Sin.co -Re:The Ultimate Sin- main tales
灰かぶり
人の顔を覚えるのは得意な方だ。
ちらりと見た顔でもけっこう覚えている方で、印象的な顔ならほぼ間違いない。
なのに、思い出せない。
「年かなあ…」
ひとりごちて苦笑してみても、やはりどこで見た顔なのかどうにも思い出せない。
「ああ、気持ち悪い」
痒い場所があるのに場所が特定できずに苛々とその周辺を掻いているような気分だ。
バーの隅にひっそりと陣取った男。
店に入って来たときにたまたま顔を見て、それから気になって仕方がない。
特別美男でも醜男でもない。
座っているからはっきりはしないが、とびぬけて体格がいいわけでも小柄というわけでもない。
中肉中背、顔立ちも地味。
どこにでもいる平均的な顔に見える。
年は──多分自分よりは年下だろう。下手をしたら二十代かもしれない。
目つきが悪そうにも見えるが多分一重でどちらかといえば細い目のせいだろう。
殺気のかけらも感じないから、組関係で目にした人間ではなさそうだ。
特徴があるとしたら、無精髭とぼさぼさの髪だがそんなものどうとでもなる。
なのに──
絶対にどこかで会っていると奇妙に確信してそれを思い出そうとしている。
「気持ち悪い」
もう一度、椎多は呟いた。
「俺の顔になにかついてる?」
口に含んだ酒に噎せそうになった。
ほんのちらりと目を離した隙に、いつのまにか男は椎多の隣の席に移動していた。
──見すぎたかな。
しくじった、と思ったが相手は因縁をつけられて喧嘩をしかけようという風でもなく、軽く微笑んでいる。
「……ああ、失礼。知り合いに似た人がいるなと思って。人違いのようでした」
適当な言い訳をすると男は自分の席から持参したらしいグラスを傾け、小さく吹き出すように笑った。
「なあんだ、誘ってるのかと思ったのに。残念だなあ」
「え?」
どうやら相手は別の勘違いをしたようだ。
ぷっ、と今度は椎多が吹き出した。今日は別にナンパをしようと思って出てきたわけではなく単に一人で飲もうと思っていただけだから虚を突かれた気がする。
「あ、いや悪い。それは考えてなかったな」
通りすがりの飛び込みで入った店なので客層は知らない。特に同性愛者の溜まり場という空気でも無かった。多分こいつもそれが目当てでここに座っていたわけでなく、椎多があまりに見つめているものだからお相手発見、ラッキーとでも思ったのだろう。
「俺が男を誘うように見えた?それが勘違いなら怒るヤツだっていると思うけど」
「でもあんたは怒らないんだろ?」
──なんだこいつ。
「残念ってことは、誘って欲しかったんだ?だったら自分から誘えよ。自分が誘ってふられるのは嫌なのか」
相手は楽しそうに──それは妙に無邪気そうな笑顔に見えた──笑うと、そういうわけじゃないけど、と呟いた。
間近で見ても、やはりどこかで会ったことがあるような気がするだけでそれ以上は思い出せない。どこで会ったよりも、今目の前にいるこの顔が段々柴犬のように思えてきて思考を邪魔する。
笑っていた男は一区切りつけると、少し腰を浮かして座りなおした。
「それじゃあ、今から一緒に飲んでいい?出来ればその後も」
「どこまで付き合うかは判んねえぞ」
柴犬が尻尾を振って餌を待っているような──そんな顔で男はにっこり笑った。
厳重な監視をかいくぐって一人夜の街に抜け出すのは数ヶ月ぶりだ。
仕事が多忙だったせいもあるが、以前に比べKをはじめ椎多の身の回りを警護する人間たちが椎多の単独行動を厳しく制限するようになっていた。
──俺は何か?どっかの国の王子様か?それとも大統領か?
