Sin.co -Re:The Ultimate Sin- main tales
手 首
手首から先の色が変わっている。
指の古い傷跡が白く浮かび上がっている。
その手首には指の痕が残っていた。
──へし折るつもりかよ………
小さくひとりごちて指を一本ずつ握りこむ。
それが生きて機能していることを確認すると鴉はそれがぶるぶると震えていることに漸く気付いた。
「へえ、オレこんなとこで飯なんか食ったことないなあ」
「……とりあえず黙ってろ」
鴉が店の雰囲気にそぐわない、と言わんばかりに男はそう釘を刺すと仲居の案内に従って奥の座敷へと進んだ。こっそりと舌を出し、鴉もその後をついていく。
この男が何故わざわざ自分をこんな高級な店へ連れて来たのか、鴉は大体見当がついている。おそらく次の仕事になにか関わりがあるのだろう。
しかし、料理が運ばれ始めても男はただ黙々とそれを口にはこび、また鴉にもそれを促すだけで何も話そうとしない。普段は特に無口というわけではない、むしろ雄弁──忌憚無く言えばお喋りでうるさい男だから意識して黙っているのだろう。通常なら女将や主人が挨拶に来るところを人払いして、料理を運ぶ仲居のみしか部屋へ入れない周到さだ。
空気が重い。
普通の者ならこんな状況でどんな豪華な食事をしたところで喉を通った気がしないだろう。もっとも鴉はそのように繊細な感性を持ち合わせてはいないのか、黙ったまま存分に料理を楽しんでいた。
やがて最後まで料理が終わると、男は仲居に初めて声を掛けた。
「すまないが、板長を呼んでもらえるかな」
ほどなくやってきたその板長というのは、まだ若く──自分と同年代かな、と鴉は思った──精悍な顔つきをした清潔そうな男だった。この店の経営者、所謂"親方"はこの男の父親だが、現在は若くして板長であるこの男がゆくゆくはその跡を継ぐことになる。
知った顔に似ていた。
知った、とはいっても鴉の直接の知り合いではないが、鴉にとってはよく知った顔のうちの一つだ。この店へ来た時点で予測はついていたがそれにしても一目でわかる。失笑が漏れるのを抑えるので鴉は忙しい。
「ご無沙汰しております、澤様」
丁重に頭を下げた『板長』と男──澤はその日出た料理について二、三言葉を交わしたがそれきりで、たいした会話もなく『板長』は下がっていった。
結局鴉はその店の中では一言も声を出さずじまいで店を出た。
「──さっきの男、どう思う」
ようやく澤が鴉に向き直って口を開いたのは車を出してからのことだ。
「さっきのって、あの若旦那さん?いい男だね」
にやにや言うと、澤は呆れ顔で溜息をついた。
「いい男だけど、なんだか嫌な目だったな。真面目そうなんだけど本当はけっこう野心家だったりして」
「ふうん、顔だけ見てるわけじゃねえんだな」
澤は苦笑すると煙草に火をつけて暫く考え事をするように黙り込んだ。鴉が少し身を乗り出してその顔を覗き込む。
「真面目で信念のある人間の方が怖い。宗教戦争みたいなもんだ。信じるもの、守るべきものの為ならどんな汚いことをやっても正当化されてしまうのさ。罪の意識のないやつの方が何をやるかわからんからな」
「……なに?今度の標的はあの人なの?ただの料理人ってわけじゃないみたいだね」
面白げに笑いながら言う鴉の顔をちらりと見やると澤は視線を前方に戻し、そうだ、と笑った。
基本的には鴉は標的が何故標的になっているのかということは訊かないことにしている。
澤は平たく言えば仲介人だ。殆どの場合澤に限らずそういったエージェントを介する仕事であり、クライアントと直接接触することの方がが稀である。椎多を憎むあまり仕事として請けたのはそのごく稀な例外で、どうせ殺す相手になにがしかの感情を動かしたりするのは疲れるしやりにくいことこの上ない。
だから、今回の標的に指定された相手に興味を持ったのは鴉にすればかなり珍しいことだった。
前金を受け取る日を少し先延ばししたのも多少の躊躇があったからだろう。
それは椎多が英二と”谷重バー”の扉を開いた──鴉が数年ぶりに谷重バーを訪ねたその何週間か前のことである。
白昼の雨の中で3人ばかり片付ける仕事を終えて待ち合わせ場所へ行くと、待ち合わせの相手は既に煙草の吸殻を何本も落として待っていた。
「──遅い!」
「雨だからタイミングが難しくてね。あーあ、こんなに吸っちゃって。何時間待ってたのよ」
やはり黒い、レインコート代わりの上着を脱いでばさばさと払うと鴉はそれを一人がけのソファの背もたれに被せるように掛けて笑った。最初に椎多が鴉に連れて行かれたのとよく似たつくりの古い事務所は、たまに人が出入りしているにもかかわらずそこここに蜘蛛の巣が張っていたり埃が積もっていたりする。
