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鍵 盤

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 仕事の打ち合わせが終わって解散した後、プライベートタイムだと繰り出した街。
 このあたりは椎多の組の所謂「シマ」ではないからあまり詳しくない。しかし英二が妙にそわそわしている気がした。

 そんな時に通りかかった、古そうな一軒のバー。


 煉瓦に覆われた窓のない壁、年季の入った木のドア。
 

「ここ、入ってみようか」
 何の気なしに言ってみたら、微妙に英二の顔色が変わった。
「もっといい店知ってるよ」
 少し、ひっかかる言い方だった。

 英二はこの店を避けようとしているのではないか?

 

 ちょっとした意地悪のようなものだった。
 俺の知らない、何か嫌な思い出でもあるのかもしれない。

 それをほんのちょっと苛めてやろうという悪戯心だったのだ。

 それが、あらゆる破滅の始まりだとは知らずに。

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​ 古ぼけた重い木の扉を開ける。

 椎多が前に立って店内を覗き込んでみると客は誰もいなかった。

「いらっしゃいませ、どうぞ」

 カウンターの中から若いバーテンダーが声を掛けた。若いとは言っても椎多たちと近い世代かもしれない。背が高くて手足が長く、頭が小さい。モデルのようなスタイルと女受けしそうな甘い顔立ちだ。そのくせ物静かで落ち着いた風に見える。

 このバーテン目当ての女性客が大量に常連になっていても不思議ではないなと思った。ただ、この日は他には客がいない。

 営業中ではあるらしい。

 数秒の間にそれだけの観察を終えると小さく後ろを振り返った。

「いいみたいだ、入るぞ」

 背後にいる英二に声をかけて店内に足を進める。入口の一歩先に、二段ほどの階段が下っていて天井が高く見えた。

 古い煉瓦がむき出しになった内壁、油引きの木の床。一枚板の使い込んだカウンター。二人がけの小さなテーブルと、座り心地の良さそうなソファを置いたボックス席。

 店の奥にはこれも古そうなアップライトピアノと、ウッドベースが置いてある。

 たまたま今日それが催されていないだけで、本来はライブ・バーなのかもしれない。ただし、ライブ予定のような張り紙は一切ない。

​ カウンター側の壁にはありとあらゆるウィスキーが所狭しと並んでいた。これはいい。

「あれ?!もしかして、英ちゃん?!」

 バーテンがその見た目に似合わぬ素っ頓狂な声で叫んだ。

 驚いて振り返ると、英二がなんとも言いがたい顔で苦笑し、小さく手を上げた。

 なんだこいつ、やっぱりこの店を知ってたんじゃないか。

 

 しかもこのバーテン──マスターか、この青年がぱっと見てわかる程度には常連だったというわけか。

 もしかしてこいつ、このマスターと昔付き合ってたとかじゃないだろうな。

「うわぁ、英ちゃんほんと久しぶりだね。何年ぶり?こっち来たのってもう15年くらい前じゃない?」

 15年──それは、椎多が英二とあのバーで知り合った頃だ。

 ということはその前の話か。

 十代の頃にこんなしぶいバーに通っていたのか、こいつ。

 当の英二は苦笑したまま何も喋らない。

 マスターは先ほどまでのまるで街で友人に出くわした時のOLのようなテンションを一旦納め、二人をカウンターに誘い、コースターを敷いた。くるくるとよく表情の変わる男だ。

 試しに少しマニアックなスコッチを注文してみると、特に探すこともなく瓶の並んだ奥の方からそれを出してくる。英二は普段からよく飲んでいるようなスタンダードなものを選んだ。

 注文した酒を出しチェイサーの水と乾きものなどを置くと、本当は言いたくてずっとうずうずしていたのを椎多の手前辛抱していたのだろう、マスターは「さんぽ」と言われた時の犬が尻尾を振っているようなわくわくした顔で英二に向き直った。

「それでそれで英ちゃん、シゲ爺はあっちでどうしてた?」

 それまでかろうじて愛想笑いのように笑みを浮かべていた英二の顔が一瞬凍り付いた──のが椎多にもわかった。

 "シゲ爺"──?