そう文句を言ったところで始まらない。
ある意味、すっかり信用を無くしているといっていいだろう。
綿密な作戦を立て、ようやく抜け出した。ざまをみろ、おまえらの警備などまだまだだな。──と、それはそれで困るが。
周囲の人間が自分を以前に増して心配しているのはわかる。
特に事情を飲み込んでいるKが、英二の一件が椎多の心に落とした影響を懸念して出来るだけ独りにさせないようにしていることも──
影響がなかったとは言わない。
料亭しぶやの崩壊、渋谷兄弟の消息不明。
仕掛けた椎多自身、その後始末に忙殺されようやく状況が落ち着いたのはようやく最近になってからのことだ。
皮肉にもそうしている間に、椎多の中で『渋谷英二』の名は奇妙に記号化され、ごく客観的なものとなっていった。
間近で死体を見たわけではない。まして自分で銃爪をひいたわけでもない。
鴉がどんな段取りで英二を撃ち、後始末をしたのかはわからない。ただあの衆目の中で撃たれたはずの英二の遺体は忽然と消え、警察が動くこともニュースになることもなかった。
椎多が第三者の冷静な目で見ていたなら、英二は本当に撃たれた──殺されたのか、まずそれを確認しようとした筈だ。しかしその後英二が完全に姿を消したことだけは間違いない。ならばその真偽を確認することに意味を感じなかった。
桜の季節が来るころまでは、無意識のように何気なく英二の携帯に電話しようとして苦笑する、ということが何度もあった。
渋谷家では、修一の葬儀も英二のそれも行っていないという。
残された女たちだけが身を寄せ合ってそれぞれの夫や息子や父が帰ってくるのを信じて待っているのだろう。
そんな悲劇を彼女達に負わせたのは椎多だ。
けれど、それすら非情な程客観的に受け止めている。
それが、自分の罪から目を逸らすために心が纏った鎧なのかどうかはわからない。
──影響がないとは決して言えない。
眠れぬ日も続いた。漸く寝付いても夢で起こされたりしたことも。
英二は死んだ。
そう思うことでしかぎりぎりのバランスを維持することが出来なかった。
けれど───否応なしに日常を過ごしてゆけば、そればかりに沈んではいられない。
もう、独りで酒を飲んでいたってその度に英二を思い出して苦しくなることもない。
そうして抜け出した街の、初めてドアを開けたその店で椎多はその男に出会ったのだ。
「おい、身体ちゃんとよく洗ったんだろうな。店ではあんまり気にならなかったけどなんか臭かったぞ。何日風呂入ってなかったんだ」
男がバスルームから出てくるなり声を掛ける。男はきょとんとした顔をして、視線を天井に向けて思い出している。
「えっと、2日かな?服をちゃんと洗濯する暇がなかったから臭かったかも。ごめん」
素直に謝られてしまった。調子が狂う。
男の服からは洗濯していない衣服の悪臭の他に微かに火薬の──硝煙の匂いがした。
気のせいか、それとも鴉のような殺し屋か、とふと思ったがそちらの稼業にしては殺気がなさすぎる。
「クレー射撃か猟でもやってるのか?それともサバイバルゲームか何か」
唐突に言ってみると男は不思議そうに何で?と首を傾げた。
「硝煙の臭いがするからさ」
「そう?実はオリンピック候補になったことがあります」
「嘘つけ」
何となくホテルになだれ込んだものの、これからウノでもやりながら飲み明かすでも済ませられそうな雰囲気である。普段過剰なほど警戒心が強いのに、今日に限ってこの相手が全く警戒心を呼び起こさないことにそろそろ椎多は気付いていた。もっと若い頃ならともかく、行きずりの遊びにしては無防備に過ぎるのではないのか?
そう思い直して男の顔をもう一度、意識的に警戒しながら見てみるがやはりこの男が何か仕掛けて来そうな気が全くしない。
これでもしベッドの上で殺し屋などに豹変されたりしたら、逆に感心するしかない。
などと考え事をしていると、男は子供のように勢いよくベッドにダイブしている。どちらかといえばあれは椎多がやる方の行動だ。
「なんかおまえ、調子狂うなあ」
「え、なんで?」
溜息をつくと椎多はにじり寄り男の胸の上に覆い被さった。
「こんなとこまで来といて、やる気あんのか?」
「あるよ、そりゃ」
ありそうに見えないんだけどな、と呟きながら顔を近づけてみると、男は掌を椎多の頬に滑らせ──妙に”嬉しそう”な顔をした。
──?
