面読んでいただくと趣あると思います。

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