 

 英二は凍り付いた顔をまた一瞬で愛想笑いに戻す。マスターにそれが伝わったかどうかはわからない。

「俺が帰国したのがもう7年か8年か前だし、その後のことは知らないよ」

 棒読みのように英二は答えた。英二はここへ来て初めて口を開いたのだということに椎多は漸く気づいた。

 マスターはふうん……と少し納得いかないような顔をしているかと思うと椎多に向かってにっこりと微笑んだ。なんの含みもない人懐こそうな笑顔だ。

「ごめんなさいね、英ちゃん、若い頃よく来てくれてたからつい懐かしくて」

 そう言いながら女性用名刺のようなサイズの小さい瀟洒なカードを差し出した。

「あらためて、マスターの中澤です。マサルって呼んで下さい。谷重バーへようこそ」

 マサルが簡単に説明してくれたところによると、"シゲ爺"というのはこのバーの先代マスターのことだという。谷重バー、という店名がマスターの名前で、その「シゲ」である。

 その”シゲ爺”がこのバーを引退してマサルに任せ渡仏したのがちょうど15年ほど前。その後英二が渡仏した時に一時的に彼のもとに身を寄せていたのだという。

 英二が一時海外に行っていたことは再会してから聞いてはいたが、そういえばどういう目的でどこで何をしていたのかを聞いたことはなかった。フランス料理の店を出すことを事業の大きな目標にしていたから、それにまつわる目的なのだろう、程度に考えていた。

 椎多もそれほど根掘り葉掘り知りたいほどのことでもなく、英二からも特に思い出話が語られることもなかったな、と思い当たる。

「ちょっと色々嫌になって外国にでも行こうと思ったんだ。どこでも良かったんだけどフランスならシゲさん居るし言葉が判らなくても暫く頼れるかなと思ってね」

 言いづらいことを尋問されて仕方なく答えるように、ぽつりぽつりと語る。

 「色々嫌になった」の中に、椎多と別れたことも少しは含まれているのかもしれない、と椎多は思った。こいつ、あの時別れたことをどれだけ根に持ってるのかと思ったが外国に飛び出すほど辛かったのか。それは気の毒に。

 しかし普段は少し煩いくらいに弁の立つ英二が、ここまで話しづらそうにしているのは珍しい。マサルはその英二の様子を気づいているのかいないのか、おかまいなしに英二に質問を浴びせている。英二は最低限の言葉でそれにぽつぽつと答えるという調子だった。

「今、どこにいるのかなぁ。ぷつっと連絡取れなくなっちゃってさ。行くときに世界一周でもするかって言ってたから、本当に行っちゃったのかな。もう帰ってくるつもり無いのかな」

 質問の続きに独り言のようにぶつぶつと呟いたマサルの言葉をまるで合図にしたように英二は立ち上がった。そのまま無言で奥のピアノに向かう。それを見てマサルがまた嬉しそうに笑った。

​「弾いてよ、英ちゃん。もう弾く人いなくてその子も寂しいって」

 英二、ピアノなんか弾けたのか。

 本当に自分は英二のことを何も知らないんだなと椎多は思った。

 しかし英二はピアノの蓋を一旦開けると指で一音鳴らしただけで再び蓋を閉めた。

「もう忘れちゃったよ。指も動かないだろうし。あれから全く弾いてないから」

 あれから──とは、英二がこの店に来なくなってから、という意味なのだろう。

 

「せっかくシゲ爺が教えてくれてまあまあ弾けるようになってたのに。もったいないなあ」

 マサルは少し膨れ面をして見せた。本当に表情豊かな男だ。

「マサル」

 カウンターに戻って席に就くと、英二は目の前のロックを飲み干した。氷の音がする。

「シゲさん、多分──もう死んでるよ」

 