頭を浮かせて軽く接吻ると男は片腕を椎多の頭に回し、引き寄せて抱きしめた。そのままごろりと反転し、自分が上になって少し身を起こす。一連の動きば妙におっとりしているな、とそんなつまらないことが頭に浮かんだ。
その状態で男は突然何かを思いついたように、あ、と小さく声を上げた。
「もしかして、ネコやだとかじゃない?」
「おまえな……」
椎多は呆れて溜息をつく。
「そんなのいちいち確認すんな。おまえが抱かれたいってんならやってやるよ。抱きたいなら──」
──好きでもないやつにやらせてなんかやるもんか。
そういえば、そんな殊勝なことを言ったこともあったっけ。
ばかばかしい。楽しめるんなら、どっちだっていいだろ。
椎多が一瞬言い澱んで最後まで言い終わらないうちに、男はその口を塞いだ。
ゆっくりと、あくまでもゆっくりと。
「派手な傷が随分ある。よく生きてるね」
男は指で椎多の胸の傷を──英二の刻んだ、そして鴉の残したそれをなぞった。
「うるさいな、よけいなもの見なくていい。それに」
そういうおまえも随分傷だらけじゃないか──
思ったが、口にはしなかった。
男の身体には椎多とは比べ物にならない程多くの傷跡が刻まれていたのだ。
自分にもあるから想像がつくが明らかに古い銃創のようなものもある。火傷や、皮膚が抉れたまま傷が閉じたようなものも。そこいらの一般人が作る傷の種類ではない。
しかしそれが、この人によくなついた柴犬のような男のイメージとはどうしても結びつかない。
数時間前に出会って少々会話しただけの見知らぬ相手だというのに、まるで最愛の恋人を慈しむような抱き方だった。後から思えば遊びにしては少々物足りない気もするのだが、不思議と相手の選択を失敗したとも思わない。
そして、結局椎多は何処で見覚えのある男だったのか最後まで思い出すことはできなかった。
互いに、名前は聞かなかった。
煙草を消してドアを開け椎多が先に部屋を出た。
それを見送ると男は一旦ごろりとベッドに横になると勢いをつけて起き上がり、自分の服の胸ポケットを探った。
取り出したのはもう色の変わったごく古い小さな写真。カードケースにしのばせてある。
それをまじまじと眺め──
「……驚いたな……」
呟くと男はくす、と苦笑した。
「ただいま」
ブルーシートを捲ると中でテレビゲームに興じていた中年男が振り返りもせずに片手で手招きした。
「茜ちゃん、いいとこ帰ってきた。裏で湯が沸いてるからそれでコーヒー入れてくれる」
「あのねえ長さん、俺今さっき帰国してきたばっかなのよ。死ぬ思いをしてやっと帰ってきたのにいきなり働かす気」
「つべこべ堅いこといいなさんな。カセットコンロのガスが勿体ねえ。沸いたらとっとと火を消して」
「だったら自分でやんなよ」
ぶつぶつこぼしながら、茜は勝手知ったるといった風情でテントの裏側に回り、言われた通りカセットコンロの火を消してインスタントコーヒーに湯を注いだ。
「ねー、俺もコーヒー貰っていいの?」
「しゃーねえなあ、特別だぞ」
返事を聞く前に既に自分の分も作っている。べこべこに形の崩れたアルミのカップを二つ手にしてテントの中に戻った。
あ~、とテントの主は叫び声をあげていた。どうやらゲームオーバーらしい。茜がまだ大学生の頃に流行っていたような古いテレビゲームだ。
「あ、それ懐かしいなあ。俺昔よくやったよ」
「んで茜ちゃん今度はどこ行ってたの」
「うん?中東。最前線でもないのに爆弾は飛んでくるわいきなり一斉掃射されるわ今度ばっかりはまじ死ぬかと思った」
「そんな目にあったとこでたんまり金になるわけじゃないでしょうが」
はははは、と茜は笑った。
「そうなんだよねえ。一応飛行機代とか気持ち程度の礼金は貰ったけど薬とか包帯とか自前で用意していってるから完全赤字よ」
長さんと呼ばれたテントの主は再びゲームを始めようとしたがどうもうまく機械が動かないらしく、ゲーム機をがんがんと叩いている。
「なのになんでわざわざそんなとこ行くかねえ。まだこのへんでやってる方が安全だし飯も食えるだろ」
「成り行き成り行き。ここで治療とかやってんのも成り行きだし───何、壊れたの?見せてみ」