「誰がおまえなんかを何時間も待つんだよ。あと3分遅かったら帰ってたぞ。俺は忙しいんだ」
「──金は?」
不愉快そうに眉を寄せると手元においた大きな封筒をそのまま鴉の方へ投げよこす。鴉はその中身を確認すると満足げに笑い、鞄へしまいこんだ。
「あと現物支給もいただけるんだよね、椎多さん?」
「それやめろよ。おまえにさんづけされるとすげえ気持ち悪い」
鴉は愉快そうに爆笑すると事務机に腰掛けている椎多の側へ足を進めた。両手で頬を包み親指でそれを撫でるようにして上を向かせ、唇を重ねる。ゆっくりと、じらすように舌で唇をなぞってからその奥へ静かに差し入れると椎多のそれが絡み付いてくる。頬においた手をずらして指で耳の穴をそっとくすぐると椎多はびくりと肩をすくめて鴉の顔を押しのけた。既に乱れ始めている息の下で苦笑している。
「……さっさと済ませろよ」
鴉はどこか勝ち誇ったように笑うと椎多を机の上に押し付ける格好でシャツを引きずり出しその下へ手を這わせてゆく。身体は次第に熱を帯びていっているのに一声もあげまいと唇を噛み締めている椎多の顔を見ていると少し笑えてきた。
「そういう顔をされると意地悪したくなっちゃうね」
そう言うと鴉は楽しげに椎多の首からネクタイを解いた。
「椎多って接待やらなんやでいろいろ高級な料亭とか行ったことあるだろ?」
煙草をくわえたままネクタイを首にかけて締めるでもなく手で弄びながら、椎多は顔だけを鴉に向ける。
「『しぶや』は使ったことある?」
椎多は眉を寄せると鴉から視線を外し、煙を吐きだした。皮肉っぽい笑みが口元に浮かぶ。
「あるよ。あそこは政治家が悪企みするときの御用達だ。片棒担いだことのあるやつなら誰でも使ってる」
老舗料亭『しぶや』。
それが、英二の実家であるということには椎多は触れない。
「じゃあ、若旦那にも会った事あるんだ?」
「板長なんだから当然だろ。もうよっぽどじゃなきゃ親方なんか呼ばない」
若旦那というのは『しぶや』の跡継ぎで英二の兄に当たる人物だ。個人的に会話したことはないが何度か顔を合わせたことがある。
と、いらついた仕草で煙草を消すと、椎多は首にかけたネクタイを結び始めた。こんなところで──鴉と寝たあとで、英二のことを思い出したりしたくない。
しかし鴉はそれを承知の上で、むしろわざと話題を切ろうとはしなかった。
「そんな政治の裏舞台になってる店の若旦那なら、さぞかし面白いネタをいっぱい持ってるんだろうねえ。誰と誰が連れ立って店に来ましたって口を滑らすだけで大騒ぎになったり。……椎多もやばいネタ握られてんじゃないの?」
椎多はネクタイを結び終わると立ち上がり簡単に服を払っている。もう相手をするのをやめたらしい。
鴉の言う通り、あの料亭の人間が口を滑らせれば場合によっては椎多にも火の粉がかかる可能性はある。しかし、それをしないからその舞台として長年使われてきた店なのだ。新入りの仲居に至るまで、客についてどんな些細なことでも話す者はいない。それがあの店の価値でもあり、あの店が長年生き延びてきた自身を守る手段でもあった。
「君の大好きな英二君とは違ってあのお兄さんは相当したたかだと見たね」
「そうでなきゃあの店の跡継ぎなんて務まらない。あいつには無理だ」
真面目で不器用で、自分の感情に正直な──
あの英二には、どう考えても無理だ。
「でも俺はいつかそんなあいつを変えてしまうのかもしれない」
ぽつりと呟いた椎多の言葉は、窓を叩く雨音に紛れて消えそうになりながら鴉の耳に届いた。
奇妙な沈黙が流れる。
「──なんでそんなこと訊くんだ。また何か企んでるのか」
椎多が再び鴉に向き直り、じろりと睨んだ。鴉はただ肩をすくめて笑う。まだその仕事を請けたわけでもないし、それでなくても他の仕事のことについて他言するつもりはない。
「で、椎多ってなんでそんなつまんない男が好きなの?君みたいな人には退屈で窮屈で辛いだけじゃないの、ああいうお天道様の下で堂々としてられるような男は」
「誤魔化すなよ」
「紫さんとは全然違うじゃん。どこがいいのさ」
「うるさい」
椎多は側の机の上に転がしてあったメモボードらしきものを掴んで鴉に投げつける。よりによって鴉に紫のことであれこれ言われたくない。
「俺は紫の代わりが欲しかった訳じゃない。おまえだってそうなんだろう?」
鴉は初めて笑いをひそめて言葉につまった。
「誰も紫の代わりなんてできやしない」
顔から笑みが消えた鴉のかわりに椎多の顔に笑いが浮かぶ。
