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存 在

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 夢の中にいる。
 きっと目が覚めたらすぐに忘れてしまうに違いない。
 その証拠に、自分がどこにいるのか何故ここにいるのか、
 はっきりした理由付けもなくただあたりまえのように存在だけして
 そのことに不思議と納得していたりする。
​ 夢なんてそんなものだ。
 なのに。
 何がこんなに不安なんだろう。
 何がこんなに───
 哀しいのだろう。
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 少し、走ってみる。


 まだ手足が重く、命令どおりに動いていない気もするが足を交互に出すくらいならあまり苦労はない。
 体が重く感じた。
「太ったのかな……」
 ひとりごちてみて、苦笑した。
 以前の自分が太っていたのか痩せていたのかもよくわからないのに太った、も無いだろう。
 ただ、自分の腕を掴んでみて少し違和感がある。
 自分はこんなに腕が太かったのだろうか。
 それよりも随分長い間ベッドに寝たきりだったらしいのに、筋肉が衰えていないというのは不自然だと思う。
 そこでまた苦笑した。
 自分のことはなにひとつわからないのに、そんなどうでもいい知識はいくらでも出てくるものなのだ。

 

 部屋に戻り、汗を落とした。
 鏡に映る自分の姿を見て──
 やはり違和感を感じる。


 これが自分の顔なんだろうか。
 

 生まれてから──自分の年齢もわからないがおそらく──30年以上はつきあってきた筈の顔だ。なのに鏡を見る度に首を傾げたくなるのは何故なのだろう。

「雄日」

 

 タオルで顔を拭う姿勢のままぼんやりと動きを止めて覗き込んだ鏡に彼が映った。
「何固まってんの?」
 くすくす笑っている。
「どう?頭は痛くない?」
「ん……」
 細い手がつ、と伸びて俺の前髪を掠めた。
「何か思い出したの?」
 質問だらけだ。黙って首を横に振ると彼は目を和らげて微笑んだ。
「別に無理して思い出さなくていいんだよ。今のままで」
 からかうような声音。
 前髪を掠めていった指が俺の刈り込んだ首筋を辿っている。


 ぞくり。
 

 足の親指にまで微かな電流が流れるのを感じた。
 と思うより先に彼の手はそのまま俺の首を引き寄せる。俺の閉じた口をこじ開けて彼の舌が侵入してくるのに抵抗もせず俺は目を閉じた。


 ぱさり。
 

 足元に彼の黒いシャツが落ちる音がする。
 洗濯機の回る生活じみた音が、彼の口元からこぼれる淫らな音を奇妙に滑稽に演出していた。
 滑稽に感じたけれど、笑いはせずその代わりに俺は何度かこっそりと小さく吐息を落とした。


「”悔谷雄日”ってのは業界では伝説的な狙撃手だね」
 煙草に火を点けると彼は窓をほんの少し開けた。夜の風はまだ少しはひんやりしている。

 カイタニユウヒ──

 俺は何故今自分がその名で呼ばれているのかわからない。
「その伝説の悔谷雄日ってのは長く活躍して姿を消したのはもう20年くらい昔らしいから──」
 煙草の灰を落としながら悪戯っぽく笑う。
「もし君がその本人だとしたら現役全盛期は10歳前後とかになるのかな?すごいね」
「俺が実は60歳くらいだとかいう説はないの」
 自分の年齢を知らないのだからそんな可能性もないではないと大真面目に言ったのだが彼は手を叩いて大笑いした。
「本当に俺が自分の名前は悔谷雄日だって名乗ったの?」
 そのことすら俺は覚えていなかった。
「そうだよ。病院で意識が朦朧としてるときに言ってたんだからきっとそうなんでしょ」
 その割に、自分の口や耳はその名前に馴染んでいるとは思えなかった。鏡を見たときの違和感に似ている。
 彼は煙草を消すと再びベッドにごろりと横になった。
「”悔谷雄日”は伝説の狙撃手だから、それに肖って名前を勝手に使ってる輩もいるからね。君もその手合いだったのかも」
「でも俺が殺し屋だったとは限らない」
 彼はくすっと笑うと枕もとから小さな拳銃を出した。それは彼の習慣だ。俺が彼を殺すわけがないのに、俺と寝るときでも枕もとに銃がないと落ち着かないのだという。彼はその拳銃を俺にまるでリモコンを渡すように投げ渡した。

 それを握った瞬間、すう、と頭が冷えるのがわかる。

 これは俺の手に馴染んだ物ではないがそれでもこの冷たく重い金属の感触が、おぼつかない足元の地面を平らで固いものに一瞬で変えてしまう。


「ほら、顔つきが変わった。それは人殺しの顔だよ」
 

 彼の言葉にほんの少し眉を寄せて、拳銃を返した。
「殺し屋なんて過去は嫌?」
 半身を起こして顔を近づけてくる。彼は妙に優しい表情で微笑んでいた。そのままかすめるように唇に触れる。
 俺は一拍おいて首を横に振った。