茜は四つん這いになってゲーム機を手にとるとひっくり返したり覗き込んだりしてしまいにはドライバーで分解し始めた。壊すなよ、と『長さん』の声。もう壊れてるんだろ、と返事する。
「あ、茜ちゃんいつ帰ってきたの。ちょうどよかった、あっちで今岩ちゃんが腹痛えってうなってんだわ。診てやってくれる」
別の男が覗き込んで声を掛けた。
「本格的に腐ったモノでも食べたんじゃないの?出すもん出したら治るよ。水だけたっぷり飲ませといて。これ直したらあとで覗くよ」
ドライバーを捻りながら答える。
「俺、今までみたくちょくちょくこっち来れなくなるかもしんないから。ちょっとしたことは自分らでなんとかしなよ。薬くらいならちょこちょこっとくすねて来たげるからさ」
「何だ、帰ってきたばっかで今度は何処行くんだい」
「うーんとねえ、おっそろしくお金持ちのお屋敷」
茜はそう言って髭まみれの薄汚れた顔を崩した。
「ちかごろどうにも身体の調子が悪いんですよ」
老人が苦笑まじりに言った。
「医者に身体の不調を訴えられても困るだろ。だからとっとと新しい奴と替われって言ってんだ」
椎多はシャツのボタンを留めながら笑う。
この老医師は父の七哉の代から屋敷に常駐させている主治医だ。
七哉を看取ったのも、椎多の胸の傷を縫ったのも、そして撃たれた椎多を死の淵から掬い上げたのもこの医師の手による。
矍鑠とはしているが流石に老齢には勝てないらしく、年の初め頃からそろそろ引退を考えている旨を訴えていた。
ただ、嵯院邸に常駐しその主の主治医であるということはその技術のみならずあらゆる面で信用のおける人物であることが要求される。何かと敵の多い立場なのだから簡単に情報が流出するようではこの先生き残ってはゆけないのだ。
そういった意味での最適な後継者を選ぶ為にもう数ヶ月を要している。
この医師にも息子はいるが、開業しむしろ組の方に便宜を図ってくれている。警察などには内密に抗争時の怪我の治療などを引き受けてくれるのでこれはこれでおいておきたい。
この仕事の傍ら、大学医学部の客員教授を務めたことのある関係で、腕のいい医師は多く知ってはいるがなかなか選考に残る医師がみつからずにいた。
「で、最終候補は見付かったのか」
「ええまあ……ただ、今外国に行っていましてね」
「外国?留学か何かしてるのか」
「いえ、ボランティアのようなもので……紛争地で医療活動をしているようですな。先日なんとか連絡が取れたので訊ねたら近々一旦帰国する予定だと言っとりました」
ボランティアねえ、と皮肉そうに鼻を鳴らす。
そんな危険なところで報酬無しに従事するなんてさぞかし高潔な人物なのだろう。
「そんなお偉い志の先生が俺の医者になったりできるのか?不正に耐えかねて内部告発なんてごめんだぞ」
「それがそういうタイプでもないんですな。帰国したら一度会ってみて下さい。おもしろい男ですよ」
わかったわかった──と手をひらひらさせると椎多はもういいな、と立ち上がった。
「じゃあ、そいつの資料をよこせ。履歴書と写真。素行調査はまあこっちでやらせるから」
──あいつだ!!
数ヶ月振りの夜遊びから帰りひと寝入りして目覚めた時、唐突に思い当たり椎多は跳ね起きた。
老医師から渡された資料を慌しく探す。
履歴書に添えられた一枚の小さな証明写真──
──勘弁してくれよ……
笑いが止まらなくなり椎多はベッドに戻るとその写真を投げ捨てた。
髪を小奇麗に撫で付け、髭もないこざっぱりしたすまし顔の男がそこに写っている。
けれど、それは間違いなく昨夜ベッドを共にした、名前も知らない男だった。
「茅茜です。よろしくお願いします」
笑いを堪えた顔で男はぺこりと頭を下げた。
椎多はぱくぱくと口を動かし、しかし言葉を失っている。
あの時見たのとは似ても似つかない、写真どおりの清潔そうな男がそこにいた。けれど、その笑いを堪えた柴犬のような表情が、あの夜の男当人であることを物語っている。判っていたとはいえ、本人を目の前にするとまず何を言えばいいものかひどく迷った。
「いかがですか?柊野先生の後継者にするには頼りないかもしれませんが」
しれっと言う。
かちん、ときた。
──なんだこいつ、すましやがって。
──あの時はあんなにガキっぽかった癖に。