そう、だから鴉はいつまでも紫のことが忘れられなかったのだ。椎多のように、紫と全く違う種類の人間を愛することができたならまた違っていたのかもしれない。
「なんだか今すごくむかついた」
図星をさされたからだ、とは言わない。鴉は椎多の腕に手を伸ばすと引き寄せて腰に手を回し、せっかく整えたシャツをまたまくりあげた。
「おい、もう今回の分は終わりだろ」
「オレを怒らせた椎多が悪い。当分英二君の前で服脱げないくらい派手にやってやる」
「ふざけんな」
言葉とは裏腹に、椎多は両手で鴉の頬を包むとゆっくりと自分から引き離した。思わず顔を凝視めると、椎多は不気味なほどにっこりと微笑んでいる。そして優しい動作でそっと鴉の唇を塞いだ。
「……どういう心境の変化なの?」
疑わしげに薄く笑いを浮かべる。椎多の方からキスしてくることなど今まで一度もなかったのだ。しかし笑うだけで問いには答えず、椎多は鴉の口元から耳元へと這うように唇を移動させ、耳に軽く歯を立てる。
つい声が出そうになるのを笑いながらなんとか堪えるとその耳元で椎多が自分の名を呼ぶ声が聞こえた。
首を微かに動かしてその顔を見る。
それに気付くと椎多はまたにっこりと笑い、口を開いた。
「渋谷修一は殺すなよ」
「は?」
我ながら間抜けな返事をしてしまった、と鴉は思う。
「今あの若旦那を殺される方がいろいろ面倒なんだ。その仕事は請けるなよ」
「……椎多」
眉間に思い切り皺を寄せて睨みつけるが椎多はにやりと笑っただけだった。一瞬わいた怒りのかわりに、笑いがこみあげる。
「何事かと思ったら、それ色仕掛けのつもり?」
「まさか。おまえ相手に色仕掛けしてどうすんだよ。ちょっとお願いしてるだけじゃないか」
「ちょっとって。この仕事断ったらその分の報酬はパーなんだぞ。えらい損害だ」
「認めたな?まあそのバカな依頼主が誰かなんて野暮なことは聞かない。ただ、出来るだけ返事を引っ張ってから断れ」
やられた。
「それは彼が英二君のお兄さんだから?」
「関係あるもんか。とにかく彼を殺してあの一族を怒らせる方が面倒なんだ」
「オレが断っても別の殺し屋に依頼されるだけだよ」
「いいんだよ、どうせ時間稼ぎだ」
わかっていても、椎多がただの金持ちのぼんぼんでないことを再認識させられる。いったい何度認識すれば実像にたどり着くのだろう、などと鴉は思った。
時間稼ぎだ、という椎多の言葉の意味を鴉が知ったのは、その数日後のことだった。
「この仕事はキャンセルになった。クライアントが死んだんでな」
椎多のやつ、やったな──
鴉は笑いそうになった。
「表向きは病死だが、毒殺だ。えらい損をするところだったな」
澤は苦虫を噛み潰したような顔でコーヒーをすすっている。
「まあ、今回の標的を消すより、クライアントが死んだ方が笑ってる人間は多いだろうよ。俺にとっては上客が減って踏んだり蹴ったりだが」
ふうん、とそ知らぬ顔で鴉もコーヒーを口に運んだ。それをソーサーの上に戻した左手首を、澤がごく何気ない素振りで掴む。
「鴉おまえ、漏らしたんじゃないだろうな」
「冗談やめてよ。信用問題でしょ、それは」
内心舌を出しながら鴉は笑う。
「おまえにはつまらんことで消えてもらいたくはないしな」
澤は、鴉の手首をそのままぎりりと締め付け、普通の人間なら震え上がるような目で鴉を睨みつけた。
「……おまえの親父のような無様な死に方はしたくねえだろ?」
──え?
息を飲んで言葉を失った鴉の手首を、澤は漸く離した。ゆっくりと、口元が笑みを形づくる。
名を変え顔を変えて生きて来た。それなのに何故この男は自分の父親の事を知っているのだろうか。
澤は若い頃とある組織で何か手柄を立てて出世していたと聞いた。結局その組織が壊滅してからは一匹狼のように生きているのだが、その手柄とは何か聞いたことはない。
──まさか。
鴉は、笑みを作ることも忘れ掌にじっとりと汗をかいていることに気付きもしなかった。
送信しました。ありがとうございました。
*Note*
澤康平登場。書き始めた頃にはこんなにお気に入りになるとは思わんかった…。
さて、この「銃爪」あたりから1話完結とはいえ章ごとに一連の流れの話になります。 時々ちょい無関係な話とか混じるけど。 この章はまあ、鴉の章であり、澤の章でもあると言えるだろうか。 あんまり詳しくもない業界の話にも手を出したりして苦労しまくってる感じ。 自業自得。
一番はじめに書いた時、どうやらスランプだったらしく、最初の加筆修正の時にもずいぶんといじったんだけど今回はわりとガチで色々治すつもり満々です。どうなることやら。
まずは澤康平と渋谷修一(英二のお兄ちゃん)登場。