 限らない、といいながらおそらく俺は──その伝説の狙撃手と別人だとしても──人の命を奪うことを生業としていたのだろう。他人の人生を自分の手で終わらせる、ということに何の嫌悪感も感じない。


「いいじゃない。オレといいコンビになると思うよ」
 彼は殆ど唇が触れた状態のままくすっと笑うとそう言って俺から離れた。

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 夜の街のざわつきは何か懐かしい気がしてよく足を運ぶ。けれど記憶を取り戻す手がかりを求めているわけではないと自分では思っている。


 自分が何処の何者だということがわからないというのは不安であることは間違いない。
 記憶も記録も無ければ、自分という存在自体がふとしたことで消えて無くなってしまいそうに感じて怖くて仕方なくなることもよくある。今でも一人でいると本当は自分は意識だけがあって存在していないのではないかという不安に駆られるのだ。


 彼が側にいて、俺に話し掛けて、触れている時にだけ──
 今の俺は自分が確かに存在しているのだと確信することができた。きっと、彼がいなければ俺は存在しなくなってしまうのだろう。

 それでも、何故か俺は記憶をどうしても取り戻そうとは思わずにいる。むしろ、この不安と天秤にかけても思い出さずにいたいとさえ──

 ざわめきの中をぼんやりと歩いていると、少し雰囲気の違う一角に出る。他より高級な店の集中した場所なのだろう。ビルへ消えてゆく者もそこから出てくる者も一見して地位や財産を持っていそうだし見送りに出てきている女たちも上等そうな着物やドレスに身を包み高価な宝石を纏い立ち居振舞いも上品だ。おそらく隣の筋に立ち並ぶ店の何十倍何百倍の金が飛び交っているのだろう。
 また、苦笑した。
 俺はこの世界を知っているのかもしれない。


 その光景を俺はどのくらい眺めていたのだろうか、ふと我に返った。
 一人の男が目に入った。
 その一行の中では最も若そうだが主賓と見える初老の男に最も親しげに語りかけている。ほどなく、主賓はハイヤーに乗り込みそれを彼は頭を下げ見送った。この界隈では一晩に何百回と繰り返されているであろう何の変哲もない接待風景だ。
 けれど、俺はその男から目が離せないでいた。
 何故かはわからない。
 俺は、目が彼から視線を逸らすことを拒否しているかのようにただじいっと彼を凝視していた。

 名前を──

 呼ぼう、としたのだと思う。
 けれど、微かに開いた口はそれきり動かなかった。喉の奥のほうにそれはひっかかったまま出てくることはなかった。

 名前を──

 彼の名前を呼ぶことが出来たらきっと全ての事を思い出すことができる──
 俺はいつのまにか、そんな風に思い込んでいた。
 それでも、それを思い出すことはやはり出来なかった。
 そうして見ていると、その男は自分を凝視めている不審な男、つまり俺に気付いたのだろう、怪訝な顔をしてこちらを見た。

 目が、合った。

 

 結構な距離があった筈だが、目が合ったことがわかる。
 その男は、驚いたように俺の目を見ていた。そして、
 悲しそうな、悲しそうに見える、顔をした。
 次の瞬間、彼の部下らしき若者が声をかけ待たせておいたらしい車に彼を誘導していった。


 俺はただ、それをじっと見送っていた。
 あの男は、俺を知っているのだろうか。
 何故、あんなに悲しそうな顔をしたのだろう。


──不意に。
 ぽたりと顎から雫が地面に向かって落ちるのを感じた。
 掌でそれを受ける。


──涙?


 俺は、泣いているのだろうか。
 俺は───
 くるりと踵を返して自分の部屋へと足を急がせた。


 怖い。
 早く、早く帰らなければ。
 俺はこのまま消えてしまう。
 涙がその恐怖の、不安のせいなのか。それとももっと別の感情からくるものなのか考える暇も無く俺はひたすら足を動かした。


 夢だ。
 悪夢のなかでよくある。
 どれほど急いで走ろうとしても足がうまく動かず、水を掻き分けるように空気の重みを感じながらしか進めないということが。
 なかば小走りになりながら急いでいるのになかなか部屋に辿り付かない。
 ポケットに突っ込んだ鍵を苛々と取り出す。指先がうまく動かず何度も落としそうになりながら階段を上るとようやくドアが目に入った。鍵穴に鍵を差し込もうとするけれどそれもなかなかうまくいかない。そうする間に手が震えてきて尚更難しくなってきた。ふとよぎった考えが俺の不安を煽る。