椎多は親指の爪をかりっと噛むと顎を上げて少し笑ってみせた。
「ここの仕事自体は君のような若くて優秀で活動的な医者には退屈だと思うがそれはかまわないのか?」
めいっぱい皮肉を込めたつもりだったが相手は意に介していないようだ。
「好んで活動的というわけではありません。与えられた仕事はきちんとこなしますよ」
「それから、かなりの覚悟を決めてもらわなければならない。意味はわかるかい?」
うっかり不注意ででもここで得た情報を外に洩らしでもしたら──情報の内容如何によっては闇から闇へ葬られる可能性がある、ということをこのへらへらした男は認識しているだろうか。
「そのあたりは柊野先生からくどいほど聞かされました。医者というのはそもそも守秘義務を持っていますから、当然のことです。また私は財産というものには何故か興味がありませんので、金を積んで情報を買おうという誘惑にも負けないでしょう。それから大事な身内というのも事実上ありませんから人質をとられて、という心配もありません。残る問題はあなたが私を信用して下さるかどうか、だけです。こればっかりは私自身ではどうにもなりませんが」
学会で発表でもしているかのようにすらすらと述べる。それが余計に癇に障った。
「まだそう簡単に信用はできないな。私は疑い深いのでね」
「ではどうすればいいでしょうか。このまま柊野先生に勤めてもらいますか?」
──ああ言えばこう言う。生意気な。
調査結果を見た限り茜は大病院の三男坊で、一流大学の医学部を優秀な成績で卒業している。短期間親元の病院に勤めたこともあるがすぐにそれを辞め、他の病院に勤めるでもなく開業するでもなく、海外の戦場や貧しい国に医療活動のボランティアに行っていることが多いようだ。帰国している間は定住せずに公園などのホームレスに混じってテントで生活しているらしい。年齢は椎多よりも3つばかり若い。
父親は大病院の院長で祖父が理事長、二人の兄は共にその病院で外科、内科それぞれの部長を務めている。
出来の悪いみそっかすというわけでもない茜が、そのエリートコースを自らリタイヤした理由はわからない。
単にコースに乗るのが嫌で外れたというならつまらない男だ、と椎多は思った。
自分はコースから外れるわけには行かない一人息子だったからそれが妬ましいと、いうのではない。例えば椎多が敷かれたレールを外れたとしてもおそらく父はそれを否定はしなかっただろう。椎多は自らレールの上を行くことを選んだのだ。
茜がリタイヤした理由は本人に聞かねばわからない。
けれど、なにかにつけ茜の言葉は椎多の感覚を逆撫でする。
行きずりの相手だと思って寝た時はおかしなやつだとは思ったが特に気に障るやつだとは思わなかった。
それが自分の身内に入ることを前提に話をした途端、何故か気に喰わない──となる。
──いや、落ち着け。
条件としてはある意味この上ない。
誰を後釜にしようと、本当に信用がおけるかどうかなどわかったものではないのだ。
いくら自分が多少気に入らないといっても──
ここは大人になるべきだろう。
「ではこうしよう。君は暫くの間、引継ぎも兼ねてここで勤める。その間、君のことは監視させてもらう。仕事ぶりを見てから本採用かどうか決める」
「わかりました。ありがとうございます」
茜は即答して頭を下げた。
「じゃあ柊野、こいつに一通り屋敷の仕事について教えてやってくれ」
そう言うと少し苛ついた調子で椎多は部屋を後にしようとした。
「あ、ちょっと待っていただけますか」
茜がと、と駆け寄り──声を顰める。
「あなたがどうしても俺を信用できないなら仕方ないけど……出来れば雇ってくださいね」
にっこり笑う顔は、あの夜の男と同じだった。
「……?」
「この話が俺に来たのも、俺はただの偶然には思えないんです。だからここでの仕事がしたいなあと思って」
「はあ?」
何を言っているのだろう。少し呆れたように笑い、椎多は考えとく、とだけ答えて部屋を出た。
それを見送りながら、小さく息をつきポケットの中のカードケースを手で確認する。
ほんの微かな笑みを忍ばせ、茜は柊野医師を振り返った。
「どうです、椎多坊ちゃん。茅君は」