「え?」

 マサルは手に持ったボトルを取り落としそうになっている。

「どういうこと?」

 英二は明らかにしまった、という顔をしている──と椎多は思った。

「俺が帰国するかしないかの時でもうシゲさんのとこから出た後だから詳しいことはわからないけど」

 やはり言いづらそうに低い声でぽつぽつと言うとマサルはカウンターから身を乗り出して先を促す。英二は一旦口を閉じ、うつむいて大きく息を吐いた。

「殺されたって聞いた」

 沈黙の中に、ジャズが聴こえた。

 BGMが流れていたのだと、初めて気づく。

 マサルはまるで一瞬気を失ってから突然目覚めたように、どうして、誰に、と早口で捲し立てた。それを英二は掌で制する。

「ごめん、俺もわからない」

「じゃあ誰に聞いたの?コユキちゃん?コウちゃん??でもどっちもそんなこと教えてくれなかったよ?」

 次々知らない名前が出てくる。そのあたりが"シゲ爺"のことを知る手がかりの人物なのだろう。しかし英二は小さく首を横に振った。

 これ以上英二に訊いても何も出て来ないと諦めたのか、マサルは意外なほどあっさりとそう……と呟いて──英二の顔を覗き込むような角度に顔を動かした。

「シゲ爺、殺されたんだ……ふうん……」

 小さな違和感を感じた。

 英二とマサルの会話の登場人物のことを、椎多は誰ひとり知らない。

 英二はその男が死んだらしいということを知ってはいたが、マサルがそれを知らずに無邪気に帰りを待っている様子なのを憐れんだのかうっかりそれを漏らしてしまった、しかし詳しいことは英二も知らない──というようには見える。

 しかし最後のマサルの表情とその声音だけが、どこかそこまでの流れと整合していない気がした。

 英二は小さくごめん、と言った。その「ごめん」は、何も知らなくてごめんという風に取れるが、その言葉にもどこか含みがあるように感じた。

 どうもいけない。

 ただの下衆の勘繰りだ。多分これは、この会話から聞こえたことが全部で、何か裏があるなんてことはない。

 開けてはいけないパンドラの匣が、そこに置かれているような気がした。

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 椎多は数日後、再び谷重バーの扉を開いた。
​ 英二とはあの後仕事でも顔を合わせていない。


 あの時第三者として耳にした話が、どうにも頭の中でもやもやと形を成すことも出来ずに漂っていた。
 過去の英二とこの店。シゲ爺と呼ばれる男。"殺された"というワード。あの時のマサルの表情と声音。
 そして──
 英二の手前気づかないふりをしていたが、この店を出た時に様子を伺うように身を隠した者がいた。

 

 あれは、鴉だった。​

 

 鴉はたまたまここを通りすがったのだろうか?
 いや、おそらく鴉はこの店に来ようとしていたのだ。だから慌てて身を隠そうとした。それで隠れたつもりか。俺にはしっかり見えていたぞ。


 鴉もまたこの店に出入りしていたのだとしたら、話はさらに難しくなる。鴉はただジャズとウィスキーを楽しみにあんな落ち着いたバーに通うタイプの人間ではない。​

 考えすぎだ、深入りするなと心の中で微かな警報が鳴っている。しかし”鴉”という登場人物を得たことで頭に漂うもやもやは一層濃くなった。​

 ピアノの蓋を開けてその鍵盤を眺めながら、英二の指の形を椎多は思い出していた。

「あれから全く弾いていない」

 何かの暗喩のようにそのことが頭を離れない。


「しーちゃん、調べ物なら俺がやるっていってんだからわざわざ一緒に来なくていいのに」
 賢太が小声で呟いた。


 賢太は椎多の周辺の警護などを経て現在は組の方で調査や工作に動いている男で、椎多にとっては子供の頃からの遊び相手でもあった。その頃からの習慣で、現在も椎多のことを"組長"ではなく"しーちゃん"などと愛称で呼んでいる。外で会話したりする時にただの友人のように見えた方が都合がいいから、と椎多もそのままにさせている。
 この店のマスター──マサルならばひょっとしたら何かを知っているのかもしれない。何かあの掴みどころのない嫌な感じを、何とか掴みたい。調べる焦点がはっきりしないままなのだから下の人間を使うのも逆に面倒な気がして自分で探ろうと思っていたが、賢太にあまり他所のシマを一人でぶらぶらするなと釘をさされてしまったのだ。​