──ここは俺の部屋じゃないのかも。
 

 俺はぞくりと身を震わせた。
 では俺の部屋というのは何処にある?
 俺は何処に帰ればいい?
 何処にも帰る場所なんてない。誰も俺を知らない。俺自身ですら俺を知らない。

 

──消えてしまう。

 

 がちゃり、と鍵を開ける音がした。

「雄日?どうしたの」


 彼が──
 俺の名を呼んだ。


「何泣いてんの。何かあった?」
 彼は少し驚いていたけれど、いつものように飄々とした笑みを浮かべている。
 俺は倒れこむように部屋に入り、彼を抱きしめた。彼は俺の重みで足元をふらつかせながらそれを受け止める。
 背中でドアが派手な金属音を立てて閉まった。
 足元も見ずに靴を脱ぎ散らかし、もたれるように彼を抱きしめたまま部屋の奥へ進む。
「雄日?」
 彼の掌が俺の首筋を、背中を優しく撫でている。暖かい。
 俺はそのまま彼をリビングの床に押し倒し、唇を塞いだ。何度も繰り返すと唇の離れた合間に彼の笑い声が洩れているのが聞こえる。
 彼は笑いながら俺のシャツの中に掌を滑り込ませて素肌の背中を弄り始めた。


「……俺はここにいる?」


 呟くように俺は言った。
「いないなら今オレを抱きしめてるのは誰さ」
 彼はやはり笑っていた。

──よかった。


 俺は、消えずにすんだ。

 肌の感触を確かめながら俺たちは互いの服を一枚一枚剥ぎ取っていった。その間も俺の涙は止まらなかった。


「……俺は誰?」


 俺の動きに合わせて濡れた声をあげる彼の耳元で何度も訊いた。
「オレの雄日──」
 俺に訊かれる度に彼はそう答えた。

──雄日。

 彼がそう呼ぶ限り、俺は雄日なのだ。
 それでいい。
 繋がったまま、俺は何度も彼を力一杯抱きしめた。

 

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「どういうつもり?」


 呆れたような笑みを浮かべてマサルが言った。
「怒ってるんだ?」
「もうどうでもいいけどね。僕のやりたいことはやってある意味気は済んだから」
 ボトルを拭く手がそれでもいつもよりもマサルが怒っているらしいことを示している。小声で、あんなつまんない護身用じゃなくてもう少し威力のあるのを使えばよかった、と呟いているのが聴こえたが聴こえないふりをする。
「一度は死んだんだよ。それでいいじゃん。すっかり別人だし。オレしか頼るものがなくてさ、可愛いもんだよ」


「でも悪趣味だよ『悔谷雄日』って。大事な名前なのにそんな気軽に使わないでくれる?」

 

「おお怖。気に入らないからってオレまで殺さないでよ」
 鴉は茶化して笑いながらグラスの酒を呷った。マサルは言っても無駄だと判断したのか溜息をついて氷を削っている。


「ねえガーちゃん──ひょっとして本気なの?」


 きょとんとサングラスをずらすとほんの一瞬おいて鴉は手を叩いて笑った。
「今まで聞いた中で5本の指に入るジョークだねそりゃ」
「何の為か知らないけど彼に随分お金も使ったでしょう。もぐりの脳外科医に口の堅い病院に整形外科医?あと何?単なる気まぐれにしちゃ高い買い物のような気がするけど」


 グラスを持ち上げると回し傾ける。中で氷が心地いい音を立てた。
「マサルの気が済んでるならほっといてよね」
 くすり、と笑い声を洩らす。

 

「『雄日』──はオレの可愛い玩具なんだから」

 静かにグラスを置くと鴉は楽しそうに肩で笑いながら立ち上がった。

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*Note*

​「おまえかよ!」ってツッコミを自分で入れまくってしまった新キャラ(?)登場。実は記憶喪失ネタはTUSでも使ってるのでどうしようかと思ったんだけど「自分が誰かわからない、自分を知っている人間が一人しかいない、それがどこまで信用できるかわからない、他には何もかつての自分の記録がない、その不安な感じを書いてみたかったんですね。

今回の加筆修正に当たって、すでにもう名前の出ていた「悔谷雄日」というシゲさんのコードネーム、変な名前なので何かのもじりであることはお察しかと思うんですが「谷重」の章の方では由来はこじつけています。メタな由来の方はもう今更説明するのもアレなんでしませんが、ヒントは「悔谷」をドイツ語に直すと分かる人にはピンとくる感じ。なんだけど、じゃあなんでそこから引っ張ってきたかという理由はもういいや。

​「梟」の章はまあ茜ちゃんの章なんだけど茜ちゃんと椎多の話が縦糸だとしたらこっちの鴉と雄日の話が横糸みたいな。雄日の正体について物語上で明らかになるのは次の章です。(2021/8/17)

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