老医師──柊野は砂糖とミルクをたっぷり注いだ甘いコーヒーをすすりながら微笑んだ。
茜が屋敷に入って10日余り。
パーティションの向こう側では当の茜が資料に目を通している筈だ。
「俺、あいつ嫌い」
聞こえよがしに口をとがらせた椎多の顔を見て柊野は大声で笑う。
「嫌いか、そりゃいい。そんなこと言ってるからいつまでたっても子供だというんですよ」
「うるせえ。よそでこんなこと言やしねえよ。わかってるよ、俺の好き嫌いばっか言ってたらいつまでも次が決まんないんだろ。まあ、おまえだって俺は別に好きなわけじゃないからな」
「はいはい、医者は嫌われてなんぼです」
柊野は白髪混じりの長い眉毛を下げてまだくすくすと笑っている。
「何が嫌いなんです。性格は良い方だと思いますがねえ」
「そんなの俺が知るか。なんか言うこと言うこと癪に障るんだよ」
「昔、紫さんのこともそう言ってましたねえ坊ちゃんは」
むっ、と眉を寄せると柊野の足を蹴飛ばす──ポーズをする。流石に老人に暴力はよくない。
「一緒にすんな」
不機嫌にコーヒーを飲み干す。まだ少し熱かった。
「じじいの癖にそんな甘いもんばっか飲んでるから調子が悪いんだ。糖尿じゃないのか」
「糖分は脳の栄養ですよ。私は人一倍頭を使ってるからこのくらいで丁度いいんですわ」
ぬかせ、と吐き捨てると椎多は立ち上がった。
「酒も好きなんだからちょっとは甘いもの控えろよ」
言い残した椎多の言葉に柊野は愉快そうにまた笑う。
「医者に説教か。相変わらずだ椎多坊ちゃんは──茅君」
パーティションの向こうから茜が顔を覗かせはい、と答えた。
「嫌いだそうだよ」
「聞こえてましたよ。いくつなんですかあの人は」
くすくすと茜の笑い声が聞こえる。
「時々ああいう子供っぽいことを言うんだ。可愛いもんだよ。君はどう思うね」
「私は嫌いじゃありませんよ。大人ですから」
ははは、と柊野はまた笑った。
「以前柊野先生が処方した睡眠薬はきちんと飲んでましたか」
「そんなものに頼ってたらよけい体悪くしそうだから飲んでない」
笑い混じりの軽い溜息。
「それで眠れてるんですか、今は」
「寝る寝る。ぐうぐう寝てるよ。寝すぎて困るくらいだ」
「医者には正直に言って下さいよ」
椎多は何度目かのむっとした顔をして茜を睨んだ。
「おまえさ、なんで親の病院を辞めたんだ?ボランティアがしたかったのか」
強引に話題を変えた。茜は少し意外そうな顔をして微笑む。
「まあ、いいじゃありませんか。別にボランティアが好きなわけじゃありませんけどね」
従来、特に頻繁に健康診断のようなものを行っていたわけではない。しかし、茜が本採用となれば患者である椎多とのコミュニケーションは必要だからと3日に一度程度で問診を行うように柊野が茜に指示していた。椎多はぶつぶつと文句を言いながらも──その3回に1度はすっぽかすものの──おとなしくそれに応じている。
だからといって椎多の茜が気に入らないというスタンスが変わったわけではないようだった。
「何か飲みますか?」
「……マーテル」
茜が吹き出した。コーヒーかお茶でも、というつもりだったのだが酒の名前が出てくるとは思わなかったのだ。
「あのねえ」
「健康に異常はないんだろ?だったら問題ないじゃないか。何か飲むかというから言ったんだ」
本当に大人げないな、と思いながら茜はもう一度溜息をついた。
「マーテルはありませんね。ターキーならありますが。私の私物で」
「じゃあそれを出せよ。酒置いてるならつまみも隠してるんだろ?それも」
「私もご相伴にあずかってよろしいんですか?」
「好きにしろ」
くすくすと笑いながら茜は自室へ酒と肴を取りに行った。
常駐とはいえ、24時間365日拘束というわけではない。しかし部屋の余っている嵯院邸でもあり、また茜自身も家があるわけではないので屋敷内に住まう形になっている。柊野の場合は週に4日程は屋敷、残りは帰宅という割合だった。
──なんか調子狂う。
自分でも大人げないのはわかっているつもりだ。
それに対して茜が妙に大人の振舞いでいるのが更に気に入らないとなればどうしようもない。あの夜の少々子供っぽい振舞いを知っているから尚更なのかもしれない。