 人差し指で薄汚れた鍵盤をひとつ叩く。少し濁って割れた音が響いた。

 今日はこの間と違って、他の客が何人か座っている。
 椎多はピアノの蓋を閉じてカウンターに戻ると、マサルと会話するタイミングを計り始めた。しかし、なかなかうまく込み入った話をするチャンスがない。
 マサル目当ての女性客が大量にいてもおかしくないと思ったが、店にいる常連と思しき客たちはほとんどが中年から老年くらいの男だった。先代──シゲの頃からの常連が多いのかもしれない。少ない女性客も特にマサルに媚びを売るような様子はなく、居心地が悪くなる雰囲気はなかった。

──なんだ、けっこう繁盛しているんだな。出直すか。

 

 そう思った時、更に一人の客が入ってきた。
 客は椎多の隣に腰掛けてマサルと一言二言交わしている。


「そうそう康ちゃん。この前英ちゃんが来たんだよ?久しぶりじゃない?」

 

 英二のことだ。

 そして「コウちゃん」とは先日の会話に出てきた登場人物の名前だ。
 これはうまくやれば思わぬ情報が得られるかもしれない。
 隣の客を盗み見るとその康ちゃんと呼ばれた男と目が合った。男は一瞬目を見開くとにっこりと笑う。
 どこかで会ったことがある、と咄嗟に思った。

 

──こういう目のやつは一度会ったら忘れない。

 

 自分の言葉が頭に蘇る。あれはいつのことだったか。
「しーちゃん」
 賢太がひどく顰めた声で椎多の袖を引っ張る。振り返ると賢太は妙に険しい顔で首を小さく横に振った。
「帰ろう、しーちゃん」
 怪訝な顔で賢太を見返したものの、賢太は何か気付いたのだろうと思い直し素直に立ち去ることにした。席を立つと、男は椎多を振り返りながらもう一度笑った。

「英二に康平からよろしくって言っといてくれる?嵯院君」

 

 ぞくり、と背筋に嫌なものが走った。
「しーちゃん」
 賢太に腕を引っ張られてそのまま店を出る。

 

 椎多は一枚の写真でしか見たことがない。しかしあの目は──

「ごめんしーちゃん、俺、あいつに面が割れてるかもしれない。やばいかも」
「賢太、あいつ」
 賢太は眉を寄せたまま頷いた。

──澤、康平。​

 

 昔、目障りな政治家を逮捕に追い込んだ際に、それと繋がりの深かった敵対組織を一網打尽にしたことがある。その組織で暗躍していたとおぼしき男。
 しかし、組織が壊滅した時にはその男の姿はすでに消えていた。

 その男が──
 また、この店で繋がった。

 

 しかも、15年くらいここに来ていなかったという英二のことも知っている。それどころか、自分が嵯院椎多であることも。椎多が英二と繋がっていることも。

 あの男は知っている。


 わざわざ、だ。
 わざわざ椎多と英二に、おまえらの事は俺はよく知っているぞと知らせてきた。

 

 英二。
 鴉。
 シゲという男。
 そして澤康平。
 あの谷重バーという場所は、一体何なんだ。

 

 頭の中のもやもやはまだ形を成すことができない。
 ただ、それが危険であることだけが確かなような気がする。

 

「俺はもしかしたら、とんでもないものを開けてしまったのかな」

 ぼそりと呟くと椎多は少し頭を整理しようとポケットから煙草を取り出す。
 火を点けた時、店の中からあの少し割れたピアノの音が聞こえてきた。
 曲になっているでもない、ランダムなピアノの音。​

──澤。

 

 根拠も無く、椎多はそう思った。

*the end*

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送信しました。ありがとうございました。

アンティークピアノ

*Note*

ここまでの加筆修正は基本的に一話の中で書き加えたり書き足したりしてたんですが。

この章は最初に書いてた時に作者が迷走しきっていたこともあったので思い切って話の各話の順番や組合せも変える試みをしてみました。章としてのまとまりが良くなるといいな。

そんなわけで澤の初登場はまずこんな形で。

​英二の匂わせもふんだん。

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