とは言え、実のところ本当に『嫌い』ならばいかに状況が許さなくても断っている。だから柊野や周りの人間がとりあわないのだということも、椎多はわかっていた。
──でも気に入らないものは気に入らない。
茜が戻ってきた。
「だいたいなんだ大人ぶりやがって!」
酒瓶とチーズの包みを抱えたまま、茜がきょとんとしている。
「だって大人だもん。あなただって大人でしょ」
「そういう言い方をするから頭に来るって言うんだ」
どうしろって言うんですか、と呟きながら手荷物をテーブルに置く。グラスはあるんですよね、氷も──と全く意に介していない様子だった。
「──俺が実家の病院を辞めた理由が知りたいんですか?」
今度は逆に茜が話題を変えた。椎多は答えない。
「あそこにいたらいくら命があっても足りなそうだったから」
くすくすと笑いながら茜は言った。
「俺ね、シンデレラなんですよ。いじわるな血の繋がらない父や兄たちから酷くいじめられまして」
「むさくるしいシンデレラもいたもんだ」
調書によると、茜の父──現在の茅病院の院長は入り婿で、兄二人はその連れ子なのだという。しかし、それなら父や兄たちと血が繋がらないというのは妙な話だ。
「……まあ、事情がありましてね。とにかく俺は父とも兄たちとも血は繋がってない。だから疎まれましてね」
他人事のように笑って言った。
「しまいには頭の上から植木が落ちてきたり──不自然な事故が続いたものですから、こりゃいかんと。逃げ出したわけです」
グラスの中で氷がからん、と音を立てた。
チーズを頬張りながら椎多は苦虫を噛み潰したような顔をしている。チーズが不味いわけではなく──嫌なことを思い出してしまったのだ。
3歳だった椎多の首を絞めた実母。
その死の直前まで父と同様に椎多の食事に毒を盛らせていた。その間も幾度となく椎多は命を狙われている。階段から突き落とされかけた、頭上の窓が割れてガラスが降ってきた、車が暴走してきた──状況から考えてそれは全てあの女が指示したことだろうと椎多は思っている。
それを、思い出してしまった。
「逃げ出せるだけ幸せだろ」
ぼそり、と呟く。
自分は逃げ出すわけにはいかなかった。
「ええ、そうですね。同じ命の危険にさらされるならドンパチやってるとこで散った方が気分よさげでしょ」
グラスを置くと、椎多は茜の顔をじっと凝視めた。茜の紡ぐ言葉がどこまで真実なのか、建前なのか、まだ判断がつかない。
「……あの日」
言いかけてふと黙ると、椎多はまたカマンベールを一片口に放り込んだ。椎多の好きなホワイトキャステロ。それもなんだか腹立たしい。
「俺が嵯院椎多だとわかってて声を掛けたのか」
あのバーで──
「それは言いがかりですよ。俺をじっと見てたのはあなたの方でしょ」
茜は静かに微笑んでいる。
「おまえの顔は印象が薄いんだ。渡された資料についてた3センチ×4センチの写真の顔なんかいちいち覚えてるもんか。だからどっかで見た顔だ、でも思い出せないってずっと苛々してた」
空になった椎多のグラスに氷を足し、酒を注ぐ。
「印象薄いですか」
「薄いね。大衆顔だ」
苦笑している茜の脛をこつん、と蹴飛ばした。
「言っとくがな、一回くらい寝たからって俺と簡単にやれると思ったら大間違いだぞ」
茜は答えず笑っている。
──やっぱり調子が狂う。
「偶然じゃないってのはどういう意味だったんだ」
──この話が俺に来たのも俺はただの偶然には思えないんです。
「それはおいおいお話します。話のネタに」
「出し惜しみかよ。やっぱり憎たらしいやつだな」
「シンデレラは王子様に出会って幸せになる筈なんで、よろしくお願いしますよ」
なんだそりゃ、と毒づいてグラスをくいっと傾けると──
ようやく椎多は笑った。
*Note*
前の章で不幸に飽きた作者が、なんかのほーんとしたキャラを出してきました。茜ちゃん登場。実は最初はそれでもやっぱりなかなかキャラが掴めず描きづらかったのですがだんだんキャラ固まってきたらすんなり描けるようになってきました。描いてたリアルタイムでは特にヴィジュアルのモデルはいなかったんだけど、ひそかに中村倫也とかありじゃね?と思ったりしたんだけど茜ちゃんもうちょっと年が上ですよね…。すまんな…。